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2010年4月12日 (月)

「シベリア帰りの塩原さん危篤」

◇「眞資(しんすけ)さん、中村のりおです」耳元に口を近づけて叫ぶ私の声に塩原さんは微かな反応を示したようであった。

 酷寒と過重な強制労働を生き抜いてシベリアの強制収容所から生還した塩原眞資さんが病に倒れ日赤に入院したのは数日前の事であった。

 私は何とかして意識の交流を図りたいと願って2度目の面会に訪れたのである(11日)。

 塩原さんは、戦後5年もの長きにわたりシベリアに強制抑留された。寒さと飢えと重労働という極限の状態で、仲間はバタバタ倒れて死んだ。狂おしい程家族が恋しかった。

 ある時、酷寒の森から作業を終えて収容所に戻るとベッドに一枚の葉書があった。

「ニイサンノブジヲシリ、イエジュウヨロコンデイマス」で始まる、懐かしい妹からの便りであった。

 病室では、葉書の主細井照枝さんが付き添っていた。シベリアの事に話が及ぶと、照枝さんは米粒のようなカタカナで必死に書きましたと振り返っていた。

 ベッドで生死の境をさまよう塩原さんの姿を見ながら、私は平成16年7月に、塩原さんとシベリアの強制収容所跡を訪ねたことを思い出していた。

 夏草の中に「日本人の墓」と刻まれた墓石があり、側に「友よ、安らかに眠れ」と墨で書かれた木の墓標が立っていた。塩原さんは、その前で「俺だけ帰って悪かった」と声をあげて泣いていた。

 近く88歳を迎える塩原さんは、死を前にしたベッドであえいでいるが、脳細胞は生きている。その奥で、シベリアの強制抑留の出来事をたどっているのだろうか。何とか、もう一度、視線を交わしたいものだと願った。

◇片貝神社の大祭典は12年ごとに寅の年に行われる300年以上の歴史を持つ行事である。寒さで遅れた桜の満開と重なって神社の内外は人の波で埋まっていた。

 激しく揺れ動く社会は糸の切れた凧のようにどこに動いてゆくのか心配である。伝統の神事は、地域社会を大地につなぎとめる糸である。侍姿の若者を見て思った。

◇片貝神社で玉ぐし奉てんを終えるとただちにぐんまアリーナへ飛ぶ。群馬県柔道連盟60周年記念関口杯柔道大会の開会式は10時である。25分しかない。3分遅れで会場に入ると、係りが私に渡すマイクを持って待っている。一瞬のセーフだった。小学生の「型」の披露に感心する。ここにも日本を支える伝統が溢れていた。

◇夜、旧宮城村小学校の同級生たちと会食し懇談した。戦後の貧しい時代が歓談の中に甦る。私は来年の県議選にチャレンジする決意を述べた。そして、貧しい時代を知る政治家の役割を語った。(読者に感謝)

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