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2008年10月31日 (金)

「観光の夢が埋蔵される赤城山視察」

081017_094652 ◇「群馬県は宣伝が下手だ」とよくいわれる。県外へ出て、その通りだと思うことがよくある。その例が、赤城山を知らない人があまりに多いことだ。たまに知っているという人は、「ああ、国定忠治のね」と言う。

 私は、この赤城山を21世紀の表舞台にデビューさせたいと思っている。県も大澤知事になって、赤城南麓の観光開発に本腰を入れようとしている。民間で意欲的な企業も出てきた。昨日は、そういう人たちを、案内して、赤城山の要所を回ったのである。

 まず、私と仲間が農業生産法人・有限会社「シンセン」を立ち上げ農業をやっている現場を見せた。赤城山麓の発展は、農業、観光、環境を結びつけたものにしなければならない。シンセンの農場では、先日植えたブロッコリーが一斉に根づき、青い新芽が遠くまで広がっていた。

 農業は、今日の日本で最重要な産業である。中国からの輸入物に残留農薬が見つかって大騒ぎになっている。食の安全は、命と健康に直結している。自給率は40%を切った。世界の食料事情は異常気象の中で急変している。金があれば外国から買える時代は終わろうとしている。自らの手で自らの食料を確保することは今や焦眉の急となっている。

 赤城南麓には耕作放棄地が広がっている。これを農地として甦(よみがえ)らせねばならない。関越道があり、その上、上武国道が完成すると首都圏が一気に近づく。私たちの夢は、安全安心な農産物を首都圏の人々につなげることだ。赤城の美しい自然を求めてやってくる人々が農村を体験し質の高い農産物を買う時代を引き寄せたいと思っている。

 国立赤城青年の家から鍋割山の麓までは、なだらかな斜面に雑木林が広がる。紅葉の森に鳥の声が響く。「遊歩道をつくり、家族で歩くには理想的な所ですね」「もう少しゆくと驚くような所があります」私たちはこんな会話を交わしながら車を進めた。間もなく、さっきまで遠くに見えた鍋割が突然目の前に迫るように樹間に姿を現わした。鍋割は、前橋市街から一番近い手頃な山である。登リ口あたりに石段がついていることもあり訪れた人に親近感を与える。頂上までは二段構えになっており、中間の台地上の所までは、私の足で約20分、小学生でもアタックは可能だ。このあたりは、ツツジが広がり、花の季節には緑の中に赤いお花畑が現われる。眼下には関東平野が広がり秩父の山々がかすんで見える。

私たちは鍋割の麓を帯のように巻く林道を走った。この道は県有のふれあいの森に至る。夜ここを走ると、必ず、鹿やイノシシやウサギに出会う。動物の保護区となっているらしい。シンセンの社長は近くでダチョウを飼っている。鍋割の麓の一帯を広く囲って、ヤギ、ウサギ、羊などの草食動物を飼えば都会の子どもたちをひきつける名所となるのではないかと思った。昆虫の森と比べ金もかからない。赤城山をめぐって、多くの夢が埋蔵されていることを実感した(読者に感謝)

★土・日・祝日は、中村のりお著「遙かなる白根」を連載しています。

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2008年10月30日 (木)

「68回目の誕生日を迎えて思うこと」

◇私は68歳となった。自分では、あまり年齢を意識しないがまわりの同年の人を見ると老いている様子が分かる。たまに静かに自分の生き方を考えると、これからが本物の俺の人生かと思ったりする。失敗の多い、悔いのある生き方をしてきた。それを活かして、あと20年、自分の壁にチャレンジしたいと思う。

 先日は、ロイヤルホテルで飲んで車は置いて帰った(23日)。翌日早朝、芳賀の我が家から車まで小雨の中を走った。車で測るとちょうど7.4キロであった。11月3日には、県民マラソンで10キロを走る。毎年参加している県民マラソンの10キロコースは、私の体力と気力のバロメーターだ。

 人生をマラソンに例えるなら、終着点には死がある。死があるから全力を尽くす人とあきらめの気分になる人がいる。私は、死があるから、人は姿勢を正し、謙虚になれるのだと思う。天から与えられた限られた持ち時間を大切に使い切らねばならない。

 久しぶりに愛読書「人間臨終図巻」を開いた。これは山田風太郎の名著である。その中で、「68歳で死んだ人々」として、次の名前が並ぶ。

「大伴家持、北条政子、新井白石、シュリーマン、伊藤博文、ゴーリキ、山室軍平、桐生悠々、米内光政、東郷茂徳、中村吉右衛門・初代、田中絹代、新田次郎、田岡一雄、池田弥三郎」。これだけ見ても、人の生き方は実に多彩だと思う。

◇誕生日を機に私の人生を振り返るといくつかの節目があった。宮城村の小学生時代、元総社中学と前高定時制時代、東京大学の学生時代、学習塾から妻の死に至る時代、そして県議選出馬から現在に至る時代である。

 元総社時代は、恐らく村一番の貧乏で掘っ立て小屋に住んだ。心まで貧しく生きた事が今では懐かしい。前高の夜間部へは、地の底から抜け出す細い道を見つけた思いで志を立てて入学した。この頃は、昼は菓子を製造して商店に卸す仕事、そして、夜は勉強というかなり無理な生き方をしたのである。血気にまかせて一途に突っ走っていた。夜の校舎の自転車置き場で殴り合いをしたこともあった。東大へ入った事は、世間に対して恨みを晴らすという意味もあったかもしれない。大学は別天地であった。そこでは、今までの生き方を反省しながら一生懸命に学んだ。卒業後の人生の一大事は妻の死であった。彼女は若くしてガンでこの世を去った。

 人生の一大転機を支えてくれたのは再婚した妻だった。私は不退転の決意で県議選に臨み一軒一軒の家を訪ね歩き当選して県議会に飛び込んだ。私を待ちうけたのは全く未知の世界だった。長老支配の訳の分からぬ世界で人間的に未熟な私は、途方に暮れることもあった。最近の県議会はずい分変わった。世の中の変化が議会を変えたのだ

誕生日に思う。県議会の新しい流れに謙虚な気持ちで身をゆだね初心に返って頑張ろうと。

(読者に感謝)

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2008年10月29日 (水)

「免許更新の風景」・「恐ろしい社会が進んでいる」

◇朝8時半、私は違反者が並ぶ受付の列の中にいた(28日)。昨年、運転中の携帯使用を待機中の白バイに咎(とが)められた。そのために受けた2時間の講習は良い勉強になった。

 今や自動車は身体の一部のような必需品であるが付き合い方を誤れば身を滅ぼす事になる。講習会で、この事を痛切に感じたのである。ニッカーボッカーの若者や茶髪のお兄さんも真剣に耳を傾けている姿が印象的であった。

◇時間の前半、「油断が死を招く」と題したビデオを見、後半は、道交法の改正点などの説明を受けた。昔は、交通違反を犯罪と把える意識は薄かったが、懲役二十年とか罰金百万円とかの言葉をきくと、車の運転の重大さに誰もが身が引き締まる思いを抱くに違いない。最近、有名な弁護士が飲酒運転で事故を起こして逮捕される事件があった。また、政治家が当選の夜の飲酒運転で、せっかく手に入れたバッジを即失った例も一、二ではない。

◇講習会に於いて、心で受けとめた情報をいくつかあげてみる。まず、群馬県の車の保有率は全国一である。また、死者は減少傾向にあり、ピークの平成14年は218人であったが平成19年は100人であった。これは厳罰化を含め様々な交通施策と県民の努力が功を奏していることを示すものだ。一人の人間の命の尊さを思えば、使者の数をもっとぎりぎりまで減らす努力をしなければならない。

 次に携帯電話の危険について強く反省させられた。運転中、携帯の着音があると、つい手をのばしてしまう。運転中携帯を使わない習慣を身につけることが絶対に必要だと思った。一つの例が紹介された。米寿の女性がトラックに轢かれ八百メートルもひきずられて死んだ。運転者は携帯で話中だった。

 自動車事故の多くは過失である。過失とは注意力の不足が原因だ。運転中携帯で話をすれば注意力の中心はそちらに移ってしまう。運転が疎かになるのは当然である。車の運転は余りにも日常的行為である。携帯電話もまた非常に日常的かつ便利なものである。だから2つの行為はつい結びついてしまう。携帯電話は21世紀における文明の偉大な利器である。携帯に振り回されるのではなく、携帯を正しく使うには、誘惑をコントロールする勇気が要る。その勇気は、運転中の利用が人命を奪う危険と隣り合わせだという認識が伴わないと持続しない。私は、講習の中で、運転中二度と携帯に触れないことを決意した。

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◇恐ろしい社会が進行している。株価の暴落が止まらない。世界がグローバル化し、その上をインターネットが覆う。一瞬にして情報が走り巨額の金が動く。今日の恐慌状態は100年に一度のものだという人もいる。アメリカの力が低下しそのために円高が異常に進み日本の輸出は大きな打撃を受けている。大企業の損失は中小企業に影響し始めた。政治のかじ取りが試されている。衆院を解散すれば政治の空白をつくり日本のかじ取りがストップする。解散の先送りは当然である。(読者に感謝)

 

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2008年10月28日 (火)

「倫理なき時代の倫理法人の活動」

◇倫理法人会幹部を副知事、及び、教育長に会わせる(27日)。企業とは何かが厳しく問われる時代である。辞書の上では企業とは利益を得ることを目的として経営される事業とある。しかし、唯利益を上げることだけを目的とした事業は正しい社会の一員、つまり社会的存在ではない。社会との共存を考えず利己的に利益だけを追求する企業は虚業というべきだ。虚業の害が広がっている。

 企業体の多くは法人である。法人とは法によって認められた存在である。法が認めたものである以上社会的存在でなければならない事は当然だ。そして、社会的存在とは、形ではなく中味であり、それは、社会に貢献しつつ利益を求めるものでなければならない。

 最近の経済の混乱、そして正に底無し沼に沈みつつあるような金融危機の状況を見ると、これらの一因としてモラルなき企業活動があるに違いないと考えてしまう。

 倫理法人会は、企業活動の上で倫理を重視しようとする法人の集りである。会員たちは、モラルなき経済活動は破綻することを知っている。モラルを重視しようとする姿勢が結局長い目で見れば立派な収益を上げることを知っている人々なのである。その姿を知事や教育長に知って欲しいと思った。

◇この日は、大澤知事が時間がとれないので、副知事に会ってもらった。茂原副知事は、倫理法人会の活動の意義をよく理解されていて短時間ではあるが実りある会見が実現出来た。

