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2009年3月21日 (土)

遙かなる白根(64)序章 100キロメートル強歩序曲

山の中の物音一つしない夜の道を誰にも指図されずに一つの目的に向って走っている。それは、周平にとって自分が主役となった、かつて経験したことのない瞬間であった。苦しさを乗り越えて100キロを完歩することは、数学や英語で良い成績を取ることよりもずっと価格のあることだとお父さんが言っていた。僕は今、それを実行しようとしている。そう思うと周平の心に緊張感と共にやはり今まで味わったことのない充実感がじわじわと広がるのであった。

巡回車がまた坂の下から登ってきた。車は、「ブッ」と小さな警笛を鳴らしただけで、周平の所で速度を落とすことなく過ぎてゆく。小さな警笛は「完歩を目指せ」と励ます声に聞こえた。いままでの車は、周平の所で速度を落として周平の意志を確かめる仕草をとったのに、今の車はむしろ速度を上げて走り去った。あの車は、僕が完歩を目指すことを知っている。車が走り去ることが周平を認め、励ましているように思えるのであった。

坂道を登り詰めた先の下は白砂川の深い谷で、平らな道はここから大きく右折して渓谷に沿って伸びる。樹間から対岸の人家の明かりが僅かに見えた。京塚の集落である。谷のこちら側の行く手には世立や引沼の集落が待ち受けていた。進むにつれて、木立の陰の暗闇にうっすらと輪郭を現して佇む建物がいくつか目に入るようになった。窓から幽かな明かりが漏れている家もある。花敷に一歩一歩近づいている。国道405号に入ってから人気のない渓谷をくぐり抜け、今人々の生活の温もりが伝わってくる人里に入りつつあった。周平はわが家に近づいているように感じた。そして、走りながらこれから先のコースを頭に描いた。左下の深い渓谷を流れる白砂川は、この先で長笹沢川と合流する。その合流点が花敷温泉である。花敷温泉の所から長笹沢川に沿って進めば、すぐに尻焼温泉だ。その先の坂の上に第21ポイントの長平公民館がある。頭の中でそこまで辿るとそこで待つ母親の姿が浮かんだ。お母さんは僕がこんなに頑張っているのを知らないだろう。12時までに花敷に着いて、長平公民館まで行ったら、お母さんはどんなに喜ぶだろう。そう思うと走る足に力が入るのであった。

☆土・日・祝日は、中村紀を連載しています。雄著「遥かなる白根」

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