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2008年7月19日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(125)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

瀬島龍三は、その回顧録で次のように述べている。「この闘争が成功したのは国際情勢の好転にも恵まれたからであり、仮にこの闘争が4,5年前に起きていたなら惨たんたる結果に終わったかもしれない」

 このハバロフスク事件は、昭和30年12月19日に発生し、ソ連の武力弾圧は、翌年3月11日のことである。この間、鳩山内閣によって、日本人収容者の運命のかかった日ソ交渉が行われていた。首相鳩山一郎が自らモスクワに乗り込んで、日ソ交渉をまとめ、日ソ共同宣言の調印が行われたのは、昭和31年10月19日のことであった。この宣言の中で、この条約が批准されたときに日本人抑留者を帰国させることになっていた。そしてこの年11月27日、条約案は、衆議院本会議を通過した。ソ連はただちに動き、最終の帰国集団、1,025人の抑留者を乗せた興安丸はナホトカを出港し、12月26日舞鶴港に入港した。

 ハバロフスク事件の責任者、石田三郎の姿もその中にあった。一足先に帰国していた瀬下龍三は、平桟橋の上で、石田三郎と抱き合って再会を喜びあった。死を覚悟して戦った日本男児石田三郎の目に祖国の山河は限りなく温かく映った。

十 シベリアのサムライたち

 最近、ハバロフスク事件をソ連の学者が取り上げて評価するという、従来考えられないようなことが起きている。その一例が、ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長アレクセイ・キリチェンコの「シベリアのサムライたち」と題する論文である。

 背景として大きな政治的な変化があった。その現れとして、平成3年4月ゴルバチョフ大統領が訪日にして、日本人抑留者の死亡者名簿37,000人を手渡したこと、および、平成5年10月にはエリツィン大統領が訪日して、シベリア強制抑留の事実に対して、日本国民に対して「謝罪の意を表します」と深々と頭を下げたことなどがあげられる。

 特に、ゴルバチョフが大統領になって、新しい政策としてペレストロイカ(政治の再編・建て直し)およびグラスノスチ(情報公開)が打ち出され、新しい資料の公開が正式に可能になったことが重要である。

☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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