 群馬県倫理法人会は現在、会員数1700社に達した。最近役員の改選があったので、新しい幹部5人が挨拶に訪れたのである。法人会員はみな中小企業の経営者であるが、経済の激変によく耐えている。倫理を重視した企業活動の成果であるが、会員相互の連帯の絆が彼らを支える点も大きいのではなかろうか。

◇副知事の次に、24階の福島教育長を訪ね、ここでは、倫理法人会の活動が地域の教育に関わっていることが話題になった。倫理の人たちは、地域の子どもたちに、「おはよう」、「今日は」と、声かけ運動をし、又、駅前の公衆トイレの掃除などをしている。このような地域活動はこどもたちによい影響を与えるに違いない。

道徳を子どもに教えることは非常に大切だが、これが道徳だと言って正面から道徳を教えることは難しい。学校の道徳教育はうまくいっているとはいえない。本来、道徳は家庭で教えるべきものだが家庭もその役割を果たしていないのが現状だ。だとすれば、地域社会が頑張るより他はない。論理法人会の日常活動にはそのような意義があるといえる。教育長室ではこのようなことを考えながら私は発言した。

◇秘書の瀬下さんと町田錦一郎さんの戦争博物館を訪ねた。「シベリア」のコーナーを作ることを頼まれていたのだ。「強制抑留」が遠くなり忘れられようとしている。6万人の犠牲者の為にも知恵を出そうと予定のコーナーを見ながら、瀬下さんに指示した。(読者に感謝)

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2008年10月27日 (月)

「ふるさと塾のこと」・「月例後援会のツアー」

◇今月のふるさと塾(25日)は、「アメリカ大統領」を取り上げた。何人かの大統領を通して、アメリカの壮大な歴史ドラマの一端、及び、その理想と現実を面白く話すのが目的だった。超多忙の中で実施したが、充実した塾となった。

 冒頭、こんな話をした。大学で歴史を専攻したが、大学で学んだことはわずかである、このことは誰も同じだ、それを基礎にして学び続ける努力が必要で、それが生涯学習だ、と。

 東大では、中屋健一の「アメリカ史」のゼミに出たが、今から振り返ると表面的な理解に終わっていたと思う。

 ワシントン、リンカン、ルーズベルト、ケネディ、ニクソン、カーター、レーガン、クリントンなどを取り上げ、オバマの事につなげて話した。

 アメリカはイギリスの植民地だったが、独立戦争で勝って誕生した国家である。明治維新からおよそ90年前のことだ。独立戦争は人類史上の素晴しい理想を揚げた革命であった。

 ヨーロッパでは、「人はすべて平等につくられている、そして、生命、自由、幸福追及の権利を神から与えられている、国家の役目はそれらを守ることである、国家が約束を守らないときは人民は国家を倒してつくりかえる権利を有する」という思想が育っていた。アメリカはこの自由と平等の原理に基づく世界で最初の国家であり、ワシントンは最初の大統領である。

 この頃、アメリカでは、既に大変な数の奴隷がいて社会を支えていた。「人はすべて平等」なら奴隷の存在は許されない筈であるが、理想と現実は直ちに一致はしない。しかし、国の基礎に平等の原理を据えた事はアメリカンドリームの原点となった。人はすべて平等だからすべての人々にチャンスがあるのである。

 リンカンが、丸太小屋の開拓農民から出て大統領になって、奴隷解放宣言を行ったことは、アメリカンドリームの象徴的出来事である。ルーズベルトは、ポリオにかかり下半身不随となって一生歩けなくなったが不屈の精神で偉大な大統領となった。これもアメリカンドリームの一例だ。理想と現実の大きなギャップ、正義と誤ち、夢と矛盾に満ちたアメリカの歩みが、今また、人類史上の大きな階段に近づいている。黒人大統領実現の動きである。オバマが大統領になれば、ワシントン、リンカンが掲げたアメリカの理想が実現することになる。元気と自信を失ったアメリカ国民は、黒人大統領を実現させることでアメリカの偉大さを世界に示したいことだろう。ふるさと末来塾では、ざっとこんな話をした。

◇今月のバスツアー(26日)は、コースを変えて東京から横浜を回った。水族館、お台場海浜公園、キリンビール工場見学などである。バスの中の交流が楽しかった。役者がいてバスの中は笑いに包まれていた。大勢が一緒に思いきり笑う機会は少ない。ストレス解消と健全なエネルギーを生み出すツアーであった。(読者に感謝)

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2008年10月26日 (日)

遙かなる白根(18)序章 100キロメートル強歩序曲

「学校などなければよい」

かつて妻がぽつりと呟いたことがあったが、私の心にも、今、それに似た思いが起こる。そして、教科書の勉強は少しにしてあとは自然の中で手足も伸々とさせ、自然の中で学ばせる、そんな環境が周平のためにあればよいと思うのだった。

今の学校制度にはいろいろな問題がある。一人一人を大切にしなければならないという教育の目標を掲げているが、実際は、そうなっていない。多くの子どもの才能や個性を抑え込んでしまっているのが、今日の社会であり、学校教育である。子どもたちの世界で学校の占める比重が多くなりすぎている。学校という枠の中で子どもたちは才能を伸ばし個性を発揮しなければならない。では今の学校にその寛容さがあるかと問えば、“否”と答えねばならないのだ。良い成績をあげることを第一の目標とする学校制度の下で、才能を発揮できず、個性を埋没させてゆく子どもがいかに多いことか。

「一人一人を大切にする教育なんてどだい無理なことだよ。きれいごとを言っても駄目だ」

この問題に対して、このように考える人が私の回りにも多くいる。

理想と現実の乖離(かいり)。今の教育制度の中で待ったなしの深刻な状況が進んでいるのだ。周平を通して突きつけられた問題に目を向けると、周平のようにハンディのある子だけでなく、無数の子どもたちの病める姿が周平の後ろに続いているのが見えるのである。

では、一人一人の子どもを大切にする教育を実現するにはどうしたらよいのか。この大きな理想に近づくための第一歩は、まず、いろいろな種類の学校をつくって、いろいろな子どもの学ぶ要求にこたえる体制をつくることである。国の教育行政は、不十分ながらこの方向に大きく動き出した。この点で、社会の変化に柔軟に対応できる私学の役割は大きい。

しかし、学校の種類を増やすだけでは、この目的は達せられない。教育の現場を支配してきた成績第一主義ともいうべき傾向を改めなければならないのだ。

そして、学校を改革すると共に、子どもにもっと自然を与えてやらねばならない。今の子どもには、自然の中で心と体をきたえ、自然から学ぶ機会があまりに少ない。

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2008年10月25日 (土)

遙かなる白根(17)序章 100キロメートル強歩序曲

職員室らしき所に人影が動いたのを、周平は目敏く見つけたのだ。その人は当直の先生で、今は夏休みで生徒はいないこと、そして今日は他の先生方もいないと話した。私は、学校の様子を一、二聞き、学校案内のパンフレットをもらって学校を去ることにした。周平が人影に気付かなければ、職員室に近づく気にもならなかったかも知れない。私の心は重くなった。この人里離れた山また山の中の学校に、周平を連れてくることは到底無理なことと思われた。私は、長い道中、既に、開善学校で周平を学ばせることの望みをほぼ捨てていたのだ。妻も、道中、開善学校のことをほとんど口にしなかった。

この頃の私は、白根開善学校創設時の苦しみとその後の歩みをまだ知らなかった。この学校の歴史に支えられて力強く生きる生徒たちを見れば、また違った感慨をもったであろうが、山の学校の主人公たちは、全員山を下りていなかった。彼らのいない山の学校は、山中に脱ぎ捨てられた衣類のように、事情を知らない私たちに、ただ異様な感じだけを与えたのかも知れない。

太陽は西の山に傾きかけ、ちぎれた雲を黄金色に染めていた。樹間からこぼれる陽のかけらも次第に薄くなり、道に落ちた木々の陰は逆に濃くなっていた。私たちは、道を覆うから松のトンネルを走り抜け、尻焼、花敷の温泉を過ぎ国道に出ると、夕暮近い六合村を白砂川に沿って下っていった。

六合村と長野原町の境の峠に着いたとき、私は車を下りて今来た方向を振り返った。白根山に抱かれた白根開善学校のあたりに、今まさに沈もうとしている陽光がかすかに届いている。あの学校は何なのか、心にかかるものを感じながら私は再び車を走らせた。

夏休みが終わり新学期が始まった。年があければ、周平はすぐ6年生になる。私も妻もそのことがいつも頭にあって、深まりゆく秋の静けさは、沈みがちな私たちの心を一層重くしていた。

白根開善学校を訪ねてからしばらくしたある日、私は、尻焼温泉で周平とたわむれた情景を振り返っていた。私が飛ばした水をかぶりながら見せた周平の笑顔は、頭上の陽光のように眩しく美しかった。それは、周平が久しく見せたことのない表情であった。

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2008年10月24日 (金)

「友あり遠方より来たる。久しぶりの懇談」

◇遠方の友O君は富士見村出身で神奈川県に長く住んでいる。夜間高校時代からの付き合いである。中学時代の同窓会に出席した後、私と会うことになった(23日)。実は、この席にもう一人Sさんが参加した。Sさんと私、O君とSさんは、強い絆に結ばれた縁があるが、三人は、共通の縁で結ばれていることも知らずに人生の前半を過ごしてきた。三人は同じ年である。三人はお互いの関係を知って人生の不思議さに驚きそして感動したのである。

 私たちの青春は社会がまだ貧しかった時のことである。昼間働いて夜、夜学に通う若者が非常に多かった。私もその一人であった。環境が悪かった私は、何とか逆境から抜け出そうと、体力と気力の限界に挑戦して、かなり無理な生き方をしていた。今から思えば、恐れを知らぬ一途な少年だった。

 O君はその頃の仲間である。O君は、私に触発されたかたちで大学を目指す気になった。彼の長兄が東京で事業をしていた。私が手紙を書き、O君が合格すれば大学の学費を出してくれることになった。O君は頑張って横浜の大学を卒業し外資系の会社を経て、長兄の会社で働くことになる。

 一方Sさんは、中学を卒業後、上京してある企業に就職する。純粋で火の玉のような少年であったに違いない。社長夫妻に特に目をかけられた。夜間の高校、大学の夜間部に通いながらこの企業で頑張り、持ち前の旺盛な研究心で技術をマスターした彼は、弱冠30歳そこそこで故郷の芳賀で企業を立ち上げた。

 そのようなSさんの人生の前半の物語を知るのは、私が芳賀に移り住み県議選に出馬してSさんに支援してもらうようになった時のことである。私とSさんは人生意気に感ずる仲となり、互いに過去を語り合った。Sさんは言った。今の自分があるのは、私を育ててくれた会社の社長夫妻のお陰である、新築した屋敷には人生の恩人を迎える部屋を作った、と。ある時、Sさんを企業人として育てた社長とは、O君の兄である事をしり、私もSさんも大いに驚いたのである。人生の出会いとは誠に不思議なものなのだ。 

