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2010年1月31日 (日)

激動の時代 

 24_2 満州国建国が正しい行為なら、これを世界中によってたかって非難する国連の決議は間違っている、日本はいじめの被害者だということになる。マスコミの論調もこういう受け取り方であった。

 新聞の見出しも、「我が公正なる提案に、遺憾なる連盟の態度」(昭和8年1月26日、上毛)といった具合である。また、昭和7年11月群馬県議会は、国際連盟の日本全権に激励電報を発する件を決議した。

「本県の決議をもって帝国全権各位の御健闘を祈る。群馬県会議長 金沢富三郎」

これに対して、11月29日、ジュネーブの松岡洋右から答礼電報が届き、議長が報告。

「御懇電深謝す。同僚全権の驥尾に付し唯微力を致さんことを期す。 松岡洋右」

 ついに国連脱退を国会で決議する日が来る。昭和8年3月28日の上毛新聞は大見出し四段抜きの記事を載せているが、それには、日本が被害者で国際世論が間違っているという日本の考えがよく現れている。

 それによれば国際連盟脱退に関する措置案につき、平沼審査委員会は次のような報告をする。

「御諮詢(しじゅん)案の極めて重大なるに鑑み、3回審査委員会を開き将来の対満政策・・・連盟脱退による経済封鎖の問題並びに外交根本方針その他の点に関し充分政府の所信を質したる後、委員会の態度につき慎重審議の結果、政府は世界の正義公道を遵守して進めば脱退による経済上の懸念の如きは豪末もなく、帝国と満州国の提携によって事実上極東の平和を増進し、延いては世界の平和に寄与すること甚大なるべく、我が国に対する世界の正当なる理解も将来、最短期間に実現すると信ずる。然して是に対する(政府の)厳然たる用意、確固不動の信念を有するとの言明に信頼し、将来の外交方針に、万、遺憾なきを期せられたい旨を政府に要望して、全会一致、連盟脱退の然るべき旨決議した次第である。」

 我が国は世界の正義公道を守って進んでいるのだから、世界の正当な理解が最短期間に実現する、と述べている点が注目される。

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「炎の山河」を連載しています。

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2010年1月30日 (土)

激動の時代

満州国建国や国連の日本非難を国民はどのように受け止めたであろうか。

満州国建国には、日本中が熱狂した。マスコミも歓呼をもってこれを迎えた。1932年・昭和7年3月10日、11日の上毛新聞は、満州国建設の現地の様子を一面大見出しで伝える。「満州国史の第一頁、けふ建国式、溥儀氏執政就任を宣布」「五色旗の波、溥儀氏の長春入り、その日の劇的シーン」「恰も古代絵巻物、満州国建国の大典」「3

月9日の空はぬぐうたようにくっきりと澄み渡り、和やかな春風に充ち、爽やかな風に新五色旗がなびき、穏やかな日ざしはさん然として、長春七馬路の市政府本館の式場には今日しも満州国建国の大典が挙げられた」

 しかし、このように新国家建国を華やかに伝える記事の片隅に書かれた次のような記事が注目される。「南京政府は絶対に満州国を承認せず。新国家は日本の傀儡(かいらい)(昭和7年3月13日の上毛新聞)。この記事は国民政府の発表を伝えるものである。傀儡とはあやつり人形のことだ。又、昭和7年3月15日の上毛は、「新国家満州を呪ふ、擾乱(じょうらん)の魔手延ぶ」という大きな見出しのもとに「新国家満州を呪う張学良ないし南京政府の卑劣極まる擾乱運動はあらゆる方面に着々試みられている。本日は斉王の治下各所に彼等の毒手が伸ばされた」と報じている。

 これらの記事から、抗日運動の激しさが分かると同時に、マスコミが抗日運動を指して“魔手”とか“卑劣極まる”とかの表現を使っていることが注目される。これは、満州国建国を正義の行為と見るからであり、正当に建国された国家を暴力で侵害する者は魔手であり、その行為は卑劣だということになる。しかし、満州国が関東軍の謀略によって作られたという歴史的事実を正しく認識すれば、むしろ逆で、日本こそ加害者であった。

 当時のマスコミは、東京朝日、大阪朝日、東京日日などの大新聞からラジオに至るまでこぞって、満州事変に始まる日本の満州に於ける行為を同じ論調で報じている。マスコミの強大な影響力とその使命を考える時、真実を報道できなかったその責任は極めて大きいと言わねばならない。マスコミがこういう姿勢であるから、一般国民が中国を卑劣と考えるのは無理からぬことであった。この頃から、県議会の記録にも、支那を膺懲(ようちょうー敵をうち懲らすこと)すという表現が目立つようになる。

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2010年1月29日 (金)

人生フル回転「秋葉原事件の初公判。ハイチで見る人間の生命力。2月議会」

◇あの秋葉原の惨劇が甦る。昨日(28日)この事件の公判が始まったからだ。東北の高校時代はスポーツをよくやる優等生だったという派遣社員の若者加藤は、08年6月8日、秋葉原の歩行者天国に車で突っ込み17人を殺傷した。

 彼は何ヶ月も前から携帯のサイトにおびただしい数の書き込みを続けた。その中には、「負け組みは生まれながらにして負け組みなのです」、「私より幸せな人を全て殺せば私も幸せになれますね?」、「みんな敵、本当の友達が欲しい」などがあった。

 そして、犯行の直前、「秋葉原で人を殺します。車で突っ込んで車が使えなくなったらナイフを使います。みんなさようなら」と書き込み、遂に現場に至る。現場の交差点で3度ためらい、左右折を繰り返した上、今度こそと決意を固めアクセルを踏み込んだという。

 加藤被告は、これ迄に遺族等に謝罪の手紙を書いた。その中では、当然死刑になると考えていること、真実を明らかにして、対策を立ててもらうことで似たような事件を二度と起こさせないようにすることをせめてもの償いにしたいことなどが述べられているといわれる。

 ここに、悪夢から醒めた若者の姿がある。冷厳な裁きの場に立たされた加藤被告は、「大変申し訳ありません。私が犯人で事件を起こしたことは間違いありません」と述べた。

 この事件は病める社会を象徴するような出来事である。誰でもいいから殺したかったという事件が増えている。それらは共通の病根でつながっているように思える。加藤被告には極刑が下されるかも知れない。もしそうなったら社会全体がそれを教訓として活かさねばならない。

◇ハイチでは、27日、17歳の少女が、なんと15日ぶりにがれきの下から救出されたという。一般には72時間が限度というのに、360時間を耐えた生命力にはただ驚くばかりだ。少女は重い脱水状態にあるが意識ははっきりしているという。

 人間の生命力の真の限界はどこか。それは、民族により、また、普段の生活習慣により異なるに違いない。ハイチから帰国したNGOの人の話では、ハイチの国民はほとんどが1日1食だという。そのハングリーな日常で培われた強靭な力と民族的なDNAが驚異的生命力を発揮しているのだろう。

 72時間というのは、美食と飽食に慣れ、車社会に身を任せる私たちに通用する尺度なのだと思う。ハイチ大地震は、人間の命のはかなさと生命力の凄さを教える結果になった。私たちが、そこから学ぶことは限りなく多い。地底ではまだかすかな命の火が残っているのだろうか。

◇2月定例議会は2月19日から始まる。今日(29日)は2時から新年度予算に関して知事折衝が行われる。景気対策は最大の課題の1つ。その柱として、運転資金を中心に約1430億円の制度融資枠を確保する方針。雇用対策、八ッ場対策も重要な課題となる(読者に感謝)

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2010年1月28日 (木)

議員日記・人生フル回転「マチュピチュの洪水。ハイチの新たな危機。市が起こした2つの訴訟」

◇ペルーのマチュピチュ遺跡の周辺の豪雨で日本人50人余りが孤立している。報道は、山あいの赤い屋根の集落が濁流に呑まれようとしている光景と共に旅行者の状況を報じた。

 この報道に接し、私の胸におよそ13年前、平成9年にこの地を訪れた時のことが甦る。「サヨーナラー」と叫んで走ったあの少年はどうしているだろう。それは忘れ難い人生の一コマなっている。

 私たち県議団は、平成9年、行政視察でペルーの首都リマを訪れた。ペルーは、ブラジルより早く日本移民が最初に実現した地だった。日系移民がどのように活躍しているか、日本の文化をどのように継承しているかを調査することが目的であった。それから、私たちは、空路、クスコへ向かった。ここでの目的はマチュピチュの遺跡であった。世界的な遺跡をどのように守り観光に活かしているかを調査した。

 クスコは、かつてインカ帝国の首都だった。標高3000メートルの高地に、アンデス山脈に抱かれるように静かに広がる古都である。そしてクスコの北約100キロの所、ウルバンバ川にそそり立つ険しい絶壁の上に、空中都市といわれるマチュピチュの遺跡があった。1分の隙もなく石を積み重ねた技術は驚くばかりだ。回りの峰々には神が宿るようで、遥かな眼下にはウルバンバの急流が一本の白い帯のように見えた。今回の洪水はあの川が谷を埋めて荒れ狂っているのだろうか。

 思い出すのは帰りのバスから外を見た時の事だ。一人の現地の小さな少年が「サヨーナラー」と叫びながら走ってくる。バスは急斜面を幾重にも蛇行して下る。少年の姿が消えた。バスがグルッと角度を変えて進むと道なき木々の間を走り下った少年が道路に飛び降り、又「サヨーナラー」と叫びつつ追ってくる。何かを乞うている姿ではなかった。日本という見知らぬ文明の国に憧れている姿にも見えた。

 あの少年もすっかり成長していることだろう。洪水で孤立した日本人の救出に当たっているかも知れない。赤い濁流の中で褐色の肌を晒して動く若者の映像を見て思った。

◇ハイチ大地震の惨状は新たな段階に入ったようだ。辛うじて命が助かった人々を如何に救出するかだ。26日で2週間が経過、死者は少なくとも15万人、家を失った人100万人、食料援助を必要とする人200万人と報じられている。

