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2011年4月30日 (土)

「上州の山河と共に」 第10回 小学生時代

 この他、おもしろブックには、サトウハチローのユーモアもの、久米げん一の「恐怖の仮面」という探偵ものなどが連載されていた。

 上野和仁は、三夜沢の赤城神社の近くにすんでいた。彼は大変なもの知りで、特に歴史上の人物について驚くほど良く知っている。学校の帰り道、荒木又右衛門がどうだとか、宮本武蔵がどうだとか得意気に話してくれる。私にはそれが羨ましかった。ある日、福島浩と共に彼の家を訪ねて、彼の博識の秘密が分かった。おやじの書棚というのがあって、そこには、歴史小説がうず高く積まれていた。彼に頼んで一冊を貸してもらってから、すっかり病み付きになってしまった。上野は、父親の目を盗んでそっとぶ厚い本を私のカバンの中に入れてくれる。急いで家に帰ると、早速読み始め、夜は、ランプの下で母とかわるがわる声を出して夜更けまで読む。子供向けの猿飛佐助、塙団右衛門などから始めて、大人が読む太閤記、宮本武蔵、源平盛衰記など、上野の家の本はすべて読み尽くした。芝基紘や福島浩も、これらの本を盛んに読んでいた。福島、上野、芝、そして私と、学校の帰り道、上野から借りて読んだ本について語り合うのが楽しみであった。

 教育環境について言えば、当時は、のんびりとした時代であった。塾などは勿論ない。学校では割りと真剣に勉強したが、家に帰れば、子守り、麦踏み、あるいは薪拾いをさせられる。家では、趣味の読書に没頭した他は、勉強をした記憶はあまりない。しかし、この読書を通して国語の力、そして国語以外の科目や諸々のことについての判断力が身についたように思われる。特に歴史については、各時代の好きになった特定の人物を通して、その時代を見て来たようなイメージを自分なりに作り上げていた。

 私は、この少年時代の読書から得たものが、その後の私の学問の基礎をなしたと思う。学校の勉強から全くといって良い程に背を向けた中学時代も、読書は唯一の楽しみであり、支えであった。後に定時制高校から東大を受験する事になった時、私の支えとなった漠然とした自信は、このような読書の習慣から得たものの蓄積から生まれたものと思われる。(読者に感謝)

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2011年4月29日 (金)

第9回 「上州の山河と共に」 小学生時代

 この頃、戦争や台風で痛めつけられた人々の心を癒すようにりんごの唄が、いたる所で歌われていた。

     赤いりんごに唇よせて

  だまって見ている青い空

  りんごはなんにもいわないけれど

  りんごの気持ちはよくわかる

  りんご可愛いや可愛やりんご

    

私は県会議員となって、敬老会で唄をうたう場面がよくあるが、そんなとき、戦後の苦しかった時代のことを話し、この唄をうたうと大変に受け、涙ぐむお年寄りもいる。私とは親子ほどのへだたりのある人々と、この唄を通じて共通の思い出にひたることが出来るのが何より嬉しい。

小学校の低学年から本が好きになれたことは幸いであったと思う。当時は何の娯楽もない時代で、特に私の家はラジオもない状態なので、本を読むことだけが楽しみであった。

小学校1、2年頃から、おもしろブックという月刊誌が出ており、クラスの松永という男が毎月とっていた。これを借りて福島浩や上野和仁等と回し読みをするのが大変楽しみであった。なかでも、山川惣治原作の劇画「少年王者」が面白かった。

 物語の舞台はアフリカ・コンゴの奥地である。ここに、住民から父のように慕われる牧師・牧村勇造が住んでいた。牧村は、どんな病気にも効く緑の石を発見する。これを狙う悪どい象牙商人の太田により、牧村夫婦とその一子真吾は、魔の山・マウント・サタンの出口のない谷底に閉じ込められてしまう。真吾はゴリラに育てられ、やがて密林の動物達から少年王者と呼ばれる、強く逞しい若者に成長する。牧村親子を探す救援隊の中には、美しい少女すい子がいた。魔人ウーラ、怪人アメンホテップ、黒人ザンバロ、黒豹ケルク、ゴリラのメラ、切り立った断崖と大密林。暗黒大陸といわれたアフリカは、私にとって夢と希望に満ちた憧れの存在であった。私は、物語の中に入り込み真吾少年になって胸をときめかしてすい子を危険から救い、手に汗をして魔人ウーラーと戦うのであった。(読者に感謝)

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2011年4月28日 (木)

人生意気に感ず「災害地を振り返って。ホリエモンの収監」

◇未曾有の大災害は大自然の威力の絶大さを見せつけた。24日、私が見たものは被災地のほんの一部であるが、一つ一つの光景は私の目と心に焼きついている。百聞は一見にしかず、千聞は一体験にしかずだ。政治家は、災害から学ぶために現地を見なければならないと改めて思った。

 福島県の汐見が丘小学校の体育館では何人かの医療ボランティアが被災者の身体をマッサージしている姿が見られた。動かないでいると筋肉がおかしくなってしまうのだろう。

 どこの避難所も高齢者が目立ち介護施設のように見えた。広い空間にはプライバシーを守るものがない。一枚の紙、一片の布でも他人の視線を遮るものがないと落ちつかずストレスがたまるばかりだろう。

 のどかな海面はかえって無気味であった。時が経てば人々はまたこの海岸で軒を並べて生活を営むに違いない。人間はこのような大自然の力と共存していかなければならない宿命なのだ。

