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2009年11月30日 (月)

議員日記・人生フル回転・「鳩山開館を見る。鳩山一郎の決意。中国からのメッセージ」

◇毎月1回の後援会のバスツアーのコースに今月は鳩山会館を入れた(29日)。通称音羽御殿といわれているところだ。日本の近代の政治の舞台であった点に興味があった。大通りに面した門の奥は木立が茂る森である。太い桜の古木の間を斜面の道は上に伸び、途中をくの字に曲がると、頭上のもみじの紅葉の間に洋館が姿を現す。庭に入ると、背の高い皇帝ダリアが大きな白い花をつけその下には赤いバラが咲きその先には実をつけたミカンの木が見えた。

 目を転ずると庭の一角に鳩山一郎とその両親である和夫、春子の銅像がある。現在一般公開されている鳩山会館は、関東大震災の翌年、1924年(大正13年)に建てられたもの。資料室に入ると、和夫の研修ノートが目についた。びっしりと自筆の英文が記載されている。鳩山和夫は、アメリカのエール大学を首席で卒業した日本で最初の法学博士で衆院議長を勤めた。

 1つの部屋に古いテーブルとそれを囲む数個のイスがあり、その1つのイスには、鳩山一郎が愛用したという説明があった。このテーブルで、河野一郎等と日ソ交渉の秘策を練ったのかと私は想像をめぐらした。

 私はバスの中で、シベリヤ抑留と鳩山一郎の日ソ交渉の関係を次のように簡単に話した。鳩山一郎の首相としての悲願はソ連との国交を回復して抑留者を帰国させることであった。昭和20年8月の敗戦直後60万人を超える日本人がシベリヤに強制抑留され、寒さと飢えと重労働で6万人以上が亡くなった。抑留者の多くは昭和25年頃までに帰国したが、長期抑留者は望郷の思いにこがれながら10年もの歳月を過ごしていた。鳩山一郎は脳梗塞後の不自由な身体であるにもかかわらず、決死の覚悟で自らモスクワに乗り込み日ソ国交回復を成し遂げた。昭和31年のことである。そして瀬島龍三ら多くの長期抑留者の帰国が実現した。今、テレビで、瀬島をモデルにした山崎豊子の小説のドラマが放映されていることも付け加えた。バスの中からは、おじいさんと比べ、今の首相には指導力がない、メッキがはがれてきた、などのつぶやきが聞こえた。

◇今月、9日、中国山東省曲阜市師範大学で講演したことは、このブログで書いたが、その時の学生からメールが届いた。素晴らしい話を聞けて嬉しかった、話の後に交流の時間がなくて残念だった、仲間の学生があんな質問をしたことに驚いた、失礼は許してください、というような中味である。

 講演の題は「経済大国日本の挫折と再生の課題」であった。あのような質問とは、講演後、一人の男子学生が手を挙げて「竹島問題をどう考えているか」と発言したことである。私は特別な質問とは少しも思わなかったが、会場の前席にいた人民政府の人は慌てたようであった。メールで学生たちの受け止め方も分かった気がした。自由な言論がまだ制限されている中国の一つの断面をかいま見た気がした。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「炎の山河」を連載しています。

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2009年11月29日 (日)

炎の山河    第2回 ②新しい波

第2回 ②新しい波

 県議会の一般質問を明日に控えた日の朝、中国人の友人李沢民が私を訪ねた。李は、日本の大学に留学し、進んで大学修士課程を終え、現在日本の商社で働いている若者である。「你好、好久不見了。(こんにちは、お久し振りです)」「おう、上手!上手、先生の発音、とても良くなったよ!」李沢民は、少しお戯けた口調、大げさな身振りで言った。「你家人、都好呮(あなたの家族は皆お元気ですか)」私がいい気になって言うと、「都好(皆、元気です)」すかさず、本物の中国語が返ってくる。

「実は、明日、先生が議会で代表質問をすると聞いていました。戦後五十年のことや歴史教育のことに触れるそうですね。私、傍聴したいよ。できますか」

 李は、日本人とほとんど変わらない上手な日本語で言った。私は、私の質問の時間と傍聴の手続きを彼に教えた。

 平成七年の六月県議会の議場で、私は新しい波を改めて実感した。私は、最前列から数えて三列目の席に座っていた。県議会の議席は、当選回数の少ないものから順に後ろへと並ぶ。私がかつて、最前列の中央に座っていた時からおよそ七年が経過していた。そこからこの三列目までの距離は、七年の年月と共に、その間のさまざまな出来事を物語っている。そして最前列に並ぶ若いフレッシュな議員たちの姿は、そのまま、新しい波の打ち寄せる様にも思えた。この波に押し出されるような形で、私と同列の議席、また、後の議席から消えた人たちがいる。同列では飯塚喜久義、後列では、高木政夫、菅野義章、高島照治等がそれだった。

 私は、今は議場にいないこれらの人々の顔を思い出しながら議場の後列を振り向くと、最上段に長老たちの顔が見える。私は、更にその先の人たちを想像する。そこには、県議会の長い歴史の中で激しい時代の波にもまれ、この議場で発言した先輩たちの列がはるか彼方まで続いている。彼らは、昭和の動乱の中で、どのような目で時代をながめ、どのような発言をしたのだろうか。彼らの発言や決議やその他の様々の行動は、今日の群馬県の姿とどのようにつながっているのだろうか。このような議会の歴史を知ることが、私たち県議会議員の今日の役割を果たす上で必要ではないか、私は、多くの先輩たちの列を想像しながら、このような思いを深くした。

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2009年11月28日 (土)

①大地震・オウム・県議選

 しかし、大丈夫だトップだと言われることから生ずる、確実なマイナス効果は、他にある。それは、支援者や運動員が安心してしまって、集票行動に動いてくれなくなることである。事実、今回の我が陣営は、過去のどの選挙と比べても、事務所の内外で緊迫感が感じられず、このことが、私を含め幹部にとっての心配の種であった。

 注目されるもう1つの特色は、菅野陣営の選挙事務所と我が事務所が地続きの所に並んで設けられたことであった。これは県議選史上前代未聞ということで世上話題となり、マスコミも注目した。

 菅野義章とは、過去何回か激しく選挙を戦った間柄であり、私との間は、いわば、宿命のライバルであった。彼が京都大学出身であることから、世間には、東大対京大の対決とか、私の家と彼の家との間に桃の木川が流れていることから、桃の木川の決戦などと言ってはやしたてる向きもあった。

選挙の結果は次のとおりであった。

一位 金子泰造(自民党・新人・当選

)

二位 中村のりお(自民党・現職・当選

)

三位 中沢丈一(自民党・現職・当選)

四位 小島明人(公明党・新人・当選

)

五位 早川昌枝(日本共産党・現職・当選

)

六位 高橋礼二(社会党・新人・当選)

七位 萩原弥惣治(自民党・現職・当選)

八位 町田一三(自民党・現職・当選

)

九位 高木政夫(自民党・現職・落選)

十位 菅野義章(自民党・現職・落選)

 ちなみに、私は、前回も二位、金子泰造は前回は次点で落選、今回落選した高木政夫は前回トップであった。政調会長の高木政夫、総務会長の菅野義章が共に落選したこと、また、選挙に強いといわれてきた長老の県会議長が当選したとはいえ、下位であったことは、それぞれが抱えていたであろう特殊な事情に加えて、新しい時代の波の影響を大きく受けたためと言えるかも知れない。

 私は、とにかく、今回も第二位で当選できた。新しい波に認知されたといえるかどうかはともかく、私は、新しい時代の波を意識してこれからの県政に取り組もうと決意したのである。新しい波には、今まで見たこともない形の波も混じっている。この中をどうやって泳ぎ、私たちは、新しい道を発見してゆくのか、私は、未知の森に足を踏み入れる思いで当選後初の六月県議会に臨んだ。

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2009年11月27日 (金)

人生フル回転「11月議会初日。遂に群馬で新型インフルの死者が出た」

◇11月も終る。誠に速い。この速さと時の密度に耐えるものは体力と気力だ。毎朝、広いグラウンドを5周しているが、県民マラソンの時より身体が軽い。今日は、早朝の会議があるのでいつもより早く、6時に走った(26日)。

 「11月議会」がスタートした。朝7時半の朝食会を兼ねた会議に始まり、議会運営委員会、議員団総会、本会議、文教常任委員会、議案説明と盛り沢山のスケジュールが続いた。

 本会議では、原議長の挨拶に続き、知事が主な議案の提案説明を行った。今議会に提出される議案は予算関係8件、事件議案21件。

 予算関係の主な議案は、職員の月給、期末手当の減額に関するものと新型インフルエンザ対策の支援に関するものである。新型インフルエンザの支援とは、市町村が行う低所得者の費用負担軽減事業や医療機関が行う感染拡大防止のための設備整備に対する県の新たな支援である。

 事件議案としては、敷島公園の陸上競技場と野球場について県内プロチームが使用する場合の料金を引き下げるなどの改正、及び、水産学習館の廃止などがある。プロチームとは具体的には、サッカーのザスパ草津と、野球のダイヤモンドペガサスを指す。水産学習館は、館林のつつじが丘公園にある小規模水族館(内水面の魚)のことであり、公共施設のあり方検討委員会の答申に基づくもの。

◇新型インフルエンザについて知事が議会の冒頭で触れたことは、事態が深刻であることを示すものである。群馬県で、遂に、新型に感染していた人の死者が発生した(25日)。前橋市在住で80歳代の男性。高血圧、心疾患、大腸がんの基礎疾患をもっていた。

 全国の「新型」による死者は74人に達した。日本における新型感染者の死者は極端に少ないと言われているが、それでもここに来て急速に増加している感じだ。群馬県の感染者も増加している。1医療機関当りの県平均患者数は、11月16日から22日までの1週間で、警戒レベルの30を大きく超えて42.80となった。最多は、富岡保健所管内の59.67である。

