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2008年5月31日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(111)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

他の班長も一様にうなずいた。では、どうしたらよいのか。収容所側にいくら懇願しても、誠意のある対応が期待できないことは明白である。では、このまま自滅を待つのか。話を進めるうちに、班長たちの眼光は殺気を帯びるほど鋭くなった。

「自滅するより闘おう。座して死を待つのは日本人としての恥だ」

 一人の班長が押し殺した声で言った。

「同感だが、どのように戦うのだ」

「いや、闘うなら勝つ戦いをしなければならぬ。さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」

「まず作業拒否だ」

「そうだそうだ」

いろいろな意見が交わされた。そして重大なことだから、各班で話しあって、その結果を踏まえて結論を出そうということになった。

12月の19日を迎えた。各班の結論は、作業拒否で戦うということであった。これで全体の方針が決まった。そこで、代表を決め固い組織をつくって、死を覚悟の交渉をやろうということになった。班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎であった。

石田は要請を受けたとき、作業拒否を実行する班はどの班かと聞いた。班長会議の面々は、浅原グループを除く全部だと答えた。浅原とは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー浅原正基のことである。

作業拒否闘争の代表になることは死を覚悟しなければならない大変なことであるが、石田三郎は人々の熱意に動かされ決意した。石田は人々の前に立って言った。

「この闘いでは、犠牲者が出ることは覚悟しなければなりません。少なくとも代表たるものには責任を問われる覚悟がいる。私には、親もない、妻もない。ただ、祖国に対する熱い思いと丈夫な身体をもっています。私に代表をやれというなら、命をかけてやる決意です。皆さん、始める以上は力を合わせて、最後まで闘い抜きましょう」

瀬下龍三は、石田三郎のことを振り返って、あの環境で指導者となったのは、友のため人のためという強い信念の持ち主だったからこそで、普通の人のできることではなかった。事件の間、大局を誤らないよう折々私と意見を交わしたが、状況判断、対策など的確な戦略と強い指導力を見せたと語っている。

☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月30日 (金)

「金子泰造さんの急逝」

◇早朝(30日)金子泰造さんの死を知って愕然とした。肺炎とは聞いていたが、このような結果になるとは思わなかった。今朝、午前1時の出来ごとという。私とは、時々電話で話していて、28日も夜8時過ぎ電話の声はしっかりしていた。人間の運命は分からぬものだ。

 県議選の関係ではライバルだったが、知事選、市長選と力を合わせた。きちんとした理論を組み立てて話す剛直な人柄でプロの政治家であった。前橋市の明日を思う情熱には頭が下がる思いであった。金子氏の思いを今後の運動の中で、生かさねばならない。

「役員選任の議会の光景」

◇中沢議長が辞職願を出し、それが認められた。辞職の理由は一身上の都合ということ。この理由を使うのは慣例となっている。なぜこのような形をとるかといえば任期満了による退任でないからだ。地方自治法では、議長の任期は議員の任期によるとなっているから法律上は4年である。任期の途中で辞任するには議会の議決が必要なのだ。反対はなかった。一年毎に「一身上の都合」で辞任して次の議長を選ぶという慣例がいつの日か改められる日が来るかもしれない。真の議会改革のためには避けて通れない道だが現状は困難である。

 自民党の腰塚誠氏が第82代の議長に選ばれた。得票状況は腰塚氏46票、久保田務氏(民主党改革クラブ)2票、早川昌枝氏1票であった。議員の数は、金子泰造氏が市長選に出馬するため辞任したので現在49名で自民党は、32名である。従って、自民党が全員と他会派の人が12人腰塚氏に入れた事になる。自民党の票が全票入らなかった例も過去にはあったと記憶する。

 続いて副議長の選任が行われ、自民党の小野里光敏氏が当選した。小野里氏34票、塚越紀一氏(フォーラム群馬)12票、石川貴夫氏(民主党改革クラブ)2票、早川昌枝氏1票であった。

 正副議長の選任の後、各種委員会委員の選任等が行われた。委員会には常任委員会が6つ、特別委員会が4つあり、その他に、議会運営委員会と図書広報委員会がある。私は総務企画常任委員と行財政改革特別委員会、図書広報委員会に属することになった。

◇芳賀の金属団地の通常総会に出た(29日)。挨拶に立つ人が皆、資材の高騰、とくに原油の異常な値上がりに困っている状況を訴えていた。そしてある事業主は原油が投機の対象となりマネーゲームの中で高騰を続けていることに憤(いきどお)り、北海道のサミットでその対策を打ち出して欲しいと話していた。いま原油国には奔流(ほんりゅう)のように金が集められている。そして、その金を原油に投資しているといわれている。つまり、原油国が原油で得た金で原油を買って原油の値をつり上げている。このようなおかしなことが許されるのかというのかということである。(読者に感謝)

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2008年5月29日 (木)

「ジキル博士とハイド氏・現実の二重人格事件」

◇ジキル博士は高潔な人格の人、そしてハイドは残虐な殺人犯である。弁護士アタスンは2人が異常に親密であることを不思議に思い調査を始める。実はジキルとハイドは同一人物であった。ジキルが薬を飲むと性格も容貌も変わってしまう。最後はジキルに戻れなくなって悲惨な結果を迎える。「ジキル博士とハイド氏」は、イギリスの作家スチーブンソンの小説である。「ジキルとハイド」は二重人格の代名詞のように使われる。 ハイド氏が犯した殺人について、現代の法律で、ジキルにその責任を問えるかといえば、それは明らかに問える筈である。なぜなら、ジキルが自ら薬を飲むことによって別人格になったからだ。では、薬ではなく、全く不可抗力の原因によってジキルがハイドになってしまったとしたらハイドの殺人行為についてジキルに責任を問えるか。このような事件が起きて、東京地裁は27日、判決を下したのだ。

◇二重人格は、解離性同一性障害と呼ぶらしい。人格の交代は突然起こり言葉つきや態度まで変わる。主人格は他の人格の記憶を持たないことが多いとされ、背景の1つに幼児期の虐待が指摘されている。

 事件は渋谷区の元予備校生が短大生の妹を殺し、遺体を切断した。社会に衝撃を与え、まだ記憶に新しい。罪名は殺人罪と死体損壊罪であるが、東京地裁は、死体損壊罪については無罪とした。(殺人の方は懲役7年)妹の死体を左右対称に15に分けて解体した。鑑定は、「損壊時は、別のどう猛な人格になっていた、本来の人格は別人格を認識していなかった」とし、裁判所はこれを支持し、死体損壊の点については、主たる人格の行為ではないとして無罪とした。夫を殺して死体をバラバラにした妻、三橋歌織被告に対しては懲役15年の判決が下された。この違いに驚くが人間の脳の奥深い神秘の所から流れる力がこの差異を生んだ。こんな事件に裁判員として当たったらえらいことになる。裁判員制度のスタートは一年後に迫った。二重人格と犯罪を扱った映画で懐かしいのはヒッチコックの「サイコ」である。目のくぼんだ細い長身の男優アンソニーパーキンスが、二重人格を演じた。サイコは、ラテン語で心を意味する。

私が中心の一人となっているボランティア団体グリーンサークルの役員会があった(28日)。環境美化活動などを行っている。7月の末頃、市の総合福祉会館で「不都合な真実」を上映することに決まった。10人程の役員で、CDを見た。アメリカのゴア元副大統領が地球の危機を訴えている。この映画では05年までの異常気象を扱っているが、その後の3年間で地球の危機は更に進んだことを感じる。映画はアメリカのハリケーンを取り上げているが、先日、ミャンマーを襲ったサイクロンも温暖化が原因で巨大化した怪物の一例だろう。映画では、氷河が後退し、ツンドラが溶け、湖が消滅する光景が展開する。氷が薄くなり白熊が溺れる場面も。アフリカの首脳が日本に集まっている。アフリカ大陸の発展は地球環境の変化を加速させるだろう。(読者に感謝)

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2008年5月28日 (水)

「5月議会が始まった。27日」

◇議会の開会日の朝は、いつも、7時半から群馬会館の地下食堂で自民党の朝食会が行われる。かつて福田系、中曽根系と呼ばれた両派があった時は、ここで開会日の朝福田系・同志会の朝食会が行われた。私はその頃の光景を懐かしく思い浮かべた。当時は松沢さんが座長になって会議を進めたが、今はその位置に派閥の長でなく党の要、南波新幹事長が座って会議を進める。

 5月議会の課題や県政の重要問題が話し合われた。予定された議題が終わり、その他の項で、私は、地域生活者の立場から日本の改革を目指す組織、「せんたく」の中に、地方政府議員連合が出来たことを説明した。

 説明の要点を、議員連合の目的は議会改革にあることに重点を置いた。従来の自民党の方向と異質なものを感じている者もいるらしく全員に受け入れられる雰囲気ではなかった。確かに異質なものがある。しかし、それがなければ、時代の変化に対応した自民党の脱皮と発展は望めない。私は、落胆もしなかった。大きな問題だから、わずかな時間で受け入れられるほど簡単ではないのである。私は自分の信念に従って進むまでのことだ。この「日記」でも、少しずつ、説明を続けるつもりだ。

◇午前10時から本会議は始まった。議長席の人は中沢丈一氏である。先日の「日記」で、開会日に議長が選任されると書いたが、それは、私の勘違いで、選任は29日に行われる。

 新任者10人の紹介が行われ。初めに登壇したのは教育長の福島金夫氏である。2人の女性幹部の誕生が今回の大澤知事の人事の特色の一つである。生活文化部長の小川惠子氏、会計管理者の鈴木恵子氏である。鈴木さんは私が議長の時、秘書室長を務めた人である。

 会期は、5月27日から6月12日迄の17日間と決まった。この間に一般質問が行われ、委員会が開かれる。傍聴を希望される方のために日程の一覧表を次に上げる。

主な日程

529日(木)

委員の選任

66日(金)

常任委員会

  30日(金)

議案調査

  9日(月)

常任委員会

62日(月)

議案調査

  10日(火)

特別委員会

  3日(火)

一般質問

  11日(水)

調整日

  4()

一般質問

  12日(木)

委員長報告・表決・閉会

  5日(木)