 中小企業の工場群は廃墟のようだ。群馬の中小企業と連携すれば、お互いに得るものが大きいだろう。企業誘致のチャンスでもある。私は、北関東自動車道の全線開通、群馬が災害の少ない地域であること、「群馬県中小企業憲章」の存在等を活かした群馬の施策について小論文を書いた。

◇原発事故は他の津波被害以上に深刻だと知った。福島県をチェルノブイリにしてはならない。ウランの核分裂によって生じるセシウムは何十年も残る。半径20キロとかの地域に人々は戻ることが出来ないとすれば、故郷を捨てることになる。現代日本でこんな残酷はない。

 私たちは、地震の巣の上に生きている。巨大地震はこれからも必ず来る。日本には45基の原発がある。今後これを増やすことは有り得ない。新エネルギーは日本の存在を左右する課題だ。

◇底知れぬ大自然の脅威と比べたら人間界の出来事は瓦礫のように思えるが、堀江元ライブドア社長の実刑確定と収監には驚く。一時は時代の寵児と見られ飛ぶ鳥を落とす勢いでマスコミを舞台に舞っているようであった。証券取引法違反に問われた。能力を過信して足元を見なかった。懲役2年6か月の実刑だ。正に天国と地獄である。刑務所生活は彼をどのように変えるか。まだ38歳。大きく変化する震災後の社会にどのようにカムバックするか。注目したい。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年4月27日 (水)

人生意気に感ず「刑務所からの義援金。チェルノブイリの恐怖」

◇日本中が救済に力を合わせている中で驚かされるのは、全国の刑務所の受刑者等からも多額の義援金が寄せられている事実である。地震発生から1ヵ月間で、2800人から2156万円が寄せられた。刑務作業で得る報奨金からの工面だという。

 刑務所は刑罰を行うところだから刑務作業に報酬を与えることは出来ない。報奨金は驚く程少額である。そこからの拠出には頭が下がる。人生のどん底を味わっている受刑者には被災者の痛みが良く分かるのだろう。義援金には、被災者から勇気をもらったお返しの意味もあるかも知れない。阪神大震災、中越地震の時も受刑者から義援金が寄せられたといわれる。

◇福島第一原発の事故は「レベル7」と評価されている。これは事故の重大さを示す尺度で、これまで最高だった旧ソ連のチェルノブイリ原発事故と同レベルである。

 チェルノブイリ事故から、26日で満25年を迎えた。ヨーロッパでは、多くの民衆が、「チェルノブイリとフクシマを繰り返すな」と叫んでいる。チェルノブイリのような事故は日本ではあり得ないと思っていたが、信じ難い事が現実となってしまった。今回の大震災は、正に、グローバルな深刻さをもつものだ。

◇それにしても同レベルとされたチェルノブイリ事故とは何か知らねばならない。1986年、運転中の原子炉内で核分裂の連鎖反応が暴走して大爆発がおき大量の放射性物質が上空に巻き上げられ大きな被害を生じた。福島原発では大部分の放射性物質は原子炉の内部に残されている。それでも大気に放出された放射性物質の量は37万テラベクレルと推計されている。これはチェルノブイリ事故の大気放出量の10%といわれる。「レベル7」の基準は「数万テラレクベル」だから、このレベルにランクされるのだ。ちなみに「テラ」は1兆だから天文学的である。

◇私はかつて、柏崎刈羽の原発を何度も訪ねた。核分裂をコントロールする制御棒、原子炉を覆う何重もの装置も見た。原発の原理は核分裂によって生じる膨大な熱で蒸気をつくり、その力で発電機を回すことである。核分裂によって生じる放射性物質を外に出さないこと、核分裂の連鎖を制御することがカギである。人類史上初めて原爆の洗礼を受けた日本が、再び核の脅威に向き合っている。乗り越えねばならない。(読者に感謝)

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2011年4月26日 (火)

人生意気に感ず「新人との顔合せ。NPOの会議。東北紙から。」

◇知事宛の日赤招致署名簿を届けた(25日)。健康科学大と衛生環境研究所に隣接する芳賀の地に日赤を招きたい旨の陳情は既になされていたが、その後、3千名を越える住民の署名が集められていた。県議選があって提出が遅れていた。知事には秋篠宮対応で会えず、池本副知事に渡した。大災害により日赤の役割が増したことを伝えた。

◇県議団総会が正午から、また、国会議員・県議団合同会議が2時から、それぞれ県連で行われた(25日)。県議団総会では、新人との初顔合わせがあった。初当選が8人、カムバックが2人。自民31人中約3分の1が入れ替わった。初当選組の緊張した表情を見てかつての自分を思い出す。この人たちが役割を果たすには時間がかかる。私は自分の役割と責任の大きさを自覚した。

◇国会議員との合同会議の目的は7月の知事選対応である。中曽根氏が議長で進められ、知事の推薦依頼、選対役員選任等が議論された。

 私は発言を求め、「いつもの選挙と違います。大災害を乗り越えてどういう群馬をつくるかというビジョンを県民に示すことが、戦略的にも重要です」と主張した。

◇NPO協議会の役員懇談会がロイヤル9Fで行われた(25日)。「NPO群馬情報バンク」代表として出席。大災害に直面してNPOの役割が増すとの思いで会に臨んだ。

 挨拶では、前日、福島、宮城に救援物資を届け、視察もしたことを報告すると共に、大災害により時代が大きく変わりNPOの役割も変わることを述べた。阪神大震災を機に「NPO法案」が生まれNPOの時代になった。今回の大災害は、更に大きく人々の価値観や社会構造まで変える。日本人が心を合わせ社会の連帯を強めるときが来た。この流れの中でNPOの新しい道を模索しなければという思いで発言したのである。