◇26日、議会の合い間を利用して、議員年金についての研修会をした。地方議員の年金状況が危機に直面している。解決策として、給付額の減少、議員負担額の増加は避けられないが、それでも駄目なら公費(税金)の注入も有り得る、しかし、これは国民の理解が得られないだろう、等いろいろ話し合われた。危機を作り出している一因に平成の大合併がある。議員数が大きく減ったため年金の拠出額が減少しているのだ。いずれにしろ国会で法律によって解決されることになる。議員年金廃止論も出た。

◇忘年会で夜まちに出たが温かい。昔の冬の寒さは戻ってこないのか。科学者によると温暖化は予想以上に進んでおり、今世紀末には、海面は最大2m上昇するという。そこに至るまでの大変な異常気象は既に始まっている。(読者に感謝)

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2009年11月26日 (木)

人生フル回転 「デートDVが広がっている」

◇デートDVという言葉を初めて聞いた。今月20日、特別委員会の調査で岡山県の男女共同参画推進センターを訪ねた時のことだ。DV(家庭内暴力)の話と関連してこの言葉が出てきた。交際相手からの暴力のことを指す。今、若い男女の間に広がっていて深刻な状況なのだという。先日、NHKのラジオのニュースでもこの言葉を聞き、社会問題になっていることを改めて知った。家内に話したら、そんなの「つき合いをやめればいいじゃないの」と言った。やめることに何ら法律的な制限はない。しかし、そう簡単に割り切れないところに深刻な問題が生じるのだろう。深い関係になると男は女を所有物のように扱うと、昔、誰かが話していたのを思い出す。デートDVの被害者に自殺未遂に追い込まれる者もいると聞いて、これは本当に深刻な問題なのだと思った。 ◇配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護については、平成13年に法律が施行された(通称DV防止法)。しかし、デートDVは、この法律の対象外である。法律がなくても被害者の若者を救う手段は、社会にいろいろ存在する筈だが、救済の役割を担うべき人々に実態の認識がなければ、何もすることが出来ない。その意味で、自分の不明を反省しつつも、調査の成果を感じることが出来た。内閣府の調査によれば、10代から20代のとき、交際相手から、身体的な暴力、心理的攻撃、性的強要のいずれかの行為を1つでも受けたことがある人の割合は、女性の場合23%に達する。調査先で入手した岡山県教育委員会のパンフレット「デートDV」には、その例が示されている。その中の性的暴力の例として、キスやセックスを強要する、避妊に協力せず責任も取らない、二人のセックスを他人に吹聴する、見たくないのにポルノビデオや雑誌を見せたり同様の行為を強要する等を挙げている。子供たちは、大人の知らない世界で苦しんでいるらしい。 岡山県では、デートDVにつき、困ったことがあったらすぐに相談くださいとして、県男女共同参画推進センター、県教育センター、子どもホットライン等、多くの窓口を設けている。 ◇歌手デビューした元刑事がいる。デビュー曲は「浪花刑事ブルース」とか。豊かな人情の持ち主らしい。現役時代は、取り調べが得意で、「調べの中やん」と呼ばれた。「相手の感情を受け止めねばならない」が持論。この記事を読んで思うことは、被疑者に対し全身全霊でぶつかり、その感情を受け止めるという取り調べ官の役割が、「全面可視化」の下で果して可能かということだ。取り調べがやりにくくなり真犯人を逃がす恐れが生じるともいわれる。しかし冤罪を防ぐためには必要だというのが流れとなっている。可視化の下での真実追及を最大限工夫することになる。(読者に感謝)

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2009年11月25日 (水)

人生フル回転 「合田一家の継承式・暴力団と裁判員制度」

◇ある雑誌の表紙のグラビアに合田一家の継承式の写真が大きく載っている。白い和服と紋付に身を包んだ眼光の鋭い総長とこの人物を囲む黒い紋付姿の面々は、一見して異様である。説明がなければ時代劇の撮影現場かと思ってしまう。

 合田一家は、山陽道筋のヤクザの名門で、その源流は、明治、大正、昭和の三代にわたりヤクザ史に名を残す「関門の籠寅(かごとら)」までさかのぼるのだという。

 私が合田一家の記事に注目したのは、先月、文教・警察の県外視察で、山口県と福岡県を訪れたとき合田一家を含む暴力団の深刻な状況に接したからである。

 山口県では県下最大勢力の合田一家の7代目総長の襲名披露のことがテレビで報じられ、県警はホテルや旅館での襲名披露を阻止するために市内の宿泊施設に協力を要請してきた、その為披露の式は組の本部事務所で行われた。そして、翌日、福岡に入ると、福岡県警の最大の課題は暴力団工藤会の撲滅であることを知った。工藤会は市民に銃口を向ける極めて危険な暴力団なのだ。

 これらの暴力組織を知って、先ず考えた事は裁判員裁判との関係である。社会の岩磐にまで強固に根を張った暴力団は市民にとっては大きな脅威である。プロの裁判官と違って暴力団から身を守る手段は十分ではない。福岡では、工藤会幹部が殺害された事件が裁判員裁判の対象から外されようとしている。裁判員となる市民を守るためには止むを得ないと思うが、釈然としない。暴力団に対して司法が屈するの感を拭(ぬぐ)えないからだ。暴力団に対してその場その場の対応ではなく、裁判員を守る制度を考えるべきではないか。

 いずれにしても、新しく始まった裁判員制度を通して、市民が暴力団に正面から向き合うことになった点には大きな意義がある。市民の代表が暴力団の犯罪に向き合うことから、暴力団に対する市民の関心が一層高まるだろう。

◇本県では、裁判員裁判の対象となる暴力団組員の2つの事件の公判期日が決まった。1月27日と2月2日である。高崎市飯塚町の路上で昨年10月までに起きた暴力団同志の発砲事件である。稲川会系組員の2人が被告となっている。県内の裁判員裁判としては、この2つが、3例目、4例目となる。これらは、福岡の工藤会が関わる事件などとは本質的に異なるが、暴力団員の事件が対象となる裁判員裁判として注目したい。

◇県立女子大学の評議員会に出た。不況下にあって就職内定率が非常に悪いことが話題になった。

 評議員会の議題ではないが、私にとって嬉しい報告があった。私を会長とする日中議連が中心になって県立女子大と中国の大連外国語学院が昨年交流の提携を結んだが、それに基づく留学生が来年から県立女子大に入学することになった。具体的な交流の成果である。(読者に感謝)

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2009年11月24日 (火)

「シネマまえばしが始まる」

◇娘のゆりが、夜、おちおち眠れないと言う。亭主の小見純一君が始める映画の事業がうまくいくかどうかが気になっているのだ。小見君は、かつての映画館・テアトル西友の後を継ぐ「シネマまえばし」を運営して名画を上映することを企画している。彼は、まちの文化について一つの見識をもっていて、特に映画によるまちおこしを主張し、弁天通りの寺でサイレント映画の上映などを行ってきた。今回の事は、彼にとって長年の念願がかかる人生の一大事業だが、資金繰りの苦労もあるので、娘は、女房として、はらはらしていると見える。

 開館記念作品は、「忠治旅日記」。これは、名画座を目指す「シネマまえばし」の開館記念の上映にふさわしい名作といえる。伊藤大輔監督1927年の作品で大河内伝次郎主演である。

 伊藤大輔は、時代劇映画の父といわれた。「時代劇」と言う言葉を作ったのも彼だといわれる。伊藤の戦後の代表作は坂東妻三郎主演の「王将」である。ある映画評論家は、市井の俗塵にまみれながら、将棋一途にわが道を行く三吉は、映画一途に生きた伊藤大輔の自画像だと評した。この伊藤大輔の代表作が「忠治旅日記」三部作だった。伊藤大輔のサイレント期の名作はすべて失われたといわれたが、その後「忠治旅日記」の一部が発見されたのである。

 私の周りには、「サイレントか」という人がいるが、映画作りに執念を燃やした気骨の人の作品を是非見て欲しい。これから、黒澤明の羅生門、溝口健二の赤線地帯を初めとして、山椒大夫、血煙高田馬場など面白い作品が豊富に用意されている。日本映画の歴史を知る上でも「忠治旅日記」は重要な作品なのだ。

 かつては、アメリカでも、日本でも映画全盛の時代があった。その頃は、映画に対する社会の期待が大きかったから、製作者は映画作りに、今とは違った情熱を注いだ。だから名画といえる良質の作品が多く世に送り出された。映画は娯楽の中心であり、精神文化を支える社会の基盤でもあったのだ。

 時が経って時代が変わっても人の心の本質は変わらない。昔、人々の心をとらえたものは、今も人々の心をゆり動かす筈である。その感動は、私たちが失ったり忘れたりしている大切なものを思い出させるに違いない。また、それはきっと、かつての前橋の中心街のにぎわいを取り戻す力になるに違いない。小見君の夢はそこにある。「シネマまえばし」の成功は、前橋中心街の発展につながると信じる。そのためにこの事業の成功を祈る。皆さんにも是非応援して頂きたい。

◇笹川さんを囲む会があった(22日)。自民党中央で総務会長を務め、県連では長いこと会長職にあった人はうまそうに、私たち杯を交わした。ノーネクタイのフランクな姿で現れた笹川堯さんは、あの悪夢のような敗戦の陰は感じさせず、元気で若々しかった。大澤知事を誕生させた選挙の厳しさを振り返り、来年の参院選、その次ぐ年の県議選にも触れ、もしもという事がいつ起きるか分からない時代だと語っていた。(読者に感謝)

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2009年11月23日 (月)

第2回 ①大地震・オウム・県議選

 とにかく、阪神大震災とオウムの事件は、世紀末の混乱の日本を象徴し、そして、日本の末来に暗い陰を投げかけた事件である。

 私は、目の前で繰り広げられる社会の混乱、長びく不況、政治の腐敗を見て、日本はどこへ流されてゆくのかと思った。そして、昭和の初期、不況と政治腐敗が渦巻く中、日本が一塊となって破局へ向かっていった様を想像した。

私は、一人の政治家として、また、教育や文化に関心を持つ政治家として、このような社会の状況に危機感をつのらせていた。そして、このような状況に対し、政治家としての努力をなすためには、目前の選挙戦を戦い抜かなければならなかった。

