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2008年5月31日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(111)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

他の班長も一様にうなずいた。では、どうしたらよいのか。収容所側にいくら懇願しても、誠意のある対応が期待できないことは明白である。では、このまま自滅を待つのか。話を進めるうちに、班長たちの眼光は殺気を帯びるほど鋭くなった。

「自滅するより闘おう。座して死を待つのは日本人としての恥だ」

 一人の班長が押し殺した声で言った。

「同感だが、どのように戦うのだ」

「いや、闘うなら勝つ戦いをしなければならぬ。さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」

「まず作業拒否だ」

「そうだそうだ」

いろいろな意見が交わされた。そして重大なことだから、各班で話しあって、その結果を踏まえて結論を出そうということになった。

12月の19日を迎えた。各班の結論は、作業拒否で戦うということであった。これで全体の方針が決まった。そこで、代表を決め固い組織をつくって、死を覚悟の交渉をやろうということになった。班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎であった。

石田は要請を受けたとき、作業拒否を実行する班はどの班かと聞いた。班長会議の面々は、浅原グループを除く全部だと答えた。浅原とは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー浅原正基のことである。

作業拒否闘争の代表になることは死を覚悟しなければならない大変なことであるが、石田三郎は人々の熱意に動かされ決意した。石田は人々の前に立って言った。

「この闘いでは、犠牲者が出ることは覚悟しなければなりません。少なくとも代表たるものには責任を問われる覚悟がいる。私には、親もない、妻もない。ただ、祖国に対する熱い思いと丈夫な身体をもっています。私に代表をやれというなら、命をかけてやる決意です。皆さん、始める以上は力を合わせて、最後まで闘い抜きましょう」

瀬下龍三は、石田三郎のことを振り返って、あの環境で指導者となったのは、友のため人のためという強い信念の持ち主だったからこそで、普通の人のできることではなかった。事件の間、大局を誤らないよう折々私と意見を交わしたが、状況判断、対策など的確な戦略と強い指導力を見せたと語っている。

☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月30日 (金)

「金子泰造さんの急逝」

◇早朝(30日)金子泰造さんの死を知って愕然とした。肺炎とは聞いていたが、このような結果になるとは思わなかった。今朝、午前1時の出来ごとという。私とは、時々電話で話していて、28日も夜8時過ぎ電話の声はしっかりしていた。人間の運命は分からぬものだ。

 県議選の関係ではライバルだったが、知事選、市長選と力を合わせた。きちんとした理論を組み立てて話す剛直な人柄でプロの政治家であった。前橋市の明日を思う情熱には頭が下がる思いであった。金子氏の思いを今後の運動の中で、生かさねばならない。

「役員選任の議会の光景」

◇中沢議長が辞職願を出し、それが認められた。辞職の理由は一身上の都合ということ。この理由を使うのは慣例となっている。なぜこのような形をとるかといえば任期満了による退任でないからだ。地方自治法では、議長の任期は議員の任期によるとなっているから法律上は4年である。任期の途中で辞任するには議会の議決が必要なのだ。反対はなかった。一年毎に「一身上の都合」で辞任して次の議長を選ぶという慣例がいつの日か改められる日が来るかもしれない。真の議会改革のためには避けて通れない道だが現状は困難である。

 自民党の腰塚誠氏が第82代の議長に選ばれた。得票状況は腰塚氏46票、久保田務氏(民主党改革クラブ)2票、早川昌枝氏1票であった。議員の数は、金子泰造氏が市長選に出馬するため辞任したので現在49名で自民党は、32名である。従って、自民党が全員と他会派の人が12人腰塚氏に入れた事になる。自民党の票が全票入らなかった例も過去にはあったと記憶する。

 続いて副議長の選任が行われ、自民党の小野里光敏氏が当選した。小野里氏34票、塚越紀一氏(フォーラム群馬)12票、石川貴夫氏(民主党改革クラブ)2票、早川昌枝氏1票であった。

 正副議長の選任の後、各種委員会委員の選任等が行われた。委員会には常任委員会が6つ、特別委員会が4つあり、その他に、議会運営委員会と図書広報委員会がある。私は総務企画常任委員と行財政改革特別委員会、図書広報委員会に属することになった。

◇芳賀の金属団地の通常総会に出た(29日)。挨拶に立つ人が皆、資材の高騰、とくに原油の異常な値上がりに困っている状況を訴えていた。そしてある事業主は原油が投機の対象となりマネーゲームの中で高騰を続けていることに憤(いきどお)り、北海道のサミットでその対策を打ち出して欲しいと話していた。いま原油国には奔流(ほんりゅう)のように金が集められている。そして、その金を原油に投資しているといわれている。つまり、原油国が原油で得た金で原油を買って原油の値をつり上げている。このようなおかしなことが許されるのかというのかということである。(読者に感謝)

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2008年5月29日 (木)

