シベリア強制抑留『望郷の叫び』(105)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実
ハバロフスク事件の発生は、昭和30年の暮れである。日本人抑留者のほとんどは、昭和25年の前半までに帰国した。しかし、元憲兵とか、特務機関員とか秘密の通信業務に従事した者などは、特別に戦犯として長期の刑に服し、各地に分散し受刑者として収容されていたが、一般の日本人抑留者の帰国後、ハバロフスクの収容所に集められていたのである。
前橋市田口町在住の塩原眞資氏は、昭和25年に帰国したが、その前はコムソムリスクの収容所におり、その後ハバロフスク収容所に移されていた。昭和23年に、ここに入れられたときのことを塩原氏は、その著『雁はゆく』の中で次のように述べている。
「この収容所に集結された者は、聞いてみると、日本軍の憲兵、将校、特務機関兵、元警察官、そして私のように暗号書を扱った無線通信所長等、軍の機密に関係したものばかりの集まりであった。それからいろいろといやな憶測が頭をかすめる。この収容所に入れられた者は、絞首刑か銃殺かまたは無期懲役かと寝台の上に座って目を閉じる」
塩原さんたちの帰国後も、この収容所の日本人たちの苦しい抑留生活は続いた。そして、世界の情勢は変化していた。
昭和27年、参議院の高良とみが日本人として初めてこの収容所を訪れ、一部の日本人被収容者に会ったとき、彼らは一様に、「日本に帰れるのか」、「死ぬ前に是非もう一度祖国を見たい」「祖国は私たちを救う気があるのか」と悲痛な表情で訴えたという。
ほとんどの日本人抑留者は帰国した。そして、昭和28年にはスターリンが死に、ソ連当局の受刑者に対する扱いは大きく改善され、ドイツ人受刑者も帰国を許された。それなのに、日本人だけは、従来と同じような過酷な扱いを受けている。高良とみに訴えた日本人の心には、このような情勢のなかでのいい知れぬ焦燥感と底知れぬ淋しさがあったと思われる。
☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。
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