 しかし、このような暗い世情は、長く続く政治の混乱と重なり、政治への不信は一層増幅され、国民の政治離れは更にひどくなるように思われた。市民の政治に対する不信は、東京都知事選、大阪府知事選における、それぞれ、青島幸男、横山ノックの当選という形で表れた。

 このような混乱した世情の中で、4月の群馬県議選は始まった。県都前橋は、今回もやはり激戦であった。8議席を10人で争うという点は、競争率の点からいえば、たいしたことはないとも言えようが、問題はその中味である。かつて2議席を有していた社会党は、前回の選挙で議席をゼロにしており、今回は1議席に的を絞って必勝を期していたし、前回次点に泣いた金子泰造は、4年間を全て選挙にかけ、そして、自分の政治生命を今回の選挙にかけ、まさに背水の陣で頑張っていた。そして、ますます増えるとされる無党派層の存在は、選挙選に入る私たちにとって、気にかかる不気味な存在であった。

 このような事情に加えて、更に我が陣営には、注目される点が幾つかあった。1つは、“中村は大丈夫”という噂がかなり前から流れていたということ。私自身や身内の者にはとかく良い話が入るものだが、どうも、それだけではなく、実際にそういう情報が広く流れていることは事実のようであった。トップ当選だとか、大丈夫だとかの噂が選挙の結果にどう影響するかについて、正確な実証はできないが、何度か選挙をやって私が身をもって体験したことから言えることは、大丈夫と言われた人から危ないと言われる人へと流れる同情票はかなり多いということだ。全く無名の存在だった私にかなり多くの票が集まった第一回、第二回の選挙など、私が得た票の大半は同情票だったかも知れないのだ。

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2009年11月22日 (日)

暗い世紀末の日本①大地震・オウム・県議選

平成7年は、地震によって明けた。一月の阪神大震災である。私達の目はテレビに釘付けになった。まるでオモチャのミニチュアが子どもの小さな指の一突きで押し倒されたかのようにあっけなく横倒しになっている高速道路があるかと思えば、50年前のB29による爆撃の惨状はかくやと思われるようなペチャンコになった家々がある。また、天を焦がすような黒煙を上げて、傾いたビルの間でくねり、潰れた家の上を這う巨大な赤い炎は地を引き裂いて現れた不気味な地底の怪物のようである。初めは大したことはないと思われていた死者の数があれよあれよという間に増える。また、いろいろな情報が刻々と伝わる。数十時間ぶりに瓦礫の下から救い出された老人のこと、自衛隊の出動が遅れていること、あるいは、外国からいち早く支援活動に駆けつけたのに、活動の場が与えられないことなど。

私は、テレビを見ながら、まだまだ多くの人が生きているに違いないのに、救済の手が伸ばせないことへのもどかしさを感じていた。そして、暗い地底の身動きできない狭い空間に閉じ込められた人の恐怖を思った。暗黒と空間と絶望感。そこへ手を伸ばすことのできない行政の無力を情けなく思った。

それにしても、科学の粋を集めてつくった近代都市も自然の威力の前では何と無力なことか。そして、この惨状は、豊かな日本の今日の姿のある面を象徴しているように思えてならない。それは、基盤がしっかりしていなければ、その上に築かれたものは、いくら立派に見えても砂上の楼閣に過ぎないということである。

 世界の経済大国といわれるほど豊かになりながら何かおかしいと思われるのが今日の日本である。物が豊かになった割に心は貧しくなったと言われる。国の繁栄を支えるのは人であり、人を支えるのは精神であるから、精神が貧しい国の見かけの繁栄は、これまた、砂上の楼閣と言わねばならない。

 阪神大震災の惨状を見ながらこのように考えている矢先、まさに日本人の心の荒廃に警鐘を鳴らすような事件が起きた。一連のオウム真理教関係の事件がそれである。人々は、また、日本中、朝から晩まで、この事件のテレビに釘付けになった。

 最高の教育を受けたとされる人々が、人の命を何とも思っていないのではないか思わせるような殺人事件を次々に引き起こしている。人はこんなに簡単に、呪縛にかけられたように、ロボットになってしまうのか。彼らを特殊な例外と見るべきか、それとも、戦後教育の欠陥が若者一般の心に病巣をつくり、その一つの表れと見るべきか。また、若者に未来の夢を抱かせることが、出来ない社会や政治にその原因があると見るべきか。新聞もテレビも巷の主婦やサラリーマンも、みなこの問題に注目し、沸き立った。

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2009年11月21日 (土)

「すぐれた歴史叙述」

東京大学名誉教授 林 健太郎

元東大総長

 一九九四年に出て大へん好評だった中村紀雄君の『上州の山河と共に』の続編が此度完成した。その原稿を早速一読して、これは前編に劣らぬすぐれた著作であると思った。

 前編は純粋に中村君の自伝であったが、今回は自伝の域を超えた現代という時代全般、そして更に遡って曽ての戦争時代への歴史的考察が展開されている。その意味でこれは一つの歴史書であるが、それがまた単なる歴史一般ではなく、著者が深く結ばれている群馬県とそこに生れた人々の生活との密接な関連の下に書かれていることにおいて、独自の特色と価値を発揮していると言うことができる。

 本書は戦後五十年に当たる昨一九九五年に起った暗い諸事件とそこに漂っている世紀末の憂慮すべき社会相、その中における著者の議会活動、そしてそこでなされた歴史教育に関する質問演説について語るところから、論がおのずから歴史の問題に入って行く。それは昭和二年に行われた普通選挙に基づく最初の県議選から始まり、その頃から始まった経済不況の有様が議会議事録や上毛新聞の記事などによって生々と描かれる。この頃頻発した要人テロの実行組織血盟団は茨城県にあったが、その盟主井上日召は群馬県生まれで前中(現前橋高校)の出身者であった。

 一九三一年九月十八日に始まる満州事変とその後の日本の状況も、県議会の議事や当時の新聞記事を通じて、群馬県の実情が生々しく活寫されている。その事変の主導者石原莞爾中佐(後中将)は山形県の人であるが、この石原の下で満州への開拓移民の計画の実行に大きな力を果たした東宮鉄男大尉(後大佐)は群馬県の出身者で且つ著者の夫人の縁者に当たる人である。そこでこの満州開拓移民の経緯と実情が、群馬県人でそれに参加した人々の記録、現在著者の友人である中国人留学生の談話、そして著者自身が中国残留帰国者協会の人々と共に行った最近の中国旅行の県聞などを通じて詳細に語られることになる。特に本書の後半の大きな部分を費やして述べられている松井かづ女(帰国女性で現在前橋の前記協会支部長)の体験記は極めて貴重な歴史の史料であると言えよう。

 著者は東大文学部の西洋史学科で本格的な歴史学の研究をした人であるから、その述作は常に確実な史料に基づいて為されており、また広い世界史的な視野に立ちながら細部への眼差しも十分行き亘っている。また過去の事物に対しては理解を似て接しながら、現代の立場からの鋭い批判をも怠らない。そして事物を物語る筆致にはなかなかの文学的才能が認められる。

 ともかく本書は多いに考えさせる内容を持ちながらまた興味深く読める本であり、前編同様、いや更にそれ以上に広く読者を持つようになることを願ってやまない。(林先生の序文)

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2009年11月20日 (金)

「江田島旧海軍兵学校の鈴木貫太郎」

◇「安全・安心なくらし特別委員会」2日目の調査先は、「海上自衛隊幹部候補生学校」と広島大学病院だった。テロを初めとした有事や大規模災害に関して自衛隊の役割は重要である。県内に自衛隊を持つ私たちとして、自衛隊の本質を理解する上で今回の調査は有意義であった。大学病院では、救急医療体制の現状と課題を調査した。ここでも医師の偏在と不足、特に婦人科医の不足が問題となっておりその対策に頭を痛めていた。

 そして、当面の重要な問題としてここでも新型インフルエンザ対策があることを知った。広島でも蔓延状況は深刻で死者が1人発生していること、また、1人の重症な感染者は、救急医療センターが総合力を結集して辛うじて助けることが出来たこと等が説明された。このような重症者が多数発生したらどうするのかという質問に十分な備えが出来ていないことを担当者は述懐していた。このような事態は、これから同じように本格化が予想される群馬県にもあてはまることだ。多くの人命に関わることだから何としても対策の道を見つけなければならない。

◇自衛隊幹部候補生学校は、かの有名な江田島の海軍兵学校跡地にあった。昔の江田島海軍兵学校といえば全国の少年達の憧れの的であり、また、入学試験は大学よりも難関で全国の秀才を集めていたと言われる。現在の幹部候補生学校は、昔の兵学校の伝統をどのように受け継いでいるのか興味があった。

 新憲法の下で全く異なる原理に立つ自衛隊であるが、国を愛する心とか、武士道とかが最も求められる存在ではないかと思われる。そこで、私は武士道をどのように教えているかと質問してみた。担当官は、最近、東大教授が来て武士道についての講演を行ったが、武士道を教えることを制度として決めてはいない、様々な歴史的事実を学ばせることで自然に身につけさせるようにしていると答えた。

 平和憲法、特にその9条との関係で自衛隊の存在は複雑だ。民主党政権になって一層難しい問題も生じている。しかし、有事や大規模な災害に備える上で自衛隊の役割が大きくなっていることは間違いない。

◇校内で鈴木貫太郎の資料に接し嬉しくなった。時々このブログで取り上げているように、前橋の桃井小を経て前中で学び、終戦時の首相として、本土決戦を避けることによって日本を救った男である。

江田島の兵学校では、第27代の校長を務めた。兵学校には、伝統というべき鉄挙制裁があった。上級生が躾の手段として殴るのである。鈴木は人格の向上は各自の自覚によるべきだとしてこれを禁止した。桃井小の碑には今でも彼の言葉、「正直に腹を立てずにたゆまず励め」がある。合理的な精神でまっすぐ人の道を歩んだ武人だった。自ら考えた戒名は「大勇院尽忠日貫居士」であると他で読んだ事がある。(読者に感謝)

