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2008年1月31日 (木)

「風雲急を告げる情勢、集会は盛り上がる」

◇朝8時、前橋駅頭でマイクを握り、8時半朝礼とミーティングに出る。市会議員諸氏の表情にも緊迫感が現れている。私の事務所も忙しい。分担した仕事が多いからだ。午後、やや大きな集会が2つあった。会場はテルサ。企業、その他の団体の人たちが集まった。午後4時の1部と6時半の2部。4時の方は集まりが悪いかと思ったら満席になった。夜の部は立ちの人が多く出る盛況ぶりであった。追い上げは急であると感じるが、まだ、追い越してはいないと思う。これからが勝負だ。夜の幹部会で今後の作戦と課題を討議した。平和な時代の戦いは命を取られることはないが、大将は政治生命を失うことも有り得る。 ◇「ハンセン病についてもっと知りたい」。昨日の「日記」を読んでこういう声が寄せられた。「意見書」、栗生楽泉園、「らい」の歴史などを説明しようと思っていたところである。 草津の楽泉園でもかつて断種、強制堕胎などが行われた。偏見と無知と国の怠慢により信じられぬ戦慄の人権侵害が最近まで行われてきた事は民主主義が進んだ文明国日本の汚点である。 患者の歩みには長い歴史がある。江戸時代では、死ぬまで乞食をしたり、患者のみで集落を成して生きたりした。「らい」の病には差別と偏見が付きまとったため国の施策も進まなかった。昭和になって、「無らい県運動」が広がる。各県から「らい」をなくそうというものだが患者は強制収容され、家族の人権まで侵害された。この流れの中で、らい家族一家心中事件が各地で起きた。療養所が出来ても患者の扱いは過酷だった。1935年(昭和13年)には、わが群馬の栗生楽泉園に特別病室と言う名の監房が設置された。小さな窓、減食罰、冬は零下20度、このような環境で多数の死者が出た。広く療養所で行われた断種、中絶、堕胎の強要は日本における優生政策の一環であった。出産した新生児を職員が殺害したとする証言も多い。胎児や新生児の遺体とみられる標本が全国に115体保存されているというが、これは過酷な実体を物語るものだ。今日では、感染はしない、遺伝病ではないことが分かっているが偏見は根強い。21世紀になってもホテルで宿泊を断る例が大きく報じられている。この病気に関する最近の特筆すべき出来事は、国の隔離政策を違憲とした熊本地裁の判断である。小泉首相(当時)は訴訟を断念した。栗生楽泉園で生きる人々は、この流れを前進させるために「ハンセン病問題基本法」の制定を求めて立ち上がり、署名運動協力の請願を知事に提出した。そして、県議会はこれに呼応して、同法制定を求める意見書の提出を可決した。県は、市町村職員、県立学校の職員にも署名を呼びかけることにした。「ハンセン病」と呼ぶのは、らい菌発見者の名に因む。県は、栗生楽泉園の重監房などを資料館として保存する方向だ。人権侵害の歴史一つの幕がおりようとしている。資料は貴重な教訓として生かすべきだ。偏見と向き合うため今後も「ハンセン病」を取り上げたい。(読者に感謝) ☆土・日・祝日は、中村紀雄著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年1月30日 (水)

群馬会館前でマイクを握る(29日)。

 県庁舎と市庁舎に向って私は訴えた。

「私の前に県庁があり、市役所があります。皆さんは、二百万県民と三十万前橋市民の運命を担う中核であり、頭脳であります。この二つが真の力を発揮すれば、群馬県は更に飛躍出来るし、前橋市は甦ることが出来ます。そのためには、リーダーが熱い絆で結ばれることが必要です。昨年は、大沢知事が誕生しました。今こそ、新知事と手を握る前橋のリーダーが求められています。」続いていくつかの金子泰造さんの政策を挙げ、それも、国と県と市が力を合わせれば実現出来ることを強調した。

 私の演説は前座である。続いて金子泰造さんは、前橋再生のための決意を語り、自分の政策を主張した。その中で前橋中心市街地の衰退ぶりが教科書で紹介されていることは驚きであるという下りがあった。それを聞いて「本当か」と思った人もいたであろう。そのことが何を意味するのか考えてみたい。

◇その教科書とは、帝国書院発行の高等学校地理・「新詳地理B」初訂版である。その123頁に、「中心部の寂れた商店街(群馬県前橋市)」と説明を加えたカラーの写真が載っている。煥乎堂の東、アーケードのある中央通りだ。なじみの店もある見慣れた町並みである。シャッターが閉まり歩いている人影が数人見える。何の目的でこの写真を載せているかというと、モーターリゼーションの進展によって人の流れが郊外へ移り、対策を立てられないまま、「時代の変化に取り残されて商店街がさびれてしまったケース」として扱っている。

 金子泰造さんの言わんとすることは、市長は前橋市のことを「楽しく住みよいまち」といっているが、全国で読まれる教科書でさびれたまちの例として扱われるような現実があるのに、なにが、「楽しく住みよいまち」か、という点である。さびれた市街地対策として、教科書は成功例を挙げる。「静岡県浜松駅周辺の商店街では、集客の核としてのターミナルビルもあわせて建設するなどの積極的な再開発を進めて発展した」と。前橋の商店街はどのようによみがえらせるか。市長選の争点の一つにすべきではないか。

◇芳賀地区で金子泰三を励ます集い(29日)。赤城山は灰色の布の中に姿を隠している様だ。時折風花が舞う。人の集まりが心配だった。「午後1時半の集いに参加してください」と約1時間広報車で回った。農山村が広がるこの地域で、ウィークディのこの時間に人を集めるのは非常に難しい。結果は予想した規模の人が参加してくれた。金子泰造さんは「赤城南面のこの地域を観光と農業に重点を置いて発展させたい」と力説した。激励に立ったある弁士は、前市長の支持者だった人で、4年前のことを思い出すと今でも悔しいと語った。夜、20年来の同志が集まって、一杯やりながら市長選を語り合った。金子さんは遅れるので私はつなぎの役を果たした。このような励ます会もいいものだ。(読者に感謝)