このような中で、支援の食料を手に入れている人は10%に過ぎず多くの人が餓死に直面し、治安も深刻らしい。日本の阪神大地震の時は略奪が一切ないことが世界から驚きの目で見られた。

◇前橋市が提訴した2つの訴訟が注目される。一つは政務調査費の返還を求めるもので、他は、前工跡地の問題で県を相手にするもの。市は県と交換して手に入れた土地に予想を超えた汚染があるとして交換契約の無効を主張している。この問題には小寺政権下の複雑な事情がある。県は真っ向から闘う。2月議会でも取り上げられるだろう。(読者に感謝)

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2010年1月27日 (水)

人生フル回転「大災害と国家。曲阜からの客。性犯罪に12年」

◇ハイチの死者は10万人を超えて更に増える状況だ。国民は一日一食がやっとといわれる世界の貧国に大災害は壊滅的打撃を与えた。国民の大部分がカトリックの国である。神はいないのかと思ってしまう。しかし、世界中から救援隊が駆けつけている姿を見ると、人類は一つであることを感じホッとする。

 それにつけても思うことは、もし、北朝鮮に大災害が起きたらどうなるかということだ。恐らく、政府は人的支援の受け入れを拒否し、その結果、多くの犠牲者が出るだろう。

 その前例となるような大災害が08年、ミャンマーで起きた。超大型のサイクロンによる死者不明は32万人と報じられた。犠牲者を多く出した理由の一つは軍事政権が世界の人的支援の受け入れを拒絶したことであるといわれた。これは、そもそも国家とは何のために存在するのかを世界に突きつけることになった。

◇中国山東省の曲阜師範大学から2人の日本人教師が来県した(26日)。昨年暮、県議会の日中議連のメンバーは、孔子生誕の地である曲阜(きょくふ)市で行われた孔子ゆかりの式典に出席し、私は山東省人民政府の要請によって、曲阜師範大学で記念公演を行った。多くの学生が出席したが、彼らは日本語を学ぶ学生で、来県した2人はその時の日本語教師・岡さんと福田さんであった。因みに、その時の演題は「経済大国日本の挫折と再生の課題」。

 私は2人を茂原副知事、生活文化部の小川部長、山口国際課長に紹介した。福田康夫さんが総理の時山東省を訪ね群馬との交流を提案した事がきっかけとなり、群馬県と山東省との交流が始まった。日中議員連盟の動きは、この流れを加速させる役割を果たしたと思う。そして、二人の教師の来県は、その成果を示すものでもあった。

 曲阜師範大学に群馬の情報を伝える県発行の定期刊行物を送ることになった。岡さんは、学生たちに群馬を知ってもらえる、と嬉しそうだった。

私は、2人を県立図書館に案内した。ここでは、一定の年数を経た本を処分する制度がある。館長と相談してこの本の中から教材として師範大学に贈る事になっていた。書庫に案内された日本語教師は、大きな活字の子ども用の物語などを希望した。これらの本は、定年を迎えて海を渡り新しい職場で国際交流の仕事をすることになる。岡さんの人生と似ていると思った。学生と本との対面を想像すると楽しい。

 大連外国語学院へは、このようにして、既に10数年前から書物が贈られている。その事が縁となって県立女子大との提携が実現し、この4月から、1人の留学生が同女子大に入学することになった。

◇注目していた犯罪に対する裁判員裁判の判決が前橋地裁で下された。懲役13年の求刑に対して12年の判決。被害女性の声は裁判員に影響を与えたと思う。性犯罪に対する市民感覚は厳しい。いずれ市民は死刑と向き合う日が来る。(読者に感謝)

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2010年1月26日 (火)

人生フル回転「民主政治と衆愚政治。県職員の志気。八ッ場ダムと胆沢ダム。」

◇全国紙「声」欄に「思考停止した民主議員たち」という意見が載った。ポイントは2点あるが1点は、小沢幹事長の元秘書で逮捕された石川容疑者のこと。「正しくあろうがなかろうが批判を一切せずに従ってしまう、自分の頭で考えることをせずに行動する こういう人が国政をつかさどり、我々の税金から高い報酬を得ていると思うと怒りを覚えた。事業仕分けで無駄を論じるなら、一番の無駄は自分の頭で考えることを放棄したこのような議員たちの数ではなかろうか」というもの。

2つ目は、「民主党は検察庁と闘うそうだが、日本が法治国家だということも忘れたのだろうか。これは戦争ですなどとコメントしていた女性議員もいた。知性のかけらも感じられず、私には、熱に浮かされた言葉としか思えない」と指摘している。

 同感だ。民主主義の政治は衆愚政治に落ちる危険がある。独裁者のような突出した実力者に黙々と従う多くの国会議員の姿を見るとこれが民主主義かと思ってしまう。

 自民党政権の下でも同じような光景はあった。それは長期政権の上にあぐらをかいて初心を忘れた国会議員の姿であったと思う。勢力が伯仲する二大政党が実現しないと同じことが繰り返される。健全な民主主義は二大政党制の下で発展するのだとつくづく思う。

◇二月議会に向けて政調会が行われた(25日)。県職員を見て思うことは、四千人の優秀な職員が有効な政策を目指して存分に力を発揮したら県政の難題も容易に解決するに違いないという事だ。総司令官たる大澤知事の政治姿勢、覇気、決意といったものが職員の志気に大きな影響を与える。

 知事との政策懇談会で、県会議員から歳出削減のため県職員の給与をカットしてはという意見が出た。これに対し、知事は、汗かけ、知恵出せと呼びかけている、あまり給与をカットすると、職員がやる気を失うと答えていた。

◇ある小集会で1人の男性が、「東北の胆沢ダムが進められ、八ッ場ダムが中止というのはどう見ても納得できない」と発言すると、他の人は胆沢ダムをめぐる大手ゼネコンの献金疑惑が小沢一郎問題と結びついていることをあげ許せないと声を荒げた。

 2つのダムで差をつける理由として、国は、「胆沢は本体工事に入っていたが、八ッ場は、これに入っていなかったから」と説明する。

 この点につき、前原国交相と八ッ場住民との意見交換会で、住民から「トンネルは本体の一部だ」という面白い発言があった。このトンネルとは、ダム本体の工事に不可欠な水を迂回させるための仮排水トンネルのこと。このトンネルは既に完成しているのである。これがなければダム本体の工事は進められず、また、ダム本体工事がなければ必要ないトンネルなのだ。だから、ダム本体の一部と解釈しても不自然ではないだろう。小沢問題が、八ッ場ダムと胆沢ダムの対比を浮き上がらせることになったと私は思う。巨額な献金は税金の還流である。

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2010年1月25日 (月)

人生フル回転「知事との懇談会。朝三暮四。八ッ場ダムと胆沢ダム」

◇自民県議団と知事とで新年度予算に関して政策懇談会が行われた(22日午前)。予算案を審議する2月定例会は2月19日に開会。今回は私も本会議場で質問に立つ。

 新政権下で初の新年度予算である。国の予算と県の予算は密接に関わっている。例えば、国からの補助金を待つ事業もあるし、共同で行う事業もある。これらの中には、緊急を要する雇用や景気対策に関するものもある。だから国の予算が決まらないと県の予算も決まらない部分が出来てしまうし、景気・雇用対策も十分に進められない。

 一刻も早い国の予算の成立が望まれるが、国会の予算委員会では、「政治と金」をめぐる攻防が激しく行われており、予算はすんなり通りそうにない。この問題に関して現職の国会議員が逮捕され、更に小沢幹事長が地検特捜部の事情聴取を受けた。政界には場外乱闘の様相も。

 この日の懇談会で渡された資料には、「平成22年度の当初予算は、(政府の政策が決まらないので)今後、大きく変動することがあり得る」とのコメントが付けられている。異例なことだ。

 百年に一度といわれる不況の影響で県税収入は約400億円減る見込み。大澤知事は、この状況下で雇用と景気対策に力を入れると決意を示した。

 新年度の予算編成に関しては限られた財源をいかに有効に使うかが最大の課題となる。それは、これ迄の事業について、真に必要なものかどうかを検討すること、いわゆる「事業仕分け」にかかっている。事業仕分けは、民主党政権の専売特許ではないのだ。県議会の使命は、このようにして作られた予算案をチェックすることである。歴史の転換点に於いて県議会の真価が問われる。

◇「朝三暮四をしっていますか」予算委員会できかれた鳩山首相は、「朝出した命令を夜には改めること」と応えた。朝令暮改と勘違いしたようだ。これが麻生さんだったら、マスコミが大騒ぎしたことだろうと思った。

 自民党議員は、民主党の予算編成のごまかしを中国の故事を使って示そうとした。猿にとちの実を朝3こ夕方4こやると言ったら怒ったので、朝4こ夕方3ことしたら喜んだというもの。トータルは変わらないのに目先の小手先の技でその場を凌(しの)ごうとすることを示す。

◇「八ッ場」が膠着(こうちゃく)している。前原国交相と地元住民との初めての意見交換会が24日、長野原町で開かれた。前原さんは住民に迷惑と不安を抱かせたことをわびた。住民はダム建設と生活再建を同時に進めることを強く望んでいる。生活再建の方に流れが移ってしまうことを強く警戒しなければならない。

「八ッ場は中止で小沢幹事長の地元の胆沢ダムが継続なのはなぜか」という地元住民の質問は胸に刺さる。本体工事に入ったからという答えでは納得出来ない。胆沢ダムは、タッチの差でもぐり込み八ツ場ダムをあざ笑っているようだ。(読者に感謝)

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2010年1月24日 (日)

第二章 激動の時代 

 このような背景の下、日本の満州進出に対する抗日運動が激化するのは当然であった。抗日運動の矛先は、日本の支配下から中国の権利を回復すること、つまり、関東州と南満州鉄道を回収することに向けられていた。これらの事情から、関東軍の指導者たちは、日本の運命線を何としても確保する必要を感じて、武力による独走に出たのだった。

