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2008年11月30日 (日)

遙かなる白根(30)序章 100キロメートル強歩序曲

「毎年、大晦日には、長い距離を歩くんだって、えらいな。そのことを聞いて、君は偉い子だと感心したよ。なかなか他の子には出来ないことだよ」

 本吉氏は、周平の話がとぎれるのを待って、夜の強歩のことを持ち出した。周平は、本吉氏が身を乗り出すようにして話かけるその顔を、じっと正面で受け止めた。目と目が合った。このおじさんは一体何者だろうか。その視線は僕の胸の奥まで光となって届いているような気がする。周平は、今まで、他人と接して経験したことのない何かを感じていた。

「去年は、お父さんに勝った。お母さんも驚いていた。ぼく、もっと遠い所まで歩けるよ。でも、お父さんが大変だよね」

 周平は、こう言って今まで他人には滅多に見せたことのない屈託のない笑みを、本吉氏に投げた。

「君、山の学校に来ないか。山の学校には、君のような素晴しい子どもたちが沢山いて、皆で助け合って頑張っているんだ」

 本吉氏は急に厳しい顔になって言った。周平も真剣な表情に戻った。周平は、本吉氏が何の目的で自分に会いに来たのかよく知っていた。そしてこの問題は、現在周平が直面している最大の問題なのだ。

 裏の学校の放送が時々風に乗って伝わってくる。それは、一人で家に閉じこもっている周平の耳に、早く学校へ来なければ駄目ではないか、と、厳しく咎めているように響くのであった。

 お父さん、お母さん、お姉ちゃん、そして、お婆ちゃんまで、今、選挙で頑張っている。僕も頑張らなければいけないのに、僕は何も出来ないで家にいる。そう思うと、周平にとって、この時期の日々は、格子のない牢獄に入れられているのに似ていた。

 少しの間、沈黙が続いた。

「僕、前に山の学校に行ったよ。遠いね。お家へ帰れないね」

 周平は、にこっと笑いながら言った。

「うん。でも君なら頑張れる。友だちや先生がみな家族のようになるんだよ。山や川や空がきれいで村の人も親切なんだ。冬はスキーの合宿もある。そうそう、一年に一度、100キロ強歩というすごい行事があるんだ」

「えっ、100キロ強歩、100キロも歩くの」

 周平は目を輝かせ、大きな声を出した。

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年11月29日 (土)

遙かなる白根(29)序章 100キロメートル強歩序曲

芳賀小学校の6年間を振り返ることは、私たち夫婦にとって恐ろしいことであった。取り返しのつかない6年間だったのか。この年月は、周平の心にどんな傷跡を残したのであろうか。他の道を選んでいたら周平はどのような少年に成長していたのだろうか。忙しさを半ば口実にして深く考えないようにしても、このことは、私たち夫婦の心の底にこびりついていて、かた時も離れない問題であった。

 周平の進路については、決断もできないまま私たちは、ひとまず周平を芳賀中学校に進学させることにした。中学校側とも話し合って、選挙後に早急に進路を確定することにしていたのである。

 選挙期間中にまた、本吉氏と話をする機会があった。本吉氏は周平に会って見たいと言ってくれた。そしてある日、本吉氏は、一人でぽつんと自宅待機をしている周平を訪ねた。

「お父さんから君のことは聞きました。芳賀小学校では頑張ったんだね。お父さんから話を聞いて、感心したよ。今日は君と二人だけで話をしようと思ってやってきました」

 私の家は前橋市の鳥取町にあり、すぐ裏、直線距離にして300メートル位のところに、周平が一応入学した前橋市立芳賀中学校があった。中村家の八畳間、大きな書棚がいくつかおかれ、部屋を狭くしている。その中央のテーブルをはさんで、二人は畳の上に座り向きあっている。

 周平は、前日から緊張していたが、本吉氏の目をチラと見て、ほっとした様子である。どういうタイプの人間なのか、また、自分に対してどういう感情を抱いているのか、自分なりに敏感に嗅ぎわける習性を周平は身につけていた。吉本氏の全体から発せられる周波が、周平の受容器にうまく届いて、心の扉が開かれたのかも知れない。

周平は、いつになく雄弁に自分の身の上を話し始めた。

「お母さんも小さい時から大変だったんだ。3つのとき、囲炉裏におちて手を焼いちゃったんだ。だからいつも包帯しているよ。僕にだけは見せてくれる。お父さんが気にしないというので結婚して、僕が生まれたんだよ。僕は芳賀小学校に入ったけど、友だちがいなくてつらかった。いじめられたこともあったよ。お母さんが泣くから、僕頑張ったんだ」

 周平は、母親のことが好きで、母親のことを人に話したがる。特に手の怪我のことになると真剣である。自分が他人とちがってハンディを負っているという意識があって、それは母親の手の怪我と自分が生まれたときからどこかでつながっていると思っているのかも知れなかった。

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2008年11月28日 (金)

「調印式・講演の成功、晩さん会」

◇旅順郊外に移転した大連外国語学院の新しいキャンパスまで、大連のホテルからたっぷり一時間かかる。かつての日口戦の激戦地・旅順の上空には灰色の雲が垂れ込め雲間から差す薄い陽光がむき出した荒々しい岩肌を赤く染めていた。この冬一番の寒波が押し寄せていた。広大なキャンパスでは、登校する学生たちが、軍団が動くように、高い校舎ビルの間を右に左にと黙々と歩いている。私は、コートで身をおおい、まさかと思いつつも準備していたマフラーを首に巻いて車から降りた。恐らく2、3度位か、身を切る寒さに皆驚いている。

 午前中は学校の見学である。外国の大学で日本語を学ぶ数において世界一といわれるこの大学は廊下に日本語の用語例が貼られたり、いたる所、日本語学習の工夫で満ちていた。各教室の活気は廊下からも窺(うかが)えた。

 昼食は構内の食堂で食べた。大きな棟の各階はごったがえしていた。胃袋の大軍とも見える壮大な光景はこの大学の活気とエネルギーを現している。

◇私の講演は1時半から始まった。学生は集るのだろうかと多少気になっていたが、大きな教室は超満員で近くの教室から持ち込まれたイスが空いたスペースを埋めていた。学生の表情は私の話に敏感に反応している。スクリーンには群馬の人や自然やまちが写される。女子生徒が圧倒的に多い。「中国も女性が強いですか」私がたずねると「ハイ、そうです」とあちこちで声が上がる。上州の「かかあ天下」を説明するとどっと笑い声が起きた。最近の金融危機にも触れ、アメリカ中心の時代は終わりつつあり、中国と日本が重要な役割を果す時代が来たと話した時、うなずく学生が目についた。私の「ふるさと塾」のような雰囲気の中で予定された時間はあっという間に過ぎた。次々に握手を求める女子学生の温かい手の感触は講演の成果を物語っていた。

 須田事務局長によると、陳岩教授が次のように話していたという。「分かりやすい話で、さすが政治家ですね。学者にはああいう話はできません」。陳さんは晩餐会で同じことを私に話してくれた。

◇両大学の関係者が一堂に会して「大学間友好交流協定書」が交わされ、また、「交換留学生の条件及び付与される利益」の確認が行なわれた。

 富岡賢治、孫玉華、両大学学長が署名した協定項目は4つあるがその中の2つは次の通りである。1、両大学は、相互理解の精神に基づき、友好な関係を築くよう協力する。2、両大学は、学生の交流を通して相互の教育、研究及び学術文化の交流を推進する。

◇晩餐会で飲むばいかん酒はうまかった。私たち議員の都合で日程を変更したことが誤解を招き一時は険悪なムードを生んだこともあったが、全てを乗り越えて達成した成果に皆が酔っていた。小さな芽を大きく育てたい。(読者に感謝)

 

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2008年11月27日 (木)

「大連の夜は静かにふけて」

◇私はいま大連のホテルの一室で日記を書いている。26日の早朝、バスで前橋を出発し、成田発のANAで中国時間の午後12時半ごろ大連空港に着いた。今回の目的は、群馬県立女子大と大連外国語学院との提携の調印式に立ち会うためである。この事業は、自民党の県会議員の多くが参加して出来た日中議員連盟(日中議連)が中心となって進めてきた。27日の調印式には、県立女子大の代表3名、そして日中議連からは会長の私と幹事長の関根圀男県議が参加し、セレモニーの後、私が記念講演を行う。

 空港で私たちを迎えた中国人の美人ガイドは、大連外国語学院の卒業生であった。大連外国語学院の卒業生が実に多くの分野で活躍していることに驚く。四川大地震に際し、中国大使館に見舞いに行った時、応待した女性参事官の孫氏も、この大学のOBであった。

 大連外国語学院は、日本との外交関係やビジネスにたずさわる人材を育てる事を目的にして、日本語学院としてスタートした歴史をもつ。昨年10月大連政府を訪ねたときも市政府の要人の中に大連外語出身者がいたことが思い出される。

 大連外語の歴史は、日本の中国支配の歴史と結びついているのではないかと思う。日本は中国東北部に満州国を建てて実質的にこの国を支配した。その名残は、すっかり近代化した大連市の現在と調和しながらもしっかりと残っていた。私たちは、この日、かつての満鉄本社、大和ホテル、日本人が住んだ屋敷が並ぶ一角などを見た。

 曲(きょく)教授を囲む夜の夕食会は実りある楽しいものであった。私の友人曲維(きょくい)さんは遼寧師範大学の副学長で中国日本語教学研究会の副会長を務めておられる。39階にある回転するレストランは、大連の夜景の上でゆっくりと回っていた。私たちは外の景観の変化を忘れて談笑の中に溶け込んでいた。

 教授の話は大連の歴史、学生のこと、現在の中国の状況などに及んだ。私たちも日本社会の様々な事を話題にした。曲さんは、大連市政協副主席として教育や文化に関して政府に発言しているという。今の中国は共産党が党外の人の意見を広く政治に反映させようとしており、民主主義が進んでいるのですと教授は語った。