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2008年1月29日 (火)

「新型インフルエンザの恐怖を連想した」

◇韓国で開かれたスポーツ交流に参加した中学生ら17人が下痢や嘔吐を訴えたと報じられた。原因は不明だという。全員が回復に向っているというが、時期が時期だけに新型インフルエンザの恐怖を思った。度々ここで書いているが「新型」は、突然変異でこの世に出現するウイルスである。過去に、スペインかぜ、アジアかぜ、ホンコンかぜなどが大きな被害をもたらした。十年から数十年に一度のサイクルで現れている。専門家の話によると、ウイルスは除々に変化し、あるとき突然変異となって現れると言う。

 伝えられるところによれば、アメリカは、トリインフルエンザのDNAを調べたら、かつて流行したスペインかぜのものとよく似ており大変だということで人口の半分、7千3百万人のワクチンを備蓄する計画を進めているという。スペインかぜは第一次世界大戦の最中スペインから始まりおよそ2千万人の死者を出し、我が国でも39万人が死んだ。今度、新型インフルエンザが発生した場合の群馬県の被害につき、かつて、保健予防課は、感染者50万人、死亡者1678人、外来患者26万4670人、入院患者6746人と推計した。

 県が市町村と連携して適切な対策をとらないと大変なことになる。この点で、重要な役割と重い責任を担う県保健福祉部長のポストにつき私は提案したいことがある。それは、医師の資格をもつ人が当たるべきだということである。パニックになったとき、病院や医師、薬等の対応につき的確な判断が求められるからである。知事は、医師であると同時に政策的判断力を備えた人物を選んで欲しい。

 「新型」の発生場所は中国南部が危ないという人がいる。もし、今年、中国で発生したら、オリンピックは最悪の事態に直面する。正に悪夢である。中国はオリンピックの開催時を、08年8月8日8時8分と定めた。8の数字を並べたのは、中国では8を縁起のよい数だと考えるからだ。しかし、オリンピックが無事に行われて欲しいという悲願がこめられているのかも知れない。

◇ハンセン病の解決を求める議会の意見書。これは12月県議会で採択されたもので、元らい患者に対する差別や偏見のない社会を目指す基本法の制定を求めるもの。チャールトンヘストン主演の映画「ベンハ―」にらい患者が人里離れた死の谷で暮す場面がある。古代ローマの時代から続いたこの病にやっと解決の道が開けてきた。本県には草津町に栗生楽泉園があるので身近である。ここに至るまでにはハンセン病訴訟の解決があった。感染力が弱く治療薬も出来、隔離の必要はなくなってWHOは日本に隔離政策の見直しを求めていた。熊本地裁は、国の隔離政策は憲法違反の人権侵害だとして元患者に賠償金を払うよう国に命じた。この判決を生かすため社会の偏見をなくして元患者の人権を守る基本法の成立が必要なのだ。県は、議会の意見書採択を受けて全職員に署名活動への協力を呼びかける。

(読者に感謝)

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2008年1月28日 (月)

「7か所の女性大会は計千八百人で盛会」

◇女性のパワーは選挙のカギである。知事選の時はマーキュリーで大きな大会をした。今回は市内を大きく7か所に分けて行った(26日)。計約1800人、ほぼ目的を達成した。この集いには、県会議員、市会議員は出席しなかった。女性の自主的な運営で真の女性パワーを発揮することを狙ったのだ。結果の報告を受けて、先を走るランナーを視界にとらえ、追い越し可能な射程までせまったと確信。

◇忙しい中、ふるさと塾を実行した(26日)。寒い中、熱心な人たちが集まった。「よく時間がとれましたね」という人がいた。朝から選挙のことで飛び回っている私にとって息抜きの一時、そして心のエネルギーの充電の一時でもある。そのことを話しながら、<しかし、塾の手は抜いてないですよ>と心の中でつぶやいた。

 「福田赳夫」を扱った。佐藤の次は福田といわれながら、総裁選で田中角栄に破れた経緯なども話した。中曽根さんが田中についた為に上州が期待した最初の総理が実現せず、三区の有権者は「怒った」と言われ、直後の総選挙では、福田は、空前の18万票近い票を得た。総決起大会の大群衆の映像を見て「へぇー」と驚きの声をもらす人がいた。話は、このあたりから横道にそれて、県会の二大派閥、福田派・中曽根派の対立に及んだ。小寺知事を擁立したのは中曽根派であり、その中心に高木政夫さんがおり、金子泰造さんも当時、中曽根派であった。その後、小寺対議会の対立の構図の中で、二つの派閥は解消し、金子泰造さんは自民党の幹事長となって、対小寺の矢面に立つことになった。小寺支持の髙木さんたちからは「裏切った」といわれ、昨年4月の県議選では、高木さんたちに、「金子を落とす会」を作られたという。因縁の金子、高木の対立は、知事選の中でも激しい花火を散らし、今度、また、二人は市長のイスをめぐって雌雄を決することになった。このような脱線に塾生は興味を示していた。

 福田赳夫は総理として、日中平和友好条約の締結と成田空港の開港を行ったことにも触れた。小泉、安倍政権の下で冷えていた日中関係が福田康夫さんの手で好転した。親子で総理になったこと、親子で日中友好を大きく進めたこと、これらは歴史に語り継がれることになるだろうと話した。