 この満州事変がやがて中国との全面戦争である日中戦争へと発展してゆき、日本は、後戻りできない泥沼に足を踏み入れ、ついには太平洋戦争に追い込まれ、破局に落ちて行った。ここに私たちは軍部の独走が一国の運命を狂わせた典型を見ることができる。そして、私たちは、これを歴史の教訓として受け止めなければならないのである。

 政府は、南陸相の声明にも見られるように、この武力衝突を拡大させない方針であったが軍部を抑えることはできなかった。関東軍は既成事実を着々とつくり、軍中央はそれを追認していったのである。

 1932年、昭和7年、関東軍の謀略により、日本の傀儡(かいらい)、満州国が建国される。この時、既に清王朝は滅びていたが、その最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)をかつぎ出し、彼を満州国の執政のつけ、これを関東軍が裏から支配する仕組みであった。(後に満州国は帝政となり、溥儀は皇帝となる)

 愛新覚羅溥儀の祖先は満州族であった。すなわち万里の長城を越えて中国を支配した最後の征服王朝清の祖先は満州族(女真族)であった。関東軍は、このような歴史的背景を利用し、満州の地に満州族の血を受け継ぎ、形の上で満州族の長たる溥儀を中心とする国家を建て、民族自決による国家という体裁をとろうとしたのだった。

 しかし、満州国の建国は国際世論の非難を浴び、国際連盟はリットン調査団を派遣した。リットンは、紛争の発端である柳条湖の鉄道爆破に際しての日本軍の軍事行動につき、「合法なる自衛の措置と認めることを得ず」とし、また満州国建国については、「自発的な独立運動によってできたと考えることはできない」とする報告書を国際連盟に提出した。この報告書は、1933年、昭和8年2月24日、国際連盟総会で42対1で採択され、外相松岡洋右は、日本代表団を率いて退場する。そして、この年3月27日、日本は国際連盟に対して正式に脱退を通告した。

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2010年1月23日 (土)

第二章 激動の時代 

 清は倒れたが、革命は挫折し、中国の実権は、外国の勢力及びこれと結んだ軍閥に握られ、これらは、革命で目醒めた人々の政治的自由や平等を抑えつけた。しかし、これに対する人々の抵抗は、ますます大きくなっていった。

 このような中、1914年第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパが戦場となり、列強は中国を省みることができなくなった。このすきに、日本は、山東省に兵を進め、ドイツが支配していた青島を占領、山東省のドイツの権益を日本に譲ることをはじめとする無理な要求を中国につきつける(21ヶ条の要求)。1919年のパリ講和会議は、第1次世界大戦の後始末をする会議であるが、これは、日本の要求の廃棄を求める中国の主張を無視して、日本の要求を認めた。この報が伝わると、北京の学生は一斉に立ち上がり、「青島を返せ」、「青島を回復できなければむしろ死を」などのプラカードを掲げて天安門広場に押し寄せた。1919年5月4日のことであった。(五四運動の始まり)

 これを機に、学生の反日デモは全国に広がり、北京政府は実力をもって学生運動を抑えようとして多くの学生を逮捕。北京大学の大講堂は臨時の留置場になり、逮捕された学生であふれた。

 この運動は、祖国の屈辱に涙をのんでいた学生たち青年知識層が中心となり、これに商人や労働者も参加して、反帝国主義(民族の独立)、反封建(民主化要求)を求める国民運動に発展していった。そして、この運動に参加した若者たちによって、やがて中国共産党がつくられ、それは、その後大きく発展して中華人民共和国の建設へとつながってゆく。五四運動は、まさに中国民主化運動の原点であった。

 一度目醒めた民衆の力を抑えこむことはできない。満州の武力支配を進めようとする関東軍は、このようにして目醒めた民衆のナショナリズム(民主主義)と真正面から対決しなければならなかった。しかし、軍部も、日本政府も、中国民衆のこのような大きな動きを理解しなかった。そこに、日本の運命を左右させた大きな誤算の原因があったといわねばならない。

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2010年1月22日 (金)

「ハイチ奇跡の命。首相の金銭感覚。指揮発動の悪夢」

◇ハイチ大地震の惨状は日を追って高まっている。そんな中で、人間の生命力の凄さを示す奇跡的な救出の事実が報じられている。全世界注視の中、多くの国の懸命の努力で救い出される命がある。それは命が如何に尊いものであるかを象徴している。

 いずれも19日の出来事で、地震発生後1週間ぶりにがれきの下から、救出されたのは、69歳の女性、10歳と8歳の姉弟、生後3週間の女児である。これらの人々が救出されたことは、地底には、この1週間の間に多くの存在者がいた事を示している。その後も生存者はいるに違いない。今日の科学技術をもってしてもどうすることも出来なかったのか。

 また、地震発生後9日目を迎えた20日、医療テントの中で新しい命、男の子が誕生した事が報じられた。

 このニュースに接して四川大地震の中の出来事を思い出した。08年5月15日の私のブログには、「成都で、12日夜、男の赤ちゃんが生まれ、地震の中で生れたという意味で震生ちゃんと名付けられた。この子が成人になる頃、中国はどうなっているだろうか」とある。

 ハイチ大地震では、いち早く駆けつけた中国の救助隊の活躍が報じられた。国際社会の仲間入りをした中国の初めての姿である。かつての冷戦時代には考えられなかった事だ。人道のために世界が主義や政治の壁を超えて一つになることは悲劇の中で見つける一つの救いである。

◇国会の論戦を観(み)た。自民党の谷垣総裁が鳩山首相に迫った。「お母様から受けた毎月1500万円の資金提供を本当に知らなかったのか」と。これに対して、首相は、「天地神明に誓って知らなかった」と答えた。

 巨額の金を長期にわたって母からもらって政治を動かしていた事も異常であるが、それを知らなかったという事は更に異常である。このようは人が、金に困って自殺に追い込まれる人や多くの失業者の窮状を理解できるとは思えない。テレビが茶の間に運んだ論戦はこの事を全国民に知らせることになった。

◇新鮮に見えた鳩山首相のイメージが急速にうすれていく。しっかりした政治哲学を持ち腹のすわった政治家ではなく、お金の力によって政治の舞台に踊り出た軽い人物に見えてしまうのだ。

◇論戦の中でもう一つの注目した事は指揮権発動に関してだ。谷垣総裁が、小沢幹事長の政治資金問題で、検察の捜査に対して指揮権を発動する考えはあるかと迫った。首相は、「考えていない」と否定したが、千葉法相は、明確には否定しなかった。

仮に小沢幹事長を逮捕することになった時、法務大臣は検事総長を指揮して逮捕にストップをかけることが、法律上出来る。戦後1度だけあった。造船疑惑に際しての佐藤栄作自由党幹事長逮捕に関してだ。しかし、今日、そんなことになれば国家として示しがつかなくなり、モラルは一層乱れ犯罪は一挙に増えるだろう。(読者に感謝)

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2010年1月21日 (木)

議員日記・人生フル回転 「奈良の2日目。頭を下げる鹿。図書情報館。阿倍仲麻呂」

◇薄明(はくめい)の奈良のまちを走った(20日)。朝6時45分ホテルサンルートを出る。猿沢の池の水面にはまだ夜の闇が残っていた。池に面した木立の斜面で数頭の鹿が草を食べている。

 石段を駆け上がると上は興福寺。国宝の五重の塔の側にも鹿がいて観光客らしき男が餌をやっている。立ち止まって会釈すると黒パンをわけてくれた。私は目の前の鹿を見て、オヤッ、へェーと驚いた。鹿は私の手のパンを見て頭を下げる仕草をしたのだ。

 バスガイドが鹿は餌をもらうとき感謝して頭を下げると話していた。春日大社のお使いとして昔から厚く保護されてきた鹿は人間との長い付き合いの中で餌をもらう条件を学習し、親から子へと受け継いでいるのだろう。平城遷都1300年祭を支える陰の主役はこの鹿たちだと思った。奈良公園では昨年170頭の子鹿が生れたという。

◇午前9時に奈良県議会に入る。中庭で鹿の群れが草を食べていた。ここでは、議会図書室の運営状況と議会広報に対する取り組みについて調査した。

 図書広報委員会の役割は、議会活動に関する議会の目と耳そして口である。的確に情報を集めて議会活動に資すると共に、県民に対して効果的に情報を伝えなければならない。この意味で図書広報委員会の役割は議会制民主主義の重要な一端を支えることだといえる。奈良県議会の取り組みは大変参考になった。

 調査終了後、私たちは議会屋上に案内された。実は、次の目的地・図書情報館でも同じことが行われた。屋上には彼らが誇る何かがあったのだ。次の項で述べる。

◇10時過ぎ奈良県立図書情報館を視察。2日間の調査を振り返って、ここの調査が一番の成果をもたらしたと私には思えた。

 副館長の尾登さんは、21世紀の図書館のトップランナーとしてやっていきたいと決意を語ったが、それは、この図書館についての自信と自負を示すものであった。

 比較して、群馬の図書館が貧弱に思えた。21世紀の県立図書館は県民の知の拠点である。その如何(いかん)は、県民の民度を左右し、県民の発展に大きく関わる。群馬の県政は県立図書館の役割に対する理解が不十分と思われるのだ。

◇調査の後、屋上に案内された。温かい陽光の中に奈良の都が広がる。目の前に、若草山、三笠山、春日山などがなだらかな稜線を重ねる。案内の人は山々の歴史的な説明をしてくれた。

唐へ渡った留学僧・阿倍仲麻呂は帰国できず望郷の歌を詠んだ。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」山々と身近かに対面すると仲麻呂の思いが伝わる。若草山の山焼きは今月23日。これらの山への眺望を守るため建物には高さの規制がある。近くに見えるイトーヨーカ堂の下には長屋主の屋敷跡がある。遥か彼方には朱雀門がある。遷都1300年を迎える歴史のまちが静かに広がっていた。(読者に感謝)

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2010年1月20日 (水)