議案調査

次に5月議会の議案を説明するために知事が登壇した。大沢知事は提案説明に先立って、四川大地震とミャンマーサイクロンの被害、日本人のブラジル移住100周年に触れた。知事は、被災者が一日も早く平安な生活を取り戻すことを願い、またブラジルに渡って苦労した人々に敬意を表した。提案説明の中には、緊急医師確保対策、県立女子大学に総合教養学科を設ける件、前橋市からの中核市指定の申出に同意する件などがあった。緊急医師対策とは、県が群大医学部に合格した者で県内公立病院に医師として勤務する意志がある者に月額15万円の修学資金を貸与するというもの。

◇不動産政治連盟の総会に自民党議員が10名位出席、私が代表して挨拶した。「社会の変動が激しく格差が広がっている、中小企業、地域の商工業は社会を支える力である、中国の大地震で建物が簡単に崩れた事は、不動産に関わる仕事の大切さを教えている、混乱の時だからこそ仲間が力を合わせることが大切だ」。こんな内容の挨拶をした。(読者に感謝)

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2008年5月27日 (火)

「長崎市長射殺犯に死刑判決の意味」

◇長崎市長殺害の被告に長崎地裁は死刑を言い渡した。従来の死刑判決は複数を殺し、情状酌量の余地がない場合に下されるのが判例であった。今回は被害者が一人なのに死刑判決が下された。これは異例なケースである。その主な理由は、選挙期間中の候補者を銃で殺したことが民主主義の根幹を脅かす例のない選挙テロというべき凶悪事件であり、また、行政を対象とした凶悪な暴力事件であるという点にある。

 昨年4月伊藤長崎市長は選挙運動中選挙事務所のそばで撃たれた。犯人は暴力団幹部だった。長崎市では、18年前にも市長が右翼の男に銃撃された。また、平成6年には自民党の元幹事長加藤紘一氏の山形県の実家と事務所が右翼構成員によって放火された。長崎市長が射殺されたs昨年は、清水聖義太田市長の自宅にもトラック2台が突っ込み、清水氏が「言論封殺のやり方としては最悪だ」と述べた事件も記憶に新しい。これらは政治家に対する攻撃であるが、行政に対する暴力団による不当要求行為も増大している。病める日本の社会を辛うじて支える大切な柱が自由主義と民主主義である。政治や行政に対して増大する不当な攻撃は、この柱に白アリが増殖するようなもので放置すれば日本が崩壊する。このような社会状況の下で、注目されていた今回の事件に対して長崎地裁は、死刑判決を下した。政治家の周辺に動く暴力団の影に私たちは注目すべきだと思う。

◇東京都町田市の都営住宅に暴力団が立てこもった事件は昨年4月に起きた。暴力団組員が公営住宅に入居することを制限する群馬県の改正条例は昨年6月の議会で成立した。これは県条例としては広島、福岡に次いで3番目であったが、県議会が自ら発議したものとしては全国で始めての事であった。これは、県議会が暴力団に対して毅然とした態度を示したものであり、県民の生活の安全を守ることと共に、暴力団から群馬の民主主義を守るのだという決意を示した点に意義があるのである。◇かつて私が塾で教えたK君は書店を2つ経営していたが、事情があって、その一つを閉じることになった。彼との間には長い付き合いがあり、いろいろな思い出がある。Kの環境は必ずしも良くなかったが、頭が良く友だちに好かれる性格であった。私も側面から手伝って始められた書店は、順調に見えたが、人生の試練が彼を見舞った。若い頃逆境を生きて根性もしっかりしたKだが相当神経にこたえたようだ。そんなKを奥さんがよく支えている。「好きな本を持っていって下さい」Kから電話があり、私は沢山の漫画を頂いた。ちばてつや、水島新司、ジョージ秋山、どおくまん など。私は漫画の大のファンなのだ。奥さんが黙々と段ボールに本を詰めている。「今の若い人はこういう時、別れちゃうのに」と声をかけると「アキラ(仮称)がまだ大変だから」と顔を向けた。笑顔がさわやかだった。夫婦の絆(きずな)は強まるだろうと思った。(読者に感謝)

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2008年5月26日 (月)

「結婚式の今昔・よく笑う花嫁」

◇ある機械組合の総会に出た(23日)。中小企業の悲鳴が聞こえる総会だった。世界の経済の狂ったような流れの先が総会の広間にも達していることを肌で感じた。理事長は原材料の異常な値上がりに対して、製品の値を上げることは難しいので中小企業は本当に苦しいと語っていた。何人かの経営者と話したが皆同様の苦しみを抱いていた。

 原油の値上がりが止まらない。このことと連動して代替エネルギー・バイオ燃料の原料となるトウモロコシなどの栽培が増加する一方、食料や飼料の栽培面積が減少しそれらの価格が高騰している。食料については世界中で食料危機が叫ばれ、バイオ燃料の流れを見直すべきだという声がおきている。このような事が話題になった。また、鉄材などは不足して何ヶ月先まで入手が困難だとこぼす事業主もいた。

 私は挨拶の中で、昨年の訪中の体験に触れ世界の市場が一体化していることが、これらの経済の状況を加速しているという感想を述べた。中国、ロシア、東欧など、かつて、社会主義の国は壁の向こうにあって別の市場を作っていたが今や市場は一体となっている。そして新興国、発展途上国では建設ラッシュが進み車が洪水のように走っている。だから原油が値上がりし、鉄が不足し、バイオ燃料用の作物が食料作物を押しのけ食料が高騰しているのだ。

◇来月は各国首脳が集って食料サミットが開かれる。途上国の食料危材が深刻なのだ。現在行われているトウモロコシなどのバイオ燃料の大量生産を見直すべきだという議論が盛んに起きていることには不思議な気もする。バイオ燃料の増大は温暖化防止のために必要だからである。食料の問題と結びついているから問題を難しくしている。

このような世界の食料状況の中で、国連では、新しい価値観が生まれつつあることに注目する。それは、誰もが安全で栄養のある食料にありつける食料の権利を不可欠な人権と把える考えである。食料の危機は途上国だけの問題ではない。地球の人々は現在60億人だがやがて百億に近づく。地球が養える人口は80億人ともいわれる。日本の農業・群馬の農業をこの観点から立て直さねばならない。

◇友人の息子さんの結婚披露宴にでた。二人のカップルの名前には両方に“ちあき ちひろ”と「千」の字がつく。「これも不思議な縁を示すものです。縁とは目に見えない不思議な力です。それを確かなものにするための努力が必要です」と私は挨拶の中で述べた。花嫁さんは終始笑顔である。この人の素顔が笑顔なのだと感じられた。仲人はいない。これが今の若者たちの流れだという。私もずい分仲人をやったが最近は頼まれる事がほとんどなくなった。形にこだわることは必要ないが結婚式を軽く見ている事と関係があるのか。今時の若者は縁を確かめる間もなく別れてしまう。花嫁の笑顔がくもることがないように祈った。「金らんどんすの帯締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろう」という歌の文句を思った。昔の嫁さんは決死の覚悟だったのだ。(読者に感謝)

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2008年5月25日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(110)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

4 忍耐の限界をこえて事件は起こった  昭和30年の秋に入るころ、この状態は一層進み、病人が多発するようになった。これに対し収容所側は、何ら適切な対応をしない。  ソ連の原則は、「政治がすべてに優先する」である。人の生命にかかわる医療のことも例外ではない。政策で入院患者は全体の2パーセント以内というようなことが行われ、それを超えることになれば、入院することも許されない。仕事を休むことも認められない。  資料によれば、昭和30年11月26日、収容所側は、政治部将校の立会いの下で、営内の軽作業に従事していた病弱者26人を営外作業に適するとして無理に作業に出した。11月の末といえば、零下20度、30度というシベリアの酷寒である。病弱者には、外の作業は生命にかかわる。病状は悪化して営内にたどり着くや倒れる者が何人も出た。それにもかかわらず、12月15日になって、ソ連の将校たちは、さらに病弱で営内に居る別のグループに検査を実施して、外の作業に適するとして、新たに65人の者に、営外作業を命じた。必死の嘆願も耳を貸してもらえない。これらの人々の病状は悪化し、血圧は170、180以上になる者が多くなり、中には、200を越す者も出る始末で、寒風の吹きすさぶなか、病弱者は、あるものは友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、ある者は空虚をつかむ幽霊のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張った。あらゆる嘆願運動は効果がなかった。囚人は、作業休を認められないかぎりいかなる状態でも休むことは許されない。休めば、非合法のサボタージュとみなされる。  急きょ、班長会議が開かれた。 「このままでは皆死んでしまうぞ」 一人の班長が悲痛な声をあげた。 「そうだ。収容所側は、これからも、このような仕事の命令を繰り返すに違いない。そうすれば、病弱の者はこの冬に殺される。そして、現在健康な者もやられてしまう」  別の班長が思い詰めたように言った。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月24日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(109)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

骨のずいまで、天皇制と軍国主義を叩き込まれた人々が、収容所では、上から、にわか作りの「民主主義」と称するものを強いられたのである。そこで、帰国したい一心で、形だけの、そでして上辺だけの「民主主義者」が生まれていった。このことは、別に、シベリアの「民主運動」で取り上げた。

日本は敗戦後、連合国の支配下に入り、マッカーサー元帥の下で占領政策が行われていたが、やがて、交戦した諸国と講和条約を結んで独立を達成する時がきた。

昭和26年、日本はアメリカを中心とする自由主義の諸国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだ。翌年、条約は発効し、日本は独立国となる。

この条約締結については、国内世論は二つに分かれて争った。自由主義陣営だけでなく、ソ連などの社会主義陣営も加えた全面講和を結ぶべしとするのが、政府に反対する立場であった。この問題は、ソ連で抑留されている日本人の運命にもかかわっていた。ソ連も含めて平和条約を結べば、日本人はすぐに帰国を許されることが考えられるからである。昭和27年に、日本人として初めてハバロフスクの収容所を訪れた参議院の高良とみは、海外抑留者の引き上げ促進の運動にかかわっていたので、少しでも早く日本人をシベリアから帰国させるために、ソ連を含めた前面講和を強く主張していた。

当時の世界情勢は、米ソの対立という冷戦状態の中にあった。そして、吉田政権は、現実的な選択として、アメリカを中心とした自由主義陣営と講和を結ぶべく、サンフランシスコ平和条約の締結に踏み切ったのである。