◇東北へ出かけた折、購入した地元紙、福島民報と福島民友には、被災地の生々しい切実な情報が満載だった。両紙には県民の健康を懸念する記事が目立つ。「県民の健康継続調査」(県・放射線影響度を診断)、「2次避難先にも保健師」(県、孤独、持病悪化を懸念)などである。

 また、原発のあり方について、自治体の担当者にアンケート調査した結果、南相馬市と浪江町は無条件で即刻廃炉と強調している記事もある。他県では分からない深刻な状況が進行している。両県議会から情報を得るつもりだ。(読者に感謝)

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2011年4月25日 (月)

中村のりお・人生フル回転「空前の被災地に入る。津波の威力と人間の無力を知る

◇早朝3時半に集合、福島県、宮城県の被災地に向かった(24日)。NPO群馬情報バンクのメンバー総勢8名。2台のトラックと1台の乗用車に分乗。手入れした中古の自転車、果物、玩具等を被災者に直接届けるためだ。私の胸には歴史的な災害の現実を直接受け止めたいという強い思いがあった。

 北関東道を走り東北道に入るあたりで放射線対策としてヨウ化カリウム丸2錠を飲む。安達太良サービスエリアでいわきの自民党県連と落合い飲料水45箱を渡す。いわき市に入り、汐見が丘小学校を経ていわき市議赤津一夫氏が救援活動の拠点にしている保育園に至る。

 赤津氏は保育園の元理事長である。被災時は3千食の炊き出しをしたという。生々しい実情を聞いた。多くの救援物資がここから被災者に届けられている。後援会組織が救援活動に役立っている。この人と危機時の政治家の役割を話した。

 私たちは津波の直撃を受けた海岸に案内された。大きな家が潰れたあたりは爆撃を受けたようである。誰かが「信じられない」と叫んでいた。近くにはモーテル街があり「再開しました」という表示があった。当時、この中の客はどうしたのかと気を回した。

◇宮城県では正に信じ難い光景が待ち受けていた。多賀城市では市街のいたるところに流されて腹を上に向けている車があり、工業地帯ではアメのように曲った列車の線路が津波の威力を見せつけていた。多くの工場群の一角は巨大な墓地のように静かだった。私はこれを見て、地盤がしっかりしていて、交通網が整っている群馬へ企業誘致を働きかける絶好の機会だと思った。

 海へ近づくと住宅に横付けになっている漁船の姿があった。七ケ浜町では、堤防を越えて道路や空地に侵入した多数の船があった。更に進むと、正に息を呑む光景があった。見渡す限り瓦礫の原が広がっているのだ。私たちの足もとまで生活用品が推積している。私たちは思わず手を合わせて黙とうした。目を閉じると泣き叫び波に呑まれる人々の姿が目に浮かぶ。近くの向洋中では元気な少年たちと話し自転車を渡した。再建は彼らの手にあると思った。

 夜の三陸道の一方には人家の灯があり他方は暗闇である。目を凝らすと惨劇の跡が広がっているのだ。20時間、1千キロの行程を終えて午前0時過ぎ帰宅。今後の県政で活かすべき多くの示唆を得た一日であった。(読者に感謝)

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2011年4月24日 (日)

『上州の山河』第8回 「小学生時代」

下の部落へ引越しても、まだ、学校迄は片道7キロもあった。また、近所が近くなったという他は、生活もそんなに変わらなかった。電気はなく、ランプの生活で、ランプのほや拭きは、手がちょうど穴に入るというので私の仕事だった。このランプの灯の下で、母がよく本を読んでくれた。これが唯一の楽しみで、お陰で私は本が好きな子どもになっていった。

学校までの道程(みちのり)は、子どもにとってかなり厳しいものであったがもっと遠くから通っている者もいた。夜が明けるとすぐに、私の家を見おろす土手に立って、「おうい、中村ぁ、おうい、中村ぁ」と毎朝大声で迎えに来る男がいた。芝基紘(しば もとひろ)といって、私の家より更に何キロか離れた赤芝という所に住んでいた。仲間うちでは、奴は暗いうちに家を出てくると噂していた。彼は、現在、タカベン(高崎弁当)の重役として活躍している。夜、遅く電話すると、まだ帰っていない、朝、7時前に電話すると、もう出たという。彼の並はずれた行動力の元は、宮城の少年時代につくられたものであろう。この他、前期の福島浩、上野和仁などと仲良くなった。

 私が小学校へ入学した昭和22年は、カスリン台風が関東を襲い、各地に大きな被害を与えた。学校へ行く道中には、新井橋、神沢橋という、二つの橋があったが、台風の朝登校時既に濁流が恐いほどの勢いで橋桁を洗っていた。学校は午前中で終わりになって、私は、この橋の上を走り抜けるようにして帰ったが、その夜、この二つの橋は、流されてしまった。村では、流されて行方不明になった者も出て大騒ぎであった。台風が去ると、多くの田や畑は、大きな石ころがころがる河原のようになり、また、いたる所山から流されてきた流木や壊れた家の残がいが山となっていた。

※土・日・祝日は中村紀雄著「上州の山河」を連載します。

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2011年4月23日 (土)

