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2008年3月31日 (月)

「愛情で奇蹟はおこります」

Sakura ◇表題の内容のメールを頂いた。先日、私が「日記」で書いた、「脳神経外科病棟の心打たれる光景」を読んだ方からである。私が外科病棟で見たのは、妻に付き添うほほえましい夫の姿であった。

 メールは、この人の身内の方と同室の人の出来事である。植物人間になり流動食を入れるだけの状態で一年以上経過した夫を妻が毎日熱心に声をかけていたら、声を出すようになり退院する迄に至ったという。メールには、「愛情で奇蹟はおこります」とあった。

 私は、先日、やはり「日記」で田口町の塩原さんの奥さんの例を紹介した。植物状態になった妻を塩原さんは毎日通って声をかけ、本を読んでやり手の温もりを伝えた。6ヶ月後に奇蹟は起き意識を回復したのである。

 愛する人に対する真心は、最も根源的なメッセージとして、脳細胞の深部に届くのではなかろうか。長い進化の過程を経て成長した人間の脳は表面では測り知れない機能を蔵しているに違いない。脳を解明する科学が著しく進んだとはいえ脳の全てを知るには遠く及ばない。だから、簡単に植物人間と判断して、見放す態度を取るとすれば、それは、科学の過信であり、おごりであり、また人間の尊厳を無視するものだと思う。愛情が生み出した「奇蹟」はそのことを教えている。

◇白根開善学校の記事に思う。異色教師のことが新聞に出た。実は、私は、長男が同校を出た縁でこの学校の理事をしている。存在意義のあるユニークな学校であるが、時代の潮流の中で難しい問題を抱えているのも事実だ。この学校を支えるものは、教育に対する情熱と高い資質を持つ教師である。紙面で紹介された教師は、父親から虐待を受けた体験を持ちプロ野球選手を夢見たこともあり、横浜国大を出たあとは、劇団にも所属した。挫折を含めた多様な人生経験は「開善」の生徒の大きな支えになっているに違いない。私は、拙著「遥かなる白根」で長男周平を通して見た改善学校の事を書いた。この学校には全国から様々な子どもたちが集まっている。厳しい条件に耐えられずに脱走する生徒も珍しくない。恒例の「100キロ強歩」の実践は、この学校の凄さを示すものだ。

六合村(くにむら)の奥地にあるこの学校は、日本の社会と日本の教育の問題点を写しだしている。全寮制なので人間関係を学ぶ重要な場となっているし、今叫ばれている体験学習や環境学習の点では理想的な教育環境である。

白砂川、花敷温泉、尻焼温泉、長平公民館、これらを過ぎて曲がりくねった道を登りつめると白樺の林の中に校舎が立ち、入口の標識には「人はみな善くなろうとしている」とある。これはこの学校の建学の精神である。何度も通った六合の光景が懐かしい。開善学校は、今、長い冬から解放されて新緑の春を迎えようとしている。厳冬を耐えた子どもたちの快哉(かいさい)の声が聞こえるようだ。少子化の時代を耐えて開善学校が力強く歩むことを願う。(読者に感謝)

☆土、日、祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年3月30日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(90)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

 収容所内は清掃され、営門の付近やポイントの場所にはきれいな砂が撒かれた。普段、このようなことは行われたことがないのである。その日は、日曜日であったが、ほとんどの者は、遠くの現場に狩り出され、増強された兵士によって厳重に監視された。営内に残った者は、生活改善座談会ということで大部屋に集められた。真実を知らない人々は、真剣に収容所側と生活改善について折衝を続けた。この間、2時間以上にわたってトイレに行くことも禁じられた。何事が起きているのか。何かを感じとった人々の胸に不安と緊張が次第に高まっていった。

 ハバロフスク事件を指導した石田三郎は、その著『無抵抗の抵抗』の中で、高良とみ来訪時の収容所の状況を次のように著している。

「収容所の4隅の望桜のマンドリン銃を持った兵士は、身を伏せて外部から見えないようにして警戒していた。一日、二回、作業隊通行時の他は、堅く閉ざされている大門がいっぱいに開け放たれた。あたかも四六時中このようであるかのように。ソ連の案内係は、日本人はみな映画か魚釣りに行っていると説明したが、自由外出、魚釣りなど、私たち日本人には想像さえできないことだ。病室は、花と純白のシーツで整えられ、病人はピンピンしている。高良女史は、さすがにソ連だと感じたことであろう」 

 この収容所は、被収容者のほとんどが高学歴のインテリ層であった。それはかつて、満州で関東軍将校、特務機関員、警察官、通信の仕事などに携わっていた人々が収容されていたからである。彼らはその前歴ゆえに「侵略」にかかわったという理由で、戦犯として長期の刑に服していたのである。それだけにロシア語に堪能な者も多く、ソ連の新聞など、限られた情報源から自分たちに関係する情報を入手する者もいた。この時も、日本の国会議員が来るらしいという情報を一部の者は得ていたのである。しかしそれは、首を傾げるような、俄かには信じられないようなことであった。日本のパスポートをもらえないでやってくる、女の国会議員だというが、はたして女の国会議員なんていうのがあるのだろうか。日本の戦後の大きな変化を知らない収容所の人々は、仲間からこのことを知らされても納得がいかなかった。

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2008年3月29日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(89)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

 入浴の後、調査の書類にいろいろ書き込む作業があり、それが済むと昼食であった。瀬戸焼のドンブリに割りばしがならんでいる。懐かしい光景なのだ。青柳さんは故郷の家族を想像した。そして、早くも心は、越後の古里に飛んでいた。それは、戦後の青柳さんの新しい人生のスタート地でもあった。

第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

一 日本人抑留者、日の丸に涙

 シベリアの長い過酷な抑留生活は、そこに閉じ込められた日本人の身体も心もずたずたにしていた。遠い祖国は手の届かない、まさに憧れの別の世界であった。極限に迫る飢えと寒さと労働は、これでもかこれでもかと打ちつける鉄槌のように、強制収容所の日本人の頭上に振り下ろされ、耐え切れぬ多くの人々は、無念の涙をのんで凍土の中に打ち込められて消えていった。

 冬の寒さは格別だった。鉛色の、重く垂れこめた雲の下、大気を引き裂き、一木一草はおろか人の心までも凍らせるツンドラの寒気は、寒さに弱い日本人を恐れさせ絶えず絶望の淵に引き込もうとした。

 自分たちの境遇が悲惨であればあるほど、遠い祖国への憧れはつのる。収容所の人々の話題はいつも食べ物のことやふるさとの思い出であった。人々は、そのような話に引き込まれていても、ふと現実に戻って、祖国は俺たちのことを忘れてしまったのか、政治家は何もしてくれないのかと、底知れぬ不安と淋しさにおそわれるのであった。

 ハバロフスクの強制収容所の人々は、入ソ以来7度目の冬を過ごし、今、春を迎えていた。一般の抑留者は昭和25年春までに帰国したが、戦犯とされた長期抑留者はハバロフスクの収容所で依然として抑留されていた。人々は、永久に祖国の土を踏むことはできないのかと不安を募らせていた。

 昭和27年5月11日、ハバロフスク強制抑留所第21分所に何やら異変が起きた。

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2008年3月28日 (金)

「脳神経外病棟の心打たれる光景」

◇脳梗塞で倒れた知人の奥さんを見舞った(27日)。植物人間の状態に近かったらしいが幸なことに回復の兆しが現れていた。向かいのベッドの女性はもっとひどい状態であることが一目で分かった。年配のご主人が抱き起こし母親がわが子をいたわるように語りかけている。看護士が「ご主人に甘えているのね」といってほほえんだ。

 私は脳について科学的なことは分からない。しかし、植物状態に近くなっても、愛情は脳細胞に伝わっているに違いないと思った。このような人が限りなく増えているのが高齢社会の特色である。

 人間であることの根拠は脳である。だから脳の機能がなくなれば人間ではない。しかし、脳の機能が少なくなっても人間である。このような人をどこまで支えることが出来るかは、高齢社会の最大の課題である。美しい夫婦愛の光景を見て行政の役割は何かを考えてしまった。

◇やりきれない事件が続く。両親と二人の子どもから成る4人家族が一、二審とも死刑判決を下された。8人を殺傷した若者の事件が最近起きた。今度は、18歳の成績優秀な少年が駅のホームで人を突き落として殺した。死刑判決を受けた親子の事件とこれら若者の事件は異質なものだ。これら若者の行動は、その動機が分からない。現代社会の病理現象が影響を与えているに違いない。対応する制度の限界を超える現象が続いている。

◇水辺の環境を町ぐるみで整える元総社町の協議会に顧問として出席した(27日)。

ある自治会会長が次のような発言をしていることが注目された「最近、分けの分からぬ少年の事件が多い、子どもたちの世界では、バーチャルに親しんでいて、友達を作ったり、自然の中で体験することが出来ない子が多い。今の少年は、友達を自分で作れないのだから社会が体験の場所をつくってやらなければならない」と。心を病む子どもたちを如向に救うかは社会全体の深刻な課題である。

「今、体験学習、環境学習が重視される時代です。だから、学校の近くの川は教育環境として重要です。しかし、川はそのままでは活かされません。地域の人々と行政が力を合わせてここまで整備されてきた事は素晴らしいことです。」私は求められてこのような挨拶をした。

牛池川は私が小学生時代に親しんだ川だ。汚い川ですぐ氾濫したが「水辺の楽校」として整備された。子どもたちが楽しむ学校なので「楽校」と名付けた。地域力が各地で試されている。発言する人々の姿を見て勇気付けられた。

◇環境の時代を促進させる「全国都市緑化ぐんまフェア」が明日29日開幕となる。いくつかの会場があるが敷島公園では6百種のバラと5万球のチューリップが見られる。この公園の一角に「フリッツアートセンター」という小粋なアート館があり緑化フェアと合わせて宮沢賢治絵本原画展等ユニークな計画が進められている。8人の作家の原画を約一年をかけて紹介していくというもの。一見の価値があると思う。私も早速行ってみたいと思っている。店主の小見純一君は民間にあって市民の文化の発展に力を注いでいる。私の長女は妻として彼を支え頑張っている。「フェア」の成功と敷島公園の商店の発展を願っている。(読者に感謝)