◇朝の合同役員会があった(27日)。この朝は、氷点下2、3度の寒さ。外の水は氷となっていた。赤城の山は白い冷気に包まれて見えない。下小出の金子事務所には、宮城、大胡、粕川からも役員が詰めかけた。「追いつけ、追い越せ、命がけでやれば出来る」と壁に大きな文字が貼られている。この文字が戦いの激しさと厳しさを訴えている。「前の走者との距離は確実に縮まっています。力を合わせれば必ず追い越せると信じます」冒頭の挨拶で私は叫んだ。会議が終わると立ち上がって公明党市議の音頭で「檄」をやった。突き上げる拳(こぶし)と叫ぶ声に寒さを吹き飛ばす熱気が感じられた。

(読者に感謝)

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2008年1月27日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(70)第3章 青柳由造さんのシベリア

次いで次の人々が自決した。

海軍軍令部次長  大西滝治郎

憲兵本部長    城倉義衛

航空本部長    寺本熊市

関東軍司令官   本庄 繁

東部軍司令官   田中静壱

大阪海軍監督部長 森住松雄

第一総軍司令官  杉山 元

このような動きを見れば、青柳さんが目撃した集団自決者の心理も分かる気がする。

四 捕虜となりシベリアへ

 敗戦となり、武器も取り上げられた日本兵の姿は哀れだった。今までは、天皇のため、国のため、あるいは家族を守るために勝たねばならぬ、そのために命をかけるのだという大きな目的があった。その目的が突然消滅したのだ。それは、心と身体を支えていた心棒が頭の先から引き抜かれたようなものであった。内地では、大きな混乱の中から、人々はやがて生活再建のために力をあわせて立ち上がるのであるが、捕虜になった青柳さんたちは、心の支えを失った状態で新たな地獄へ向かわねばならなかったのである。

 青柳由造さんたちは、朝鮮から満州に入り、さらに北方の捕虜集結地を目指して日夜歩かされていた。皆、魂を取られたような顔、空腹と疲れで今にも倒れそうな姿であった。マンドリンといわれた機関銃を持ったロシア兵がまわりを監視し、落後する者は銃の台尻でこづき、逃げようとするものは射殺すると脅した。捕虜というのは、このように奴隷にされることかと青柳さんは悲しかった。それでも日本に帰れるならばという一縷の望みが支えであった。ロシア兵は、朝鮮は米軍が占領している、お前たちはロシアの捕虜になったのだからロシア領から帰国させるのだと説明していた。ソ連の方針は、抵抗を受けないで日本兵捕虜をシベリアに連行することであり、説明はそのための策略であった。

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2008年1月26日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(69)第3章 青柳由造さんのシベリア

会議が終わったのは正午少し前であった。かくして日本は、無条件降伏を受諾した。そして、同日の内に、即ち、昭和20年8月14日、連合国に対して、受諾の申し入れを行った。

そして、翌15日正午、天皇自らマイクの前に立って国民に呼びかける、いわゆる「玉音放送」が行われることになった。徹底抗戦を叫ぶ将兵にとって、この放送が行われたら万事休すである。玉音放送を阻止しようとする一部の将校は宮中深く侵入して録音盤の在りかを血眼で探し回ったが、ついに発見できなかった。反対将校たちが機関銃をガチャガチャさせる音は天皇の耳にも届いたらしく、天皇は翌朝、藤田侍従長に言った。

「藤田、一体あの者たちは、どういうつもりであろう。この私の切ない気持ちが、どうしてあの者たちには、分からないのであろうか」

ついに15日の朝を迎えた。この日は、早朝からラジオで、正午に重大な放送があると流していた。また、新聞の朝刊は大見出しで戦争終結を報じていた。そこで、皇居二重橋前には朝から国民が次々とつめかけていた。正午の玉音放送があってからは一段と多くの人の波が押し寄せていた。

皇居前の広場は、額を玉砂利につけてひれ伏す人、座して天を仰ぐ人、両手を上げて万歳を叫ぶ人、ただ声をあげて泣く人などで、異常な興奮が渦巻いていた。「天皇陛下、許してください」と叫ぶ者がいる。自分の努力が足りないためにこういう結果になったことを詫びているのだ。焼土と化した帝都の一角、興奮と狂乱の渦の中で、緑に包まれた皇居は未曾有の災難をじっと耐え忍ぶように静かだった。

皇居二重橋に集った人々の心には、天皇に対する忠誠と尊敬の念だけでなく、遠い祖先から今まで日本人の心を支えてきた基盤が音を立てて崩れてゆく歴史的瞬間に際会し、その基盤の象徴たる天皇を慈しむという念がふつふつと沸き立っていたものと思われる。

終戦を受け入れることがいかにショックであったかを示す事実として、要人たちの自決がある。第1に最後まで抗戦を主張した、陸軍大臣阿南惟幾は、15日午前3時ごろ、日本刀で古式どおり腹を切って果てた。

☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年1月25日 (金)

「告訴状を提出し、記者会見を行う」

◇前橋駅北口でマイクを握る(24日)。赤城も榛名も雪化粧した。朝の空気は雪の山から生まれてくるように冷たい。寒さに負けるものかと私はマイクを取った。

 「皆さん、今、地方の時代といわれます。地方が自らふるさとを作る時代です。元気を失った前橋を私たちの手で再生しなければなりません。力を合わせればそれは可能です。力を合わせるためには信頼出来るリーダーが必要であります」私はこのような切り出しでなぜ金子泰造なのかを語り、その政策を訴えた。

 政策では、重粒子線と軌道交通の事も挙げた。世界的にも珍しい進んだ技術のガン治療法が来年から群大で始まるが、これを機に前橋をガン治療のメッカにするべきこと、前橋高崎間を復線にして新幹線とリンクさせるシャトル化構想など。