第7回 「小学生時代」

 ノートはなく、ランドセルに入るくらいの石板が支給された。国語の教科書の最初は今でも覚えている。

おはなを かざる、

みんな いい こ。

きれいな ことば、

みんな いい こ。

なかよし こよし、

みんな いい こ。

いまは、白髪やしわが増え、相当にすれたりすねたりしている猛者(もさ)たちが、女の先生の口もとをみつめ、「おはなをかざる、みんないいこ」と声を合わせていた姿がしのばれる。

今思えば、前年の昭和21年に新しい憲法が公布され、学校に関することはすべて変わったのであった。

私が使ったのは、この憲法の民主主義の精神に基づいて新しく編集された国定教科書であった。それ迄の小学一年の初めの文には、従来の日本精神を象徴するような、ハタ、サクラ、アサヒ、という言葉が使われていたらしい。また新憲法で、ひらがなが使われたこともあり、国語教科書の最初の文もひらがなとなった。

この「おはなをかざる」の詩を、今、改めて口ずさんでみると、ほのぼのとした明るい社会の息吹のようなものが感じられる。この詩は、新生の民主主義の社会で初めて教育を受けようとする私達の門出を祝うにふさわしいものであったと思われる。(読者に感謝)

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2011年4月22日 (金)

人生意気に感ず「中小企業憲章は群馬の星。自殺島を読む」

◇中小企業家同友会の総会に出た(21日)。大澤知事が来賓の挨拶で、「群馬県中小企業憲章を制定し、中小企業振興の指針とします」と述べたのを聞いて嬉しかった。

 私は挨拶の中で経緯と意義を次のように述べた。「2年以上かけてやっと制定にこぎつけました。群馬が中小企業立県であることを高らかに掲げ中小企業を大切にすることにスポットをあてた憲章です。この度の大災害は、大地に根を張り、社会に根を張った中小企業の重要さを改めて示しました。この憲章の意義はますます大です。仏をつくって魂を入れるために皆様と力を合わせましょう」

 中小企業の若者と共に案文を研究し、議会では私が提案者となって難行の末に、2月議会で全員一致によって、制定することが議決された。

◇毎日、大災害の意味を考えている。世の中は、これを機に大きく質的に変化するだろう。文明観が変化し、人々の死生観も変わると思う。そこで一つ思うことは、自殺者の数が減少するのではないか。年間の自殺者3万人以上が13年も続いている。巨大津波は3万人に及ぶ人命を木の葉のように奪い去った。大量の命の消滅の中で、かえって命の大切さが自覚される。死を選ぼうとする人は、必死に生きる被災者の姿を見て死ぬ理由を失うだろう。

◇今、多く読まれている漫画の一つに「自殺島」があるという。職員の香織さんに頼んでツタヤで借りてもらいその一巻を読んだ。自殺未遂の若者たちが南の無人島で繰り広げる物語で、中々面白い。自殺者の背景には、その数倍の未遂者がいるといわれる。そのような人たちが集められた島が「自殺島」である。

 死ねなければ生きるしかない。若者たちは生きるために力を合わせる。自殺の手段である筈のナイフが生きるための道具に使われる。網をつくって魚をとる、海水を濃くして塩をつくる、鹿の群を見て、その生気に満ちた存在感になぜか心を打たれる、僕らのいた社会は夢がないとダメだ、勝てなければダメだ、いい暮らしが出来ないと幸せじゃないと言われた、僕もそう思った、だからずっと苦しくて逃げていた、主人公のセイの告白である。彼は鹿を見て、自ら自然と取り組んで、そして考えて、何かが分かりかけてきた気がすると語る。漫画は続く。病める若者の心の中を私の気づかない角度から窺わせる。続けて読んで考えてみようと思った。(読者に感謝)

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2011年4月21日 (木)

人生意気に感ず「レベル7、中国の反応。節電ともったいない」

◇原子力発電所事故の危険度をチェルノブイリ級の「レベル7」へ引き上げたことは、まさかという感じを与える。本当なのか。その根拠は。国民を納得させる情報は出されていない。これでは不安と不信を増幅させるだけだ。政府は事態を早く収束させることによって、私たちの不安と疑問に答えようとしているのか。

◇「レベル7」の対外的影響は大きい。日本の農産物、海産物などの輸出に障害が出ている。諸国は、安全の証明がなければ輸入できないと言っている。当然だと思う。

 中国の政府系メディア・「環球時報」は「レベル7」につき日本を厳しく批判している。その社説では、このような状況下の汚染された水を太平洋に放出するにつき、中国などの隣国に事前連絡しなかったことは道徳的にも外交的にも受け入れ難い、と主張している。

 中国は、これから原子力発電を大きく進めようとしている時の日本の事故に衝撃を受けているに違いない。

 原発は海に面して作られるから、その事故は海水を汚染し、海で結ばれる隣国に不安を与える。また、放射性物質は大気に乗って隣国へも流れる。原発は本質的に国内問題に止まらないことを今回の事故は教えている。

◇中国は経済を躍進させている。それを支える電力の需要は急速に高まっている。原発に頼るところは大きい筈だ。2014年までに原子炉4基を増設する計画であったが、日本の事故を受けて、新規の計画は暫定凍結にしたといわれる。

 中国最初の原発は1994年開始の浙江省の泰山原発である。その周囲20キロ内の住民の死因では悪性腫瘍が最多となっているといわれる。

 原発の管理は、その国の政治制度が大きく影響する。民主主義が発達している国では国民の監視が厳しい。日本は民主主義が進んだ国であるが、それでも今回の事故が起きた。国民に十分な情報を与えず国民の批判を認めない中国の原発は多くの不安をかかえている。

