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2008年4月30日 (水)

「地方政府議員連合発足準備会に参加」(28日)

◇昨年私はマニフェスト大賞にノミネートされ六本木ヒルズの授賞式に出たが、その時、早稲田大学の教授で「せんたく」の代表北川正恭氏と知り合いになった。その後、北川さんから、地方政府議員連合の発足に協力して欲しいという要請を受け、私はその主旨に賛成した。

 会議は28日、ANAインターコンチネンタルホテルで行われた。出席者は、「せんたく」代表の北川正恭氏の他、「せんたく」幹事で三重県議会議長の岩名氏、神奈川県議会議長の松田氏、21世紀臨調主査・せんたく幹事の慶大教授曽根泰教氏、21世紀臨調事務局長前田和敬氏等8名であった。それぞれ個人として参加した人々で、私は、暴力団排除の条例づくりで中心になった群馬県議会議員と紹介された。地方議会の抱える様々な課題と議会の役割等につき有益な議論が交わされいくつかの点で目を醒まされる思いがした。

 地方政府議員連合(仮称)が設立されることとなり、私は幹事を引き受けることになった。この議員連合は、21世紀臨調が母体となって立ち上げた「せんたく」の中の組織として位置づけられる。

 「せんたく」の目標は政治改革である。「なぜひらがななのですか」と妻にきかれた。それは、「選択」と「洗濯」をあらわすためだ。「選択」は、具体的にはマニフェストによって有権者に政策を選ばせること。このことによって有権者は真に政治の主役になれる。「洗濯」は、洗いなおすことだ。つまり改革である。幕末、坂本竜馬が姉の乙女に「日本を今一度洗濯いたし申し候」と書いたと言われる。北川さんは、これからとったと話していた。今の日本は幕末と同じで洗い直さねばならぬということだ。

 今日の日本はどこか狂いはじめている、また崩れはじめているようだ。それをくい止めるためには「せんたく」が必要である。そして、「せんたく」が目的を達するためには、地方議会の改革が必要なのだ。

 会議では、「知事と対等な誉(ほまれ)ある議会を実現しなければならない。そのため議会改革がどうしても必要だ。全国の議会が切磋琢磨し善政競争をしよう」と語りあった。情報公開、政務調査費、議会事務局の在り方なども論議の対象になった。群馬県議会の改革の状況と課題についても話題になった。私たちの名で、「地方政府議員連合への参加を広く呼びかけることになった。

◇今月の「ふるさと塾」は「オリンピックの歴史」だった。チベット問題にも触れた。その中で、中国に対する世界の異常なほどの抗議は、人権や平和で非難される国は、オリンピックを開く資格がないことを物語っていると話した。古代のオリンピックでは開催中は戦いを休止したといわれるが中国の事態はオリンピックの意義を改めて考えさせることになった。なお次回のふるさと塾は5月31日で、鈴木貫太郎を取り上げると話した。昔、桃井小で、「正直に腹を立てずにたゆまず歩め」という鈴木の言葉を斉唱させられた塾生が2人いた。昔の教育の良い点であったと思う。(読者に感謝)

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2008年4月29日 (火)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(100)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

 時は明治の新しい国づくりの運気がみなぎる時節、島村は近代産業である製糸業の隆盛という活気のあふれる中で、西洋の風潮も積極的に取り入れ、また、キリスト教の影響も大きかったところである。田島弥平はパリの万国博覧会にも出かけたほどのハイカラな人物であった。母邦子は、このような時代の風を吸って、また祖父弥平の影響を受けて育った。

 高良とみは自伝の中で、母のことを次のように語る。

「母は将来島村を背負って立とうとする気概と時代の先端を歩もうとする気迫があふれた勇ましい少女だったようです。断髪に飾り羽根の帽子、乗馬袴といういでたちで、前橋女子高に通う姿は当時でもさぞ人目を引いたことでしょう」

 邦子は前橋女子高を卒業後、横浜の共立ミッションスクールに進み、そこで西洋風の教育を受けた。邦子はやがて、アメリカ帰りの技師である公務員和田義睦と結婚しとみを産む。

 とみが小学校2年生の時、日露戦争が始まり、父は測量の仕事で朝鮮に渡る。その間、邦子、とみ、とみの弟新一は、群馬の島村の母の実家に住むことになった。とみは島村の小学校に転入し、母の実家で養蚕業の実際を身近に体験する。

 しばらくして、とみは再び新潟の小学校に転校する。高等女学校もいくつか転校するが、神戸第一高等女学校を首席で卒業。大学は日本女子大英文学科を卒業。その後渡米し、コロンビア大学大学院、バーナード女子大、ジョンズ・ホプキンズ大学などで学ぶ。とみのこのようなアメリカの大学生活で得た英語力は、彼女のその後の活動を大いに助けることになった。

 とみは帰国後昭和2年31歳で母校日本女子大学の教授に就任、33歳で慈恵医大の高良武久と結婚する。女性の学者はオールドミスで終わると思われていた時代なので、33歳の彼女が3つ年下の男性と結婚、しかも恋愛結婚ということもあって大いに話題となり新聞や雑誌が書きたてたという。

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2008年4月28日 (月)

「県有地取得に関する特別委員会の初日」

◇高木建設から不適切な土地を不当に高く購入したのではないか、高木元県議が直接関与したのではないか、等に質疑が集中した。私はトップバッターでおよそ1時間質問した。

 冒頭、私はこの特別委員会の重要性を強調した。それは、県民に信頼される県政の実現は、一連の疑惑をこの委員会で晴らすことが出来るか否かにかかっているということである。

 質問した中からいくつかを紹介したい。まず、元総社の土地を1㎡当たり65,000円で購入した点である。特に土地の上を15万4千ボルトの高圧線が走ることは、健康上憂慮すべきことなのに、県民の健康を守る立場の県が県営住宅を建てる目的でこの土地を取得することは何事かと発言した。高圧線下の健康障害については、未だ因果関係は証明されていないが、深刻な問題があるという調査報告は多く公表されている。大阪の門真市ではガン発症率は全国平均の20倍、白血病は100倍という。これは市の中心部に高圧線や変電所があるためではないかといわれている。国立環境研究所の高圧送電線の磁場と小児白血病発症率増加に関する調査結果も存在する。

 県は、これまで、高圧線の直下は駐車場にするとか、高圧線下は土地を安く買えるとか発言していた。不見識であると思う。小寺前知事が土地購入後わずか一年で方針を変えて県営住宅建設を中止した背景には、この事を認識していた事情があるのかと思いたくなる。また、平成12年度の外部監査で、この土地が不良滞留地であると指摘されていたこともとりあげた。

◇この日の特別委員会で、高木元県議が元総社の土地取引に直接関与していたことが明らかにされた。県議の口利きが一般論として悪いとはいえないが、悪い結果に結びつく口利きは許されない。ましてや、近い親族の利害に関わる場合には、便宜をはかったと思われても仕方がない。高木建設は高木元県議の実兄が経営する会社であった。この会社の所有する土地を口利きによって不当に高い値で買わせた疑惑がもたれている。

◇この日の委員会には、元総社の問題の土地に関する二つの評価書が提出された。一つは武井不動産鑑定事務所で、1㎡当り、「78,300円」と評価し、他は、群馬土地株式会社で、対象の土地を1号と2号に分け、1号は1㎡当り「57,400円」、2号は1㎡当り「59400円」と評価した。なお、県の担当課の評価は、「60,300円」であった。(高木建設からの取得値は、65,000円/㎡)

◇私は庁議の事も問題にした。庁議は県政の最高方針を決定する場である。小寺前知事は関係していないと発言したが、庁議ではどのような事が報告されたのか、詳しい内容を提出するように求めた。又、高木元県議が当時の担当課長に話したメモ等があれば提出するように求めた。行政の場では、必ずメモをつくるものである。口頭だけでは忘れることもあり、担当が変わる場合に引き継ぐことも出来ないからだ。次の委員会(5月20日)には、又新たな資料が出ることが期待される。(読者に感謝)

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2008年4月27日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(99)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

許可した上で、都合の悪いことは見せないように中央から指示したのであろう。かくして、演出された収容所の一部を、高良とみは見ることになったのである。しかし、それにもかかわらず高良とみのハバロフスク収容所訪問の意義は大きい。

 野党の国会議員でもこれだけのことができた。それを可能にした主な要因は、逮捕の危険までも冒して実行した高良とみの勇気と信念と行動力である。もちろん、野党の国会議員だからこそできたということもいえよう。しかし、それにしても高良とみの行動は、日本の国会議員として、なし得ることがあることを証明したことになる。冷戦構造の中にあって、いかに政治の壁が厚く高かったとしても、なし得ることをぎりぎりまで努力しなかったことに対する政府や与党国会議員への批判は免れない。その後社会党議員団のハバロフスク収容所訪問が行われたことがあった。結局、昭和31年に首相鳩山一郎が日ソ交渉をなし遂げて抑留者全員の帰国を実現させるわけであるが、祖国を思う同胞の地獄の苦しみを思えば、その間、政府与党はなぜもっと必死の行動をとらなかったか理解に苦しむのである。

二 高良とみの歩み

高良とみは明治29年、和田義睦、邦子の長女として富山県高岡市で生まれた。とみは公務員である父の転勤により、新潟県の小学校に入学する。その血筋をみると群馬県と関係が深い。母邦子は、群馬県佐波郡島村の田島家の出身である。邦子の祖父は、蚕種製造に成功し、「蚕聖」と呼ばれた田島弥平である田島馬弥平は蚕糸業によって島村を発展させ、島村は、「新地島村に黄金の雨が降る」と言われるほどにぎわったという。

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2008年4月26日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(97)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

高良とみの動きが注目を集めるのは、国交のないソ連に日本人として初めて、ましてや国会議員として初めて、鉄のカーテンをくぐって入ったからである。米ソ対立の冷戦下その勇気ある大胆な行動は、日本ばかりでなくアメリカをも驚かす世界的なニュースとなった。

