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2009年8月30日 (日)

遙かなる白根(115)100キロメートル強歩序曲

「開善学校には、理由は千差万別ですが心に傷を持ち苦しんだ経験をもつ子どもが多く入学しています。その子どもたちに“だから強くなれ”では一般の学校と何も変わらないと思います。悲しい思い、苦しんだ経験をもつ子どもたちが何故開善学校に来てまで、更に心に傷を負わなければならないのですか」

開善学校には、心に傷を持ち苦しんだ経験をもつ子が多く入学している、というのは事実である。白根開善学校のもつ素晴しい自然環境とすぐれた教育理念、これは一際光る点であり、子どもを持つ親にとって大きな魅力である。しかし、この魅力だけにひかれてこの学校を選ぶ人は少ないのではなかろうか。なぜなら、教育に関する問題は、理想と現実、建前と本音が大きく離れていることが多い。そして、人々はその両方をにらみ、どちらに重点を置くか悩みながら判断せざるを得ないからである。教育の理想や理念をよく理解し、それを強く望みながらも、現実の中にどっぷりとつかっているという事実を否定することは出来ない。学歴社会という潮流はまだまだ衰えていない。その中で生きる世の父母が自分の子に、良い成績、良い学校への進学を望むことは無理のないことである。そして、一般の学校は激しい競争の場であって、そこでは敗者を作り、また傷ついた子どもを作り出している。

そういう現実に耐えられない子どもや父母たちの中で、白根開善学校に一つの理想を見つけ、またそこに逃げ場を見つけ、やむを得ず救いを求めてやってくる、そういう例が「白樺」の中に多く見られる、白根開善学校には、心に傷を持つ多くの子が入学しているというのは、こういう意味でうなづけることであるし、後に触れる子どもたちの生の叫びの中にそれはよく表れている。このことを一番良く知っているのは父母たちである。だから、何故、開善学校に来て更に心に傷を負わなければならないのかという叫びになるのである。そこで、この父母たちは、次のように強く願うのである。

「山の学校で充分に傷を癒した子どもたちは、それだけでしなやかな強さを持って生きてゆけるでしょうし、そういう学校であって欲しいと願います」

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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