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2009年4月 4日 (土)

遙かなる白根(68)序章 100キロメートル強歩序曲

霧は去って、見上げると切り立つ岩壁の上に幽かな星のまたたきが見える。道は断崖の壁に張りつけた細い帯のように続く。昔は、昼間でも薄暗い深山幽谷であったに違いない。六合村誌によれば、この先の尻焼温泉は、かつて、道の険しさと、温泉周辺に生息するおびただしい蛇のために人が容易に近づき難いところであったという。

花敷温泉と尻焼温泉の間は約一キロ。周平は、その尻焼温泉に近づいてた。目の前に長笹沢川に架かる尻明橋があった。対岸の橋のたもとには旅荘光山荘がひっそりと立ち、その窓の下を旅荘の淡い明かりに照らされて長笹沢川が静かに流れている。橋の上から川上を窺うと渓谷は濃い闇につつまれ、川幅いっぱいに広がる温泉場も、赤く焼けた川原の石もその闇に姿を隠している。道はその温泉場を左下に臨みながら、対岸の急な斜面を上へと伸びる。岸壁からはみ出すような細い道を小さな光が間隔を置いて進む。前の光が岩の陰に消えると小さな鈴の音が流れてくる。花敷から上は、あの滝原の林道の時と同様、子どもたちは、熊除けの鈴を腰に付けることになっていた。坂の下から見上げると、懐中電燈の光が蛍が舞うようにゆっくりと動いてゆく。そして、谷底から離れるにつれて澄んだ鈴の音が闇に漂うように響いていた。

急な坂を登り詰めると道は二つに分かれていた。右に進めば根広、矢倉、和光原に至る。左は、熊笹が密生する雑木林の中を長平、小倉、田代原に通ずる道が伸びている。周平は左の道に入った。左手の下の方から谷川の音が聞こえる。寂とした夜の森に谷川の音が近づいたかと思うと遠ざかる。それと交互するように鈴の音が流れ、懐中電燈の光が樹間に点滅する。しばらく進むと上方がやや開けた所に出る。そこからは松の林であった。いくつかの沢の流れが右手の高みから道を横切って谷に流れ下っている。一つの流れに昭和橋という小さな橋が架かり、その先が長平という小さな集落であった。周平の胸は高鳴っていた。母の待つ二十一ポイントが、手の届く位置に感じられた。

☆土・日・祝日は、中村のりお著「遙かなる白根」を連載しています。

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