以来、3人は時々あって一杯やることにしている。最高の肴(さかな)は、昔の思い出話である。昨日の夜も、青春時代の話に花が咲いた。Sさんは、意気軒昴で年齢を感じさせない。間もなくやってくる県民マラソンでハーフの21キロを走る。そして、私も10キロを走る。「年を重ねただけで人は老いない、理想を失うときに初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失うときに精神はしぼむ。人は信念と共に若く、恐怖と共に老ける。希望ある限り若く、失望と共に朽ちる」サミュエル・ウルマンのこの言葉をかみしめる楽しい一時であった。(読者に感謝)

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2008年10月23日 (木)

「長崎を振り返る(4)・大災害から学ぶ」

◇長崎はどこへ行っても山に囲まれた地形が多い。三菱重工の造船所がある港もまわりはなだらかな山で、その斜面にはりつくように住宅が密集している。夜、港を見下ろす丘の上に立つと、黒い海面を囲む巨大な火の壁の光景は息をのむほど壮観であった。それを眺めながら、最近の異常気象であの斜面は大丈夫なのかとふと思った。昭和57年の長崎大水害は、このような地形も災いして被害を一層大きくした。7月23日夜、長与町役場では、7時からの一時間に187ミリメートルの雨量を記録、また、長崎市東長崎地区では、7時からの3時間で、366ミリメートルの雨量を記録した。この長崎大水害の被害状況は次のようであった。いずれも記録的雨量であった。【人的被害】死者、行方不明者299人、重傷者16人、軽傷者789人【住宅被害】全壊584棟、半壊954棟      床上浸水17,909棟、床下浸水19,197棟【被害額】 約3,153億円 ◇長崎県庁の担当官は、水害の特性を次のように説明した。「斜面地が多いので県内約4,500箇所で土砂災害が発生し、また、河川の勾配が急で短いことから短時間で洪水が氾濫した」 そして、災害の教訓を活かした主な対策として次の点をあげた。〇電話設備は被災や利用の集中でマヒ。防災行政無線が唯一使用可能だった。そこで、防災行政無線の整備充実を図った。〇土砂災害警戒非難体制の確率(4,457箇所)〇危険箇所を有する地区の自治会長宅に戸別受信機を設置。 ◇長崎は受難の地だと思った。過去にはキリスト教徒に対する人災、そして、昔から度々起きる火災や洪水の天災である。それに比べ、群馬県は災害のない県と私たちは決めつけて安心している。しかし、自然災害は、人智で測ることは難しいもの。災害がないとはいいながら、天明年間の浅間の大噴火による大災害があったではないか。そして、最近の異常気象は、ただ事ではない。異常が常態化して、異常に麻痺しているのが私たちの実態ではないか。災害に対して危機意識をもつべきである。危機意識をもつことは、自然に対して謙虚になることである。 ◇長崎を訪問して、県庁や市役所の公務員の態度に誠意が感じられた。各地に出て、多くの公務員に会ってきたが、他と比べちょっと違う感じを持った。人を育てるこの地の文化的土壌の特色の故か。その中でも、長く厳しいキリスト教の歴史が長崎県民の気質に影響を与えているのではなかろうか。キリスト教は宗教であるが、平等とか博愛は普遍的真理につながる。五島で犯罪が少ないことを聞いた。長崎県における、全国と比べた治安状況はどうなのか興味のある点である。群馬は、過去の遺産をもっと活かさなくてはならないと思った。(読者に感謝) ★土・日・祝日は、中村のりお著「遙かなる白根」を連載しています。

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2008年10月22日 (水)

「長崎を振り返る(3)・災害が結ぶ群馬と長崎の縁」

◇災害に対する取り組みの調査も、長崎を視察する目的の一つだった。平成3年の長崎県島原の雲仙普賢岳噴火の火砕流は多くのマスコミ関係者等を呑み込んで甚大な被害を引き起こした。長崎県の取り組み状況は大変参考になった。群馬と長崎は遠く離れているにもかかわらず、災害では助け合った歴史がある。不思議な縁を、両県の今後の発展のために活かすべきだと思った。

 平成3年7月4日の上毛新聞は、嬬恋村が、天明の恩返しにとキャベツと見舞金を島原市に届けたと報じた。私は、長崎県庁の調査の席で、長崎側の資料が欲しいといったら最速送られてきた。

 その中に当時の九州各紙の記事がある。平成3年7月4日の長崎新聞では次のように報じられている。

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「約二百年前、浅間山の噴火で多数の死者を出した群馬県吾妻郡嬬恋村の森田啓次郎村長ら代表が三日、島原市役所を訪れ、新鮮なキャベツ約十トンを寄贈。『私たちも昔九州から援助していただいた。お役に立ちたいと思い新鮮な野菜を届けました』と鐘ヶ江市長に手渡した。同村は浅間山の標高八〇〇~一二〇〇メートルに位置し、七月から十月にかけて出荷する高原キャベツの産地。一日に収穫したばかりのものを十五キロずつ七百箱に詰め、大型トラックで運び込んだほか、村民から集った義援金約四百八十万円を贈った。鐘ヶ江市長は『野菜不足に悩まされていたので大変助かります』とうれしそうにお礼。市職員が最速、同市霊丘公園の仮設住宅に住む百十世帯に一世帯あたり二箱配布。避難所生活者の食事を作っている仕出し屋にも配った」

 なお、同日の長崎新聞は、大火砕流の前はキャベツ一キロが百七十五円だったのが、十八日には百九十円に値上がりしたと報じている。

◇なお、入手した資料によれば、九州細川藩が幕府に命ぜられ浅間の災害に対する「手伝普請」として支出した総額は96,365両となっている。上毛新聞の記事によると、当時浅間山麓を治めていた松平藩が細川藩から19万両の見舞金が贈られた記録があると記されているが9万両の間違いだったかも知れない。

 いずれにしても膨大な額である。細川普請金収支表によれば、金は実にいろいろな分野に使われている。渋川、深谷、上尾宿にて村々渡し分12,980両などの記録も見える。群馬県史(資料編Ⅱ-資料番号519)によれば、鎌原村など、被害が最も甚大であった吾妻19か村の復興資金として4,766両が支出されている。

◇調査では「島原大変肥後迷惑」の故事にも接した。雲仙普賢岳の噴火に続く地震によって大量の土砂が有明海に落ちた。10mを超す津浪は対岸の肥後(熊本)を襲い引き返した波は再び島原を打ちすえた。犠牲者の総計は1万5千人に到したという。1792年、浅間の大噴火の9年後のことであった。災害は忘れた頃に必ずやってくる。調査でこの事を痛切に思った。(読者に感謝)

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2008年10月21日 (火)

「長崎を振り返る(2)・隠れキリシタンと世界遺産」

◇私たちの総務企画常任委員会が長崎を調査先に選んだ目的の一つは、「世界遺産」への取り組みを調査することである。長崎県の「キリスト教関連遺産」は、群馬の「富岡製糸跡」と同時期に、世界遺産として暫定一覧表に登録された。現在、本登録に向けて懸命に取り組んでいる。長崎が県をあげて世界に誇る地域の「文化」を守ろうとする姿勢には学ぶところが大であった。

 「キリスト教関連遺産」は、キリスト教の伝来と繁栄、弾圧と潜伏、そして奇跡の復活という世界に例を見ないキリスト教徒の歴史を物語る。長崎県庁でも、五島市役所でも担当官は、誠実さと熱意をもって郷土のキリスト教の歴史を語っていた。

 昨日の「日記」では、信仰に殉じてアウシュヴィッツで死んだコルベ神父の事を書いたが日本でもかつて大変な殉教事件があった。

 私たちが訪ねた国宝・大浦天主堂は26人の殉教者に捧げられたものである。26人とは、秀吉の命により処刑された宣教師等のカトリック教徒である。天主堂は、1864年開国を機に建てられた。明治維新の4年前のことであった。この時機、まだ、キリスト教は厳しく禁じられていた。

 「なぜ教会を建てることが出来たのですか」私が訪ねると、市役所の人は、「ここがフランスの居留置だったからです」と答えた。当時の人々は、この教会を「フランス寺」と呼んだという。

◇私たちは、次に五島市の最大の島・福江島の美しく静かな入り江の奥にある堂崎天主堂を訪ねた。赤レンガの教会の庭には、秀吉によって処刑された26人の中の1人の磔(はりつけ)の像があった。この人は唯一島民であったという。この殉教者は、長い禁教時代の弾圧に耐えた隠れキリシタンの心を支える存在であったと思われる。

◇五島市の市役所で興味ある話を聞いた。江戸時代、島は水田を開くために、対岸の大村領から開拓民を受け入れたが、続々と移住した人々の数は3千人に達した。そのほとんどは隠れキリシタンだったといわれる。移住の理由の一つに、間引きの風習から逃れたいという願いがあったと担当官は話していた。間引きとは生まれた子を殺すことである。江戸時代の後半、日本の人口は増えなかった理由の一つにこの間引きの風習があるといわれる。カトリック教徒にとって、小さな命を殺すことは耐え難い事だったに違いない。島は表向きとは別に、ある程度隠れキリシタンに寛大であったらしい。「五島は優しや土地までも」と言われたと担当者は語った。

◇日本人には宗教がないとよくいわれる。現代の物資万能の風潮を見ると、その通りだと思ってしまう。長崎のキリスト教の遺産が「世界遺産」になることは我が国の宗教的価値観を見直す一つの契機になるかも知れない。長崎で胸に吸った空気は久しぶりに心の栄養になるものであった。(読者に感謝)

★土・日・祝日は、中村のりお著「遙かなる白根」を連載しています。

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2008年10月20日 (月)