★次の連載は拙著「炎の山河」です。「地方から見た激動の昭和史」という副題がついています。恩師の林健太郎先生が「すぐれた歴史叙述」と評価してくれました。どうか、ご覧下さい。

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2009年11月19日 (木)

「広島で原爆の悲劇を見る」

◇今、広島市のビジネスホテル東急インで筆をとっている。暴力のまちといわれた広島市の県警本部の調査は、多いに収穫があったが、私の胸は「原爆投下」でいっぱいだ。慰霊碑、資料館で湧いた熱い思いを伝えたい。世界遺産となった原爆ドームの頭部の赤茶けた鉄骨の残骸は数千度の熱線の恐怖を今に伝える。その下に元安川がのどかに流れている。64年前の8月6日、この川は灼熱の炎に追われて飛び込んだ人々と死体で埋まった。阿鼻叫喚の地獄絵が頭に浮かび胸が熱くなる。

 対岸の慰霊公園には、「原爆の子の像」と「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が立っていた。「原爆の子」は、2歳で被爆しやがて白血病を発病、鶴を千羽折れば願いは叶うと信じつつ12歳で亡くなった佐々木禎子の姿である。禎子の同級生が原爆で亡くなった全ての子のためにと呼びかけて像の建設は実現した。サダコは、その後、世界のサダコとなった。私は、かつて、教育の視察でスペインの「サダコ学園」を訪ねた時、地の果ての国で原爆の悲劇と平和を教えることを掲げた学校があることに驚いた。その時のことを想像しながら、格別の思いで少女の姿を見上げたのである。

◇韓国人慰霊碑は、原爆の犠牲となった約2万人の韓国人の霊を祭る。広島は軍需工場がひしめくまちだった。そこには強制的に徴用された朝鮮人も多かったのである。

◇広島平和記念資料館には、原爆が計画されてから投下されるまでの記録があふれていた。爆心地の生々しい事実と共に迫る記録には胸に刺さる迫力がある。トルーマンが傲然と言い放つ映像が流れていた。「原子爆弾は太陽のエネルギーだ。科学の根源的な力である。極東で戦争を始めた者どもにこの力を・・」戦争の最中だから当然であるが、この言葉から強い憎しみが伝わる。そして、原爆の威力と合いまって、私の耳には悪魔の声に聞こえた。

◇ドイツの物理学者ハーンが核分裂とそれに伴って巨大なエネルギーが発生する事を発見したのは1938年12月で、その翌年9月に第二次世界大戦が始まる。アメリカが原爆研究に乗り出したのはこの年1939年だった。そして、マンハッタン計画と名付けて製造に着手したのは1942年のことである。当時の金で20億ドルの巨費と12万人の人間を動員して1945年7月16日実験を成功させ、広島への投下は同年8月6日であった。アメリカは、早く戦争を終結させることを原爆投下を正当化させる理由とした。

このような記録をミニスカートの女子高生たちの視線が追っていた。別のボードには、「警告なしの投下が命ぜられたがそれに反対の科学者がいた」とある。私は、「原爆予告を聞いた」と題する広島市のある電信技士の手記を読んだ事がある。この技師はそんな事をもらしてはならぬと上司に外出を禁じられていたという。この技師の情報を活かせたら多くの命が救われたかも知れない。こんな事を仲間の議員と話した。(読者に感謝)

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2009年11月18日 (水)

「性的事件の裁判員裁判、炎の山河の連載」

◇性犯罪を裁判員裁判で審理する場合は、特に難しい問題が伴う。被害者のプライバシー保護である。この種の犯罪(強姦致傷など)の公判が来年1月20日、前橋地裁で開かれる。

 事件は、19歳の女性に対する強姦致傷罪(昨年3月)及び25歳(当時)の女性に対する強制わいせつ罪である。

 裁判員裁判の公判決定は県内で2例目となる。第一例は、来月8日から始まる強盗致傷事件(03年藤岡市で発生)。県内2例目のこの事件は、性犯罪を対象とすることから特別の関心が集まり、前橋地裁は、被害女性保護のため特別の準備を進める。裁判員選任手続きの際も女性の氏名は伏せ、住所も市と郡どまりにし、公判でも匿名にする。氏名は伏せても裁判員に知人が選ばれれば分かってしまうので、女性に名簿を事前に見せ知人が選ばれないようにする。また、この公判には被害女性が出廷し意見陳述することになっているので、その際には、被告や傍聴人と顔を合わせないように、女性との間に遮へい物を置く。

性犯罪における女性の精神的衝撃は、男性の理解を超えるものらしい。レイプされた過去を持つ女性が結婚の挙式を目前にして自殺したという記事を読んだ事がある。公判に出る被害女性の勇気には敬服する。来年1月の公判における女性の意見陳述に注目したい。

◇次の連載、「炎の山河」について。土、日、祝日に連載してきた「遙かなる白根」は、今月15日の第142回で終わり、今月21日からは、「炎の山河」の連載を始める。96年(平成8年)、煥乎堂から出版し、もう1つの拙著、「上州の山河と共に」と合わせて上毛新聞の出版文化賞を得た。内容は、副題の通り、地方から見た激動の昭和史である。

この本は、「すぐれた歴史叙述」と題した東大名誉教授・元東大総長林健太郎先生の序文で始まる。私は林先生の西洋史のゼミに出ていたことが縁で、先生が91歳でお亡くなりになるまで、いろいろと御指導を受けた。ブログの連載も、林先生の序文から始まる。先生は文章の達人である。その達意の文により、序文では、本書の内容と流れが的確に描かれている。

 私は、本書を、95年(平成7年)の阪神大震災及びオウム真理教事件から始めて、過去を振り返る形をとった。地方から激動の昭和史を振り返るポイントとして、昭和初期の県議会、血盟団事件の井上日召、満州国建国、松岡洋右、行幸に伴ういわゆる誤導事件などが、前半部分で取り上げられる。

テロのリーダー井上日召は沼田で育ち、前中(現前高)の出身であった。満州国のところでは、宮城村出身の東宮鉄男が登場し、松岡洋右は、群馬会館で熱弁を振るう姿として描かれる。

 今、歴史の大きな転換点に立つが、過去の歴史を振り返ることが、今後を望む上で重要と思われる。そんな思いで、拙著を紹介することにした。加筆訂正しながら進めたい。

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2009年11月17日 (火)

「新型インフルの恐ろしさを改めて認識する時だ」

◇新型インフルの死者が遂に全国で57人に達した(1110日現在)。このうち、慢性呼吸器疾患とか糖尿病などの基礎疾患を持たない人は19名である。そして、全国の重傷者(入院患者)は6300人で、感染者の累計は738万人といわれるが、現在感染者数は、正確に摑めないので、実際は、遥に多いといわれる。

 私は、最近の中国視察で新型インフルに関して驚いたことがある。マスクをしている人はほとんど見かけず、新聞でも取り上げている風ではなかった。政府が情報をコントロールしていると言う人がいた。だとすれば、人命に関わる一大事が政治体制の違いによって大きく左右されることになる。新型インフルに関しては、正確な情報を少しでも早く手に入れて治療を受けることが助かる道である。

 青島市や済南市であふれるような人の波を見て、ここで「新型」が爆発的に増えたら人命も経済も大変な事になるだろうと思った。オバマ大統領が、14日の演説で、思う事を自由に話し、自由に情報に接することが出来ることは、安定を妨げることではなく、その礎石であると語った事が思い出される。

◇新型インフルエンザの対応に関する日本感染症学会の提言(第2版)を読んだ。その中で、これは重要だと思う指摘がいくつかあった。それを紹介したい。

 まず、今、はやっている「新型」は「弱毒」ではないということ。「弱毒」とか「強毒」とかいうのは、鳥インフルエンザに関するウィルス学の用語で、豚インフルエンザには当てはまらないのだと言う。マスメディアは、臨床的に軽いと言う意味で「弱毒」という言葉を使っているようだが、この点も誤りで、近い過去に人類が経験した「新型インフルであるアジアかぜや香港かぜの出現当時と同じようなレベルの重症度と考えなければならないというのだ。

 言われて見て、弱毒と言う用語は、人々の警戒心を失わせ対策を遅らせるマイナス効果があることに気付いた。現在急速に広がりつつある「新型」は決して軽症とはいえないという。

 次に日本における死亡率は、外国と比べ極めて低いが、それには理由があるというのだ。被害の大きな国々では、患者の多くが発症後1週間前後に初めて医療機関を受診している、そして、重症例や死亡例の多くが発症後4~5日目に呼吸不全を呈しているといわれる。一方、わが国では発症者のほとんどが2~3日以内に医療機関で受診し、ほぼ全例で直ちに抗インフルエンザ薬(タミフルやリレンザ)による治療が行なわれている。南米でも致死率の低いチリではわが国に近い対応がとられ、致死率が高いアルゼンチンやブラジルでは、そのような対応がほとんど取られなかったといわれる。発症後2~3日の対応が重要な分岐点とすれば、情報を速く届けることの重要性が分かる。これからの本格的な流行期に、政治体制の差が何を意味するかが分かるかも知れない。人口13億の中国が再び気にかかる。(読者に感謝)

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2009年11月16日 (月)

「オバマ来たり去る。私の健康管理」

◇胃の内視鏡検査を受けた(15日)。毎年やっているが胃カメラも昔と比べ格段に楽になった。慣れもあるが手に汗をするという緊張感はない。ガンの恐ろしさが小さくなったこととも関係があるかも知れない。今年も大丈夫だった。ついでに医院の廊下にある器械で血圧を測ったら、138と80。脳のMRIは9月に受診した。まだ老化は始まっていないといわれた。これらは、今月3日の県民マラソン10キロ快走を支えた要素である。私の人間機械もまだポンコツの域には至らないとみえる。

◇私は、9日、中国曲阜(きょくふ)市の孔子研究院での宥座の器の除幕式の時、人間の健康と欲望も相関関係にあると思った。鎖に支えられた壺が水を一ぱいにしたとき覆える様は、タバコや酒をやり過ぎて病に倒れる人間の姿にも見えたのである。

