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2008年10月12日 (日)

遙かなる白根(13)序章 100キロメートル強歩序曲

「成績の良い子なら、PTA活動も、どんなに楽しいことだろう」  妻は、かつて前橋一中や桂萱中学校で英語の教師をしていたころの父母との楽しい交わりを常に懐かしく語っていたのである。 「自分の子がこんな状態なのに、ひとの子を教えるのは嫌です」  妻は、学習塾を続ける苦痛を訴えた。それは、私にもよく理解出来ることであった。しかし、私は、それだけでなく、塾で教えることの意義について、私の中でふくらみつつあった疑念の故に、いままでのような学習塾を続けることに対する情熱を失いつつあった。又、夜の会合などが多くなって、私も妻も塾を続ける時間的余裕がないこともあって、周平が4年生のとき、私は、長く続けた学習塾、先細りになりながらも愛着を抱いていた学習塾を、ついに閉じることになった。塾を巣立っていったいろいろな子どもたちの顔が浮かんだ。中村塾の閉鎖は、私の教育に関する考えや人間の価値観の転換点を意味した。そして、又、周平に対する考えを大きく変えてゆく分岐点でもあった。 初めて開善学校を訪れる 学年が進むにつれ、周平を、芳賀小の普通学級に通わせることが周平のためにならないことは明白になっていった。小学校へ入る前の天真爛漫な笑顔は次第に失われていった。それは周平の心の世界が萎縮し歪められてゆくことを示しているようであった。そのうちに芽を出すというはかない期待を抱き続けることはもはや不可能と思われた。 知的能力にハンディのある子を、学校でどう教育するかということは、教育とは何かという、教育の本質に関わる問題である。又、それは、人間とは何かというより根本的なことにつながる問題である。 私達の社会の最も基本的なルールを定める憲法は、人間は、みな平等で、一人一人の人間が尊い存在なのだと謳っている。その一人一人の人間が人間として幸せになるために必要なものが教育である。だとすれば、教育とは一人一人を大切にするものでなければならない。国民の幸せを実現することを任務とする国はそのような教育を実現する義務を負う。では、実際に、どのようにして、その教育を実施するのか。現実は極めて厳しく、その実現は、永遠の課題のように思われる。 ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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