このような大きな政治の流れの中で、シベリアの日本人抑留者は取り残された状態に置かれていた。わずかに情報を得ていたハバロフスクの収容所の日本人が、高良とみに、政府は自分たちの帰国を考えてくれるのかと訴えたのも無理はない。

このような情勢の中でも、次のような動きがあった。

先に触れた昭和27年参議院議員高良とみのハバロフスク収容所訪問

昭和28年、日本人をシベリア強制労働に駆り立てた最高責任者、スターリンの死

 昭和30年9月、社会党議員団のハバロフスク収容所訪問

 昭和30年、鳩山内閣が誕生し、日ソ交渉が始まる。(昭和30年から31年にかけて)

このような世界の流れの中で、ハバロフスクの強制収容所では、人々の忍耐が限界に達しつつあった。特に深刻なことは日本人の健康状態の悪化であった。☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月23日 (金)

「自民党の役員選考会の今昔、22日」

◇かつて、福田派、中曽根派の対立があったころは、役員の主要ポストをめぐって両派ゆずらず話し合いは深夜に及ぶこともあった。そして、両派が常に最もこだわるのは幹事長のポストであった。しかし、二つの派閥は解消し、役員選考に関してかつてのような緊張感はない。金子泰造前幹事長が誕生した時は、複数の幹事長候補が立って選挙が行われたために異例の緊張感が生まれたが今回はそのような状況も存在しない。

 先ず、例年の通り、幹事長の選考が行われた。選考には、二人の県連副会長、田島県議と私が当たった。22日の午前10時が立候補の締め切りとなっており、立候補者は南波和憲氏一人であったので、その事を確認し田島氏から議員団に発表がなされ満場一致の賛成で新幹事長が誕生した。南波氏は、これまで幹事長代行であった。それは、金子泰造氏が市長選に出馬したために幹事長のポストが空白となったため次に正式に幹事長が決まるまでの間代行職がおかれたことによる。

 幹事長誕生後は、その他のポスト選任のための選考委員会が設けられた。田島氏を委員長とし、総勢13人の委員が決まる。党三役は、新幹事長が中心となって事が進み、総務会長は金子一郎氏、政調会長は久保田順一郎氏、県議団長は須藤昭男氏と決まった。

 今回、選考委員会が一番苦しんだのが議長候補の選任であった。対象者は、原、関根、腰塚の三氏にしぼられていたがなかなか結論が出ない。三氏を一人ずつ読んで県政に対する抱負を聞き、選考委員各氏の三氏に関する意見が出され、選考委員会は、それらを踏まえて結論を出すよう、田島、南波、私に一任した。私たちは、選考委員会に出された全てを総合的に検討し熟慮を重ねた結果、腰塚誠氏を選ぶことにし、中断していた県議団総会を再開して発表し全員の承認を得た。ここに、自民党の議長候補者は腰塚氏と決まった。議長は、今月27日に開かれる議会で、選任されるが、自民党が多数なので腰塚氏が議長に選ばれることは確実である。私が79代・大沢氏(現知事)が80代・中沢氏(現議長)が81代・腰塚氏は第82代の議長になる。なお、副議長候補には3期の小野里光敏氏が決まった。この日は、監査委員候補、その他の議会の役員候補等が決められた。選挙対策部長には私が就いた。今年は、いつ衆院選があるか分からないのである。

◇自民党の役員や議長の動向は県政に重大な影響を与え、県民の利害に大きく関わる。私が幹事を務める地方政府議員連合では先日の会議で、役員選考を公開している県があるという話が出た。議会改革の重要なポイントは議会の動きが外から分かるようにすることだ。GTVによる本会議の中継もそのためのもの。役員選考過程がオープンになる日が将来くるかも知れない。

◇役員選考終了後、私は日中議連会長として中国大地震への義援金をお願いし、各議員が一人3千円を拠出することが承認された。毒ギョウザの事もあり中国には複雑な感情を抱く人もいるが、隣人の不幸を見過ごせない。中国との長い歴史を振り返る。10月には大学提携の調印のため訪中する。(読者に感謝)

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2008年5月22日 (木)

「地方政府議員連合の設立に参加」(21日)

◇21世紀臨調を母体とする組織・「せんたく」内に地方政府議員連合が成立した。「せんたく」の代表は元三重県知事で早稲田大学教授の北川正恭氏である。私は、北川氏の推薦を受けて先月の発足準備会に参加し、この準備会に於いて議員連合の幹事になることが決められた。

 21日の会議は先月の準備会と同じくANAインターコンチネンタルホテル東京で行われた。会議は北川正恭氏が座長役になってテキパキと進められた。スピーディに行われる議事を的確に整理しサポートする有能な事務局員は、21世紀臨調事務局長の前田和敬氏である。

 今後の日本の政治、特に地方の政治に影響を与えると思われる「せんたく」及び「地方政府議員連合」について要点を説明する。結論を先に書くと次のようだ。「せんたく」の目的は政治改革であり、政治改革の中で地方議会の改革が特に重要だということで、「地方政府議員連合」がつくられた。

 「せんたく」は「選択」と「洗濯」によって政治改革を実現しようとする。先ず、「選択」とは次のようなことである。真の民主主義を実現するためには、国民に判断させること、つまり政策を提示して国民に選択させることが必要だ。そして、選択の手段としてマニフェストを考える。マニフェストは、「せんたく」が打ち出す重要な戦略である。次に「洗濯」とは、生活者の立場から政治のあり方を洗いなおすことで、これが洗濯である。北川氏は、坂本竜馬の姉がこの国を一度洗濯しなければといった事を引き合いに出していた。「せんたく」は、国民に政策を選択させ、国民の起点で政治を洗濯させることによって、政治改革を実現しようとする。そして、洗いなおそうとする政治とは中央中心の政治の在り方である。それを改めて誇りある地方を作らねばならないと考える。そのために、地方政府議員連合をつくり上げたのである。代表には三重県議長の岩名英樹氏が決まった。

◇現職の裁判官がストーカー行為で逮捕された。匿名のメールを十数回送ったという。恋愛感情をうまく伝えられなかったのかと同情の気持ちも動くが、法律の専門家で人を裁く立場の者かと驚いてしまう。被害女性が告訴したために警察が逮捕に動いた。現職裁判官の逮捕により、「裁判官だって」という声が起こり社会の規範意識がまたゆるむだろう。

◇一年後に裁判員制度が始まる。司法に国民の声をというが、一般の国民が正しい判断を出来るのかと多くの人々は不安を抱いている。裁判員制度で一番問題になることは死刑である。冤罪に関わる恐怖がある。もう一つの選択肢、終身刑を設けよという動きが高まっている。

◇四川大地震では多くの校舎が倒れ生徒が死んだ。手抜き工事だという怒りが爆発している。昨年北京を見て雲に届くようなビル群を見た。急ピッチ、鉄鋼の不足、ワイロの横行などを考えると、あの建設ラッシュの陰に手抜きがあることを考えてしまう。オリンピックは大丈夫か。日本の大地震も近い。他人事ではない。(読者に感謝)

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2008年5月21日 (水)

「第2回特別委員会は4時間に及んだ」

◇高木建設関連の土地など県有地の取得・処分を検討する特別委員会である。元総社の用地についての議論の中からいくつかを紹介する。私もこの用地について質問した。

 安中線の北、染谷川を挟んだ地域で、上には154千ボルトの高圧線が走る、高木建設が地域住民から取得して平成6年に県に売却。県は県営住宅を建てる目的で取得したが、一年後に建物をつくらないことに決定、土地は今日まで未利用のままである。高木元県議の関与があったと参考人の証言があった。これが、これまで明らかにされた中の主な点である。

 県の損害はどの位かということが、この日問われた、担当官は108千万円余りで買ったものが、現在53千万円余りに下落していると答えた。これまでに、かかった経費は3億円を超えるといわれ、これまでにも、損害は10億円に達するだろうという委員の発言もあった。

 15万ボルトを越す高圧線の下の土地は評価が低くなる筈なのにほとんど問題にせず高く買ったことが追求された。高圧線の下は重大な健康被害が生ずる恐れがあることを私は前回の委員会で指摘した。高圧線の下は一般に減価率が問題になる。このことに関して、私は関東地方整備局や東京都に問い合わせて調べた。東京都では、農地や林地でも線下の減価率を15%~20%としているのに、本県が依頼した会社による鑑定では減価率を1%として評価し、当時の県は高圧線下は駐車場にするからといって問題にしなかった。その後、県関係者は、他の県有地取得につき高圧線の下だから半額にして欲しいと発言していることが、この日提出された資料から分かった。

 大澤知事は、一連の疑惑につき、これ迄に「過去をしっかり検証しなければ次につなげることが出来ない、買ってすぐに目的を変えてしまうようでは県民の信頼が得られない」と発言した。その通りである。10年以上も過去のことであるが、このような事態が発生したことにつき、私を含め議会は反省しなければならないと思う。それは、チェック機能を果たすことができなかった点である。地方議会は役割を果たしていないという批判を謙虚に受け止めなければならない。そういう反省を活かす意味でも、特別委員会は頑張らねばならない。次回の特別委員会は64日である。なお、今回の特別委員会には珍しく数人の傍聴者があった。県民の関心の高さを示すものであろう。

◇今月の「ふるさと塾」はダライ・ラマになった。平均の海抜3700m、ヨーロッパとほぼ同面積、高い山脈と高原に囲まれ、閉ざされた秘境の国チベット。今、チベットは、にわかに世界の注目を集めている。チベット人弾圧に対する世界の抗議は北京五輪の行方と結びついている。そこへ四川大地震が起きた。多くのチベット人が住む地域である。亡命したダライ・ラマは観世音菩薩の化身とされる。大地震は中国を揺り動かし大きく変えようとしている。チベットの真実にラマを通して迫りたい。(531日、市総合福祉会館)。(読者に感謝)

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2008年5月20日 (火)

「友人Kさんの葬儀は辛かった。(19日)」

◇Kさんは職人であった。中学を出て左官の道を歩んだ。司会者が「京塗りの腕は前橋一だった」と語ったが、自分の仕事に誇りをもっていた。私の熱心な支援者であったが、それも私と気持ちが通じ合っていたからだと思う。豪快な性格で、臨月のような腹を抱え、酒が好きだった。62歳で大腸ガンに破れた。病気でもないのに、健康診断を受けるという細やかな神経を持っていなかったと思われる。なぜ、忠告してやらなかったかと悔やまれる。今日、大腸ガンや胃ガンで命を落とすのは本人の油断である。早期に発見すれば完璧に治るのである。喪主である長男が「時々お父さんの事を思い出してやって下さい」といい挨拶をしていた。弔辞に立った友人が「あにいよく飲んだなぁ」と在りし日を振り返っていた。見舞いにいけなかったことが残念だ。「あっちゃん、ありがとう」私は丸い顔の遺影に手を合わせて別れを告げた。