 中国で今、孔子の「論語」がブームとなっているといわれるが、その背景には、自由主義経済と共に押し寄せる欲望の波に呑まれまいとする中国人の知恵が働いているのかも知れない。

 今回の山東省訪問で知り合ったある人民政府の人は、物が豊かになって健康に被害が出ることを心配していると話していた。曲阜師範大学の講演で、群馬大学が画期的なガン治療施設を間もなく完成させると話したとき、学生たちが強い関心を示していることが彼らの眼差しから分かった。中国は様々な問題に関して私たち日本を追走している。

◇オバマ来たり去る。史上初の黒人大統領は一陣の風のように去っていった。今まで来日したどの米大統領よりも、オバマの来日とその語ったことは歴史に残ることだろう。

 演説文を読んでなるほどと思ったことがいくつかある。まず、核兵器の廃絶に関して、地球上で、日米の2か国ほど核兵器が何をもたらすかを知っている国はないと語った。また、日本は、原子力の平和利用と核兵器開発拒否を続けることによって真の平和と影響力を獲得できることを世界に示した例であると述べた。

 そして、私が特に感じたのは、オバマが民主主義と人権を強調した点である。それは、オバマ自身がこの原理と思想によって大統領に選ばれたことと結びつけて考えると重みがある。オバマは次のように語る。「伝統的な文化や経済成長は、人権の尊重によって損なわれるのではなく逆に強化されてきた。人権を支持することは他の手段では得ることが出来ない継続的な安全をもたらす。(このことは)、米国の民主主義と同様に日本の民主主義で見られる話だ」

◇民主主義は結論を出すのに時間がかかる、「八ッ場」は合意形成に30年も要したが、中国では長江にダムをつくると決めればあっという間に出来る。こんな話が過日中国で出た。民主主義はベストかと問われれば時に戸惑うが、オバマの発言には、人類の歴史の試練の中で生まれた民主主義というものの重みがある。(読者に感謝)

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2009年11月15日 (日)

遙かなる白根 第142回 子どもたちの叫び

―白根開善学校の創立時、本吉校長や父母会がしきりに“父母立学校”ということを叫んでいたことが思い出される。白根開善学校の原点を理解しない人たちが増えてきたのか、子どもたちが変わったのか、先生たちの力量不足なのか、あるいは、世の中全体が大きく変化していることが原因なのか。白根開善学校はいろいろな曲折を辿りながら歩み続けている。A君が指摘する白根開善学校も重荷を背負って歩み続ける一コマなのである。

あとがき

本書は、あさを社の月刊上州路に1998年12月号から2000年7月号まで連載した“遙かなる白根”に加筆、修正したものである。知的障害をもって生れた長男周平を実名で登場させた。かつては天を恨んだこともある私。世間に対して開きなおるという気負ったものが心の片隅にあったかも知れない。しかし、それよりも周平の姿を示すことによって教育とは何か、人間とは何かを考える1つの材料を提供したかった。周平は平成13年3月1日、白根開善学校高等部を卒業し名誉の開善賞を得た。中学一年から6年間を白根で頑張り、この間5度実施された100キロメートル強歩で3度完歩した。開善賞を手にした周平の晴れた笑顔に私は拍手した。周平はこの年4月、“宮城の里デイサービスセンター”に就職した。新たな100キロ強歩で完歩してくれることを祈る。

本書を世に出すについては煥乎堂の武藤貴代さんにお世話になった。又、さし絵は“上州路”に連載した時の反町隆子さんのものを使った。あさを社を始めこれらの方々のご協力に心から感謝申し上げる。

★この連載も、1121日で終わります。次の連載は拙著「炎の山河」です。「地方から見た激動の昭和史」という副題がついています。恩師の林健太郎先生が「すぐれた歴史叙述」と評価してくれました。どうか、ご覧下さい。

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2009年11月14日 (土)

遙かなる白根 第141回 子どもたちの叫び

白根開善学校は都会から遠く離れた山の中にあるが、それでも激しく揺れ動く社会の影響を受けるのは当然である。創立期からの生徒の動きを見てくると学校全体が変わりつつあるようにも思えてくるのである。次に取り上げる弁論(作文)からはそのような学校の変化とそれに悩む生徒の姿が伺えるのである。

 

平成6年高等部2年A

   -先生も学校も変わってしまう

 A君が今一番思うことは、学校の空気がギクシャクしてきて本当の自由がなくなってきたということである。A君がこの学校に入ったのは中学3年の冬で、その頃は先生方にも都会の先生にはないおおらかなものがあったと思う。A君はそれが気に入っていた。しかし高一になってから学校が少しずつ変わってきたように思える。先生が厳しく接するようになったことだ。それは、親たちがいろいろと口を出すことが原因だとA君には思える。親とすれば子どものためにと思って学校に対してあれこれ言っているのだろうが、生徒はそのために学校全体がとても息苦しいと感じるようになった。

 いままで、先生と生徒たちはうまく生活してきたのに、それを壊しているのが親のようにA君には思えるのだ。自分の子どもにどうしても厳しい教育をさせたいのなら、この学校をやめさせてどこか頭のいい学校にいかせればいい。A君はこの学校の自由なところが好きだ。いい友達も出来た。先生ともうまくやってきたと思っている。しかし、今みたいに新しくできたきまりで生徒を縛れば、そのうちきっと生徒は反発し、友だちとの関係も、先生との間もうまくいかなくなると思う。A君は以前この学校には、自分のことは自分で解決できる人が沢山いたように思う。寮の中にも生徒の中だけできまりみたいなものがあったが、今どんどんそういうものが無くなっている。親は子どものことが分からないで学校に注文ばかりつける。こんなことを続ければ学校はどんどん悪くなってしまう。A君は、親の意見が原因で毎日ため息をついて過ごすのがとてもいやだ。A君は、最後に次の言葉でしめくくる。

「父兄の皆さんは、生徒たちをもっと信用して自分の子どもの意見ばかりを取り入れず、全生徒のことを考えて、じっくり見守ってほしいと思います。」

★この連載も、1121日で終わります。次の連載は拙著「炎の山河」です。「地方から見た激動の昭和史」という副題がついています。恩師の林健太郎先生が「すぐれた歴史叙述」と評価してくれました。どうか、ご覧下さい

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2009年11月13日 (金)

「中国の大学で天皇を紹介。即位20年の言葉」

◇9日、曲阜師範大学で講演した時、戦後の日本の歩みの中で、「日本国憲法」及び「天皇」を簡単に紹介した。憲法のところでは、自由と平等を手に入れた国民は貧しさから抜け出すために一生懸命に頑張って復興を成し遂げたことを説明、「天皇」の項では、昭和天皇と平成天皇の姿を映像で紹介した。天皇については極く簡単に触れたが学生たちの視線は大いに興味あることを示していた。

 かつて、ある中国人が「日本には独自の文化がない、皆中国から来た」と言って私と口論になったことがある。連綿と続く皇室こそ日本独自の文化だと、私はその時主張した。

 一種の革命ともいえる激変の中で生れた新憲法の下でも、天皇は、国民統合の象徴として存在していることを中国の学生に知ってもらいたいという思いがあった。そして、私の胸には、帰国後間もなく行われる天皇即位20年記念式典の事があった。

◇即位20年の記者会見で天皇は、いくつかの重要な問題を語られた。私が注目したのは、拉致、大震災、歴史の風化である。拉致については、日本人は、今と違って拉致の事を事実として認識しなかったため多くの被害者が生じたことがかえすがえすも残念だと述べた。この言葉を公安当局はどう受け止めたか。事実をもっと早く国民に知らせることは出来なかったのかと、私は思う。

 阪神大震災については、この地震はその後に大きな教訓を残したこと、そして、人々の間に災害に対する協力の輪が広がったことを語った。天皇の言葉の通りこの大震災は日本の社会に新しい潮流を作った。1975年1月から1年間に延べ約137万人のボランティアが救済に参加し、ボランティアの重要性が大きく認められ、NPO法案がつくられる契機ともなった。そのために、この年はボランティア元年と呼ばれるのである。中国の四川大地震でも、ボランティアの動きがあった。人間の心には共通の助け合う心があるのだろう。日本の特色は、ボランティアの動きを制度をつくってサポートするようにしたことだ。

◇天皇が、過去の歴史が次第に忘れられていくのが心配だと語られたことには重大な意味がある。毎年八月に行なわれる戦没者慰霊祭が空回りして先細りしていくと感じられるのは、戦争が忘れられていくからだと思う。

戦争の体験者が少なくなってきた。彼らの存在は、歴史の生きた証人として貴重である。この人たちが証言し、体験を伝えるタイムリミットは迫りつつある。天国の戦死者は、形だけの慰霊祭を空しく思っているに違いない。

私は、八月十五日の慰霊祭には、若者を大規模に参加させることを工夫すべきだと思う。天皇は慰霊祭でお言葉を述べながら同じことを感じておられるのではなかろうか。象徴天皇が制約される範囲で発言されることの言外の意味を私たちは真摯に受け止めるべきだと思う。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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2009年11月12日 (木)