出発は、昭和27年3月であるが、高良とみは旅券法違反で逮捕されることを覚悟して出国した。これは、アメリカとの間の関係に神経を使う、時の吉田政権が高良とみのソ連訪問に強く反対して、ソ連へのパスポートの発行を認めなかったからである。

前年の昭和26年、ソ連などを除いて、アメリカを中心とした国々との間で平和条約を結び、その発行が昭和27年4月であり、高良とみの出発は、その直前の3月でいうことで、首相吉田茂は、アメリカとの外交関係に影響することを恐れていたのである。

高良とみはパリのユネスコ会議に出席し(パリ行きのパスポートは取得していた)、ヘルシンキを経てモスクワの国際経済会議に出席した。ソ連はパスポートのない彼女を受け入れたのである。

モスクワ国際経済会議での高良とみの出番は、昭和27年4月9日だった。着物姿で行った約45分間の英語のスピーチは、会場が割れんばかりの拍手を得た。その様子は、モスクワ放送で報じられた。そしてその後、グロムイコ外務次官からの連絡を受け、会うことができた。

ここでは、抑留されている日本人捕虜の収容場所、人数、死亡者の名簿の公開、墓参、現在収容されている人々との面会などについて、長時間にわたって話すことができた。

経済会議でのスピーチの素晴しい反響や日本の政府から批判されている国会議員であること、そして、実際に会ってみて彼女の真摯な態度に動かされたことなどからグロムイコは、ハバロフスクの収容所を訪問することを特別に許可したものと思われる。

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2008年4月25日 (金)

「特別委員会が始まる。問題点の整理」

 

◇県有地等の取得処分に関する特別委員会が25日から始まる。この土地の中には、今新聞を騒がせている高木建設関連のものが多く含まれる。特別委員会の目的には、いわゆるこれら「疑惑」の真相を求める事も含まれているのだ。これまで、県議会ではいくつもの部門で議論がなされてきた。今回の特別委員会は、それらの繰り返しではなく、それらの成果を踏まえて前進させるものでなくてはならない。こう思って、議論された主要な点を整理した(24日)。その一部を、この「日記」で紹介したい。

◇私が委員長を務めた3月10日の予算特別委員会では、元総社の土地取得に関して厳しい指摘と質問が行われた。県道安中線の北、染谷川を挟んだ土地は上空に10万ボルトを超す高圧線が走り両岸は川に向って傾斜し道路に通ずる部分もなく、過日の県議団の現地調査でも「こんな土地をよくも買ったものだ」という声があちこちで聞かれた。

 この土地取得については不審な点が多くあった。その主なものは次の点である。①県営住宅建設には不適切な土地を高木建設から取得した経緯。②しかも、県担当部門の評価より高い値で買っている。③県が取得する目的の土地を県住宅供給公社に買わせている。④買って一年後に県営住宅を建てないことに方針転換した。⑤土地取得後、13年間も放置し、その損害は莫大なものである。

①についてはあまりにも簡単に買ってしまったこと及び、庁内各部の会議を経て決められたというが3ヶ月と言う短期間でなされたことにつき、高木建設から取得することが既定の事として決まっていたのではないかと言う疑惑がある。また、国土法違反をおこしている会社が持ち込んだ物件を「はいよ」と買ってしまったと思えるような部分について、知事はどのようなお考えかと問われ、大澤知事は「県としてもう少し慎重に対応すべきであったと思います。購入して僅かな期間で住宅建設を止めるということをしているが、状況をもう少しよく把握すればよかった。本当に買う必要があったのかと改めて感じます」と答えた。 

②については、担当課の評価額より1㎡当たり、4700円高く買った。③については、県が直接買う場合には知事の決算が要るが、住宅供給公社に買わせているため最終的に県が取得したのに、知事の決算が不要とされた。④一年で方針転換したことは、買う必要性を慎重に判断しなかったからではないか。⑤は論外のこと。川瀧県土整備部長は、南波委員の質問に答えて、「13年間、用地がこのままになっていることに対し、非常に問題があると思っている」と発言した。

◇特別委員会の役割は大で責任は重い。一連の出来事は、議会がこれまでチェック機能を十分に果たせなかった結果ともいえるからだ。大澤知事は、「過去をしっかり検証することは大切なことだ」と発言した。今こそ、県議会の真価が問われている。私も特別委員会の一員として知恵を絞り最大限の努力をしようと思う。真の戦いが始まろうとしているのだと思う。(読者に感謝)

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♪議員日記第三巻、9月頃出版予定です。ご期待下さい。

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2008年4月24日 (木)

「母子殺害、少年時の罪に死刑の衝撃」

◇広島高裁により死刑判決を受けた人物(27歳)は「元少年」と報じられる。犯行時に少年(18歳1ヵ月)だったからだ。少年法は罪を犯すとき18歳未満のものには死刑を科さないとしている。元少年は犯行時、18歳よりも1ヵ月長じていたために死刑の対象になった。

光市の母子殺害事件である。母親を殺害後に強姦し幼な子の首をしめて殺した。少年の頃父親の激しい暴力を受けて育ち母親は自殺した。一、二審は更生の可能性があるとして無期懲役としたが、最高裁は広島高裁に差し戻し、広島高裁はやり直し裁判で死刑を言い渡した。被告は上告したからまた最高裁で審理される。逮捕されてから既に9年が経つ。

 この事件の経過から分かるように、プロの裁判官でも無期か死刑かで判断が迷うというのに、来年から始まる裁判員制度の下では、クジで選ばれた全くの素人がこの難しい判断に参加することになる。そこで、私達は死刑について、日頃から理解を深め考える教訓をしておく必要がある。

 法律上は、人を殺せば死刑、無期又は3年以上の懲役となっているが、判例上、死刑が下されるのは、通常、2人以上殺した場合であって、残虐性、遺族の感情、被告人の更生の可能性などを考慮して裁判所は「情状酌量の余地なし」といった表現の下に極刑たる死刑を下す。被告が18歳以上の少年の時は、これ迄4人殺した場合に死刑を下された例が多いが、今回の母子殺害事件では、2人殺害で死刑が下された。この点に加え、18歳になったばかりの少年という事で議論されている。

 今日、凶悪事件が多い中で、厳罰化の傾向があるといわれる。死刑判決がニュースになる事が非常に多い。重要な事は、人命尊重という事を基本に据えてギリギリの判断で死刑を選択するべきことである。この点で、素人の裁判員が感情論に走って死刑の判断をすることの危険性が心配されている。死刑制度が存在する以上裁判員制度を実施することには無理があるとする意見も一方にあるのである。

 裁判員制度は市民の感情を裁判に生かす狙いがあるといわれるが、逮捕の時点から犯罪人であるかのようにテレビ、新聞、週刊誌で盛んに報道すれば、普通の人は影響を受けてしまう。こういう状況で裁判員が裁判に加われば、かえって司法に対する信頼がゆらいでしまう恐れがある。

 恐ろしい事は、冤罪(冤罪)の可能性があることである。死刑が確定してから、再審により無罪になった例が戦後4人ある。再審が開かれるのは極くまれで、「針の穴にラクダを通す」ほど難しいといわれる。私の身近かな人にも、凶悪事件が報じられる度に、「ああいう人は死刑が当然」と話す人は多い。来年から始まる裁判員制度の下で、死刑が増えるかも知れない。冤罪が増えることを心配する声もある。

 現在死刑廃止国は135ヵ国、存置国は63、先進国で存置するのは米国と日本とシンガポールである。

 来年末から被害者(遺族など)が法廷に参加して「死刑を求める」など意見を述べる制度も始まる。人権尊重の国日本が試されることになる。死刑が最も多い国は中国である。(読者に感謝)

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2008年4月23日 (水)

「高木建設の所得隠し、追徴課税確定へ」

◇高木建設が150億円の所得隠しを指摘され67億円の追徴課税処分を受けたニュースは世間に衝撃を与えた。その後、高木建設は、国税不服審判所に審査を請求した。市民は、この事件の行方に大きな関心を抱いたが、その後、高木市長は、市議会代表者会議で、「国税当局と協議の結果解決する方向でまとまったと長兄から報告を受けた」と述べ、また、(税法上の認識の誤りという高木建設の)「主張がおおむね認められたようだ」と記者団にも語っていた。

 これらの報道によって多くの市民は一件落着のような錯覚に陥ったと思われる。しかし、国税不服審判所に問題が移った上は、審判所の審判に先立って、国税当局と話し合いが付くようなことはあり得ない事であって、審判所によって黒白の判断がなされるか高木建設が不服請求を取り下げるかのいずれしかないと、専門家は確信を持って語っていた。

 22日の「朝日新聞」は、高木建設が不服請求を取り下げた事を報じた。高木建設が自らの非を認めたことになる。これにより、150億円所得隠しに対する67億円にのぼると見られる追徴課税処分が確定する。しかし、高木建設は既に解散し、財産はないので、追徴金の取立ては出来ないらしい。市民税の約7億5千万円も取れないことになる。このような不条理が認められるなら、税金を払う市民はいなくなるだろう。

 国税の専門家によれば、重加算税(15億6千万円と推計)を課せられたこの事件は、悪質な脱税であり、国税当局が刑事告訴することは確実だという。これは、社会正義を実現するための残された手段なのだ。今後の推移を見守りたい。

◇「上州人宰相」記念室が昭和庁舎にオープンする。平成19年の12月県議会で中島篤議員が提案し、大澤知事が真剣に検討したいと答弁したことが実現する運びとなった。戦後、群馬県から4人の総理が出た事は、群馬の歴史上特筆すべき事である。県庁の一画に記念室を設けて顕彰することは、県民に勇気と希望を与えることになるだろう。