「長崎を振り返る(1)・餓死刑の身代わりとなった神父」

A_4 ◇国宝・大浦天主堂へ向かい、手前を右折すると「コルベ神父資料展」を開いている建物があった。昭和の初めここに神父が住み、神父が使ったダン炉が今も残っている。ここで私は衝撃の資料に出会った。神父の事は知っていたが長崎の地で資料に接することに格別の意味があるように思えた。隠れキリシタンの苦痛とつながっているように感じられたのである。長崎のキリシタンの受難の歴史に触れる前に、アウシュビッツに於けるコルベ神父の姿を伝えたいと思う。隠れキリシタンについては、次回に報告する予定。 第二次世界大戦でポーランドはナチスドイツによって壊滅的打撃を受けた。コルベ神父はポーランドの修道院の院長であった。1941年、彼は、死の収容所アウシュビッツに入れられる。ここでは、五百万人以上の人々がむごたらしい拷問を受けた上惨殺された。 長い間、世界で広く読まれている「夜と霧」は、アウシュビッツを体験した心理学者・ヴィクトール・フランクルの書である。フランクルはその中で次のような体験を語る「近づいた駅がアウシュビッツだと分かるとだれもかれも心臓がとまりそうになる。人々は並ばされ選別される。労働不適格者とされた者が進む先には高い煙突があり、その先には数メートルの高さの不気味な炎が吹き出して、渺々(びょうびょう)とひろがるポーランドの暗い空をなめ、まっ黒な煙となって消えていく」。 ◇ある日、コルベ神父がいる獄舎から一人の脱走者が出た。一人の逃亡者に対して、連帯責任として、その獄舎の20人が「餓死刑」に処されることになっていた。銃殺には少しもたじろがないレジスタンの勇者も、餓死刑にはたとえようもない恐怖におののいた。 死に至るまで一片のパンも一滴の水も与えられない。内臓を枯らし、血管を火のようにほてらせ、狂気に駆りたてるのが餓死刑である。夜間、猛獣の咆哮のような叫びが聞こえるという。 所長によって選ばれた中の一人が、「妻と子にもう一度会いたい」と叫んだ。コルベ神父は、この人の代わりになると申し出て許可された。許可自体異例で信じられない事であった。全裸にされ、暗い地下牢に入れられる。地獄の縮図ともいうべき餓死監房に信じられないことが起きたと獄吏が証言した。通常怒号と呪いの声で満たされる獄舎に祈りの歌が響いている。コルベ神父は一心に祈り続けた。死の牢獄は今や聖堂に変わっていた。しかし、牢獄の声は日に日に小さくなり一人二人と死に、最後まで生きたのはコルベ神父だった。獄吏は注射で神父にとどめをさした。コルベ神父の姿は獄吏たちを感動させアウシュビッツ収容所の生活条件は以後緩和されたと証言者は語っている。私が思うことは、人間の心の構造の途方も無い壮大さである。数百万人を焼き殺すのも人間の心であり、他人のために自らを犠牲にするのも人間の心なのだ。そして、コルベ神父の心に人間の心の気高さと神秘さを見た。(読者に感謝) ★土・日・祝日は、中村のりお著「遙かなる白根」を連載しています。

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2008年10月19日 (日)

遙かなる白根(16)序章 100キロメートル強歩序曲

   温泉を出ると、車は、崖ぷちの車一台が通るのがやっとという細い急な坂道を登った。坂の上から道はから松の林の中に伸びる。林道をしばらくゆくと長平と呼ばれる小さな集落に至る。物音一つしない静かな集落である。この集落のはずれには、長平公民館という木造の小さな建物がある。後に周平が100キロ強歩に臨むとき、ここは、ゴールを前にした最後のポイントになるところである。ここを過ぎ、林道は、沢を下って対岸を斜めに登る。しばらくだらだらとした坂道を進むと、小倉という小さな集落のある小高い広場に出た。ここから開善学校は、間近なのだが、初めての私達には遠く感じられ、どこまで行ったら学校が見えるのかという不安とあせりが生れていた。 初めて見る開善学校 小倉の広場から林道を進み急な坂道を登りつめカーブを曲がると、細い道は平らな白樺の林の中に伸びていた。「あっ、学校だ」「とうとう着いたわ」 周平と妻が同時に叫んだ。どこまでも続く広い林の中に、いくつもの建物がたっている。時々鋭い小鳥の声が木々にこだまして響きあう他は、林は眠っているように静かであった。校門とおぼしきあたりに近づくと、地中から立った太い木に“人はみな善くなろうとしている”と書いた横木が、訪れる人に語りかけるように、かけられている。「どういう意味なのかしらね」「ぼくもおりこうになれるということなの」「そうだ、そうだ、周平にもそういう力あるということだよ」こんな会話を交わしながら、私は、ゆっくりと構内に車を走らせた。夏休みで、生徒たちはみな帰省しているのであろう。校舎、図書館、学生寮はみな物音一つせず不気味なほど静かであった。深い谷の奥の高い山の上に忽然と姿を現した建造物は、予期していたとはいえ、初めて訪れた私達の目には、不思議な存在に映った。人気のないことが一層その感を強めている。「あ、誰かいるよ」周平が建物を指して言った。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年10月18日 (土)

遙かなる白根(15)序章 100キロメートル強歩序曲

 初めての時は、この道に入って、私は驚いた。こんな山の中に周平は来るのかという思いが第一であった。しかし、それは、まだまだ序の口で、道を進むにつれて私の驚きは深まってゆく。 須川の信号から山道に入り、一山越えた所に別の世界が広がっていた。峠の高みに立ったとき、私は一瞬、周平のことも忘れて、目の前に広がる眺望に目を見張った。「わあー、山がきれいだ」 隣りに立つ周平は、遙か彼方の高く青い山を指さしていった。視線を動かすと山の裾野に、いくつもの集落が点在している。白砂川は、その間をぬって流れ下っていた。 車を走らせると、目的地へ向う道は狭い谷に分け入るように奥へと伸び、私達はしだいに高くなる谷川の音を身近に聞きながら進んだ。古い農家のたたずまいや道端の素朴な姿の道祖神は、まわりの自然の中に溶け込んで、歴史の古里・六合村の素顔の一端をのぞかせているように見える。私達の車は、花敷温泉を過ぎ、長笹沢川に沿った切り立つ岩壁の下の道を進みやがて尻焼温泉に着いた。尻焼温泉は、谷を流れる川底から温泉が吹き出て、せき止めた川の一帯がそのまま、温泉として楽しめるようになっている。川底のあつい石に尻をおろすと痔がなおるというところからこの名がついたともいう。強い酸性の湯に洗われた赤い大小の石が重なり合うように深く暗い谷の奥に続いている。そこは、まさに深山幽谷の入り口のように見えた。事実、この奥には、魔の沢といわれるガラン沢が横たわっている。温泉を囲んだ山の上には紺碧の空に夏の太陽が輝いている。私は、振り返って周平に言った。「周平、泳ぐか」「うん、泳ごう」私の行動のパターンを知っている周平は、待っていたように答えた。裸になって飛び込むと、周平も後に続いた。久しぶりに見る周平の明るい笑顔に、私は水をすくって投げた。飛び散る水滴が陽光を受けて周平の上で光った。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年10月17日 (金)

「長崎の朝を走る」、「衝撃の隠れキリシタン」

◇早朝、3キロ程走った(16日)。6時半をまわっているのに、朝の日差しはまだ山の向こうにある。走ってみて、長崎はボコボコと丘だらけの町だと思った。小高い山の斜面に張りつくように人家が建っている。しばらく走って折り返す頃、朝日が私の頭を越えて前方の丘を照らし始めた。光の中に白い教会が浮かんでいる。のどかな風景からは、激しかったキリスト教弾圧の出来事を想像することは出来ない。

◇長崎県庁で、キリスト教関連遺産の「世界遺産登録」に向けた取り組み、及び、火山などの災害に対する危機管理体制について調査した。

 長崎のキリスト教関連遺産については、群馬の富岡製糸跡と同時期(平成19年1月)にユネスコの「世界遺産暫定一覧表」に登録された。

 長崎はかつてポルトガル貿易港として開かれた。ここには、イエズス会の本部が置かれ、日本におけるキリスト教布教の重要拠点であった。数多くの教会が建てられ、日本の小ローマと呼ばれるほどキリスト教文化が栄えた。

 長崎県庁の担当官は、長崎のキリスト教の歴史を熱心に語った。現在も長崎には300を越える教会があり、重要な教会の半数は五島にあるという。厳しい弾圧を逃れるには離島が好都合であったろう。

 災害の対策を話す、担当官は「島原大変肥後迷惑」という故事にも触れた。私は担当官に一つの資料を頼んだ。「天明の浅間の大噴火の時、嬬恋村には、この地から19万両の見舞金をもらった記録があります。こちらにもその記録があったら教えて下さい」担当官は捜してみると答えた。

◇国宝・大浦天主堂を視察。1864年に建てられた。これは、明治維新の4年前で、キリスト教はまだ厳しく禁止されていた。この時期になぜと尋ねると、「フランス人居留地だから可能でした」と長崎市役所の案内人は答えた。

 献堂式から1ヵ月後、隠れキリシタン数名が訪れ信仰を告白した。「信徒発見」としてこの事実は世界に知らされ、ローマ教会は衝撃を受け感動した。日本ではキリスト教徒が根絶したと考えられていたからである。日本に現存する最古の木造ゴシック様式の教会である。中は、素朴だが荘厳な雰囲気があり、私は、カトリックに関わる者として心を打たれた。

◇五島に渡る。29人乗りのプロペラ機で出発。眼下の海は波もなく鏡のように静かだった。30分のフライトで着き、市役所で、世界遺産実現に取り組む状態を学んだ。興味ある隠れキリシタンの歴史上の事実をわくわくする思いで聞いた。その一つに「五島やさしや土地までも」と言われたという故事を知った。間引き(子殺し)に耐えられない「隠れキリシタン」が、五島に移住したことに関する。しかし、明治元年には厳しい弾圧があり拷問(ごうもん)で42名の死者がでた。のどかな島の豊かな文化を支えるものは、厳しい弾圧に耐えたキリシタンの歴史だった。皆さんに報告したいことが他にもいっぱい出来た今回の調査であった。(読者に感謝)

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2008年10月16日 (木)

「出発の朝の人身事故」「長崎の大学で」

20081016日(木)

「出発の朝の人身事故」「長崎の大学で」

◇県外調査の1日目。妻の運転で前橋駅に近づいた時、携帯に事故の知らせが入った。両毛線の高崎駅手前で人身事故があり電車が動かないとの事。妻の車で高崎駅へ向ったが大渋滞に巻き込まれた。焦る心を抑えて駅に着いたのは発車の一分前。階段を全力で駆け上がり、動き出したドアに滑り込んだ。日頃鍛えた足がこんなところで役に立った。同じ電車に乗る予定の他の委員会の議員の中には遅れて乗れない人たちが何人もいたらしい。

◇長崎は晴れだった。明るい陽光の下に緑の起伏が広がり、山の斜面には、階段状のミカン畑が見られた。上州の山では紅葉が進んでいるが、南国の山にその気配は感じられない。ガイド嬢が「シーボルト大学は、西そのぎ郡にあります」というので「そのぎとはシーボルトの愛人の名と関係がありますか」と私は尋ねた。「シーボルトの愛人はお滝さんですよ」とガイドは答える。