◇中国の温家宝首相は、中国内の食品問題に関し、道徳の低下が深刻なレベルにあるとし、国民の素養を高め道徳力をつけなければ真の強国や尊敬される国には決してなれないと発言した。中国産食品に対する不信は極度に高まっている。この発言はいまさらという感を与えるが、日本の大災害、そこで見せる日本人の姿と無関係ではない気がする。(読者に感謝)

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2011年4月20日 (水)

人生意気に感ず「百億の補正。浅間・鎌原の集団結婚の奇跡。」

◇東日本大震災関連の補正予算の概要説明が、自民党県議団総会の場で行われた(19日)。議会閉会中、しかも、選挙直後の異常時ではあるが、議会に説明しないのは議会軽視、という声もあって行われることになった。2人の副知事、関係部長等が出席。新人当選者数名も控室の一角に座を占めた。彼らの任期は未だである。

 補正予算の総額は約100億円。3つのポイントがあり、それは、県内産業の支援、被災地被災者の支援、県民の安心安全である。

 私は3点につき発言した。その1は、中小企業の支援につき先の2月議会で制定が決まった中小企業憲章の趣旨を活かせというもの。この憲章は私が提案議員となって制定にこぎつけたもので、中心の思想は中小企業を大切にすべしというもの。大災害は中小企業の大切さを浮き彫りにした。あとの2つは、住宅用太陽光発電設備補助と被災地への職員の派遣についてである。

 太陽光発電は新エネルギーとして、大災害を機に新しい社会を支える力となるだろう。職員の派遣は、職員に、群馬の危機管理に生かすための体験をさせることに意味がある。このような考えで発言した。

◇今回の大災害の中で助け合う人々の姿が世界から注目されている。日本人の本性を知る上で、この際思い出すべきは、天明の浅間の噴火の時の鎌原村復興の物語である。 私は、かつて、鎌原観音堂を訪ね、史上空前の災害の跡を見て息を呑んだ。「天明の生死を分けた十五だん」という碑板が御堂の石段のわきにあった。人々は熱泥流にのまれ、助かったのは500名中93名だった。生き残った人の子孫が今でも命日に「和讃」を詠じている。それは「日本のポンペイ」といわれる悲劇の生々しさを今に伝えている。

 次はその一部である。「一のあわれは鎌原よ、人畜田畑家屋まで皆泥海の下となり・・・」、「妻なき人の妻となり、主なき人の主となり・・・」観音堂に登って助かった人々は長老の組合せに従って集団結婚して村を再興させた。村人は、災害前の身分の違いをなくすため「同格平等、全員骨肉を分けた一族」という誓約書を書き、長老の采配に従ったという。

 このような例は世界にない。今回の大災害を機にこの鎌原の奇跡を世界に広めたい。日本人にはこのDNAが流れている。教育委員会は副読本を作って子どもたちに読ませるべきだ。(読者に感謝)

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2011年4月19日 (火)

人生意気に感ず「復旧でなく改革だ。被災地に向かう。武士道」

◇ある建築家曰く、「都市は戦争や天災で壊滅したときに初めて新しい姿へと孵化(ふか)する」極論ではあるが真実を含むと思う。様々な歴史的事実がそれを示している。

 長く続いた制度や生活状態には必ず矛盾や行き詰まりが生まれる。それを思い切って根本的に変えることは、既存の権利や利益を守る上から事実上不可能である。

 天災で壊滅した時はそれが可能である。重要なことは、単に元に戻す「復旧」ではなく、「改革」を実現することである。今回の東日本大震災はそのための絶好のチャンスだ。

 改革すべき事は多いが、原子力発電の危険性を考えると新エネルギー問題は第一に着手しなければならない。東北の被災県をソーラーやバイオ発電の一大拠点にしたらいい。日本の技術はそれを可能にし、それは全国に波及し、日本人全体の生活スタイルを変えることになるだろう。そして、世界の手本になるに違いない。原子力発電の危険性は世界が抱える問題だから。

◇今月24日、宮城県の被災地に出かけることになった。私が代表を務める「NPOぐんま情報バンク」が、古い自転車20台を修理して届ける。廃品回収した自転車を、タイヤを交換したり、ねじを巻いたり、部品を補充したりして使えるようにした。NPOのメンバーも出来作業は頑張ったが、サイキサイクルがボランティアで大部分の作業をしてくれた。

 NPOぐんま情報バンクでは、既に選挙中に高島君等が生活必需品を届けたが、その際自転車が生活必需品として重要であることを知った。

 今回は、私も、歴史的災害の現実を調査して群馬県政の諸課題の解決に活かしたいと思っている。実は、95年の阪神淡路大震災の時、現地に駆けつけることが出来なかったことを後悔していたのである。百聞は一見にしかず。25日のブログで、私の目と肌で感じたことを報告するつもりだ。

◇危険に満ちている原発事故の現場で、正に命がけで働いている人たちがいる。外国のメディアには、武士道の現われと報じているところがある。自分の利益を超えた社会全体のために義務と責任を果たす人々に心から敬意を表したい。教育の現場は、このような事実を、生きた教材として子どもたちに教えるべきだ。学校はこの災害にどう向き合っているか。(読者に感謝)

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2011年4月18日 (月)