 中島議員は記念室の一角に、4人の宰相とは別に鈴木貫太郎を顕彰するコーナーを設ける事を提案しているが、私も同感である。

 鈴木貫太郎は前橋市立桃井小学校(旧群馬県第一小学校)を卒業し、前橋中学校(前高の前身)に2年間在学した

 前高の同窓会名簿の明治19年の所に名がある。鈴木内閣は、昭和20年4月7日から8月15日まで存在した。鈴木内閣の4ヶ月余りは、日本の歴史上恐らく最も密度の濃い月日であった。そして鈴木貫太郎は、昭和天皇の信頼が厚く、御前会議で終戦を決める「聖断」を仰ぐ上で極めて重要な役割を果たした。桃井小学校には、「正直に腹を立てずにたゆまず歩め」という貫太郎の言葉を刻んだ碑が立てられている。私は群馬と深く関わりのある宰相として県庁に顕彰することを強くすすめたい。(読者に感謝)

(明日は、光母子殺害・死刑判決を書きます。少年に死刑、裁判員制度、父の暴力などに触れます)

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2008年4月22日 (火)

「ペマ・ギャルポの叫びを聞こう」

◇ペマ・ギャルポは、チベット人である。59年6歳の時、ダライ・ラマと共にインドに亡命した。現在、桐蔭横浜大学法学部教授である。この人は、このところ、新聞やいろいろな雑誌に登場する。標高三千メートルを越える閉ざされた秘境の国と思っていたチベットが今世界中の注目を集めている。祖国で起きている事を日本人に伝えようとする思いが彼の文章の行間から伝わる。その断片を紹介したい。

 ギャルポは、「日本ではチベット問題に対する理解が足りない」とし3月10日の出来事を次のように説明する。「それは平和的なデモだった。3月10日は、59年のチベット峰起の記念日として毎年デモが行われてきた。今年は、もう一つ別の意味が加わった。それは昨年、ダライ・ラマがアメリカ議会の最高の栄誉である議会名誉黄金章を贈られた事をお祝いしようとしたチベットの僧侶たちが逮捕され、いまだ釈放されていないことに関し釈放を求めたことである、チベット人が暴動を起こしたのではない、流血の事態は中国側の弾圧から起きたのだ」

 ペマ・ギャルポは、また、デモは、北京オリンピックに対する抗議の意味もあったと説く。北京政府は、ヒマラヤに聖火ランナーを走らせ、また、オリンピックのマスコットの4つの動物のうち2つはチベット固有の動物(チベットアンテロープとパンダ)を使っているがこれは世界に対してチベットは自分のものだという既成事実を認めさせるための政治利用であるというのだ。

 また、ダライ・ラマが、今回の深刻な事態に対し、双方の暴力が収まらなければ退位すると発言したことについて、ギャルポは、ダライ・ラマの平和への呼びかけによって一応表面的には事態は鎮静化に向うがチベット情勢は内出血のような状態で実態はより深刻になっていると指摘する。その理由として今回の抗議活動では、今までのチベット人としては全く考えられない事がおきている、それは2人の若い僧が手首を切って抗議し、彼らは病院で治療を受けることさえ拒否した。このような若い僧が運動の中心になって、若い世代を中心としたチベット人の忍耐は限界に達しているというのだ。そしてギャルポは、ダライ・ラマの平和路線について次のように語る。ダライ・ラマは、中国と戦うことは現実的でない、それは憎しみが憎しみを生むだけだ、まずチベット文化の本質を守ることだ、武力で戦ってはチベット民族は根本からなくなってしまうと考える。 なお、このラマの考え方に国際社会が共鳴してノーベル平和賞が贈られ、モラルサポート(道徳的支持)も続いているのである。ギャルポは、ダライ・ラマの権威はチベットにおいて絶大なもので、ダライ・ラマの言葉はチベット人に対しては、終戦を決意された昭和天皇の玉音放送のような力がある。そして、ダライ・ラマは、オリンピックを機会として北京政府が国際世論を受け入れて人権状況が改善される事を願っていると語る。チベット問題は、少数民族の文化と人権の存亡がかかる問題であり、人類共通の課題であると思う。(読者に感謝)

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2008年4月21日 (月)

「長寿会、自治会の総会が盛んだ」

◇各地で各種の団体の総会が盛んに行われている。そういうところで一言メッセージを伝えることに意義があると思い、短い時間だがなるべく多くの会に出席することにしている。

 ある自治会の総会で次のような挨拶をした。「北京オリンピックが近づいていますが、大変な状況になっています。無事に開かれるのか世界が固唾(かたず)を呑んで注目しています。オリンピックを開くことの難しさが分かります。東京オリンピックは昭和39年、今から44年も前、勿論アジアで最初で大成功を収めました。日本が平和で人権が尊重される国であることを世界に示したものです。私たちは中国の現状をみるにつけ、この日本という国に誇りと自信を持つべきではないでしょうか。このような日本を支えるのは地域の力です。自治会の力はますます重要になってきました。皆さんの日頃のまちづくりに向けた努力に心から敬意を表します」

◇昨年10月私を団長とする訪中団は北京のオリンピック施設建設現場を見た。巨大なメインスタジアム、北京国家体育場はまだ未完成で、「鳥の巣」と呼ばれるにふさわしい奇怪な姿を私たちの前に現していた。3月迄に完成と聞かされたが今、やっと完成に近づき、今月18日、ここで陸上競歩のテスト大会が開かれたと報じられた。新聞の写真を見ながら8月8日午後8時のこの会場を想像する。昨年10月この場を訪ねた時は今日の異常な状況は全く予想しなかった。

◇26日、長野市に聖火がやってくる。善光寺は出発点となることを辞退した。寺側は、文化財の保護、参拝者の安全、チベットの人権問題を考えたという。仏教を奉ずる立場としてチベット仏教弾圧に対する抗議の姿勢を示したものであろう。信玄、謙信の戦乱の中を行きぬいた仏教の拠点としての誇りがなせる業(わざ)かと思う。

◇「聖火随行員」という名の中国人の青い軍団の姿が各国で見られる。聖火は5つの大陸、21の都市を走る。聖火リレーは、ヒットラーのベルリン大会の時始まった。ヒットラーはナチスの力を世界に誇示したかったに違いない。中国も大国中国を世界に示すチャンスと考えた。そのために最高峰ヒマラヤをルートに設定し聖火はチベットを通ることになった。そのチベットが火薬庫になって火がついた。

 青い軍団は聖火防衛隊だろう。日本がこれを拒否したのは当然である。テレビや新聞を見るとこの軍団は聖火を守るためにその国の警察のようなことをしている。日本の治安は日本が守るべきなのだから「聖火随行員の実力行使は認めない」と日本が意志表示したのは正しい判断である。

◇中国は五輪を成功させるために懸命な努力をしている。大きな問題を世界から付きつけられて中国が学ぶことは余りに多いに違いない。このオリンピックを機に中国が大きく変わる事は間違いない。中国の変化は日本に大きく影響する。隣人の努力を冷静に見守りたい。(読者に感謝)

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2008年4月20日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(96)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

  高良とみが最初の日本の国会議員として、シベリアの強制収容所を訪れたという事実を、私たちはどう受け止めたらよいのか。収容所の人々は、日本政府は、やればできることを何もしてくれないと、もどかしく思ったに違いない。

 それはともかくとして、高良とみの勇気と行動力は大したもの。高良とみはどんな人物か興味をそそられる。

 終戦のとき、49歳であった高良とみが、ハバロフスクの強制収容所で被収容者と出会うまでの軌跡を戦後の動乱の社会を背景にして、ごく大雑把に見ることにする。 

 昭和20年8月6日、広島に、次いで9日長崎に原爆が投下された。そして、8月8日、ソ連は日ソ中立条約を無視して満州に侵入。このような流れの中で、日本はポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日、天皇のラジオ放送で、戦闘は停止された。

 さて、満州を守る関東軍は、終戦に近づく頃は、その主要な部分は、南方の備えに回され、形だけのものになっていた。ほとんど戦う力もない状態のところへ、ソ連軍は、怒涛のような勢いで攻め込み、日本軍は、武装解除され、約60万人の兵士は、シベリアを中心としたソ連各地の収容所に連れ去られていった。祖国日本へ向けて、各地から兵士の引き揚げが始まる頃、日本とは逆方向への強制的な連行が始まり、その先には、新たな、より過酷な「戦い」が待ち受けていたのである。ソ連への強制抑留は、昭和20年8月から始まった。

 このころ、日本国内では歴史上かつてない大きな変化があった。

 昭和21年に日本国憲法が公布され、その下で行われた参議院選で、高良とみが初当選したとき、彼女は51歳だった。戦後、初めて婦人参政権が認められたことの成果であり、男女平等の大きな前進として、日本の歴史の上でまさに、画期的なことであった。

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2008年4月19日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(95)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

 ハバロフスク事件は、ソ連の理不尽さに抗して闘い抜き、日本人の意地を見せた出来事として後に改めて取り上げる。

 高良とみは、収容所で見たものが偽装であることを疑わなかった。当時の新聞を見るとこのことがよく分かる。彼女は、ソ連から中共、スイス、インドなどを回って帰国に向かうが、昭和27年7月13日の朝日の夕刊は、ニューデリーで高良とみが、「ソ連で18人の戦犯に会ったが、人道的な良い扱いをうけており、ただホームシックにかかっているようだ」と語ったことを、また、7月16日の朝日の朝刊は、羽田に着いた高良とみが、歓迎の人々に囲まれて、「戦犯の人々は労働は一日8時間で、週1回の映画会、劇や音楽会もあるそうだ。欲しいのは日本の食べ物、読み物、新聞だと口をそろえて言っていた」と説明したと伝えている。

 そして、女性の集りでの帰朝報告の中で、これら病人に会って、なんと気の毒な方々なのだろう、私は3、4日は、本当に眠れなかったと述べている。重症の患者は、別の所に押し込められて会えなかった訳であるが、実際にその人たちの姿を見たら、高良とみはどんなに驚いたことであろう。

 高良とみは後に、この収容所から帰国した者が語ったことから、自分が捕虜収容所で見聞きしたことがつくられたものであること、また、日本人の墓地だと言われて祈ったものが実は中国人や朝鮮人の捕虜によってにわかに造られた偽の日本人墓地であることを知って驚愕するのである。