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2008年3月27日 (木)

「阿部川崎市長と会う」(26日)

◇川崎市長の阿部さんを訪ねた。阿部さんは、東大の弁論部の仲間であり、駒場寮で暮らしたこともある。自治省の役人から大学教授になり政治家になった。自分の学問と実践を一貫させているといえるラッキーな人だ。東北出身の素朴さを今もなくさずにいる点が魅力である。この日は、高井副市長も同席した。高井氏はかつて、群馬県の住宅課長だった。群馬県で起きている諸々のことについて意見を交わした。

Photo ◇私の著書に興味をもつある出版社を訪ね、その足で本郷の東大構内に入った。図書館で資料を調べ、私がいた西洋史の研究室をのぞき、安田講堂の一角にある書籍部で本を捜した。東大の構内の様子も昔と大きく変わった。安田講堂の前の広場は、芝生や植え込みに変わっている。東大紛争の時は、巨大な要塞となったこの講堂は、歴史の遺物のように静かに立っている。講堂前の広場を変えたのは学生が集会出来ないようにするためだと言われるが、今の学生は集会の広場があっても集会をする意欲がないのではなかろうか。

 私が大学にいた頃は、学園にはアジ演説があり緊張感や活気があった。今やすっかり陰をひそめたルール違反の立て看板も懐かしく思い出される光景である。構内に見られる学生の姿も小じんまりした優等生に見える。全国の大学から学生運動がなくなったことは、学生の無気力化の現われと思える。世の中には矛盾や不正が渦巻いているのに、今の学生たちは怒ることを忘れたかのようにおとなしい。これは、日本全体がパワーを失っていくことの象徴的な現象と思われる。

 最近の国際的な学力テストの結果によれば、日本の子どもたちは学ぶ意欲が最低だという。学ぶ意欲の低下は行動力の低下であり生きる力の低下である。無気力な若者たちを見ると日本が沈んでいく不安を感じる。緑豊かな東大の構内を歩いてこのような感想を抱いた。

    国宝薬師寺展を見る。(26日)

上野の山は、本郷の丘の対岸に位置する。その間にあるのが不忍池(しのばずのいけ)である。本郷から遠望すると、初夏のような日差しの中で上野の桜は満開に近く新緑の中に溶け込んで見えた。

東京国立博物館で今月25日から薬師寺の国宝が展示されている。テレビの特集を見て是非見たいと思っていた。

教科書で学び写真で見た日光菩薩と月光菩薩の実物は3mを超す大きさで体の線はひきしまって軟らかく静かに目を閉じた表情には品格と威厳があった。8世紀に天武天皇が作らせたこの仏像は日本仏教彫刻の最高傑作のひとつといわれる。天皇の権威、仏師の技術、当時の仏教の役割を思った。その姿から漂う雰囲気には見飽きぬものがある。私はしばらく立ち尽くしていた。人の心に訴えるものは1300年の時を超えて不変なのだ。この仏像には現代人の乾いた心に理屈抜きで染み入るものがあるに違いない。(読者に感謝)

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2008年3月26日 (水)

「世界の注目がオリンピックに集まる」

◇ある若者がオリンピックについて深く知りたいと言ってきた。私の「日記」を見て同様の意見を寄せる人もいる。北京五輪に関して様々な問題が起きているので人々の関心が高まっているようだ。

 古代ギリシャのアテネ市民はペルシャの大軍をマラトンの戦いで破った。勝利を伝える使者は、マラトンからアテネまで42.195kmを走り息絶えた。これを記念して起きたのがオリンピア競技会の中のマラソン競争である。古代ギリシャのオリンピア競技会は、4年ごとに戦いの中でもそれを中断して行われた。これが近代オリンピックの前身である。

 近代のオリンピックは、1894年、フランスのクーベルタンの提唱で始まった。その理念は、スポーツを通して、人間の尊厳を重視する平和な社会をつくることである。

 第一回は、古代オリンピックの故郷であるギリシャのアテネで開かれた。この大会最終日のマラソンで、残り7キロの地点でギリシャのルイスが遂にトップに出て競技場に入ると人々は興奮した。コンスタンチノス皇太子は飛び出して伴走したという。そしてルイスは優勝を果した。祖先の誇りがルイスを支えたのであろう。

 日本の動きとしては、講道館柔道の創始者嘉納治五郎がアジアで初めてIOC委員に選ばれ、オリンピック参加に向けて動き出した。そして、第5回のストックホルム大会(1912年)に初参加した。参加者は2名だった。なお、第6回オリンピックは、1916年にドイツのベルリンで開催される予定だったが第一次世界大戦が始まって不可能となった。

 日本が最初に金メダルを獲得したのは第9回のアムステルダム大会である。日本人初の金メダルは三段跳びの織田幹雄であった。ついで鶴田義行が200m平泳ぎで金メダルを得た。

 注目されるのは、1936年、ヒットラーの下で行われた第11回ベルリン大会である。この大会では、オリンピック史上初の聖火リレーが行われた。日本選手の活躍の中で、特筆すべきことは、前畑秀子が200m平泳ぎで日本人女性としてはじめて金メダルを獲得したことである。3年後に第2次世界大戦が始まった。民主主義に真っ向から敵対したナチスの下でなぜ平和の祭典が行われたのか、私は不思議に思う。

 日本でオリンピックが開かれたのは、1964年(昭和39年)のことである。もちろんアジアでは最初のことで日本の社会に大きな変化を起こすきっかけとなった。

 ヒットラーが始めた聖火リレーが北京五輪では大変なコースを走る。エベレストを越え、混乱の地、チベットを走るのだ。平和の松明(たいまつ)が紛争の火をかきたてることにならないか世界中の注目が集まっている。

 24日、ギリシャの古代オリンピア遺跡で聖火の採火式があったが、式典に抗議する動きがあって会場は騒然となったと報じられた。ギリシャからヒマラヤを経て北京に至るコース、そして北京の会場は大丈夫なのだろうか。長い間の選手の努力を考えてオリンピックの無事を願う声が寄せられている。(読者に感謝)。

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2008年3月25日 (火)

「チベットを知ろう」

◇北京オリンピックの障害は、汚染された大気と危険な食品だと一般的には思われてきたが、ここに来てにわかに治安が心配されるようになった。そのきっかけはチベット問題である。チベット人に対する中国政府の弾圧が大きく報じられる中で、長い間のチベット人の恨みがオリンピックに深刻な影響を与えるのではないかと不安を抱く人が多い。

 チベットを象徴するものはチベット仏教の最高指揮者ダライラマである。彼の権威はチベット人にとって絶大だから、象徴以上の存在である。チベットは広大な面積、古い歴史、独自の文化を持った国で中国の支配は及んでいなかった。毛沢東の中華人民共和国が成立した直後、中共軍は武力でチベットを征圧した。ダライラマはヒマラヤの秘密の通路を越えてインドに逃れ亡命政府をつくった。この暴動以来虐殺された人は120万人を超え、チベットでは家族全員がそろっている人はいないといわれる。

 チベットは、平均の標高が三千mを超える。中国の奥地、そしてヒマラヤの彼方の国である。21世紀の今日では、騒動の様子が電波によって伝えられるが、かつては世界の目から隔絶されていた為に容易に大規模な虐殺及び人権侵害が行われたに違いない。亡命したダライラマは非暴力による長年の平和独立運動が評価されてノーベル平和賞を受賞した。この受賞はチベット人に大きな勇気を与えたに違いない。

 オリンピックを目前にして、チベットに対してまた世界の平和に逆行する大規模な武力弾圧が行われた。これは、天安門事件と共に中国の正体を白日の下に晒(さら)したといえる。果して中国はオリンピックを開く資格があるのか疑問である。

 オリンピックは、平和の祭典である。宗教や人権による差別、その他の人権侵害があっては平和とはいえない。オリンピックが世界の平和を求める行事なら、人権を尊重する国に対してその名誉をたたえてオリンピックの開催を認めるべきではないか。世界中が不安の目で北京を見詰めている。

◇85歳のSさんを囲んで夕食会をした(24日)。先日、50数年連れ添った妻を亡くし、法要も済んで一段落した状態である。妻を亡くしてがっくりしているかと心配したが、シベリヤの強制抑留を生き抜いたこの人は、いまだ衰えぬ強靭な精神を持っていた。

 奥さんはある日脳梗塞で倒れ、植物状態になった。Sさんはあきらめないで看病に取り組んだ。それは、シベリヤの極限の状態で5年間、ひたすら故郷に帰る日を信じて生きたかつてのSさんの姿を想像させた。毎日語りかけ本を読んで聞かせた。6ヶ月後、奥さんは意識を取り戻した。医師は、例がないといって驚いた。正に人間の可能性の奥深さと神秘を考えさせる出来事であった。Sさんは、鍋のものをつつきながらこのことを振り返っていた。4年前Sさんとシベリヤを訪ねた時の事が思い出された。夏草の中に立つ友の墓標の前でSさんは泣いた。多くの死の中で生命の尊さを体験した人の光景であった。百まで生きてと励ました。(読者に感謝)

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2008年3月24日 (月)

「今月のふるさと塾は奴隷制と大統領だった(22日)」

◇人類の壮大なドラマは、ドレイ貿易の時代を経てアメリカの黒人大統領を実現させようとしている。オバマの躍進は人類の歴史に位置づけて見れば、正に息を呑む出来事である。

 導入部で私は、オバマとクリントンの映像を示してアメリカの大統領選に触れ、次のように話した。黒人オバマが予想外の勝利を重ねているのは、アメリカ国民が大きな変化を求めていることを示す、そして、オバマ支持のエネルギーは、世界に誇るアメリカの民主主義の金字塔を打ち建てたいという国民の願いが生み出しているに違いない、と。

 アメリカは民主主義の原理に基づいて国を建てた。リンカーンによる奴隷解放は民主主義の偉大な前進だった。もし黒人の大統領が誕生すれば、アメリカは人類の理想をこの上ない形で実現させたことによる。その事がゆき詰まった社会を大きく変えるだろう。アメリカ国民はこう願っていると私には思える。