中村のりお・人生意気に感ず「選挙後初の議員会合。尻焼の湯の異常さ」

◇国難の時の県議会の役割が問われている。選挙後初の自民党県議会の会合が朝食会の形

で行われた(16日)。議員の任期は4月28日迄。今期で引退する田島、原、金田の各氏も出席。落選した小野里、真下、金子の各氏は欠席だった。真下幹事長、金子県議団長の欠席は残念であった。心中は察するに余りあるが、この会議は、私が発言した通り、大災害時の議会の役割を論ずる最重要の場と考えるべきだからである。

◇この朝食会で私は次のように発言した。「この度の大災害は私たちに様々な問題を突きつけています。県議会が何をするかが問われています。5月議会の開会迄待っていられません。危機管理、農業の問題、エネルギー等々につき、少しでも早く行動を起こすべきです」と。

 5月議会の開会は5月18日である。知事を中心とする行政執行部は切れ目なしに行動しているのに、議会活動は、選挙のため、長いこと中断している。今こそ、執行部と力を合わせて諸課題に取り組まねばならないのに。私の中にこのようないらだちがあった。

 私の発言に触発されたようにいろいろな意見が出た。議会の開会を前倒しすべきだというものもあった。結局、今月25日をめどに、全員協議会を開くことになった。そこで、私は今後の長期的な課題と当面の課題について発言しようと思う。

◇統一地方選の後半戦が始まった。高崎など3市の市長選と、高崎・桐生など8市の市議である。前半戦は、世論を気にしながらの手探り、恐る恐るの選挙活動であったが、後半戦は本来の選挙活動に戻るだろう。

 私は、同僚県議・中島篤候補の出陣式に出た。パチンコ屋の跡地が選挙事務所で、屋内の会場は多くの人で溢れていた。多くの県議が出席し、国会議員はみんなの党の上野氏が出席。山本氏や中曽根氏の姿はみえなかった。大震災後の高崎市の未来がかかる。高崎市民はどのような選択をするか注目したい。

◇被災者に会うために吾妻を訪ねた際、六合村の尻焼温泉につかって驚いた(17日)。この奥には私が理事を務める白根開善学校がある。その関係で、この谷間に沸く自然の湯にはよく入るが、昨年末と比べ異常に高温だった。全国の活火山が活発化しているといわれるが、この温泉も、巨大地震の影響かと思った。湯につかりながら浅間の大噴火を思った。(読者に感謝)

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2011年4月17日 (日)

第6回「小学生時代」

 昭和22年、私は、鼻毛石の宮城村小学校に入学する。入学した時の感動は忘れられない。新しく買ってもらったゴム靴を履き、厚手のズックのような布で出来たランドセルを背負って夢中であった。

 しばらく山の中にいて人が恋しいという気持ちがあったのだろう。意味もないのに隣の仲間をつっついたり、相撲をとったり、けんかをしたりの楽しい毎日が始まったのである。

 小学校一年のときの茶色に変色した一枚の写真がある。この写真を見ると、いろいろなものが込み上げ胸が熱くなる。20歳(はたち)を過ぎた娘のゆりが、

「エー、これがお父さん」と素っ頓狂な声を上げる。

「まるでベトナムかアフリカのどこかの国の子どもみたい」ベトナムやアフリカの人々には、おこられるかも知れないが、娘がそんな風に受けとるのも無理はない。女の子は、着物を着て、ひもをしめているような子もいるし、男も粗末な服を着て、泥だらけのジャガ芋のような顔を並べている。あれから40数年が過ぎたわけであるが、この写真は、世界の経済大国となった今日の日本も、戦後は、ここから出発したのだというその原点を示しているともいえる。

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2011年4月16日 (土)

第8回 宮城村で開墾生活

 若かった母も、もう77歳になった。すっかり老いた母を見て、私は、時々、昔のこの場面を思い出すのである。

冬は寒さと共に風がすごい。掘立小屋には、まだ、雨戸もなく、かわりに、上からシートを垂らしていたことがあった。ごうごうと、風はうなりを上げている。父は、何かの用で、その日は帰りが遅い。親子3人、ランプを消してじっと布団にもぐっていると、強い風はシートを巻き上げて屋根に叩きつける。シートは、下に落ちたり、舞い上がったり繰り返している。親子三人は生きた心地もなく、暗い布団の中で抱き合っていた。待ちくたびれたころ、いつものように、父の咳払いが聞こえた。あの時の嬉しさは、たとえようのないものであった。地獄に仏とは、あのようなことを言うのだろう。

このような山の生活が2年近く続いた。それ以上続けることは、無理なことであったろう。それに、私の小学校入学が近づいており、山奥から小学校へ通うのは大変ということもあって、ついに開墾生活に見切りをつけ、すぐ下の部落、落合と言う所に移ることになった。現在、柏倉の一番北の方に、「大崎の釣堀」があるが、その近くである。

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2011年4月15日 (金)

人生意気に感ず「3度目の外圧は天の声。大災害をこう活かせ」

◇県議選が終わって5日が過ぎた。走り通してなお余力を感じた私であるが、緊張がとけて体の奥の骨の間から疲れが染み出してくる感じだ。今でも、選挙をやっている夢を見る。

 特別な選挙であった。走りながら、日本の行方と選挙の意義を考え、短いフレイズにして訴えた。「この災害は私たちの社会に様々な重大な問題を突きつけています。それを謙虚に受け止めて県会議員としての役割と使命を果たしていきます」、「私たちは今こそ、心を一つにして力を合わせる時です」。これは、2分間の街頭演説で繰り返した言葉である。

