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2008年6月15日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(116)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

人々は、故郷の妻や子、父母や山河を思って歌った。人々の頬には涙が流れていた。轟く歌声は、人々の心を一層動かし、歌声は泣き声となって凍土に響いた。苦しい抑留生活が長く続くなかで、今、時は止まり、別世界の空間が人々を包んでいた。

長い収容所の生活の中で、国歌を歌うことは初めてのことであった。「民主運動」の嵐の中では、国詩も日の丸も反動のシンボルであり、歌ったり貼ったりすることは、まったく不可能なことであった。「民主運動」の中では、祖国は、日本ではなくソ連でなければならなかった。「共産主義の元祖ソ同盟こそ、理想の国であり、資本主義の支配する日本は変えねばならない。だからソ同盟こそ祖国なのだ」と教えられた。多くの日本人は、不本意ながらも、民主教育の理解が進んだことを認められて、すこしでも早く帰国したいばかりに表面を装って生きてきた。収容所では、表面だけ赤化したことを、密かに赤大根と言ったという。心ある者は、このようなことを卑屈なこととして、後ろめたく思っていた。中には自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんでいる者もいた。

ところが図らずも今度の事件が発生し、一致団結して収容所当局と対決すことになり、日本人としての自覚が高まり、日本人としての誇りが蘇ってきた。

 この湧き上がる新たな力によって、「民主運動」のリーダーで、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出され、彼らは、今や、恐怖の存在ではなくなっていた。このような中で迎えた正月であり、その中での国歌・君が代の斉唱であり、日の丸であった。石田三郎が、「日本人となり得た」とか、民族の魂を回復し得たということも、このようにして理解できるのである。

 ところで、浅原正基を中心とする「民主主義」のグループは、もとより作業拒否の闘争には加わらなかったが、同じ収容所の中の一角で生活していた。彼らは勢力を失ってはいたが、依然として水と油の関係であり、闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、この関係は次第に険悪になっていった。特に、彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、人々を苛立たせ、怒りをつのらせた。そして、状況は緊迫しいつ爆発するかもしれぬ状態になった。血気の青年防衛隊は、このままでは、闘争も失敗する、浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫った。

「いかなることがあっても、浅原グループに手を加えてはならない。それは、ソ連側の実力行使の口実となり、我々の首をしめる結果になる」と、逸る青年を代表部は必死に抑えた。

☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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