「ジキル博士とハイド氏・現実の二重人格事件」

◇ジキル博士は高潔な人格の人、そしてハイドは残虐な殺人犯である。弁護士アタスンは2人が異常に親密であることを不思議に思い調査を始める。実はジキルとハイドは同一人物であった。ジキルが薬を飲むと性格も容貌も変わってしまう。最後はジキルに戻れなくなって悲惨な結果を迎える。「ジキル博士とハイド氏」は、イギリスの作家スチーブンソンの小説である。「ジキルとハイド」は二重人格の代名詞のように使われる。 ハイド氏が犯した殺人について、現代の法律で、ジキルにその責任を問えるかといえば、それは明らかに問える筈である。なぜなら、ジキルが自ら薬を飲むことによって別人格になったからだ。では、薬ではなく、全く不可抗力の原因によってジキルがハイドになってしまったとしたらハイドの殺人行為についてジキルに責任を問えるか。このような事件が起きて、東京地裁は27日、判決を下したのだ。

◇二重人格は、解離性同一性障害と呼ぶらしい。人格の交代は突然起こり言葉つきや態度まで変わる。主人格は他の人格の記憶を持たないことが多いとされ、背景の1つに幼児期の虐待が指摘されている。

 事件は渋谷区の元予備校生が短大生の妹を殺し、遺体を切断した。社会に衝撃を与え、まだ記憶に新しい。罪名は殺人罪と死体損壊罪であるが、東京地裁は、死体損壊罪については無罪とした。(殺人の方は懲役7年)妹の死体を左右対称に15に分けて解体した。鑑定は、「損壊時は、別のどう猛な人格になっていた、本来の人格は別人格を認識していなかった」とし、裁判所はこれを支持し、死体損壊の点については、主たる人格の行為ではないとして無罪とした。夫を殺して死体をバラバラにした妻、三橋歌織被告に対しては懲役15年の判決が下された。この違いに驚くが人間の脳の奥深い神秘の所から流れる力がこの差異を生んだ。こんな事件に裁判員として当たったらえらいことになる。裁判員制度のスタートは一年後に迫った。二重人格と犯罪を扱った映画で懐かしいのはヒッチコックの「サイコ」である。目のくぼんだ細い長身の男優アンソニーパーキンスが、二重人格を演じた。サイコは、ラテン語で心を意味する。

私が中心の一人となっているボランティア団体グリーンサークルの役員会があった(28日)。環境美化活動などを行っている。7月の末頃、市の総合福祉会館で「不都合な真実」を上映することに決まった。10人程の役員で、CDを見た。アメリカのゴア元副大統領が地球の危機を訴えている。この映画では05年までの異常気象を扱っているが、その後の3年間で地球の危機は更に進んだことを感じる。映画はアメリカのハリケーンを取り上げているが、先日、ミャンマーを襲ったサイクロンも温暖化が原因で巨大化した怪物の一例だろう。映画では、氷河が後退し、ツンドラが溶け、湖が消滅する光景が展開する。氷が薄くなり白熊が溺れる場面も。アフリカの首脳が日本に集まっている。アフリカ大陸の発展は地球環境の変化を加速させるだろう。(読者に感謝)

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2008年5月28日 (水)

「5月議会が始まった。27日」

◇議会の開会日の朝は、いつも、7時半から群馬会館の地下食堂で自民党の朝食会が行われる。かつて福田系、中曽根系と呼ばれた両派があった時は、ここで開会日の朝福田系・同志会の朝食会が行われた。私はその頃の光景を懐かしく思い浮かべた。当時は松沢さんが座長になって会議を進めたが、今はその位置に派閥の長でなく党の要、南波新幹事長が座って会議を進める。

 5月議会の課題や県政の重要問題が話し合われた。予定された議題が終わり、その他の項で、私は、地域生活者の立場から日本の改革を目指す組織、「せんたく」の中に、地方政府議員連合が出来たことを説明した。

 説明の要点を、議員連合の目的は議会改革にあることに重点を置いた。従来の自民党の方向と異質なものを感じている者もいるらしく全員に受け入れられる雰囲気ではなかった。確かに異質なものがある。しかし、それがなければ、時代の変化に対応した自民党の脱皮と発展は望めない。私は、落胆もしなかった。大きな問題だから、わずかな時間で受け入れられるほど簡単ではないのである。私は自分の信念に従って進むまでのことだ。この「日記」でも、少しずつ、説明を続けるつもりだ。

◇午前10時から本会議は始まった。議長席の人は中沢丈一氏である。先日の「日記」で、開会日に議長が選任されると書いたが、それは、私の勘違いで、選任は29日に行われる。

 新任者10人の紹介が行われ。初めに登壇したのは教育長の福島金夫氏である。2人の女性幹部の誕生が今回の大澤知事の人事の特色の一つである。生活文化部長の小川惠子氏、会計管理者の鈴木恵子氏である。鈴木さんは私が議長の時、秘書室長を務めた人である。

 会期は、5月27日から6月12日迄の17日間と決まった。この間に一般質問が行われ、委員会が開かれる。傍聴を希望される方のために日程の一覧表を次に上げる。

主な日程

529日(木)

委員の選任

66日(金)

常任委員会

  30日(金)

議案調査

  9日(月)

常任委員会

62日(月)

議案調査

  10日(火)

特別委員会

  3日(火)

一般質問

  11日(水)

調整日

  4()

一般質問

  12日(木)

委員長報告・表決・閉会

  5日(木)