人生フル回転「県外視察で奈良へ。万葉集の拠点。朱雀門」

◇図書広報委員会の視察は、2日間の日程で目的地は奈良。途中の新幹線ではっとしたのは関ヶ原の当たりで、突然幻想的な銀世界に突入したことだ。しばらく雪の中を走ると、また、のどかな田園地帯に入った。バスに乗り継いで第一の目的地・県立万葉文化館に向かう。歴史のまち奈良では平城遷都1300年祭を迎えようとしていた。

 万葉文化館は、その名の通り万葉集に関する文化拠点である。委員会としては、公文書の保存、展示、情報の発信などにつき先進県の工夫と課題を学んだ。私は、図書広報委員長である。

 私は、万葉集の歌及び万葉時代の古代人の生活習慣に関心を抱いていた。万葉集は、約4500首からなる我が国最古の歌集である。

 平山郁夫等現代日本画壇を代表する画家が万葉の歌人たちを描いたコーナーには、額田王、柿本人麻呂、山上憶良、大伴家持ら万葉集の代表的な歌人の姿が数多く並んでいた。一つ一つは絵としても十分楽しいものであるが、それらに囲まれて立つと、奈良時代にタイムスリップしたようで創造力がかきたてられる。蓮の花咲く池を背にして立つ赤い服装をした女性は美しく品があった。当時の宮廷が忍ばれる。

 当時の市(いち)を再現した歌の広場には6人の等身大の男女の人形が輪になって歌を詠む場面があった。花の小枝を手にして口ずさむ女性を中心に笛を吹く男、鼓を打つ女などが作られている。恋の歌を交わす場面で集団見合いの様を現している。案内の学芸員は、「当時の人は歌が詠めないと結婚できなかったのです」と言って笑った。現代社会に復現したら面白い。

 万葉文化館が立つ明日香村は、どこでも掘れば重要な歴史の遺物が出る。日本最古の銅銭が発見され、その鋳造の場面も再現されていた。これまでの教科書は、最古の銅銭として708年の「和同開珎」を教えていた。この地で発見された富本銭(ふほんせん)はそれよりも古い600年代後半のものだという。「これにより歴史が書きかえられることになりました」と学芸員の女性は語った。

 昔学生時代、歴史学者E・Hカーの書に、「歴史は過去と現代の対話だ」と書かれていたのを思い出した。土の下から現れた富本銭は自分たちが最古の銅銭だと現代の私たちに語りかけたのである。

 関東の万葉歌を紹介するコーナーに伊香保を詠んだものがあり驚いた。「伊香保嶺に、雷(かみ)な鳴りそね、わが上(へ)には、故はなけれど児らによりてぞ」雷な鳴(な)りそね、とは雷よ鳴くなという意味。奈良の古代から群馬の雷は名高かったのであろう。

◇夕日が奈良盆地を囲む山の端にかかる頃、遷都1300年祭を記念する大事業の現場を見た。高さ20mの雄大な朱雀門が完成していた。平城京の正門で、朱雀とは南を守る中国の伝説上の鳥である。古代日本の権力の象徴は何を語りかけるのか。今朝は奈良県議会に向う。(読者に感謝)

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2010年1月19日 (火)

人生フル回転「大震災の追悼式。NPO元年。NHKシネマまえばしを」

◇阪神大震災の追悼式は例年より緊迫感をもって行われたのではないか。15年前の1月17日、6434人の死者が出た。忘れかけていた人も12日のハイチ大地震の惨劇が進行中に迎えた追悼式だから15年前の大事件を「八イチ」に重ねて甦らせた人も多いに違いない。

 兵庫県で行われた追悼式には皇太子ご夫妻や鳩山首相も出席。皇太子さまは、式典でハイチ大地震の犠牲者に哀悼の意を表し、鳩山首相は、市民、ボランティア、NPOなどの連携が新しい公共の形をつくると述べた。

 鳩山首相は、阪神大震災の年がNPO元年といわれることを年頭において発言したものと思われる。1995年(平成7年)の市民の動きは、世の中に新しい潮流を作り出した。今では、ネコも杓子もNPOを口にするがNPOの起源とも言うべき動きがこの大震災の中で生じた。今改めて、平成7年を振り返りたい。

◇1995年(平成7年)という年は世紀末の混乱の日本を象徴するような年だった。1月17日に阪神大震災が発生し、2ヵ月後の3月20日にはオウムの地下鉄サリン事件が起きた。これらの出来事は、日本の安全神話を根底から突き崩すと共に経済大国日本が抱える深刻な問題を浮き彫りにした。

 高速道路がいとも簡単に押し倒された光景は近代都市がいかに脆(もろ)いか、そして人間の命も常に危険に晒されている事を物語っていた。そして、オウムの事件は多くの若者が抱える心の病巣を暗示していた。

 ところが、この年が日本の社会に新しい希望の灯をともすきっかけになったのだ。それは、神が与えた警告に人々が応えたかのように見えた。この年、全国から延べにして、約140万人の若者を中心にした人々が手弁当で救援に駆けつけた。

 この姿は世間を驚かせ、かつ政府を動かした。早速閣議で、1月17日を「防災とボランティアの日」とすることが定められた。そしてこの動きは更に大きく発展する。1997年(平成9年)、日本の提案で国連総会は「01年を国際ボランティア年」とすることを議決。翌年国会はNPO法案を可決させた。1995年がボランティア元年といわれるのは、それがこのような動きの出発点になったからである。

 NPO法は、市民のボランティア組織が容易に法人格を取得することを可能にする。この法に基づいて、現在実に多くのボランティア団体がNPOとして活動している。私も「NPO群馬情報バンク」の代表をつとめる。市民の力を社会貢献につなげる大きな潮流が生れたのだ。

◇昨日(18日)、午後6時台のNHKテレビ・首都圏ネットが「シネマまえばし」を大きく取り上げた。代表の小見君とその妻(私の長女ゆり)の姿も映された。名画によるまちの文化の復興をNHKが注目したものと思われる。18時2分、ゆりからメールが来た。「アームさんご来場でーす」。友人の通称アームさんはすっかり名画座のファンになった。

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2010年1月18日 (月)

人生フル回転「小沢秘書逮捕の衝撃、小沢氏の逮捕は?ハイチ救援は遅過ぎる」

◇いま、どこへ行っても小沢幹事長の元秘書3人の逮捕で持ち切りだ。特にその1人である石川知裕氏が現職の衆議院議員であることは衝撃的に受取られている。中には、ロッキード事件の田中角栄と同じように小沢逮捕までいくのではないかと言う人もいる。中央政界のこの大事件は、大地震の衝撃波のように地方社会をも揺さぶっている。

 国会議員の逮捕は、直接には、政治資金規制法の虚偽記載容疑であるが、その背後には、ダム建設に絡む不正献金疑惑の闇が広がる。巨大公共工事に絡む巨大な献金は実質的には国民の税金といえる。自民党の悪弊を突き、クリーンを揚げて政権を獲得した民主党の本質が問われる事件である。司法の追求の行方と今日から始まる国会の政防を注視したい。

◇現職の国会議員が犯罪容疑で逮捕されることは、一般常識から見て異常な事である。

 元総理田中角栄の逮捕は1976年7月のことであるがあの衝撃は今でも記憶の中に生々しい。それ以降も、94年元建設相中村喜四郎の逮捕、95年元労働相山口敏夫の逮捕と大物国会議員の逮捕があり、比較的新しいところでは02年の鈴木宗男(自民)の逮捕、05年の西村真悟(民主)の逮捕があった。

 今回の小沢一郎の元秘書・石川知裕氏の逮捕は15日の夜の事で国会会期開始(18日)の直前だった。これに対し、前記の中村、山口、鈴木の逮捕は国会開期中であったため特別の手続きを要した。

 国会開会中の議員は不逮捕特権を有し、逮捕には、その院の許諾がなければならない。石川容疑者の逮捕は、検察が面倒な許諾請求手続きを回避する目的があったといわれる。いずれにせよ、石川氏は、これまでの任意捜査とは全く異なる強制捜査によって厳しく追及されることになる。  小沢幹事長の元秘書3人(石川、池田、大久保の各容疑者)の逮捕・強制捜査によってどのような事実が明らかにされ、検察は本丸の小沢幹事長をどこまで追いつめられるのか国民は固唾(かたず)を呑んで見守っている。時の政権の最高実力者であっても容赦しない検察の姿勢は日本の民主主義の救いであると思う。

◇ハイチ大地震は「12日」に起きた。国連の機関は、13日に27の国際救援チームが現地入りする事を明らかにした。地震発生から「5日」目を迎える。日本政府の国際緊急援助隊・医療チームは、「16日夜」成田空港を出発した。なぜこのように行動が遅いのか理解に苦しむ。既に、生存の限界は過ぎつつある。瓦礫の下の生き地獄の中から1人でも多く救うことが我が国の最大の責務である。平和憲法、人権尊重、世界への貢献を掲げる日本として恥ずかしいと思う。政治主導とは、このような時に決断を下すことだ。首相の決断により最大限の速さで行動すれば、救える命があったのではないか。救援活動の役割はいろいろあるが、人命を救うことが第一である。サムライ日本の名が泣く。(読者に感謝)

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2010年1月17日 (日)

第二章 激動の時代

 これに対する返電が来て、12月1日議会で報告された。

「今次関東軍の行動に対し、各位より多大の御後援と御同情とを辱しうし、衷心感激に堪えず、又御懇篤なる御慰問並に御激励に接し感謝す。目下全軍は士気極めて旺盛にして益々奮励努力、任務に向かって邁進し、奉公の至誠を完うせんことを期せり。ここに謹んで謝意を表す」昭和6年11月16日

              関東軍司令官 本庄 繁

  群馬県議会議長 金沢富三郎 殿

117   今日の私たちの目から見れば白々しいという感じがする。

 関東軍はなぜ独走したか、関東軍の目的は何であったか。一口で言えば、内外の行き詰った状況を打開するためには満州を武力で支配する他ないという考えであった。確かに、日本国内には失業者があふれ、農村の疲弊はひどく、満州開拓によせる期待はますます高まっていた。また、将来、英米との対決を予想する立場からすれば、資源のない日本にとって、資源豊富な満州はまさに日本の生命線と思えたであろう。そして、この生命線を脅かす中国国民の抗日運動が日に日に激しさを増していたことも、関東軍の危機感をあおった。