 話は、コロンブスの新大陸発見から始まった。文明のレベルの違う二つの世界の出会いは新世界の人々に悲劇をもたらした。カトリックの布教目的と一体となっているにもかかわらず、スペイン人は暴虐の限りを尽くした為に原住民の人口は激減した。代わりの労働力として受け入れられたのがアフリカの黒人である。鎖でつながれ、船倉に押し込められて新大陸に送られた人々は家畜のように奴隷市場で売られた。新大陸では、砂糖、タバコ、米、ゴム等の農園を支える労働力はこれら黒人奴隷だった。

 約50枚の映像の中には、映画「風と共に去りぬ」の一場面もあった。南北戦争を舞台とする物語である。この南北戦の中で奴隷解放宣言が行われるが、この後も長い間、黒人に対する差別は続いた。

 続いて紹介される映像は、黒人初のニューヨーク市長、パウエル国務長官、アナン国連事務総長、ライス国務長官等、活躍する黒人が続き、再び演説するオバマが登場する。

 話は横道にそれて、フジモリ大統領も登場させた。明治5年、日本とペルーとの間にペルー船籍の奴隷船をめぐる事件が起きた。トラブルの解決を契機に両国間に条約が結ばれ、第一回の移民がペルーに渡った。最初の南米移民である。人々は筆舌に尽きせぬ苦労をするが、その後熊本からフジモリの父がペルーに渡り、母となる人も渡り、二人の間に生まれたのが後のフジモリ大統領である。このあたりは、平成8年に外海視察でペルーを訪ねた時の体験を交えて話した。充実した一時であった。

◇来月の第4土曜日は、「オリンピックの歴史」を取り上げることを塾の終わりに伝えた。第1回アテネは男子のみの大会、第3回セントルイスではキセルマラソンが起きた、日本は第5回のストックホルムに初めて2人の選手を参加させた、日本人が最初に金を獲得したのは第9回アムステルダム大会で、三段跳びの織田幹雄だった。日本の国力の変化が分かる。戦争に巻き込まれたこともあった。今回の北京は緊迫する状況の中でどうなるのか。オリンピックを通して世界の歴史を見たい。(読者に感謝)

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2008年3月23日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(88)第3章 青柳由造さんのシベリア

青柳さんのメモによれば、昭和22年10月17日午前3時ごろ船は止まった。あたりは真っ暗で何も見えない。何が起きたのか、事故かと人々はた。やがて、空がわずかに白みかかったとき誰かが叫んだ。

 「まわりは島ばかりだ、ここはどこだ」

続いて別の声が上がった。

「日本だぞ、日本に着いたんだ」

船内はどっと沸いて、あちこちで歓声が起きている。舞鶴港であった。

日本の海、日本の朝が人々を出迎えていた。緑であふれるまわりの景色、海の色、流れる空気。どれもみなシベリアとはまったく違っていた。夢のような別世界であった。かつては当たり前と思っていた日本の自然が、シベリアから帰ってみて、新しく出合ったもののように新鮮に見える。日本はいい、と青柳さんは、両手を大きく広げて朝の空気を胸いっぱい吸い込みながらつくづくと思った。

やがて上陸が始まった。長い桟橋から下を見るとボラが群れている。水面まで顔を出して跳ねる魚までが青柳さんたちの帰還を喜んでいるようであった。

桟橋が尽きて、陸地に足をつけた。小さな衝撃が身体全体に大きく伝わる。昭和20年1月に出国して以来始めて日本の土を踏んだ。その第一歩の靴音は、万感の思いを込めた祖国との対話であった。ついに生きて祖国に帰った。生きることの喜びが青柳さんの身体のすみずみから湧いてくるのが感じられた。

用意されている宿舎に入る前に、ある建物でエンジン付きの散布器でDDTをかけられる。頭から背中の奥まで白い粉をかけられた。DDTが終わった者は、次の建物では入浴だという。朝風呂とはありがたいと思っていると、湯船は冷たいクレゾール液である。アメリカ兵が側に立って物体を消毒するように、日本人の頭から液体をかけている。鬼畜米兵と思い込んでいたアメリカ兵に身近にしかも裸で接するとは思ってもみなかった。彼らに占領されている日本人はどうなっているのだろうか、これから自分たちはどうなるのか、一抹の不安が青柳さんの頭をよぎる。

しかし、そんな不安も次の瞬間に吹き飛んでいた。三番目にやっと温かい湯船が待っていた。人々のどよめきが聞こえてくる。石鹸があって、頭から身体を良く洗い、ゆっくりと日本の湯につかった。これは出国以来始めてのことであった。

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訝っ

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いぶか

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2008年3月22日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(87)第3章 青柳由造さんのシベリア

こういう人にとって、時の進み方がいつもより何倍も何十倍も長く感じられた。その心の苦しみは、他の日本人にも伝わって、時が経つにつれ、船内は沈黙が支配し、異様な雰囲気が高まっていった。

やがて船が止まった。領海の果てに来たのだ。艀(はしけ)がおろされ、二人のソ連兵が乗り移って、船は再び動き出した。

「ワーッ」とどよめきが上がった。抱き合って喜んでいる人がいる。両手を上げてバンザイと叫ぶ者もいた。船はついに、ソ連の領域を出た。もはや、収容所に連れ出される危険は去った。それは、長い間捕われていたシベリアという罠から抜け戻される瞬間であった。船は穏やかな日本海を滑るように南下していた。

船は貨物船で速度は遅いが、着実に日本に近づいている。船内の食事は、戦時食というもので粗末なものであったが、やはり日本食はうまい。日本も食糧難なのであろうと、青柳さんは想像した。厳しい状況の祖国日本が救いの手をシベリアまで伸ばしてくれたことが、この貨物船や食事から感じられて嬉しいのだ。時々甲板に出て見るが視界に入るものは、全て穏やかな海であった。青い海と青い空、水平線はどちらを見ても天と海が一つの色になって溶け合っている。天と海が貨物船を包み込んで祖国日本へ運んでいる。これまで、この世に神も仏もないと嘆いてきたことが嘘のように思える。

青柳さんはこれまで生きてきた人生で最高の至福の時にあった。物心ついたころから血生臭い騒然とした社会で生きてきた。日本人全体が大戦に呑み込まれ、国家滅亡の渕に立たされて多くの人々が命を落とした。戦争が終わったのに俺たちは、より過酷な戦争ともいうべき強制抑留所で地獄の苦しみを味わった。全ての難関を幸運にも通過できた者が今、この船の中にいる。この日を夢見つつ命を落とした多くの同胞が今更ながら哀れに思え、青柳さんは北へ向って静かに手を合わせた。

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2008年3月21日 (金)

「波乱の2月議会が終わる。」(19日)

◇亀泉の霊園に墓参りに行く。小さな墓石は雨が煙る中に静かにたたずんでいた。愛妻は遠くになりぬ彼岸の日。

◇6つの常任委員会と5つの特別委員会の委員長が委員長報告を行った。この中で、今話題の高木建設がらみの問題について触れたのは、予算特別委員会、決算・行財政改革特別委員会、県土整備常任委員会の報告である。そして、この3つの中で、この問題を最も詳しく報告したのは、県土整備常任委員会であった。この報告内容は、これから始まる新たな特別委員会の審理につながる問題なので、ここでその要点を紹介する。

 前橋市元総社町の県営住宅建設用地の取得については、元土木部長が、「おぼろげながら当時の出納長から土木部として協力するようにと言われた記憶がある」と証言したこと、また、ロイヤルタウンみずき野分譲住宅予定地の売却について、県住宅供給公社職員は「元県議の関与があったことや売却先が元県議関連企業であることを承知していた」と証言したこと、が報告された。

◇決算・行財政特別委員会では、行政改革の視点から元総社町の土地が不透明な経緯で取得され、その後13年間も放置された点が問題にされたのである。発言者は私であった。行政改革は、県民のための適切な行政の実現を目指す、財政改革は無駄のない財政の実現を目指す。どちらの点からしても、元総社町の土地取得はおかしいではないかというもの。

 住宅に不向きな土地を評価額より高く買い、結局住宅は建てず13年間も放置して膨大な経費を無駄にかけた。県民の血税の無駄づかいという他はないのである。

◇この日、「県有土地等の取得・処分に関する特別委員会」が設けられた。委員は15人で私も一員となった。ここでは、高木建設がらみの土地に関する問題や、土地開発基金が取得して塩漬けになっている80億円を超える土地に関する問題等も審査の対象になる。

◇この議会で議会改革に関する重要な条例が成立した。それは、県行政に関する一定の重要な基本計画を作る時は議会の議決を要するというものである。これは、地方分権が進む中で、行政に対する議会のチェック機能を高めることを目的とする。

◇国に対していくつかの意見書を提出することが議決された。その中に、2016年にオリンピックを東京に招致することを支援する決議がある。これに対しては、巨大な費用を教育や福祉にまわすべきだとして共産党が反対した。

◇オリンピックを間近かにした中国の混乱ぶりを見るとオリンピックの意味と開催地の条件がよく分かる。人種や肌の色に全く関わりなく競技が行われる点に人権と平和の祭典であることが象徴されている。また、体力の極限に挑戦することから健康維持の条件が重要だ。北京はいずれの点においてもふさわしくない。参加に対する不安やボイコットの動きが広がり始めている。(読者に感謝。)

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2008年3月20日 (木)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(86)第3章 青柳由造さんのシベリア

その後ろ姿が哀れであった。青柳さんは、見ないようにしていたが、一人の横顔がふと目に入って思わず、あっと叫んだ。その日本人は、ダガラスナで懲罰を受け帰国組から外された男に違いない。あいつも一緒に帰りたいだろうにと、その一段と小さくなった男の背中を見ながら青柳さんは胸をつまらせた。

その船は貨物船で、中を丸太で4階ほどに階層をつくり、各階は板を張って、その上に中国特産のアンペラという草で編んだむしろが敷かれていた。その上に毛布一枚で所狭しと横になるのである。この船の様子から、日本の状況は、教えられていたように非常に悪いに違いないと思われたが、青柳さんにとってそんなことはどうでも良いことで、アンペラのむしろの上は天国のように感じられた。 