 強制収容所の日本人は、自分たちの実情を少しでも祖国に伝えたいと願っていたから、日本の国会議員と接触することは、まさに絶好のチャンスであった。しかし、彼らにはこのチャンスを十分に生かすことが出来なかった。なぜなら、一部の者が情報を得ていてもそれは不確かで、高良とみの人物と来訪の意味を正しく理解できなかったからである。

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2008年4月18日 (金)

「入学金未払者を式に出させない学校の判断」

◇昨日の「日記」で表記のことを書いたら多くの人から意見を寄せられた。若林県教育委員会委員長が千葉県立八千代西高校の校長のことを「立派」と発言し、私も同感だと書いた件である。多くの人も同様な受けとめ方をしているようだ。

 この件につき、校長の経験をもつある大学教授は、「私なら出席させたと思う、ルールより情が優先する」と語ったことが報じられた。教育は罰するより暖かく諭すことが大切だという理屈なのであろうが、このような温情主義は今日の乱れた現実に適合しないと思う。厳しく約束を守らせることも教育の手段である。

 またある教育評論家が「極めて機械的、官僚的対応。学校側は2人だけではなく、生徒、保護者に謝罪すべきだ」とコメントしたことも報じられている。このような発言は現代の困った社会状況を助長することになるに違いない。

 八千代西高校では、3月に保護者に説明会を開き、「当日に全額納付が難しければ分割もできる、授業料減免制度もある、相談にきて欲しい」と伝えていたと言う。

 入学金を払わなければ入学が認められないというルール(条例)があるのだからこれを守らせることは当然ではないか。それに、説明会を開き分納の事まで話しているのである。このことを、今日の教育を囲む乱れた環境の中で考えるなら校長の決断は妥当だと思う。賛否両論があるのは当然であるが、校長の決断は社会に一石を投じ、学校の秩序を尊重させる世論の形成に一定の役割を果すことになると思う。若林委員長の発言も本県の教育界に重要な示唆を与えた事になるだろう。

◇子どもの生活習慣病に関する検診結果は深刻らしい。県医師会が小4を対象に調査したものだが、総コレステロール値や肥満度が基準値を超える児童が四分の一以上もいる。またメタボリック症候群の予備軍が六人に一人もいることが分かった。

 この調査は、県が医師会に委託して行ったものであるが、この結果を県は資料としてどのように活かすかが大きな課題である。

 教育の関係に於いては、健全な体力は健全な精神の基盤であるし、学力の基礎である。朝食を食べない児童が多いといわれるが子どもの生活習慣はまず健全な食習慣を身につけることから始めねばならない。そのためには、食に関する知識や基本的な考え方を小さい時から養うことが重要である。食育基本法が出来たが、その理念を地方の教育が実践しなければならない。「食育」を学校教育の中にしっかりと受け止めることが大切だ。「食育」とは、食を通して生きる力をはぐくむことである。今回の調査は、このことがさし迫って重要である事を示している。学校が「食育」に力を入れ、家庭がこれと連携することが不可欠だ。

 学校における食育推進の中核となるのが栄養教諭である。本県でも19年度6名が配置された。今後、この栄養教諭の役割は一層大きくなる。検診結果は、この事も示唆している。(読者に感謝)

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2008年4月17日 (木)

「出版に向けて上毛と打ち合わせ」

◇ブログの「日記」を本にするのは3冊目である。既に議長日記・第一巻、第二巻を小冊子にして出した。今度は、「議員日記」として三巻目を出すことになった。平成7年と8年の「日記」から、70編をセレクトして、上毛の出版局の担当に渡した(16日)。表紙をつくり、序文を書き、章立てを考えるなどの作業をこれから進める。セレクトしたものを手にとるとずしりとした充実感をおぼえる。正直にいえば、毎回手を抜かずに書いたといういささかの自負がある。

 私は「NPO・情報バンク」の代表である。このNPOは「情報は民主主義の基礎であり暮らしの道しるべである」という考えに立って、情報を提供することを主目的とする非営利法人である。私のブログの作業は情報バンクの活動の一環でもある。

◇NPOにかかわる人たちと居酒屋で懇談した(16日)。

NPO・ボランティアの担当課長が替わったので、その歓送迎会というのが名目である。群馬では、認証されているNPOは五百を超える。しかしその中には活動していないNPOも多いようだ。95年(平成7年)・阪神淡路大震災がボランティア元年といわれたように、この時多くのボランティアの活動が注目され98年(平成10年)ボランティア運動を支えることを目的としたNPO法が出来た。非営利の市民活動はますます重要に生っているが、NPOは日本の社会で十分に成長しているとはいえないようだ。熱心な人たちと話すことが出来て有益であった。NPOの発展のためには行政の役割が重要だと改めて感じた。担当課長の蛮勇を期待したい。

◇入学金を納めなかった新入生を入学式に出席させなかった他県の校長の判断について、本県の若林教育委員会委員長が「立派」と発言し注目されている。公立高校等の校長会議でのことである。入学金を納めなかった事情が不明なので「立派」かどうか分からない要素もあるが、若林委員長の趣旨は、「現場を預かる学校長は萎縮せずに教育に当たって欲しい、教育委員会はそれをバックアップしたい」ということにあるようだ。

 私は、常任委員会で若林委員長に提言したことがある。「モンスターペアレントといわれるような、何かと学校にいちゃもんをつけ、また、教育委員会にすぐ持ち込む親が多い。学校の先生が萎縮してはよい授業が出来ない。教育委員会は現場の先生をバックアップして欲しい」と。若林委員長は「入学金」の背景にも学校の現場における共通の問題があると意識されたのではなかろうか。私も同感である。

◇千葉県の入学金、授業料の未払いは他人事ではない。給食費の未払いも問題になっている。一般に公共料金に優先順位をつけ水道や電気料金はとめられると生活出来ないのですぐ払うが、その他は払わない親が増えている。背景にはモラルハザード(道徳の崩壊)がある。入学金や授業料については多くの県で頭を痛めている。教育現場ではあっても厳しい対応は必要だと思う。県条例で入学金を納めなければ、入学を許可できないことになっているのだ。厳しい対応をとった高校はその後滞納が減っている。学校の毅然とした姿勢は大切な事だ。(読者に感謝)

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2008年4月16日 (水)

「大沢知事母堂の葬儀に出る」(15日)

◇葬儀は午後1時から行われた。儀式は華美に流れず、どちらかといえば質素で好感がもてた。御母堂の人となりは、大澤知事の背景となっているに違いない。母親の子どもに対する影響は大きいものだ。

 私の母の事が自然と思い出された。私の母は、九十歳、平成17年、私が議長の時に亡くなった。早いもので、もう3年が過ぎようとしている。

初夏のような温かさであった。太田市から車を走らせると、あちこちに菜の花が美しい敷物のように広がり、遠方には白や赤の花のかたまりが春霞の中に溶け込んで見えた。車を走らせながら西行の歌を思い出した。

ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

西行は自分の理想とする死を願いその通り望みはかなえられたと伝えられる。これは人間の理想の死に方の一つなのであろう。高齢社会のただ中にあって、高齢者の死が行列をなしている。病院や福祉施設の中で死は余りに日常的に起きている。死は生の究極点であるから、死に様は生き様である。普段、死を深く考えないが、この日は、自分はどんな死を迎えるのかとふと考えた。

◇「新型インフルエンザの重要な動き」

 この世に初めて現れる新型インフルエンザ発生の危険と流行のレベルを6段階に分けて、現在は3とされる。それは、鳥インフルがヒトへ感染している状況である。外国ではインドネシアの100人など感染者の中に死者が出ている。レベル4は、ヒトからヒトに移る状況である。ここでは、大変な事になり日本では最大64万人が死ぬと試算されている。そしてここに至るのは時間の問題とされる。

 この状況に備えた動きが最近しきりに報道されているので重要な情報として注意を要する。ここでは、二つのニュースを取り上げる。①政府は、新型が発生した海外の国にいる日本人について、感染者は帰国させない、感染していない者はすみやかに帰国させる。定期便が不足する場合には政府専用機や自衛隊機も活用する。私たちは、これから、新型発生が懸念される国へ行くときは注意しなければならない。

②新型インフルのワクチンの接種を年内にも医師ら5,000人に接種し始める。厚労省は、時間の問題とされる新型インフル発生に備え、大流行前のワクチン接種を感染者に接触する可能性の高い検疫官や感染症指定病院の医師等に行う。舛添厚生相は、効き目や副作用など安全性を確認するのが目的といっているが新型インフル対策上の必要性という点が大きいと思う。その次に輪を広げた医療従事者や警察官、国会議員などへの接種を検討するという。

 県は抗インフルエンザウイルス薬投与の優先順位の原則を定めている。それによれば、①予防投与②治療投与の順になり、①の中が更に医療従事者、社会機能維持者の順に分けられている。警察官や政治家はこの社会機能維持者ということである。パニックを抑え社会機能を維持することは重要なことだからである。私たちは「新型」についての知識をしっかりと持たねばならない。(読者に感謝)

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2008年4月15日 (火)

「イノシシの肉はE型肝炎のもと」

◇カゼをひいていく日が経つ。私はカゼで寝ることはほとんどない。食欲も変わらない。この事は今回も同様である。夜少し早く寝るとか行動を微調整しているうちに治るのがいつものパターンである。今回のカゼも、やっと抜け出して身内に力がみなぎるのが感じられるようになって、夜、久し振りにナナと歩いた(14日)。

 変わり易い天気が続いたが、この夜は雲のないきれいな夜空に透(す)けるような半月が輝いていた。工場のフェンスにナナをつないで、工業団地の一画を走った。今年も県民マラソンで10キロを走る。そのことを意識して時々夜走っている。私の足音を聞いたナナが遠くで呼んでいる。月のしずくを浴びてナナの声も興奮しているように聞こえる。畑の畔(あぜ)を歩くと闇の中に菜の花の香りが漂っていた。