議案調査

次に5月議会の議案を説明するために知事が登壇した。大沢知事は提案説明に先立って、四川大地震とミャンマーサイクロンの被害、日本人のブラジル移住100周年に触れた。知事は、被災者が一日も早く平安な生活を取り戻すことを願い、またブラジルに渡って苦労した人々に敬意を表した。提案説明の中には、緊急医師確保対策、県立女子大学に総合教養学科を設ける件、前橋市からの中核市指定の申出に同意する件などがあった。緊急医師対策とは、県が群大医学部に合格した者で県内公立病院に医師として勤務する意志がある者に月額15万円の修学資金を貸与するというもの。

◇不動産政治連盟の総会に自民党議員が10名位出席、私が代表して挨拶した。「社会の変動が激しく格差が広がっている、中小企業、地域の商工業は社会を支える力である、中国の大地震で建物が簡単に崩れた事は、不動産に関わる仕事の大切さを教えている、混乱の時だからこそ仲間が力を合わせることが大切だ」。こんな内容の挨拶をした。(読者に感謝)

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2008年5月27日 (火)

「長崎市長射殺犯に死刑判決の意味」

◇長崎市長殺害の被告に長崎地裁は死刑を言い渡した。従来の死刑判決は複数を殺し、情状酌量の余地がない場合に下されるのが判例であった。今回は被害者が一人なのに死刑判決が下された。これは異例なケースである。その主な理由は、選挙期間中の候補者を銃で殺したことが民主主義の根幹を脅かす例のない選挙テロというべき凶悪事件であり、また、行政を対象とした凶悪な暴力事件であるという点にある。

 昨年4月伊藤長崎市長は選挙運動中選挙事務所のそばで撃たれた。犯人は暴力団幹部だった。長崎市では、18年前にも市長が右翼の男に銃撃された。また、平成6年には自民党の元幹事長加藤紘一氏の山形県の実家と事務所が右翼構成員によって放火された。長崎市長が射殺されたs昨年は、清水聖義太田市長の自宅にもトラック2台が突っ込み、清水氏が「言論封殺のやり方としては最悪だ」と述べた事件も記憶に新しい。これらは政治家に対する攻撃であるが、行政に対する暴力団による不当要求行為も増大している。病める日本の社会を辛うじて支える大切な柱が自由主義と民主主義である。政治や行政に対して増大する不当な攻撃は、この柱に白アリが増殖するようなもので放置すれば日本が崩壊する。このような社会状況の下で、注目されていた今回の事件に対して長崎地裁は、死刑判決を下した。政治家の周辺に動く暴力団の影に私たちは注目すべきだと思う。

◇東京都町田市の都営住宅に暴力団が立てこもった事件は昨年4月に起きた。暴力団組員が公営住宅に入居することを制限する群馬県の改正条例は昨年6月の議会で成立した。これは県条例としては広島、福岡に次いで3番目であったが、県議会が自ら発議したものとしては全国で始めての事であった。これは、県議会が暴力団に対して毅然とした態度を示したものであり、県民の生活の安全を守ることと共に、暴力団から群馬の民主主義を守るのだという決意を示した点に意義があるのである。◇かつて私が塾で教えたK君は書店を2つ経営していたが、事情があって、その一つを閉じることになった。彼との間には長い付き合いがあり、いろいろな思い出がある。Kの環境は必ずしも良くなかったが、頭が良く友だちに好かれる性格であった。私も側面から手伝って始められた書店は、順調に見えたが、人生の試練が彼を見舞った。若い頃逆境を生きて根性もしっかりしたKだが相当神経にこたえたようだ。そんなKを奥さんがよく支えている。「好きな本を持っていって下さい」Kから電話があり、私は沢山の漫画を頂いた。ちばてつや、水島新司、ジョージ秋山、どおくまん など。私は漫画の大のファンなのだ。奥さんが黙々と段ボールに本を詰めている。「今の若い人はこういう時、別れちゃうのに」と声をかけると「アキラ(仮称)がまだ大変だから」と顔を向けた。笑顔がさわやかだった。夫婦の絆(きずな)は強まるだろうと思った。(読者に感謝)

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2008年5月26日 (月)

「結婚式の今昔・よく笑う花嫁」

◇ある機械組合の総会に出た(23日)。中小企業の悲鳴が聞こえる総会だった。世界の経済の狂ったような流れの先が総会の広間にも達していることを肌で感じた。理事長は原材料の異常な値上がりに対して、製品の値を上げることは難しいので中小企業は本当に苦しいと語っていた。何人かの経営者と話したが皆同様の苦しみを抱いていた。

 原油の値上がりが止まらない。このことと連動して代替エネルギー・バイオ燃料の原料となるトウモロコシなどの栽培が増加する一方、食料や飼料の栽培面積が減少しそれらの価格が高騰している。食料については世界中で食料危機が叫ばれ、バイオ燃料の流れを見直すべきだという声がおきている。このような事が話題になった。また、鉄材などは不足して何ヶ月先まで入手が困難だとこぼす事業主もいた。

 私は挨拶の中で、昨年の訪中の体験に触れ世界の市場が一体化していることが、これらの経済の状況を加速しているという感想を述べた。中国、ロシア、東欧など、かつて、社会主義の国は壁の向こうにあって別の市場を作っていたが今や市場は一体となっている。そして新興国、発展途上国では建設ラッシュが進み車が洪水のように走っている。だから原油が値上がりし、鉄が不足し、バイオ燃料用の作物が食料作物を押しのけ食料が高騰しているのだ。

