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2009年11月19日 (木)

「広島で原爆の悲劇を見る」

◇今、広島市のビジネスホテル東急インで筆をとっている。暴力のまちといわれた広島市の県警本部の調査は、多いに収穫があったが、私の胸は「原爆投下」でいっぱいだ。慰霊碑、資料館で湧いた熱い思いを伝えたい。世界遺産となった原爆ドームの頭部の赤茶けた鉄骨の残骸は数千度の熱線の恐怖を今に伝える。その下に元安川がのどかに流れている。64年前の8月6日、この川は灼熱の炎に追われて飛び込んだ人々と死体で埋まった。阿鼻叫喚の地獄絵が頭に浮かび胸が熱くなる。

 対岸の慰霊公園には、「原爆の子の像」と「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が立っていた。「原爆の子」は、2歳で被爆しやがて白血病を発病、鶴を千羽折れば願いは叶うと信じつつ12歳で亡くなった佐々木禎子の姿である。禎子の同級生が原爆で亡くなった全ての子のためにと呼びかけて像の建設は実現した。サダコは、その後、世界のサダコとなった。私は、かつて、教育の視察でスペインの「サダコ学園」を訪ねた時、地の果ての国で原爆の悲劇と平和を教えることを掲げた学校があることに驚いた。その時のことを想像しながら、格別の思いで少女の姿を見上げたのである。

◇韓国人慰霊碑は、原爆の犠牲となった約2万人の韓国人の霊を祭る。広島は軍需工場がひしめくまちだった。そこには強制的に徴用された朝鮮人も多かったのである。

◇広島平和記念資料館には、原爆が計画されてから投下されるまでの記録があふれていた。爆心地の生々しい事実と共に迫る記録には胸に刺さる迫力がある。トルーマンが傲然と言い放つ映像が流れていた。「原子爆弾は太陽のエネルギーだ。科学の根源的な力である。極東で戦争を始めた者どもにこの力を・・」戦争の最中だから当然であるが、この言葉から強い憎しみが伝わる。そして、原爆の威力と合いまって、私の耳には悪魔の声に聞こえた。

◇ドイツの物理学者ハーンが核分裂とそれに伴って巨大なエネルギーが発生する事を発見したのは1938年12月で、その翌年9月に第二次世界大戦が始まる。アメリカが原爆研究に乗り出したのはこの年1939年だった。そして、マンハッタン計画と名付けて製造に着手したのは1942年のことである。当時の金で20億ドルの巨費と12万人の人間を動員して1945年7月16日実験を成功させ、広島への投下は同年8月6日であった。アメリカは、早く戦争を終結させることを原爆投下を正当化させる理由とした。

このような記録をミニスカートの女子高生たちの視線が追っていた。別のボードには、「警告なしの投下が命ぜられたがそれに反対の科学者がいた」とある。私は、「原爆予告を聞いた」と題する広島市のある電信技士の手記を読んだ事がある。この技師はそんな事をもらしてはならぬと上司に外出を禁じられていたという。この技師の情報を活かせたら多くの命が救われたかも知れない。こんな事を仲間の議員と話した。(読者に感謝)

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