◇告訴状の提出が実際に行われた。先日は、金子泰造さんが岡田修一さんを名誉毀損罪で刑事告訴に踏み切ることを記者会見で表明したが、23日午前告訴状は、検察庁に提出された。その記者会見を再び行った(24日)

「受理されたのですか」と記者が質問し、「数日後に決まります」と私は答えた。ここでいう受理とは、告訴を正式に受け付けることである。記者会見では触れなかったが、弁護士の説明から、私は、受理される可能性は高いという感触をもった。

 ある記者から告訴状のコピーを求められていたので、弁護士と相談し各社に渡した。記者会見は金子事務所で行ったので、事務所にいた一般の人も何人か会見の様子を見ていた。会見の後で、その一人が、「告訴状にはどういうことが書かれているのですか」と私にたずねた。私は、これこれですと説明した。告訴状などは普通縁がない重大事なので興味を抱くのだろう。

 「日記」の読者にも紹介しよう。先ず、前橋地方検察庁検事殿と告訴状の宛名が書かれ、その下に、告訴人、告訴代理人、被告訴人の住所、氏名等が書かれる。告訴人は金子泰造、被告訴人は岡田修一、告訴代理人は岩崎茂雄弁護士である。続いて、第1・告訴の趣旨、第2・告訴事実、第3・告訴の事情、第4・立証方法、第5・添付資料と書かれる。主な点だけ挙げると、告訴の趣旨は、「被告訴人の所為は、刑法第230条1項(名誉毀損罪)に該当すると考えるので、被告訴人の厳重な処罰を求めるため告訴致します」というもの。「告訴事実」には、岡田修一さんのブログに書かれた名誉毀損の事実、「告訴の事情」では、告訴人作成の上申書のとおりと書かれている。別添の金子泰造さんの上申書には、交通事故の説明、事故後適切な処置を行ったことなどが詳しく書かれている。告訴状は、被告訴人不詳のもう一通があった。実は記者会見では明らかにしなかった事がもう一つある。それは、同様な告訴状を近日中に、警察署にも提出することである。その目的はやがて警察の動きと共に分かると思う。(読者に感謝)

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2008年1月24日 (木)

「緊迫の度を加える市長選に向けた動き」

◇夜、宮城地区の2つの集会に出た(22日)。そのうちの一つは大前田集落センターで行われた。宮城村は私が、ここの小学校で学んだ心の古里である。合併によって宮城村という行政上の名称はなくなって、大字大前田だったこの地区は行政上大前田町として登場することになった。集落センターは神社の境内にある。小学校の同学年生が何名か出席していた。近くには大前田英五郎の直系の血を引く田島家がある。私の同級生の田島君もこの家の者で勉強の出来る静かで上品な子どもだった。田島家は代々村の名家で、この家の人々には品格があり、狭客の熱い血をどこに秘めているのかと思ったことがある。史跡となっている英五郎の墓も近くにある。夜の大前田は闇に包まれていた。私は、赤城のすそ野に抱かれた大前田の田園風景を頭に描きながら人々に訴えた。

 「金子泰造さんは、赤城山は群馬の宝だと言っています。赤城山を新しい観光の拠点として生かそうと考えています」こう言いながら私は、北関東自動車道や上武国道とつなげて赤城の南面が、観光、農業、環境を柱にして再生していく姿を想像した。そして、その中で大前田英五郎の墓も注目されるに違いないと思った。

◇23日の朝、小雪まじりの身を切るような寒さの中、街頭でマイクを握った。私が前座をつとめ金子泰造さんにバトンタッチする。通勤の人々の車が流れていく。金子さんの真剣勝負をしている姿がドライバーの視野の片隅に入ることだろう。チラッと映る瞬間の姿は、脳裏に食い込む効果があるに違いない。毎朝8時、街頭演説を実行しようと心に決めた。

124 ◇大沢知事との政策懇談会に出る(23日)。昭和庁舎の旧正庁の間だ。自民党の県議がほぼ全員出席。昨年の2月は小寺さんが座った位置に大沢新知事が座る。前知事の時と異なるのは知事の左右に二人の副知事の姿があることだ。2月議会にそなえた懇談会である。来年度は、今年度と比べ地方交付税が25億円も少なくなること、今年度は、前知事が選挙対策の目的もあって予算規模を大きくしていたので、来年度はそれを上回る予算を編集することが難しいことなどが話題になった。

 大沢知事を中心にして左右に座す茂原・佐々木の両副知事を見て、調和のとれた組み合わせだと思った。2人の副知事は役割を分けて様々な会合に知事の代理として出席し、県のスポークスマンとして頑張っている。私は、このどちらかと新年会の席でよく顔を合わす。2人とも知に走りすぎず純朴さを感じさせるところが良い効果を生んでいるようだ。

◇恐らく群馬県随一の完備した産廃処理施設が芳賀に完成し、落成式があった(23日)。これ迄はとかく嫌われる存在と言われたが、堂々と胸を張れる産業であることを示した。環境保護と資源の再利用を目的とした環境産業は、今日最も社会に貢献できる分野の一つだ。持ち込まれる産業の95%以上がリサイクルされると語る若い社長の話には誠実さがにじんでいた。環境産業が「静脈産業」から脱皮する時代が到来したと感じた。(読者に感謝)

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2008年1月23日 (水)

「身近な死刑判決があった。もし、裁判員に選ばれたら。」

Photo_2 ◇「裁判員になって死刑を決める事になったら大変だ。そのような裁判員は辞退したいね」私の友人は、今月21日、前橋地裁で死刑判決が下された事を知って言った。彼はこの事件を発生時から注目していた。同時に裁判員制度に関心をもち自分が選ばれたら困ると、もらしていた。03年(平成15年)、三俣町のスナックで起きた暴力団員による殺人事件では一般人ら4人が殺された。既に2人の被告について地裁で死刑判決がなされ、今回残る1人の実行犯に死刑の判決が下された。