◇来月は各国首脳が集って食料サミットが開かれる。途上国の食料危材が深刻なのだ。現在行われているトウモロコシなどのバイオ燃料の大量生産を見直すべきだという議論が盛んに起きていることには不思議な気もする。バイオ燃料の増大は温暖化防止のために必要だからである。食料の問題と結びついているから問題を難しくしている。

このような世界の食料状況の中で、国連では、新しい価値観が生まれつつあることに注目する。それは、誰もが安全で栄養のある食料にありつける食料の権利を不可欠な人権と把える考えである。食料の危機は途上国だけの問題ではない。地球の人々は現在60億人だがやがて百億に近づく。地球が養える人口は80億人ともいわれる。日本の農業・群馬の農業をこの観点から立て直さねばならない。

◇友人の息子さんの結婚披露宴にでた。二人のカップルの名前には両方に“ちあき ちひろ”と「千」の字がつく。「これも不思議な縁を示すものです。縁とは目に見えない不思議な力です。それを確かなものにするための努力が必要です」と私は挨拶の中で述べた。花嫁さんは終始笑顔である。この人の素顔が笑顔なのだと感じられた。仲人はいない。これが今の若者たちの流れだという。私もずい分仲人をやったが最近は頼まれる事がほとんどなくなった。形にこだわることは必要ないが結婚式を軽く見ている事と関係があるのか。今時の若者は縁を確かめる間もなく別れてしまう。花嫁の笑顔がくもることがないように祈った。「金らんどんすの帯締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という歌の文句を思った。昔の嫁さんは決死の覚悟だったのだ。(読者に感謝)

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2008年5月25日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(110)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

4 忍耐の限界をこえて事件は起こった  昭和30年の秋に入るころ、この状態は一層進み、病人が多発するようになった。これに対し収容所側は、何ら適切な対応をしない。  ソ連の原則は、「政治がすべてに優先する」である。人の生命にかかわる医療のことも例外ではない。政策で入院患者は全体の2パーセント以内というようなことが行われ、それを超えることになれば、入院することも許されない。仕事を休むことも認められない。  資料によれば、昭和30年11月26日、収容所側は、政治部将校の立会いの下で、営内の軽作業に従事していた病弱者26人を営外作業に適するとして無理に作業に出した。11月の末といえば、零下20度、30度というシベリアの酷寒である。病弱者には、外の作業は生命にかかわる。病状は悪化して営内にたどり着くや倒れる者が何人も出た。それにもかかわらず、12月15日になって、ソ連の将校たちは、さらに病弱で営内に居る別のグループに検査を実施して、外の作業に適するとして、新たに65人の者に、営外作業を命じた。必死の嘆願も耳を貸してもらえない。これらの人々の病状は悪化し、血圧は170、180以上になる者が多くなり、中には、200を越す者も出る始末で、寒風の吹きすさぶなか、病弱者は、あるものは友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、ある者は空虚をつかむ幽霊のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張った。あらゆる嘆願運動は効果がなかった。囚人は、作業休を認められないかぎりいかなる状態でも休むことは許されない。休めば、非合法のサボタージュとみなされる。  急きょ、班長会議が開かれた。 「このままでは皆死んでしまうぞ」 一人の班長が悲痛な声をあげた。 「そうだ。収容所側は、これからも、このような仕事の命令を繰り返すに違いない。そうすれば、病弱の者はこの冬に殺される。そして、現在健康な者もやられてしまう」  別の班長が思い詰めたように言った。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月24日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(109)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

骨のずいまで、天皇制と軍国主義を叩き込まれた人々が、収容所では、上から、にわか作りの「民主主義」と称するものを強いられたのである。そこで、帰国したい一心で、形だけの、そでして上辺だけの「民主主義者」が生まれていった。このことは、別に、シベリアの「民主運動」で取り上げた。

日本は敗戦後、連合国の支配下に入り、マッカーサー元帥の下で占領政策が行われていたが、やがて、交戦した諸国と講和条約を結んで独立を達成する時がきた。

昭和26年、日本はアメリカを中心とする自由主義の諸国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだ。翌年、条約は発効し、日本は独立国となる。

この条約締結については、国内世論は二つに分かれて争った。自由主義陣営だけでなく、ソ連などの社会主義陣営も加えた全面講和を結ぶべしとするのが、政府に反対する立場であった。この問題は、ソ連で抑留されている日本人の運命にもかかわっていた。ソ連も含めて平和条約を結べば、日本人はすぐに帰国を許されることが考えられるからである。昭和27年に、日本人として初めてハバロフスクの収容所を訪れた参議院の高良とみは、海外抑留者の引き上げ促進の運動にかかわっていたので、少しでも早く日本人をシベリアから帰国させるために、ソ連を含めた前面講和を強く主張していた。

当時の世界情勢は、米ソの対立という冷戦状態の中にあった。そして、吉田政権は、現実的な選択として、アメリカを中心とした自由主義陣営と講和を結ぶべく、サンフランシスコ平和条約の締結に踏み切ったのである。

このような大きな政治の流れの中で、シベリアの日本人抑留者は取り残された状態に置かれていた。わずかに情報を得ていたハバロフスクの収容所の日本人が、高良とみに、政府は自分たちの帰国を考えてくれるのかと訴えたのも無理はない。