 シーボルトが愛した日本女性は、遊女其扇(そのぎ)で、本名は楠本滝であった。通称おたきさんである。「そのぎ」はどうやら関係ないらしい。

◇「長崎県立大学」と「県立長崎シーボルト大学」を統合して出来た新しい大学のキャンパスは素晴しい緑の眺望に囲まれた丘の上にあった。

 実は、統合にあたり組織を変えて独立大学法人とした。調査の主目的は、この「法人化」に関することである。群馬県立女子大学もこの法人化に取り組まねばならない。そこで、県立女子大の事務局も今回の調査に同行した。

難しい問題ではあるが、この日、議論になったポイントを説明したい。法人化により、教授会中心の大学運営が改められ、学長、又は理事長の意思決定により大学運営が迅速に行われることになる。

「学問の自由が侵害されることはありませんか」私は学長に質問した。

 私の頭には、かつての大学紛争の姿があった。大学紛争の中心は「大学の自治」を守ることであった。憲法で保障する「学問の自由」を守るためには、大学の自治が必要で、大学の自治を支えるものは「教授会の自治」だと考えられた。法人化は教授会の力を制約する。学長は、「普段から学長と教授のコミュニケーションをよくしておけば心配ない」と答えた。大学も変革を迫られている。東大紛争の頃を思うと隔世の感がある。

◇夜の食事会に五島の県会議員が出席した。クリスチャンだという。酒を飲みながら五島のキリスト教の歴史を聞いた。五島の人々は、江戸時代、激しいキリスト教弾圧に耐えて信仰を貫いた。そのような背景が世界遺産に向けた運動の原動力になっている。この県会議員は群馬に居たことがあると語っていた。

私は挨拶の中で次のように述べた。「群馬の嬬恋村は、平成3年の雲仙岳噴火の時キャベツ700箱と480万円の見舞金を贈りました。これは、昔、浅間山の大噴火の時、肥後藩から見舞金19万両を頂いた恩返しでした。両県の関係は深いのです」と。(読者に感謝)

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2008年10月15日 (水)

「県民マラソンが近い」・「委員会の災害調査へ」

◇早朝、約7キロを走る。県民マラソンが近づいたので、最近走る距離を延ばした。毎年10キロを走ることは、私にとって、健康、気力、体力のバロメーターである。単に11月3日に10キロを走れればよいという問題ではない。それを可能にするために、一年間、生活習慣に気を使うことに意味がある。

 3人に1人がガンで倒れる時代になった。最近の情報によればアメリカ人の大腸ガンが減り日本人ではそれが増えている。かつては逆だった。アメリカは日本人の2世を研究して、その大腸ガン発生率はネイティブのアメリカ人と変わらぬことを発見した。つまり、人種の生物学的違いではなく生活習慣の違いが原因であることが判明した。そこで、日本人に習って1日350グラムの野菜を国民にすすめた結果アメリカ人の大腸ガンは減った。そして、逆に野菜を食べなくなった日本人の大腸ガンが増えたという事らしい。

 ここ数年、10キロを1時間以内で走っている。昨年は56分32秒だった。今年も無理をしないで56分代で走りたいと思う。体調を整える点での問題は体重の減量であったが、バナナダイエットを2ヶ月やって約4キロの原料を実現した。バナナダイエットは、科学的根拠を信じてというより食事の量を減らす手段として利用している。

◇この「日記」を書き終え総務企画常任委員会の県外出張に出かける(15日)。目的地は長崎県で、調査目的は、世界遺産登録に向けた取り組み、大学の独立法人化に伴う課題、災害に関する防災・危機管理体制等である。

 調査の結果は「日記」で紹介するつもりだが、長崎は、私が興味を抱く県である。その一つに江戸の鎖国時代、出島によって海外に通じた地であった事がある。「シーボルト大学」を訪ねるが、シーボルトといえば、鳴滝塾やシーボルト事件が名高い。しかし、彼は植物学に深い関心を持ち、アジサイを好んだという。シーボルトは滝という美しい日本女性を愛した。彼はアジサイの学名をオタクサとしたが、それは、「お滝さん」からとったといわれる。外国人なので「おたくさん」と発音していたのだろう。彼女はアジサイのように水々しく美しかったに違いない。シーボルト大学でシーボルトについて何かを発見出来るかも知れない。

◇次に災害だが、長崎の災害といえば、平成3年の雲仙普賢岳の噴火による火砕流の映像が頭に焼きついている。この災害の時、嬬恋村は、長崎県島原市に特産のキャベツ700箱と約480万円の見舞金を渡した。これは、天明の昔、浅間の大噴火の時、見舞金19万両を贈られたことに対する恩返しであった。

◇雲仙普賢岳は歴史上過去にも大災害を起こしていた。浅間の大噴火の9年後、普賢岳の焼火とこれに誘発されたと見られる大地震により山は崩壊し大量の土砂は島原の街を覆いその先の有明海に流れ落ちた。生じた高波は対岸の肥後を襲い折り返して再び島原を襲った。これを「島原大変」「肥後迷惑」といい、死者は計1万5千人に達したという。(読者に感謝)

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2008年10月14日 (火)

「午前4時県庁スタート、開善学校の百キロ強歩」(11日)。

Photo ◇県庁舎の黒い影を見上げるとかすかに星の光が見えた。午前3時半・暗い県民広場では緊張した人々が動いていた。間もなく白根開善学校の百キロ強歩がスタートするのだ。

 本吉校長が私に気付いて言った。

「やあ、よく来てくれました。周平君は元気ですか」私は、校長の手を握って頑張っていますよと答えた。マイクロバスに分乗した生徒たちが集ってくる。本吉校長が挨拶し、続いて、私が卒業生の父親として紹介される。

 「息子の周平は、三回完歩しました。貴重な体験は今でも大変役立っています。今日、皆さんが、限界に挑戦して歩くことは忘れられない人生の宝となるでしょう、頑張って下さい」

 私がこのように挨拶すると一斉に拍手が起きた。午前4時、本吉校長の合図で、77人の生徒たちは、県庁前をスタートした。蛍光(けいこう)のタスキをかけた後ろ姿が闇の中に消えていく。

 白根開善学校恒例の百キロ強歩は、学校創立30周年を迎えた今回、特別の企画として、いつもとコースを変え、県庁から六合村の学校までの百キロのコースを歩く。生徒たちを見送る私の胸には熱い感慨があった。

 百キロメートル強歩は、白根改善学校の特色を最も雄弁に語る行事である。それは、歩くことが苦手な都会の子どもを厳しい自然の中で鍛え上げた成果を示すものである。

 翌日、私は改善学校に電話して今年の状況を尋ねた。それによると、完歩した者は10名で、到着時刻は、トップが0時55分、最後のものは午前4時3分であった。交差点、信号のところ、交通の要所に立つ人々、及び、19ヶ所のチェックポイントで生徒の世話に当たる人は、計150人であった。

 「百キロ強歩」は、一般の社会常識からはにわかに理解されないことかも知れない。今日の姿に育て上げたものは、本吉校長の執念とそれにひかれた生徒と父母が力を合わせて築いた伝統の力である。第一回のコースは、昭和55年の50キロメートルであった。徐々に距離をのばし、実質百キロが実現するのは昭和60年の第六回の時である。

 私の長男周平は平成7年に最初の百キロに挑戦し、スタートから88キロの地点で力尽き巡回バスに乗った。翌年周平は遂に百キロ完走を達成するがそれは正にドラマであった。前年、どの地点で休み過ぎたとか、昼飯を食べ過ぎた、あそこで時間を稼がなかったので登り坂で遅れたなど、前年の反省を活かして獲得した輝かしい栄冠であった。

六合(くに)の山中の霧の中をはうように、また泳ぐように歩く生徒の姿を随走する車のライトが浮き上がらせていた。あのことが今、昨日のことのように思い出される。今年も、あのように頑張ったのであろう。県庁をスタートにする強歩は今年限りとのことだ。「百キロ強歩は」彼らのふる里の地がふさわしい。「開善学校」と「百キロ強歩」については、拙箸、「遙かなる白根」に詳しく書かれている。(読者に感謝)

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2008年10月13日 (月)

遙かなる白根(14)序章 100キロメートル強歩序曲

このような抽象論、一般論が周平を通してにわかに、具体的、切実な問題となって、私達夫婦の上にふりかかってきたのだ。選択肢の中には、いくつかの種類の学校や制度がある。妻と私は、まず、周平を芳賀小学校の特殊学級に入れるべきかどうかを話し合った。妻は、「特学」に反対して譲らなかった。確かに、そこでは、子どもの力に応じて丁寧に指導してもらえる。しかし、学校という社会の中の片隅におかれた特別の枠の中で、特別に扱われることは、子どもにとってよくない。「特学」というレッテルを貼られることに、私は反対だ。妻は、こう主張するのだ。他人の子どもについて話すときは、耳によく響く一般論、原則論は、そのまま実際にも通用する立派な考えだと思えるのだが、自分の子どものことになるとそうはいかない。一般論、原則論がそのまま適合しない現実の重みにたじろぐのである。私は迷っていたが、妻を説得する熱意はなかった。だからといって、妻も私も、現状がよいと思っているわけでは決してない。「特学」がだめだというなら他の学校を探すしかない。私達はいくつもの学校を訪ねその現状を見た。しかし、そのいずれもが、周平がおちつける環境とは思えなかった。周平が5年生の夏休みを間近にした頃のこと、私は、かねて耳にしていた白根開善学校を実際にこの目で見てみようと思いたった。夏休みのある日、私達親子三人は西吾妻へ向けて出発した。親子三人で吾妻の奥地を訪ねることは初めてのことであった。真夏の青空の下に、山々は大波小波が大海原を幾重にも重なりあってうねるように果てしなく広がっている。白根開善学校は、山頂が青空に接しているあの山並の更に向こうにある。そう思うと、自然の美しさより、そんな山奥に周平を入れることの重大さが心にかかり、私も妻も言葉が少ない。道のりがやけに長く感じられ、やっとJR長野原草津口駅に着く。この駅のわずか先にある須川橋の交差点は、その後、我が家と開善学校のつながりが深まり頻繁に行き来するとき、大切なポイントとなる。ここを曲がると急に周平の世界に近づくという感じを受けるのだ。又、後で触れるように周平たちが百キロメートル強歩を行うときも、この交差点は、彼らにとって、行き帰りの重要な分岐点となる。この交差点を北に折れて白砂川に沿った道に一歩入るとあたりの様子は一変する。木々のの繁った高い山あいに道路は入り込んでゆく。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年10月12日 (日)