 誰かがピアノを演奏している。フロアはメロディの中を分からない程の速さで動いている。ピアノの音が近くなった時、曲さんは、すっと立って、ピアノを弾く若者に何かを話しかけた。すると曲目が変わって、「北国の春」のメロディが軽快に流れ始めた。続いて、アニメ、「千と千尋」のメロディが続く。私たちは思わず一斉に拍手した。「私の学校の生徒です」教授は嬉しそうに言った。中国は一人っ子なので親が教育にお金をかけるため多くの学生がピアノを弾くという。窓の外に目を向けると車の光が川のように流れている。中国が確実に変わりつつある。夢のような大連の夜が静かに更けていった。(読者に感謝)

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2008年11月26日 (水)

「裁判員制度近づく」「大麻事件の広がり」

◇裁判員制度が近づいてきた。制度は、来年5月から始まるが、裁判員の候補になる人に対する裁判所からの通知が、今月28日に発送される。12月上旬には、各候補者に届く。受け止め方は人によって様々だろうが驚く人が多いに違いない。法律や裁判に全く素人な人が裁判に参加する。候補者に選ばれても実際に裁判員になるとは限らないが、候補者は、裁判員になる可能性が高くなったのだから、刑罰や裁判について、関心を高め、裁判員に選ばれた場合の準備をすべきだろう。

 裁判員法によれば、裁判員やその候補者の氏名や住所を「公(おおやけ)」にしてはならない。これらの人が、事件関係者から危害を加えられないようにするためである。裁判員制度で裁判員は、有罪無罪だけでなく量刑にも関わる。

 世の中にはいろいろな人がいるから重い刑を科せられたと裁判員を逆恨みする者がいないとは限らない。裁判員を保護すると共に公平な裁判を実現するために、裁判員やその候補者を公にしないとしている。

 「公にする」とはどういうことか。法務省は、「不特定または多数の人が知りうる状態におく」と解釈している。これに当たる場合が禁止されることになる。だから、特定の少数なら話してもよいが、特定であっても多数の人に話してはならないことになる。例えば、ホームページなどで実名や住所を書き込むことは違反になるし、家族や友人に話すことは許される。

◇大麻取締法違反で逮捕される大学生が跡を絶たない。慶応、早稲田、法政、同志社、関西大、九州大、関東学院大、東京理科大などの学生が昨年の暮れから逮捕されている。このうち、同志社大学では女子学生が逮捕、起訴されている。

 逮捕されるのは、氷山の一角だという声もある。芸能人などがよく逮捕されるが、それらを見て、ファッション感覚で大麻に接する若者も多いのではないか。同じように有名大学の学生が大麻を吸うケースを甘く扱うと、格好いいと受け止めて多くの若者に広がる恐れがある。

 大麻は常習性があり妄想や幻覚を引き起こす。また、覚せい剤の使用につながり易いといわれる。大麻は危険でないという誤った情報がながれ、普通の人が吸っているからということで罪の意識を持たない人が多いのが恐い。いま、くい止めないと大変なことになる。

◇大麻取締法によれば、大麻をみだりに栽培した者は7年以下の懲役、また、みだりに所持し、譲り受け、譲り渡したものは5年以下の懲役とざっとあげただけでも重大な犯罪であることが分かる。これを世に知らしめるためには、厳しく罰することが重要だと思う。

 文科省の次官は、大学生の大麻事件につき、「大学生は健康への害について理解が不十分なのでは」と述べ学生への啓発を強化するように大学に求めた。私達は、大麻の害が地方に広がることを防がねばならない。(読者に感謝)

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2008年11月25日 (火)

「元次官襲撃、意外な犯人像」

◇元次官やその家族を連続して襲ったとされる男は、伝えられるところによれば、政治的思想などとは関係ない単純な狂人と私には思える。「34年前家族を殺された。毎年50万頭の何も悪くない犬やネコが殺されている」などと言っているらしい。34年前の家族とは自分が可愛がっていた犬のことである。この小泉という男の中学生の頃の写真が紹介された。学生服姿の利発そうなきれいな笑顔は、見るからに模範的な生徒に見える。数学がトップクラスのよく出来る生徒だったという。ところが出頭した46歳の男に昔の面影はなく、その見るからに凶暴な目つきは筋金入りの暴力団員のようだ。二つの表情は、この間になみなみならぬ事があった事を物語る。

 指紋も残さずに大それた事を仕出かした割には、余りにあっさりと自首したのはなぜか。恐らく責任能力は認められるだろうから、死刑は免れない。通常なら必死で逃げるところだ。私のまわりでは、つかまらないのではと言っている人がいた位だ。佐賀大の理工学部に進むが中退した。

一度足を踏み外して敗者になると、容易なことでは復活できない格差社会の暗い深淵が不気味に広がっている。学校の成績が良かった者の中には、敗者のみじめさを強く感じ、世の中を逆恨みする者があるのかも知れない。

 中小企業にはセーフティネットが設けられるが、孤立して苦しむ人間のためのセーフティネットが欠けている。このような人間がこれから多く現れるような気がする。犯人に極刑を与えるだけで済まされる問題ではない。

◇20日、前橋地裁は、山岸篤という男に懲役2年の実刑判決を言い渡した。私は、議長の時にこの人といろいろと関わったことがある。

 平成17年9月議会で、私は、この人が議会棟に出入りすることを禁止した。この人は「報道」の腕章をつけ、報道者の席に座り大声で騒ぐ常連だった。私が質(ただ)すと、「新聞を発行している」と答えた事がある。山岸氏は、「出入り禁止処分」の取り消しを前橋地裁に求め、私は、前橋地裁から呼び出しを受け同じテーブルで彼と対面した。やたらと大きな声を出す人だった。議会事務局長が私の家に押しかけたこともあった。議会だけでなく庁内のいろいろな所で行動をしていたらしい。議会棟の前に特徴のある軽トラックが止まっている時は、どこかでまた頑張っているなと思ったものだ。

この人と話した感じでは、根は正直で、この人なりの正義感で行動していると思えた。暴力団とか右翼とのつながりもないとのことであった。しかし、明らかに彼の行動は常規を逸し、行政を妨げる迷惑行為であった。この男は、平成18年6月群馬県迷惑防止条例(2年以下の懲役)で逮捕された。この時、どのように罰せられたか私は知らない。今回は、強要未遂罪や職務強要罪に問われたらしい。当時、学校とも対決し、自分の子供を自分で教えているという話を聞いた。(読者に感謝)

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2008年11月24日 (月)

遙かなる白根(28)序章 100キロメートル強歩序曲

本吉氏は、教育委員として、群馬県の教育について、時々興味ある発言をしていた。そしてこのことは、県議会で教育問題に力を入れていた私の注意をひいていた。私は、身近になった本吉氏の存在を通して、改めて白根開善学校に目を向けることになった。

平成6年も終わりに近づき、この年の大晦日、私と周平は、また、赤城神社までの強歩を実行した。周平の足取りは前の年よりしっかりしていて、足の痛みと疲労に、じっと耐えながら歩く私を尻目に、苦もなく長い夜の道を歩き通した。赤城神社の境内は、夜店の売り声、甘酒を振舞う村の人、そして参拝の人々でにぎわっていた。雑踏の中で、上気した周平の得意そうな顔が私には眩しく映った。周平の表情を見て、既にこの頃、白根開善学校の100キロメートル強歩のことを耳にしていた私は、周平と二人で実行した小さな強歩と、途方もなく大きな白根の強歩を、漠然と重ね合わせ、周平が100キロ強歩に臨む姿をふと想像してみたのだった。

明ければ、平成7年、この年4月には、また私の県議選が行われる。毎度のことながら、年末年始から我が家は、戦争のような状態に入っていた。周平のことを気にしながらも、私たちは選挙に向けて回り始めた大きな渦に否応無しにまきこまれていった。

2月のある日、県庁内の廊下で本吉氏と会った私は、周平のことを話してみた。

「ほう、そういうお子さんがおられるのですか。うちの学校へ入れてはどうですか」

本吉氏の表情はすごく真剣である。私の話を聞いて周平に興味をもった様子である。

「入れてもらえるかどうか、また、息子がやってゆけるかどうか、心配です」

私は、本吉氏の真面目なまなざしを受けとめて、わくわくする気持ちと不安のまじった複雑な感情で答えた。廊下での会話は、そのままで終わった。

選挙が近づいて、目まぐるしい後援会活動にふりまわされる中で、3月を迎え、周平は芳賀小学校を卒業した。

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2008年11月23日 (日)

遙かなる白根(27)序章 100キロメートル強歩序曲

私の著書、『上州の山河と共に』の中に、私が級友上野和仁の家へ本を借りに行く場面が出てくるが、その上野和仁の生家は、ここから、もうさ程遠くない、赤城神社の近くである。ぶ厚い“太閤記”を小脇に抱えて、夕暮れ時の、まだ舗装もされていないこの南面道路を、とぼとぼと歩いていた姿が、目の前の周平の姿と重なって思い出される。「さあもう一息だ、頑張ろう」そこから1キロ程で、南面道路は、下から赤城神社へ登ってゆく道と交差している。そこまでくると、もう、初詣の車が延々と続いていた。「とうとう着いたね」周平の声は、はずんでいる。そこから、勾配を増した登りの道がかなり続くのであるが、まわりの雰囲気に刺激されたように、周平の足取りは軽かった。11時40分。とうとう、私たちは、赤城神社の鳥居に到着。雑踏の中で手を振る母親の笑顔を見つけて、周平は走って行った。「ぼく、やったよ」その声には、周平が生まれて初めて味わう勝利の快感があふれていた。 私は、杉木立の中に響く除夜の鐘を聞きながら、この強歩の体験をもっと続ける途はないものかと考えていた。そして、この体験が後に周平が取り組む白根100キロ強歩につながってゆくことをこの時はまだ知らなかった。 本吉修二氏との出会い ー周平の決断― 平成6年、周平は6年生になった。重い石臼がギシギシと回るように、時は重苦しく、容赦なく過ぎてゆく。6年生が終わる迄には、周平の進路について、どうしても決断を下さねばならない。重い課題が常に私たちの上にのしかかっていた。もう、待ったなし。周平の暗い表情は、私たちに、そう訴えているように思えた。当時、白根開善学校の創立者・本吉修二氏は、群馬県の教育委員に就いていた。この時点で、学校設立から十数年が経過しており、学校運営は既に軌道に乗っていたことであろう。本吉氏の県教育委員就任は、本吉氏が白根開善学校で成果を上げ、それが世に認められるようになったことを示すものである。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年11月22日 (土)