船は動き出した。ロシアから離れてゆく。青柳さんは甲板から海岸線の奥に続く光景を見た。丘の彼方に黒い森がどこまでも広がっている。あの森では、自分たちの交代要員として入った日本人が作業していると思うと堪らなかった。森の上に、黒いシベリアの冬の雲が動いている。あの雲の下の酷寒の収容所で俺は生きてきた。凍土の上で唸る風の音に怯え立ちすくんだ日々、狂おしいほどに憧れた祖国。さまざまな思いが青柳さんの胸に去来する。

収容所では、毎日毎日が厳しい試練の連続だった。その中で自分より屈強な男が次々と倒れて死んでいった。青柳さんは、今生きていることが不思議に思えた。その力は、弱い自分のどこにあったのか。改めて自分を育てた父母や古里の山河を思った。シベリアの強制抑留の生活は、自分とは何かを発見させる場でもあった。それにしてもシベリア強制抑留とは、はたして何だったのか、そう思いながら水平線の彼方に遠ざかるシベリアを青柳さんは、じっと見詰めていた。

やがて、ナホトカの光景は水平線の下に消えた。青柳さんは安堵の胸をなでおろした。しかし、船内にはまだ緊迫感が消えなかった。領海を出るまでは、二人のソ連兵が乗り込んでいて目を光らせている。誰かの秘密が見つかって、連れ戻される危険が常にあるのだ。満州時代の経歴を隠している者がかなりおり、そういう人は、目をつけられ、声をかけられはしまいかと生きた心地もなく一秒一秒を必死で耐えていた。

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2008年3月19日 (水)

「超忙しい一日。弔辞を読む」(18日)

◇私が顧問を務めるある団体の幹部の妻が亡くなって弔辞を読んだ。63歳で癌死である。肺がんが脳に転移して可哀相な最期だった。

 かつてのように癌を恐れなくなったとはいえ、癌は確実に人の命を奪う。仕事柄、葬儀に参列することが多い。その中で癌死が非常に多いことを肌で感じる。癌死は病死の中で第一位なのだからこれは当然であるが、身近な人が癌で次々に死ぬと癌死が日常的になってきた事を痛切に感じるのだ。

 平和な時代にあって、突然に死を宣告されることが日常に起きていることは恐い。大きな力は、無作為に選んだ者に死を宣告する。周りを見て次は誰の番か、それは自分かも知れぬと考えてしまう。

 しかし、死の宣告を下す魔の手を逃れる方法が存在することが現代の救いである。それは近代医学を利用することである。早期に発見すれば、癌を克服できるところまで医学は進歩した。早期発見の手段があるのに、利用しないのが人の常である。2月議会が終わるので私も健康診断をしようと思う。

◇自民党県議と医師会との恒例の懇談会があった(18日)。テーブル毎に、県議と医師が交互に着席する。隣の医師と医療の問題点について話すことが出来て有益であった。

 私たちは、県の医療行政をチェックする立場にあるが、医療に関する知識がとぼしい為に役割を果せていない事を感じた。教えられた一例を挙げれば小児医療センターのことがある。午後5時で事務員が帰ってしまい、あとは、正規の事務員でない人が電話を受けて看護士につなげる状態なので夜間は病院が機能を果せないという。救急病院ではないとはいえ、せっかくの小児医療センターをもっと活かす道はある筈だと思った。その他前橋市で産婦人科の開業医は、野村、横田、神岡の三医院だけになったことも教えられた。

◇ドクターヘリが実現する。この2月議会に県は、運航経費など六千二百万円を計上している。ドクターヘリとは、救急医療用ヘリコプターのこと。病院までの時間を大幅に短縮できる。重患にとって時間が生死を分ける。ドクターヘリなら交通渋滞も無関係である。それに山間地での活用が期待される。これは医療格差と関係することである。今日、医師不足が深刻でとくに山間地は医師が少ない。ドクターヘリなら医師のいない所の患者を急いで運べるから医療格差をある程度克服できるのである。県は、国の補助事業を活用して来年一月から稼動させる方針である。配布先としては前橋赤十字病院が有力である。ドクターヘリでは、乗り込んだ救急医療専門の医師や看護士によって、搬送中も救命医療を行うことができる。現在全国では13道府県で14機整備されている。このうち関東では神奈川、千葉、埼玉がこれを持つ。行政改革によって無駄な費用を抑え、このような人命救助に効果的な施策に金を使うことが求められる。この点に若い読者にも関心を持って欲しい。

(読者に感謝)

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2008年3月18日 (火)

「日中議員連盟が出来た」(17日)

◇昨年、2つの県議団が訪中したことがきっかけとなって日中議員連盟をつくろうと言う話が出ていた。29名の議員が参加した。多くの議員が参加したことは、中国の現状と関係があると思う。今、中国は地球上で最もホットな国の一つである。すさまじい経済成長、深刻な環境問題、毒ギョーザに象徴される危険な製品等々が絶えず報じられる。これらを突きつけられて、中国はどうなっているのかと誰もが思う。突然、欲望に目覚めた15億の国民が金もうけに向けて一斉に走りだして手のつけられない状態になっていると言う印象すら与える。

 また、中国の政治と経済の仕組みが、別の深刻な社会問題を引き起こしている。中国は政治的には社会主義で共産党が一党独裁をつらぬき、他の政党を認めない。これは、思想の自由を認めないことである。誰もが様々な意見を表現することが出来、自分が支持する政党を選ぶことが出来ると言う自由は、人間にとって根源的なものである。中国は金もうけの自由は認めるが、心の自由は認めない国である。その矛盾が今噴出している。表現の自由を戦車で踏みにじった天安門事件はその例である。また、最近のチベットの暴動も、宗教の自由を強権で弾圧しチベット人の自由を無理に抑えこむことから起きている。

 中国はこのような矛盾に満ちた国であるが、日本は隣人として付き合わなければならない。付き合い方を誤れば日本は危機に陥る。長い日本の歴史の中で中国による重大な影響を受けなかった時代はない。私たちにとって、今大切なことは、感情的にならず冷静に中国と向き合うことである。

 そして、日本の各地が中国と交流する時代になった今日、日中交流の面で地方の政治家が果すべき役割は大きい。議員連盟に参加した議員には、このような共通の認識があると思う。昨年の私たちの訪中がきっかけとなって、大連外国学院大と県立女子大の提携が現実に今進んでいるし、今月、間もなく、大沢知事が中国を訪問する。このような状況の中で、議員諸氏と力を合わせて日中議員連盟を育てていきたいと願う。

◇地球温暖化が深刻さを増す中で、CO2を出さない水力発電は重要である。特に小さな水流を利用するミニ発電所の意義は大きい。そのような資源は地域に多く存在するからそれを有効に活かせば大きな効果が得られるからだ。私が住む芳賀では先日、小坂子発電所が完成した。今日(18日)、私の呼びかけで、県企業局は嶺町の小川を調査する。池田自治会長に教えられて先日、私は先ず現地を見た。大正11年に水力発電所があったことを記した碑が立っている。地域の小、中三校にも調査に参加して頂くよう呼びかけた。小さな水力発電所の建設は、子どもたちにとって理科と環境問題を、体験を通じて学ぶ貴重なチャンスになるに違いない。多くの人々が関わってミニ発電所がスタートしていく様を知ることは、完成したものを見る以上の教育効果が期待できると思う。県は、ミニ発電所を各地で作る考えを持つが、教育の場として活かすことも重要である。(読者に感謝)

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2008年3月17日 (月)

「北京を覆う暗雲、オリンピックは大丈夫か」

◇昨年10月歴史のまち北京を訪ねた時、その変貌ぶりには度肝を抜かれる思いだった。全てがオリンピックに向けて動いた。しかし、天安門広場の上空に青空はなく、中国の環境問題が深刻であることを肌で感じた。また、世界のメディアは中国の食の不安を連日報道していた。私は、オリンピックは大丈夫なのかと思った。

 最近、チベットの大規模な暴動が報じられている。中国は広大な国土に多くの民族を抱えながら一党独裁を通している。一党独裁は思想の自由を認めない。仮に単一民族であっても一党独裁は今日不可能であるのに、中国は無理の上にも無理を重ねている。その現われが、政府に反対する人に対する人権の抑圧である。1989年(平成元年)の天安門事件は、民主化を叫ぶ人々を戦車で弾圧し、数千人とも言われる犠牲者を出した。今回の、チベットの暴動も、中国政府の独裁政治がもたらしたものだ。

 チベットの抵抗は、漢民族が武力によってチベットを支配することに対する抗議である。1959年の動乱で宗教的支配者ダライ・ラマはヒマラヤを越えてインドに逃れたが、チベット民衆のダライ・ラマに対する信仰は今も厚い。

 ダライ・ラマがノーベル平和賞を受けたことはチベットの民衆をこの上なく勇気づけているに違いない。今回の大規模な暴動はチベット問題が解決に向っていないことを示すものだ。政府に対して積年の恨みを抱く分子がオリンピックを利用して過激な行動に出たら大変なことになる。政府がそれを防ぐことは難しいのではないか。

 オリンピックは平和の祭典である。昨年見た、オリンピック建設現場には、「ひとつの世界、一つの夢」というスローガンが掲げられていた。開会は、08年8月8日、午後8時8分である。「8」は中国人にとって縁起の良い数字なのだ。私には、オリンピックの序曲が既に始まっているように見える。中国政府が抱える問題は余りにも大きい。そして、隣国の問題は、私たちにとって決して他人事ではない。

◇秋田犬の第66回、品評会があった(16日)。あきたいぬと呼ぶ。私は保存会前橋支部の顧問である。秋田犬は代表的な日本犬であり、品格がある。国の天然記念物になっている。渋谷駅の忠犬ハチ公も秋田犬である。耳がピンと立ち、足が長く、尻尾は太くくるっと巻いている。私の愛犬ナナは約4才の雌で、スラッと伸びた足には白いソックスをはき、鼻のラインが上品である。人間なら仲々の美人だろう。

 この日の大会に、私はナナを連れて行った。直ぐ車に酔う癖があったが、いつしか直っていたのである。過日、赤城に登りナナを抱いて下界を眺めた感激は忘れ難い。私はナナを引いて次のように挨拶した。「先日、亡くなった高井支部長から頂いた犬がこんなに成長しました。古来、犬は人間の友です、秋田犬を保存することは日本の伝統文化を守る意義があります」ぎすぎすした社会状況の中で秋田犬を飼う人が少なくなってきた。動物との共存は社会の健全さとゆとりの証しである。

