シベリア強制抑留『望郷の叫び』(124)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実
石田三郎は、日本人の誇りを支えにして貫いてきたこの長い闘争を改めて思った。こみ上げる熱いものを抑え、彼は胸を張って発言した。
「私たちがなぜ作業拒否に出たか、そして、私たちの要求することは、中央政府に出した数多くの請願書に書いたとおりでありますが、改めて申し上げると・・・」
「いや、主なものは、読んで承知している。改めて説明しなくもよい。いずれも、外交文書としての内容を備えている」
石田の言葉を遮って発言したポチコフ中将の言葉には、立派な文章だと褒めている様子が言外に感じられた。
「しかし」
とポチコフ中将は鋭い目で石田を見据え、一瞬おいて強い語気で言い放った。
「お前たち日本人は、ロシア人は入るべからずという標札を立ててロシア人の立ち入りを拒んだ。これはソ連の領土に日本の租界をつくったことで許せないことだ」
これは、石田が拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指している。
石田は、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことであり、驚かなかった。ポチコフの言葉には、処罰するということが含まれているのだ。石田が黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声できいた。
「日本人側にけがはなかったか」
「ありませんでした。お願いがあります。私たちの要求事項は、この日のために、書面で準備しておきました。ぜひ調査して、私たちの要求を聞き入れていただきたい。このために日本人は、死を覚悟で頑張ってきました。私の命はどうなってもいい。他の日本人は、処罰しないでいただきたい」
「検討し、おって結論を出すから、待て」
会見は終わった。形の上では、ソ連の武力弾圧に屈することになったが、日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられたのであった。その中心は病人の治療体制の改善、即ち、中央の病院を拡大し、医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行うこと等が実現された。また、第一分所を保養収容所として経営し、各分所の営内生活一般に関しては日本人の自治も認められた。その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善された。ただ、石田三郎を中心とした、闘争の指導者に対しては、禁固一年の刑が科され、彼らは別の刑務所に収容された。
☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。
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