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2008年11月 1日 (土)

遙かなる白根(19)序章 100キロメートル強歩序曲

私は、小学校6年生まで宮城村の山奥で少年時代を過ごしたが、友だちと山野を駆け回っていたずらをしていた時代に身につけたこと、そしてそこで自然から学んだことは、何十冊の書物から得たものより貴重であると、年を重ねるごとに思うのである。そのように思えるのは、かつての生活の中で自然の体験と学問とが結びついていたからかも知れない。昔の人はみな自然の中で心と体と頭をきたえたが、今の子どもたちは、このように自然から身につけることがあまりに少ないのだ。学校も子どもたちも現代の社会の中にある。そして、今日の社会は、ある方向に一直線に進んできた近代文明の中にある。近代文明が追ってきた方向とは、物質の豊かさであり生活の便利さである。今、それを振り返り、ゆき過ぎを改める時がきた。

周平の問題は、周平だけの問題ではない。教育全体の問題につながり、また、社会のあり方の問題にもつながっている。理屈の上だけでなく自分の存在をかけてこの問題に取り組むまでに私は、多くの時間をかけた。又、越えねばならないいくつものハードルがあった。

私は周平の笑顔が失われてゆくことに、また時々見せる苦しそうな歪んだ表情に驚愕し、無力な自分を恨めしく思った。

「お前など死んでしまえ」

この年の暮れのある日、とんでもない言葉が私の口をついて出た。この言葉は周平の心を突き刺すと同時に私の心を切り裂いた。私を凝視する周平の視線を受けて、私は、自分の心の奥にたまっていたドロドロした黒い血が、その切り口から流れ出るのを感じた。

一つのチャレンジ

周平は、時々、はっとさせるようなまともな行動に出ることがある。頭の中の微妙な回線がつながって電流が流れる瞬間なのか。私が、言ってはならぬ言葉を投げた時の周平の表情は、まとも過ぎるほどまともに見えた。私を見詰める目は怒りの感情を表すのではなく、冷静で、その場で言うべきすべてのことを適格に語って抗議しているように思えた。無言で視線を交わす数秒の間に緊迫したやり取りが行われ、私は一敗地にまみれたのである。私は、自分の心の貧しさを恥じた。そして、心の深層にある周平への軽蔑の感情が白日の下に晒されるのを感じた。

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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