(読者に感謝)

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2008年3月16日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(85)第3章 青柳由造さんのシベリア

   新規入山者の落胆した表情と、抑えようとしても顔に喜びが表れる下山組の顔は対照的であった。10月に入山したこの捕虜たちは、酷寒のシベリアでまた冬を越すことは明らかであった。3ヶ月の約束で来たらしいが、真冬の間、帰還船はナホトカに入港できなくなると言われていたからだ。それを知ってのことか、森に入る日本人の表情は無残なほど暗かった。

 山の作業所を去るとき、青柳さんが食事の世話をしたアキモフという下仕官は、記念にといって、愛用のパイプを青柳さんに渡した。青柳さんは、胸に熱いものが込み上げて、思わずアキモフの手を握った。怨み続けたソ連収容所の人間との間に、温かい心が通じ合った瞬間であった。ソ連兵を見て青柳さんは今度こそ、すべてはうまい方向に動いていると感じることが出来た。

 森に入る日本兵がそっと青柳さんに近づいた。その人は新潟出身者であった。青柳さんが同郷人だということをどうして知ったのか、小さなメモを渡して、日本に着いたら家族に無事だと伝えてくれという。青柳さんは自分の衣類の裏にエンピツで、メモの内容を書いた。一切の書きものは、持ち帰ることを禁止されていたからである。どんな小さなミスも今は許されない。何としても帰国船に乗るのだ、青柳さんは、逸る心を抑えながら足どりも軽く山を降りていった。

 ナホトカでは、青柳さんたちは毎日のように宿舎を移動させられ、氏名、年齢、日本の住所、経歴等をチェックされた。満州国時代、憲兵とか、特務機関に所属していた経歴を隠している者などは、バレれば収容所に戻されるので、怯えていた。

やっと乗船の時がきた。乗船所に向って歩いていた時、青柳さんは機関銃を持ったソ連兵に監視された一団の日本人捕虜が作業しているのに出会った。捕虜たちは乗船組を避けるようにして作業に打ち込んでいる。

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2008年3月15日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(84)第3章 青柳由造さんのシベリア

 しかし、冷静に考えて見ると、日本海に面したナホトカまで来ていることは事実なのだから、ダモイ(帰国)が不可能になったわけではないだろう。今、重要なことは、怠けたりして、懲罰など受けないことだ。懲罰として、もっと奥地へ送られたりしたら、ダモイが本当に不可能になるかもしれない。青柳さんたちはこう思って、またノルマ達成に向けて真剣に作業に取り組むのであった。

 青柳さんは、この作業で小さな幸運に恵まれた。山作業に入って二日ほどしてから、ロシア兵士約8人の宿舎当番を命ぜられたのだ。宿舎当番の仕事は、普通短期間で交替になるが、青柳さんの交代はなく長くやった。その理由は兵士の食べ物をつくっている時、口に入れたりポケットに入れたりしなかったからだ。

 捕虜たちは、ここでも常に空腹であった。だから目の前で温かい食べ物が煙をあげていれば、隙を見て口に入れたくなる。しかし、それをやると口のまわりが油でぬれていてすぐに分かる。兵士が、物陰から見ていることもあった。青柳さんの実直な姿が高く評価されたのだ。

 約束の三ヶ月が過ぎたが、状況に変化はなかった。また騙されたのか、青柳さんたちは焦った。仲間で何度も会議をし、代表を立てて催促もしたが答えはない。4ヶ月が過ぎようとしていた。恐ろしい冬が進みつつあった。人々は、今年の冬こそはシベリアではなく日本で過ごせると思っていた。日ごとに増す寒さと募る絶望感を乗り越える気力も体力も、もはや人々には残されていなかった。

 10月の上旬になって、青柳さんが今年の帰国を諦めかけたとき、300人ほどの日本人が伐採地に入ってきた。それは、青柳さんたちの交代要員であることが分かった。やっと山を下りられることになったのだ。

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2008年3月14日 (金)

「高木建設がらみで毎日がにぎやかだ」

◇「土地購入、出納長が指示」、「三役から購入指示」、「高木前橋市長関与」、「市長関与と証言」。これらは、13日の主要紙の見出しである。これらの各紙は、県住宅供給公社が高木建設から土地を購入した問題について、このような見出しの下に大きく報じた。

 各紙が取材したのは、12日の県土整備常任委員会のやりとりである。証言した人は、当時の土木部長荻原英生氏であり、当時の出納長とは柳沢宏氏のこと。故人となったが、当時の柳沢さんから受けた私の印象は太っ腹で大胆な人であった。各紙の報じるところによれば、証言内容は、「出納長から協力してくれと指示された、知事、副知事ら三役から話があったとも考えられる」とか、「上から土木部に全面的に協力するようにと要請があったことは事実」等となっている。 

 証言者が現れたことは、疑惑の解明に向けて新しい一歩が踏み出された事を意味する。しかし、常任委員会の審議は時間も限られているので、ここだけでは目的を達することが出来ない。そこで、一連の問題を審議することを目的にした特別委員会を設置する方向である。勇気ある証言者が現れることを期待する。

◇リコールが成功した例はないのかということがしきりに問われる。先日の「日記」で、昭和43年の前橋市の例を取り上げた。この時は、必要とされる署名を集めたが市議会が自主解散したためにリコールは完成に至らなかった。しかし、自主解散に追い込んだことはリコール運動の成果に他ならず実質的には成功したと言える。

 その他の県内自治体のリコール運動を調べたら、昭和49年以降18件もある。その中味を分類すると、①リコールが成立したのは5件、②法定の署名を集めたが解職の対象となった、村長、町長、議員が自ら辞職したためにリコールは途中で終了になった例が5件、③署名が法定数に達しなかったり、リコール取り下げ等で失敗に終ったのが8件、となる。以下では、①と②を紹介する。①「リコールが成立した例」、〈イ〉月夜野町・議員(昭和60年)、〈ロ〉伊香保町・議員(昭和61年)、〈ハ〉沼田市・議員(平成元年)、〈二〉伊勢崎市・議員(平成2年)、〈ホ〉富士見村・村長(平成16年)。〈イ〉は酒気帯び運転事件で、本県では戦後初のリコール成立。〈ホ〉は合併に関することで記憶に新しい。②「署名は集まったが対象者が辞職した例」、〈イ〉高山村・村長(昭和49年)、〈ロ〉新治村・村長(昭和51年)、〈ハ〉南牧村・議員(平成7年)、〈二〉下仁田町・町長(平成16年)、〈ホ〉榛名町・町長(平成17年)。〈イ〉は収賄容疑〈二〉は合併問題。

◇今月のふるさと塾は、「奴隷制・世界の人種偏見」である。人類の歴史は肌の色による差別の歴史であった。黒は最下位とされた。新大陸発見後、カトリックの人々によって奴隷制が広がったことは皮肉であった。リンカーンの解放宣言は明治維新の数年前である。進行中のアメリカ大統領選では黒人オバマの躍進が伝えられる。壮大な人類の歴史の一端を奴隷制を通して振り返る。22日7時、市総合福祉会館。誰でも可。(読者に感謝)

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2008年3月13日 (木)

「公安委員長が戦後初めて委員会に出席」(12日)

◇警察関係の常任委員会に公安委員長の神谷トメさんが出席した。須藤委員長は、冒頭の挨拶で、「この委員会に公安委員長が出席されるのは、昭和22年の地方自治法成立以来始めてのことです。」と述べた。公安委員の職が名誉職となっているという意見があった。そこで公安委員長が本会議だけでなく警察関係を専門に審議する常任委員会に出席すべきだという声が以前からあり、この程実現した。

 公安委員会は警察を管理するという誠に重い責任を担うにもかかわらず一般にはよく知られていない。これからは、そういう事では済まされない。県民が公安委員会を知ることが公安委員会を実のあるものにする。そしてその事が安全安心なまちづくりにつながるのである。

 県公安委員会は、県警察を管理する。任命前5年間に警察又は検察の公務員としての前歴がない者の中から知事が議会の同意を得て任命する。委員は3人で、その中から互選で委員長を選ぶ。委員の任期は3年、委員長の任期は1年である。2人以上が同一の政党に属してはならない。公安委員会の目的は、警察を民主的に管理することである。今挙げたの要件は、公安委員会を民主的な正確のものにするために求められる。

 私は須藤委員長に指名されて最初の質問に立って、次のように発言した。「公安委員長の出席は、わたしたちを勇気づけるものです。この厳しい社会状況の中で、警察官の使命は誠に重大であります。そこで公安委員長は、公安委員会の役割をどのように認識しておられるかお聞きしたい」と。

 神谷公安委員長は次のように答えた。

「警察の民主的運営と政治的中立を第1に考え、県民の安全安心のため誠心誠意努力してまいる所存です」

◇私は、改正少年法の施行状況、サイバー犯罪の実態と対策、携帯電話のフィルタリングの導入状況、暴力団を県営住宅から排除する条例等について質問した。県営住宅から暴力団を排除する条例は、群馬県において昨年実現した。県条例としては全国三番目であるが、議員発議で成立したのは、群馬県が最初であった。その後、県内市町村で県条例にならった条例の改正が続いている。私の質問に対し担当警察官は既に改正を果たした7市町と進行中の12市町村を明らかにした。条例を改正した7市町とは、甘楽町、高崎市、太田市、館林市、板倉町、明和町、玉村町である。今年の3月末までに条例改正案を議会に提出する12の自治体とは、藤岡市、富岡市、安中市、伊勢崎市、渋川市、大泉町、邑楽町、千代田町、吉岡町、みなかみ町、榛東村、高山村である。県会発の安全安心な町づくりの波が広がっている。

◇昼休みを利用して常任役員会、続いて議員総会が行われた(12日)。主な議題は、高木建設関連の土地問題等を審議する「県有地等取得処分に関する特別委員会(仮称)」の設立である。自民党では了承された。これから他会派等の代表者会議にかけて決定される。大きな歯車がようやく回り出した感がする。(読者に感謝)

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2008年3月12日 (水)