◇先日、「日記」で常習的性犯罪者につき、自民党内には、出所後もGPSの端末をつけさせ24時間監視する制度を設けるべきという議論があることを書いたら現状はどうなっているかと質問された。

 13歳未満の児童が性犯罪の被害者になった場合、その加害者を、服役後も所在を把握することを警察庁の通達に基づいて行っている。本県も若干名存在するらしい。

 性犯罪は繰り返される傾向がある。罪のない子どもを守らねばならない。しかし、受刑者の人権と社会復帰も考えねばならない。子どもの保護のために性犯罪を犯した者の人権はある程度制約されても止むを得ないが、アメリカで行われているようなGPS装着には議論があるのである。

◇大久保清の事件記録を読んで慄然(りつぜん)とした。昭和46年、日本中を騒がせた犯罪史上例を見ない異常な犯罪で、常習的性犯罪者の特異性という事を考えてしまう。

 大久保清は、20歳の時最初の強姦事件を起こしこの時は初犯ということで執行猶予となるが判決の一ヵ月後再び強姦未遂を犯し松本刑務所で服役し、ここを出所後も強姦を繰り返し次は府中刑務所で服役した。ここを仮出所してから70日余りの間に8人を強姦して殺した。記録によれば、千人の女性に声をかけ35人を連れ込みそのうち10数人を犯した。8人の中には、3人の高校生と県庁の臨時職員もいた。記録には前橋市内の名曲喫茶「田園」の名、高崎市の八幡工業団地造成用地の名が出てくる。大久保は被害者の兄が呼びかけた民間人の捜索隊によってつかまった。まれに見る特異な事件だが、出所後の大久保を把握していれば、犠牲者を少なくできたと考えてしまう。大久保は昭和48年前橋地裁で死刑判決を受け、昭和51年東京拘置所で執行された。41歳だった。執行の当日、いきなり執行を告げられると腰を抜かし失禁し一歩も歩けず、警務官に両脇を支えられひきずられて踏み板に立たされた。首にロープがかけられ、踏み板が開き落下したという。陰惨で気持ちの悪くなる出来事であった。(読者に感謝)

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2008年5月19日 (月)

「大地震で期待される中国の変化」

◇四川大地震を機に中国の社会が大きく変化すると思う。チベット問題と結びついているために間近に迫った北京五輪には、いつものオリンピック以上に世界の注目が集っていた。そのような中で今回の大地震が起きた。この地震にどのように向き合うか、国民をいかに救済できるかに全世界の目が注がれる。しかも、32年前の史上最大といわれた唐山地震の時と比べ、中国は世界の仲間入りをし電波やインターネットで中国の現状が瞬時に全世界に届く時代である。災害の取り組みが五輪の成否に直結すると政府は考えているに違いない。世界の目を意識して中国は国を挙げて生き埋めの人々の救済に当たっていると思われる。

 124時間ぶりに救助された人のことやタバコの葉を食べ尿を飲んで命をつないだ人の話が報じられる。72時間が一つのリミットとされるが、様々な条件によって生存は左右されるから、まだまだ地底では多くの人が生きているに違いない。それにしても、地震発生直後に全世界が力を合わせれば数千人の命を救えたのではないかと思ってしまう。

 中国は報道の自由が大きく制約される国であるが、今回は、テレビや新聞があまり検閲を受けずに報じていると伝えられる。その事が政府に対する国民の信頼を生んでいるらしい。中国各地で空前の献血、募金運動が起きている。そして被災地には全国からボランティアが続々と集っているという。拝金主義といわれた中国人の心に変化が起きているのだと思う。

 私は、平成7年の阪神大震災を思い出す。この時、若者を中心としたボランティアが全国から集った。その数は一年間にのべ120万人にのぼった。この動きは、市民運動に対する政府の見方を変え、NPO法案がつくられるきっかけとなり、世の中が多きく変化する要因となった。中国でも、今回の国民の動きは中国社会を大きく変える一因になるかも知れない。

◇今回の大地震の惨状を見て、中国は過去の大地震を教訓として活かさなかったと思う。

それは32年前の唐山地震である。公式には24万人が死んだといわれるが、当時の中国は、国際社会に対して今程オープンではなかったから、実際は60万人以上の死者が出たといわれる。毛沢東の文化大革命の真っ只中であった。外国の援助を拒否した事が被害を大きくしたといわれる。それ以来、耐震建築も地方では進めなかった。

◇大腸の内視鏡検査をした(17日)。下剤を溶かした2リットルの水を飲むのは中々大変。飲み終ってしばらくするとは排便が始まる。7回続いたが最後は透明な水であった。肛門からカメラが入る。目の前の画面に赤い肉の洞窟が写し出され、奥へ奥へと進む。「S字結腸です」といわれるあたりは、苦痛で、腹の上に置かれた看護婦の手を思わず握りしめる。順調のスピードだそうで約45分で終わった。2年前に小さなポリープがあった筈であるが、消えていた。医師はそれを確認するために、主要部を2度見たのである。中国の被害者を思えば極く小さな苦痛だと思って耐えた。(読者に感謝)

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2008年5月18日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(108)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

平成20年5月18日(日)シベリア強制抑留『望郷の叫び』(108)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実 この事件は昭和30年6月のことで、ハバロフスク事件はこの数ヶ月後、同年12月に起きる。きわだって従順と言われた日本人抑留者であったが、このような突発的な反抗は、各地の収容所であったらしい。 三 日本と世界の情勢はどうであったか 昭和20年8月の敗戦後、日本国内では新憲法の下、瓦礫の中からの復興が進んでいた。生活は苦しくも家族の絆は強く、人々は逞しく真剣に生きていた。私の家族が前橋市から移って、勢多郡宮城村の奥地で開墾生活に入ったのは、この昭和20年の秋、私が5歳のときであった。食料が不足して、毎日、さつま芋、大根、野性のウリッパなどを食べたことが今でも生々しく記憶に残っている。今にして思えば、このころソ連も、戦後の物資が非常に乏しい状況にあった。ソ連はドイツとの激しい戦争によって疲弊し、食糧事情も悪く、シベリアの収容所にも十分な食べ物が供給されなかった。このことが収容所の日本人の胃袋を一層苦しめたものと思われる。昭和22年、私は宮城村の鼻毛石の小学校に入学する。前年に発布された日本国憲法がこの年施行され、民主主義の波が全国をおおっていた。私が手にした教科書は、それまでのものとは一変し、ひらがなが初めて使われ、内容も民主主義に基づいたものであった。  おはなをかざる  みんないいこ。  きれいなことば  みんないいこ。  なかよしこよし  みんないいこ。教科書の最初は、この詩で始まった。私たちはこのように、教科書の1ページから民主主義を教えられ、また、社会のあらゆるところで、民主主義の芽は育ちつつあったが、ソ連に抑留されていた人々は、このような日本の動きは知らなかったであろう。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月17日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(107)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事

ソ連側の基本的な考えは、日本人は憎むべき戦犯である。だから従順な日本人を徹底的に酷使する、ということであった。

事件は突発的に起きたのではなかった。このような状況が進む中で、不満は人々の心にうっ積し、過酷な環境は人々をのっぴきならないところまで追いつめていた。それを物語る出来事が、ハバロフスク事件の前に起きた。

監督官の不当な圧迫が繰り返されていた。特に、監督官・保安将校ミーシン少佐は、日本人から蛇蠍(だかつ)のごとく嫌われていた。ある時、彼は零下30度の身を切るような寒さの中、日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨に濡れた衣服を乾燥するために焚き火をすると、これを踏み消して作業を強制した。あまりのことに抗議した班長を営倉処分にしたのである。

一人の青年がこの理不尽な監督官の扱いに対して、ついに堪忍袋の緒を切って抵抗した。青年は斧で障害を加えたのである。監督は倒れ、その場に居たソ連人は逃げた。大変なことであった。我にかえった青年は、とっさに近くの起重機にのぼり自殺を図る。

起重機の上に立った青年は、腰に巻いた白い布を取って、自らの血で日の丸を描き、それを握りしめて、「海行かば水漬屍(みずくかばね)、山行かば草生す屍」と歌って飛び降りようとする。仲間が駆け上がり必死に止め、こんこんと説得し、青年は自殺を思いとどまった。青年は斧の刃でなく峰の部分で打ったことから分かるように殺意はなかったが、「公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂」として、すでに科されていた25年の刑に加えて、10年の禁固刑を科され、別の監獄に入れられた。

 なお、山崎豊子の小説『不毛地帯』の中では、この事件をモデルにした部分が描かれている。そこでは、青年は、腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切り、その血で日の丸を染め、起重機に縛りつけると、「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌を聞いてください」と言い、直立不動の姿勢で、‘海行かば”の歌を歌う。死に臨んで歌う声が朗々として空を震わせる。歌い終わると身を翻して20メートル下の地上に飛び降りて死ぬ、という構成になっているが、事実は、歌を歌い終わった後、死を思い止めたのであった。

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2008年5月16日 (金)

「国会議員との合同会議」(15日)

P1010012_2 ◇国会議員、県会議員の合同会議があった。

自民党県連の最高会議である。朝7時半高崎駅の駅ビル・メトロポリタンで行われた。国会の会議がある議員もこの時間、この場所なら集ることが可能である。福田首相を除く自民党の衆参議員全員が出席した。会議の最大の目的は県連役員の決定である。県連会長には笹川堯さんの続投が満場一致で決まり、幹事長以下は県会議員の中から選出することが決定された。この会議は約30分で終わり国会議員は退席した。引き続き県会議員の常任役員会が開かれ、幹事長の選出方法等が協議された幹事長は、今月22日に選ばれる。