 中国は長いこと列強の殖民支配の対象となってきたが、孫文の辛亥革命や五四運動によって目醒めた民衆のナショナリズムの炎は、日を追って激しくなっていた。

 ここで、中国のナショナリズム(民族主義)・五四運動について簡単に触れなければならない。なぜなら、この動きは、その後の日本の運命に重要な関わりを持つからである。

 日清戦争で清が日本に敗れて以来、列強の中国侵出は一段と激しくなった。そして、清朝末期、清の政府は、これら列強対して屈従的で、しかも、国民の生活は大変苦しくみじめであった。外国の言いなりになりながら漢民族を支配し抑圧する清に対して、漢民族の反感が次第に高まっていた。このような動きは、清を滅ぼして、民族の独立・自由と平等を獲ち取ろうと訴える孫文に指導され、ついに清を倒した。これを辛亥革命という。

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2010年1月16日 (土)

第二章 激動の時代

当時のマスコミの報道ぶりを見ると、昭和6年9月19日の東京の日日新聞は、

「奉天軍の襲撃から日支両軍遂に交戦」という大きな見出しをつけ

「18日午後10時半北大営の西北において暴戻なる支那兵が満鉄線を爆破しわが守備兵を襲撃したのでわが守備隊は時を移さずこれに応戦し大砲をもって北大営の支那兵を襲撃し、北大営の一部を占領した」と報じている。

また、9月20日の上毛新聞は、

「死傷数百名を遺棄、支那将卒悉く(しょうこそことごとく)、潰走す」という大きな見出しの下に「占領後北大営を目撃したものの談によれば、北大営では、我軍の百発百中に無残敗北せる支那兵の死傷者数百名、残部の将卒は悉く潰走した」と報じている。

また、同じく、同日の上毛新聞は、南陸相談として、

「今回の日支衝突事件は今後是れ以上拡大するおそれはない模様。この問題は満鉄破壊という暴挙から起ったことであるから、これに伴う不安さえ一掃されれば陸軍としては外交交渉の正否にかかわらずすみやかに軍の引き上げを行うべきであるというに決した」と報じている。

 また、昭和6年11月の通常群馬県議会では、この事件に関し、満州の軍隊に慰問と感謝の電報を送ることを決議した。

「在満皇軍の御辛苦に対し深甚の謝意を表すると共に酷寒のみぎり御健闘あらんことを祈る」

 昭和6年11月16日

    群馬県会議長 金沢 富三郎

 奉天東洋拓殖株式会社内

  関東軍司令官陸軍中将 本庄 繁 殿

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2010年1月15日 (金)

人生フル回転「ハイチ巨大地震、日本は。ハイチとはどんな国」

◇また衝撃的な大地震が発生した。12日、黒人の国ハイチで起きた地震の惨状は目を疑う程だ。泣き叫ぶ人々、横たわる死体、瓦礫の山は巨大地震の威力を見せつけている。次は日本かと思ってしまう。

 世界各地で大地震が頻発している。スマトラ沖地震(04年)、パキスタン地震(05年)、四川大地震(08年)と続き、昨年9月と10月には南太平洋で巨大地震が立て続けに起き、今年に入って、今月4日には、やはり、南太平洋のソロモン諸島でM7.2の大地震が発生した。そして、今回のハイチである。

 ハイチの大地震は直ちに阪神淡路大地震を想起させる。あの忌まわしい日が明後日に迫っているからだ。15年前のあの歴史的瞬間は、1月17日午前5時46分、死者・行方不明者は6436人に達した。私たちは忘却の達人であるがこの阪神淡路地震や04年に隣県で起きた中越地震は忘れ難い。

近いといわれて久しいのは東海地震、東南海・南海地震、首都直下地震などだ。上京して、林立する高層ビル群と大変な人の波を見る度に私は、関東大震災を想像する。それは、1923年9月1日の出来事で死者行方不明は約14万名であった。あれから約86年が経つ。次の首都直下地震はいつ来てもおかしくないといわれる。遠く離れた地の巨大地震が、日本列島の岩盤に刺激を与えることはないのか素朴な疑問を抱くのだ。

◇ハイチは黒人と混血の人々が大部分を占める国である。テレビに映る人々の肌は皆黒い。西インド諸島の、コロンブスに発見されたヒスパニオラ島西部の国。世界で最も貧しい国の一つといわれる。

 私は、「ふるさと塾」で、コロンブスと奴隷制の話をした時この国の歴史を取り上げた。注目すべきことは、奴隷が白人の支配を倒し世界で始めて黒人の独立国をつくったことである。コロンブスがこの島を発見した後スペインの過酷な支配の下で原住民は、ほぼ絶滅させられた。そして、アフリカの黒人が奴隷として運ばれこの島は砂糖栽培で栄えたが、白人の奴隷支配は残虐非道だった。その後フランスの植民地となり、1789年、本国フランスでフランス大革命が起き人権宣言が出される。人は皆生まれながら平等であるという革命思想は直ちに植民地の人々の心に火をつけた。武器をもって立ち上がり命を捨てて戦う黒人たちを、ナポレオンも打ち破ることが出来なかった。かくして生まれた黒人の独立国がハイチなのである。

 最貧国の一つといわれる国を巨大地震は無慈悲にも壊滅させた。かつて、人間を動物のように扱い白人が搾取した島に世界の救済の手が伸びている。救援隊の中には中国の人の姿も見られる。四川大地震で世界から助けられた事への恩返しという意味もあるのか。

 人類の進歩と人類は一つという事を強く感じる。科学の力で1人でも多くの人命を救わねばならない。同時に、私たちは、この惨事を他山の石として、来るべき地震に備えなければならない。(読者に感謝)

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2010年1月14日 (木)

議員日記・人生フル回転「外国人選挙権の行方。県政懇談会。JC新年会で思う。」

◇永住外国人の参政権が注目を集めている。地方選挙権が問題となっているので県議会でもいずれ議論されるだろう。民主党が賛成だから反対するというのではなく、きちんと議論を深めなければならない。近県の動きとしては、埼玉県、茨城県などの県議会が反対の意見書を可決した。昨年12月の埼玉県議会では、外国人の意思も政治に反映すべきだという意見に対し、「あなたは日本の心を失ったのか」と言う反論もあったという。永住外国人の中でも特に在日韓国人の選挙権が注目されている。民主党政権は、18日召集の国会に外国人選挙法案を提出するらしい。

2月17日前橋で、「朝・日友好親善新春の集い」が予定され私のところにも招待状が来ている。ここでも何らかの動きがあるに違いない。戦前、朝鮮人として差別された人々には、日本の参政権について特別の思いがあるかも知れない。参政権は生活を守り地位向上の有力な手段であるからだ。

◇農業関係県政懇談会に出た。(13日)。県農政部が22年度の農業の重点事項を説明し、出席した農業経営士たちが、その抱える問題点につき発言、それを受けて県会議員が意見を述べるという流れであった。

 私は、銀座に開設した「ぐんまちゃんち」及び、農業への新規参入者に関する発言に対応した。ここでは、前者について説明する。ある経営士は、「ぐんまちゃんち」が十分活かされていないと発言した。これは正式には「ぐんま総合情報センター」のことで、ぐんまを売り出す戦略拠点であり、ぐんまの農産物をPRすることにも重点が置かれている。平成20年度の設置運営予算は約1億7千万円である。

私は、このセンターと都内各地の農産物販売店、例えば各地の催しやデパートなどとネットを作って群馬の農産物をPRし売り出す努力をすべきで、そのためには、センターの職員には、民間の商人のような感覚と行動力を備えた人を当てるべきだと主張した。◇青年会議所(JC)の新年会で見た青年経営者たちの姿に確かな手ごたえを感じた(13日)。理事長は、昨年来の政治の変化を革命と呼んだ。革命の時代を生きる経営者の決意を伝えたかったのだろう。この若者は10年前自分に宛てて書いたという手紙を胸のポケットから取り出して読んだ。面白いと思って私は耳を傾けた。堂々と抱負を語る理事長の様子は、自分に対する約束を果たした10年後の姿であった。また、直前理事長というポストの経営者は、経営理念として「利他」を語った。企業は社会に貢献しつつ存在すべきだというもの。飾らぬ風貌はその言葉が口先ものでないことを示していた。

彼らの姿は青年会議所(JC)活動の中で互いに切磋琢磨した成果を現わしていると見えた。正しい理念を掲げた伝統の組織が人を育てるのだ。前橋JCは創設60年になる。それは、戦後の時の流れとほぼ軌を一にする。一方で、企業をマネーゲームと考える論理観なき若者の流れがある。しかし、それらはあだ花であって、時代の激流に耐えることは出来ない。百年に一度の不況はそれを示したかに見える。(読者に感謝)

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2010年1月13日 (水)

人生フル回転「警察の初点検で高木市長と同席。緑化組合と農事の新年会のこと」

◇東警察署の初点検に出る(12日)。新年恒例の行事は、重く垂れ込めた鉛色の雲の下で行われた。この冬一番の寒さである。私たちにはホカロンが渡された。初点検は、年頭に当たり、警察官の日頃の訓練の成果を確かめ志気の向上を図ることを目的にする。手帳、手錠、捕縄、警棒、挙銃、笛などの七つ道具を号令と共に手際よく取り出して号令と共に納める。4列の隊列が出来、端から順に「イチ、二、サン」と声をあげていく。各列の最後から凛(りん)としたきれいな声が響く。少数ながら女性警官の存在は民主警察の象徴のように見える。また、女性の犯罪者や被害者が多いことからすれば、女性警官の役割は増えているのだろう。