遙かなる白根(26)序章 100キロメートル強歩序曲

少年時代のことが思い出される。懐かしい顔がいくつか浮かんでは消えた。「お父さんが小学校一年のとき、大きな台風が来てこのあたりも大変だった。朝、裸足で雨の中をぴちゃぴちゃ歩きながらそこの大穴川をのぞくと、恐ろしい程の勢いで水が流れていた。その日は、学校も途中で終わりになった。先生に早く帰りなさいといわれて帰るとき、どの川もあふれるように水が増えていた。帰りのときは、大穴川の水は、橋にとどくばかりで、お父さんたちは橋の上にふりかかる水しぶきをくぐって橋を走りぬけた。そして、その晩、橋は流されてしまった。下流では死者も出たよ」「お父さんの話、面白いね。中帰りの話、もっとしてよ」「それは、また次の機会にして、さあ出かけよう」 前橋北部から宮城村方面へ東西に走る、通称赤城南面道路は、最近国道に昇格し正式には国道246号となった。この道に入ってから、赤城神社の参道に通ずる松並木までは、まだ2~3キロはあった。暗い林の中を、道は、大きくうねり、また、ゆるやかな、登りと下りが交互に続く。時々、暗闇の中に、下界の夜景がぱっと浮き上がる。その美しい光景に心を奪われる余裕は、もう私たち親子に、残っていなかった。「お父さん、足がいたい」後ろの、暗い中から声がして小さな足音が近づいて来た。「もう少しだから頑張るんだ。もう二つ位、カーブを曲がれば、赤城神社へ登る道だよ。もう、そろそろ車が並ぶころだ」 そう言いながら腕時計を、星あかりの下ですかしてみると、もう午後11時を少し過ぎている。「少し休もうよ」「じゃあ2分」「お父さんは、この道を通って学校へ行ったの」歩道に足を投げ出すように腰を下ろしながら周平が尋ねる。「いや、この道を通ると、うんと遠くなるので通らない。でもな、この近くに、本をいっぱい持っているお父さんの友だちがいて、時々本を借りるときは、この道を歩いたんだ」縁石に腰をおろしながら、私は、遠い少年時代の情景を思い出していた。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年11月21日 (金)

「ヒトラーとユダヤ人虐殺」

1121 ◇今月のふるさと塾が明日(22日)に迫った。今回は、「ヒトラーとユダヤ人虐殺」を話す。ゴミのように山と積まれた死体の写真から死臭が流れ出すようだ。絶滅収容所・アウシュヴィッツの記録写真はどれも正視に耐えない。人間はここまで残酷になれるのか。国家の政策としてなぜこのような事が実行できたのか。なぜユダヤ人が殺されなければならなかったのか。40~50枚の写真を使ってこのようなことを話す。

 第一次世界大戦に敗れたドイツに対して戦勝国はベルサイユ条約(1919年)によって過酷な制裁を課した。プライドの高いドイツ国民にとって耐え難いものだった。このような社会状況の中で、ベルサイユ条約の破棄、大ドイツ国家の建設、ユダヤ人・共産主義者の排斥などを激しく訴えるヒトラーが登場する。ヒトラーがナチスを率いて激しい活動を展開している時、アメリカに始まる世界大恐慌がドイツ経済を襲い失業者は街にあふれた(1929年)ヒトラーが政権を獲得するのはその直後、1933年のことである。百年に一度といわれるアメリカ発の恐慌が、今、日本をおそっている。この事にも触れたい。

◇600万ともいわれるユダヤ人の虐殺はなぜ起きたか。ヒトラーの狂気が一因に違いないが、ユダヤ人虐待のヨーロッパの長い歴史が背景にあった。塾では、キリスト教の歴史とともに、このことを話す。

 キリストはユダヤ人でありながらユダヤ教を厳しく批判し、ユダヤの民族を超えた絶対の愛を説いた。ユダヤ人にとってキリストは民族を裏切る者であった。キリストはユダヤ人に密告されて十字架にかけられた。キリストは、自分を十字架にかけようとするユダヤ人を「悪魔の子」と断言したと聖書にある。悪魔は退治しなければならない。ユダヤ人に対する迫害はキリスト教がローマ帝国の国教となり権力を獲得したときから始まった。迫害されたユダヤ人は異常な団結力で長い歴史を耐えて生きた。ユダヤ商人のあくどさと成功ぶりは民衆の恨みと嫉妬を買った。悪魔の子、ユダヤ人は、悪魔の助けで金をもうけていると人々は信じた。

 ヒトラーは、第一次世界大戦でドイツが負けたのはユダヤ人のせだと考えたらしい。未曾有の困難に直面して国民が一つにならなければならない時に、ユダヤ人は頑なに神に選ばれた民族として伝統に固執して非妥協を貫いている。ドイツはゲルマン民族の血の純血を守るためにユダヤ人を排除しなければならない。妄想と現実が一つの火だるまになって突っ走った。

 ヒトラーの狂信と絶叫にあやつられ、また、第二次世界大戦の敗色が濃くなる中で、ドイツは国をあげて狂気の集団に化していったように思える。人類は一歩誤れば悪魔になりうることを、ユダヤ人の虐殺は、教えている。

 こんなストーリーで、今回のふるさと塾をやってみたいと考えている。このブログを読んで興味を抱かれる方は是非参加して頂きたい。22日(土)PM7時、日吉町の総合福祉会館で行う。(読者に感謝)

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2008年11月20日 (木)

「連続テロと血盟団、五・一五事件」

◇厚生省官僚のトップであった元次官夫妻が惨殺され、同じく同省元次官の妻が刺されて重傷を負った。マスコミや大方の関係者は、年金行政に対して逆恨みする者のテロ行為と見ている。

 新聞には、「問答無用」の暴力という表現も見られる。この言葉は昔、五・一五事件で有名になった。新聞は、昔の政治テロを念頭においているのであろう。昭和7年5月15日、首相官邸をおそった軍人たちに犬養(いぬかい)首相は「話せばわかる」と言った。これに対して軍人たちは「問答無用」と叫んで射殺した。未熟だった日本の民主主義が凶弾に倒された瞬間だった。「話せばわかる」は民主主義を、「問答無用」は、民主主義を否定する思想(ファシズム)を、それぞれ象徴的に現す言葉だった。

 この事件があった昭和7年といえば、西暦1932年である。ニューヨークで始まった世界大恐慌(1929年)の直後で、その波をかぶった日本は大変な不況下にあった。このままでは日本がつぶれる、なのに政治は無策で何も出来ない、このような焦燥感が社会に渦まいていた。

 今日の社会状況は、昭和7年の「五・一五」の頃と似た面もあり深刻である。百年に一度といわれる金融危機とじわじわと深刻化する不況、年金行政に関する信じられないような公務員の不祥事、そして、解決策を見出せない政治に対する不信などである。

 厚生労働省には、年金や高齢者医療について日常的に苦情が寄せられており、中には、ホームの端に立たない方がいいとか、明るい道だけではない、といった脅し文句もあるという。

 今回の事件の犯人が政治テロを目的としたものであるとしたら、これらの社会状況と無関係ではないだろう。犯人は、狂信的な思い込みと誤った正義感から天誅(てんちゅう)を下す事を目的としたのかも知れない。

1120 ◇歴史的な教訓として五・一事件の前段階ともいうべき血盟団事件を思い出す。行き詰まった社会状況を打開するために政財界の要人を一人一殺方式で暗殺するという血盟団の中心人物は、利根郡川場村出身の井上日召(本名は昭・昭を分解すると日召となる)であった。前蔵相の井上準之助や三井合名の団琢磨などが団員によって殺された。血盟団の団員には、東大生3人、京都大生3人が含まれていた。井上日召は、前橋市の広瀬川近くの横地という親戚の家から前中(現前高)に通った。

 血盟団事件とこれに続く五・一事件などによって軍部が台頭し、言論の自由が失われた暗い時代に入っていく。そして、中国に侵出し、日中戦争、太平洋戦争へと悲劇の道をまっしぐらに突き進むことになる。敗北という大きな犠牲を払って憲法に基づく民主主義を手に入れた私達は、これをしっかりと守らねばならない。今回の事件は、この事を突きつけている。(読者に感謝)

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2008年11月19日 (水)

「振り込め詐欺」・「次官を襲うテロの恐怖」

◇振り込め詐欺は平成15年5月以降その発生が目立ってきたという。平成16年から3年間の振り込め詐欺及び振り込め恐喝の被害総額は、283億8千万円(16年)、251億5千万円(17年)、249億8千万円となっている。驚くべきことだ。人間の心理を巧みについたこの犯罪は、おそらく犯罪史に残ることだろう。次々に新しい手口を考え、演技力を磨いて女性や高齢者をワナにかける。世間で連日大騒ぎしているのに、あっさりと騙される人が跡を絶たない。騙される人が愚かなのか、騙す方が上なのか。

◇人を騙そうとする人は同じような事を考えるものだと感心したのは、平成17年に議長としてブラジルを訪ねた時の事である。サンパウロでは「ニッケイ新聞」という日本語の新聞が出されていて、それに「携帯電話を利用した振り込め詐欺(恐喝)が急増」という大きな見出しの記事が載っていた。刑務所の囚人が暇にまかせて電話をかけ外部の仲間と組んで犯行に及んでいるらしい。刑務所内の携帯電話の取り締まりを厳しくしたがいたちごっこだと記されていた。日本では「オレオレ詐欺」と呼ばれ巨額の被害が出ていること、又、「オレオレと言ったら女房電話切り」と、日本の川柳まで紹介されていた。(私の議長日記第一巻47頁にある)

