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2008年7月30日 (水)

「高木市長と会って要望項目を聞く。」「玉音放送のこと。」

◇毎年、前橋市は県に対して重点要望を行う。知事に要望書を渡す前に前橋市出身の県会議員に説明し協力を要請することになっている。高木市長と私たちが緊張関係にあることから市の当局は、かなり神経を使っていたふしがある。県議の中には、欠席すべしという意見もあったが、市長を批判する事と、市の発展を願うことは別だと考えて、出席することにしたのである。

 今回は、「前橋プラザ元気21」の中の中央公民館が会場として使われた(29日)。10個の重点要望項目の中には、「子どもの医療費の無料化について」、「重粒子線治療に係る治療費負担軽減制度の創説について」、「CO₂削減に向けた太陽光発電の導入推進について」、「農業に対する緊急支援事業について」など重要な施策が含まれていた。

 会議は一時間程で終わり、5階から1階まで降りるエレベーターに、髙木市長と同乗することになった。呉越同舟という言葉を思い出した。

◇いわゆる玉音放送を聞く。「ふるさと塾」で月曜日、鈴木貫太郎を扱った時、玉音放送の事が話題となり、高齢の塾生は良く聞き取れなかったと発言した。それを聞いた私の事務所の瀬下さんが、所有していたテープを持参したのである。

 天皇のはっきりした声が流れ出した。静かな声の背後に広がる極限の混乱が想像された。当時の人々の心を思うと胸が熱くなった。天皇がマイクの前に立ってこの声を録音している時も、特攻隊員は南の空に飛び立ったのであろうか。

 テープの声は、「朕は、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ」と始まる。そして、「朕は帝国政府をして、米英支ソ四国に対しその共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」、「交戦すでに四年を経過し将兵、国民、最善を尽くすも戦局は好転せず世界の大勢は、我に利あらず」、「敵は新たに残虐なる爆弾を使用し惨害の及ぶ所眞に測るべからざるに至る。しかもなお、交戦を維持せんか、ついに我が民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて、人類の文明をも破却すべし」、「今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず、なんじ臣民の衷情も朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運のおもむく所、耐え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開かんとす」などの部分が続き、最後は、次のように結ぶ。「道義をあつくし、志操をかたくし、誓って、国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし、なんじ臣民、それよく朕の意を体せよ」

 8月15日の宮城前は、玉砂利に伏して泣く人、腹を切る軍人もあり異常な興奮が支配していた。それは、帝国の崩壊を象徴する光景であった。

 しかし、興奮が冷めると多くの日本人はほっとしたに違いない。あれから63年が経つ。8月は、日本という国を深く考える月にしたい。(読者に感謝)

★土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

2008729日(火)

「今月のふるさと塾は鈴木貫太郎」

◇第四土曜日は、夏祭りが多く、今月は月曜日に実施。話は、昭和庁舎に展示する「上州の宰相」の映像から入った「実は、群馬ゆかりの宰相はもう1人いました」、という切り口である。終戦記念日が近づくこともあり、鈴木貫太郎を取り上げることはタイムリーだと思った。

 鈴木貫太郎は前橋市桃井小を卒業し、前中(現前橋高校)で学び、海軍兵学校に進んだ。連合艦隊司令長官、侍従長などを歴任、誠実な人物で昭和天皇の信任は厚かった。母校桃井小には、貫太郎の言葉、「正直に腹を立てずにたゆまず励め」と書かれた石碑が立っている。昔の小学生は、よくこの言葉を復唱させられた。ふるさと塾にも復唱の体験を持つ人が何人かいた。塾では、「いまでもやればいい」という意見が出た。私もそう思った。

鈴木貫太郎が日本を救った総理大臣といわれるのは、戦争を終結させた業績の故である。昭和204月、総理大臣に鈴木の名が上がった時、鈴木は固辞した。しかし、昭和天皇に頼むからといわれて引き受けたのである。

 昭和天皇は、「この重大な時にあたって、もう他に人はいない、頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と言った。天皇の命令で総理の職につく時代である。それが、天皇に頼むからやってくれと言われた人物は鈴木以外にいない。

 7月、連合国からポツダム宣言が発せられると、その受諾か否かをめぐって政府中枢で激論が交わされ結論が出ない。86日広島に原爆が投下され、続いて、9日、長崎に原爆が投下された。その直後に、ソ連が日本に参戦した。二度目の御前会議でも、阿南陸相等は、本土決戦を、東郷外相等は「宣言」受諾をそれぞれ主張して譲らない。

 鈴木首相は、誠に恐れ多いことだが、陛下のご意見を仰いで結論にしたいと発言し、進み出た。天皇は、ポツダム宣言受諾に賛成する、自分の身はどうなってもいい、国民を救いたい、必要があれば、自ら国民に語りかけたい、と述べた。ここでポツダム宣言受諾は決定された。814日のことであった。

鈴木の胸に筋書きは出来ていたに違いない。議論が出尽くした段階で、仮に、鈴木首相が受諾に賛成して結論を出したとしても、その後収拾がつかない事態が生じたであろう。天皇の決断の力は絶大であった。侍従長の回想などを読むと、この午前会議の異様な状況が分かる。男たちのすすり泣く声が次室にまで伝わったという。

私は、天皇に戦争の責任がなかったとはいえないと思うが、戦争を終決させ国民を救った天皇の力は大きいと思う。そしてその結論を導いた鈴木貫太郎の功績も偉大だと思う。ふるさと塾には、「玉音放送」を聞いたという人が二人いた。その一人は、よく聞き取れなかったが、午後、鈴木首相が終戦という言葉を使ったのを聞いて全てが分かったと話していた。今年も8月が近づいた。風化して、歴史の中の出来事になっていくあの戦争をもう一度、しっかりと見詰めたいと思った。(読者に感謝)

★土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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