このような情勢の中でも、次のような動きがあった。

先に触れた昭和27年参議院議員高良とみのハバロフスク収容所訪問

昭和28年、日本人をシベリア強制労働に駆り立てた最高責任者、スターリンの死

 昭和30年9月、社会党議員団のハバロフスク収容所訪問

 昭和30年、鳩山内閣が誕生し、日ソ交渉が始まる。(昭和30年から31年にかけて)

このような世界の流れの中で、ハバロフスクの強制収容所では、人々の忍耐が限界に達しつつあった。特に深刻なことは日本人の健康状態の悪化であった。☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月23日 (金)

「自民党の役員選考会の今昔、22日」

◇かつて、福田派、中曽根派の対立があったころは、役員の主要ポストをめぐって両派ゆずらず話し合いは深夜に及ぶこともあった。そして、両派が常に最もこだわるのは幹事長のポストであった。しかし、二つの派閥は解消し、役員選考に関してかつてのような緊張感はない。金子泰造前幹事長が誕生した時は、複数の幹事長候補が立って選挙が行われたために異例の緊張感が生まれたが今回はそのような状況も存在しない。

 先ず、例年の通り、幹事長の選考が行われた。選考には、二人の県連副会長、田島県議と私が当たった。22日の午前10時が立候補の締め切りとなっており、立候補者は南波和憲氏一人であったので、その事を確認し田島氏から議員団に発表がなされ満場一致の賛成で新幹事長が誕生した。南波氏は、これまで幹事長代行であった。それは、金子泰造氏が市長選に出馬したために幹事長のポストが空白となったため次に正式に幹事長が決まるまでの間代行職がおかれたことによる。

 幹事長誕生後は、その他のポスト選任のための選考委員会が設けられた。田島氏を委員長とし、総勢13人の委員が決まる。党三役は、新幹事長が中心となって事が進み、総務会長は金子一郎氏、政調会長は久保田順一郎氏、県議団長は須藤昭男氏と決まった。

 今回、選考委員会が一番苦しんだのが議長候補の選任であった。対象者は、原、関根、腰塚の三氏にしぼられていたがなかなか結論が出ない。三氏を一人ずつ読んで県政に対する抱負を聞き、選考委員各氏の三氏に関する意見が出され、選考委員会は、それらを踏まえて結論を出すよう、田島、南波、私に一任した。私たちは、選考委員会に出された全てを総合的に検討し熟慮を重ねた結果、腰塚誠氏を選ぶことにし、中断していた県議団総会を再開して発表し全員の承認を得た。ここに、自民党の議長候補者は腰塚氏と決まった。議長は、今月27日に開かれる議会で、選任されるが、自民党が多数なので腰塚氏が議長に選ばれることは確実である。私が79代・大沢氏(現知事)が80代・中沢氏(現議長)が81代・腰塚氏は第82代の議長になる。なお、副議長候補には3期の小野里光敏氏が決まった。この日は、監査委員候補、その他の議会の役員候補等が決められた。選挙対策部長には私が就いた。今年は、いつ衆院選があるか分からないのである。

◇自民党の役員や議長の動向は県政に重大な影響を与え、県民の利害に大きく関わる。私が幹事を務める地方政府議員連合では先日の会議で、役員選考を公開している県があるという話が出た。議会改革の重要なポイントは議会の動きが外から分かるようにすることだ。GTVによる本会議の中継もそのためのもの。役員選考過程がオープンになる日が将来くるかも知れない。

◇役員選考終了後、私は日中議連会長として中国大地震への義援金をお願いし、各議員が一人3千円を拠出することが承認された。毒ギョウザの事もあり中国には複雑な感情を抱く人もいるが、隣人の不幸を見過ごせない。中国との長い歴史を振り返る。10月には大学提携の調印のため訪中する。(読者に感謝)

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2008年5月22日 (木)

「地方政府議員連合の設立に参加」(21日)

◇21世紀臨調を母体とする組織・「せんたく」内に地方政府議員連合が成立した。「せんたく」の代表は元三重県知事で早稲田大学教授の北川正恭氏である。私は、北川氏の推薦を受けて先月の発足準備会に参加し、この準備会に於いて議員連合の幹事になることが決められた。

 21日の会議は先月の準備会と同じくANAインターコンチネンタルホテル東京で行われた。会議は北川正恭氏が座長役になってテキパキと進められた。スピーディに行われる議事を的確に整理しサポートする有能な事務局員は、21世紀臨調事務局長の前田和敬氏である。

 今後の日本の政治、特に地方の政治に影響を与えると思われる「せんたく」及び「地方政府議員連合」について要点を説明する。結論を先に書くと次のようだ。「せんたく」の目的は政治改革であり、政治改革の中で地方議会の改革が特に重要だということで、「地方政府議員連合」がつくられた。

 「せんたく」は「選択」と「洗濯」によって政治改革を実現しようとする。先ず、「選択」とは次のようなことである。真の民主主義を実現するためには、国民に判断させること、つまり政策を提示して国民に選択させることが必要だ。そして、選択の手段としてマニフェストを考える。マニフェストは、「せんたく」が打ち出す重要な戦略である。次に「洗濯」とは、生活者の立場から政治のあり方を洗いなおすことで、これが洗濯である。北川氏は、坂本竜馬の姉がこの国を一度洗濯しなければといった事を引き合いに出していた。「せんたく」は、国民に政策を選択させ、国民の起点で政治を洗濯させることによって、政治改革を実現しようとする。そして、洗いなおそうとする政治とは中央中心の政治の在り方である。それを改めて誇りある地方を作らねばならないと考える。そのために、地方政府議員連合をつくり上げたのである。代表には三重県議長の岩名英樹氏が決まった。