「教育関係委員会に一コマ。教育長は退任す」

◇11日の委員会で、私は、いくつかの質問をした。第1は学力低下に関するものであった。昨年2つの学力調査の結果が発表されたが、それによって、日本の子どもの深刻な実態が浮き彫りになった。全国学力調査と世界の57カ国が参加した国際学力調査である。

 いずれも、考える力や自ら解決する能力に於いて問題があることが分かった。私には、全国学力調査の結果が、国際学力調査によって裏づけされたように感じられた。とくに、国際調査で判明した日本の生徒の学ぶ意欲が最低という事実には衝撃を受けた。私たちはこれを謙虚に受け止めなければならない。

「これらの結果を教育の現場で生かさねばならない」という私の主張に対し、教育長は、「社会全体に問題があるのだから学校だけではどうすることも出来ない、また、上位でない国からノーベル賞受賞者が出て、上位の国から受賞者が出ていないことからして、この結果について一喜一憂することはない」という趣旨の発言をしていた。「はて」と私は思った。調査にあらわれた結果は、日本の社会の病根から生じているのだから深刻に受け止めなければならないのだ。

 学校だけでどうなるものではないが先ず、学校が努力しなければならない、国語の読解力を養うことや理科の楽しさを教える工夫に最善を尽くすべきだと私は主張した。

◇学力の向上に必要な条件は教師の資質である。しかし、現在教師を萎縮させている要素の一つに教師に対して何かというと無理を主張するモンスターペアレント(怪物保護者)の存在がある。私は、教育委員会は、モンスターから教師を守るべきだと主張した。今の親はすぐに「教育委員会に話す」という。話を受けると、教育委員会は学校に問い正す。学校は圧力を感じるに違いない。だから、「教育委員会に話す」という親の言葉は威力があるのだ。教育委員会も市民の声だから対応せざるを得ず難しいところだが、学校に対しては温かい態度で接してもらいたいものだ。私の発言の真意はこういうものだった。

◇明らかになった教育委員会関係の主な出来事を紹介する。①県立高の授業料が次のように改定される。全日制の月額、9600円から9900円に。定時制の月額、2600円から2700円に。改定理由は、前回の改定時に比べ生徒1人あたりの教育費が増加しているというもの。実は、前回は、一定期間が過ぎたから上げると説明したためそんな理由は認められないと批判を受け否決されていた。②教師の懲戒処分につき新たな基準を設けた。児童生徒に対するわいせつ行為及び児童生徒等の個人情報の紛失などについてである。ひんぱんに事件は起きていたが、これまで規定がなかった。③「ぐんま総文」が今年8月に開かれる。第32回全国高等学校総合文化祭のことだ。スポーツに「インターハイ」があるように、文化部のインターハイと呼ばれるもの。15万人の参加が予想される。様々な催しが行われるが開催県として独自に行うものとしてオペラとミュージカルがある。例えば前女の創作劇「灰になった街」など。若者の生き生きした姿が楽しみだ。(読者に感謝)

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2008年3月11日 (火)

「予算特別委員会は知事が出席して」(10日)

◇委員長の私を含め委員は15名。答弁席には、大沢知事の左右に副知事、その後ろの席には、部長を初めとする多くの県職員が座した。発言者は9人である。多くの報道陣が参加したが彼らが注目したのは、高木市長関連のやりとりだったのではないか。この問題は、自民党幹事長代行の南波委員と公明党の水野委員が取り上げた。

 二人が共通して問題にした土地は、元総社町の染谷川沿いの1.6ヘクタールである。高木市長の実兄が経営する高木建設から県が10億5000万円で買い、その後13年間放置されている。南波さんは、通常価格より高く買ったのではないか、なぜ、住宅供給公社に依頼して買ったのか、などを質問した。これだけの額の取引だと、知事の決済となるが、公社に依頼した場合には、土木部長の決済で可能なのだという。「まるで公社をトンネルとして使ったのではないか」という声がもれていた。

 問題の土地は、高圧線が走り、中央に染谷川が流れ、川の両岸は傾斜地である。ある業者は、住宅建設には不向きであり、公社取得額約6万円の半額でも高いと言っていた。しかし、この土地取得後、1年後に方針を変えて、住宅を建てないことに決定した。「初めから住宅に不向きと承知していたのでは」という声が聞こえた。

 少なくとも土地取得の必要性の検討につき慎重さを欠いたことは明らかだ。予算特別委員会の限られた時間内で追求することは無理で、この問題を特別に取り上げる調査特別委員会の設置を強く感じた。

 公明党の水野さんは、高木建設につき、告発、指名停止、書類送検などがなされた後に、県が、この会社と取引したことを挙げておかしいのではないかと追及していた。水野さんが、委員に配布した資料の一部には次のような記載がある。時系列にならべてある。

○ 平成4年11月25日、県警生活保安課・前橋東署は、国土利用計画法違反の疑いで高木建設などを家宅捜査。

    同日、群馬県は、国土利用計画法違反の疑いで告発。

    平成4年12月1日群馬県は、高木建設を指名停止処分。

    平成15年1月18日、県警生活保安課・前橋東署は、高木建設らを書類送検。

◎ 平成6年10月、群馬県は、住宅供給公社に代行取得を依頼。

◎ 平成6年11月4日、高木建設は、群馬県住宅供給公社に問題の土地を売買。

◇特別委員会のやりとりを見て長い月日が経過した事を感じた。答える人も、土地売買に直接たずさわった人でないので、良く分からないのである。当時、私たちは、県議会でこの問題についてチェック機能を果たせなかったことを残念に思う。当時、共産党が高木建設の土地売買につき国土法違反であるとして追及していたのである。チェック機能の役目を担う機関には監査委員や外部監査役もある。これらも、この一連の問題を見逃していたのであろうか。今回の事件から学ぶべき事は余りにも大きい。(読者に感謝)

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2008年3月10日 (月)

「前橋市議会リコール運動を振り返る」

◇「前橋市市議会議員の選挙は来年2月に行われるがなぜ2月なのですか?」こういう質問を受けた。統一地方選挙は4月に行われるからである。それは、40年前のリコール運動と関係する。

 昭和43年、参院選挙に関しておおがかりな買収事件が発生し、前橋市議会議員27人が逮捕された。私は、轟々たる非難が起きたことを覚えている。

市民は、「市議会浄化市民の会」をつくりリコールに向けて立ち上がった。署名請求代表者には弁護士の角田儀平治等が選ばれた。地方自治法には、いわゆるリコールについての定めがあるが、それには議会の解散を求めるものと議員又は首長の解職を求めるものがあり、その手続きはほぼ同じである。選管は、代表者の資格審査を行い、大図軍之丞選管委員長は証明書を交付する供にそれを告示した。

 市議会浄化の会は一斉に署名集めを始めた。規定によれば、有権者の三分の一以上の有効投票を集めなければならない。書名期間は1ヶ月、約5千人の受任者が選任された。選管は、法定数の目途を5万人としこれを審査する体制づくりに入った。

 市民の盛り上がりは凄く、1週間後の中間発表では早くも署名数は6万5千人に達した。そして、締め切りと供に提出された数は、署名薄5,121冊、署名87,136人であった。

 選管は、全署名を審査し、無効18,054を除く69,028を有効とした。これは法定署名数を19,252も上回っていた。選管は1週間、署名薄を縦覧に供し、異議申し出を受け付けることにした。政和会は57,823人分の異議申し出を行った。そして浄化の会は選管に対して、市議会解散の本請求を行った。

 ここまでがリコール運動の大きな山である。しかし、これで目的を達したわけではなく、これから住民投票を行いその過半数の同意を得なければならない。このような事態が進む中で、前橋市議会では連日夜遅くまで激しい攻防が行われていた。市民の署名集めが完成した以上、このままでは解散させられる。それだけは何としても避けたいというのが市議会の人々の考えであった。政和会が署名について異議申立てをしたのもそのためだ。

市議会は遂に午後八時五五分、自主解散を決議した。前橋市議会史上初のこの解散は昭和四十四年一月二七日のことであった。リコールによる解散は回避されたが、市議会を解散に追い込んだのは正にリコール運動の成果であった。この解散を受けて前橋市議会議員の選挙は二月に行われた。以来、四年ごとに市議会議員選挙は二月に行われることになった。前橋市議会は、今、試練の場に立たされている。チェック機能を果たせるか。「疑惑」をどこまで追及できるか。(読者に感謝)

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2008年3月 9日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(83)第3章 青柳由造さんのシベリア

乗船の順番を待つ日本人の心には期待とともに大きな不安があった。それは、ダモイ不適格として再び元の収容所に戻されはしないかということである。事実、人々の間には奥地の収容所へ戻された人のこと、あるいは乗船の順を遅らされた人の話が広く伝わっていた。

青柳さんたちのグループは、乗船の順番を待っていたが、なかなか来ない。普通は、4,5日待つことが多いが、一週間が過ぎた。後から到着した人たちが次々と帰国船に乗り込んでいくのを見て青柳さんは次第に不安になってきた。何か不都合なことがあって、帰国を取り消されたり、延期させられるのであろうか。青柳さんには、思い当たることはなかった。逆に、ダガラスナでは、ハラショー・ラボーター(良い労働者)としてのその勤勉ぶりが高く評価されていたのだから。

おかしいと思って、仲間と話し合っていると、7日目の昼前になってソ連兵がやってきて、ダガラスナ組はもう一度山に入って越冬用の薪切りをやってほしいといきなり言い出した。それを聞いて青柳さんはガーンと脳天に一撃を受けた思いだった。人々の落胆ぶりは表現できないほどだった。やっと日本海が見える所まで来て、祖国の土を踏める日は間近と浮き立つ思いでいたのに、暗い穴に突き落とされたような衝撃を受け、目の前は真っ暗になった。

当局の理由は伐採に慣れていることと、ハラショー・ラボーターだからだという。ハラショー・ラボーターならすぐにでも帰国させるべきだと必死に主張したが、聞いてもらえない。青柳さんたちは、ナホトカまで来ても、まだ捕虜であることに変わりなかったのだ。そのことを改めて思い知らされた。表現は穏やかだったが命令に変わりはない。拒絶する自由はなかった。