◇国も対策に力を入れてきた。平成17年には携帯電話不正利用防止法が出来た(翌年4月施行)。振り込め詐欺(恐喝)が多くの場合、携帯電話を使ってなされることへの対策である。この法律によって、携帯を取得する場合、免許証による本人確認が義務づけられた。しかし偽造免許証による不正取得が跡を絶たない。

 そこで、国は携帯の不正所得に対する新たな取り組みを12月から始めるという。それは、警視庁、総務省、携帯等事業者の協会が連携して行う。販売店で免許証に偽装の疑いがあると思われる場合、警察に通報し偽造を確認するシステムがつくられた。偽造が確認された場合、販売店が申込者を引き止めている間に所轄の警察署員が急行して身柄を確認する仕組みである。私も経験があるが、携帯販売店で番号札を受け取って大分待たされることがよくある。可愛い子の愛想のいい応対に「サービスがいいな」などと思って気をよくしていた人物が逮捕された、こんなニュースが間もなく報じられるかも知れない。楽しみだ。

◇元厚生事務次官が連続して襲われた。山口夫妻は殺され、吉原さんの妻は刺されて重傷を負った。同一犯によるテロという見方がつよい。年金問題に対する批判の流れの中で、誤解による怨みがあるかも知れない。民主主義に対する挑戦である。昭和の大恐慌の中で、浜口首相が暗殺され、続いて一人一殺の血盟団事件が起き、日本は引き返せない地獄へ向う。民主主義が脅かされると大変なことになる。(読者に感謝)

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2008年11月18日 (火)

「予防注射をうつ」・「ワクチンとタミフル」

1118 ◇インフルエンザの予防注射をした(17日)。医院の待合室に注射を待つ人たちが数人いる。この人たちと世間話をしていて驚いた。「新型インフルエンザは恐ろしいそうだから注射しに来た」と言うおばちゃんがいて、まわりの人は「私もそうだ」といっているのだ。

 「新型インフルエンザ」のことが最近、ようやく人々の関心をひくようになってきたことの影響かも知れない。誤解している人が多い事を感じた。

 私は、笑いながら話した。「『新型』が近づいていて、それは、本当に恐ろしいものです。そのための治療薬としてタミフルというものがありますが、まだ、それを使う時ではありません」。

 看護士が私の腕に注射するのを見ながら医師は言った。「いま、いつ来てもおかしくない時です。起きたら大変なことになりますよ」

◇ワクチンと治療薬について、多くの人がよく理解していないことを知った。私も誤解していた時期があった。新型インフルエンザ対策として、国はワクチンを実験として、医師ら6400人に接種するという。

 ワクチンとは免疫の材料となるもののことだ。これによって体に免疫力をつくり「新型」の感染を予防するのが目的である。ワクチンは本来病原菌から作るものだ。我が子に菌をうったジェンナーのことを思い出す。

 まだ、この世に現れていないのだから、「新型」からワクチンをつくることは出来ない。今、対策として考えられているワクチンは、鳥インフルエンザのウィルスから作ったものである。鳥インフルエンザウィルスが突然変異して「新型」になることが予想されるために、こうして作られたワクチンが有効だろうという想定なのだ。日本のワクチン備蓄量は現在2千万人分。国は3千万人分にする方針である。

 「新型」対策としてワクチンと共に治療薬があり、治療薬として備蓄を進めているのがタミフルである。これは感染した人に服用させのが基本だが、県は、この治療薬タミフルを発症予防のためにも投与することを考えている。つまり、新型インフルエンザ対策に関わる医療従事者等には、優先的に予防投与することを検討しているのである。

◇このタミフルには限りがあるから、有効な対策をたてるためには、投与の優先順位を考えざるを得ない。その順位とは、1位が予防投与、その中でも、医療従事者、次いで社会機能維持者となる。2位は、治療投与で、その中の順位は次の通りだ。(1)「新型」の入院患者、(2)透析や免疫不全などのある者、あるいは妊婦など死亡リスクの高い患者、(3)14歳以下の子供、(4)老人介護施設入所者、(5)一般外来患者。

◇12月2日から12月議会が始まる。「新型」が迫る嵐の前の静けさの状況で、県の対策がいろいろな角度から問われることになるだろう。テレビの生中継も一つの手段として、県議会が県民に対する警鐘とならなければならない。(読者に感謝)

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2008年11月17日 (月)

「40年ぶりの東大同窓会に出る」

081115_174632 ◇40年間一度も会わない人もいる。是非会いたいと思う者もいた。40年の歳月は、あの頃の温室で純粋培養されたような若者の顔にどのような年輪を刻み込んだのか。私は期待してこの日を待った。

 上野の台地を東に下りると不忍池(しのばずのいけ)が広がる。これを抜けた丘陵地帯が本郷であり、東大はこの東端に位置を占める。私は、昔、隠密の屋敷があったことにその名が由来するといわれる不忍池の風情を楽しみながら歩いた。裏門から東大の構内に入るとなだらかな石畳の坂道が続く。

 このあたりは東大病院の裏手にあたり、昔、前橋との間を行き来する時よく歩いた所である。明治に建てられたレンガ造りのいかめしい建物もほとんどが立て替えられ近代的なビルが並ぶ。やがて安田講堂の前に出た。古い東大とかつての権威を象徴するようないかめしい姿は今も変わらない。ただ、講堂前の広場は庭園風に変わっていた。もうここでは学生の集会は出来ない。そう思いながら時計台を見上げると感慨深いものがあった。私たちが卒業した昭和43年ごろ安田講堂は全共闘の巨大な要塞と化し、塔の上は警察のヘリコプターが何機も舞っていた。時代は変わったのだ。静かな構内で、わずかに色づいたイチョウが小雨に打たれていた。

 5時過ぎに夕闇が迫るころ、文学部の懇親会場で西洋史学科の仲間と再会した。卒業以来初めて会う人たちと固く握手する。頭が薄くなった者、すっかり白髪になりしわがよった顔など、40年の歳月が厳しかった事を物語っている。離れて見て、一瞬、はてと思った顔も近づいて言葉を交わすと、笑顔の中に昔の表情が甦る。

 6時過ぎ、西洋史の仲間11人が本郷3丁目のすし屋の2階で改めてテーブルを囲み近況を語り合い昔を振り返った。現役を退いて自適の生活を楽しんでいる者、大学教授、新聞社の編集委員として活躍している者など様々であった。

私が会うのを楽しみにしていた一人が日笠君である。現在朝日新聞の役員である。彼とは駒場時代語学が同じクラスであり、部屋は違うが共に2年間駒塲寮にいて親しかった仲である。懇親会場で足を引くような歩き方に驚いたが、脳内出血を患い今でも身体に不自由があるという。病から立ち上がり朝日新聞大阪本社で取締役となり、現在、常勤監査役をつとめる。彼は主に営業畑を歩んできたが、歴史的な物の見方が役立ったと語っていた。私は自分の政治生活を振り返って同感だと思った。

やはり駒塲時代から親しい奈良原君とは、大学紛争時のある夜、善福寺の林健太郎先生のお宅を二人で訪ねた事などを懐かしく振り返った。私が元東大総長の林先生の特別の応援を得て県議選に出馬した事を日笠君や奈良君は知っていて、私の政治活動も話題になった。40年は振り返るとあっという間に過ぎたと思える。群馬の現実から離れ夢の世界に浸った一時であった。(読者に感謝)

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2008年11月16日 (日)

遙かなる白根(25)序章 100キロメートル強歩序曲

「もうそこが南面道路。お父さんがこどもの頃、住んでいた所に近い。頑張ろうな」 私たちは、間もなく、再び東西を走る道路に出た。赤城南面道路と呼ばれる国道246号である。ここまで来ると、風もいくらか治まり、ふっこしも止んでいた。「疲れたな。お前もよく頑張る。少し休もう」私たちは、南面道路の道端の石に腰を下ろした。「お父さんのこどもの頃の話をしてやる。この道を少しゆくと橋にかかる。大穴川という川にかかったあらい橋という小さな橋がある。その橋の所を少し北に登ると大崎のつり堀屋さんがあって、そのあたりにお父さんは住んでいた。そこから鼻毛石の小学校まで毎日裸足で通っていたんだ。」「えっ、裸足で。くつがなかったの」周平が大きな声で口をはさむ。「いや、ゴムぞうりとか下駄という履物はあった。しかし、学校は遠いので、履物が邪魔なんだ。裸足の方が走ったりするのに気持ちがいいんだ。お母さんに怒られるから家を出るときは下駄をはいて出るけど、すぐに草の中や桑の根っこに下駄をかくして裸足になる。時々、下駄が見つからなくなったり、誰かに盗られたりしてお母さんにうんとしかられるんだ」「お母さんて、家のお婆ちゃんのこと」「そうだよ。道も舗装されていない石だらけの道だけれど、平気なんだ。道に時々蛇がいたり、石垣の間にはヒバリの巣があったりして、蛇をつかんだり、ヒバリの卵をとったりした。学校の勉強よりいたずらの方が面白いという子も多かった。学校が嫌いで、途中山に入って遊んでいて、学校が終わるころしらばっくれて家に帰る子もいた。それを中返りといって、このあたりより北の子の中には、そういう子が何人かいたんだ」「へぇー面白い。僕も昔の子ならよかった。そうなら、毎日中帰りするんだ」「中帰りばかりしていた子もね、今は、立派なお父さんになって、真面目に仕事をしてね、頑張っているよ。学校の勉強が出来なくても心配ないんだ。山で育った子は、みな、立派な大人になっている」私は言葉を切った。  ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年11月15日 (土)