遙かなる白根(13)序章 100キロメートル強歩序曲

「成績の良い子なら、PTA活動も、どんなに楽しいことだろう」  妻は、かつて前橋一中や桂萱中学校で英語の教師をしていたころの父母との楽しい交わりを常に懐かしく語っていたのである。 「自分の子がこんな状態なのに、ひとの子を教えるのは嫌です」  妻は、学習塾を続ける苦痛を訴えた。それは、私にもよく理解出来ることであった。しかし、私は、それだけでなく、塾で教えることの意義について、私の中でふくらみつつあった疑念の故に、いままでのような学習塾を続けることに対する情熱を失いつつあった。又、夜の会合などが多くなって、私も妻も塾を続ける時間的余裕がないこともあって、周平が4年生のとき、私は、長く続けた学習塾、先細りになりながらも愛着を抱いていた学習塾を、ついに閉じることになった。塾を巣立っていったいろいろな子どもたちの顔が浮かんだ。中村塾の閉鎖は、私の教育に関する考えや人間の価値観の転換点を意味した。そして、又、周平に対する考えを大きく変えてゆく分岐点でもあった。 初めて開善学校を訪れる 学年が進むにつれ、周平を、芳賀小の普通学級に通わせることが周平のためにならないことは明白になっていった。小学校へ入る前の天真爛漫な笑顔は次第に失われていった。それは周平の心の世界が萎縮し歪められてゆくことを示しているようであった。そのうちに芽を出すというはかない期待を抱き続けることはもはや不可能と思われた。 知的能力にハンディのある子を、学校でどう教育するかということは、教育とは何かという、教育の本質に関わる問題である。又、それは、人間とは何かというより根本的なことにつながる問題である。 私達の社会の最も基本的なルールを定める憲法は、人間は、みな平等で、一人一人の人間が尊い存在なのだと謳っている。その一人一人の人間が人間として幸せになるために必要なものが教育である。だとすれば、教育とは一人一人を大切にするものでなければならない。国民の幸せを実現することを任務とする国はそのような教育を実現する義務を負う。では、実際に、どのようにして、その教育を実施するのか。現実は極めて厳しく、その実現は、永遠の課題のように思われる。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年10月11日 (土)

遙かなる白根(12)序章 100キロメートル強歩序曲

しかし、私の中には、頭の良い子は人間としてもランクが上の子と考える価値の物差しが、動かし難いほどに静かに根を張っていたに違いない。無気力で、いくら教えても分からない子に、私は、授業の後で個別に真剣に教えたが、私の目には、私の心の物差しが、チラチラと現れていたのではなかろうか。溜め息を隠そうとする私をチラと見上げたその子どもの目の色が、周平の表情と重なるように、今でもはっきりと思い出されるのだ。

 妻がいくら教えても、周平に、期待した成果をあげることは出来なかった。私も時々、教えるが同じである。親子は感情的になり、周平は、机に向かう前から、おどおどと脅えた目つきになる。私は、教科書を床にたたきつけたあとひどい自己嫌悪に陥って、周平と共に泣いた。周平と接する機会が私と比べ格段に多い妻は、感情に振り回されて疲れ果てていた。

 勉強はともかく、休み時間、仲間に入れない周平が不憫であった。私の小学校時代を振り返るとき、教室では全然駄目な子が、休み時間や学校帰りには、甦ったように生き生きとしていた姿が思い出される。

 私は、県庁へ行く途中、朝早く、芳賀小の周平のクラスに立ち寄った。まだ、担任の先生も来ていない。私は周平の席に座って、子どもたちに話しかけた。

「周ちゃんも、一生懸命頑張っています。だんだんおとなになって、皆さんの仲間に入れるようになると思っています。皆さん、周ちゃんと友だちになって下さい。お願いします。」

 そんなことがあってからしばらくして、クラスの女の子が何名かで、私の家に遊びに来てくれた。周平は、照れながらも嬉しそうであった。たまたま、その場に居た私は、子どもたちの会話に耳を傾ける。それは、教室での周平の様子をよく物語るものだ。

 誰かが言った。

「誰々ちゃんは、今度、算数の点数がうんと悪かった。周ちゃんより悪いのよ」

 これを聞いても、私の心に怒りの感情は起きない。私の心の過程は、既に、そのような点は遙かに過ぎていた。

 妻の母親としての悩みは大きかった。

「真面目に生きてきたのに、神様は何故、こういう子を授けたのでしょう」

 妻の様子は、天を恨んでいる風であった。

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年10月10日 (金)

「ノーベル賞の快い衝撃」

◇4人の日本人がノーベル賞を受賞したことは驚きであり嬉しいニュースである。号外も出た。ニュースを知ったまちの人々の顔は、純粋な喜びで輝いている。日本人に勇気と元気を与えてくれた出来事である。

 暗い出来事が次々に起き、日本全体が底無し沼に落ち込んでいくようなムードに包まれていた。秋葉原の通り魔による大量殺人事件、母親による子殺し、大阪の個室ビデオ屋における放火殺人、跡を絶たない振り込め詐欺等々、日本人の誇りを打ち壊すような事件が続いた。そこに更に、アメリカに端を発した金融危機の大波が日本を襲った。株価は大暴落し、かつての世界大恐慌の再来かと思われた。

 このような状況でノーベル物理学賞を3人の日本人が受賞したというニュースが突然どこからか降って湧いた。一夜明けると、又、ノーベル化学賞のニュースである。このような受賞のニュースの伝わり方は、私たちの喜びを増幅させた。

 先進国といわれる日本だが、物の豊かさだけでは、本物の先進国とはいえない。文化のレベルこそ、先進国の基準だろう。文化を支えるのは教育だが日本の教育環境は深刻だ。最近の国際機関による学力テストの結果は、日本の子ども達が、考える力や応用力に於いて弱くなっていることを示し社会に衝撃を与えた。特に学ぶ意欲が著しく低いことは、若者の未来とこの国の将来が容易でないことをうかがわせる。

 今回の4人のノーベル賞受賞は、特に、教育界に活力を与える意味がある。子ども達の理科離れは深刻である。科学の楽しさ、面白さを伝えられない授業の在り方を根本的に反省しなければならない。

 クラゲの研究でノーベル化学賞を得た下村さんは、「何でも面白いことをやれ、始めたら止めてはいけない」と語っている。若い研究者へのアドバイスであろうが、子どもたちの学ぶ姿勢に関しても、示唆に富んでいる。理科に限らず、勉強に面白さが味わえれば意欲が湧き成果も上がる。日本は、この度のノーベル賞の快挙を最大限活かした教育改革を進めるべきだと思う。

◇ノーベル賞の中で注目される物理学の分野で受賞した三氏は、「素粒子論」という物理学の基礎理論の研究で業績が評価された。従来の日本は、外国の研究成果をまねることにすぐれていると批判された。目先の利益と直ぐに結びつかない基礎研究でノーベル賞を獲得したことは、学問の本来の在り方を示した事及び夢を追求した長年の努力が認められた点で、これからの日本の学問と文化にとって大きな意義がある。

下村さんのクラゲの研究は、長い年月の後、さまざまな実用の科学と結びついて開花した。これも、科学研究の魅力ある姿である。下村さんが東大とか京大とかの大学出身者でないことも、子どもたちに夢を与える要素である。(読者に感謝)。

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2008年10月 9日 (木)

「県が進める内部告発制度の拡大」

◇食の安全に関する虚偽の事実が次々に明らかにされる、その他企業の違反が暴露される。これらは社会に衝撃を与え、企業は時に倒産に追い込まれる。その多くが内部告発によるものらしい。かつての日本企業の常識では考えられない事が日常茶飯事のように起きている。内部の通報者を裏切り者と恨む時代は過去のものとなった。今や、労働者を雇う事業体は法令違反をしないことが事業存続の大前提と考えねばならない社会に入ったのだ。ある意味で革命ともいえる時代の波の震源は平成16年に施行された「公益通報者保護法」である。

 群馬県は、既に、県職員の内部通報の窓口を設けているが、今議会では、このことにつき新しい動きがあった。この事を取り上げる前に、公益通報者保護とは、どういうものかそのポイントを説明したいと思う。

 この法律は、「公益通報」をした労働者を守ることを目的とする。守るとは、通報した事によって解雇などの不利益を受けないことにすること。そして、公益通報とは、個人の生命身体、消費者の利益、環境の保全、公正な競争などを害する法令違反行為の通報である。例えば、企業が食品の表示を偽るのは法令違反行為である。

 群馬県は、この法律の施行に伴い、県行政の違反を内部通報する職員を保護するための要綱を作った。それによれば、通報の窓口は総務部総務課に置かれている。そして、通報を受理し調査の結果法令違反が明らかになった時は、是正措置を指示する。これは、行政運営の透明性と公正な執行を確保するために必要なことであり、行政改革を進めるための重要な手段となる。

 県内部にも法令違反行為は常に有り得る事だ。例えば、平成6年度と7年度の2年間で7億円を越える不正なカラ出張が発覚して大騒ぎになったことがある。あの時はオンブズマンによって指摘されたが、本来なら心ある県職員の行為によって明らかにされるべきだった。このような事をうながす意味をもつのが、通報者保護制度であり、県の運営要綱なのだ。

県は、この度、「要綱」を改正した。通報窓口を外部にも設け、通報対象を拡大したのである。これまでは、窓口は総務部という「内部窓口」であったが、今回、弁護士に委託する「外部窓口」を設ける事にした。内部窓口だとやりづらいと思う職員もいるだろうし、身内同士で甘く処理すると疑われる恐れもあるからだ。

対象範囲の拡大とは次の通りである。①従来の対象は「法令違反行為」となっていたが、「法令」とは条例や規則を含むことを明らかにしたこと、そして、法令違反の拡大の他に、②県民の生命財産を害し、又はこれに重大な影響を及ぼす行為、及び③公正な職務の執行を妨げるおそれのある行為を加えた。②、③は、今会議で制度化する「職員に対する不当な働きかけへ対応」とも結びつく。我々が追求してきた「疑惑」などが、今後、内部告発の対象となる。職員の志気の向上に結びつく改正だ。(読者に感謝)

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2008年10月 8日 (水)

「85億円が50億円になった、土地取得の失政」

◇行財政改革特別委員会(7日)の質疑の第一番で私は不透明な土地取得について取り上げた。総額85億円で取得した土地が現在の価額は約50億円になっている。こんな県税の運用が許されるのかという思いであった。

 土地開発基金の運用に関することである。この基金は100億円あった。基金の目的は、県が公共の目的のために使う土地を予め取得することである。多くの土地が、はっきりした目的もなく取得したと言われた。一番古いものは、平成5年に取得された。長い間塩漬けにされていたために85億円が50億円に値下がりした。その責任の所在はどこにあるかが問われている。