 大災害の意味を今、改めて、静かに考える。最大の危機であるが、最大のチャンスだと思う。それを理解するには歴史的な視点が必要だ。日本は、外圧によって危機に陥り、その外圧を乗り越えることによって発展してきた。明治維新、太平洋戦争の敗戦と復興はその例である。そして今回の大災害である。

◇今回の大災害は、自然災害であるが、外圧と考えることが可能だ。天の力と受け止めるべきか。それは、私たちに、根本的な価値観の転換を迫っている。科学万能を反省して、自然との共生を図るべきである。このことは、世界に共通した問題だから、日本の復興は世界の模範となるだろう。その原動力となるべき日本人のモラルは、既に世界の賞賛を集めている。

◇復興のスタートは、当然ながら東北の被災県だ。国を挙げて思いきった革命的事業を実行すべきだし、それが可能なチャンスである。

 その中心は、農林水産業の改革である。東北は農業と漁業の大拠点である。行き詰った日本の農業が大きく開けるきっかけとなる。また、東北全域に太陽光発電を展開すべきだ。クリーンエネルギーの一大拠点をつくりエネルギー革命を成功させることには歴史的な意義がある。

◇このような東北の復興に日本人全体が力を合わせることに大きな意義がある。その成果は、日本全国に及ぶだろう。また、それは世界に及ぶに違いない。

 理想の平和憲法の中で、世界に貢献することを掲げている日本が、今こそ、その真価を発揮する時。日本が全世界に存在感を示すまたとないチャンスである。外国のメディアの中には、災害に向かう日本人を「武士道」の表現で讃えるものがある。武士道は、私たちの財産だ。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年4月14日 (木)

中村のりお・人生意気に感ず「大災害が教えるもの。時代の大転換期だ」

◇大災害と地方選挙の時期が重なったのである。偶然の事だが重大な意義がある。選挙どころではないという声があった。被災地はその通りだが、その他の地域は違う。

 私は今回の県議選で次のように訴えた。「今回の選挙には特別な意味があります、安全な社会を再建するために政治の役割が問われています、そのための政治力を生み出すのがこの選挙の目的です」また、「今回の大災害は、私たちの社会に様々な問題を突き付けています。私はそれを謙虚に受け止めて県政の場で政策に反映させ取り組みます」

◇災害が突き付ける問題とは、私たちの価値観、文明観、生活スタイルの変更など根本的な問題に始まり多くの具体的な問題に至る。そして、社会の大転換が迫られている。最大の危機は最大のチャンス。日本の再建は地方からだ。その意味で県会議員、そして、県議会の役割は極めて大きい。

◇根本的な問題の一つは、使い捨て、大量消費の生活スタイルを改め、「足ることを知る」の思想を大切にすることだ。これは「もったいない」にも通じることである。

 具体的問題は限りないが、いくつかを提案する。まず、ソーラー、バイオマスなどクリーンエネルギー政策を大胆に進めねばならない。まず、官庁初め県営の施設の屋上は全て太陽発電所にすべきだ。

 節電対策。県は、全庁舎、全施設につき細かく節電計画を建てトータルの目標を設定すべきだ。

 これから県税収入が減る。だから行財政改革を思い切って断行しなければならない。公社公団など厳しい目で再検討し、廃止や縮小を研究し、業務の民間委託を一層進めること。

 県議会が本来の役割を果たせるよう制度を改革しなければならない。現状は、招集権も知事の手にある。私は、今期、県議会基本条例を作り、県議会復権の基盤をつくりたい。

◇具体的問題の最大なるものは、危機管理である。今回の災害に関する最大の問題点は、原発事故対策に象徴される危機管理の甘さである。科学と文明を過信して自然の威力を軽視したツケである。

 群馬は災害がないなどと安心していられないことを教えている。天明年間の浅間の大爆発のようなことは今後もあり得るし、昭和22年のキャサリン台風のような水害は異常気象が続くなかで現実的だ。軽々に想定の範囲などを設けない危機管理が必要だ。

(読者に感謝)

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2011年4月13日 (水)

人生意気に感ず「日本に対する世界の評価。日本人よ自信をもとう」

◇追い詰められたまさかの時にその人間の本質が現れる。一国の国民性についても同じだ。今度の大災害で日本人の特色が現れたようだ。日本人の心は貧しくなったといわれるが、助け合いの精神を初め、極限状況の日本人の対応はさすがである。

 私が中心となっている「NPO群馬情報バンク」のメンバーが、選挙の期間中・東北の陸前高田の被災者に救援物資を届けた際の感想を語った。高台の会社の避難所の人々は、身を寄せ合って励ましあい、助け合っていたという。東北魂というが、日本人の心を象徴する姿だろう。

◇このような被災者の姿を外国のメディアがこぞって高く評価していることは、大いに勇気づけられることである。私は、選挙戦の中で日本の社会の再建には、日本人の心の再建が必要だと訴えてきた。

 日本人の心が貧しくなったのは事実である。しかし。阪神大震災の時もそうであったが、今回の大災害で現れた日本人の姿からいえることは、日本人の伝統的な精神的基盤は失われていないということだ。今必要なことは、これを見詰め直し、自信を取り戻して、「精神」の再建に取り組むことである。そのために、世界の評価をしっかり受け止めるべきだ。

◇報道されたいくつかを、ここに記録したい。「日本人はパニックに陥らなかった。動揺する外国人を助け避難所へ手際よく誘導した。地震にここまで冷静に対処できる国は日本しかない」(インド紙)。