◇屋内では、演武、逮捕の実演などがあり、犯人役は悪人らしさを演出していて面白かった。

 屋内の主要な行事は、警察協力者の表彰と署長や来賓等の挨拶である。署長は挨拶の中で、振り込め詐欺の実態や交通事故死激増に触れ、県内の交通死者は9人となり全国最多となったと話していた。

 来賓として挨拶したのは高木市長と私。このところ、市長とはよく一緒になる。先日(10日)の群馬県緑化協同組合でも2人が来賓として並ぶことになった。高木疑惑追求の先頭に立って来た私もいまは一時、矛(ほこ)を納める形になっている。

 文教警察常任委員でもある中村県議と紹介された私は次のようなことを話した。「複雑で困難な社会状況を背景にして新たな犯罪が次々に起きます。これらを抑えて良好な治安を実現することは全ての市民活動の大前提であります。それは、警察の力だけでは不可能で、民間の協力が不可欠です。その意味で本日表彰された方々に心から敬意を表します」また、話の中で、具体的な犯罪として、動機なき無差別殺人、ビジネス感覚で組織的に行われる振り込め詐欺などに触れ「安全・安心な地域社会をつくるため私たちは力を合わせこれらの犯罪と戦わねばなりません。本日はその決意を固める機会に致したいと思います」

連日、新年会のオンパレードである。それぞれの所でなるべく県政と関連づけた話をしようと勤めている。群馬県緑化共同組合の新年会では高木市長の次に立って、今年10月、本県で行われる全国育樹祭を取りあげた。木を植えるのが植樹、植えた木を育てるのが育樹で、森の活性化はCO2の削減に通じる大事な事業、皆さんの組合にもお世話になりますと話した。

 地域の農事組合の新年会(10日)では、中国山東省の農業地帯を新幹線で走ったことを振り返った。地平線の彼方までビニールハウスが海のように広がっているのを見て量と価格では中国の農業にかなわないが、安全安心な農産物は国内で自給しなければならないと思ったこと、そして県は農業を最も重要な産業の一つと考えていることなどを話した。

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2010年1月12日 (火)

人生フル回転「交通事故死の悲劇・8歳児の死・成人式の光景」

◇地元勝沢町の8歳の男児の告別式に出た(9日)。父親は挨拶で語った。「子宝に恵まれず、やっと未熟児で授かった子で、私たち夫婦の宝でした。私たちの人生だったのです」と。

 祭壇上部のスクリーンに元気な男児の姿が次々と映される度に母親の声を殺して泣く声が伝わり会場からもらい泣きの声が起きた。この男児は、最近信号機が付いたばかりの市道交差点の交通事故で亡くなった。若い命をも奪われた肉親の姿は見るに耐え難い。

 今年は、新年早々県内で悲惨な交通事故が続く。つい先日(6日)も、碓氷峠の国道で親子3人が亡くなったばかりである。本県の交通事故死は、7日現在、早くも7人に達し全国最多である。警察庁が4日まとめた年末年始の全国交通事故発生状況では、死者は1970年以降2番目に少なかったといわれるのに。

 本県の本年スタート時の交通事故の悲惨な状況は単なる偶然か、すれとも不吉な前兆か。いずれにしても最大限真剣に受け止めて今年の交通事故死の減少に最善を尽くさねばならぬ。昨年は、全国の交通事故死が9年連続で減少し57年ぶりに5千人を割った。この流れを変えてはならない。地方の交通政策の真価が問われる。特に、事故死最多でスタートした本県交通対策が注目される。私も文教警察の常任委員の一人として頑張りたい。

◇グリーンドームに於ける成人式に初めて出た(10日)。市民文化会館で行われた時は、会場に入らないで同窓会をやっているような光景もあったが、ドームの会場ではそのような風もなく比較的平穏だった。

 更に大きな変化は、来賓の挨拶を止め紹介も、まとめて、国会議員の皆様、県会議員の皆様という風に極めて簡単で、セレモニーは約30分で終わったことだ。華やかな振袖姿が目立ち荒海に乗り出す若者の気慨などは会場の雰囲気からは感じられない。世相なのだろう。数年前の赤ちゃんを抱いて出席した女性の姿が思い出された。どうしているのだろうか。

 ある調査機関によると、男子新成人の53・9%が、自分は恋愛に積極的でない草食男子と思うと答えたという。私の20歳を振り返るとギラギラした肉食男子であった。正に隔世の感がある。ドームの外で吹き荒れる社会の風と対比すると若者たちの姿の哀れだった。

◇いくつかのどんど焼きにでた(11日)。バチバチと竹が割れ赤い炎がメラメラと立ち昇る。火は瞬時に大きくなり回りの人々の頬を熱く照らして崩れ落ちる。無病息災を願う伝統の行事が各地で細々と続く。

昔は大規模な道祖神小屋が競って作られ、対抗心から火をつけられ中の若者が焼け死ぬようなこともあった。火は人間の心に対して不思議な力を持つ。原始から受け継ぐ火に対する恐れの本能を煽るのか。猛火の中で命を落とす火事が続いている。火をコントロールする事は人類の永遠の課題なのだ。(読者に感謝)

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2010年1月11日 (月)

第二章 激動の時代  ③日本の外交政策 ―英・米と対決する路線へー

世界大恐慌の打撃は、いずれの国でも深刻であった。英米など列強は、仲間同士で助け合って行こうという経済政策(ブロック経済)をとり、こういう国と自由に貿易ができない日本は一層苦しい立場に立たされた。そして、国内の不況が一層深刻化する中で、“満州こそ日本の生命線”と思い込んで、中国大陸で軍隊が独走する事態が進行した。これは、国際世論の非難を浴び、英米との対立を益々深めていった。このような状況に拍車をかけるできごとが一連のテロやクーデターであった。

今日から見ると、当時の日本は、大不況を中心とする異常な事態の中で冷静さを失い、ヒステリーに陥っていたように見える。そのような中で、日新、日露の戦勝以来の軍事大国の歩みが一部指導者に過信をもたせ、誤った選択をさせるようになったとも言えよう。

では、この期間、日本は、軍部や右翼が力を増す中で、どのような歩みを進めていたのか。

④軍部の独走、満州国の建国

―中国での侵略行為に県議会は激励の電報をー

1931年、昭和6年9月18日、中国遼寧省奉天近くの柳条湖(りゅうじょうこ)という所で、南満州鉄道の線路が爆破されるという事件が起きた。中国軍が不法にもこの爆破を行ったとして、関東軍は直ちに中国軍に攻撃を開始、これが発端となって満州事変が始まった。

今日では、この事件は、関東軍の謀略によって計画的に引き起こされたということが歴史的事実となっているが、関東軍は、中国軍が不法にも鉄路を爆破し、日本軍を攻撃してきたので自衛のため応戦したと発表した。このでたらめな発表をほとんどの国民は信じた。一般国民だけでなく、時の政府もこれを信じた。そして、このようにして作られた既成事実を追認する形で、軍も政府も抜き差しならぬ混乱の中にはまり込んでいった。

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2010年1月10日 (日)

第二章 激動の時代  ③日本の外交政策 ―英・米と対決する路線へー

戦前の日本の外交官の中には、「英米と協調する時は日本は勝つ、英米と対立すれば日本は敗れる」という考えをもっていた人々がいた。ここでいう協調外交とは、英米との協調を基本とするものであり、これと対立する立場は、英米との対決も辞さないとするものである。

協調外交を主張するのは外務省主流や財界そして民政党であり、他の立場を主張するのは、軍部や右翼、そして政友会である。だから、選挙で民主党が惨敗し、政友会が圧勝したということは、英米との対決も辞さないとする立場の勝利であり、軍部や右翼が勢いを得てゆくことを意味した。

では、どちらの外交政策が生き抜く為に妥当なものであったのか。当時、日本は世界の大国として自負していた。日清、日露の戦争に勝ち、第一次世界大戦では英米側について戦勝国に仲間入りし、朝鮮、満州、台湾その他広くアジアに支配地域を得、国際連盟では、世界の五大国の一つとして常任理事国となっていた。また、軍事面では、英米に次ぐ海軍力を持ち、日本は東アジアに君臨する世界有数の軍事大国であった。

しかし、経済面では、日本は、英米に比べて極端に資源の少ない国であった。第一次世界大戦後の近代戦は膨大な物質の消耗を伴う総力戦であり、特に、鉄、石炭、石油は重要であった。ところが、日本はこれらの大部分を英米に頼らねばならぬ省資源国であった。しかも、英米から鉄や石炭を買うための外貨の主要部分を、農家で生産する生糸をアメリカに買ってもらうことによって得ていたのである。

このような状況を見れば、世界の大国といっても、競争相手の英米に急所を握られている、誠に基礎の弱い国であったといえる。だからこそ、それまでの日本外交の主流は、英米との協調を第一にしてきたのだった。

ところが、1929年(昭和4年)に始まる世界大恐慌を機に、協調外交を維持するのが困難な状況が進行した。

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2010年1月 9日 (土)

第二章 激動の時代― 昭和初期の不況から ―

 この人物につては、最近の中央公論(平成7年6月号)が「戦後50年の生き証人」として田原総一朗とのインタビューを掲載している。彼の語るところからは、87才とは思えぬ論理の明快さ、迫力、そして衰えぬ情熱を感じるのである。このような人物が非合法テロ活動に加わっていったところに、当時の日本の深刻な状況と民主主義が機能しなかった社会の程度がうかがえると思うのである。

 ところで、血盟団によって殺された前蔵相井上準之助は、既に開始された衆議院選挙における民政党の選挙委員長であり、次期総裁の最有力候補であったからその死は民政党にとって大きな痛手であった。選挙の結果は、予想されたとおり政友会の圧勝、民政党の惨敗であった。そして、このことは、日本の運命を大きく左右する外交政策の転換を意味した。すなわち、これまで民政党の下で守られてきた協調外交の敗退である。では、この協調外交及びこれに対立する外交政策とは何か。