◇日中議連の役員会が開かれた(15日)。この議員連盟は、自民党県議の大部分が参加して中国問題を研究する団体で私が会長を務める。この議連が進める事業の一つに大連外語学院と県立女子大との提携がある。県会議員が中心となって検討してきたが、調印するところまでこぎつけた。役員会では10月15日から17日にかけて訪中することが話し合われた。また、この役員会で、中国の大地震に対してお見舞いの言葉と見舞い金を送ることが話し合われ、南波幹事長代行に私から説明した。近く開かれる議員総会で私から提案する予定である。

◇市長の責任を追求する「市民の集い」がテルサで開かれた。予想を超えた盛会で500の席に座りきれず後ろに立つ人もいた。自民党や選挙とは無関係な人が多く参加されていることが感じられた。この集いのことが世間に伝わると、「誰でも参加できるのですか」等の問い合わせがかなりあって、手ごたえはつかんでいたがそれが現実となった。

 私は、登壇し、「私たちは感情で立ち上がったのではありません。このままでよいのかという市民の声に動かされ、前橋の民主主義を実現するために行動を起こしました」と挨拶した。

 無党派の人たちの2つのグループから申し出があって、それぞれの代表がグループのメッセージを読み上げた。会場からは純粋な質問も出て「集い」は好調なスタートを切った。

◇四川大地震に日本の救援隊が向かうことになった。外国の救援隊としては日本が最初だという。私の心には、「よし」というものと、「今ごろになって」という二つの思いがある。温家宝首相の陣頭に立つ姿がしきりに報じられているが生き埋めになった無数の人々を救うための最善の策が実行されているとは思えない。外国の救援隊を受け入れようとしないからだ。生死を分ける3日間が過ぎた。世界中の救援を一日早く受け入れ近代科学の総力を結集すれば数千人の命を救えたかも知れない。もはや手遅れではないかと思えてしまう。腐臭の中でもがく地中の姿を想像する。ミャンマーに至っては、話にならない。中国は国を挙げて必死の努力をしているが、ミャンマーの軍事政権にはそれも期待できない。世界が協力し合って災難から人命を救うという事が出来ない悲しい現実を中国とミャンマーの悲劇が示している。(読者に感謝) 

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2008年5月15日 (木)

「四川大地震から中国を見る」

◇各地で生き埋めになっている人は2万4千人を超える。生き埋めの生存のタイムリミットは3日間という。その時が迫っている。今回の大地震は、中国奥地の自然が厳しいところ、そして貧しい人が住む、政治的に敏感な地域で起きた点が特色である。 これをもう少し具体的に表現すれば次のようになる。自然が厳しいため、道路が寸断され、巨岩が道をふさぎ救援の車が走れない、貧しい人々が住む住居ゆえにレンガを積み重ねたものが多く、耐震性にとぼしいから建物はほとんどが倒壊した、そして、チベット族が多く住み騒動が起きた地域ゆえに早急に救済を進めないと不満がまた爆発する恐れがあるから政治的に神経を使う地域なのだ。 四川省のことは昨日の「日記」で少し触れたが、省都は成都で、その北方にある汶川(ぶんせん)県が震源地である。ここはチベット族が多く住む。野性パンダの生息地としても有名だ。四川省の奥地で大地震が起きた事により、中国の抱える大問題の一つ「格差」が浮きぼりになった。貧富の差は、中国の深刻な課題である。貧しい故に地震に耐える建物をつくれず、まだ道路などのインフラが進んでいなかった。これらのことが地震の被害を大きくし救援活動を妨げている。 中国は社会主義の国であるが、経済の自由化を推進したため、金もうけに爆進する国民の姿はすさまじい。沿岸部の光景は一変しアメリカや日本の近代都市と変わらない。しかし、内陸部は発展からはずれて昔の中国が残っている。格差は非常に大きい。震源地のあたりは上海との格差が5分の1と報じられているが、私はそんなものではないと思う。 中国では急速にネット社会が進んでいる。中国は一党独裁で思想の自由、表現の自由が強く制約される国であるが、ネットによる表現手段を抑えることは出来ない。「オリンピックの祭りどころではない」、「オリンピックにかかる金を救済にまわせ」、このような書き込みが飛び交っているという。各サイトは、地震関係の書き込み一色で、政府に対する様々な不満が寄せられており、その中で、なぜヘリで震源地に入らないのかという不満が多いという。道路が遮断されていて救援物資を被災地に運べないのだ。山岳地帯は気流が常に不安定で、更に悪天候が重なるとヘリは使えない。これを承知して、米軍の全天候型ヘリを使うべきだという書き込みもあるとか。中国はプライドの高い国だから、米軍の人的援助は受けられないのだろう。しかし、私たちは、プライドより人命が大切だろうと考えてしまう。 ◇四川省から一つの明るいニュースが伝わっている。省都の“成都”で、12日夜、男の赤ちゃんが生まれ、地震の中で生まれたという意味で“震生”ちゃんと名付けられた。この子が成人になる頃、中国はどうなっているだろうか。 ◇ある種の動物は地震の予知能力があるといわれる。四川省のある市で今月5日頃、数十万匹のヒキガエルが真っ黒なかたまりになって移動したという。彼らは大地の底から発する微妙なサインをキャッチしたのかも知れない。(読者に感謝) ★土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月14日 (水)

「中国に天が与えた試練」

◇中国内陸部四川省で巨大地震が起きた。死者は12千人を超え、生き埋めも24千人と報じられている。生き埋めになった人の中には、多くの生徒も含まれているとのことだ。壊れた建物の多くは耐震性が低いらしい。暗い地底で折り重なるようにもがく人々の姿を想像するとたまらない。正に生き地獄だ。倒壊した建物から救い出すには3日間がカギと言われる。時は刻々と進み、はやくも2日が過ぎる。

 チベット騒乱や聖火リレーに対する世界の抗議を受けて苦しむ中国にまた大災害が見舞った。中国は、重さなる試練をどう乗り越えるのだろう。世界の注目が一点に集る。平成7年に阪神大震災を経験し、大地震が近いといわれる地震国日本としては他人事ではない。

 四川省は、三国志の蜀の国があったところだ。劉備や孔明が登場する壮大な歴史の舞台であったこの地は、大陸をも動かす巨大なプレーが衝突するところで過去にも大地震が繰り返し起きた。揚子江など四つの大河が流れることから四川(しせん)の名がある。高い山脈と大きな盆地がありチベットに接する。多くのチベット族が住み、この地でも今回の騒乱が起きた。大盆地は昔から霧が多く、日が出ることが少ないことから「蜀犬日に吠ゆ」といわれた。今日、都市では大工場のスモッグがひどいと聞く。

 現地で陳頭に立つ温家宝首相が「一秒が一人でも多くの人命を救う。人命の救済が第一だ」と語る姿をテレビで見た。チベットに対する弾圧、人権の抑圧で世界から批判される中国としては、チベット人も含めた多くの人々の人命救済を世界に示したいという意図もあるだろう。

◇ミャンマーのサイクロンの被害は、死者不明32万人とも報じられている。人々の惨状を見ると、天災の上に人災が重なっていると思えてならない。それは軍事政権に関わることだ。サイクロンの通報が遅れた等のことが伝えられるが、それ以上に、災害発生後の軍事政権の対応のまずさが被害を大きくしている。世界から救援物資が届いているのに、人的支援の受け入れは拒絶している。何のための国家なのかということを痛切に感じる。

 ミャンマーは、かつてビルマと呼ばれた国でイギリスの植民地であった。イギリスの侵略を許したのは弱い軍事力と警戒心の不足だという強い思いが軍事政権の基礎にあるという。そのために、軍事力の優先と欧米に対する大きな不信感がある。過去の歴史にとらわれ過ぎたものであり、時代錯誤も甚だしい。

 民主主義に背を向ける軍事政権では国民が力を合わせることが出来ず、世界の最貧国と言われる状況を脱け出すことはできない。サイクロンの直撃はこのことを明らかにした。アメリカのウォールストリート・ジャーナルは、軍事政権の今回の対応を批判し、ミャンマーを国連から追い出せと主張している。北朝鮮、中国、ミャンマーは、世界の潮流の中で共通の問題を抱えている。見守って教訓としたい。(読者に感謝)

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2008年5月13日 (火)

「非常識な110番、群馬の場合は」

◇「公衆トイレに紙がない」、こんな内容の110番が多くなったと報じられ話題になっている。常識の物差しを持たない人が増えている。モラルが崩れている、学校にイチャモンをつけるいわゆるモンスターペアレントが増えている。これらは共通な根を持つ社会現象だという人がいるが、同感である。

 群馬県の実態はどうか。昨年の110番受理件数は約13万9千5百件。そのうち緊急性のない内容のものは、約3万2千3百件である。その具体的な例を挙げれば「遺失物・拾得物、免許の更新、電話番号・郵便番号等の紹介を求めるもの」。「酔っ払ってしまったので自宅までパトカーで送って欲しい」。「初めて携帯電話を買ったので試しに掛けてみた」。「生活が苦しいので生活保護を受けられるようにしてくれ」等である。中には、110番の制度をよく知らず相談窓口と誤解している者もあるかも知れない、しかし、群馬県の大体の状況は、伝えられるところの全国的なものと似ている。やはり、日本人の感覚が少しおかしくなっているのか。私は政治家だから、選挙で選ぶ判断基準もおかしくなっているのではと考えてしまう。

◇110番は、市民の安全を守る重要な制度である事をまず認識しなければならない。今は、携帯電話の時代であるから携帯からの110番が多い。群馬の場合、昨年は約63%が携帯からであった。携帯から通報する場合には次のような問題点がある。①自動車で移動しながらの場合はその通報場所の特定が困難になる。②地理的条件によって聞き取れない場合もある。③県境付近の場合、隣接県に接続することがある。この場合にはお互いに紹介しあうことにしている。

 レスポンスタイムとは、警察が110番を受理してから現場に到着する迄の時間である。本県の場合の過去5年間の平均は、6分41秒から7分28秒の間であった。そして、平成19年は、7分11秒で、前年比5秒の短縮となった。ちなみに、全国平均は7分2秒である。本県の場合、担当者は緊急性がないと思っても話を良く聞くという。重要なメッセージ、やサインが含まれていることもあり得るからだ。しかし、余りに非常識であることが明らかな場合、毅然とした態度を示すことも必要だ。110番の役割を妨げることになるのだから。

