« 「すぐれた歴史叙述」 | トップページ | 第2回 ①大地震・オウム・県議選 »

2009年11月22日 (日)

暗い世紀末の日本①大地震・オウム・県議選

平成7年は、地震によって明けた。一月の阪神大震災である。私達の目はテレビに釘付けになった。まるでオモチャのミニチュアが子どもの小さな指の一突きで押し倒されたかのようにあっけなく横倒しになっている高速道路があるかと思えば、50年前のB29による爆撃の惨状はかくやと思われるようなペチャンコになった家々がある。また、天を焦がすような黒煙を上げて、傾いたビルの間でくねり、潰れた家の上を這う巨大な赤い炎は地を引き裂いて現れた不気味な地底の怪物のようである。初めは大したことはないと思われていた死者の数があれよあれよという間に増える。また、いろいろな情報が刻々と伝わる。数十時間ぶりに瓦礫の下から救い出された老人のこと、自衛隊の出動が遅れていること、あるいは、外国からいち早く支援活動に駆けつけたのに、活動の場が与えられないことなど。

私は、テレビを見ながら、まだまだ多くの人が生きているに違いないのに、救済の手が伸ばせないことへのもどかしさを感じていた。そして、暗い地底の身動きできない狭い空間に閉じ込められた人の恐怖を思った。暗黒と空間と絶望感。そこへ手を伸ばすことのできない行政の無力を情けなく思った。

それにしても、科学の粋を集めてつくった近代都市も自然の威力の前では何と無力なことか。そして、この惨状は、豊かな日本の今日の姿のある面を象徴しているように思えてならない。それは、基盤がしっかりしていなければ、その上に築かれたものは、いくら立派に見えても砂上の楼閣に過ぎないということである。

 世界の経済大国といわれるほど豊かになりながら何かおかしいと思われるのが今日の日本である。物が豊かになった割に心は貧しくなったと言われる。国の繁栄を支えるのは人であり、人を支えるのは精神であるから、精神が貧しい国の見かけの繁栄は、これまた、砂上の楼閣と言わねばならない。

 阪神大震災の惨状を見ながらこのように考えている矢先、まさに日本人の心の荒廃に警鐘を鳴らすような事件が起きた。一連のオウム真理教関係の事件がそれである。人々は、また、日本中、朝から晩まで、この事件のテレビに釘付けになった。

 最高の教育を受けたとされる人々が、人の命を何とも思っていないのではないか思わせるような殺人事件を次々に引き起こしている。人はこんなに簡単に、呪縛にかけられたように、ロボットになってしまうのか。彼らを特殊な例外と見るべきか、それとも、戦後教育の欠陥が若者一般の心に病巣をつくり、その一つの表れと見るべきか。また、若者に未来の夢を抱かせることが、出来ない社会や政治にその原因があると見るべきか。新聞もテレビも巷の主婦やサラリーマンも、みなこの問題に注目し、沸き立った。

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「炎の山河」を連載しています。

|

« 「すぐれた歴史叙述」 | トップページ | 第2回 ①大地震・オウム・県議選 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 暗い世紀末の日本①大地震・オウム・県議選:

« 「すぐれた歴史叙述」 | トップページ | 第2回 ①大地震・オウム・県議選 »