「避難した人々に衣類や食料が与えられ、男性は女性を助けた。その後、人々が去ったときゴミ一つ落ちていなかった。日本人の冷静さに世界が感慨を覚えている」(中国紙)。

「日本社会は整然としていて秩序に乱れがない。日本人の忍耐力と回復力は尊い」(米国紙)。

 スーパーなどからの略奪がないこと、便乗値上げがないことも、各国は驚きの目で見ている。

◇今回の大災害に立ち向かう日本人の姿を、教育界は活きた教材として活用すべきだ。この事も私は、選挙の演説で強調した。学校教育の目的は生きる力を育むこと。だとすれば、これ以上の教材はない。道徳という言葉を使わないで道徳を教えることが求められている。とすれば、これ以上の道徳教育の教材はない。教育委員会は、今回の出来事も素通りしていくのか。「原爆」を教室で教えなかったように。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年4月12日 (火)

人生意気に感ず「県議選を振り返る。大震災が突きつけるもの」

◇嵐の中のような慌しさだった。選挙戦が終わった9日夜のことである。翌日限りで公民館を明け渡さねばならない。人手が集まっている間にと、コピー機、輪転機、調整機といわれるページを揃える機械などを運んだ。名簿類なども相当な量であった。多くのボランティアの人たちが手伝ってくれて大体片付けることが出来た。

◇9日夜、作業が終わった後の私を待っていたのは秋田犬のナナである。約一ヶ月、散歩にもつれ出してもらえず、庭の奥の金網の中で私の姿を見るたびに呼んでいたのである。

 外へ出すと興奮して跳ねた。主人の当選に狂喜しているようである。ナナに引かれるようにして、芳賀グランドに行き、サッカーゴールの棒にナナをつないだ。大きく深呼吸して広いグランドを一周した。久しぶりに自分の足で自分の大地を踏みしめる感じ。自分の世界に戻ってきたのだ。

 一、二ヶ月の間に、体重が約3キロ増えた。毎日の日課としていたランニングなどの運動が出来なかったこと、動くのだからと自分に言い聞かせて普段のウエイトコントロールをやらなかったからだ。腹がでてきたことが気になる。新たな生き方を模索する時、カギは体力と気力である。この点でも新たな挑戦の時が来た。

◇某紙が、私の選挙について、「中村さん、最多の7選」という見出しで次のように書いた。「元県議長の中村さんは、年齢のハンデをはね返そうと、選挙戦では一日40~50ヵ所の街頭演説をこなし、気力、体力の充実ぶりをアピール。市内全域に広がる後援会組織もフル稼働し、議席を死守した」

 演説では、非常時の社会の再建にはハングリーな時代を生きた経験が必要だと訴えたが、私の声が届かない所では、年齢がマイナス要因になったことが考えられる。これからの議会活動の中で、私の力を示したいと思う。

◇東日本大震災は、日本の社会全体に様々な問題点を突き付けた。自分中心の価値観を改めることを初めとして、エネルギー、農業、地域医療、福祉などなど、震災以前から問題となっていたことが、大震災を機に新たな意味をもって私たちに迫っている。県政の場で、これらを取り上げていかねばならない。選挙中に、私は、世界に広がりつつある「モッタイナイ」の精神を今こそしっかり取り戻すべきだと訴えた。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年4月11日 (月)

人生意気に感ず「ブログ再開。7期目の激戦を制す」

◇審判を待つ長い一日だった。午後7時を過ぎる頃から選挙事務所には人が集まり始め、8時を過ぎると広いホールはほぼ満員になった。9時直後、NHKのテロップで当確が流れると、会場は歓声につつまれた。7期目、70歳の当選を、心の冷静な部分でかみ締めた。

◇前例のない選挙であった。停電の中、ローソクを灯して決行した集会もあった。集会の合い間を縫って2分間の辻演説を1日50回もやった日が幾日もあった。体力と気力は充実し、9日夜の打ち上げ式の時にはまだ余力を感じることが出来た。

読めない選挙といわれていたが、前橋選挙区の当落図は大まかには、予想された通りになった。

 苦戦が言われていた同志が落選した事は残念であった。真下誠治氏は大人の風格を持ち光る存在であったが、票が足らなかった。小野里光敏氏は私と同年生で、当選して一緒に仕事をしたいといっていたが目的を果たせなかった。心中を察すると忍びない。

◇私は、今回の選挙で、主に、災害に強い群馬をつくること、日本人の心の問題、県議会のレベルアップなどを訴えてきた。これからの4年間は、人気取りという事を意識せず、県会議員としての役割と使命を果たすために全力を尽くしたい。

 政治家は、人々の目や耳を常に意識しなければならないが、迎合してはならないのだ。今回の様々な選挙結果は、政治家に多くの事を突きつけている。それからいかなる教訓を引き出すかが、問われている。

◇ブログは、有権者との距離をちじめ、情報を提供するために必要なことと信じている。改良と工夫を心かけながら続けたいと思うので、引き続きご愛読願いたい。

◇選挙戦は脳裏にしみ込んでいる。昨夜、ハッと目覚めて飛び起き、「タスキがない」と叫んでいた。選挙カーで回っている途中、自宅に飛び込んで一休みしているという意識であった。慌てて、「車はどこ」と外に出たりした。妻に、選挙は終わりましたよ、当選したんですよ、と言われ我に返った。後遺症は、これから、当分の間、時々現れるかも知れない。(読者に感謝)

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