◇去る8日、大澤知事も出席した市町村懇談会でドクターヘリの導入が説明された。ドクターヘリは救急医療用ヘリコプターのことで、県民の安全・健康・生命のために非常に大きな役割が期待される。国は、このヘリを地域の実状を踏まえて全国的に整備する方針を定めた。既に13道府県が配備した。来年度、群馬県は前橋赤十字病院に配備する。緊急災害時だけでなく一般の事故でも出動の基準に合えば出動できる。その基準はこれから検討することになる。ヘリは県内全域を20分で動ける。だから山間地の医師が不足する地域の人命を救うことも出来、今問題になっている医療格差の解消に大きな前進となる。ドクターヘリは安全安心な郷土づくりを支える心強い柱となるだろう。(読者に感謝)

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2008年5月12日 (月)

「胃カメラをのむ、ガンはまだ恐い病気だ」

◇毎年、胃と大腸の内視鏡検査をやっているが、昨年は、選挙続きで出来なかった。10日、いつもの病院で胃カメラをやった。カメラが細くなった事と技術が向上したために昔と比べ随分楽になった。20年近く昔のことになるが、最初の時の挿入が大変苦しかったことが思い出された。

 麻酔用の液体をのどに流して数分経つと、口にプラスチックの輪をかまされ、その間からカメラのくだが入れられる。痛さはほとんどない。最初のころは、ちょっとした痛さが大きな恐怖心を起こした。身体に異物を入れられる事に対する過剰な意識があったに違いない。

 検査は短時間で終わり、のど、食道、胃、「みなきれいです」と言われた。自信はあっても、医師のこの声を聞くとほっとする。次の土曜日には、大腸内視鏡検査を予定している。こちらは、ちょっと大仕事だ。私のまわりには、大腸の内視鏡は恐ろしいという人が多い。それと比べると私は楽の方らしい。大腸が済んだら、前立腺検査が私の頭には日程として入っている。もう長いこと、前立腺肥大が私の持病なのだ。

 評論家の立花隆が大腸ガンと前立腺ガンにかかり、前立腺ガンの方は進んだ状況だという。その取り組みの様子の手記が文芸春秋に載った。今日、ガンの治療は大きく進歩し、早期に発見すれば治る病気になった。だからガンで死ぬ人の多くは発見の努力を怠った人であろう。忙しさと、検査のわずらわしさが大概の理由だと思うが、死とはかりにかけたなら取るに足りぬ事だ。自戒をこめて自分に言い聞かせた。

◇久しぶりに妻と食事に出た(11日)。胃が大丈夫ということもあってか、ステーキが食べたくなった。頭痛持ちで普段あまり食欲がない妻も珍しく肉に賛成した。私は何を食べてもおいしい。しかし、この日は、食べられることの幸せをつくづくと思った。妻の頭痛は長い。私には痛みを分担してやれないので、見ていて苦しく思う。この日は、注文した肉を平らげて、少しもの足りないわと言っていた。改善に向かっているのかと思えた。

◇日曜日(11日)は、前日に続いて雨。ある地区の町内運動会は中止となった。少年野球の開会式は実行するという。総合運動公園の市民球場には多くの少年野球チームが参加していた。時々雨が激しくなる。まわりの新緑は雨に打たれて煙って見える。国旗が上がり国歌が歌われた。硬式野球に励む中学生たちである。私は、「どんな条件でも克服して実行するという強い意志がこの会場に満ちています」と挨拶した。

◇スポーツをやる少年は健全である。この社会のどこに暗い病理が潜むのかと思う。硫化水素の自殺が跡を絶たない。インターネットを開いたら、自殺の方法がこまごま書かれている。どの位の濃度で即死とか、注意の張り紙の文面まである。どんな人がどんな意図で書くのか。インターネットの規制は止むを得ないことだ。(読者に感謝)

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2008年5月11日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(106)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

 ハバロフスクの収容所の人々は、不当な裁判によってその多くは刑期25年の懲役刑に服していた。長い収容所生活によって体力も、みな、非常に衰えていた。それにもかかわらず収容所の扱いは相変わらず過酷であった。
ハバロフスク事件は、収容所側の扱いによって生命の危険を感じた人々が、自らの生命を守るために団結して立ち上がった抵抗運動である。
事件当時の状況を示す資料は、奴隷的労働の様子、与えられる食料のひどさ、そして、病弱者の扱いの不当などを示している。労働にはノルマが課せられ病弱者にも容赦がなかった。食料については、まず与えられるカロリーが少ないこと。旧日本軍は、重労働に要するカロリーを一日、3,800カロリーと規定していたが、収容所ではやっと2,800カロリーであった。また、生野菜が極度に不足しているためビタミン摂取が出来ないのが痛手であった。日本人の食生活の基本は、本来、肉食ではなく米や野菜である。したがって、日本人の体にとっては、特に生野菜が必要であった。野菜が採れないシベリアの冬は、特に深刻であったと思われる。余談になるが、最近のシベリアの小学校の様子を伝える映像として、冬季、給食の時、野菜不足の対策としてビタミンの錠剤が配られる姿があった。

二 ハバロフスク事件の前兆としての出来事

 ソ連の態度は、威圧的で情け容赦がなかった。「我々は、百万の関東軍を一瞬にして壊滅させた。貴様等は敗者で、囚人だ」と、何かにつけて怒鳴った。日本人抑留者は、この言葉に怒りと屈辱感をたぎらせていた。あのように言っているが、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされ、満州では、実際戦える戦力はなかったのだ。そこへ入ってきて、強奪と暴行のかぎりをつくした卑しい見下げ果てた人間ではないか。人々は皆、こう思いつつ、帰国というい一縷の望みを支えに耐えていた。

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2008年5月10日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(105)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

ハバロフスク事件の発生は、昭和30年の暮れである。日本人抑留者のほとんどは、昭和25年の前半までに帰国した。しかし、元憲兵とか、特務機関員とか秘密の通信業務に従事した者などは、特別に戦犯として長期の刑に服し、各地に分散し受刑者として収容されていたが、一般の日本人抑留者の帰国後、ハバロフスクの収容所に集められていたのである。

 前橋市田口町在住の塩原眞資氏は、昭和25年に帰国したが、その前はコムソムリスクの収容所におり、その後ハバロフスク収容所に移されていた。昭和23年に、ここに入れられたときのことを塩原氏は、その著『雁はゆく』の中で次のように述べている。

「この収容所に集結された者は、聞いてみると、日本軍の憲兵、将校、特務機関兵、元警察官、そして私のように暗号書を扱った無線通信所長等、軍の機密に関係したものばかりの集まりであった。それからいろいろといやな憶測が頭をかすめる。この収容所に入れられた者は、絞首刑か銃殺かまたは無期懲役かと寝台の上に座って目を閉じる」

 塩原さんたちの帰国後も、この収容所の日本人たちの苦しい抑留生活は続いた。そして、世界の情勢は変化していた。

 昭和27年、参議院の高良とみが日本人として初めてこの収容所を訪れ、一部の日本人被収容者に会ったとき、彼らは一様に、「日本に帰れるのか」、「死ぬ前に是非もう一度祖国を見たい」「祖国は私たちを救う気があるのか」と悲痛な表情で訴えたという。

 ほとんどの日本人抑留者は帰国した。そして、昭和28年にはスターリンが死に、ソ連当局の受刑者に対する扱いは大きく改善され、ドイツ人受刑者も帰国を許された。それなのに、日本人だけは、従来と同じような過酷な扱いを受けている。高良とみに訴えた日本人の心には、このような情勢のなかでのいい知れぬ焦燥感と底知れぬ淋しさがあったと思われる。

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2008年5月 9日 (金)

「ミャンマーの災害が教えるもの」

◇サイクロンの人的被害は、一説には10万人に達するだろうといわれる。もう一つ注目すべき災害はコメの産地が壊滅的状態となったことだ。ミャンマーは昔から米の産地である。同国のコメはほとんどが国内で消費されるから輸出の問題にはならないといわれるが、輸出食料の産地が天災に見舞われたら大変になることを示している。日本は食料自給率が39%を切り国民の食料の多くの部分を輸入に頼っているのだから、最近の世界各地の異常気象は私たちの胃袋の問題と結びついているのだ。 最近、世界の穀物産地は、干ばつ、洪水、ハリケーン、サイクロンなどに頻繁に見舞われている。今回のミャンマーの災害もその一例である。 最近、日本の小麦製品が相次いで値上がりしている原因は、小麦の主要輸出国オーストラリアが百年に一度の大干ばつに見舞われたからだといわれる。 ◇世界の食料事情は、また、原油の高騰とも結びついている。トウモロコシの最大の生産国はアメリカである。現在、アメリカは、ガソリンの代替燃料バイオエタノールの導入を大がかりに進めている。その原料がトウモロコシである。 アメリカの農家は小麦よりエタノール用のトウモロコシの方が高く売れるから小麦の作付けを減らしてもトウモロコシを作るという。その結果、人間の食料が減ることになる。現に私たちの食卓に大きな影響を与えている。 ◇これから原油は更に高くなるだろう。とすれば代替エネルギー源としてトウモロコシの需要は更に増え、人間の食料を圧迫するに違いない。もう一つ食料危機の原因をなすものは人口の増加である。現在世界の人口は65億人だが、40年後には90億人になると予想される。これは、地球が養える人口の限界を越えるらしい。私たちの子孫はどうなるのか。このような地球規模の食料危機がじわじわと迫っているのに、日本人は全く危機意識がなく相変わらず飽食の時代を生きている。このような時、私たちは日本の農業を真剣に考えなければならない。私が住む芳賀地域には有休農地や耕作放棄地が多い。このような状況は全国的にいえるのだろう。これをどのように生かすかが日本の食料問題・農業問題のカギになる。そして、食の安全や異常気象が大問題となっている今日は、私たちが「食」と「農」を考える好機である。 ◇中国の聖火隊がエベレストに登るシーンは迫力があった。エベレストはチベット語でチョモランマと呼ぶ。頂上に至る部分はチベット族の娘が聖火をにぎった。世界の批判が中国に寄せられる中の、最高の演出といえる。時を同じくして胡錦涛首席が日本を訪問し努力をしているのも同じ目的があるのだろう。早大での講演で、「中国は世界最大の発展途上国であることを認識している」、「発展の中で生じた矛盾や問題は規模も複雑さも世界でまれにみるもの」と語った。国家首席が日本へ来て、多少の謙虚さを示した事に私はホッとした。オリンピックを成功させたい悲願がそうさせていると思った。(読者に感謝) ★土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月 8日 (木)