③日本の外交政策

―英・米と対決する路線へー

第二章③・④の粗筋

当時の日本は、世界の五大国の一つに数えられた。しかし、鉄や、石炭や石油などはほとんど英・米に依存していた。それなのに、日本は英、米と対決する外交政策をとってゆく。その重要なる原因は、不況の行き詰まりを打開するために満州に強引に進出したことにあった。関東軍の独走、満州国建国は国際世論の非難の的となり、日本は国連を脱退する。時の外相は松岡洋右(ようすけ)。県議会は、関東軍や松岡に激励の電報を打った。

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2010年1月 8日 (金)

人生フル回転「商工会新年会の光景・曲阜の客。最悪の事故死」

◇前橋商工会議所の新年会の様子が変わった。毎年、乾杯迄に一時間以上かかる。来賓が一人一人挨拶するからだ。良い話もあるが、詰らないものもある。うんざりする人も多かったに違いない今年の新年会は、来賓は知事と前橋市長の2人だけ。乾杯迄の時間は30分位短縮されたが、私は物足らなさを感じた。民主党の新人国会議員がどんな挨拶をするか興味を抱いていたからだ。日銀支店長の話も聞きたかった。主催者とすれば、全てを挨拶させる分けにはいかず、セレクトするのも難しいのだろう。

 商工会議所の会頭は主催者の挨拶の中で、新日鉄会長の三村明氏からもらった年賀状に触れた。それは、困難に直面した時は、楽観論に立つことが重要というものらしい。なるほどと思った。十分な備えをした上での楽観論に違いない。曾我会頭は、三村明さんと前高の同期生なのである。

 大澤知事は、新政権の八ッ場ダム対策を批判し、国と地方が協同して進めてきた事業を一方的に中止するというのは承知し難いと強く訴えていた。

 乾杯に立った群銀頭取は、今年の経済に触れて、新興国の存在感が増す年になるだろうと語った。

◇曲阜師範大学の日本人教師・岡興三氏とこのところメールのやりとりをしている。今月27日に県庁に来られることになった。岡氏は、昨年11月、日中議連で、山東省の孔子生誕の地曲阜市を訪ね、曲阜師範大学で私が講演をしたときにお会いした。私が大連の大学へ日本の書物を送る運動をしていること、そして、曲阜師範大学にも送ることは可能だと話したら是非にということになった。春節を利用して日本に帰国した折りに、群馬県庁を訪ねるのは、「本」の件を詰めるためである。同時に、同大学との一層の交流について話し合うつもりだ。

◇県警本部から私の携帯に交通事故死を伝えるメールが入った。「6日、3人が死亡し、今年の死者は6人になった。昨年同期より5人多く全国一の死者数となった。運転者は交通ルールを守り速度を控えて運転に集中するなど交通事故防止に努めて下さい」というもの。

 すさまじい衝突事故だったらしい。安中市の国道18号碓氷バイパスの県境近く、群馬から長野方面に向う乗用車は大型トラックと正面衝突し、乗用車の家族3人は死亡しトラックの男性は軽傷を負った。乗用車は原形をとどめないほど大破。死者は30代の夫婦と中学生の息子である。父親の運転する乗用車がセンターラインを越えて対向車線にはみ出したらしい。

 双方がスピードで走行し正面からぶつかり合う時の衝撃力に対して人間の肉体などはひとたまりもない。正月早々、悪夢の如き一瞬の出来事だった。群馬県警は、交通事故死の減少を目指して努力し昨年は、死者百人という結果を残した。今回の事故は、本県交通政策に対するカウンターパンチでもある。教訓として活かしたい。(読者に感謝)

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2010年1月 7日 (木)

議員日記・人生フル回転「がん死、自殺、交通事故死、性的事件の裁判員裁判」

◇人の命は地球よりも重いといわれる。人を殺せば最高刑は死刑である。人の命、その喪失も社会現象としてみるときは、大量の死が数字的に扱われ、私たちは、ここに感情移入を行わない。へえーと通り一辺に軽く驚くだけである。問題の改善策を考える時、そこに一つの問題があると思う。

 数字的に扱われる深刻な例は、自殺、がんによる死亡、交通事故死などだ。それぞれの数を示すと次のようになる。自殺(平成20年度)・32,249人(本県数568人)、がん(平成20年度)・342,963人(本県数5,420人)、交通事故(昨年一年間)・4,914人(本県数100人)。

 この中で注目すべきは交通事故の死者が57年ぶりに4千人台になったことだ。ピーク時は1万3千人以上あった。これには、飲酒運転の厳罰化やシートベルトの義務化が功を奏したといわれる。この事は、政策を工夫することによってこの種の難関も解決が可能であることを示している。つまり、今日の日本の社会で最大の課題というべき、がんによる死亡及び自殺者の数も大幅に減らすことが可能な筈である。それには、社会全体が、これらの死者数を単に数字として捉えるのでなく、一人一人の人間の死として深刻に受け止める必要がある。そして、特に、地方の人たちが自分たちの問題として真剣に取り組まねばならない。私たちは、県政の最大の課題としてがん死と自殺について、減少の目標値を定めて総合的な対策を進めるべきである。私は、これを今年の大切な政策目標にしたい。

◇昨年の重大な社会的出来事の一つに裁判員裁判の開始がある。重大な刑事事件の裁判に一般市民が参加する。日本の民主主義が問われる出来事である。人々は、初め、裁判員になることを恐れ、世論もこの制度がうまくいくのか危ぶんだが、今のところ順調に進んでいるようだ。この制度が困難に向き合うのは死刑が問われる裁判及び性的事件の裁判である。裁判員は、死刑判決に関わることに大きな負担を感じるだろう。性的事件では、被害者のプライバシー保護と公平な裁判の実現が大きな課題である。

 性的事件の裁判が本県で近づいた。強姦致傷事件の公判が今月20日、前橋地裁で開かれる。地裁は被害女性のプライバシー保護と公平な裁判を実現するため細心の準備を進める。被害女性が出廷して意見陳述するからだ。裁判員に知人が選ばれないように事前に候補者の名簿を見せるとか、被告や傍聴人と顔を合わせないように女性との間に遮へい物を設けるなどだ。

 裁判員には冷静な判断が求められるが、市民を参加させる以上プロの裁判官以上に個人の感情が入るのは避けられない。性犯罪の場合は特にそうだ。また、女性の裁判員はより厳しい判断をするのではないか。注目したい。(読者に感謝)

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2010年1月 6日 (水)

「新春交歓会。議会互礼会。全国育樹祭、ディスティネーションキャンペーン」

◇上毛新聞の新春交歓会は、政権交代の結果を色濃く現していた(5日)。尾身、笹川、谷津の各氏の姿はなく、ああ、このような国会議員がいたのかと思わせる顔ぶれが紹介されていた。その中には、公職選挙法の不可解な制度によって拾い上げられたという声も聞かれる元県議もいた。

 壇上の国会議員たちは、福田元総理から順次マイクをとって短く挨拶した。中曽根前外相は、この夏には参院選で戦う人であるが、悲壮感はうかがえない。山本一太さんは、どんなことがあっても政権を奪還する、それが健全な二大政党への道だと訴えていた。

 高橋上毛新聞社長の挨拶の中に徳川家康と上杉謙信が登場した。耳を傾けると、この両者は寅(とら)年なのだという。寅年の今年は謙信のスピーディさと家康の慎重さを会社運営の指針にするという。また、高橋さんは色彩を取り入れ5感に訴える紙面づくりを工夫すると話していた。5感とは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる5つの感覚である。この外に、県民の心に響くという要素を重視して欲しい。巨大メディアが全国を席捲しようとする時、特色ある地方紙の役割は非常に大きい。気骨ある地方紙を貫くためにこそ、謙信や家康などの戦国武将の根性に学んで欲しいものだ。

◇県議会の新年互礼会で大沢知事は、挨拶の中で、全国育樹祭、ディスティネーションキャンペーン、北関東道の全面開通を、今後の明るい話題として語った(5日)。

 第34回全国育樹祭は、今年10月3日から、沼田市の21世紀の森で行われる。過去に全国植樹祭を開催した都道府県が毎年秋に行う。木を植えるのが植樹、植えた木を育てるのが「育樹」である。

 天皇皇后両陛下がかつて植えた木を皇族殿下が手入れされることに始まり、間伐、枝打ちなどを行い、活力ある森を作ろうとするもの。本県にとり非常に重要な行事である。緑の造成はCO2の削減につながる。その点でも大きな意義がある。

◇観光立県を目指す本県にとって、平成23年度に行われるディスティネーションキャンペーンは、観光振興のためのきわめて重要な新規事業。ディスティネーション(destination)とは旅行の目的地のこと。JR6社と連携し、県内36の自治体と協力して本県の観光イメージと知名度の向上を図る国内最大規模の観光キャンペーンである。

 本県の知名度は全国最下位の部に入る。国定忠治と赤城山が知られ、最近では「八ッ場ダム」が脚光を浴びるくらい。この事業は内外から訪問客を増やし本県の活性化につながる。萎縮した県民精神の活性化も図りたい。

 その中に海外誘客対策がある。中国が重要なターゲットになる。08年4千万人の中国人が海外旅行に出た。昨年私たちは、山東省曲阜市で「有座の器」贈呈で大歓迎を受けたが、その時約束した交流を観光につなげたい。上毛の交流会で会った福田元総理にもこの事を話した。

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2010年1月 5日 (火)

人生フル回転「フジモリ、25年禁固の衝撃。日系2世はいかにして大統領に」

◇かつてのフジモリ大統領に特別の思いを抱いていた私は、ペルー最高裁で3日、禁固25年の刑が確定すると聞いて強い衝撃を受けた。

 平成8年の県議会南米行政視察を前に、私はフジモリ大統領に手紙を書いた。それは、「私たち県議団は、5月1日ペルー国を訪問する予定でありますが、その時、是非閣下にお会いしたいと思っております」で始まる文で、今読み返して見ても、ペルーと大統領に対する私の熱い思いが綴られている。