◇カゼをひいている時、E型肝炎の事が気になっていた。ちょうどこの時期、イノシシの肉にこの肝炎の原因が存在することが確認されたというニュースを聞いたからだ。十分に火を通せば心配ないらしい。私は何ヶ月か前イノシシの刺身を食べてしまったのだ。

 私の知人がこの冬8頭のイノシシをとった。130キロを超えるものもあった。ワナを仕掛けたKさんとどこか似ているイノシシを想像しドジな奴だと哀れみながら肉を食べた事が思い出される。肝炎にかかったとすれば、ワナにかかったイノシシ以上に私はドジだった事になる。生肉を食べるのは今後は止めようと思う。

◇グラフぐんまの顔の欄に県教育長に就任した福島金夫さんが載っている。「教育行政は初めてなので緊張している」と語っているが、初めての分野は新鮮な心でチャレンジできると言う利点もあるのではないか。いずれにしても豊かな行政経験があるのだから、それを教育の分野で活かすことに腐心して欲しい。

「教育」は人づくりを目的とするから、県政の中でも最も重要な役割を担う。そして教育は深刻な多くの課題を抱えているにもかかわらず教育委員会の形骸化が叫ばれている。教育委員会は名誉職であってはならず、重い責任を果たすという自覚と覚悟をもった人に就いてもらわなければならない。また、委員長には、常任委員会には出席して熱い議論に加わってもらわなければならない。

過日、元教育長の千吉良さんと会って話す機会があった。千吉良さんが教育長の頃は、日教祖との対立もあり、教育界には今とは違った緊張感があった。千吉良さんは辞表を常に懐に入れていたと当時を振り返っておられた。静かな表情の奥に志と情熱を秘めておられたと私も昔の千吉良さんの姿を振り返った。

◇県庁の県民ホールでブラジル日本移民写真展を見た。第一回ブラジル移民から100年になる。私はブラジルを2回訪ねた。ブラジルは大きな可能性を秘めた大地である。移民の苦労を理解し活かさねばならない。ブラジルは日本人にとって地球を理解する偉大な教材である。(読者に感謝)

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2008年4月14日 (月)

「柔道関口杯、自衛隊祝賀、上野公成の集い」(13日)

◇ナナの鳴き声をもうろうとした意識でとらえ私はハッとして身を起こした。ナナは目の前の公園の人々に向って吠えているのだ。それは同時に、ご主人、草取りですよと呼びかけているようであった。窓から見ると既に多くの人が動いている。慌てて飛び出した。「おはよう」と挨拶をかわす。町内のコミュニケーションの場である。まだ草はあまり生えていないが、やがて、人間と草の凄い戦いとなる。しかし、もう除草剤のことを口にする人はいない筈である。町内の人々は、この草取りで顔を合わせる事に意義を認めているのだ。継続は力。小さな子どもも参加している。町内の和と力を生みだす場になっている事を感じる。

◇ぐんまアリーナで朝10時から関口杯柔道大会があった。私は、県柔連顧問として挨拶した。「オリンピクが近づきました。柔道は日本の伝統の武術であり文化であります。この柔道が今や世界の柔道となりました。しかし世界の柔道となって柔道の精神が薄れようとしています。今大切な事は日本の柔道の本質を守ることです。そのためにこの大会の意義は大きいものです。日本で最初にオリンピック委員になった人は、講道館の創始者嘉納治五郎先生です。そして昭和39年の東京オリンピックで日本の柔道は輝かしい成果を上げました。このような柔道の歴史を誇りとして皆さん、今日は力いっぱい頑張ってください」

◇相馬原の自衛隊記念式典があり、祝賀会が行われた。私は祝賀会の方に出た。肌寒い気温の中で桜は満開だった。県職員や多くの民間人が参加していた。それは自衛隊が地域の人に支持されている光景だった。

 私の友人・町田錦一郎さんも民間人を代表する一人として姿を見せていた。「きんちゃん」の愛称で呼ばれるこの人は、民間人と自衛隊の交流を図る会を長いこと主催している。自衛隊が日陰の存在と言われたことは過去のものとなった。群馬では錦ちゃんの努力も大きいと思う。私が自衛隊を今日のように理解するようになったのにも彼の影響が多分にある。一貫して打ち込む姿には、何事によらず説得力がある。

◇上野公成の会に出た。参議院選に落ちてもう政界を諦めたと思っていた人も多いようだ。会場に飛び込むと発起人代表の大沢知事が挨拶していた。演説を聞いてうまくなったなと思った。堂々として迫力がある。環境が人をつくる。また、立場が人をつくる。知事の演説からこう感じた。上野さんは衆院選の比較に出るつもりのようだ。

◇夜、中国帰国者協会の役員たちと懇談した。この人たちとの付き合いもおよそ20年になる。この間に築いてきた信頼は厚い。昨年4月の私の県議選を初めいろいろな選挙で、この人たちの力を借りた。今年は協会設立20周年記念をやりたいと言っている。私は、協会の人々を大沢知事に会わせると約束した。群馬と中国が新しい関係に入るためにもこの人たちの存在は大切である。(読者に感謝)

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2008年4月13日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(94)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

「でも、お母さんが待っておられるでしょう」

 高良とみは思わず言った。すると、男は、きっとなってとみを見詰め、顔色を変えて言った。

「母は待っています。しかし、私のことは伝えないで下さい。その紙を返してください」

 男は手を伸ばしてとみの手から、さっと紙片を奪うと、布団をかぶってしまった。とみは、小刻みに震える布団をじっと見詰めていた。日本軍が厳しく兵士に教えた、「死んでも虜囚となってはならない」ということが深く男の心にあって、母親に恥ずかしい思いをさせたくないと考えたのであった。

 高良とみが生活に不自由はないか、チョコレートを持ってきたが、と聞くと、彼らは、生活には何も困っていない、小遣いもあるからチョコレートはいくらでも買える、ただ日本の雑誌や新聞が手に入らない、日本の批判をやってみたいが本がない、と語った。

 生活に困っていないとか、チョコレートはいくらでも買えるなどということは、まったく事実に反することで、警戒兵と通訳の前で、そう言わざるを得なかったのである。むしろ、新聞や雑誌を手に入れたいという所に狙いがあった。日本人を批判するためにという口実もソ連兵を欺くための知恵であった。高良とみは、家族との葉書の交信や雑誌の送付を約束して帰国したが、やがて約束通り葉書のやり取りができるようになり、日本の雑誌が手に入るようになった。

 一般の捕虜(短期抑留者)は、日本との文通をある時期から許されていたが、これらの人々が帰国した昭和25年の春から、長期の戦犯たちはそれが禁止されていた。しかし、高良とみの尽力により、再会されたのであった。雑誌を通して知る日本の変わりように収容所の人々は驚いた。生活には何も困っていないとやせ我慢の発言をしたが事実は全く逆で収容所の過酷な扱いによって、生存の危機にまで追いつめられた日本人被収容者は、ついに、生命をかけて闘争に立ち上がることになる。かの有名なハバロフスク事件は、高良とみがこの収容所を去ってから、およそ3年後の昭和30年12月のことであった。

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2008年4月12日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(93)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

「祖国では常に皆さんのことを心配しております。いろいろな民間団体も立ち上がって、皆さんにどうか一日も早く、お帰り願いたいと、とくに婦人たちは真剣に努力しております。皆さんのご家族は、皆さんの帰って来られるのを切に待っています。私は、日本の婦人の真心をお伝えに来ました」

 高良とみの言葉をさえぎるように、隣のベッドの日本人が言った。

「国家の命令で、ここに来ました。国家の命令で戦場に行ってこうなったのです。いったい祖国は私たちを救う気があるのですか」

 国家の命令ということを重ねて口にし、救う気があるのかと迫るこの男は射るような視線を女史に向けていた。頬がそげおちたこの日本人の姿は、高良とみには抜き身の日本刀のように見えた。

 高良とみは、男を正視し直立不動の姿勢で答えた。

「申し訳ありません。我々の責任です。皆さんがそうおっしゃるのもご無理ありません。だから国民の声によって、何としても、一日も早く国交を調整し、皆さんを内地に復員させたいと思っています。私は、そのために障害を乗り越えてここに参りました」

 高良とみは18人の日本人に会った。一人ひとりのところへ行き声をかけた。そして、帰国後、家族に消息を伝えるからといって、順次名前を聞くと、ある者は、自分はもう死んだも同然だから名を聞いてくれるなと叫んだ。

 愛知県出身というある者は、紙片に名前と住所を書いて渡しながら悲痛な表情で言った。

「私は運転手だったのですが、徴用された後に特務機関に入れられました。裁判ではスパイ行為をしたとして20年の懲役です。こうなっては死んだほうが良いと考えています。妻には再婚せよと言いました」

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2008年4月11日 (金)

「大沢知事の資金管理団体が出来る」

◇清明会の設立発起人会は役600人を集めてロイヤルホテルで開かれた。元県議の松沢睦さんが経過報告をした。小寺派で知事選も我々と反対の立場に立っていた財界人の顔も多く見られた。天下が変わったのだから仕方ないことなのであろう。しかし、筋を通す人の中には多少のひっかかりを感じる人があるかも知れない。

 大沢知事は感謝の辞の中で、「小寺さんは私の町に一度も来なかった、市町村が県政の主役である、県はそれを支える役目だ、市町村と対話をし、協調してやっていく、今月14日、高崎市を皮切りに全ての市町村と対話を進める」と決意を語った。

◇私の議員日記が本になる。ブログは私が県会議長になった日から始めた。既に小冊子第一巻と第二巻が出された。今回は、議長後の議員日記から選んで本にする。8月ごろを目途に上毛新聞社から出される。今日、項目選びの作業にかかったが、どれを採用しどれを捨てるか迷っている。一つ一つに目を通すと、こんなこともあったのかと改めて感慨を深めるものもある。多くの読者が私のブログを見てくれた。世に出る小冊子が改めてブログの読者に読んで頂ければ嬉しいと思う。これからも、時々出版作業の進み具合を説明しようと思う。

