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2009年8月 2日 (日)

遙かなる白根(107)100キロメートル強歩序曲

世間なみにこの学園にもいじめがあるのかと訝る人が多いかも知れない。しかしその実態をつぶさに見れば、この学園で生きる若者の真の姿が分かるはずである。そして、それは、またいじめなどという通り一遍の言葉で正しく示すことが出来ないものであることも理解されるであろう。まず、校長の文を紹介する。

「TBSで放映された“百キロメートル強歩”を見て、なんと純真で真摯な少年少女であることかという声が聞こえてくる。しかし、この若者達の間で世間なみにいじめの事実がある。無頓着に個人をわが意のままに動かすパシリをはじめとして様々のいじめの行動は、石川五右衛門の話ではないが、世にいじめの種はつきないのかと思わせる。その大きな理由が、伝統的に先輩のいじめ

にさらされてきた者が、攻守所をかえて、先輩となるや、後輩にその“悪しき伝統”を振うということである。人間として、あさましいこととは知りながらもみにくい振る舞いを自ら断ち切ることが出来ない。これは思えば、情けないことだ。悲しく腹立たしかった自分の思いを仲間にさせてはならぬと思うことこそ勇気あること。そこに人間の成長があると考えてはどうだろう。いじめられる人間にも原因があるなどと屁理屈を言わぬことが肝要ではないか。よくよく心がけてほしいと切に願うものである」

 本吉校長はいじめと言っているがいじめと一口に言っても、その中味は様々なものであろう。一般に子どもたちは、帰省した時も、この種の山のことについては、口をつぐんで、親に語りたがらない。このことは周平についても観察されることである。それが表ざたになって誰かが責任を問われることになれば、誰がバラしたのかということになる。バラしたことのリアクションが降りかかるのを恐れるのは当然のことである。また、開善学校の寮生活の歴史の中で実際にそういういろいろなことがあって山の掟、仁義というようなものが暗黙のうちに形成されてきたのであろう。しかし、語らないと言っても、腹にあるものは外に現われる。特に、遠く離れた山奥に子どもを置いて、いつも心配している親は子どもの態度、微妙な変化に敏感である。

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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