遙かなる白根(24)序章 100キロメートル強歩序曲

ここの信号を左折して進路を北に取る。この曲がり角の近くに、通称青木店(だな)と昔から言われている店がある。今は群馬銀行につとめている青木英雄という私の小学校の頃の同級生の生家だ。

 そういえば、小学生の頃、私は、学校の帰りに、回り道してこのあたりを通ることがよくあった。私が住んでいたのは、あのあたりか。遥か北、私が目をやる方向にいくつかの人家の光が見える。赤城神社は、その光より、まだまだ遠くにあった。

 もうすぐ、南面道路の梅の木沼のあたりにつきあたる頃と思われる所まできた。つま先が痛み始めた。農家の屋敷を包んだ松の木立が轟轟と音をたてている。風が一段と強まり、頬につめたいものが当りはじめた。

 頬に手をあてると風に舞う雪・風花である。このあたりの人は、この風花のことを「ふっこし」という。ふっこしは次第に強くなった。その時ふと周平のことが気になって振り向いた。身をかがめ闇をすかすようにして目を凝らすが周平の姿はない。更に耳を澄ますが、周平の足音はなく、松の木を動かす風の音ばかりである。

 昔のことを思い出して歩いているうちに、周平との距離が広がったらしい。

「周平―、周平―」

 私の声が風に千切れて飛んでゆく。足が痛くて遅れてしまったのか。横道にそれて迷っているのか。ふっこしは、激しさを増して吹雪のようになってきた。私は不安になって、逆の方向に走った。

「周平―、周平―」

なおも大きな声で叫び、叫びながら走った。すると、風の音に混じって何か聞こえる。

「お父さーん、お父さーん」

呼んでいる。周平の声であった。やがて、声と共に小さな足音が近づいてきた。

「周平―」

「お父さーん」

周平は闇の中から突然目の前に現われた。泣きそうなのを、鼻をすすって、こらえている。

「ああよかった。お父さんが見えなくなっちゃって、すごい風の音と雪だもの、僕、遭難かと思った。こんなの初めてだ」

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2008年11月14日 (金)

「高齢者犯罪の増加」「今月のふるさと塾は」

Photo ◇昨日のブログで、「犯罪は世相を反映する」「社会の病理を特に敏感に映すのが少年犯罪」と書いたら、「同感です、高齢者犯罪も同様です」という意見が寄せられた。その通りである。

 少年は精神的に未熟ゆえに刺激に振り回され、また、激しい変化に対応できない。高齢者は、身体的にも精神的にも力が衰えて社会に対する適応力を失う。特に最近の格差社会は高齢者に対して冷たく厳しい。

 08年版の犯罪白書が出た。そこでは、刑法犯全体が減少する中で、高齢者犯罪が増え続けていることを指摘している。そして、高齢者の犯罪は、万引きなどの窃盗犯が65%で最も多く次いで自転車泥棒などが多い。高齢者で犯罪を犯す者の中には、住居と食事を求めて刑務所を望む者もあるときく。哀れである。

 窃盗罪などを犯す高齢者が増えていることは、政治の貧困を示すものだ。日本は世界第二の経済大国といわれるが高齢者犯罪の実態を見ると真に豊かな国とはいえない。

◇政府は最近の不況対策として給付金を支給しようとしているが、まともな政策とは思えない。国民の多くはもらえるものはもらいたいと思っている。あり余っている金なら別であるが、国全体が膨大な借金を抱えてる時だから税金は有効に使わなくてはならない。真の豊かさに一歩でも近づくために、2兆円の金を有効に使う知恵がないものか。麻生さんの支持率がこの問題で下がっていると思う。

◇今月の「ふるさと塾」(22日、PM7時)は、「ヒットラーの謎」と「新型インフルエンザ対策」の2本立てを予定している。

 「新型」については、私のブログで、これまでに、何回も取り上げてきた。警鐘としていくらかでも役に立てばと思った。ふるさと塾では、新型インフルエンザの歴史や国・県の対策、先進地の取り組みなどを紹介するつもりだ。

 本県は死者1万人を想定している。こんな大きな災害は、他には考えられない。群馬は災害がないとして、自然災害に対して県民は全くといってよいほど危機感がない。このことと関係があるかないか分からないが「新型インフル」に対しても危機感がない。それだけに行政の役割は重大だ。しかし、行政の対応は遅れている。

毎日新聞が7月21日に、各都道府県の対策の状況を発表したが、群馬県は、3つの調査項目について次のように、「×」、「×」、「△」となっている。①大流行時の病床確保の見通し。できない(×)。②発熱外来の設置場所。今後検討する(×)。つまり決まっていないのだ。③大流行時の医師や看護師確保の見通し。分からない(△)。全てが「○」のところは静岡県だけであるから、ほとんどの自治体において対策が遅れているのだ。

◇国では今年4月に新型インフル対策法(改正感染症予防法及び改正検疫法)が成立した。知事は患者の強制入院、移動、就業制限、危険地域の建物封鎖、交通制限もできる。これらが絵にかいた餅にならぬよう準備しなければならない。(読者に感謝)

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2008年11月13日 (木)

「最近の犯罪状況」

◇昨日の新聞は、県下の三つの刑事事件に関する記事を載せている。少年の集団暴行事件、清水太田市長宅突入事件、そして、殺人事件に対して無期懲役が下された判決である。犯罪は世相を反映する。身近なこれらの犯罪は、殺伐とした今日の社会の実態とどのように関わっているのであろうか。

◇少年事件は、暴行されて意識不明となった少年が前橋市民文化会館の駐車場で発見されたもの。三人の少年が、被害少年を無理に車に乗せて連れ出したとして逮捕監禁容疑で逮捕された。傷害あるいはそれ以上の犯罪について三人の少年は厳しく追及されるだろう。この少年犯罪の行方を注目したい。

 少年による重大事件が続発している。昨年は次のような事件があった。6人の少年が19年2月、被害者の胸や頸(くび)を果物ナイフで突き刺し1人を殺害し、1人に重傷を負わせた。前橋の事件もそうだが、少年は集団になると残虐なことを仕出かす。

 もう一つの注目される少年事件は、19年5月、男子高校生が実母を殺し頭部を切断したケースである。社会の病理を特に敏感に映すのが少年犯罪である。これらの事件の推移を通して少年事件の問題点を考えたいと思う。

◇前橋地裁で無期刑を受けた被告は、殺人や窃盗の罪に問われたものだが、裁判長は、「強固な殺意に基づく犯行で矯正はかなり困難」として無期懲役を言い渡した。裁判長は、矯正が困難と判断した理由として、この被告が前妻を殺し仮釈放から三年もたたないうちに、今回の犯行に及んだ事をあげている。間もなく始まる裁判員制度の下で、裁判員に選ばれる民間人は、このような矯正困難な被告に対してどのような量刑を行うのか。全ての人にとって難しい課題である。

◇清水太田市長宅へトラックを突入させた事件が一歩解決に近づいたようだ。山口組系の4人の暴力団員が逮捕された。これらの容疑者は、「市長宅に突っ込む直前にトラックを盗んだ」ことを供述しているという。そのトラックで突っ込んだのは誰かが厳しく追及されることになる。

この事件の重要点は、民主主義を暴力で脅かした事である。事件の真相はまだよく分からないが、市長の屋敷にトラックで突入して、門扉、門柱、塀を壊すこと自体が、政治に対して暴力の恐怖を突きつけるものである。

事件は昨年の3月に起きた。次々にショッキングな事件が起きている社会なので大きな事件もすぐ忘れられるが、これは決して忘れてはならない大事件なのだ。解決の端緒が見えたことの意義は大きい。群馬県の民主主義を守るために徹底して追及すべきだ。

昨年4月長崎市長が暴力団の凶弾に倒れ、社会に衝撃を与えた。犯人は地裁で死刑判決を受けた。これも民主主義に対する挑戦であるが故により重大な事件であった。ともに見守っていきたい(読者に感謝)

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2008年11月12日 (水)

「農業に取り組む朝」

◇朝6時、農業生産法人・有限会社「シンセン」の会議があった(11日)。毎月第二火曜日の朝6時に行われる。無農薬・科学肥料なしで、ジャガイモ、サトイモ、ホウレン草、ブロッコリーなどを作ってきた。畑の西の隅に小さなプレハブ小屋が立ち、その前に小型のトラクターが置かれている。会議をしていると、東の森の上の雲間から、ピリッとした冷気を貫くように朝日が、ブロッコリーやホウレン草の上に差し始めた。

 自分たちが育てる野菜が朝日を浴びる光景に生命の躍動を感じる。朝の陽光は命の源である。私たちの夢は、太陽のエネルギーを吸収したこの新鮮な野菜を都会の人に届けることだ。農は社会の大本(たいほん)、命の基盤である。名山赤城の麓に広がる耕作放棄地を、私たちのささやかな事業をきっかけにして甦らせることも「シンセン」に託した夢である。

 この朝、二人の若者が私の農場を訪ねた。昭和村で農業生産法人を立ち上げて新しい農業に取り組んでいる人たちである。昭和村では、冬に野菜が作れないので、その間、赤城南麓の畑を使いたい、合わせて私たちとも協力したいと語っていた。昭和村では多くの農業生産法人が動いているという。日本の新しい農業の可能性を若者を通して感じた。最近、あるミュージシャンが、我が「シンセン」の農業に参加することになった。農と土に新しい夢を見つけようとしている。絶望的な農業にも朝日が差し始めたことを感じた。

◇県民マラソンの記録が上毛新聞に発表された(11日)。私は、「男子10キロ」で58分20秒、順位1572であるが、9秒後に同タイムの木村親子の名前を見つけた。実は父親の木村和雄さんは、今日の日記で書いている「()シンセン」の社長である。今年はどうしたのだろうと思いながらトラックに近づいたとき私の前を走っている姿に気付いた。私は死力を尽して追い抜き歯をくいしばってトラックを一周してゴールに駆け込んだ。最後のダッシュが9秒と12人の差をつけた事を知った。今朝、農場で健闘を讃えあった。

