« 「北朝鮮の地下トンネルを振り返る」 | トップページ | 遙かなる白根(70)序章 100キロメートル強歩序 »

2009年4月10日 (金)

「フジモリ哀れ、禁固25年」

◇私たち県会議員がペルーを視察したのは、平成8年4月であった。そして、リマ市の日本大使館公邸がテロ集団に占拠されたのは、同年12月のことであった。以後4ヶ月間私たちの目は毎日テレビにくぎ付けにされた。

 私は当時のフジモリ大統領に特別の関心を持っていた。だから、ペルーを目指す機上にあって、フジモリが両親の故郷熊本県で語った言葉を、思い出していた。「私は百パーセントペルー人です。そして百パーセント河内の血が流れています」日本移民の子が大統領になる壮大なドラマ、スペインに征服されたインカ帝国、インカの末えいであるアンデスの人々と私の熱い思いはペルーが近づくにつれてふくらんでいった。

 ペルーの首都リマは、その昔、征服者ピサロが建設した。西欧風のいかめしい建築物と対照的に雑然とした露天商がまちの一角を埋めている。

 日本大使館公邸は厳重な警備の中にあった。青木大使は、私たちにフジモリ大統領のことを熱く語った。フジモリを高く評価する青木大使が強調したことは次の点であった。

「フジモリになってペルーは奇跡的に復興しました。フジモリの功績の最大の特徴は、命がけでテロとインフレを解決したことです。彼は大変な行政改革を断行し、不要な省庁の職員を徹底的に点検し職員の数を大幅に削除しました。ゲリラが駆遂されたのでゲリラに対する警備の予算が不要になり、その分を道路の整備や教育に当てています。フジモリの支持率は最も貧しい層に於いて一番高い。そして基礎教育が最も大切だといって学校の建設を強力に進めています。これは私が最も尊敬している点です」

◇南米移民は、ブラジルが最初と思う人が多いが実は、ペルー移民が約10年早い。1899年(明治32年)、790人の日本人が契約労働者としてペルーに渡り、多くは帰国できず移民となった。91年後にフジモリ大統領が誕生する。フジモリ大統領誕生の背景には、選挙権を得たアンデスの貧しい人々があった。スペイン人に征服されたインカの末えいである。支配者への抵抗はテロでは目的を達することが出来ない。そういう彼らの思いが、移民の子であり日本人の血が流れるフジモリ大統領を実現させたのだと思う。

 フジモリが大統領に就任する前、インフレは年間2775%、潜在失業率は48%、テロによる死者は10年間で17,000人に達した。

 フジモリ大統領はテロを徹底的にたたいた。青木大使には油断があったかも知れない。天皇誕生の祝いが行われた日本大使公邸は2千人が招待されたが、その中にテロリストが紛れこんだのだ。青木大使と会談した県議の中には故金子泰造さん、矢内前伊勢崎市長、五十嵐現伊勢崎市長もいた。フジモリ元大統領は、テロ対策の行き過ぎの責任が問われ、禁固25年の有罪判決を下された。唇を固く閉じて判決を聞くフジモリの表情は印象的だ。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村のりお著「遙かなる白根」を連載しています。

|

« 「北朝鮮の地下トンネルを振り返る」 | トップページ | 遙かなる白根(70)序章 100キロメートル強歩序 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「フジモリ哀れ、禁固25年」:

« 「北朝鮮の地下トンネルを振り返る」 | トップページ | 遙かなる白根(70)序章 100キロメートル強歩序 »