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2009年9月26日 (土)

遙かなる白根 第125回 子どもたちの叫び

 やがて学校の設備や体制が整ってくると、生徒全体が同じように学校に対して不満をもつことは少なくなる。従って、脱走の型も変化する。悦理君は、これは「学校安定化の証といえる」と解説する。脱走の型の変化とは、第一から第二以下の個人型に移ることを意味する。悦理君が、この論文の「はじめに」において、3大病の中で、特に脱走に興味を持つのは、脱走には当事者の生き方、考え方、もって生まれた個性が濃く滲み出るからだといっているが、これは、個人型の脱走についていえることであろう。

 学校の設備などへの不満が少なくなると、生徒は、ようやく自分自身に目を向け、自分の欲望を表に出すようになる。悦理君は、「開善学校でもようやく他の学校なみに、個人の精神的、物質的な欲求が出てくるようになった。問題はこれら欲求への対処が開善学校では脱走となってしまうこと」と分析している。都会なら欲しいものは何でもすぐに手に入るが、山の学校では質素な生活の中で物の不自由さに耐えなければならない。世は物質万能の時代で都会ではあふれるばかりの“物”が子どもたちを刺激している。それなのに、山の学校には何もない。このような物の不自由さが、精神的欲求不満の原因にもなることだろう。

 精神的な問題について、悦理君は、「少数の人間が狭い地域に拘束されている社会から生ずる、一種独特な雰囲気が生徒に圧迫感を与える」、「常に他人の存在を意識しながらの生活で、自分の世界を創り出すのが非常に難しい」という。また、こうした環境の中では脱走は欲求不満の発散として有効な手段なのだが、病気を解決することにはならないと、彼は自分の経験に対する反省もこめて指摘する。それでも脱走は絶えない。なぜか。悦理君は、その原因は、生徒各自の心の奥底に潜んでいる自由への願望と「見返してやりたい」という気持だという。更に彼は言う。「生徒はいつも何者かに規制され管理されている。脱走によって一時的にせよ、一切の束縛から離れられる。またその行為によってつい先頃まで自分を縛っていた諸々の力を見返せる。これらの行為に対する魅力は余りに強烈である」と。先程の“ざまあみろ”の心理が思い出されるところである。

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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