◇最近の葬儀で私の心に響く挨拶があった。それは、孫が祖父に別れを告げるもので、

「おじいちゃんがいなければ、お父さんはいなかった。そしてぼくもいなかった」というもの。大好きなおじいちゃんに呼びかける言葉は胸に迫るものがあった。私は、この言葉を聞いて、現在の人間が過去から未来へ途切れることなくつながる存在の一部であることを教えられた気がした。この子どもの言葉を借りれば祖先の一人が欠ければ僕はなかった、また僕がいなければ僕に続く子孫はない、と言う事になる。今日では、この人間の連続はDNAによって科学的に実証されている。仮にDNAを人間の魂と考えるなら、「肉体は亡んでも魂は不変」という思想も科学的に納得がいくように思える。また、祖先を敬うということも素直に受け入れられる気がする。孫の言葉を聞きながらふとこんなことを考えた。

(読者に感謝)

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2008年11月11日 (火)

「大連外国語学院との調印式が迫る」

Photo ◇日中議連の役員会が行われた(10日)。大連外国語学院と県立女子大との連携の調印式が迫り、「議連」としてどのように対応するかを話し合った。当初は山東省方面も回る計画であったが、解散含みの状況が混沌として、足並みがそろわなくなった。最悪の場合、議員は私一人で参加することも考えていたが、結局、山東省訪問は止め、調印式に出席する議員は、関根圀男氏と私の二人に決まった。その他県立女子大から3人が参加する。

 今月26日に出発し、27日午前に調印式を済ませ、その日の午後、私が記念公演をする。先日、陳岩(ちんがん)教授から、200名前後の生徒が出席予定との連絡が女子大に届いた。この公演には、遼寧師範大学副学長の曲維(きょくい)教授も出席する事になっている。

◇今回の公演は、「私のふるさと塾」と同様、映像を使い、女子大、群馬県、日本を紹介する予定である。「群馬県」の部分では、温泉や山などの群馬の自然を見てもらい、本県出身の4人の首相のこと、特に福田赳夫氏は日中平和友好条約を結んだ人である事にも触れようと思う。そしてこれらの出来事の背景として日中の歴史を語り、また今後の日中の文化交流の意義に話を発展させたいと考えている。

 両大学提携の話は昨年10月我々県議団が移転直後の大連外大を訪ねた時、私が提案して一気に進んだ。その基礎には、私が、ほぼ10年にわたって続けてきた日本の書物を贈る運動があった。昨年、旅順市の壮大なキャンパスの一角にある建物の一室で、私たちは「日中友好中村文庫」に出会い、群馬の善意が芽生えている姿を見た。

◇本を贈る運動のきっかけは、98年(平成10年)、大連の同大学で、日本語を学ぶ学生たちに講演をしたことである。熱心に私の話を聴く学生たちの表情は、私の日本語をよく理解していることを物語っていた。驚いたことは、何人かの学生が正しい日本語で的確な質問をした事である。「日本の学生はかなわない」私はこのとき正直、こう思ったのである。そして、図書室に案内されて、日本の書物が余りに少なく粗末なことに再び驚かされ、帰国後、本を贈る運動を始めたのである。

◇私は「きっかけ」を作り、同僚の県議の積極的な努力と、両大学の理解で、今回の提携にこぎつけることが出来た。両大学の関係は小さな一歩からスタートするが、この一歩は大きな意義があるものである。

 中国は日本にとって非常に重要な国である。過去もそうであったがこれからは増々重要になる。大連は、かつての満州国の主要な都市で日本との関連は過去も現在も密である。そして大連外国語学院で日本語を学ぶ学生数は、外国の大学では世界一である。大連外大は、大連市から、日ロ戦の激戦地があった旅順に移り新しいスタートをした。学問の交流を通して日中の真の交流とそこから生まれる果実を期待したい。日中議連はそれをサポートしていく。(読者に感謝)

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2008年11月10日 (月)

「中村進さんの偲ぶ会」「尾身さんの国政報告会のこと」

◇チョモランマ(エベレスト)の高所で死を覚悟した後、仲間に救出されるときの、声をあげて泣く中村さんの映像が衝撃的であった。雪煙りの中に屹立(きつりつ)する白い山は、全ての妥協を許さない峻厳で崇高な姿に見えた。この非情な山をチベットの人は古来、「母なる女神・チョモランマ」と呼ぶ。母なる女神は、容易に文明人を寄せつけない。過去に多くのクライマーを振り落としてきた女神は、文明人に何を示そうとしているのか。文明の驕(おご)りに対する戒(いましめ)か。自然破壊に対する怒りか。はたまた、生命の大切さを教えようとしているのか。

 私は、生前の中村進さんに会ったことはない。みるからに逞しい山男を想像していたが、文章や映像から伝わるものは、北極点、南極点、エベレストを征服したとは思えない、優しさとさわやかさであった。

 中村進さんは、いくつもの登山隊の隊長をつとめられた。偲ぶ会で登山の仲間が語っていた。隊長には、三つの条件が要る、それは、情熱、信念・哲学、規律を求める力、だという。これを備えた中村さんの評価が高いことを知った。

 中村さんは、「人間も自然の一部である」、「登山は人の心の中にある、人の心の中に自然がある」と語っている。命をかけて山と取り組んだ登山家として到達した哲学なのだろう。中村さんのこの言葉の真の意味を理解するために私もこれから山に親しもうと思った。また、中村さんは「赤城山は私のチョモランマ」といっている。赤城山を愛する私は、この山を通して中村さんとつながっていることを感じた。

◇旧前橋最北の町金丸で尾身さんの国政報告会が行われた(8日)。この冬一番の寒い夜に熱心な支持者が集った。人々は、尾身さんが語る少年時代のこと、そして、「人間としての趣味」の話しに、身を乗り出すように聞き入っていた。

 私は前座で次のような話をした。アメリカは日本よりも大変なときに黒人オバマを大統領に選び、力を合わせれば不可能はないといって国民が湧きたっているが日本も本物の政治家を選んで、心を一つにして力を合わせるべきだ」と。

尾身さんは政局と時局を語った。この人の話にはいつもはったりがない、この日も、ストレートな語り口が人々の心をとらえていた。尾身さんは、日本は頭脳で勝負する国にならねばならない。その為には科学技術の振興が必要だと持論を語った。

尾身さんはめずらしく自分の少年時代を語り始めた。それは、金丸町という、かつて開墾から始まったこの町の素朴な人たちを前にして、自分の政治の原点を語る気になったのだろう。「7人兄弟の長男として中・高生時代家業である下駄の行商をした」、「本来、家業を継ぐべきところを志を立て大学に進んだ」、そして「現在自分の全てをかけて国家社会のために活動することが私の人間としての趣味」などに話は及んだ。風の夜、ストーブが赤く燃える室内で久しぶりに政治家の良い話が聞けた。(読者に感謝)

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2008年11月 9日 (日)

遙かなる白根(23)序章 100キロメートル強歩序曲

「何の勉強なの。歩いても僕の脳味噌お利口にならないよ」 周平はとまどっている。「頑張ることの勉強なんだ。真面目に努力することを勉強しているんだよ。人間はね、真面目に努力することがうんと大切なことなんだ。周平が今晩、赤城神社まで歩ければ、この努力すること、つまりね、頑張ること、それをうんと勉強したことになるんだよ。そして自信をもつことが出来て、他のことでも頑張れるようになるんだ」「自信て」 周平は、またたずねた。めずらしいことである。「僕だって出来るんだという気持ちさ。心の中に湧いてくる力だよ」 私は、一言一言をかみしめるように言った。 私の背中には汗がにじんでいた。頬を叩く風が爽快に感じられたが、それよりも、周平と初めてこのようなまともな会話が出来たことが出来たことが私の心を弾ませていた。「周平、みてごらん」私は登って来た方向を振り向いて言った。そこは小坂子の坂も終わりに近い所で、眼下に前橋の夜景が広がっていた。冷たい赤城おろしは、あのあたりまで届いているのだろう。闇の彼方には、別世界のように街の灯が、風にあおられた火のように、きらきらと広く静かにゆらいでいる。「わあーきれいだ」突然すごいものを発見したように、周平は大きな声をあげた。「みんな、紅白歌合戦を見ているのだろう。お母さんも、そろそろ出発の準備を始めたかも知れない。さあ、周平、頑張ろう」「うん、僕、頑張るぞ。お母さんが待っているんだもんね」周平の声も明るく弾んでいる。 妻は車で赤城神社までゆき、帰りは、皆で車に乗ることになっていた。 私たちは黙々と歩いた。初めは、すぐに話しかけた周平も今は黙って歩いている。時々遅れがちで、私との間の距離が広がるが、私が速度をゆるめて調節すると、闇の中にひたひたと小さな足音が近づいてくる。 やがて、二人は宮城村の市之関まで来た。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年11月 8日 (土)

遙かなる白根(22)序章 100キロメートル強歩序曲

Photo 私の家のすぐ北を走る県道・原之郷四ツ塚線が芳賀の小坂子(こざかし)を経て宮城村へとのびている。車で毎日のように走る道なので、私は道筋の様子を詳細に頭に描くことが出来る。私の頭にある道筋の絵は、何十回、何百回となく、車を走らせるたびに描いたもので完璧だと思っていた。ところが歩いてみると、道端の石や木や建物の姿、そして、道の曲がり方や道路の起伏に至るまで、次々と現れる道路の様子が車から見たのとは大いに違うことに気付く。

 私は、歩くことに新鮮な驚きを感じながら、うなりをあげて吹きつける赤城おろしの中に、身体を倒して分け入るようにして一歩一歩と足を進めた。

「お父さん、お父さん」

周平の叫ぶ声が風の音にまじって後ろからきこえた。先程までフードを目深にかぶり、手袋をして、身を丸めるようにして歩いていた周平が、今は、フードをとり手袋もはずしている。近づくと口元から白い息が闇に滲(にじ)むように流れるのが見える。はぁ、はぁ、と息急(いきせ)き切っている。