 現在基金の残額は3億9千万円のみとなった。これでは基金の目的は達することが出来ないことを管財課長も認めた。今後この土地をどのように活用するかが検討されている。小寺前知事の時の出来事である。早い時期に処分を検討すれば損害の拡大を免れたであろうに、事実が明らかになることを恐れて臭いものに蓋をした行政の怠慢が原因であると指摘されていた。

◇ここのところ、道州制のことが度々委員会で取り上げられている。この日も面白い話が出た。道州制とは、全国を「道」といくつかの「州」に分けるもので、数個の県が県境を越えて一つの州になる構想である。試案が作られ、道州制の実現は、そう遠くない将来に近づいている。県庁内にも研究会が発足した。

 今、日本は時代の激変に的確に対応出来ず閉塞状態にある。道州制はこれを打ち破り新しい日本のかたちを目指すものであり、私たちの郷土が大きく変わるのであるから無関心ではいられない。

 この日の委員会では、昔の上州遷都論を例にひいて群馬に州都を呼びこめという壮大な議論が原県議によってなされた。上州遷都論は明治時代に実際に計画されたことがある。赤城を背にした上州の地に首都を移す理由は、災害がない、雪が降らない、東京から近い等にあったらしい。現在の上州は高速道路が交差する交通の要衝でもある。だから群馬は道州制の州都にふさわしいというのである。

原富夫さんの意見は、群馬に道州制の州都を実現するためには、それにふさわしい品格とステータスをつくらねばならない、手を挙げる時のためにその準備をせよというもの。中々夢のある話しである。

◇現在、行政改革の観点からいくつかの文化施設の在り方が検討されている。その中に、昆虫の森と天文台がある。どちらも膨大な費用をかけてつくられたにもかかわらず、必ずしも十分に利用されていないと指摘されている。昆虫の森は、当初から批判があった。発想の転換を図って新しく昆虫の森を活かす道を探すべきだという意見が出た。

◇県の税収が落ち込んでいる。今日(7日)は、ニューヨークのダウは1万ドルを割り、世界恐慌の再来が心配される事態になった。日本経済への悪影響は避けられず、税収はさらに悪化するのではと議論された。行政改革、財政改革によって無駄をなくし活力ある県政を実現することは世界の大波を突破するために焦眉の急である。(読者に感謝)

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2008年10月 7日 (火)

「解散と総選挙の臭いがただよい出した」

◇「前橋新しい政治をつくる会」の役員就任依頼で要所を回る(6日)。この会は、衆院群馬1区のコスタリカ方式に関係して生れた。小選挙区制が導入される前、衆院1区は、尾身、佐田の両陣営が、同じ自民党でありながら敵同志のようにしのぎを削った。

 小選挙区制が実現し、1区は変則的なコスタリカ方式が導入された。尾身、佐田両氏は、選挙区と比例区に交替で立候補することになり敵対ではなく協力し合う関係となった。その協力の実を生み出す仕組みとして考え出されたのが、「新しい政治をつくる会」なのだ。

 尾身、佐田両陣営から役員を出す。トップには両方の後援会に属さない第三者についてもらう。民間の会社にたとえるなら、二つの会社を支配する上位の持ち株会社のようなものだ。

このトップ、つまりこの会の会長には、元群馬県商工会議所連合会会長の金子才十郎氏が内諾してくれた。顧問には、JA群馬中央会会長、群馬建設業協会会長、群馬県医師会会長が予定されている。旧前橋の自民党県会議員も、かつては衆院選となれば、対立して戦ったが、「新しい政治をつくる会」の役員として力を合わせることになった。

◇まちを回ると、尾身さんのポスターや民主党の新人のポスターが目立つようになった。どこへ行っても話題は解散はいつか、どちらが勝つかという事である。

 初めは、麻生内閣発足直後に解散するという見方が有力であったが、アメリカに未曾有の金融危機が発生し、世界恐慌に発展する恐れすら生じ、我が国の経済と国民の生活にも大きな影響が出ることが心配され始めた。

 そこで、麻生内閣は、総選挙の前に国民の生活を守るための補正予算の審議をしなければならないと判断するに至った。実は、解散を遅らせるもう一つの理由がある。県連幹事長の話すところによれば、自民党各県連幹事長会議で、ある世論調査の結果が発表されたが、それによれば、自民が過半数を獲得するにぎりぎりか若干危ない状態だという。解散権は内閣総理大臣にあるから、麻生さんとすれば、国民の生活をまもるための経済対策に取り組みながら選挙に勝つためのタイミングを見極めていると思われる。

◇マスコミは、民主党が有利という見方で国民をあおっているが、実は、民主党大敗という調査結果もあるのだという。「選挙はやってみなければ分からない」とよく言われる。今日の複雑な有権者の意識を予測することは無理な事である。調査結果を一つの資料としていかなる戦略を立ていかに実行するかに全てがかかる。もう一つのポイントは大統領選である。オバマが勝てば、民主党という党名と改革・チェンジというイメージが日本の民主党に有利に働くというのだ。この事も折りこんで自民党は戦略を練らねばならない。(読者に感謝)

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2008年10月 6日 (月)

「常任委で新型インフルを取り上げた」

2008106日(月)

「常任委で新型インフルを取り上げた」

◇総務部関係の常任委員会の重要な課題は危機管理である。危機といえば、最大の関心事は迫り来る新型インフルエンザをおいて他にない。そこで、私は、危機管理官にかつてのスペインかぜで群馬県でどの位の死者が出たかご存知かと尋ねた。管理官は正確な数字を把握していなかった。これでは、過去の大きな犠牲を活かせない。

 私は、新井委員長の承認を得て、当時の新聞等の資料のコピーを委員と答弁席の幹部に配った。新聞の記事は、先日のブログで紹介した。次の表は、群馬県史(通史編7)に載る群馬県統計書から作成したスペインかぜによる死者の数を表すものである。

(大正元年~15年)

年度

死者数(人)

大正元年(1918年)

18

大正2年

40

大正3年

113

大正4年

155

大正5年

29

大正6年

6

大正7年

766

大正8年

1677

大正9年

2011

大正10年

321

大正11年

371

大正12年

89

大正13年

92

大正14年

138

大正15年

39

 これは、90年前の恐るべき事実である。このスペインかぜは、第一次世界大戦の最中に起きてまたたく間に世界中に広がった。日本でピーク時(1920年、大正9年)の群馬県の人口は現在の約半分、105万人であった。90年前とは、医学の進歩など社会状況が大きく異なるから当時の被害を基礎にして来るべき新型インフルの被害を単純に推計することは出来ないが、対応を誤ると大変なことになることを、この資料は私たちに突きつけている。「常任委員会であれほど警告したのに対策を怠ったと言われないようにして欲しい」と私は発言したのである。

◇県議OBとの懇親会があった(4日)。自民党の力を回復するために力を合わせることを目的とするもの。松沢さん、柳沢さんなどの懐かしい面々が顔を揃えた。車イスの元県議もいた。先輩の顔ぶれは昔の県議会の姿をしのばせる。現在の県議会執行部の顔ぶれと比べ、県議会が大きく変わったというひとしおの感慨を抱いた。

◇市民スポーツ祭の少年少女柔道大会に出た(5日)。ぐんま武道館の柔道大会で私はよく挨拶をする。いつもは、岩のような巨漢が会場を埋めるが、この日は、ほほえましい様な子どもたちが集まっていた。私の前で白帯をしめた小さな女の子がしきりにあくびをしている。小学校1年生から学年別の女子の試合が行なわれるのだ。豆つぶのようなかわいい女の子がこんなに多く柔道に集まっているのは、オリンピックで女子が活躍した影響だろう。「日本の柔道は君たちが担うんだ」と私は挨拶の中で言った。

◇中国帰国者のマス釣り大会があった(5日)。元残留孤児を中心とした中国東北部から移り住んだ人々である。私はこれらの人々がつくる協会の顧問である。満州開拓移民、敗戦による動乱の中の親子離散、国交回復による孤児の帰国、彼らはこのような日中の歴史を引きずって逞しく生きている。この日は、県国保援護課の課長も出席した。敷島公園の釣り堀は明るい笑顔でにぎわった。(読者に感謝)

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2008年10月 5日 (日)

遙かなる白根(11)序章 100キロメートル強歩序曲

しかし、私にとって、わくわくするような刺激と夢に満ちた小学校という競争の海は、周平にとっては、水底へ引き込まれ、どこかへ流されてしまうという不安に絶えず脅かされる恐怖の海であった。そのことが、次第に明らかになり、一年、二年、三年と学年が進むにつれ事態は深刻になっていった。

 周平は、保育園の時と同じように、仲間の中に入ってゆくことが出来ず、休み時間は、運動場の片隅で皆の方を横目で眺めながら一人ポツンと過ごす毎日であった。教室の勉強は日毎に難しさを増し、量も増えてゆく。周平が到底それについて行けないことは、20点、30点というような、時々持ち帰るテストの成績からも歴然としていた。周平が取り残されてゆく学校の授業の光景を想像するだけで、私には耐え難いことであった。

 私たち夫婦は、初めのうちは、家庭で勉強を教え、学校での遅れを取り戻そうと考えていた。元教師の妻は、周平が学校から帰ると、時間を見つけては、一緒に机に向かい勉強に取り組んだ。妻の姿は、側から見ても、全エネルギーを注ぎ、精魂を傾けているように見えた。

 県会議員になる前、前橋市西片貝町で小規模ながら本格的にやっていた学習塾を、私は県会議員になってからも芳賀の鳥取町で規模を縮小した形で続けており、自ら教壇に立っていた。妻も私のアシスタントとして塾を手伝っていた。

 周平の問題は、塾の教壇に立った私に、何かを突きつけていた。それが何であるか、明確には判らないが、それは、周平一個の問題を越えた大きな問題であり、しかも、教育の大きな流れ、また、社会全体のことにかかわる問題とつながっていることと思えた。私は、このことを重く感じ取りながらも苛立つ感情の渦に巻き込まれ、時に、それを冷静に追求する姿勢を失うことがあった。

 私は、西片貝町で学習塾を開いていたころ、私の小さな教室から毎年数名の前橋高校や前橋女子高校の合格者を出すことを、一つの誇りにしていた。そして、これら優秀な子どもだけでなく、学校での勉強に遅れた子どもも、一緒に座らせて、基礎の基礎にある原理原則を徹底的に教えるというやり方で、両方の子どもたちに満足感をもたせ、それなりの成果を上げることに精力を傾け、自分でも満足していたのである。 

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2008年10月 4日 (土)