 来年から裁判員制度が始まるが、三俣事件のようなケースを扱う裁判員に選ばれたらどうしようと心配する人は多いに違いない。このような重大事件でなくても、裁判員に選ばれることを嫌がる人は多い。「そもそもなぜ、ど素人が裁判に関わるのか分からない」私の後援会のある役員さんは、首をかしげて言った。

 裁判とは正義を実現する場である。これまで裁判に関わる人は、法律のプロだけであった。これは当然と思われてきた。しかし、その結果、裁判は市民の感覚から離れた形式的な手続きの場になった。これを、「紙」でやる裁判、「読む」裁判という人がいる。一般の国民が裁判員として参加するとなると、検察官も弁護士も裁判官も平易な言葉を使って裁判員を説得する為に全力を尽くすことになる。そして、裁判の透明性と説明責任が重視され、国民の健全な正義感に根ざした裁判が期待される。これが裁判員制度が目指す理想である。

◇裁判員に選ばれる迄の流れ。裁判所は毎年裁判員候補者名簿をつくる。具体的な事件ごとに裁判所は、その名簿から、その事件の裁判員候補者をクジで選ぶ。この人に呼出状と辞退を希望するかどうかの質問票を送付する。出頭した候補者から、辞退の理由などを聞いて選任する。

 辞退できる場合とは、70歳以上の人や学生、生徒、重い病気で裁判所に出向くことが難しい場合、家族の介護や養育をする必要がある場合、父母の葬儀に出席しなければならない場合、自分で処理しなければその仕事に大きな損害が生じる場合、等である。

 裁判員制度の対象となる事件は重大な刑事事件である。殺人、強盗致死傷、危険運転致死、現住建造物放火、身代金目的誘拐等々。殺人や強盗致死の刑には死刑も定められている。

 呼び出しがあった場合、正当な理由がなく出頭しないと10万円以下の過料に処せられる。裁判員には守秘義務がある。評議で誰がどのような発言をしたかは秘密にしなければならない。裁判員の名前や住所は公表されない。第三者から圧力がかけられたり危害を受けたりしないためである。アメリカの培審制と異なり有罪無罪だけでなく、刑の種類や重さも評議で決める。最近、痴漢の冤罪事件が多い。裁判には誤判があるのだ。裁判員制度は正しい裁判を目的とするが、誤判が増える恐れもある。理想の裁判実現に向けた長い道のりが始まるというべきか。国民を教育する効果は大きいと思う。民度の高い社会で可能な制度である。(読者に感謝)

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2008年1月22日 (火)

「クレーマーの横行は日本崩壊の兆候だ」

◇クレーマーという言葉をよく耳にするようになった。クレイムとは要求するとか主張するとかの意の英語である。一般にはクレームを付けるというように使われる。クレーマーは要求する人の意で、いわゆる文句を言う人のこと。正当なクレームもあるが、今社会で問題となっているのは不当にクレームを付ける人のことだ。学校にいちゃもんを付けるモンスターペアレントもこのクレーマーの一種である。クレーマーの対象は行政、医療、企業など生活と関係するあらゆる分野に及ぶ。報道される事実から普通の人がクレーマーになっていることを感じる。正に一億総クレーマー時代かと思われる。これは、社会の基盤となるべき健全な常識が機能しなくなっていることを示すものだ。正に社会崩壊の前兆であると思う。

 この社会崩壊現象をくい止めるにはどうしたらよいか。私は、まず、行政や企業が毅然とした態度を取るべきだと思う。とくに行政の姿勢が重要だ。戦前と違って新憲法の下での官は民に仕える立場である。しかし、それは卑屈になることとは異なる。市民の要求に対しては謙虚であるべきだが、不当な要求には筋を貫いて屈しないことが重要である。それを可能にする力は高い見識と勇気である、その基礎には健全な常識が必要だ。

 昨年京都府の宇治市役所に対し、臼井さんという人が、孫と自分の名前が踏みつけられて不愉快だから市内全部のマンホールのふたをとりかえろと抗議したという。雨水用のマンホールのふたには「うすい」と表記されていた。新聞やテレビで報じられて大きな話題となった。また、平成14年には、埼玉県の女性保育所長が焼身自殺する出来事があった。園児のけんかで軽い引っかき傷を作った子どもの親が所長につきっきりの保育を求めるなど無理な要求や苦情を繰り返したという。この女性所長は苦情への対応に苦しんでうつ病になって自殺した。死後、労務災害に認定されたこの事件を未然に防ぐことは出来なかったのか。クレーマーは全国で発生している。県行政に対してもいろいろあるらしい。私が議長の時、議会や行政各部に激しい行動を行っていた男が私の家に押しかけて大声を出した事があった。平成18年度、県に対する「行政対象暴力」として報告されたものは158件である。数字だけでなくどのような事例があるのか知りたかったが県当局は教えてくれなかった。誰がという名前までは求めていないのである。それでも「俺のことだ」と分かるとまたトラブルになるというのだ。私は、特殊なものは、人の名称は除いてこのような事例がありましたと、県民に公表して議論の材料を提供すべきだと思う。「行政対象暴力」とは違法不当な手段により行政に対して違法不当な要求などを行う行為である。県は対策グループを設置して取り組んでいるがその効果はどうなのか。県民の支援を得るためにも、事例の公表を検討して欲しい。(読者に感謝)

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2008年1月21日 (月)

