「教育書道展の会場で終戦を思う」
議員日記8月10日(月)「教育書道展の会場で終戦を思う」 ◇豆粒のような男の子が壇上に上がり一礼して賞状を受取る。名簿に視線を移すと小学一年生である。私は、その子が姿勢を正して筆を握る様を想像して思わず唇がほころぶのを覚えた。第63回の群馬教育書道展の受賞式は9日、市民文化会館で行われた。出品数は、21,332点で、昨年より増加した。私は来賓を代表して次のような挨拶をした。「63回ということは戦後間もなく始めたということです。パソコンの時代にこれだけの人が応募し昨年より増えたとことは意義のあることです。64年前の今日、8月9日、この時間、午前11時頃、長崎に原爆が落とされ、間もなく日本は敗戦となりました。瓦礫の中から立ち上がった日本は世界の経済大国といわれる程豊かになりましたが、日本人の心は貧しくなったと言われます、そういう中で書道展は大きな役割を果たしてきました。書道は伝統文化であり日本人の心をつくる文化です。この書道展を一層発展させることが今求められております。」 ◇市民文化会館の座席は、小学児童から一般人までの多くの書道人で満ちていた。日本の伝統文化を支える人々である。便利な機械が急速に普及し、手で文字を書く必要は減っているのに書道人口が健在なのは頼もしい。県教育委員会は、書道文化を支えることにもっと力を入れるべきだと思う。 ◇受賞式の壇上にあって、次々と登壇する人々の姿を見ながら、私は64年前の暑い日本を想像した。2発の原爆投下と共に日本の運命を決定づけたものはソ連の参戦だった。日本時間で8日の深夜、ソ連は日本に宣戦布告し、9日未明ソ連軍は国境を越えて満州になだれ込んだ。 この頃、政府が決断を迫られていたことは無条件降伏を内容とするポツダム宣言の受諾であった。天皇の地位の保証をめぐってこの期に及んで政府内部では本土決戦を主張する立場と無条件降伏を受け入れる立場の激しい対立は尽きなかった。結局、二度の御前会議に於いて、天皇の裁断によって、ポツダム宣言を受け入れることになった。この最終の裁定は、14日午前10時45分であった。 藤田尚徳の「侍従長の回想」によれば、天皇は次のように述べたとされる。「これ以上戦争を続けることは無理だと考える。自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局、我国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私としては実に忍び難い。日本が全く無くなるという結果に比べて少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。この祭私としてはなすべき事があれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はマイクの前に立つ」そして15日正午のラジオ放送となった。(読者に感謝)
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