◇10日また4人の死刑が執行された。同日午前のことだという。死刑囚にとって午前9時から10時は魔の時刻だそうだ。この間に執行を告げられて午前中に終わるのだ。死刑囚の1人は、群馬県内で高1の女子を殺し、両親に電話し生きていると言って身代金を要求した。

 鳩山法相は、記者に「感情の認識は一切ない」と語っていた。死刑の執行は法務大臣の命令によることになっている。鳩山法務大臣が命令を下した死刑囚は、10人になる。鳩山法相は、これ迄、「執行は粛々と自動的に行われる方法はないか」と言って問題にされた。

来年5月から裁判員制度が始まる。一般の市民が死刑の問題に直面する可能性があるのだ。日頃から死刑に関する認識を深めておくことが必要である。

私は死刑制度には反対だが、立法論ではなく、現実の死刑制度の上で考えねばならない。法務大臣は死刑判決確定から6ヶ月以内に執行命令を出さねばならず、この命令があった時から5日以内に執行しなければならない。

これまで命令を出す法相と出さない法相がいた。執行ゼロが長く続いた後、後藤田法相が署名した。クリスチャンという自己の宗教観から署名しなかった法相もあった。いろいろな法相があると国民は混乱する。厳正なプロセスを経て絶対間違いないことを前提に法相は署名するべきであるが、その時も苦しみながら署名するのが死刑を維持するせめてもの救いではないか。「感情は一切ない」という鳩山法相の発言は理解できない。国民が法に対して不信を抱く一因になるだろう。(読者に感謝)

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2008年4月10日 (木)

「専門学校の入学式、プロの腕を磨く事の大切さ」

◇山崎学園の入学式は県民会館大ホールで行われ、570人を超す若者が入学した(9日)。調理師、栄養士、製菓技術、コンピューター技師などのプロを目指す人々である。若者の真剣な表情を見て、彼らが日本の社会の一角を支えるに違いないと思った。決して表に立って派手な事をする存在ではないが彼らが目指す技術者は成熟社会の基盤を支える役割を果すだろう。職業に貴賎はないが、現代の複雑な社会では虚業といわれるものもある。これに対して専門学校で技術を身につける人は「実」の役割を果すものだ。技術と同時にハートを身につけて欲しいと思った。このような事を年頭において来賓として挨拶した。

◇午後、金子泰造さんを案内して芳賀地区の主な人の所を挨拶して回った。金子さんは、お世話様になった御礼と皆さんの努力を生かせなかったことに対するお詫びを述べていた。多くの人が、新聞の報道がもっと早く出ていれば違った結果になったであろう、このままにしては前橋市民として恥ずかしいなどと残念がっていた。

◇今月の「ふるさと塾」は26日(土)午後7時からで、テーマは、「オリンピックの歴史」である。この事が頭にあるので北京オリンピックに関する騒動が気にかかる。ロンドン、パリ、と聖火リレーを妨げる行為が続いている。中国のチベット弾圧に対する抗議である。今後リレーに対する抗議は更に大きくなるだろう。報道が世界の人々の意識を刺激するからだ。北京五輪はどうなるのだろうか。

 聖火リレーは、1936年(昭和11年)のベルリン大会で始まった。ヒットラーのナチス政権下であり日本ではこの年、二・二六事件が起きた。世界が第二次大戦前夜という緊張下にあった。この大会で、日本は6個の金を獲得した。その中には水泳女子200mで優勝した前畑秀子がおり、また、棒高跳びで銀と銅となった西田と大江はメダルを切って分け合い、半分が銀、半分が銅のメダルをつくったというエピソードも生れた。日本が最初に参加したのは1912年の第5回ストックホルム大会である。日本人初の金メダルは、1928年の第9回アムステルダム大会である。陸上の織田幹雄、水泳の鶴田義行である。中国の状況を見てオリンピックを成功させるには総合的な健全な国力が必要であることを痛感する。1964年(昭和39年)の東京大会はアジアで最初のオリンピックであった。年数だけでも、日本と中国は44年の差がある。もちろん大成功であった。

この大会から柔道が正式種目となった。女子バレーも東京大会で種目に加わり「東洋の魔女」が優勝した。日本は29個のメダルを獲得してメダル獲得数はアメリカ、ソ連に次ぐ3位となった。大会史上初の人工衛星による中継が行われたのも東京大会である。「日本人よ、日本人の力に自信と誇りを持とう」と私は、東京五輪を振り返って叫びたい。(読者に感謝)

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2008年4月 9日 (水)

「忠犬ハチ公が全米デビュー、我家のナナも忠犬だ」

05120809pc080032 ◇渋谷駅のハチ公がハリウッド映画に登場し全米公開になる。映画の題は「ハチコー・ある犬の物語」。あるプロデューサーがハチ公の物語に感動したのがきっかけだという。ハチ公のストーリーは、見返りを求めない人間と犬の無条件の愛でつづられている。それが米国人の心を打つと製作者たちは考えているようだ。アメリカ人がハチ公の物語に心を動かされるのは現代のアメリカ社会の状況と無関係ではないと思う。イラク戦争で傷ついたアメリカの威信は国民の心も傷つけたに違いない。また、犯罪の多発、日常的に見られる家族の崩壊、これらは病めるアメリカ社会を象徴するものだ。

 こんな社会で生きるアメリカ人は、ほのぼのとした忠犬の愛情物語によって渇いた心をうるおそうとしているのではなかろうか。ハチ公は秋田犬である。秋田犬は、国の天然記念物である。日本の大切な伝統文化を背負って、ハチ公は、アメリカのメディアに登場する。面白いことだ。

◇我が家のハチ公はナナという。私が秋田犬(あきたいぬ)保存会の顧問をしている関係から由緒ある血統証付きのメスの小犬をもらって育てた。それがナナである。正式名は菜花号。父親は上州勘九郎号といい、母は優華号という。ナナは8歳であるが箱入り娘でまだ生娘である。秋田犬は主家のボスをよくわきまえて忠誠を示す。ボスである私に対する感情は大変なもので、車の音、足音で私が分かるらしく鼻をヒィヒィと鳴らす。数日家を空けて帰るとくるくるまわって飛びついてくる。こんなにも私を待ってくれる「女」は他にいない。主従であるが心の友である。焼き肉屋で骨付きカルビを食べるときは、私は骨をそっと紙に包んで持ち帰る。

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◇社団法人秋田犬保存会の本部は秋田県大館市にある。実は、忠犬ハチは大館市で生まれ、東京帝大の上野教授に飼われた。渋谷駅に主人を出迎える習慣があり、教授が急死した後も時間になると渋谷駅に現れ忠犬と呼ばれた。昭和9年に銅像が建てられたが、第二次大戦中金属資源として供出され、戦後再建された。JR渋谷駅には「ハチ公口」という改札口がある。私は学生時代、東大駒場が渋谷駅から出る井之頭線の沿線にあったため、毎日のように渋谷駅に出て、ハチ公をよく見た。私のナナは、このハチ公より美形である。

なお、最初の銅像が作られたときにハチ公はまだ生きており除幕式にはハチ公も参加したという。ハチ公は昭和35年13歳で死んだ。告別式は渋谷駅で僧侶が読経して盛大に行われ、主人と同じ青山霊園に葬られた。私は過日、後援会のバスツアーで近くまで行った折、青山霊園に入ってしばらく歩いたがハチ公の墓を見つけることは出来なかった。人間の寿命は延びたが犬の寿命はどうなのか、10歳のナナの頭を撫でながら長寿を祈った。

◇この日記で何度も取り上げた裁判員制度が来年5月21日からスタートする。壮大な司法改革が動き出す。国民は刑罰や裁判、そして人権などを否応無しに勉強することになる。私は、これから社会に出る中学生、高校生にしっかりと司法とは何かを教えるべきだと思う。(読者に感謝)

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2008年4月 8日 (火)

「バスツアー・歌をうたう光景」(6日)

Img_0253 ◇月に一度のバスツアーの帰りの車中はいつも歌で賑わう。どこの町の石原裕次郎とか美空ひばりと言われる芸達者が必ず何人かいる。この日は、二つの歌が人々の注目を集めた。「静かな湖畔の」と「異国の丘」である。それぞれの歌と関わりを持つ人がいたからだ。

 まず名塚清(きよい)さんがきれいな声で「♪♪静かな湖畔の森のかげから」を歌いだした。実は名塚さんは榛名湖メロディラインが作られるに当たり曲目募集にこの歌で応募しそれが曲目に選ばれ、同じ応募者の中から当選したのである。

 メロディラインとは、伊香保から峠を越え榛名湖を通る県道渋川松井田線において計画された。路面に掘った小さな溝の上を車で走ると「静かな湖畔の」が流れる。速度抑制・眠気防止などの交通安全、及び榛名湖周辺の観光振興を目的とするもの。この曲は、明るく楽しくリズミカルで、榛名湖のイメージにピッタリである。名塚さんの歌うのを聞いて新緑に包まれた湖を連想した。今月、19日が開通式で、ゆうすげ元湯で式典が行われ、その後、水沢のうどん屋で食事会をする。是非、メロディラインを走ってみたいと思う。

◇異国の丘はシベリヤの強制収容所で作られシベリヤ中の日本人収容者が歌って耐えた歌である。バスには、地獄から生還した二人の高齢者がいた。鹿沼次男さんと萩原優さんである。この御二人の事と歌の由来を紹介しながら私が歌った。

 私は拙書・「望郷の叫び」で書いた。シベリヤで強制抑留された人々は、飢え、酷寒、重労働で極限の境遇に置かれた。狂おしい程の望郷の思いを抱きつつ耐えられずに死ぬ人が続出した。およそ60万人が抑留され、そのうちの6万人が死んだ。人々は孤独感を少しでも和らげ、お互い励まし合って生きるため歌を歌った。軍歌やふるさとの歌がよく歌われた。作詩家の増田幸治も強制収容所にいた。「自分たちの心を奮いたたすには自分自身の歌がいい、自分たちの歌をつくろう。帰る日まで歌いながら頑張らねば」。彼がこのような思いで作詞したのが「異国の丘」である。そして、同じ収容所にいた吉田正がセメントの袋の裏に書きとめ曲をつけたのである。