「終日緊迫した忙しい動き。戦いが近づいた。」

◇朝8時の役員会は30分で済ませる。私は代表して冒頭の挨拶をし、座長として会議を進めた。その中で、刑事告訴の中味を説明した。「引き逃げ」だという流言が流布されているからだ。9時にローラー隊が各地から集まった。遠方からの県会議員も数人参加。この冬一番の寒さが緊迫感を高める。10時、県議団総会。笹川県連会長も出席し「市長選は、今年予想される衆院選の前衝戦であるから、絶対に敗けられない」と訴えた。 時を同じくして元総社地区の励ます会が開かれていた。私は状況報告をし、途中で立ってこの会に向う。ここでは次のような話をした。「昨年は大沢知事が誕生し、福田総理が実現しました。日本中が上州人の心意気に注目したのです。この戦いはこの2月の市長選で金子泰造を当選させることで目的を達成することが出来るのです。新前橋駅と総社駅の中間のこの近くに新駅を作ります、また、前橋駅と高崎駅の間をシャトルに化し新幹線ダイヤとリンクさせます。このような大きなプロジェクトは、国、県、市が同志的絆(きずな)で結ばれなければ実現できません。皆さん、県都前橋の歴史に新しい1ページを開こうではありませんか」 午後は1時から自民党の政策広報車に乗った。この時間、入試センター試験が行われているというので会場とされる前橋高校や群大には近づかないようにした。受験生の姿を想像しながら彼らの行く手にどのような世界が待つのかと思った。 ◇夜、グリーンドームの佐田玄一郎後援会に出た。私がこの会に出席したのは20年に及ぶ政治生活で初めてのことである。私は尾身代議士派ということもあり、これまでは妻に代理出席してもらい、私は遠慮していたのである。今回は、妻が頭痛で出席できないということもあったが出席して金子泰造さんを応援したいという気持ちもあった。佐田玄一郎さんは何が何でも金子市長を実現させると強い決意を表明した。金子泰造さんも命がけで前橋再生のために頑張るから応援して欲しいと訴えた。1月4日の尾身後援会の新年会と今回の佐田さんの後援会は規模もほぼ同じである。2人の国会議員の後援会が全面的に金子さんを応援すればかなりの効果を発揮するに違いない。だが、今日の段階で、まだ数ポイントリードされているという「調査」がある。全てはこれからの戦略にかかる。奇策や小細工は害になる。孔明もいらない。民主主義の王道を歩まねばならない。 ◇20日、地域の長寿会の新年会に金子夫人を案内した。各テーブルに夫の名刺を真剣に配る姿を見てかつての私の妻の姿を思い出して感慨深いものがあった。この日は、他に私が顧問をする団体の新年会が4つ、市長選準備の集いが3つあった。その中の一つ、清里地区の始めての集会は高木陣営に先を越されたということで不安があったが成功した。地域の有力者以外の人が集まった。年齢も若い層である。締めてはいけないという教訓を得た。また、この出来事は、我が陣営もいろいろな所で油断すると支配層の下をすくわれる事を教えている。民主主義の社会は一枚岩ではなく、多重な地層で出来ている。(読者に感謝) ☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年1月20日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(68)第3章 青柳由造さんのシベリア

 この上戦争を続けては結局、我が国はまったく焦土となり、万民にこれ以上、苦悩をなめさせることは、私として実に忍び難い。和平の手段についても、先方のやり方に全幅の信頼をおき難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という明光も考えられる。この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたいと思う。

 今日まで戦場にあって陣没しあるいは殉職した者、またその遺族を思うとき悲嘆にたえない。また戦傷を負い戦災を被り、家業を失った者の生活を、私は深く心配する。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ、私はいつでもマイクの前に立つ。

 一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、当然この決定を聞く場合、動揺も甚だしかろう。陸海将兵はさらに動揺が大きいだろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の気持ちをよく理解して、陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい。必要ならば自分が親しく説きさとしてもかまわない。この際証書を出す必要もあろうから、政府はさっそく起案してもらいたい。以上は私の考えである」

 天皇の声は淀みなく一語一語がはっきりと地価壕の一室の空気を震わすように響いた。居並ぶ閣僚やその他の重臣たちは極度の緊張で身を強張らせて一語も聞き逃すまいと耳を傾けた。今、日本の運命が決まろうとしている。天皇の一語一語は、日本の運命の姿を刻む鏨(たがね)であった。その澄んだ声は淡々として感情を超越しているように聞こえた。長い苦悶の末に、万民の生命を助けたいという確信と大義に達し得たという心境が、天皇の表情に静かな決意となって現れていた。

 回答の文意に関し「先方は相当好意を持っていると解釈する」と把える天皇の考えは、このような高い境地に立って初めて可能となるものである。そして、事実これは、連合国の基本的態度を正しく見抜いていたのだ。「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」という言葉が発せられたとき、寂とした人々の一角からすすり泣きの声がもれた。その声が引き金になったように、別の所からも押し殺したような泣き声が聞こえてきた。今や、出席者の全てが泣いていた。人々の慟哭する声は次室の待従たちの所まで聞こえた。中でも阿南陸相は立ち上がる天皇にとりすがるように激しく泣いていた。

☆ 土・日・祝日は、中村紀雄著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年1月19日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(67)第3章 青柳由造さんのシベリア

 政府や軍部はこれまでの天皇を中心とした日本国の形(国体)をどうしても守りたかった。右の回答からは、この点が非常に心配されたのである。そこで、重臣たちの中には、天皇に、ポツダム宣言受諾を考え直していただくようにと願い出る者もいた。阿南陸相らは、再び、非常に強硬意見を主張していた。 

 日本政府が決断できないでいることを見透かすように、翌13日米軍機は東京に来襲して、低空から大量のビラをまいた。それには、「ポツダム宣言を受諾した日本に対する回答」として、連合軍の考えが日本文で書かれていた。