期間は三ヶ月とのことである。青柳さんたちは、三ヶ月という期限を再三確認して、40キロメートルほど離れた伐採地に入ることになった。やっと近づいた祖国が遠ざかってゆくと思うと身体から力が抜けてゆく。ソ連のやることは信じられない。三ヶ月というが、果たして約束は守られるのか。青柳さんたちダガラスナ組は自分たちの不運を怨んだ。

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2008年3月 8日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(82)第3章 青柳由造さんのシベリア

 ちなみに、舞鶴引揚げ援護局の記録によれば、ナホトカを出港した引揚船の数は次の通りである。

昭和22年

昭和23年

昭和24年

昭和25年

 

引揚船数

 

引揚船数

 

引揚船数

 

引揚船数

 4月

9

 5月

11

 6月

2

 1月

1

 5月

9

 6月

13

 7月

9

 2月

1

 6月

9

 7月

17

 8月

9

 3月

2

 7月

11

 8月

11

 9月

10

 

 

 8月

10

 9月

12

10月

10

 

 

 9月

9

10月

11

11月

4

 

 

10月

15

11月

9

12月

2

 

 

11月

9

12月

6

 

 

 

 

12月

2

 

 

 

 

 

 

1船に乗れる数は2千人から3千人の間であった。

 そして、昭和25年4月22日の信濃丸の入港で、短期抑留者の帰還は終わる。

 なお、戦犯として長期抑留されていた日本人の最後の帰国は、昭和31年12月のことであった(別の所で書く瀬島龍三の帰国は昭和31年8月、ハバロフスク事件の責任者石田三郎の帰国は昭和31年12月)。

 この表が示すように、ナホトカはダモイ(帰国)の基地であった。青柳さんがナホトカに着いたのは、昭和22年の6月であるから、まさに引き揚げ用の日本船が順調に動き出していた時であった。

 シベリア強制抑留では、60万人を超える日本人が抑留され、6万人以上がダモイの悲願を果たせずに死んだ。酷寒と飢えと強制労働の苦しみを耐えて生きたのは、ただ祖国へ帰りたいゆえにであった。その夢が目の前で実現されようとしている。

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2008年3月 7日 (金)

「高木建設関連の疑惑調査に向う」(6日)

◇県土整備常委員会を中心に、2台の議会バスを連ねて問題の土地数ヶ所を調査に回った。共産党まで含めて超党派の調査団である。途中、何ヶ所かは市議会議員も加わって、県の職員も入れると約50人の大部隊となった。道行く人々は何事かと驚いていた。色々な情報も伝わる。「前橋中の土地売買が高木建設がらみか」そんな声が聞かれたが、それが冗談でないような響きで伝わるのである。

 数ヶ所のうち、元総社と千代田町四番街の土地の件をここで取り上げたい。議会でも問題とした元総社町の土地は安中線の北側染谷川沿いの荒れ地である。上空には十数万ボルトが流れる高圧線が走る。「こんな土地に県営住宅は建てられない」という声が聞こえた。土地取得の後に、小寺知事は計画を変更して住宅を建てないことに決定した。「初めから住宅には適さない事を知って買ったのでは」と誰かが言っていたが、現地を見れば、そう思いたくなるような状況であった。県議会は、地方自治法に基づく委員会を開き、当時の県職員を招いて意見を開くことになるだろう。当時、髙木市長は自民党の政調会長で、又、この土地取引の直前まで、高木建設の役員をしていた。

 千代田町の問題の土地は、高木市長の甥が所有権を取得したもの。ここは、再開発計画の対象外であったが、市長の甥が土地を取得した後で、この土地を含む地域に計画が拡張された。情報を知って先行取得したと多くの人が疑いを持つのは自然である。

 市長選の直後に市長の兄が経営していた高木建設などが、関東信越国税局から150億円の所得隠しを指摘された。この事件が報じられてから連日のように「疑惑」が取り上げられている。高木建設と高木市長は別人格であるが、近い親族関係にある以上、無関係と見る人はいない。「リコールは出来ないのですか」という声が毎日のように寄せられるのはその現われである。昨日もリコールについて聞かれた。

◇リコールとは住民の発意によって公職にある者を罷免させる制度である。地方自治法に地方公共団体の長の解雇請求について定めがある。それによれば、有権者の総数の三分の一以上の者の連署をもって、選挙管理委員会に対して、長の解職の請求をする。この請求があった場合には選挙管理委員会は投票に付し、過半数の同意があったとき、長は職を失う。また、この解職請求は、市長が職についてから一年間は行うことが出来ないのである。「有権者の三分の一で発意」し、更に「投票の過半数の同意」と聞くと人々は「何故そんなに難しいのですか」という。民主主義の原理は選挙なのである。リコールは、その例外なのだから簡単に認めることは出来ないのだ。前橋市民は、この難問にどう立ち向かうかが問われることになる。一連の疑惑が投票日前に発表されていたら選挙の結果は違っていたものになっていたかも知れない。このような事態にリコール制の意義があると思える。(読者に感謝)

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2008年3月 6日 (木)

「教育と警察の常任委員会」(5日)

◇「本県で病気で退職した教員は49名、そのうち精神を患った者は32名で、これは65.3%にあたります」私の質問に教育委員会は答えた。病気の中で精神を患う人の割合は、全国の平均は61.1%であるから、群馬は高率である。

 心を病む教員の増加とモンスターペアレントとの間には関係があるに違いない、教育委員会は教員を守るための対策をたてるべきだと私は主張した。他の何人かの委員もこの問題を取り上げていた。

◇午後の警察関係では、いくつかの有意義な議論があった。私は、この乱れた社会で治安を守る警察の役割は重大だ、それを果すためには市民の信頼が必要で、信頼を得るためには適切な捜査が行われなければならないと主張した。

 全国の警察は、最近失態を重ねていた。強姦罪で服役後無罪となった富山県の冤罪事件・自白を強要したとして無罪判決が下された鹿児島県の選挙違反事件・知的障害者に自白を誘導したとされる栃木県の事件などである。

 警察庁は、この事態に対し「取調べ適正化指針」を公表した。私は、この点に関する本県警察の対応について質問したが、県警の担当官は、本県の適正化指針として次の4点を挙げた。①取調べに対する監督の強化。②取調べ時間の監理の厳格化。深夜、あるいは長時間に及ぶ場合には事前の承認を要すると言う。③取調べの適正を担保するために取り調べ室に透視鏡を設置する。④取調官の教養と知識の向上を図る。私は、裁判員制度との関係でこれらの指針は重要だと考えるのである。

 私は、別の論点として、裁判員制度に対応する県警の姿勢について質問した。無作為に選ばれた素人である市民が刑事事件の裁判に参加するとなれば、適正な捜査資料を提供する必要性は、これまでより格段に高まるからである。

担当官は、この問題について留意事項として次の点を挙げた。①捜査の適正を一層推進する。②客観的証拠の収集を徹底する。③捜査資料の分かりやすさを重視し、簡潔明瞭化を図る。法律の素人が裁判員として捜査資料に接して重要な判断をする場面を考えるとき、③は特に重要である。

◇この日の委員会で松本県議は、公安委員長の常任委員会出席を求める発言をした。議会のルールでは、公安委員長は、常任委員会に出席する義務はなく、議長から要請された時に出席する事になっている。県の治安の最高責任者は治安の問題が議論される委員会に出席すべきだという強い意見は前からあったが実現しなかった。公安委員長は単に名誉職であってはならない。見識をもって安心安全な社会づくりのリーダーシップをとれる人物が求められている。教育委員長については、委員会出席が常態化しつつある。公安委員会が本来の姿を取り戻す重要な時期にさしかかったといえる。議会はそのための役割を果たさねばならない。(読者に感謝)

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2008年3月 5日 (水)

「理科の面白さを育てる会のこと」

◇一つの大仕事が終わって、反省会が行われた(31)。参加できたのは4人であった。数が少ないことを初めは残念に思ったが有益な楽しい会となった。私と群大工学部の教授3人。群馬会館食堂の奥の一室で一杯やりながら振り返った。

 昭和庁舎で会議を重ね、中断した期間も入れて2年以上もかけ、やっと目的の一部を実現することが出来た。2月3日と4日、会場は、県民健康科学大学(旧医療短大)で行われた。かなりの大雪に見舞われたが子どもたちは沢山参加してくれた。面白い実験を体験してもらい、理科の面白さを味わってもらうことが目的だった。父母と一緒に楽しむ姿を見て報われる思いがした。母親が理科に興味を持つことが特に大切なことだなと感じた。講師の群大教授たちは、子どもたちの目に大学の先生とは映らなかったに違いない。普通の小学生の先生のように見えたからだ。2月7日市長選告示を目前にして、私は会場に顔を出して挨拶するのがやっとのことであった。

 反省会で、この会を続けたいと私が言うと、教授たちは、当然ですという顔をして、その一人は、「だらだらとやりましょう」と言った。私のように物事に性急に取り組むのはよくないことだと反省した。

 酔う程に教育の話になる。学校に対していちゃもんをつける親の事から自分たちの子どもの事に及んだ。私の長男は知的ハンディを持つと切り出したら皆、私の口元を見詰めるように興味を示す。長男は、中学と高校の計6年間を白根改善学校で学び開善賞を得て卒業したこと、有名な百キロ強歩で3回完歩したことなどを話した。先日の日記で、警察が知的障害者に虚偽の自白をさせた事件に触れ、私の長男がもしそのような場面に出会ったら恐いと書いたが、その長男のことである。私は、この長男と生きてきた。彼の事を書いた、「遥かなる白根」は、煥乎堂から出版されたが幸なことに多くの人に読まれた。私は、教育の問題に小さな一石を投じる気持ちでこの本を書いた。教授たちの前で私は明るい心で息子の事を話すことが出来た。周平は、現在、重荷を背負いつつも、確かな足取りで真っ直ぐ生きている。

◇この反省会でモンスターペアレントの事も話題になった。今の社会をクレーマー社会と呼ぶ人がいる。クレーマーとはクレームをつける人である。道徳が崩壊して自己主義が横行すれば自己中心の主張をぶつける人が増えるのは当然の事だ。クレーマーにとって聖域はない。モンスターペアレント、つまり怪物保護者は、教室を攻撃するクレーマーだ。あくびを注意したら何であくびはいけないのだとか、写真でうちの子を端に立たせないでとかのクレームもあるとか。理不尽な攻撃によって不登校になる先生が増えている。校長は何故先生を守れないのか、教育委員会は、なぜ怪物保護者に立ち向かわないのか。教室を守ることが教育改革と学力向上のための原点である。教育委員会に勇気が求められている。今日から始まる委員会で取り上げたい。(読者に感謝)