遙かなる白根(10)序章 100キロメートル強歩序曲

「中村の家内でございます」

集会のとき、妻がこう言って人々に頭を下げると、そのわきに立った周平も、

「中村の家内でございます」

と言って、小さな頭をちょこんと下げる。

「おりこうな子だね」

大人たちはこう言って「家内」の意味の分からない無邪気な子どもの小さな頭を撫でた。周平はうれしそうな笑顔でそれにこたえる。そこには、他の子どもと比べた不自然さはまだ感じられなかった。しかし、同じ年齢の幼児たちの中に交わると、その違いがはっきりする。周平と他の幼児たちの成長の曲線は、年を経るに従って、その開きが大きくなってゆく。

前橋市立芳賀小学校

 平成元年、周平は前橋市立芳賀小学校に入学した。入学に先立つ検査で何を指摘されるか、普通学級への入学は無理といわれるか、私たち夫婦は心配していたが、周平は簡単な質問などに無難に答えて、どうやら小学校入学の関門をパスした。周平は、子ども同士のやりとりと比べ、大人との対応では物怖じしない一面があった。それは、選挙に関していろいろな人たちと接することの多い我が家の環境の中で、自然と身についたものであった。これが大きくプラスに働いたためかどうかはともかく、周平が無事入学を認められたことに、私達は、ほっとして胸をなでおろしたのであった。

 イトおばあちゃんが買ってくれたピカピカのランドセルを背負った周平の表情も輝いていた。それを見て私は、自分の小学校入学時の情景を思い出していた。それは、昭和22年のことだ。勢多郡宮城村の山奥から里の学校へ出てきて、同じ年の仲間が大勢いることが何故かとても嬉しく私はいつも興奮していた。入学式の日から取っ組み合いの喧嘩をしたり、教室では、仲間をかき分け押しのけて先生の所へ走ったりしていた。思えば、あれから今日に至るまで、私は休むことなく競争社会を走り続けてきた。あのおよそ半世紀前の競争のスタートと同じ所に今周平が立っている。周平の背にある真新しいランドセルを眺めながら、私は、周平の輝かしい人生を夢見ていた。

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2008年10月 3日 (金)

「名山、赤城を活かせ」「図書室の存在意義」

◇図書広報委員会が朝9時から開かれた(2日)。「県議会だより」の発行及び、「群馬県議会史第10巻」の編集に関する会議が行われた。委員長は原富夫さん。この委員会の目的は、図書室の運営及び議会の広報に関し、議長の諮問に応じ又は意見を述べることである。 私の友人が「議会図書室について知りたい」と言った。この機会にブログの読者にも「図書室」を紹介したいと思う。図書室は、議会棟一階の南側にある。 先ず、議員以外の一般の人も、議員の調査研究に支障のない範囲で図書等の閲覧が出来、又、貸出しが受けられる。貸出しは二週間三冊以内という制限があるが図書室長が認めた時はこの限りではないという規則になっている。 図書室長は、私が議長として南米を訪問した時随行員を務めた徳安さんで、仲々物分かりの良い面白い人である。図書室には、美人職員もおり、皆、奉仕の精神で対応している。私は一般の方々がもっと図書室を利用することが望ましいと考えている。それは、今、県民に開かれた議会であることが求められているが、議会図書室は、県民との接点としての役割を果すべきだからである。 閲覧室には、新聞各紙、主な週刊誌、ニュートンなどの雑誌その他が並んでいる。「こんな本も置いて欲しい」という要望を一般の人が図書室長に言ってみてはどうか。図書室に来たついでに県政について質問するのも、どうだろう。私は、県民参加の楽しい議会図書室を夢みている。今のところ、一般の人はまだ少ない。 2日の総務常任委員会では、銀座にオープンした「ぐんま総合情報センター」、「赤城南麓の観光と農業」、「群馬県の大阪事務所」等に関して私は、質問した。 ◇「ぐんま総合情報センター」は銀座のど真ん中にオープンした群馬を売り出す拠点である。活動実績が報告された。来場者は、7、8、9の3カ月で49,139人であった。群馬の物産の販売や企業誘致活動などが行われている。巨額の資金を投下して築かれたセンターを活かすものは、「人」である。普通の公務員の感覚では役割を果たす事は不可能だ。民間の会社の営業マンの要素と前線基地で群馬のために戦う決意が求められる。職員の選び方と研修の必要性などにつき質問した。人、物、金、情報が渦巻く都会のジャングルでどんな成果を上げるかが問われている。名山赤城は、21世紀に生まれ変わるべきだ。国定忠治の世界から脱皮して、多くの人からいこいの場として親しまれ、生命の源となる活力を提供する山に変身させる時を迎えようとしている。眼下の関東平野には上武国道が完成間近かとなり北関東自動車道も着々と進んでいる。これらは赤城山に新たな血液を注ぐ動脈となり得る。一方、麓には遊休農地や耕作放棄地が広がる。観光と農業と自然を結びつけて赤城山を活かす具体的なプランをつくるべきだと私は主張した。この日の夜森の中を車で行くと鹿、野兎、イノシシに出会った。これら森の住人も活かした計画を実行させたいものだ。(読者に感謝) ★土・日・祝日は、中村のりお著「遙かなる白根」を連載しています。

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2008年10月 2日 (木)

「90年前の惨状を活かせ」

◇各種団体の当初予算に対する重点要望事項を、常任委員会ごとに受け付けて説明を聞いた(1日)。その中で注目する団体が2つあった。群馬県郷友会と群馬県隊友会である。いずれも緊急事態に対して、自衛隊、警察、消防及び県市町村などの自治体と連携して役割を果そうとするものでその提言は傾聴に値するものであった。だが、驚いたことは、新型インフルエンザに対する認識はほとんどないらしいことであった。

◇過去に起きた「新型インフル」の恐怖を当時の新聞から改めて紹介したい。新型は、20世紀に、およそ40年おきに3回発生した。スペインかぜ、アジアかぜ、香港かぜである。

 次は、1918年(大正7年)、第一次世界大戦中に発生し、全世界で3千万人ともいわれる死者を出したスペインかぜの猛威を伝える上毛新聞の記事である。

 見出しは、「死亡者、日を追って激増・患者は初発以来27万人」とあり、次のような本分が続く。「世界的に目下猛威を極めつつある悪性感冒は、今や本県もまた襲わるるところとなりて、官署や学校、工場、花柳界にまで侵入、休校や休業せんとする学校および製糸工場続出せり、市立火葬場においては、棺桶を積み置きて1日、2日経ざれば間に合わざる有様なるにより、日ならず拡張工事に着手すべし。11月1日現在、患者数は20万人に達すると見られ、なほ日々数千人あるいは数万人の患者をだしつつあり。近来に至り悪性感冒はようやく終息せんとする模様なるも、死亡者は日を追うて激増する有様にて、11月末日における県下の患者数は初発以来27万人にして、死亡者は1157名なり」

 悪性感冒は、翌年まで続いた。大正8年1月29日の上毛新聞は、「昨秋来世界的に流行を逞(たくまし)ふしたる流行性感冒は、我県も侵襲を蒙り、昨年末の調査では患者30有万、死者1600有余名を出せり」と報じた。

上毛新聞の記事は、スペインかぜ流行の一時期の状況を伝えるものである。群馬県史はよりくわしく全体の状況を記している(通史編7)。それによれば、県内では1918年(大正7年)10月から小学校ではやり始め、11月には全県に広がり、翌1919年(大正8年)2月にはいったん治まったがその年10月から再び流行し出したので県当局は予防のためワクチンを北里研究所に注文し、各地で予防注射をすすめた。スペインかぜが最も流行したのは大正7年から9年までで、この3年間で4454人の死者がでた。

◇90年前の悲劇を最大限教訓として活かさねばならない。今回、襲来が確実視されている新型インフルエンザは、もっと大きな災害をもたらすだろうといわれている。なぜなら、スペインかぜなどは弱毒性のウィルスであったが、今回予想されるものは強毒性だからである。隊友会、郷友会の幹部が新型インフルを全く念頭に置いていないことは、県民の危機感がいかに低いかを物語る。それは行政の責任であると思う。(読者に感謝)

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2008年10月 1日 (水)

「一般質問の最後は充実して面白かった」

◇真下県議の質問では「新型インフルエンザ」と「レイブの薬物」が注目された。

 「新型インフル」は、いくどもこのブログで取り上げてきた。真下さんは、新型は必ず起る、危機意識をたずねたいと行政に迫った。推定される本県の死者は1700人ともいわれる。実現すれば本県における史上最悪級の災害となる恐れがある。ちなみに、天明3年の浅間の噴火による死者は1124人、昭和22年のキャサリン台風の死者は976人と伝えられている。

 それなのに一般の危機意識は極めて低い。笛吹けど踊らずという言葉があるが、笛を吹かない状況というべきではないか。真下さんは、新型発生を想定した大規模な実地の訓練をすべきだと主張した。市町村自治体の危機意識も低いと思われる。市町村と県が連携した新型防災訓練を実施しないと危機意識は高まらないだろう。

 今年の2月、新型インフルエンザ対策室が出来、大澤知事がその部長となった。先日、元総社の土地に関して、小寺前知事の責任が問われたが、予想される「新型」に関する知事の責任は、この比ではない。今からしっかりと備えをしてもらいたい。

◇薬物使用の広がりは社会を根底から脅かす。国技であるすもうの力士が大麻を吸った事件は、若者に測り知れない悪影響を及ぼす恐れがある。力士も吸っているという事で罪の意識を薄めてしまうからだ。

 真下さんが水上町の「レイブ」に関する薬物事件を取り上げたのは、事態の深刻さを意識したからである。警察本部長はていねいに答え、取締りの決意を述べていた。

 きっかけは、水上町のレイブで、20代の女性が薬物が原因で死亡した事件が起きたことである。レイブは、トランスとも呼ばれる電子音楽が大音量で鳴り響き、レーザーやサーチライトが照らす中で若者がリズムにのって歌い踊る。興奮が薬物を求め、薬物が興奮を更に高める。このような動きを放置すると本県の若者にも大きな悪影響が生じる。レイブは豊かな大自然の中で行なうのが一層の効果を生むに違いない。そのような環境が群馬には多い。これまでにレイブが行なわれたのは、水上町、嬬恋村、片品村などである。こうした流れを阻止しようとして、今、自治体では、条例をつくってレイブを禁止しようとする動きが起こりつつある。

◇舘野県議は群馬の農業を正面から取り上げた。その農業に打ち込む姿勢にひかれた。「元気な野菜王国」、「群馬の野菜には活力がある」、こんな言葉を聞かされて、群馬の農業の末来に明るさを感じることが出来た。林農政部長は、そのような群馬の農業のために大切なことは、食の安全安心である、そのために農薬の適正使用を徹底させたいと決意を語った。舘野さんは東毛の洪水の恐怖を訴えた。異常気象の中、百年に一度の洪水はいつ起きてもおかしくない。八ッ場ダムの必要性を感じた。(読者に感謝)

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