 これは、軍隊を初めとした日本国内を混乱させる恐れのある由々しき出来事である。この時点では、国民にも軍隊にも、ポツダム宣言を受け入れて降伏することはまだ一切知らされていないばかりか、国外各地では激しい戦闘が繰り広げられ多くの人が命を落としていたし、また、国内の飛行場からは片道分のガソリンを積んだ特攻機に乗って次々に飛び立つ若者たちもいたのである。

 8月14日、天皇は早朝から政務室に出ていた。午前8時半過ぎ木戸内務大臣、鈴木首相が参内すると、天皇は非常に固い決心を示して、再度の御前会議を申し渡した。

 会議は、午前10時45分に開かれた。鈴木首相が開会を宣し、まず、反対の意見をお聞き取りの上、ご聖断を仰ぎたいと述べる。

 反対論者の中でも阿南陸相らは、天皇にすがりつくように、慟哭し、切々と訴えた。その姿からは、国を憂えるものの真情が溢れていた。それを見て、天皇も白い手袋で何度か涙を拭いた。

 阿南陸相の発言が終わり、少しの間、静寂が流れ、やがて、天皇が静かに口を開いた。これが第2回目の聖断である。

 天皇の言葉は、『侍従長の回想』によるものである。少し長いがあえて引用する。

 「私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国体問題について、いろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答の文意を通じて先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応最もだが、私はそう疑いたくない。要は、我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよいと考える。どうか、皆もそう考えてもらいたい。さらに、陸海軍の将兵にとって武装解除なり占領というようなことは、まことに絶えがたいことで、その心境は私にはよく分かる。しかし、自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。・・・

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2008年1月18日 (金)

「やむを得ず告訴、記者会見」

◇午後3時、記者会見を行った。刑事事件で告訴する2件についてである。告訴とは犯罪の被害者から捜査機関に対して犯罪事実を申告して捜査と訴えの提起を求めることである。今回の場合、犯罪とは2件とも名誉毀損罪、被害者は金子泰造氏、被疑者(告訴の相手)は、1件は市議の岡田修一さん、他の1件は、被疑者不詳である。名誉毀損とは人の名誉、つまり、社会から受ける人格的評価を傷つける罪である。

 記者会見の後である記者が「批判の部分と人格を傷つける部分があるのですね」といった。実は金子泰造さんは公務員(政治家)なので名誉毀損罪について一般の場合と異なる点がある。公人として常に批判を受けるべき立場にあるからだ。記者の言葉はこのことと関係する。一般の場合は言われた事が事実であっても名誉毀損罪は成立するが、公務員の場合は、公表されたことが事実であると証明されれば犯罪は成立しないことになっている。そこで、岡田修一さんのブログの内容、及び、被疑者不詳の文書の内容が真実のことか否かが問題となる。

 私が代表して記者団に説明することになっていた。そこで、私は警察署を訪ねてブログの内容である交通事故につき担当官に話を聞き、次いでその足で弁護士にあって論点を整理した上で記者会見に臨んだ。

 岡田修一さんのブログには、金子泰造さんが交通事故の時、「事故処理」をしなかったと書かれていたが、「事故処理」を適切に行ったことは明らかであった。もう一つの被疑者不詳の方は、「金子泰造ひき逃げ中」、「夜になって身柄を拘束」、「自民党県連幹事長ということで逮捕されず」などと書かれていた。これらは説明不要のデッチ上げである。

 私が概要を説明すると記者から「事実関係を具体的に」と求められた。事実関係のポイントは次のようなものだ。「金子泰造さんは、昨年11月8日午前7時30分ごろ上泉町の市道交差点内で接触事故を起こした。朝の交通状況の中でそこで車を止められず、50M程走らせてUターンして相手と話した。名刺に携帯番号を書いて渡し、警察を入れて解決しようと話し、相手も納得した。金子泰造さんは早朝会議が始まっているのでその場を離れたが、その点も相手は納得していた。翌朝現場検証を行った。」

育英学園の新年会に出る。(17日)。理事長は少子化の中で私学が正念場を迎えていると語った。私は挨拶の中で、日本が危機にある今日、教育における私学の役割は大きい、私学は真価が問われていると話した。中曽根、山本両国会議員も出席した。

 育英の理事長が語るように私学は今深刻な状況の中にある。少子化の影響で大学、短大は定員割れが続出し多くが経営難に陥っている。入試のハードルが低くなって学生の質の低下が懸念される。公立では果たせない私学の役割がある。特色のある本物の私学が生き残っていく。これは、公立でも同じことである。

(読者に感謝)

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2008年1月17日 (木)

「怪文書現わる。泥試合は嫌だ」

◇選挙となるとよく怪文書が現われる。先日ある人が、「こんなものが出ている」と言って私の所へもってきた文書は、「○○逮捕か」と現市長の名を大きく書いた文書で、またかと思った。以前にもこのような事があったからである。中身は取るに足らぬものだ。この文書は、わが陣営から出たものでは断じてない。恐らく個人的恨みによるものではないかという声が聞こえる。

 こんなものではなく、最近、郵送された本格的(?)な怪文書に驚いた。内容は次のようなもの。「金子泰造ひき逃げ中、ナンバーから判明、夜になって身柄を拘束したが自民党幹事長ということで逮捕されず、事故はモミ消され闇に葬られそう」全く事実無根のことだ。この内容は、金子泰造の名誉を毀損するばかりでなく警察が権力と結んで不正行為を行っていることを主張している。警察は職務執行については厳正中立でなければならない。だからこの文書は警察の威信と名誉を傷つけていることになる。警察がこの文書を知って黙っているとしたら、世間からもしやと疑われるかも知れない。警察はきちんと態度を表明すべきではないか。

 金子泰造さんは確かに11月8日朝衝突事故を起こしたのである。ちょうど役員会の朝でこの事故のため遅れてきたのであった。事故は警察を入れて適切に処理された。ある記者が私に話したことであるが、話を聞いて警察に取材しようとしたら新聞に載るような事はないといわれたという。

