シベリア強制抑留『望郷の叫び』(111)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実
他の班長も一様にうなずいた。では、どうしたらよいのか。収容所側にいくら懇願しても、誠意のある対応が期待できないことは明白である。では、このまま自滅を待つのか。話を進めるうちに、班長たちの眼光は殺気を帯びるほど鋭くなった。
「自滅するより闘おう。座して死を待つのは日本人としての恥だ」
一人の班長が押し殺した声で言った。
「同感だが、どのように戦うのだ」
「いや、闘うなら勝つ戦いをしなければならぬ。さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」
「まず作業拒否だ」
「そうだそうだ」
いろいろな意見が交わされた。そして重大なことだから、各班で話しあって、その結果を踏まえて結論を出そうということになった。
12月の19日を迎えた。各班の結論は、作業拒否で戦うということであった。これで全体の方針が決まった。そこで、代表を決め固い組織をつくって、死を覚悟の交渉をやろうということになった。班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎であった。
石田は要請を受けたとき、作業拒否を実行する班はどの班かと聞いた。班長会議の面々は、浅原グループを除く全部だと答えた。浅原とは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー浅原正基のことである。
作業拒否闘争の代表になることは死を覚悟しなければならない大変なことであるが、石田三郎は人々の熱意に動かされ決意した。石田は人々の前に立って言った。
「この闘いでは、犠牲者が出ることは覚悟しなければなりません。少なくとも代表たるものには責任を問われる覚悟がいる。私には、親もない、妻もない。ただ、祖国に対する熱い思いと丈夫な身体をもっています。私に代表をやれというなら、命をかけてやる決意です。皆さん、始める以上は力を合わせて、最後まで闘い抜きましょう」
瀬下龍三は、石田三郎のことを振り返って、あの環境で指導者となったのは、友のため人のためという強い信念の持ち主だったからこそで、普通の人のできることではなかった。事件の間、大局を誤らないよう折々私と意見を交わしたが、状況判断、対策など的確な戦略と強い指導力を見せたと語っている。
☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。
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