   今日もくれゆく異国の丘で、

   友よ、つらかろ切なかろ

   がまんだ待ってろ、嵐が過ぎりゃ

   帰る日も来る春が来る。

このような背景を知って歌の文句を聞くと一つ一つがずしりと胸に響き荒涼としたシベリヤの光景が思われる。バスの人々は声を合わせて歌い、二人の老人は涙を流しながら歌った。

◇地域の自治会から県道の補修を頼まれたが、いままでとは違った状況になった。道路に使う税収が少なくなる。例えば、軽油引取税は本来の2.1倍の32.1円が適用されてきたが本来の税率に戻った。自治体は大変な減税になる。全国有数な車社会である本県のドライバーは喜んでいる。私の知る運輸業者は、倒産を免れたと言っている。ねじれた国会が生んだ事態である。衆院の再議決が行われようとしている。(読者に感謝)

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2008年4月 7日 (月)

「長男周平と飲みに行く」(4日)

◇私の長男は、重荷を背負って生きて既に25歳になった。共に生きて振り返ると感慨がある。まだ親子で酒を飲んだことがないなあと気付き、「今夜一杯やるか」、「うん」という事になった。長女が、「せっかくの事だからまちへ行ったら」という。「それがいい」と意見が一致し、鳥久のカウンターで飲んだ。男同志の体験ということを周平も感じたのではないか。息子の心の世界を覗(のぞ)くことが出来て有意義であった。

◇育英メディカル専門学校の入学式に出た(5日)。

設立3年目の鍼灸(しんきゅう)士学科と柔道整復士学科がある。96人が入学した。設立の時、県の条件が厳しくて大変苦労したのである。年々入学者が増え、三学年がそろった。国家試験のパスと将来の開業を目指す人々の真剣さが感じられた。最高年齢は60歳である。

 市民の健康を支えるためには、医療の充実が必要である。人々のニーズは多要であり、西洋医学とは別に、伝統の東洋医学の存在意義は大きい。敷居の高くないそして、年月の試練に耐えて生きている身近な医療として「鍼灸」と「接骨」がある。私は、このような思いで来賓として挨拶した。

◇「暫定税率期限切れで教育や福祉にも影響とはどのような事なのでしょうか」という質問が私のブログに寄せられた。道路関係だけに使われる筈なのに、期限切れになった途端、教育や福祉の事業費を削減する理由が分からないというもの。

 道路特定財源の暫定税率分の税収がなくなると道路関係に要する予算の不足を一般財源からまわさなければならなくなる。道路は今日の社会になくてはならいものだ。経済活動、文化活動、日常の生活活動、みな道路に依存している。身体にたとえれば血管である。従って、つくりかけている道路、改修しなければならない道路をストップする分けには行かない。これらの費用を一般財源から出せば、一般財源が少なくなる結果、教育、福祉はもちろん、あらゆる行政に影響を与えることになる。

 そこで、全国知事会・全国県議会議長会等地方6団体は、参議院の責務全うを求める緊急声明を発表した。その要旨は次のようなものである。「暫定税率が3月31日限りで失効することになった。各自治体の歳入欠陥は巨額なものとなり、影響は道路関係以外の住民サービスにまで及び国民生活は大きく混乱することになる。参議院は国民生活への影響を最小限に留めるためにも、その意志を一刻も早く示すべきである」

Img_0244 ◇第11回中村旅行会が行われた(6日)。大型バス1台で毎月一回やっている。今回は「桜三昧」ということで、葛飾柴又、北の丸公園、靖国神社、六本木のミッドタウンを回った。天気はよし、心配していた桜も満開の状態が維持されていて、最良の一日となった。北の丸公園では、桜と緑と水に囲まれて芝生の上で輪になって弁当を食べた。これからも毎月続けるのである。心を開いた楽しい交流の中からは認知症は出ないという信念に基づいている。請う、参加者を!(読者に感謝)

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2008年4月 6日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(92)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

ベッドの日本人は床に座り直し、あらためて、じっと食い入るように日の丸を眺め、また、顔を上げて高良とみを見た。高良とみは病人の目から頬を伝わってすっと流れるものを見た。こけた頬とやせた手足、激しく射るような視線。それは、長い間の苦労の激しさを物語っていた。長い間に何があったのだろう。高良とみは、人々の表情を順に見ながら日本でこれらの人々の帰りを待つ妻や子のことを思った。そして、自分を見つめるこの目の奥には、ふるさとへどれほどの思いが隠されているのかと思うと、こみ上げるものを押えられず、ハンカチを出して目頭をぬぐった。

 病室の日本人たちは、密かに伝えらていた限られた情報から判断して、今日の来訪者にあまり期待していなかった。しかし日の丸と目頭を拭く高良とみの姿を見て考えは変わった。

 元大本営参謀瀬島龍三は、このとき、この収容所にいた一人であるが、その回想録で次のように述べている。

「昭和27年5月、参議院議員の高良とみさんが単身、第21分所を訪問した。ちょうど我々は作業に出ていたので会えなかったが、営内にいた人たちからそのときの様子を聞いた。高良とみさんの持っていたボストンバッグに一面、日の丸が貼ってあり、大変感激したという。入ソ以来我々に会いに来た最初の日本人であった。」

 警戒兵の厳しい視線にもかかわらず、一人が、意を決したように口を開いた。

「日本に帰れるでしょうか。それだけが唯一の望みです。死ぬまでにぜひ、もう一度日本が見たいのです」

続いて、もう一人が、訴えるように言う。

「我々は日本に帰るのをこんなに待っています。毎日、そのことばかり考えて、何年もたちました。それに対して日本の同胞は何を考えておりますか」

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2008年4月 5日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(91)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

 このころ日本国内は、世の中の流れが180度変わって、民主憲法の下で男女同権が驚くほど進展していた。つまり女性の参政権が認められ、昭和21年の第1回衆議院総選挙では女性39人が当選した。翌昭和22年の第1回参議院選選挙では女性10人が当選した。その一人が高良とみであった。男尊女卑の社会の象徴ともいえる軍隊生活を長くやり、さらにその続きのような、そして閉ざされた特殊な状況におかれている彼らとすれば、女の国会議員を信じられないのは無理もないことであった。

 昭和27年5月11日、参議院議員高良とみの車は営門をくぐり、収容所の病院の前に静かに止まった。きれいに掃除された収容所には、日本人の姿はまったく見られない。

 本日は日曜なので、日本人は街に映画を見に行ったり、川に魚釣りに行っていますと、高良とみは案内係から説明を受けた。病室は花で飾られ、窓にはきれいなカーテンが掛けられ、ベッドは純白のシーツでおおわれていた。

 収容されていたある日本人の証言によれば、ソ連側はあらかじめ女史が見る病室を決めておき、そこには退院予定の者を残し、重病患者と外傷患者のすべてを他の分院に移しておいた。だから高良とみが病室を見舞ったとき、病人はみんな元気で、ベッドに起き上がれない者、口がきけない者は一人もいなかった。しかし、自実を語ることは禁じられていたし、話したくても周囲は、警戒兵と通訳で固められており、事由にものが言える状況ではなかった。

 高良とみが病室に入ったとき、日本人の目は一斉に、彼女が持つハンドバッグに貼られた赤い日の丸に吸い寄せられた。日本の女がいきなり目の前に現れるのも意外なことだが、その持ち物に堂々と日の丸がつけられているのが信じられないのであった。懐かしい祖国の旗。命を掛けて戦った日本が目の前にあった。病室の一人ひとりの胸に熱いものが込み上げてきた。彼らは高良とみの目を見た。彼女も、目の前の日本人を見つめた。

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2008年4月 4日 (金)

「商店をまわって厳しい意見を聞く」

◇時間がとれたので20~30軒の商店を訪問した。かねて行政に対して厳しい意見を持つ私の友人のTさんは辛辣(しんらつ)な言葉を突きつけた。要点を挙げると、「議会はみな慣れ合いだ」、「今騒がれている高木建設がらみの疑惑も議会がきちんとしなかったからだ」、「役人を極端に少なくしてパートを増やし仕事は外に出すべきだ」など。いずれもぐさりときた。謙虚に受け止めることにした。事は、議会のチェック機能や行政改革に関する。 弁天通りの商店街では、あるご主人が、市長選のことで前橋のイメージがすっかり悪くなって残念だ、量販店に人が流れてしまう、特色のある伝統の店は「人」が守るものだ、そういう店がなくなってしまう、とこぼしていた。私たちが市長選で訴えていた品格のある町を求めていることを感じた。まちを歩いて人に会うことは、政治家にとって原点である。この事は、行政マンにも言えることだと思う。 芳賀地区長寿会の総会に出た(3日)。老人会長が年金や医療制度のことが心配だと訴えていた。医療制度とは、75歳以上を後期高齢者として独立の医療制度とし、その保険料を年金から天引きする方法で徴収する動きのこと。 この点の批判は、商店街を歩いたときも聞かされた。ある人は、年金をいい加減なものにしておきながら、その年金から保険料を天引きするのはひどいと言った。 また、この人は、後期高齢者とは何だ、後期とは、先がないと聞こえる、馬鹿にした言葉だと怒っていた。このような声が多いのだろう。福田首相はネーミングを改めて、「長寿医療制度」にするという。 ◇アムネスティが中国の人権問題に関する報告書を発表した。報告は、チベットや北京で深刻な人権侵害が行われていると中国を非難し更に8月の五輪開催が近づくにつれ、中国当局は、北京やその周辺で人権活動家、弁護士、地方からの陳情者らを数千人規模で不当に拘束していると指摘した。そして報告は、このような状況でIOCや国際社会、中国と取引のある海外企業が非難の声をあげないのは人権弾圧の共犯者と変わらないと述べている。 ◇アムネスティの発表は今月一日のことであるが、3日の夕刊は、中国の著名な人権活動家胡佳氏が国家転覆扇動罪で懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けたと報じている。政府を批判する論文などが罪に問われた。言論の自由を認めない中国の姿勢が厳しい国際世論の批判にさらされている。日本は表現の自由が最も厚く守られる国の一つである。その事を私たちは誇りにしなければならない。 ◇アムネスティ・インターナショナルとは、言論や思想などを理由に不当に捕らえられた非暴力の人々の救済を求める国際民間団体のこと。会員は世界に140万人以上、事務局はロンドンにある。77年にノーベル平和賞、78年に国連人権賞を受賞している。人権の尊重は、人類が目指す理想であり、五輪はそれを実現する祭典であるが故に中国の現状が厳しく問われている。(読者に感謝) ☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年4月 3日 (木)