「続く死刑判決に思う。孔子の里の犯罪状況は」

◇前橋市三俣町のスナックで、暴力団により市民らが射殺されてから早くも7年近く経つ。それは平成15年1月25日のことだった。暴力団の抗争にからむ事件で組員1人と巻き添えになった民間人3人が射殺され、平和なまちは恐怖のまちと化し、市民は暴力団の怖さを改めて思い知らされた。 この時の現場における2人の実行犯は既に1、2審で死刑判決を受け、1人は最高裁で死刑の確定判決が下され、他の1人は現在上告中である。当時から問題とされたことは、背後にあって殺人を指令した者に殺人罪を科すことが出来るか否かであった。 一般の感情からすれば、背後で指令した者の方がはるかに責任が重い。実行犯は、命令によって動かされるコマに過ぎないのだから。しかし、現場にいなかった者を殺人の実行行為者と認定することは出来ないという考えがあった。 東京地裁は、指令を下した者と実行した者とは、一体となって殺人を実行したと認定し、背後の指令者、矢野治に対して死刑を科した。被告は控訴していたが、東京高裁は、地裁の死刑判決を支持し控訴を棄却した(10日)。法廷内は、傍聴席の前を防弾パネルで仕切るというものものしさであったといわれる。死刑判決をうけた三人のうち、小日向将人被告については最高裁で死刑が確定し、山田健一郎被告は上告している。今回判決を受けた矢野被告も上告する方針だという。 ◇長くかかる裁判、なぜ優秀な人があのような事件を、宗教とは何か、そんなことがぎっしり詰まった裁判がオウム事件裁判だ。地下鉄サリン事件は発生から15年近く経つ。猛毒サリンによって12人が死亡した。8人の死刑が確定し、他に2審で死刑判決を受けた5人が上告中である。犯罪の規模、カルト団体による犯罪、高学歴者による犯罪という点で前代未聞である。 今月、注目すべき死刑判決が最高裁で下された。豊田享及び広瀬健一郎両被告の上告を棄却したもの。豊田被告は東大で、広瀬被告は早稲田でそれぞれ物理を学んだ高学歴の教団幹部だった。 オウムへの入信の動機は、教祖松本死刑囚から直接声をかけられたことである。教祖の指示通りに行動することが人々の救済になり、救済のためであれば殺人も許されると信じた。 このような高学歴者は非常に多いに違いない。私は、昔、東大で、変身したように各教室を回って説教を始めた男のことを思い出す。このような頭脳が優秀といえるのか疑問だ。2人の被告は深く反省し後悔しているといわれる。彼らは、勉学の過程を振り返って、真に学ぶべきことを学ばなかったと悔いているだろう。生きる力を掲げる日本の教育界は、この問題を改めて重視すべきだ。私は孔子の里、曲阜の犯罪状況を調べてみたいと思う。(読者に感謝)

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2009年11月11日 (水)

「山東省訪問を振り返って。師範大学で」

◇九日の山東省は突如寒気に襲われ私たちは大陸の冬につかまってしまった。10日の地元紙「今日済南」の一面は、大冷天の文字でこの冬一番の寒さを告げていた。済南駅で求めた新聞で日本の記事を捜すと「酒井緩刑3年」がすぐに見つかった。酒井法子のカラー写真つきである。ガイドの龍さんは、「執行猶予、日本の刑は軽いね」と即座に言った。

 10日夜、帰国すると、日本の新聞は、「酒井法子被告有罪」として、東京地裁が、懲役1年6カ月執行猶予3年の有罪判決を言い渡した事を報じていた。また、執行猶予とした理由として、「夫との離婚を考え、所属の芸能プロダクションを解雇されるという社会的制裁を受けている」という裁判官の発言を伝えている。繰り返しこのような事が行われている芸能界は困ったものだ。この際薬物の恐ろしさを徹底して青少年に教えなければならない。私は、薬物依存症にかかった人を救う群馬ダルクにかかわっている。依存症になると完治は不可能といわれる。

◇帰国した深夜のテレビは、イギリス人女性殺害にかかわる市橋容疑者の逮捕を大きく取り上げていた。日本の犯罪多発の空気の中で改めて曲阜師範大学のことが頭に甦る。

 この大学は山東省の重点大学である。9日の早朝、我々のバスは省政府要人の先導で市街を進み大学を目指した。林立する高層ビルの間に車が川のように流れ、足早に動く人々の姿があった。内陸の街の近代化の勢いを私たちに見よとばかりに先導車は進む。

 曲阜師範大学の正門は昔を思わせる二層の赤レンガの屋根を載せ、一方の柱には孔子文化大学の看板がかかっている。門から望むと左右の立木の列の中央に高い校舎を背景にした黒い立像があった。

◇近づくと、長いひげをたらし、両手を胸に当てた巨大な孔子像だった。これだけで、この大学が孔子の教えを基本にしている事を示すには十分だと思った。そして、孔子ゆかりの宥座の器の贈呈式とセットでこの大学における記念講演を計画した人民政府の意図が分かる気がした。

 会場を埋めた学生の服装は地味で表情は堅実に見えた。私語は全くなく私に集まる視線は彼らの思いを伝える言葉であった。私は原爆の惨状と日本国憲法も語った。瓦礫の廃墟から日本人を導いた新たな目標が平和と人権と国際協調だったと。

 講演の後、2、3の学生から難しい質問があった。中央集権と政治不信との関係は、民主党の政権になって不安はないか、閣諸島の問題をどう考えるか、等であった。最後の質問の時、前列に座っていた人民政府の人が後ろを向いて両手を軽くクロスする仕草をしたようであった。それは、人民政府が私たちを困らせないようにと気をつかった姿であったろう。私は、無難な政府答弁のような答え方をしたが彼らには不満だったかも知れない。また、このような機会を持ちたいと言ったら大きな拍手が起きた。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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2009年11月10日 (火)

「師範大学の講演と宥座の器の贈呈式の成功」

◇曲阜市の朝は身を切るような寒気に包まれていた(9日)。9時少し前に曲阜師範大学の校門をくぐると、いきなりドーンと大きな孔子像が立ち、その後ろの高い建物に、「熱烈歓迎日中孔子文化交流団」の赤い文字が躍る。孔子像の前に任廷埼学長たちが待ち受けていた。講演前に学長との会見が予定されていたが、時間がない事を恐れた私は

講演の場で会うことを提案していたのだった。

 講演会の場は別の建物内にあった。そこへ向かう通路の両側にはイチョウの木が並び、黄色い葉のアーケードが私たちを迎えているようであった。大学のキャンパスにはイチョウ並木が似合う。私は、東大構内の情景を想像しながら思った。

 講演は9時開始となっていたので、私は多くの学生が詰め掛けている光景を頭に描いていたが、私の予想は外れ、広い会場に人影はまばらだった。私は、参加者が少なくとも真剣にやろうと自分に言い聞かせる。パソコンの操作をかって出ていた人民政府の李雪岩さんが、「講演は、9時15分なので、時間になると学生は一度に入ります」と私の腹の中を見透かすように言った。

 李さんが言った通り、時間になると学生が押し寄せるように会場に現れた。大学の職員が空席を見つけたり新たなイスを持ち込んだりしておよそ300人が会場を埋め超満員となった。身内に力が湧き嬉しくなる。私に注がれる学生の視線に異文化に接する時の好奇心が感じられる。会場には初対面の緊張感が流れていた。「大家好(ダージャハオ)、見到大家(チェンダオダージャ)、我很高興(ウオヘンガオシン)・・」と私が中国語で初めると、「へぇー」と言う空気と共に一斉に拍手と笑顔が起きた。心を開いて私の話を聞く雰囲気が一挙に生れた。緊張していた通訳のロンさんの表情にもホッとした笑顔が現れていた。

戦前の日本の富国強兵・殖産興業政策を話す中で、戦争で中国に迷惑をかけたことに触れ、私は、歴史的事実を謙虚に振り返って反省したいと言ったら大きな拍手が起きたのは意外だった。「教育格差」では東大の安田講堂の映像を使った。重粒子線ガン治療施設にも注目が集まった。私の講演は、学生の表情からみて成功であったらしい。私の議員日記約90冊をプレゼントした。

◇急いで宥座の器贈呈式の会場に向う。孔子研究院は広大な施設で、孔子の博物館でもある。約500人の孔子を学ぶ学生たちが集まっていた。私は、「孔子の教えは2千年の時を経て現代社会で一層重要になった」と挨拶した。

◇夜の祝賀会は人民政府が主催した。鮑志強氏は、宥座の器の贈呈式と私の講演の成功を心から祝ってくれた。私は孔子によって結ばれた山東省と群馬との絆を深めていきたいと挨拶した。この宴には孔子75代の直系の方が出席していた。この夜の酒は実にうまかった(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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2009年11月 9日 (月)

「『有座の器』贈呈式・曲阜師範大学での講演」

◇今、中国、曲阜のホテルで時間に追われながらこの文章を書いている(8日夜)。中国時間で午後9時半を回った。闕里賓舎という曲阜では上級のホテルで、廊下には、宿泊者の写真の中に江沢民のものもあった。先程の晩さん会には、山東省人民政府外事弁公室の2人の幹部、李徳峰氏と李雪岩氏がいた。数百キロはなれた省都済南から明日の2つの行事のために駆けつけたのだ。

 2つの行事とは、曲阜師範大学における私の記念講演と「宥座の器」の贈呈式である。2人の幹部の語るところから、山東省人民政府と曲阜市が、この2つのイベントを重く受け止めていることを感じた。

 挨拶と乾杯の中でも、「中村先生の講演が成功しますように」と言われ、まだ見ぬ講演会場の状況が私の頭をかすめた。そして、懇談の中でも、私の左右に座った二人の李さんは、「曲阜師範大学はレベルの高い大学です」とか、「学生は明日、授業を休んで講演に参加するのです。私たちも楽しみにしています」などと語りかけるのである。

 演題は、「経済大国日本の挫折と再生の課題」だ。固い話をして聞いてもらえなかったらどうしようと悩んだ私は、レベルの高い話を易しく面白く話そうと決めた。そして、今、改めて、明日の講演の導入部で次のようなことを話そうと思っている。

「日本は敗戦から立ち上がって世界第2の経済大国になりましたが、今日の日本では、豊かになると同時に、困難な問題がいろいろ生じました。日本再生のために一番大切なことは人づくりだと思っています。物は豊になったが、日本人の心は貧しくなったと言われているのです。孔子の教えは、2千数百年を経ても生きています。孔子ゆかりのこのまちで、そして、皆さんの前で、人間の心の大切さを語る機会を得たことを私は大変嬉しく思っています」と。

◇私の講演は、明日午前9時から始まり、その後、11時から孔子研究院で「宥座の器」贈呈式が行なわれる。現代の名工針生清司さんは、孔子と等身大の器を分解して日本から送り込み、今日、孔子研究院で組み立てを行った。

針生さんは、宥座の器を設置する素晴らしい台座が既に創られていたことに感動しておられた。そして、贈呈式が予想以上に盛大に行なわれるらしいことに、かなり恐縮しているようであった。

