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2011年3月21日 (月)

中村紀雄著「上州の山河と共に」第5回

「宮城村で開墾生活」

昭和20年の秋、私達家族は、勢多郡宮城村柏倉(現:前橋市柏倉町)の最北の地大倉山という所で開墾生活に入った。妹の恭子が生まれたばかりで、一家4人であった。各地からいろいろな人が入植する予定であったらしいが、実際、掘立小屋を建てて済み始めたのは、東京の新小岩からやって来た画家の池田さん、前橋の百軒町から登った小池さん、それと私達の三軒であった。

小川の流れる沢のどん詰まりの低い斜面を削って掘立小屋が建てられた。小川はそこの小石の一つ一つが見え、足を入れると夏でも痛いほど冷たかった。石を動かすと小さな蟹がいくらでもとれ、また、水面を覆って、川菜がいっぱいはえている。ぐみや山栗やあけび、そして、きのこと珍しいものがいっぱいで、私は、さすがお父さん、よい所へ連れてきてくれたと喜んだ。

しかし、それは初めのうちだけで、すぐに開墾生活の厳しさをいやという程味わうことになった。篠を刈って、唐鍬でおこし、土をふるい落として、篠の株を取り除く。父母のそばで、掘り起こした株を運び出したり、妹の世話をするのが、私の仕事であった。

苦労して作った薩摩芋を収穫することは大きな喜びであったが、毎日、御飯のかわりに食べさせられ、しまいには、薩摩芋の上にぽろぽろ涙を流し、薩摩芋を見るのも嫌になった。(読者に感謝)

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