◇現職の裁判官がストーカー行為で逮捕された。匿名のメールを十数回送ったという。恋愛感情をうまく伝えられなかったのかと同情の気持ちも動くが、法律の専門家で人を裁く立場の者かと驚いてしまう。被害女性が告訴したために警察が逮捕に動いた。現職裁判官の逮捕により、「裁判官だって」という声が起こり社会の規範意識がまたゆるむだろう。

◇一年後に裁判員制度が始まる。司法に国民の声をというが、一般の国民が正しい判断を出来るのかと多くの人々は不安を抱いている。裁判員制度で一番問題になることは死刑である。冤罪に関わる恐怖がある。もう一つの選択肢、終身刑を設けよという動きが高まっている。

◇四川大地震では多くの校舎が倒れ生徒が死んだ。手抜き工事だという怒りが爆発している。昨年北京を見て雲に届くようなビル群を見た。急ピッチ、鉄鋼の不足、ワイロの横行などを考えると、あの建設ラッシュの陰に手抜きがあることを考えてしまう。オリンピックは大丈夫か。日本の大地震も近い。他人事ではない。(読者に感謝)

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2008年5月21日 (水)

「第2回特別委員会は4時間に及んだ」

◇高木建設関連の土地など県有地の取得・処分を検討する特別委員会である。元総社の用地についての議論の中からいくつかを紹介する。私もこの用地について質問した。

 安中線の北、染谷川を挟んだ地域で、上には154千ボルトの高圧線が走る、高木建設が地域住民から取得して平成6年に県に売却。県は県営住宅を建てる目的で取得したが、一年後に建物をつくらないことに決定、土地は今日まで未利用のままである。高木元県議の関与があったと参考人の証言があった。これが、これまで明らかにされた中の主な点である。

 県の損害はどの位かということが、この日問われた、担当官は108千万円余りで買ったものが、現在53千万円余りに下落していると答えた。これまでに、かかった経費は3億円を超えるといわれ、これまでにも、損害は10億円に達するだろうという委員の発言もあった。

 15万ボルトを越す高圧線の下の土地は評価が低くなる筈なのにほとんど問題にせず高く買ったことが追求された。高圧線の下は重大な健康被害が生ずる恐れがあることを私は前回の委員会で指摘した。高圧線の下は一般に減価率が問題になる。このことに関して、私は関東地方整備局や東京都に問い合わせて調べた。東京都では、農地や林地でも線下の減価率を15%~20%としているのに、本県が依頼した会社による鑑定では減価率を1%として評価し、当時の県は高圧線下は駐車場にするからといって問題にしなかった。その後、県関係者は、他の県有地取得につき高圧線の下だから半額にして欲しいと発言していることが、この日提出された資料から分かった。

 大澤知事は、一連の疑惑につき、これ迄に「過去をしっかり検証しなければ次につなげることが出来ない、買ってすぐに目的を変えてしまうようでは県民の信頼が得られない」と発言した。その通りである。10年以上も過去のことであるが、このような事態が発生したことにつき、私を含め議会は反省しなければならないと思う。それは、チェック機能を果たすことができなかった点である。地方議会は役割を果たしていないという批判を謙虚に受け止めなければならない。そういう反省を活かす意味でも、特別委員会は頑張らねばならない。次回の特別委員会は64日である。なお、今回の特別委員会には珍しく数人の傍聴者があった。県民の関心の高さを示すものであろう。

◇今月の「ふるさと塾」はダライ・ラマになった。平均の海抜3700m、ヨーロッパとほぼ同面積、高い山脈と高原に囲まれ、閉ざされた秘境の国チベット。今、チベットは、にわかに世界の注目を集めている。チベット人弾圧に対する世界の抗議は北京五輪の行方と結びついている。そこへ四川大地震が起きた。多くのチベット人が住む地域である。亡命したダライ・ラマは観世音菩薩の化身とされる。大地震は中国を揺り動かし大きく変えようとしている。チベットの真実にラマを通して迫りたい。(531日、市総合福祉会館)。(読者に感謝)

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2008年5月20日 (火)

「友人Kさんの葬儀は辛かった。(19日)」

◇Kさんは職人であった。中学を出て左官の道を歩んだ。司会者が「京塗りの腕は前橋一だった」と語ったが、自分の仕事に誇りをもっていた。私の熱心な支援者であったが、それも私と気持ちが通じ合っていたからだと思う。豪快な性格で、臨月のような腹を抱え、酒が好きだった。62歳で大腸ガンに破れた。病気でもないのに、健康診断を受けるという細やかな神経を持っていなかったと思われる。なぜ、忠告してやらなかったかと悔やまれる。今日、大腸ガンや胃ガンで命を落とすのは本人の油断である。早期に発見すれば完璧に治るのである。喪主である長男が「時々お父さんの事を思い出してやって下さい」といい挨拶をしていた。弔辞に立った友人が「あにいよく飲んだなぁ」と在りし日を振り返っていた。見舞いにいけなかったことが残念だ。「あっちゃん、ありがとう」私は丸い顔の遺影に手を合わせて別れを告げた。