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2008年3月 4日 (火)

「本会議一般質問の最後、道州制も飛び出す」

◇自民党の5人の県議が登壇した。道州制を正面から取り上げたのは最後に登壇した原富夫県議。原さんの議論を聞いていて道州制が身近になったことを感じた。実は、道州制の導入を検討する政府の懇談会は、2018年までに道州へ完全移行することを明記した中間報告の原案を発表したのだ。あと10年後の事である。原さんの主張は、前橋、高崎、伊勢崎、太田を一つにした大都市をつくり、道州制に移行した場合の州都として名乗りを上げるべきだと言う壮大なもの。

 この議会では北関東自動車道が完成した場合のもろもろな効果について何人もの県議が取り上げていた。それは、大澤知事が「想像を絶する」と発言した程大きなものである。単に経済的効果が大きいだけでなく、群馬、栃木、茨城の各県を一体化した広域のまとまりをつくりだす効果を有するといえる。ここには道州制論がその根拠とする社会の大きな変化が如実に現れている。私には、道州制の実現はまだ先のことに思えるが、時代の大きな流れはその方向に向いているに違いない。前橋市長選の公開討論会でも一つの論点になっていたので、「道州制の本質は何ですか」と私に質問する若者がいた。私たちの社会が今どういう方向に大きく動いているかを知ることは必要なことである。

 大澤知事が道州制は地方分権を基本にして考えるべきだと発言していたように、道州制の本質には地方分権を進めると言う目的がある。「中央集権から地方分権へ」という流れについては誰もが認めるだろう。明治以来、地方が遅れていた時代にあっては、中央が強力な力で日本全体を引っ張っていく必要があった。しかし、今や地方が十分に発展し、かつてのやり方は、地方の活力を抑えつけることになる。だから地方のことは地方に任せるという地方分権が叫ばれることになる。問題は、地方分権の形である。その一つとして道州制が現われてきた。

時代は目を見張る速さと規模で変化している。高速交通網が全国に発達し、県境を越えた経済と文化の大きなまとまりが全国に生じている。このような変化を踏まえて、全国を9つから13位に分けて、その道や州にその「地方」の政治を任せようというのが道州制の基本である。この制度の下では、例えば、北関東州というようにいくつかの県が一つにまとまるのだから、この州は大きな権限を持つことになる。全国がこのようになる。これは国の権限が少なくなることを意味する。つまり、国の権限は、外交、安全保障、司法などに限られる。

道州制は、国と地方の役割を再構築することになる。司馬遼太郎のいう「この国のかたち」を作り直すことを意味するのだ。一つの州は一つの国家のようになり、そこでまた中央集権が生れるのではないかと懸念する声もある。真の地方分権が道州制の下で実現できるのか分からない。十分な論議を深める必要がある。その時が来たら、新田義貞のように立ち上がるべきだと原さんは大沢さんに勇ましく迫っていた。

(読者に感謝)

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2008年3月 3日 (月)

「知的障害者に警察が自白誘導の記事」

◇知的障害を持つ男性は、2つの強盗事件で逮捕、起訴された後に、幸いにも真犯人が判明し無罪が確定した。この男性は、精神的苦痛を受けたとして、国と栃木県に賠償請求訴訟を起こした。裁判長は、「警察官が知的障害者の迎合的である特性を利用し虚偽の自白調書を作成した」と認定した。

 たまたま真犯人が判明したからよかったが、さもなかったら大変な事になるところであった。知的障害者の冤罪について、私がその恐さを痛切に感じるのは、知的ハンディを持つ子どもを私が持つからである。裁判長が知的障害者の特性を「迎合的」だといっている事が理解出来るのである。だから、私たち夫婦は、長男が、社会で疑われるような行動をとらないように常に注意して育ててきた。長男は、悪いことは出来ない人間に成長しているが、複雑で生きるのが難しい現代社会である。万一、何かの間違いで嫌疑をかけられた時のことを想像するとぞっとする。警察は、知的障害者の取り調べについては、特に慎重であるべきだ。来年から裁判員制度が始まるが、無作為に選ばれた市民が重大な刑事事件の裁判に参加して有罪無罪、そして、量刑の判断にまで関わる。この裁判員制度の下では、警察官の作った取調べの資料は非常に重大な結果をもたらす可能性がある。

 栃木県警が扱ったこの事件の弁護人の一人副島弁護士は、私も知っている人物であるが、「警察は、弱みにつけ込んで無実の人を犯罪者にする罪を犯した」と発言している。大阪弁護士会は「知的障害者刑事弁護マニュアル」をまとめ、その中で取り調べの全過程を録音、録画する「可視化」の必要性を訴えている。

◇警察庁は、「取調べ適正化指針」を作り、全取調べ室に透視鏡を設置することにした。きっかけは最近の二つの事件、富山県警が関わった冤罪事件、鹿児島県警が扱った事件の無罪判決である。

冤罪とは無実の罪である。強姦で逮捕された富山県の男性は懲役3年の実刑を受け服役したがその後真犯人が現われ、男性は再審で無罪となった。昨年10月のことである。鹿児島県警の事件は、県議選に関する選挙違反事件である。長期間そして長時間にわたる強圧的な取り調べによる自白につき、裁判所はその信用性を否定し、昨年2月無罪を言い渡した。任意の調べが一日13時間にも及んだり、10日間続けられた人もいた。また、「踏み字」をさせたとしてテレビで大きく報じられた。

◇警察庁の「指針」は、深夜や長時間の取り調べを原則禁止し、適正な取り調べが行われたかを点検できるように取調室に透視鏡を設ける。そして、取調べ状況を監視・監督する専門部署も新設する。全国で、来年春までに運用を始める。この捜査指針は、知的障害者の捜査には触れていないが、指針の精神をそこまで生かすべきである。私は、「指針」の重要性を裁判員制度との関連で考えて見た。

(読者に感謝)

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2008年3月 2日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(81)第3章 青柳由造さんのシベリア

 青柳さんは、帰国を夢見ながら亡くなった仲間の顔を思い出し、悔しくてならなかった。しかしその思いはすぐに消え、今は、一刻も早く祖国へ帰りたいという気持ちでいっぱいになり、周りの人々と声をそろえて、そうだ、そうだ

、と壇上のアクチーブに対して声援を送るのであった。

 それから3日後、貨車に乗せられ東に向かった。

「今度は本物だ」

誰かがつぶやいた。その声にうなづく気配があった。終戦直後、帰国させると騙されて貨車でソ連領内へ連行されたことが、誰の頭にも生々しく残っていたのだ。

そのとき、貨車の一角からどっとどよめきが起こった。

「海だ、日本海だぞ」

叫ぶ声に人々は歓声で応じた。折り重なるように窓に殺到する。そこには、初夏の海が陽光を浴びて光っているのが木々の間から見えた。

ナホトカ湾だ。19世紀中ごろ、漂流中のロシアの軍艦が偶然にも波静かな入り江を発見し、「ナホトカ(掘り出し物)」と叫んだことに由来するというナホトカの海は、地獄からの生還者を癒すように静かに広がっている。そして、水平線は春の霞の中に溶け込んでいた。あの向こうに祖国日本があると思うと、青柳さんの胸は熱くなり、思わず涙が頬を流れていた。毎日、夢に見た光景であった。

人々の目は輝いていた。栄養失調のつやのない表情に生気が蘇ったようである。青柳さんは、身体の疲れも忘れ、新しい力が身体にみなぎってくるのを感じるのであった。

ナホトカは、各地の収容所から集まった日本人であふれていた。

ナホトカからの抑留者の送還は、昭和21年12月8日に第1回が行われ、以後翌年1月にかけて何回か行われたが、昭和22年4月からは本格化されていた。

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2008年3月 1日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(80)第3章 青柳由造さんのシベリア

本当の力は人間の心、そして人間らしさから生まれることに人々は本能的に気付くようになった。人々は極限の状況に追い詰められ、人間の心を失いかけて、初めて人間の心の大切さを発見したのであった。そこで、いろいろな形の文化活動が行われるようになった。皆で歌をうたう、俳句を作る、そして劇団も生まれた。青柳さんも劇団に参加して、何度か舞台に立った。一時の笑いが心の闇を照らし、助け合う心を生んだ。このことは、シベリアのすべての収容所で共通のことであったらしい。別のところで触れた、「異国の丘」の歌がつくられ歌われたのも、このような状況でのことであった。 七 ダモイ(帰国)の基地・ナホトカ 二度目の冬をなんとか抜け出して再び春を迎えた6月の半ばのある日、突然ロシア警備隊の兵士が青柳さんたちの所へ近づいて言った。「本日かぎりで日本に返す。しかし、日本国土に上陸しても、ここで学んだ共産主義の根本を忘れないで米軍と精神的にも闘ってほしい」「本当に帰国できるのか」皆、疑った。ソ連兵には何度も欺かれてきたのだから信じられないのも無理はなかった。 翌日、青柳さんたちはダガラスナの山地を下り、元のビアゼンスカヤに向かった。ダガラスナの森を振り返って青柳さんは感無量であった。良く働き作業実績をあげた。収容所側も、ハラショー・ラボター(良い労働者)と評価しているようであった。このハラショー・ラボターの評価が仇となろうとは、この時想像もできなかった。いよいよナホトカへ向かうということになった。 青柳さんたちは、ナホトカ港に向かう前に、大きな集会所に集められた。そこにはいくつかの収容所から来た多くの日本人が終結し騒然としていた。ソ同盟万歳、スターリン大元師に感謝、あくまで反動と戦うぞ、などと書かれたのぼり旗が林立し、仮説の舞台には、アジ演説をする男たちが次々に立ち、その絶叫があたりに響いていた。いわゆる「民主運動」の総仕上げともいえる光景である。これが、同僚を何百人、何千人と餓死させたソ連に対してとる日本人同志の姿なのか... ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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