「サイクロンの被害と政治の貧困」

◇ミャンマーを襲ったサイクロンの威力は凄まじいものだ。スマトラ沖地震の時のように報道の度に被害が大きくなる。6日の各紙は死者4千人不明2千人と伝えたが、7日の夕刊及びテレビは死者22千人超、不明4万人と報じた。被害は更に増大するのではないかと思う。

 巨大な暴風の中で、メキシコ湾で発生するのがハリケーンで、インド洋で発生するのがサイクロンだ。インド洋の北の沿岸地帯には、大海の水が暴風によって吹き集められるように押し寄せるのだろう。これまでにも度々大きな被害が起きている。有名なのは、91年、バングラディッシュで14万人の死者を出したサイクロンである。

 ミャンマーは、かつてはビルマと呼ばれた。民主化の波が世界に広がる中で、軍の独裁政権が続いている。アメリカは、ミャンマーの軍事政権を批判し、これを承認していないが、いち早く34千万円の援助の申し出をし、日本もまず2,800万円分の緊急援助を決めた。大きな被害は、サイクロンに対する備えが不十分であったことや国民への情報の伝達が不十分であったことが一因となっているといわれる。大きな災害は政府と国民が力を合わせなければ防げない。ミャンマーでは、民主化を求める国民と軍事政権が対立している。今回のサイクロンの被害は、ミャンマーの人々にとって、政府とはいかにあるべきかにつき最大の教えとなったのではなかろうか。来日した、シルベスター・スタローンは「ランボー」の舞台であるミャンマーのサイクロン被害に触れ、「軍事政権がいかに人々を支援していないかが露見した」と語った。

Photo 軍事政権に対抗する民主化勢力の先頭に立つのが、私たちがテレビでよく見るアウン・サン・スー・チーである。彼女の父はビルマ(現ミャンマー)建国の父と呼ばれるアウン・サン将軍である。彼女が2歳の時父は暗殺された。

 彼女は長じてオックスフォード大学で政治学を学びチベット学者であるイギリス人と結婚した。民主化運動の先頭に立つスー・チー女子は、全国各地を回り非暴力不服従運動を呼びかけた。彼女の運動は、「民主主義と人権回復のための非暴力闘争」と世界的に評価され、91年のノーベル平和賞を受けた。彼女の率いる民主運動のグループは選挙で圧勝したにもかかわらず、軍事政権に無視され、彼女は今も自宅に軟禁されている。

◇アウン・サン・スー・チーがノーベル平和賞を受けた経緯は、最近時の人となっているがダライ・ラマと似ている。今、胡錦涛首席が来日しているが、あの笑顔の下にはチベットを弾圧したもう一つの非情な顔がある。彼はかつてチベットを制圧した功績を評価されて抜擢されたという。ダライ・ラマは、中国の弾圧を逃れてインドで亡命政府を建て、非暴力によるチベットの平和独立運動を続けた。それが評価され、89年、ノーベル平和賞を受賞した。ダライ・ラマとアウン・サン・スー・チー2人とも大きな嵐の中に立って平和を訴えている。(読者に感謝)

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2008年5月 7日 (水)

「ゴールデンウィークが終わる」

◇北関東自動車道を走り那珂港まで行ってみた(4日)。完成すれば前橋から太平洋まで2時間足らずでいけるのだから、群馬も海無し県から海有り県に変化するといっても過言ではないだろう。

 この道路の効果には測り知れないものがある。経済的効果が一番大きいといわれるが、北関東の一体化が一気に進み道州制の実現にも影響を与えるのではないだろうか。

 朝4時に家を出た。県内は太田までである。その先は50号で佐野まで行き東北自動車道、常磐道を経て、再び北関東自動車道に乗る。茨城県内も未完成な部分があって、一般道を走る時ゴールデンウィークの渋滞に巻き込まれて多くの時間をかけた。全線開通すれば、北関東に大きな動脈が出来て新しい血液が勢いよく流れるだろうと想像した。

◇この日の夜、地域の県幹部の人たちと懇親した。私の住む鳥取町から2人の部長が誕生した機会に親しく交流することに意義があると思い私が提案した。2人の部長とは林農政部長と柿沼産業経済部長である。いずれも県政の重要部門を担う。立場は違うが目的は同じ。ビールの杯を傾けながら有意義で楽しい一時を過ごすことが出来た。

◇5日はこどもの日。この日に、毎年、赤城神社の春の大祭が行われる。県外からバスで来る人もいてにぎやかであった。白装束の神宮を先頭にして長い行列を作って神殿まで進む。数百年を経た杉の古木の間を霧がたち込め、その中を、打ち鳴らす竹刀(しない)音と「エイ、エイ」という子どもたちのかけ声が響いている。恒例の少年剣士たちの奉納練習が行われているのだ。昔は柔道も行われ、私も参加した経験がある。

 私の隣を歩く神社の世話人さんに、あれが源実朝の歌の碑ですねと話しかけたら知らぬ風であった。私たちが通り過ぎようとする左手には、鎌倉幕府三代将軍実朝の歌が刻まれている。「上毛(かみつけ)の勢多の赤城のからやしろ やまとにいかであとをたれけむ」

“からやしろ”とは、唐風の社という意である。この歌は金槐和歌集に載っている。実朝が実際この地に来たかどうかは分からないと思う。

◇毎日のように女性が殺される犯罪が起きる。全てが性犯罪とは限らないが、幼児を含め、性犯罪の被害は跡を絶たない。性犯罪は再犯率が高い犯罪である。日本の犯罪の歴史に残るものは、群馬の大久保清である。性犯罪から女性を守るために性犯罪を犯し服役した人を監視する事はある程度、やむを得ない。性犯罪を犯した人の情報は今でも警察が使えるようになっている。現在、24時間監視しようとするシステムを作ろうとする動きがある。性犯罪で服役した人にGPS(衛星利用測位システム)を取り付けるというのだ。自民党が検討を始めたという。米国では既に行われており足首に端末機をつける。日本で実現するといろいろな議論が出るだろう。性犯罪を犯した人を動物のように扱うことになるからだ。(読者に感謝)

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2008年5月 6日 (火)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(104)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

最近、ロシア人の日本人研究者が、この事件を、「シベリアのサムライたち」と題して論文を書いた。「サムライ」とは、私たちが忘れていた懐かしい言葉である。この事件を知って、私は日本人としてよくぞやってくれたと、胸の高鳴りを覚えるのである。 昭和31年8月16日付けの産経時事は、「帰ってくる二つの対立 ― 興安丸に反ソ派とシベリア天皇 ― 」という記事を載せた。それには、帰国船内または舞鶴で乱闘騒ぎや吊るし上げなどの不祥事が起こる可能性が強いこと、二つの対立グループには、一方の反ソグループにハバロフスク事件の黒幕的な存在として知られる元陸軍中佐瀬島龍三が、他方には親ソ派でシベリアの天皇として恐れられた浅原正基がいること、帰還促進会事務局長談として、「浅原のように日本人を売った奴は生かしてはおけないといっている帰還者がいるから、何が起こるか心配している」という記事が載せられている。またこの記事は、問題のハバロフスク事件については、「ソ連の待遇に不満を抱き、昨年12月19日の請願サボタージュで、犯行の口火を切ったハバロフスク事件は、去る3月、ハンストにまで及んだものの、ソ連の武力鎮圧により、同11日はかなく終幕、42名の日本人が首謀者としていずれかへ連行され、一時、その消息を絶った」と報じている。記事は簡単であるが、事件の内容と結果は重大なものであった。事件からおよそ半世紀が経つ。 この事件の重要性にもかかわらず、今日の日本人の多くは、この事件を知らない。  一 ハバロフスク事件の背景 ハバロフスクはロシア極東地方の中心都市で、アムール川とウスリー川の合流地点に位置し、シベリア鉄道の要衝である。強制抑留のシンボル的な都市で、多くの日本人は、ここを通って各地の収容所へ送り込まれ、帰国するときもここに集められてからナホトカ港に送られた。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月 5日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(103)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

高良とみは、自分はキリスト教徒であること、平和運動を行っていること、そして、ソ連など共産圏諸国を除いた形の平和条約が結ばれたことにより、ソ連に抑留されている同胞がどうなるのか心配でたまらずソ連にやってきたことなどを説明した。グロムイコを正視して英語で堂々と訴えるとみの姿には、国を憂い同胞を思う気迫と信念があふれていた。モスクワ経済会議における高良とみの振る舞いと評判について聞いていたグロムイコは、改めて見る目の前の日本女性の姿に打たれたに違いない。二人の会見は、4、5時間にも及んだ。

 高良とみは、グロムイコにぜひとも抑留されている日本人に面会したいと申し入れた。グロムイコは、出来るだけ希望がかなうように努力しましょうと言った。その表情には、とみの熱意にこたえようとする誠意が表れていた。この会見によって、高良とみのハバロフスクの日本人収容所訪問が実現したのである。

 女として単身、地の果てのシベリアへ、しかも国法を犯してまで行きたいという真心が、いまだ戦争状態にあるロシアの高官を動かしたのだ。

 ハバロフスクの収容所の日本人の中には、高良とみの行動を、選挙目当ての売名行為と見た人もいたらしい。また、高良とみに会った18人の人々は正しく受けとめることはできなかったようだが、彼女のことを後に伝え聞いた人々の中には、高良とみの訪問によって祖国が動き出すのではないかという一条の光を見い出す思いの人もあったであろう。

 やがて、日本政府が本格的に腰を上げる時がくる。鳩山一郎首相が苦心の末に日ソ交渉をまとめ、長期抑留の日本人が帰国を許されるのは昭和31年末のことであった。

第5章       日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実

 シベリア強制抑留の真実を語る上で、ハバロフスク事件に触れないわけにはいかない。それは、奴隷のように扱われていた日本人が誇りを回復し、意地を見せた見事な闘いだったからだ。また、日本人とは何かを知る上でも重要だからである。

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2008年5月 4日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(102)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