「お前、同じ速さで歩かなければ駄目だよ。そんなに走ると疲れるんだ。最後まで歩けなくなるよ」

先程からの周平の歩き振りを見ていると、ぐいぐいと私を追い越して行ったかと思うといつの間にか、私の遥か後ろになっている。それを何回となく繰り返しているのだ。

「うん、わかったよ。お父さん、もう半分位きたの」

「何を言ってるんだ。まだ、この十倍位あるんだ」

私は、小坂子の坂をほぼ登りつめたあたりから、前橋市街のきらめく灯の海を振り返って言った。そこには、大晦日を過ごす前橋市の夜の街が静かにキラキラと輝いて広がっていた。

「へぇー、お父さん、赤城神社って遠いんだね」

「だから最後まで頑張って歩き通せば偉いんだ。学校のテストで良い成績をとるのと同じだよ。いや、もっとすごいことかも知れない。周平が歩き通せたら先生にも報告して誉めてもらおう」

「えっ、学校の先生が僕を誉めるの。先生が誉めるのは勉強だよ。僕、学校で誉められたことないもん」

 周平は歩くのをやめて私の方を向いて言った。私も立ち止まって周平を見た。

「お前、今、お父さんと歩いているのは、立派な勉強なんだよ。学校の算数や国語よりもっと大切な勉強をしているんだよ」

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2008年11月 7日 (金)

「日赤の移転問題」「アメリカの大義」

◇「前橋赤十字病院が移転検討」という新聞報道が出た。巷(ちまた)では、候補の用地が動いているとか、前橋南部が有力などということが話題になり、また疑惑かと生臭い問題を想像する人もいる。「建て替え検討審議会」が出来て早急に結論を出そうとしている。この事が県議会内部で議論された。(6日)。

 前橋日赤内部にある「経営審議会」でも、昨年このことが話題になったが、この会は建て替えや移転を検討する会ではない。経営状況の審議という観点から自由な発言がなされる場である。私は個人の意見として、日赤の役割と機能の点から移転に賛成したが、もとより、この時点で移転に伴う様々な課題を検討したわけではない。結論を出すには、県議会で議論を尽くさねばならないと考えていた。

 私の構想は、移転するとすれば、県民健康科学大学(旧県立医療短大)の近くが適地ではないかと考え、宮崎院長に申し上げた事がある。上武道路の完成による交通の利便性、健康科学大学との連携(大学は強く望んでいる)、近くを桃の木川が流れ北には雄大な赤城の眺望があるというアメニティーの観点などを考えたのである。宮崎院長も私の考えに興味を示しておられた。

 しかし、私は、「建て替え検討審議会」のメンバーではないので、私の意見は重きをなさない。建て替え、移転についての課題や資料が提出された現在、改めて熟慮したいと思う。いずれにしても、「検討審議会」が早急に結論を出すことには反対である。

◇昨日、黒人大統領オバマの事を書いたら反響があった。夜の会合に出たら「俺たちも勇気づけられた、日本も力を合わせれば不可能はない、ウィ・キャン・ドゥだ」という人がいた。オバマの勝利は、単にアメリカだけの問題ではないと改めて思った。

 アフリカ系の黒人がアメリカの頂点に立ったことは、自由、平等という人類が掲げる理想の勝利を意味する。およそ230年前、アメリカは、全ての人は平等だとする理念を実現するためにイギリスの植民地支配と戦って創られた国である。リンカーンも、ケネディも国民に訴える重要な演説に於いて、この建国の理想を格調高く語った。

リンカーンは奴隷解放宣言を行なった年、南北戦争の激戦地ゲティスバーグで有名な演説をした。その中で最も重要な言葉は、「人民の人民による人民のための政府が地球上から消え去ることはない」という部分である。リンカーンは、奴隷を開放することにより真に人民のための政府が創られたことを訴えている。オバマが「白人も黒人もない、共和党も民主党もない、あるのはアメリカ合衆国だ」と今回、勝利の演説で語ったのも同じ意味である。

日本国憲法の前文には、国政につき、「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表が行使し、その福利は国民が享受する」とあるが、これはリンカーンの言葉と符合する。わが憲法にもリンカーンやオバマの語った理想と共通のものが脈々と流れている。今、その精神を活かすべきだ。(読者に感謝)

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2008年11月 6日 (木)

「人類の歴史的瞬間、黒人大統領の誕生」

45 ◇アメリカ各州の選挙結果を伝えるテレビの画面を、私は、固唾(かたず)を呑んで、わくわくしながら見守った。オバマは、伝統的に共和党が強かったバージニアやフロリダなども次々に制し、やがて劇的な大勝利が確定的になった。それは、アフリカ系の黒人大統領誕生が確実となる歴史的瞬間であった。

 勝利の広場に人々は海のように押し寄せていた。オバマの一言一言に人々は、うねる波のように応じた。私は、オバマの言葉に耳を傾け、メモした。「アメリカに不可能はない。黒人も白人も、ヒスパニックも、アジア人もない、また、共和党も民主党もない、今も、これからも一つの合衆国があるのだ。もっと対立が激しかった時代にリンカーンは言った。対立しても敵ではなく友人なのだ、対立があっても友情の絆を切ってはならない、と」

 未曽有の困難に直面したアメリカ人にオバマは一つになって力を合わせれば不可能はないと訴えている。

 それに対して、人々は、「ウィ、キャン、ドゥ」(我々は出来る)「ウィ、キャン、ドゥ」と一斉に応えた。

 オバマは、続ける。「アメリカ史上最も素晴しい選挙だった。皆さんがこれを可能にしてくれた。今夜、私たちの手で、この選挙によって、まさにこの瞬間に、アメリカに変革をもたらすことが出来た」

 この素晴しい勝利を可能にした力をもってすれば、変革は可能であることをオバマは訴えている。これに対して、又、「ウィ、キャン、ドゥ」「ウィ、キャン、ドゥ」の大合唱が起きた。

 私は、この光景こそ、アメリカ人が元気と希望を取り戻した姿だと思った。そして、アメリカは素晴しい理想の国だと思った。このアメリカ人のエネルギーを評価したかのようにニューヨーク市場の株は急上昇した。日本の政治家が大衆に向かって格調の高い民主主義の理念を語りかけることはまずない。アメリカとは歴史的社会的土壌が違うから仕方がないとはいえ、政治家として淋しい思いがする。

◇アメリカは、「人は生れながらにして平等」という理念に基づいて建国された。この理念の下では肌の色による差別は許されない筈であるが、現実は膨大な奴隷が社会を支えていた。その後、リンカーンは、現実を理想に近づけるために奴隷解放を行ったが、肌の色による差別はその後もなくならなかった。コロンブス以降、何千万ともいわれる黒人が奴隷としてアフリカから新大陸に渡った。アフリカ系の黒人が世界最強の権力の座に着く。これは、アメリカンドリームの劇的な象徴であると同時に、まだまだ人種偏見が根強い世界の現状に衝撃を与える人類史上の出来事なのである。来年1月の大統領就任式ではより練られたオバマの演説が聞けるだろう。(読者に感謝)

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2008年11月 5日 (水)

「新型インフルエンザ・栃木、大田原市の取り組み」

081101_153430 ◇先月私のブログに重要なコメントが付いた。遅くなったが紹介させて頂く。コメントの主は伊勢崎市の市会議員・田村幸一さんで私の「ふるさと塾」の塾生でもある。田村さんは、私にならって伊勢崎で同じような「塾」を開かれた。支店と称しておられるが、私は恐縮している次第である。

 田村さんのコメントは、新型インフルエンザに関するものである。私は10月の県議会で「新型」につき取り上げ、そのことを「90年前の惨状を活かせ」と題してブログで書いた。その中で私は、群馬県内の「新型」に関する危機意識が低いこと、また、それを深刻に受け止めるべき行政の取り組みも不十分であることを指摘した。これを読んだ田村さんは、私と同じような危機意識を抱かれたのであろう。栃木県大田原市に自ら調査に行かれた時の感想をコメントの中で、「市長の英断と実践力を見て、大田原市が新型インフルエンザ対策での先進地と認識いたしました」と述べられた。そこで私も、大田原市の取り組みを調査した。以下、その要点を紹介したい。

 注目される点は、市職員と市民の危機意識の高揚を目指した「新型インフルエンザ対策模擬訓練」を実施した事である。群馬県も対策室がつくられ、机上の備えは進んでいると見られるが、危機意識の高揚と実際の訓練がなければ書類の上の優れ作戦も活かされないと思う。

 大田原市は、市職員・地元医師会・消防・民間団体から成る参加者が訓練を行い大流行が現実化した場合の課題を探した。訓練の中で一つの面白い取り組みがある。発熱者を診断する「発熱外来」で、外来者が車に乗ったまま各検査のテントを回って診断を受けるドライブスルー方式を初めて試みた事である。新型のウイルスは、くしゃみなどの飛沫を吸い込むことで感染する。1回のくしゃみで体外に放出される病原体は1万~10万個といわれる。だから、流行時は、人との接触をなるべく避けねばならない。「ドライブスルー方式」は、このための工夫である。

 千保一夫市長は、「訓練を繰り返して全職員が体験しておく事が大事。実際に流行した際に被害を大幅に減らせるよう、来年度は更に大規模な訓練を行ないたい」と述べたと言われる。

 群馬県は、県下の市町村と連携してこのような訓練を実施すべきである。県の役割は、この種の問題について市町村に働きかけることであると思う。田村さんは「県議会で複数の議員が、対策の必要性を示唆し、県を動かして各自治体の関心の無さを変えて欲しい」と訴えておられる。