宥座の器を組み立てる時、密閉する空間に何か記念物を入れようと針生さんが提案し、各人の名刺を入れることになった。私は、勧められて、私の著書3冊を入れた。ブログから本にした議員日記1~3巻である。

「タイムカプセルですね」という愉快そうな笑いが起きた。昔の仏像の胎内からいろいろな物が発見されることが思い出された。曲阜の夜は、物音も止んで静かにふけていく。明日の夜は、うまい酒が飲みたいものだ。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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2009年11月 8日 (日)

遙かなる白根 第140回 子どもたちの叫び

バッティングセンターで先生は、バントやバスターなど手をとって教えてくれた。危険を冒してまでこんなことをやってくれる先生に、O君は胸の中が熱くなった。「先生の気持ちに応えなければ」とO君は心に誓ったのである。

 夏になると毎晩夕食後プールで千メートル泳がされた。T先生は毎日必ず25メートルのタイムを計る。O君のタイムは14秒だ。

「13秒台はなかなか出ないな」

先生は、こういって毎日こぼしていた。話によれば、負けず嫌いのO君は、先生の期待に答えようと真剣に泳いだ。そして、とうとう13秒台が出せた。先生がにやりと白い歯を見せて笑った。O君も笑い返した。

 白根開善学校に入ると決まったある日、T先生は、O君の手をしっかり握って言った。

「お前はよく頑張った。希望をもって努力すれば必ず道は開ける。山の学校でも、しっかり頑張ってくれ」

 O君は将来、教護院の教官になりたいという。不良だったどうしようもない者が教護院に来る。なんとか頑張って退院するもの者もいれば、自分自身に負けて脱走する者もいる。そんな連中とO君は一緒に生活してきた。T先生のかわいがった生徒が何回も脱走をくり返す、T先生は何度裏切られても生徒を信じた。O君は、そういうT先生をじっと見てきた。O君は、先生のそういう忍耐と努力に憧れた。

 「入ってくる暴れん坊どものことを最後まで面倒を見て、社会に出ても立派な人間になれるようにチャンスを与えられる教官、それが私の夢です」

 O君はこう結んだ。

―O君は教護院生活という貴重な体験をした。T先生との出会いを生かして貴重な体験を獲得したというべきだろう。人生の逆境、そして、人生の回り道は、本人の自覚と努力によって、素晴らしいバネを与えてくれる。O君は、白根開善学校に新天地を見い出して意義のある生活を送ったことであろう。その後のO君が教護院の教官になったかどうかは分からない。しかしいずれにしても、教護院と白根開善学校の体験を生かして、どこかでたくましく頑張っていることであろう。

★この連載も、1121日で終わります。次の連載は拙著「炎の山河」です。「地方から見た激動の昭和史」という副題がついています。恩師の林健太郎先生が「すぐれた歴史叙述」と評価してくれました。どうか、ご覧下さい。

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2009年11月 7日 (土)

遙かなる白根 第139回 子どもたちの叫び

O君が配属された寮は三寮といった。そして、一つ年上の人と二人で生活することになった。それから間もなく寮長がT先生に変わった。そこでO君とT先生が出会うのである。初めの印象は、厳しそうな人で嫌だなと思った。そして間もなく、二ヶ月後のバドミントン大会に向けてO君たちは、T先生と猛練習をすることになった。O君は初め上手でなかった。T先生と試合をやると必ず負けた。45、6歳の中年のおやじに負けるのが悔しくてO君は一生懸命練習した。

「まだまだ若いもんには負けねえぞ」

先生はそう言ってにやりと笑った。O君も思わず笑顔を返していた。汗を拭いながらO君は、この時はじめて、T先生と心が通じ合えたと感じた。そして、ダブルスの大会に出場し、2位になり賞状をもらった。それはO君が中学校の生活で初めて手にした賞状だった。T先生はO君の手をしっかりと握って、よくやったと自分のことのように喜んだ。O君は最高に嬉かった。

 次は、教護院恒例の野球大会が待っていた。O君は野球が嫌いであるが、野球部の一人が脱走して欠員が生じ、T先生はO君に入部してくれと頼んだ。O君は、T先生に頼まれれば断れない。入部して練習が始まったがO君はすごく下手でバッドが当たらないし、投げた球が違う方向に飛んでいったりする。

「バットを持って外で待ってろ」

ある日O君は、急にT先生から言われた。言われた通り晩飯を食べた後玄関で待っていると、T先生の車が目の前で止まった。

「乗れ、いいか、学院を出るまで伏せていろ」

T先生は後ろも振り向かず、低い声で言った。車にはもう一人の生徒がいた。行き先は、バッティングセンターだった。

 外に出してもらえる。しかもバッティングセンターに連れていってもらえるなんて、O君にとって夢のようなことである。もし、他の先生や生徒に見つかったら大変なことになることをO君はよく知っていた。

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2009年11月 6日 (金)

「魔性の女とは。曲阜師範大学、講演の題を変える」

◇「女詐欺師・魔性の婚カツ」、「魔性の女、男性6人死の連鎖」、「毒婦のグロテスク人生」、「木嶋佳苗34歳の正体」。こんな活字が一斉に週刊誌に現われ始めた。これらが先頭に立ってマスメディアの大合唱が始まったようだ。

 世間では、多くの人が、この34歳の女のことを、連続殺人罪の犯人と見ているに違いない。逮捕の理由は詐欺容疑のみで、殺人については状況証拠のみという点が問題である。大新聞がこれまで、女の実名と顔写真を出さなかったわけはこの点にあるのだろう。名前と写真を出せば、この女は、世間から連続殺人犯と見られてしまうからだ。

 代表的な週刊誌の中では、週刊朝日がいち早く写真と実名を公表したことに驚いた。文春と新潮がこれに続いた。このような報道の姿勢に、またかと反感を抱きながらも、それに引き込まれていく自分に戸惑う。捜査機関も、このような過熱気味の報道に尻を叩かれるようにして頑張り出したという感もある。

 それにしても、この木嶋佳苗という女、少しもいい女とはいえない。「まあブスね」と私のまわりの誰かが言った。結婚サイトでは、顔のよさより家庭っぽい女性がもてるのだとも言われる。だまされた人と取られた全額がずらりと並ぶ一覧表を見て、世の中には、女性を求めて淋しがっている男性が多いことに驚く。「この女は世の中のブスに自信を持たせてくれる」と言った人がいる。なるほどと思いつつも笑う気にはなれない。しばらくは、この事件をめぐりマスコミの報道合戦が続き、その報道ぶりが裁判員裁判との関係で、また、問題とされることになるのだろうか。

◇山東省の曲阜師範大学における講演の中味を変えることにした。向うの準備も考えて、私が使う映像資料をCDにして送ったら、外事弁公室からアドバイスが届いた(5日)。先進国日本について中国の学生が将来参考になることを話して欲しいという事らしい。言われてみて、なるほどと気がついた。私は、群馬県と山東省との交流のみに気持ちを奪われていた。現代の名工である針生清司さんの作品を群馬から納める式典の記念講演だから群馬の紹介に焦点を絞ろうと考えていたのだ。しかし学生とすれば、この機会にもっと広い視野にたった話を聞きたいと思うのは当然の事だ。私は、アドバイスを快諾し、急拠、新しい演題を送った。

 それは、「経済大国日本の挫折と再生の課題」である。少子高齢化、格差、教育、新産業などを題材として語ることになるだろう。その中で、毎年自殺者が3万人を超えるのはなぜか、また、豊かな家庭でないと東大に進学できない現実などにも触れたいと思う。そして新産業では、科学、農業、観光などに話を進めて、群馬の自然や温泉、重粒子線ガン治療などを取り上げようと思う。大変忙しい事態になった。学生の顔が見えないことが気になるが、新中国を担う気力に満ちた学生をイメージして準備を進めたい。(読者に感謝)

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2009年11月 5日 (木)

「曲阜師範大学の講演が近づいた」

◇中国への出発が2日後に迫った。訪中の目的は、山東省曲阜(きょくふ)市の孔子研究院に「宥座の器(ゆうざのき)」を納めることである。7日に出発して、9日に贈呈式が行われる。ここに至るまでには重要な経緯があった。

 まず、07年に福田康夫首相(当時)が山東省を訪ね本県との友好を呼びかけた事がきっかけで山東省政府と群馬県との間で積極的な動きが始まった。この動きに私が会長を務める日中議連が加わることになった。孔子ゆかりの「宥座の器」を日中議連が仲介して山東省に届けることを提案したのは、議連のメンバーである須藤和臣さんである。この春、私を団長とする訪中団が山東省政府と話し合って一気に事は進んだ。驚いた事に、山東省政府はその後、贈呈式の日程の中で、私が曲阜師範大学で記念講演をすることを要請してきた。私の記憶は薄れているが、須藤さんの記憶によれば、山東省済南市における歓迎会の席で、私は、大連外国語学院大学で講演したことに触れ、その時、山東省でも機会があれば話したいと発言したらしい。酒席における一語一語を真剣に受け止めてくれた中国人の真摯な態度に、私は敬服し、貴重なチャンスを日中の文化交流に活かそうと決意した。

 大連外国語学院大学の時はやはり日中議連の仕事として県立女子大との交流提携を成し遂げて行われた調印式の日の記念講演であった。ふるさと未来塾の要領で取り込んで持参した映像を映して日本と群馬を紹介し好評を得た。

 今回も同様なやり方をと考えて準備した。この事を伝えると中国側は早速、内容を知りたい、それによって呼びかける学生を考えると言ってきた。やりとりの文面の底から中国側の誠意がにじむ。私は、これに応じてCDを送った。

 その中には、政治家としては、群馬県の4人の総理、そして今、世界の注目を集める鳩山首相が入れてある。群馬県出身の首相については、福田親子のことを話すが、特に赳夫さんは日中友好条約を締結した人であることを説明し、鳩山首相ついては日本に於ける政権交代に触れるつもりだ。その他、群馬の温泉と産物、群大の重粒子線ガン治療施設を取り上げる。