  ユネスコ会議を終えた高良とみは、何としてもソ連に入りたいと思い、パリ駐在の日本人外交官に懇願し助力を求めたところ、モスクワへ入る方法が見つかった。パリのデンマーク大使館が力を貸してくれることになったのだ。とみはデンマーク大使館に出向き熱い胸のうちを詳しく話した。デンマーク大使館はとみの姿に打たれて仲介役として動いた。ソ連は高良とみをモスクワ経済会議に出席させるということで受け入れることになったのである。ここでもとみの英語力が大いに役立った。自分の心を正しく伝えるには、通訳を介さずに直接語ることが何より効果的なのだ。

 モスクワのホテルに着くとソ連政府の役人がやって来て、東京とワシントンでは大騒ぎになっている、そして、吉田首相とアメリカの大統領もかんかんに怒っていると話した。コペンハーゲンにいる朝日新聞の記者から電話が入り、日本人として初めて鉄のカーテンを超えた高良とみに、ぜひインタビューをしたいという。とにかく、高良とみのソ連訪問は、世界の大ニュースになっているらしかった。しかし、日本人抑留者を助けたいという彼女の信念は少しも揺るがなかった。

 モスクワ世界経済会議は、冷戦下における世界経済の平和的発展を目的とするものであった。高良とみは幸運にもこの会議に出席できることになったわけであるが、本会議場で演説するチャンスも与えられた。

何百人もの各国代表が並ぶ大ホールで、高良とみは満場の相手に迎えられ和服姿で登壇、約四十五分、英語でスピーチした。

 高良とみは、日本の工業生産と貿易の状況、そして、失業問題や国民の生活水準などについて説明しながら、日本国民は、過去から教訓を得て平和に生きようと決意していること、だから日本の経済は世界平和のために役立たねばならないこと、平和的東西貿易の必要性および日本は近い将来中国やソ連から食糧を買うことを望んでいることなどを格調高く訴えた。演説が終わると会場に割れんばかりの拍手が起きた。

 このモスクワ経済会議の直後、高良とみはソ連外務省に呼ばれ若い外務次官と会見する機会を得た。この人は後の外相グロムイコである。グロムイコは、高良とみの訪ソの目的や日本における所属団体などについて詳しく知りたがっていた。東京やワシントンで大きく騒がれている日本の女性国会議員につき興味と疑念を抱くのは当然であろう。

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2008年5月 3日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(101)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

  敗戦後は呉市長に懇願され、呉市助役となる。呉市は、軍港を初め重要な軍事施設が多くあったところで、終戦後は多くの進駐軍が進駐し、これらの外人とのトラブルや占領軍との交渉が多かったから高良とみの経歴、特に英語力が必要とされたのである。全国初の助役として新聞で大きく報道された。

 やがて、高良とみの人生に大きな転機が訪れる。女性に参政権が認められることになったのだ。どのまちにも、腹をすかせ目をギョロギョロさせた戦災孤児が多くいた。また、大都会には、外人の腕にぶら下がって歩くパンパンと呼ばれる日本女性が溢れていた。

 婦人解放の問題に取り組んでいた母の姿を見て育ったとみは、敗戦の社会で喘ぐ哀れな女たちの姿を見てつらかった。婦人参政権の実現は、天が与えた絶好のチャンスと思え、とみは、一大決心をして参議院議員選挙に立候補する。昭和22年のことである。高良とみは民主党から立候補して34位、女性では10名中4位で当選する。

高良とみは参議院議員になって海外同胞引揚委員会に属し、その副委員長を務めていた。この委員会には、ソ連における日本人抑留者の情報が時々入っていた。高良とみは、1銭5厘の葉書一枚で戦争に召集され、激しい戦いの中で九死に一生を得て生き延びたにもかかわらず、酷寒のシベリアに送られ長く抑留されている日本人が哀れでならなかった。また、その帰りを待ち焦がれる家族の姿を身近に見て心を痛めていた。そこで、このシベリア抑留者を一日も早く帰国させることが、国会議員としての自分の第一の使命であると固く信じて、行動を起こす機会をうかがっていた。

 ある時、ソ連が世界各国の人をモスクワに招いて経済会議を開くことを企画し、石橋湛山ら財界指導者にも招待状が出されていることを知った。実は、高良とみはこの訪ソの話を聞く直前にパリにおけるユネスコ会議への招待状を受け、すでにパスポートを手にしていたので、訪ソ団に加わり、パリからソ連に入り日本人抑留者の問題を調べたいと願った。

 運よく訪ソ団に加わることになったが、政府は、講和条約発行を前にアメリカとの関係を心配してソ連へのパスポート発行を認めない。そこで、高良とみは単身パリのユネスコ会議へ向けて出発した。

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2008年5月 2日 (金)

「鈴木貫太郎の言葉の斉唱について」

◇先日の「日記」で、昔、桃井小では、子どもたちに「正直に腹を立てずにたゆまず歩め」を斉唱させた事を書いた。終戦時の首相鈴木貫太郎の言葉で、今でも彼の母校桃井小の石碑に刻まれている。私の「ふるさと塾」の塾生に小学校時斉唱した2人の体験者がいたのだ。恐らく若い脳細胞に染み込んだこの言葉は2人にとって長い間人生の指針になってきた事だろう。「今、これを斉唱させたら理屈抜きの道徳教育になるのに」と私がある所で話したら、「いろいろな親がいて、恐らく反対意見が出て、出来ないでしょう」という人がいた。

 鈴木貫太郎の言葉は一つの例である。単純明快な真理を表す言葉を小学生に斉唱ないし朗唱させることには大きな意義があると、私は思う。

◇ここで参考になる例は、萩市の小学校が毎朝各教室で吉田松陰の言葉を朗唱している事実である。

 その学校とは萩市立明倫小学校である。これは長州藩の藩校明倫館の跡地に建つ。吉田松陰がこの藩校で教えたこともあって、明倫小は松陰の教育精神を受け継いでいるという。松陰の言葉は普遍性のある真理を含むから子どもに朗唱させることを地域の人々は支持しているのだろう。しかし、何よりも重要なことは、吉田松陰が、萩市の人々にとって恐らく絶対的な存在であることだ。だからこそ、その言葉を朗唱させることに表だった反対がないのであろう。

 かつて萩市を訪れた時、同市では「松蔭読本」を小学校4年生全員に配布して読ませていることを知って感動したことがある。群馬県もこれに習うべきだと考え、群馬の偉人に関するシンプルな読本を作ることを提言したことがある。一応実現されたが失敗であった。教育委員会は地域的バランスを考え、各地域の人物を広く取り上げた結果インパクトのないものになった。CDにして全校に配布したといわれるが、その後、何人かの先生に聞いたらその存在すら知らないとの事であった。魂の入らないお役人仕事にがっかりした。群馬の偉人の人物像を深く掘り下げて子ども達に教えることは、今日ますます重要になっている。

◇また硫化水素による自殺があった。小樽市の青年だ。周辺の人350人が非難したという。硫化水素による自殺者は4月だけでも50人を超すという。異常という他はないが、自殺を考えている人が非常に多いと言う現実と硫化水素を使うと言う手段が結びついた結果である。インターネットが重大な役割を演じた。硫化水素を使う具体的な方法が書き込まれているからだ。他の手段がネットに書き込まれれば、それも自殺の手段となるだろう。病める日本の社会の暗部にインターネットが蛇のようにうごめく。規制しようとする法律は後追いで手に負えない状態だ。人々のモラルが崩壊していくとき、インターネットは気狂いに刃物となり得る。(読者に感謝)

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2008年5月 1日 (木)

「不思議な自殺の連鎖現象」

◇H2S、これは何だろう。水素とイオウの化合物で硫化水素である。CO2は地球温暖化の犯人としてすっかり馴染になったが、H2Sという化学式は知らない人も多いだろう。タマゴが腐ったような刺激臭があり、吸えば脳の中枢がおかされ死に至る有毒ガスである。火山から噴出することもある。記憶に残るのは、1976年(昭和51年)嬬恋村の本白根登山道で発生した事件だ。県立高崎女子高校の生徒と先生がこのガスを吸って倒れ、生徒2人が死亡し、先生と生徒17人が重軽傷を負った。

 次に挙げるのは報じられた最近の硫化水素自殺である。2月29日大阪市で大学院生、3月31日札幌市のマンションで男性、4月23日高知県の女子中学生、4月25日横浜市のマンションで男性、4月26日横浜市で高校3年生の男子、同じく4月26日別府市の31歳の女性。これらの中には、近くの住民が避難すると言う騒ぎを引き起こしたものもある。この自殺は、理解し難い不気味な社会現象である。先日の「せんたく」の会議に出された資料に、「この社会がどこか狂いはじめているとしか思えないような事件も続いています」という一節があったが、この自殺は正に、そのような事件である。

 警察庁は硫化水素の発生方法やそれによる自殺方法のインターネット上の書き込みを有害情報に指定し、ブロバイダーやサイト管理者にその削除を依頼する方針だという。書き込み自体が犯罪でないとしても、このような警察庁の対応は社会を防衛するためにやむを得ない事だ。

◇先日、東京からの帰途、携帯のニュースで信じられない事件を読んだ(28日)。その夜、夕刊にも載った。オーストリアで実の父親が娘を24年間、地下室に監禁し、7人の子どもを産ませたというのだ。この男には妻がいるが妻は地下室の出来事を知らなかったという。1人の子は死に3人の子は、父親と妻が育てた。行方不明の娘が生後1年くらいの子どもを育てられないと手紙を添えて玄関前に置いたという事になっていたらしい。残る3人の子は、生後、地下室から一歩も出たことがなかったという。地下室には、寝室、台所、トイレなど数室がありテレビもあったという。7人の子を産んだ娘とその子どもたちの地下室の有様を容易に想像する事は出来ない。闇に蠢(うごめ)く黒いかたまりしか頭に浮かばない。数年前新潟県で女性が10年以上も監禁された事件があったがその比ではない。娘と子どもたちを人間の世界にすくい上げる事が出来るのか非常に気になることである。

◇新型インフルエンザの発生は確実で、それは時間の問題だといわれるが、その足音が聞こえだしたような気がする。十和田湖でハクチョウが強毒性のH5N1型ウイルスにかかって死んだ。新型はこれが突然変異を起こし、人から人に感染するようになったもの。その場合には、被害をくい止めるために権力によって強制的な措置も必要になる。それには法的な根拠が要る。国家的な危機に対応するために民主党と自民党の合意が成り新型インフル法案が成立した。事の重大さは、ガソリンの値上げどころではないのだ。(読者に感謝)

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