「県政報告第22号が出来た」

◇県政報告は、毎日書いている「議員日記」からいくつかをプリントアウトしてつくる。毎回、裏表を使っておよそ10頁である。今回の表紙を紹介すると、「情報は政治とくらしの道しるべ ― けんせい報告第22号 ― 」の表題の下に次の6項目が並ぶ。◎市長選を終えて(2月18日)◎2月議会が始まった(2月20日)◎新型インフルエンザ対策本部を設置(2月21日)◎高木建設関連の疑惑調査に向う(3月7日)◎前橋市議会のリコール運動を振り返る(3月10日)◎公安委員長が戦後初めて委員会出席(3月13日)。カッコ内の月日は、ブログを書いた日を示す。茂木紘一さんの尾瀬の絵が一画を占める。4千部作った。我家の機械を使った手作りのものである。組織やポイントとなる個人を通じて配られる。
 私自身もカバンに数十部を入れて、時間のある時は、配布して回る。長年やっている営業活動のようなもので、抵抗感はない。お得意さんもあれば、新規のところもある。新しい所に飛び込むには多少のコツがあるといえばある。「こんにちは」と言って顔を合わせた瞬間が勝負なのだ。自然のさりげない笑顔を相手に受け入れてもらうことが要点で、初めのうちは、おどおどし、顔がこわばってうまくいかなかった。「私がつくった県政報告です。読んでください」と言うと、多くの人は「読ませて頂きます」とか「ありがとう」と言って受け取ってくれる。時には有益な会話ができることもある。なお、今年中に、上毛新聞から小冊子を出版する予定になっている。
◇女子短大の入学式で挨拶した(2日)。育英短期大学の体育館で行われた。壇上から見る18歳の女性たちはまぶしく見えた。私は、来賓の挨拶で、女性の役割が飛躍的に大きくなっている時代です、それを果すための力を2年間で養って下さいと話した。
◇大連市からサミットへの案内が送られてきた。大連市主催の第8回アジア太平洋都市サミットで、今年9月26日から29日まで開かれる。 案内には次のようにある。「太平洋先進都市 ― 環境、資源、文化及び産業に関する新思考について討論します。開放され、そして発展している中国はご来訪を歓迎致します。情熱的でロマンチックな大連がご来訪を期待しております」
 昨年、私を団長として、県議団が大連政府を訪ね、夏徳仁市長初め多くの要人と会って群馬の経済や文化について話したことが、この案内につながった。日中議連も出来たことであり仲間と検討したいと思っている。
◇北京五輪開会式への参加辞退が続く。欧州各国に開会式参加辞退の動きが広がっている。米下院議長は、北京に決まったことは誤りだったという認識を示し、大統領も開会式をボイコットすべきだと語っている。日本政府は、天皇、皇后両陛下を始めとする皇族方の出席を見送る方針を固めた。テロの心配が大きいうえに、チベット弾圧に対する抗議の意味がある。かつて、ソ連のアフガン侵攻に抗議して世界の半分がモスクワ五輪をボイコットしたことがあった。世界のすじを通すことが重要なのだ。(読者に感謝)☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年4月 2日 (水)

「県庁内は人事異動で人々は動いていた」(1日)

◇「宝くじが1億円当たったので海外旅行に連れて行く」私がこう言うと、事務員の女性は、一瞬目を丸くして「本当ですか、嬉しい」と叫んだ。しかし、すぐに「4月1日ですねー」と私をにらんだ。たあいない冗談は、時に健康な笑いを誘い心に新鮮なエネルギーを生む。

 県庁内には新しい辞令を持って挨拶に回る人々の動きがあった。私が住む鳥取町から2人の部長が誕生した。農政部長の林さんと産業経済部長の柿沼さんである。何となく地域が元気になるような感じになるから不思議だ。

 自民党控室で林さんと日本の農業、地域の農業について話した。日本の農業は自給率が39%を切った。世界の農業事情は大きく変化している。最近の特色としてはバイオエタノールの生産が食用穀物の生産を圧迫している。そちらの方が高い収益につながるからだ。アルゼンチン、ウクライナ、中国、インド、ロシアなどが小麦の輸出規制を始めたという。

 更に、最近の深刻な状況として食に対する安全の問題がある。食は生命と健康にかかわるから信頼出来る生産者から手に入れねばならない。そのためには、国内産が第一である。中国産食品の危険性はこのことを私たちにつきつけている。今のこのような状況は、日本の農業にとってチャンスでもある。私は、この機会に赤城南面の農業に活路を見つけたいと願っている。林さんとはこのような話をした。

◇今回の県人事の特色の一つは、女性幹部の登用である。部長級への登用は3名である。新設の生活文化部の部長に小川恵子氏が就任した。初めての女性部長である。また、会計管理者に鈴木恵子氏、県立女子大の事務局長には須田啓美氏が就任した。前年は、部長級の女性登用はゼロであった。

 県立女子大は、中国大連市の大連外国語学院と提携を進めている。大連外国語学院では日本語を学ぶ学生が三千人程いる。私は、この大学に長年日本の書物を送ってきた。このような交流を基礎にして、昨年県議の訪中団がこの大学を訪ね女子大との提携を一気に進めた。須田事務局長にはこの提携事業を引き継いでもらう。

◇桑園がほとんど姿を消し、養産業は消滅の危機にあるがこれは、群馬の伝統産業として守らねばならない。絹は群馬の伝統文化にもつながる。

 昨年、上毛新聞に田島弥平のことが大きく取り上げられた。明治期、蚕聖といわれ、日本の養蚕に大きく貢献した郷土の人である。私は、ここで一つ紹介したい事がある。拙著「望郷の叫び」に登場する女性議員高良とみと田島家の関係である。高良とみは戦後初の参院選で当選、日本の国会議員として初めて、ハバロフスクの強制収容所を訪ねた。そのハンドバックに貼られた大きな日の丸を見て、収容所の人々は涙を流した。昭和27年のことである。とみの母邦子は田島弥平の孫で前橋女子高を卒業した人。邦子は弥平の影響を受けて育ち、とみはこの母の影響を強く受けた。とみは島村の小学校に転入し母の実家で養蚕業の実際を身近に体験したという。(読者に感謝。)

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2008年4月 1日 (火)

「畠山被告に無期懲役の判決」

◇2人の子どもを殺した鈴香被告に対する秋田地裁の判決だ。「なぜ死刑ではないの」うちの事務員が言った。他からも同様な疑問が聞かれる。検察官は死刑を求刑していた。裁判長は、死刑も十分考えられるが、衝動的で計画的でないとして死刑を回避し無期懲役とした。裁判長も迷ったであろう。微妙なところで死刑と無期に分かれ、その差は余りに大きい。無期懲役は10年で仮釈放される可能性があるのだ。この事件は最高裁まで行くであろうから最終的にどうなるか分からない。刑罰と司法制度を考えるよい機会となる。立法論として、死刑と無期の間に終身刑を設けるべきという意見が多い。

◇来年から始まる裁判員制度の下では、このような事件の裁判に市民が参加する。この制度には賛否両論があり、私の回りの人はほとんどが反対らしい。しかし、実施は確実に近づく。裁判員は無作為に選ばれる。そして、選ばれれば原則として断ることが出来ない。人々は、「そもそも何で裁判に国民を参加させるのか、果して正しい裁判ができるのか」と不思議に思っている。

 それは、裁判に国民の意識を反映させることである。国の権力、つまり立法、行政、司法のうち、立法と行政は国民に身近で国民の意思が反映されていることが感じとして分かる。然し、司法、つまり裁判は国民から離れた所にあって、私たちは、それを当然の事と考えてきた。しかし、このことが、裁判制度の行きづまりの原因となっている。つまり裁判が形式的となり、結果として市民感覚からはなれた判決が下されることも多く、裁判に対する信頼が失われる事態を生じている。

 考えてみれば、国民は主権者なのだから国民から離れた裁判というのはおかしい。合理的な範囲で国民が裁判に参加することが健全な裁判を実現するために必要なことなのだ。日本は成熟社会に入った。そして法令順守の意識も高くなった。これは、国民の裁判への参加が一定の範囲で可能になったことを示すものだ。また、これを実現しなければならない段階に至った。その実現の形が裁判員制度である。私はこのように理解している。

◇裁判員制度の実現に備えて裁判に関係した重要な変化が起きている。その一つは、裁判をなるべく短期間で終わらせる工夫である。日本の裁判はあまりに長くかかる。オウムの裁判は10年もかかっている。裁判の長期化は裁判の拒否に等しいと言われる。裁判員にとって長期間裁判に関わることは耐えられないことだ。そこで、公判前に証拠や論点を整理して公判を短期に終わらせる工夫が行われることになった。また、警察段階の捜査を間違いのないものにすることが裁判員制度の下では非常に重要である。なぜなら、民間人がそれを資料にして有罪か無罪かを判断するのだから。

従来、自白を誘導したり虚偽の調書を作らせる等の事があった。それを防ぐため、取り調べの状況をカメラで他から見えるようにするとか長時間の取り調べを制限するとかの変化が実現されようとしている。裁判員制度は、周辺の変化を伴いながら日本の裁判を大きく変えていく事になるだろう。そのスタートとなる歴史的瞬間が近づきつつある。刑事事件をそういう視点で見詰ようと思う。(読者に感謝)

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