 もう1つの柱として用意しているものは、敗戦から立ち上がった日本の姿である。原爆のキノコ雲、廃墟と化した広島、孤児たちが映される。この部分を中国の若者はどのように受け止めるか、興味あるところだ。最後に、現代日本の課題を示すものとして酒井法子の記事も入れた。中国人の李さんが来て、中国語の発音などアドバイスしてくれた(4日)。孔子生誕の地の若者は、孔子をどのように受け止め、何を受け継いでいるのだろうか。曲阜師範大学は2万人以上の学生を擁する大きな大学である。未知との遭遇に期待がふくらむ。

◇韓国の新型インフルエンザの流行は最高レベルに達したという。中国大陸では、この未知なる敵の襲来をどのように受け止めているのか。このあたりも見て来たいと思っている。(読者に感謝)

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2009年11月 4日 (水)

「県民マラソン10キロ完走、県連会長決まる」

◇57分45秒。県民マラソン10キロコースの私の記録である。全力を尽くしてゴールを踏んだ時の達成感は格別。今年も頑張れたと青い空を見上げて叫んだ。

 第19回県民マラソンが3日行われた。会場へ向かう途中、青空の下に山頂を白くした赤城と榛名が見えた。気温は7.6度。広い競技場では身を切る寒さの中で多くの人は様々な動きをし緊張した雰囲気が満ちていた。

 10キロコースは午前9時10分集合、スタートは9時40分である。この日、県連の緊急重要会議が8時半から開かれたため、私はスタート直前に会場についた。利根川沿いの国体道路には既に、およそ5000人がひしめいていた。

 スタートの号砲が鳴るといつものパターンで、私は奔流に投げ込まれたような状態になる。若い人の体が波のように私に打ち寄せ先へ先へと流れる。4日前の10月30日、私は69回目の誕生日を迎えていた。体力も気力も若い人に負けないつもりでいるが、今回のマラソンの記録は私の自信を打ち砕くかもしれない。多くの人に追い越されていく中で、そんな不安が頭をよぎる。

 敷島公園に入り、バラ園を回り、再び国体道路に出る。昨年はこのあたりで呼吸が苦しくて完走できるか不安にかられたことが思い出される。今年は苦しさはない。完走は大丈夫とやや自信をもつ。「スッス、ハッハ、スッス、ハッハ」、「ホイホイサッサ、ホイサッサ」呼吸を工夫し、足の運びと調和させ走りのリズムを作ろうと努める。

 国体道路を南下してグリーンドームが見える頃、いくらか気持ちにゆとりが持てるようになった。今年も、実に様々な人が走っている。マラソンで走る人の姿には、それぞれ、人生の集約された一コマが現れていると思う。目の前を一心不乱に走る娘さんは、走ることで得られる生きる力を人生設計のベースにしようとしているかも知れない。かくいう私も、これからの人生のステージをマラソンの成果の上に築こうとしているのだ。

 呼吸を整え、リズムに乗ってゴールに走りこむことが出来た。昨年より35秒記録を伸ばすことが出来た。昨年は、58分20秒だった。(先日のブログで57分20秒と書いたのはミス)振り返って、この35秒に重い意味が込められていることを感じるのだ。

◇空席となっていた自民県連会長に中曽根弘文さんが正式に決まった(3日)。自民党の危機が深刻な時、党員と議員が選挙によって決めるべきだという山本一太さんの発言もあった。一期の県議は党改革を進める中で会長の選び方も思いきって公選制に改めるべきだと共同の意見書を読み上げた。このような中、県連再生プロジェクトチーム設置が決定された。「この危機的な現状の中で再生プロジェクトを力強く勧めていく」と新会長は語った。(読者に感謝)

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2009年11月 3日 (火)

遙かなる白根 第138回 子どもたちの叫び

白根の山に集まる多くの子どもたちには、U君と同じように、開善学校との様々な形の出会いがある。しかし、その出会いをどう受け止めるかは、子ども達一人一人によって異なる。従ってまた、その出会いから受取る果実も一人一人異なる筈である。U君は、白根開善学校と出会い、そこで何を掴んだのか。U君は今頃、どのような人生を生きているのか。彼女に振られてオートバイの上で流したあの涙を、どのように振り返っているのであろうか。

平成5年創立15周年記念弁論大会、高等部3年0君

― 教護院に入る、そして先生との出会い

O君は元気がよすぎたのか、問題行動の多い子どもであったらしい。先生との出会いの場は、教護院であった。教護院とは、かつては感化院と呼ばれていた所で、不良行為を行う(または行うおそれのある)18歳未満の少年を収容して、教育保護を行うための施設である。

O君はここで、ある先生と出会い自分の人生の方向を決心する程の影響を受けることになる。弁論大会のためにO君が書いた作文は文章も良く、論旨も一貫していて感心させられる。

それを読むと、その後のO君に会ってみたいという気持ちになる程である。

「私とT先生との出会いは約3年前の1月のある大雪が降った日でした。私が施設に入ったのは、その前年の9月下旬です。最初の1ヵ月は単独部屋で、先生以外の人とは一切会えず外出もできません。自分を見詰め直しながら生活した後、やっと寮に配属されます」

これは、O君の作文の書き出しの部分である。この施設に入る前、O君に何があったかは知らないが、1ヵ月の間、人に会えず、自分を見詰め直す生活をするのは、大変なことである。

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2009年11月 2日 (月)

「県民マラソンが迫った。川崎市長の当選」

11月になって最初の大仕事は3日の県民マラソンである。事務局からナンバーカード引換券が届いた。30001。男子10キロの部でナンバーは1番である。10回目の出場で、ほぼ毎年1時間以内で走る。昨年は57分28秒、一昨年は57分27秒だった。10キロを走るために一年間節制し体力と気力の維持に努めてきた。誰かが、「は、まら、がん」といった。がんは眼のこと。体の部分で衰える順序のことだ。私も、それぞれが衰えているが、「10キロ」への挑戦は体の衰えに対する挑戦でもある。

 私が重視しているのは、体力もさることながら精神力の点である。車社会の便利さに流されて体力が落ちると連動してガッツも落ちる。だから、県民マラソンで10キロを走ることは、私にとっては人生の一大事である。昨年の体重は約70キロであったが、今年はバナナダイエットを続けて65キロに落とした。無理をしないで走ろうと思う。

◇久しぶりに阿部会に出る(17日)。この度、川崎市長選で3選をはたした阿部孝夫さんを囲む座談会で阿部さんが市長になる前から続いている。雑談になることが多いが、そんな中から貴重な情報や政治家としての示唆を受けることもある。

 当選の後で、電話をしたら嬉しそうな声が弾んでいた。自民党と民主党を敵に回しての大変な戦いであった。民主党は若い新人を推薦し、川崎で全閣僚の会議が出来る程民主党の大物が応援にかけつけたらしい。阿部さんは、自分の政策が信任を受けた喜びをかみ締めたに違いない。

 阿部さんは東大弁論部のサークル仲間で、駒場寮で同室だった。福島県の田舎から出てきた人でなかなか気骨のある個性派であった。今の東大は、有産階級の上品な人種が集まっているように見えるが、昔は、金がないから東大といった雰囲気があり、ことに、寮には面白い人間がごろごろいた。阿部さんについては懐かしい思い出がある。ある時、たまたま家庭教師の生徒を寮に呼んで英語を教えたことがあった。その時、カーテンで仕切られた隣りの席で私の授業に耳を立てていた阿部さんが、時々、それは違うこうだと声を出すのであった。阿部さんは英語が得意だったのである。やりずらかったことが今は懐かしい。

◇最近前橋刑務所の矯正展を見た(10月16日)。私は刑務所の事に関心を持っているので時々気付くと立ち寄るのである。私の事務所には以前、矯正展で求めた木彫りのアロアナがある。70cm程の大きさでヒゲと一枚一枚のウロコが精巧に彫られている。どのような人がどのような思いで彫ったのかと時々じっと見詰める。

今年も大変盛会だった。来月から前橋地裁で裁判員裁判が始まることと関係があるのか。全国的には、裁判員裁判が5月に始まったことから、刑務所への関心が高まり参観者が急増しているといわれる。受刑者の実態に触れることは市民の司法参加にとって重要なことだ。(読者に感謝)

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2009年11月 1日 (日)

遙かなる白根 第137回 子どもたちの叫び

「私、オートバイ乗る乗のって怖いし、暴走族に入ってい人、にがてなんだ。それに付き合っている人がいるし・・・」

後の方の言葉は耳に入らなかった。U君の頭は真っ白だった。甲州街道を150キロで飛ばした。涙があとからあとから流れて止まらなかった。

それから2年後、U君は風の便りに彼女が大学生になったことを知る。地元のラーメン屋でバイトをやっていると聞いて、そっと見に行った。髪を束ね、化粧もせず一生懸命働いている姿を見てU君は立ち尽くした。バイトをしながら大学を卒業して、保母さんになろうとしていると友達に聞かされた。その時、U君は雷に打たれたようにはっとすることがあった。自分の夢に向かって真剣に努力している彼女と比べ俺は夢も希望もなく、ただ遊んで暮らしている人間のくずだ。そう思うとU君は急に恥ずかしくなり、その場をそっと立ち去った。

U君は友達に彼女のどこがそんなにいいのかと聞かれたことがある。

「彼女の何事にも一生懸命取り組む姿と真剣な表情、素直な心が好きなんだ」

U君はこう答えた。U君はいままで自分はいいかげんに生きてきたと思う。道をはずれたことも沢山あったと反省する。これからは前向きに生きて自分の夢を実現させたいと思っている。それが彼女の生き方に一歩でも近づくことだし、自分にとっても最良のことだと思うのである。

―失恋、そして、新たな決意、このようなU君にとっての一大事が白根開善学校の門をたたく1つの動機であったと思われる。U君は回り道をして白根開善学校に出会った。その回り道の道中では、暴走族に入ったり、いろいろと外れた行動もやった。そして彼女との出会いと別れは、U君の心の底に眠っているものを揺り動かし目覚めさせた。白根開善学校は、U君にとって、人生の再スタートの場面であったのだ。

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