◇「90年前の惨状」について、敢えて再びここに示したいと思う。それは、第一次世界大戦中世界に広がった有名なスペインかぜである。群馬県では、1918年(大正7年)からはやり始め、3年間で4454人の死者が出た。単純に当時と比較できないとしても大惨事になる恐れがあるので私は資料を示した。(読者に感謝)

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2008年11月 4日 (火)

「10km。58分20秒。素晴しい1日だった」

081103_111616 ◇ぎりぎり頑張ってゴールに駆け込んだ時の達成感と満足感はたとえようもない。68歳の誕生日の4日後の大事業成就の瞬間だった。

「第18回、ぐんま県民マラソン2008」、「種目10km男子」である。完走証を手にして嬉しかった。完走記録58分20秒、種目順位1572位とある。昨年の記録は、56分32秒、順位は1308位だった。

 今年は55分代を目指し、体重を4kg以上減らし、かなり走り込んで臨んだ。しかし、実際走ってみてあまり調子がよくなかった。やや風邪ぎみが原因か足が重かった。マラソンの体調は微妙なものだ。プロの選手が直前に棄権したり、途中で勝負を放棄したりする例をよく耳にするが分かる気がする。

 10km男子は、3001人参加し、私の登録番号は1位であった。スタート係の千葉真子さんの澄んだ声が響きピストルが鳴った。一斉に走り出す。ランナーたちの始めのスピードはすごい。全てのランナーが私を追い越していくようだ。私は流れの中に取り残されていく。私はいつも、スタートラインの近くに立って合図を待つ。このあたりは、「記録を狙う人」という表示が掲げられている。私を追い抜く人たちは、恐らく記録を狙う速い人であろう。

 バラ園の裏を回り北上して再び利根川べりの国体道路に出た時、又、昨年と同じように、背中を曲げて両手で水をかきわけるようにして走る老人が私を追い越した。がっしりとした背中は昨年と変わらない。

 その姿を見て私はファイトを燃やし老人を追い抜いた。スッス・ハッハ、スッス・ハッハ、私は視線を斜め下に向け懸命に走る。私の視界に様々な脚が入っては消える。少年の脚、少女の脚、老人の脚、そして、はっとするような女性の美しい脚もある。ランナーたちは、皆真剣に考えて決断して参加しているに違いない。それぞれの脚は、それぞれの人生を語っているように見えた。

 私の走る仲間の一人で、私よりかなり先を走っていた人が終了後次のような話を聞かせてくれた。背中を曲げた老人が、左右に手を振って泳ぐように走り追い越していく。何かを口走っているので振り向く人もいた。耳を傾けると、「チクショウ・チクショウ」、「何をこのくらい」と聞こえたという。私が追い抜いたはずのあの老人に違いないと思った。後でわかったことだが、この人は、今大会最高齢、91歳の大河原さんである。レース中は腰からももにかけて痛みがあった。太平洋戦争従軍中に受けた古傷が原因だという。「チクショウ」の声の意味が分かった。あの後ろ姿は大河原さんのすごい人生を雄弁に語っていた。60歳を過ぎてマラソンを始め県民マラソンは80歳から参加した。 

昨年は90歳でホノルルマラソンに初出場し、42・195キロを8時間かけて完走したという。大河原さんのような方が県民マラソンで頑張る姿は、ランナーだけでなく全ての県民に夢と希望を与えてくれる。私にも新たな目標が出来た。完走後、千葉真子さんの晴れやかな笑顔に出会い握手を交わした。

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2008年11月 3日 (月)

遙かなる白根(21)序章 100キロメートル強歩序曲

歩くことは人間にとって一つの原点である。私たちの遠い祖先は、その進化の過程で歩くことによって他と別れて人間としての歩みを始めた。二本足で立つことが常態となることで重い脳を支えることが可能となり、脳が発達した。又、前足が歩くことから開放され、手で食べ物を処理して口に運ぶようになり、あごが言葉を話すに適したように変化し、又道具をつくるようになった。脳が発達し、言葉を操り、手で道具をつくる。このようにして人間は文明を発展させた。その出発点は歩くことであった。

ところが、そこから発展させた文明の利器にたよって現代の人間は歩かなくなってしまった。歩かないことによる弊害は予想以上に大きいのではないか。歩くことによって人間となった私達は、歩かなくなって、人間としての大切なものを失いつつある。これは、文明の危機、人類の滅亡にも通じる重大なことである。私達一般について言われているように、歩くことの効果は大きいが、それ以上に、周平には歩くことに格別な効果があると思える。そして、私といっしょに歩くことには更に違った効果があるに違いない。私には、こう思えた。

平成5年12月31日、午後9時、私と周平は、前橋市鳥取町の自宅を出発した。テレビでは、NHKの紅白歌合戦が始まろうとしていた。目指すのは赤城神社である。赤城神社は、勢多郡宮城村三夜沢にある。社のすぐ裏には急斜面の赤城の山が迫っている。そこは、宮城村でも最北の地である。そして、私の家から12,3キロを歩くことはかなりの強行軍である。

「周ちゃん、暗いから迷子にならないように、お父さんの後にしっかりついてゆくのよ」

後ろで、妻は心配そうに言った。強い風に、妻の声がちぎれてゆく。肌を刺すような寒さである。凍った空に半月が光を投げ、その下をレースのような白い雲が流れていく。農家の屋敷森の間から赤城の鍋割の影が墨をにじませたようにうっすらと見える。

俺は赤城神社まで歩けるだろうか。心の片隅に小さな不安があった。それよりも、周平はあそこまで歩けるだろうか。こちらの心配の方が大きい。

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2008年11月 2日 (日)

遙かなる白根(20)序章 100キロメートル強歩序曲

この出来事があってから私の心は何故か軽くなった。そして、大地にしっかりと足が着くような安心感が湧くのを覚えた。私は秘かに自ら期することがあったが周平には何も話さなかった。それからしばらくして、宮城村のお婆ちゃんから妻の所へ電話があった。「周ちゃんが、お父さんに死んでしまえと言われたって。可哀想だからそんなことを言わないようにお前から紀雄さんに言っとくれ」「はい、わかりました」妻は軽く答えて多くを語らなかった。妻は私の変化に気付いていた。 母と子の間には強い絆がある。それは理屈のいらない一心同体的な血のつながりともいうべきものだ。それは、人間である以前の動物的なつながりというべきものであろう。妻と周平との間にもそういう確かな太い絆がある。妻がよく流す涙に、又、いくら叱られても母親に甘えて近づいてゆく周平の姿に、そのことはよく現れている。今周平に必要なものは、そのような動物的な絆を基盤としてその上に築かれる人間的絆である。土台とその上の建造物、両方がかみあってしっかりとした建物ができる。私はこの両方に対する自分の役割を果せずに来たのである。その障害になるものが心の奥にこびりついていた。私の心の暗い片隅にはりついて蠢いていた黒い異物は鋭いメスで抉られて捨てられた。そして、私は目の前のもやが晴れ、そこから周平のすっきりした姿がたち現れるのを見た。周平と共に生きよう。そういう感情が私の心に、乾いた湖に水が流れ込むように、静かに満ちていくのを覚えたのである。 その年も終わりに近づいていた。明ければ周平は6年生になる。「来年は良い年にしたい。初詣は、わが家の大切なことをお願いしなければ」大晦日が近づいた時、私は家族の前でこう言った。そして、考えていた計画を話した。「大晦日、周平と歩くことにした。周平も歩くと言っているよ。そして、初詣だ」「えー、赤城神社まで歩くですって、あんな所まで無理ですよ。あなたは年だし、周平は小さいのよ」「いや、困難に挑戦して、体力と精神力を養うんだ。周平にとって一番良い勉強だよ。歩くことには大切な意味がある。そして、俺と二人で歩くことに大きな意味があると思うんだ。」 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年11月 1日 (土)

遙かなる白根(19)序章 100キロメートル強歩序曲

私は、小学校6年生まで宮城村の山奥で少年時代を過ごしたが、友だちと山野を駆け回っていたずらをしていた時代に身につけたこと、そしてそこで自然から学んだことは、何十冊の書物から得たものより貴重であると、年を重ねるごとに思うのである。そのように思えるのは、かつての生活の中で自然の体験と学問とが結びついていたからかも知れない。昔の人はみな自然の中で心と体と頭をきたえたが、今の子どもたちは、このように自然から身につけることがあまりに少ないのだ。学校も子どもたちも現代の社会の中にある。そして、今日の社会は、ある方向に一直線に進んできた近代文明の中にある。近代文明が追ってきた方向とは、物質の豊かさであり生活の便利さである。今、それを振り返り、ゆき過ぎを改める時がきた。

周平の問題は、周平だけの問題ではない。教育全体の問題につながり、また、社会のあり方の問題にもつながっている。理屈の上だけでなく自分の存在をかけてこの問題に取り組むまでに私は、多くの時間をかけた。又、越えねばならないいくつものハードルがあった。

私は周平の笑顔が失われてゆくことに、また時々見せる苦しそうな歪んだ表情に驚愕し、無力な自分を恨めしく思った。

「お前など死んでしまえ」

この年の暮れのある日、とんでもない言葉が私の口をついて出た。この言葉は周平の心を突き刺すと同時に私の心を切り裂いた。私を凝視する周平の視線を受けて、私は、自分の心の奥にたまっていたドロドロした黒い血が、その切り口から流れ出るのを感じた。

一つのチャレンジ

周平は、時々、はっとさせるようなまともな行動に出ることがある。頭の中の微妙な回線がつながって電流が流れる瞬間なのか。私が、言ってはならぬ言葉を投げた時の周平の表情は、まとも過ぎるほどまともに見えた。私を見詰める目は怒りの感情を表すのではなく、冷静で、その場で言うべきすべてのことを適格に語って抗議しているように思えた。無言で視線を交わす数秒の間に緊迫したやり取りが行われ、私は一敗地にまみれたのである。私は、自分の心の貧しさを恥じた。そして、心の深層にある周平への軽蔑の感情が白日の下に晒されるのを感じた。

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