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2009年9月22日 (火)

遙かなる白根 第123回100キロメートル強歩序曲

私が考えるに、「脱走開善型」と「無断外出」を質的に分けるものは、その目的(意思)である。すぐに戻る意志であったか、もう戻らない意志であったかが両者を分ける点であると思う。次に論文は、病気の発生の具体的状況に進むが、それは、以前に私が書いた学校創立期のどうしようもない混乱を、内から「脱走」を通して語るものである。

 脱走の歴史は古い。脱走は開善学校が未認可で授業を行っていた頃から多発する。初めての脱走は、昭和53年5月、4人の生徒が企てる。この時は、「地元の警察、その他の医師団が治療にあたり未遂に終わった」という。悦理君は、警察など地元の人々を「医師団」と呼んでいる。治療とは発生した脱走行為をくい止める行為を指しているのだろう。学校創設の頃は、地域の人々の学校に対する理解も十分でなく、時には誤解もあったらしい。脱走騒ぎは人々の学校に対する疑念を深める要素になったかもしれない。平和な村の出来事だから、医師団も対応がわからず大騒ぎしたのではなかろうか。医師は、身体の内部の病気の原因を知らなければ、適切な治療は行えない。しかし、村の“医師団”の役割は病気の原因には立ち入らず、脱走病を未遂に終わらせることなのである。

 最初の成功例は、同年7月数人が脱走したケース。学校から警察に捜索願が出され、「大々的な治療」が施されたが発見できず、数日間行方不明の後、脱走者の1人の自宅に全員到着し、かなりの期間をおいて帰校したという。学校に帰ることは、「定義」の中に含まれているように必然のことなのだ。正式に手続きを踏んで学校をやめない限り、開善の生徒は他に行くところはない。家に長くいることもできない。だから、学校を飛び出し「医師団の治療」の手を逃れても、遅かれ早かれ学校に戻らねばならないのである。

 この年の冬頃から発病(脱走)は多くなった。発病の型も集団発病から単独の発病に変化し、中には、1人で10回近くも発病した例があったという。脱走病は、一種の流行になっていたらしい。学校創立期には、先生たちの中にも脱走(正規の手続きをして去ってゆくのだが)してゆく者がいたのだから、学園の混乱が生徒の脱走となって現われるのも無理のないことであったろう。

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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