◇先日、「日記」で常習的性犯罪者につき、自民党内には、出所後もGPSの端末をつけさせ24時間監視する制度を設けるべきという議論があることを書いたら現状はどうなっているかと質問された。

 13歳未満の児童が性犯罪の被害者になった場合、その加害者を、服役後も所在を把握することを警察庁の通達に基づいて行っている。本県も若干名存在するらしい。

 性犯罪は繰り返される傾向がある。罪のない子どもを守らねばならない。しかし、受刑者の人権と社会復帰も考えねばならない。子どもの保護のために性犯罪を犯した者の人権はある程度制約されても止むを得ないが、アメリカで行われているようなGPS装着には議論があるのである。

◇大久保清の事件記録を読んで慄然(りつぜん)とした。昭和46年、日本中を騒がせた犯罪史上例を見ない異常な犯罪で、常習的性犯罪者の特異性という事を考えてしまう。

 大久保清は、20歳の時最初の強姦事件を起こしこの時は初犯ということで執行猶予となるが判決の一ヵ月後再び強姦未遂を犯し松本刑務所で服役し、ここを出所後も強姦を繰り返し次は府中刑務所で服役した。ここを仮出所してから70日余りの間に8人を強姦して殺した。記録によれば、千人の女性に声をかけ35人を連れ込みそのうち10数人を犯した。8人の中には、3人の高校生と県庁の臨時職員もいた。記録には前橋市内の名曲喫茶「田園」の名、高崎市の八幡工業団地造成用地の名が出てくる。大久保は被害者の兄が呼びかけた民間人の捜索隊によってつかまった。まれに見る特異な事件だが、出所後の大久保を把握していれば、犠牲者を少なくできたと考えてしまう。大久保は昭和48年前橋地裁で死刑判決を受け、昭和51年東京拘置所で執行された。41歳だった。執行の当日、いきなり執行を告げられると腰を抜かし失禁し一歩も歩けず、警務官に両脇を支えられひきずられて踏み板に立たされた。首にロープがかけられ、踏み板が開き落下したという。陰惨で気持ちの悪くなる出来事であった。(読者に感謝)

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2008年5月19日 (月)

「大地震で期待される中国の変化」

◇四川大地震を機に中国の社会が大きく変化すると思う。チベット問題と結びついているために間近に迫った北京五輪には、いつものオリンピック以上に世界の注目が集っていた。そのような中で今回の大地震が起きた。この地震にどのように向き合うか、国民をいかに救済できるかに全世界の目が注がれる。しかも、32年前の史上最大といわれた唐山地震の時と比べ、中国は世界の仲間入りをし電波やインターネットで中国の現状が瞬時に全世界に届く時代である。災害の取り組みが五輪の成否に直結すると政府は考えているに違いない。世界の目を意識して中国は国を挙げて生き埋めの人々の救済に当たっていると思われる。

 124時間ぶりに救助された人のことやタバコの葉を食べ尿を飲んで命をつないだ人の話が報じられる。72時間が一つのリミットとされるが、様々な条件によって生存は左右されるから、まだまだ地底では多くの人が生きているに違いない。それにしても、地震発生直後に全世界が力を合わせれば数千人の命を救えたのではないかと思ってしまう。

 中国は報道の自由が大きく制約される国であるが、今回は、テレビや新聞があまり検閲を受けずに報じていると伝えられる。その事が政府に対する国民の信頼を生んでいるらしい。中国各地で空前の献血、募金運動が起きている。そして被災地には全国からボランティアが続々と集っているという。拝金主義といわれた中国人の心に変化が起きているのだと思う。

 私は、平成7年の阪神大震災を思い出す。この時、若者を中心としたボランティアが全国から集った。その数は一年間にのべ120万人にのぼった。この動きは、市民運動に対する政府の見方を変え、NPO法案がつくられるきっかけとなり、世の中が多きく変化する要因となった。中国でも、今回の国民の動きは中国社会を大きく変える一因になるかも知れない。

◇今回の大地震の惨状を見て、中国は過去の大地震を教訓として活かさなかったと思う。

それは32年前の唐山地震である。公式には24万人が死んだといわれるが、当時の中国は、国際社会に対して今程オープンではなかったから、実際は60万人以上の死者が出たといわれる。毛沢東の文化大革命の真っ只中であった。外国の援助を拒否した事が被害を大きくしたといわれる。それ以来、耐震建築も地方では進めなかった。

◇大腸の内視鏡検査をした(17日)。下剤を溶かした2リットルの水を飲むのは中々大変。飲み終ってしばらくするとは排便が始まる。7回続いたが最後は透明な水であった。肛門からカメラが入る。目の前の画面に赤い肉の洞窟が写し出され、奥へ奥へと進む。「S字結腸です」といわれるあたりは、苦痛で、腹の上に置かれた看護婦の手を思わず握りしめる。順調のスピードだそうで約45分で終わった。2年前に小さなポリープがあった筈であるが、消えていた。医師はそれを確認するために、主要部を2度見たのである。中国の被害者を思えば極く小さな苦痛だと思って耐えた。(読者に感謝)