 会見は実現しなかったが、話に聞いていたペルーの実態をこの目で確かめることが出来た。それは、目を見張るような官殿や近代的なビル群とその近くに広がる貧しい人たちの夥(おびただ)しい露天商の群に現れていた。彼らはスペインに亡ばされたインカの末裔であった。この両者のアンバランスこそ、ペルーの実態と課題を雄弁に物語っていた。

 私たちのメンバーには、現伊勢崎市長の五十嵐さん、現県議の山本龍君、故金子泰造さんもいた。厳重なセキュリティに守られた日本大使公邸で私たちは青木大使の話を聞いた。大使は、テロを克服し経済を復興させたフジモリ大統領を極めて高く評価していた。この大使公邸がテロ組織に占拠されたのは、この年の12月の事である。その後4ヵ月、武力による強行突入によって解決が図られる迄、世界の目は、この日本大使公邸に注がれたのである。

 人質は72人中71人が救出され、犯人は14人全員が射殺された。テレビは、「ペルーはテロを許さない。その事を世界に示したのだ」と車の上で叫ぶフジモリを映していた。それは正に救国の英雄に見えた。禁固25年の判決を受けた姿と比べると天国と地獄である。

 私はスペインに征服されたインカの歴史及びペルーへの日本人移民の歴史を研究したことがある。これらの歴史に位置づけてフジモリ大統領誕生の過程を見ると、それは壮大なロマンであった。

 フジモリは大統領に当選後、両親の故郷・熊本県の河内町を訪ね、「私は百%ペルー人です。そして百%河内の血が流れています」と言った。

 フジモリ当選前のペルーは、絶え間ない流血のテロと未曾有のインフレが続き、これに対して政治は何も出来ず、政治に対する不信は極度に高まっていた。そして社会は2つに分断されていた。一握りの白人と、インカの末裔や混血の人たちである。政治の道徳化を叫ぶ日系2世のフジモリにアンデスの人々は争って一票を投じた。白人の支配の歴史に対する抵抗の思いがあった。日本人の正直と勤勉さ、日本の奇跡に対する期待もあった。

 フジモリは、その期待に見事に応えたかに見えた。この度の有罪判決はゲリラ掃討中の特殊部隊が市民25人を虐殺した責任を問われたもの。ペルーの人たちは、この出来事、そして、フジモリとつながる日本をどのようにうけとめているのか。(読者に感謝)

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2010年1月 4日 (月)

議員日記・人生フル回転 「元旦の朝を走る。自治会の新年会。箱根駅伝のこと。交通死者減る。」

◇2010年が明けた。思うところが大きければそれに応じて1年のスタートに臨む緊張感も高まる。大晦日の11時を過ぎると地元の神社でドーンと花火上がった。暗い木立の奥の境内では焚き火が勢いよく燃え甘酒を配る人々の姿が動く。0時が近づくと長蛇の列が出来た。若者が意外に多い。子連れの若い夫婦も目立つ。お賽銭を投げて小さな手を合わせる子どもたちの上でジャラジャラと鈴がなる。伝統行事の神事が子どもたちの中に自然に染み込む瞬間と見えた。

 夜明けと共に芳賀グラウンドを5周した。一年の計は元旦にありと思って決行。木立の陰には夜の闇がまだ残っている。見上げると西の空、榛名の山の端近くに、大きな満月が輝いていた。

◇元旦の午前、いくつかの自治会の新年会と1つの神社の祭典に出た。ここで書きたいのは鳥羽町東部自治会のことである。

 公民館における元旦の朝の集いは、長く続いているこの町の恒例の行事である。庭の焚火を囲んでいた人々は、8時になると、東の空の初日に向かって手を合わせる。寒気の中を青空に伸びる新年の朝日は人の心に希望を生む。皆で手を合わせることでこの希望が増幅されるように感じられた。

 太陽の遥拝が済むと庭の一角に祭られる神様に手を合わせ祈る。そして自治会長の挨拶となる。自治会長は町の当面の課題を挙げて協力を求めた。

 このようにして、この町の地域力が育つのである。ちょっと奇異に感じられることは、女性の参加が全くない事だ。このような元旦の朝の緊張感と充実感は、町内の女性が参加することによってどのように変化するのかと想像した。

 この集いに、かつては元県議のアカネさんと金子泰造さんが必ず出席していたが、アカネさんは数年前から出席しなくなり、金子さんは一昨年急逝された。

 私は挨拶の中で、政権交代の中で今年も激動が続くだろうが、大切なことは地域の人が心を合わせて安心、安全なまちをつくることだと述べた。

◇箱根駅伝で心を打たれる光景があった。寒風の中、体力を使い果たしたある若者は、倒れるかと思わせる状態で、その区間を気力で走り抜き、待ち受けた仲間の胸に崩れ落ちた。彼を支えたものは、使命感と責任感であったろう。駅伝の一区間は連なる鎖の一コマである。自分が失敗したら鎖全体が駄目になるという思いが若者の胸にはあったに違いない。現代の若者にも、トレーニングによってこのような崇高な精神が育つのだと思うと胸が熱くなった。

◇年初のニュースで注目した事は、交通事故の一年間の死者が大幅に減って5千人を割ったことだ。これは社会が力を合わせて工夫を重ねれば不可能を可能にする事を示している。次の課題は、自殺者の数を減らすことだ。年間3万人以上という異常事態の流れを何としても変えねばならない。(読者に感謝)

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2010年1月 3日 (日)

第二章 激動の時代

― 昭和初期の不況から ―

犬養首相が殺され、その後を継いで組閣した斉藤実は、昭和7年6月3日の臨時議会の施政方針演説の中で次のように述べている。

「深刻なる経済上の不況は今猶を恢復の曙光を見難く、農村の困憊と都市の沈滞とは共に益々甚だしからむとするの状況であるのみならず、近時、凶変相継いで行われ、人心極めて不安、誠に重大なる危機と申さなければなりませぬ」

 相次ぐテロ、クーデターの最大の原因は農村の窮迫にあると考えられ、この臨時議会では農村問題を中心に議論された。五・一五事件後、農村救済請願運動の波は全国に広がり、多くの署名が衆議院に提出された。これを受けた形で、この年8月23日、救農国会ともいうべき臨時議会が開かれ、農村問題が本格的に議論された。

 農村の窮状は、これと直結する地方議会においてこそ取り上げられねばならない。そこで、中央において臨時議会が開かれたのに対応して、この年8月25日、群馬県知事金沢正雄は、農山村を救うための臨時県議会を召集した。知事は、その予算説明で次のように述べている。

「経済界不況と産業不振の疲弊困憊(ひへいこんぱい)は益々甚だしく、この難局打開は刻下の緊要時である。国に老いても対策講究の為に臨時国会開会中である。本県も地方の実情から効果ある事業の施行を要する」

 このように、血盟団の事件と五・一五事件が社会に与えた影響は大きかった。それは、政治の流れを大きく変えるきっかけをも作っていった。

 血盟団の事件では、井上日召を筆頭に

無期懲役あるいは懲役15年といった判決が下されたが、彼らは長いものでも10年を経たずして恩赦で出獄している。当時東大法学部の学生であった四元義隆は、懲役15年の判決を受けたが、昭和15年恩赦で出獄後、近衛文麿、鈴木寛太郎のブレーンとして活躍、戦後も、吉田茂から細川護熙に至る歴代首相の指南役をつとめた。

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2010年1月 2日 (土)

第二章 激動の時代

― 昭和初期の不況から ―

 この血盟団の首謀者井上日召とは如何なる人物か。井上日召は、本名昭といい、群馬県の利根郡川場村に、医師の子として生まれた。井上日召自伝によれば、子供の頃は、冬以外はいつも素裸、素足で飛び廻っていたので、体は日に焼けて真黒、そして、無類の腕白小僧で、「黒が来た、黒が来た」と川場十ヶ村で恐怖の的になっていたという。前中(現前橋高校)の沼田の分校に3年まで通い、あとの一年は、前橋市の広瀬川の近くの横地という親戚の家から本校前中に通った。大学は早稲田に進み中退している。その後中大陸に渡り、革命運動や日本を憂える中で、国家改造の決意を固めていった。

 ちなみに、当時の上毛新聞は、井上日召のことを大きく取り上げている。「25才の時には、馬賊3千の頭」とか、「日本刀を腰に前橋を闊歩する」というような大きな見出しの下で、「今、社会の耳目は、このニュースに対して嵐のようなセンセーションの渦を巻き起こしている。その中心人物に擬せられる満州浪人とはそも何者であるか。」と連日紙面の多くを割いて日召のエピソードや歩みを載せている(昭和7年3月6日以降)

 血盟団の事件は、一味が逮捕されて終わったかに見えた。しかし、実は、同志の別の一派があって、行動を起こそうとしていた。それは急進的な国家改革をめざす海軍青年将校たちであった。彼らは、この年5月15日に決起した。

 彼らは、犬飼首相の邸内に侵入、首相は、「話せばわかる」と制したが、将校たちは、「問答無用、射て」と叫び、首相の頭部にピストルを撃ち込み、殺した。これが、五・一五事件の中心となる出来事であった。彼らは議会政治の中枢を倒すことにより国家改革の断行を迫ったのである。

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2010年1月 1日 (金)

議員日記・人生フル回転 

新年、明けましておめでとうございます。

波乱の年が幕を降ろし、新しい激流が目の前に現われました。

 このブログも新年を迎えたのです。ブログは多くの人に同時に、そして瞬時に情報を伝えることが出来る現代の超利器です。

 私のブログは、私個人が設けた「広場」ですが、県政のポイントを拾い上げて伝え、また、私たちの政治や市民生活に関係の深い出来事を私の感想をこめて取り上げ皆で考える契機にし、同時に私の生き様も伝えたい、こんな気持ちで続けています。

 昨年一年を振り返って、反省すべき点、工夫を加えるべき点、また新たな抱負もありますので、それらを踏まえて、今年は一層頑張りたいと思います。読者の皆様、本年も宜しくお願い致します。皆様にとって、今年が良い年であることを祈念致します。

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