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2008年7月27日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(129)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

 シベリア強制抑留で苦しんだ日本人の姿は、今日の私たちの対極にあるものである。衣食足りて礼節を知るという諺があるが、「衣食」不足の極限にあっては、人は人間の姿を貫くことが難しい。また、「衣食」が足り過ぎた中でも、人間の尊厳を貫くことが難しくなる。まして、人間としてのしっかりとした歩みを支える「心の文化」が定着していない場合には、このことが言える。シベリア抑留と今日の社会は、このことを私たちに教えてくれる。

 ハバロフスク事件で闘った日本人は、今日の日本とは対極にある極限の状況下で、人間の尊厳を守るために闘った。その姿は、ロシア人の目にもまぶしく輝いて見えたに違いない。アレクセイ・キリチェンコは、それを、シベリアの「サムライ」と表現し、高く評価した。「ハバロフスク事件の真実」とともに、ロシアの学者が提示した、この懐かしい「サムライ」という言葉を、私たちは今日の日本人の「心」を考える上で、重要なメッセージとして受け止めるべきではないか。戦後の日本は、日本人が大切にしてきた、伝統的価値観の多くを捨て去ってしまったが、その中には、時代を超えて、新憲法のもとにおいても、日本人の心の芯として守ってゆくべきものが数多くある。サムライの心、かつては、それを武士道といったが、これは、日本人の伝統的な精神文化として、今改めて注目すべきものと私は考える。

 武士は、階級社会における支配層であった。そして、武士道は、この支配層のモラルであったから、今日の平等社会のモラルとしてはそのままでは受け入れられないといえる。しかし、実際は、武士道の本質は発展して、武士階級だけでなく、それを見習った日本人全体の精神構造を支えるものとなっていたのではないか。そして、その中心は、自分という「個」を越えた社会のために貢献する志である。これは、今日の社会においても立派に通用する価値、いや、むしろ、物質万能に傾いた今日の社会において、より重視されなければならない理念である。それは、個人の存在よりも国家を尊重するという理念ではない。個人としての人間の尊重をより実現するために、いいかえれば、個人としての人間を高めるために、「義」、「信」、「孝」、あるいは「恥を知る」ということを、社会貢献に結びつける考えなのだ。

 今日、ボランティアの時代といわれるが、ようやく芽が出てきた社会貢献の流れを本物のより質の高いものに育てるために、私たちは、このような精神文化を自覚して守り育てることが大切である。このことが、国際化時代において、日本人のオリジナリティを確立する上で必要なことと思う。そして、「シベリアのサムライ」が見せた心意気を今日の私たちの心の糧として正しく受け止めることが、シベリアの強制収容所で苦しんだ日本人に報いる私たちの務めでもある。☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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