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2008年5月18日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(108)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

平成20年5月18日(日)シベリア強制抑留『望郷の叫び』(108)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実 この事件は昭和30年6月のことで、ハバロフスク事件はこの数ヶ月後、同年12月に起きる。きわだって従順と言われた日本人抑留者であったが、このような突発的な反抗は、各地の収容所であったらしい。 三 日本と世界の情勢はどうであったか 昭和20年8月の敗戦後、日本国内では新憲法の下、瓦礫の中からの復興が進んでいた。生活は苦しくも家族の絆は強く、人々は逞しく真剣に生きていた。私の家族が前橋市から移って、勢多郡宮城村の奥地で開墾生活に入ったのは、この昭和20年の秋、私が5歳のときであった。食料が不足して、毎日、さつま芋、大根、野性のウリッパなどを食べたことが今でも生々しく記憶に残っている。今にして思えば、このころソ連も、戦後の物資が非常に乏しい状況にあった。ソ連はドイツとの激しい戦争によって疲弊し、食糧事情も悪く、シベリアの収容所にも十分な食べ物が供給されなかった。このことが収容所の日本人の胃袋を一層苦しめたものと思われる。昭和22年、私は宮城村の鼻毛石の小学校に入学する。前年に発布された日本国憲法がこの年施行され、民主主義の波が全国をおおっていた。私が手にした教科書は、それまでのものとは一変し、ひらがなが初めて使われ、内容も民主主義に基づいたものであった。  おはなをかざる  みんないいこ。  きれいなことば  みんないいこ。  なかよしこよし  みんないいこ。教科書の最初は、この詩で始まった。私たちはこのように、教科書の1ページから民主主義を教えられ、また、社会のあらゆるところで、民主主義の芽は育ちつつあったが、ソ連に抑留されていた人々は、このような日本の動きは知らなかったであろう。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月17日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(107)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事

ソ連側の基本的な考えは、日本人は憎むべき戦犯である。だから従順な日本人を徹底的に酷使する、ということであった。

事件は突発的に起きたのではなかった。このような状況が進む中で、不満は人々の心にうっ積し、過酷な環境は人々をのっぴきならないところまで追いつめていた。それを物語る出来事が、ハバロフスク事件の前に起きた。

監督官の不当な圧迫が繰り返されていた。特に、監督官・保安将校ミーシン少佐は、日本人から蛇蠍(だかつ)のごとく嫌われていた。ある時、彼は零下30度の身を切るような寒さの中、日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨に濡れた衣服を乾燥するために焚き火をすると、これを踏み消して作業を強制した。あまりのことに抗議した班長を営倉処分にしたのである。

一人の青年がこの理不尽な監督官の扱いに対して、ついに堪忍袋の緒を切って抵抗した。青年は斧で障害を加えたのである。監督は倒れ、その場に居たソ連人は逃げた。大変なことであった。我にかえった青年は、とっさに近くの起重機にのぼり自殺を図る。

起重機の上に立った青年は、腰に巻いた白い布を取って、自らの血で日の丸を描き、それを握りしめて、「海行かば水漬屍(みずくかばね)、山行かば草生す屍」と歌って飛び降りようとする。仲間が駆け上がり必死に止め、こんこんと説得し、青年は自殺を思いとどまった。青年は斧の刃でなく峰の部分で打ったことから分かるように殺意はなかったが、「公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂」として、すでに科されていた25年の刑に加えて、10年の禁固刑を科され、別の監獄に入れられた。

 なお、山崎豊子の小説『不毛地帯』の中では、この事件をモデルにした部分が描かれている。そこでは、青年は、腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切り、その血で日の丸を染め、起重機に縛りつけると、「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌を聞いてください」と言い、直立不動の姿勢で、‘海行かば”の歌を歌う。死に臨んで歌う声が朗々として空を震わせる。歌い終わると身を翻して20メートル下の地上に飛び降りて死ぬ、という構成になっているが、事実は、歌を歌い終わった後、死を思い止めたのであった。

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2008年5月16日 (金)

「国会議員との合同会議」(15日)

P1010012_2 ◇国会議員、県会議員の合同会議があった。

自民党県連の最高会議である。朝7時半高崎駅の駅ビル・メトロポリタンで行われた。国会の会議がある議員もこの時間、この場所なら集ることが可能である。福田首相を除く自民党の衆参議員全員が出席した。会議の最大の目的は県連役員の決定である。県連会長には笹川堯さんの続投が満場一致で決まり、幹事長以下は県会議員の中から選出することが決定された。この会議は約30分で終わり国会議員は退席した。引き続き県会議員の常任役員会が開かれ、幹事長の選出方法等が協議された幹事長は、今月22日に選ばれる。

◇日中議連の役員会が開かれた(15日)。この議員連盟は、自民党県議の大部分が参加して中国問題を研究する団体で私が会長を務める。この議連が進める事業の一つに大連外語学院と県立女子大との提携がある。県会議員が中心となって検討してきたが、調印するところまでこぎつけた。役員会では10月15日から17日にかけて訪中することが話し合われた。また、この役員会で、中国の大地震に対してお見舞いの言葉と見舞い金を送ることが話し合われ、南波幹事長代行に私から説明し