 文書は、「自民党県連幹事長ということで逮捕されず」とあるので、あたかも自民党幹事長が権限を濫用したかのようだ。これは、自民党としても放置できない内容なのである。

◇私の「日記」を時々若い人が読んでメールで感想を言ってくる。質問されたり、「勉強になる」とあったりすると嬉しくなってしまう。最近、「対テロ新法」の成立に関して、「どうして衆議院の議決だけで法律が成立してしまうのですか」という質問があった。多くの人が関心を持つことなので、ここで説明したい。法律案は、衆議院と参議院の両院で可決した時法律となる。この可決は原則として出席議員の過半数であるが、衆院で可決し、参院が否決したものを衆院が出席議員の三分の二以上で再議決すると法律となる(憲法59条)。憲法は参院より衆院を重視している。それは、任期も短く、解散により頻繁に民意の審判を受けるからだ。テロ対策の法律のような重要法案の場合、国会の意思形成を容易にする必要がある。十分審議を尽くすことが前提であるが、再議決の制度は、民主改治の理念に基づくものである。

◇裁判員制度が来年から始まる。一般の市民が死刑を含む刑事事件の裁判に参加し、刑も決める。この制度には反対論も根強い。マスコミの報道は裁判員に大きな影響を与える。有罪が確定する迄無実と推定されるのにマスコミはあたかも犯人のように扱う。日本新聞協会は犯人視報道はしないことを確認した。週刊誌やテレビにも反省を求めたい。

(読者に感謝。)

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2008年1月16日 (水)

「私のまわりにがんが増えている。ただ事ではない」

080116_09420001 ◇あの人も、この人もというようにがんに罹る人が増えている。ヒタヒタとがんの流れが迫っている不気味さを感じる。人々の受けとめ方も変わってきたようだ。「大腸がんで手術したんです」、「がんで胃をとりました」などと事も無げに言う人が増えている。これは、薬や治療法が進歩して「治る病気」という受け止め方が広がったこと、及び、がんが余りに増えたために特別な病気ではないという見方が定着したためではないか。20、30年前を考えると隔世の感がある。

 私の妻は、27年程前胃がんで亡くなったが、その頃は、本人にがんを告知しないのが大勢であった。告知すると本人が衝撃に耐えられず死期を早めるというのが主な理由であった。しかし、患者に知らせなければ、治療について患者の協力が得られない。病は患者と医師の協力で治すもの。患者の協力がなければ、医師は、良い治療方法を知っていてもそれを使えない。それでは、医師として義務を尽くさないことになる。また、告知しないことは本人を欺くことだ。死と向き合うことは、自分の生を最大限有意義に生かすことであり、他人が侵すことの出来ないその人固有の権利である。当時、このようなことで悩んでいたことが昨日のことのように思い出される。

 高齢化の進行と共にがんは増え続け現在死因の第一位となっている。厚労省の研究は、生涯でがんに罹る割合は男性の2人に1人、女性の3人に1人と予想している。これは、人間を大切にすることを国是とする我が国の最大の課題の1つである。国を挙げて取り組まねばならない。そこで、07年がん対策基本法が施行された。がんに負けない社会を実現することが同法の目的である。この法に基づいて県は平成19年度中に「群馬県がん対策推進計画」を策定する。がん検診の質の向上と受診率アップ、拠点病院の整備、情報の提供や相談支援体制の整備等がもり込まれるだろう。

 ここで、新年会で前橋医師会の幹部が言った言葉が思い出される。「重粒子線治療が始まる。前橋は、それに恥じない治療を実現しなければならない」と。このことは、群馬県のがん対策に於いても重視しなければならない。

 群大付属病院で来年から重粒子線が始まる。世界的にも画期的なものであり、この事によって群馬のがん治療が注目されることになる。だから、この際、群馬はがん治療のメッカを目指すべきである。重粒子線治療だけが輝くのではなく、それを中心にして群馬のがん治療をレベルアップしなければならない。大沢知事が誕生し、福田政権が実現したことも、この運気を高める好機である。金子泰造さんは、前橋市長となってこの流れの推進役を努めようと決意している。「がん対策推進計画」は、がん治療のメッカ群馬のマップとしての役割を果たせるものであって欲しい。

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2008年1月15日 (火)

「恐怖のインフルエンザの足音が聞こえる」

◇今年の冬は新型インフルエンザが発生する危険があるといわれてきた。その兆候はいくつもあるらしい。アメリカでは鳥インフルエンザDNAを調べたところかつて流行し世界で2千万人が死んだ「スペインかぜ」のものと、よくにているということで、大流行に備えて対策を進めている。この「日記」でもくり返し取り上げてきた。

 最近の衝撃的なニュースは「新型インフルエンザ」の足音のように聞こえる。恐れている「新型」とは鳥インフルエンザが人に感染し、人の体内で突然変異を起こし人から人に感染するようになったウイルスのことである。これ迄に鳥から人に感染した例は伝えられていたが、鳥から人に感染し、それが更に別の人に感染した例は伝えられていなかった。ところが最近中国で、人から人に感染した事実が発生したといわれる。中国政府は、これは、人の体内で突然変異を起こしたいわゆる「新型」ではないと否定した。近く必ず発生すると言い切る学者もいる。NHKが最近「新型」の特別番組を報じたのも、このような認識の下に警鐘を鳴らす目的があるのであろう。今度大流行すれば、最悪の場合日本で死者20万人、世界では1億人の死者が出るといわれる。核の脅威より深刻というのに日本では人々に十分な危機意識がない。県は対策室を新設した。私の周囲には、「薬はどうする」、「どこの病院へ行けばよいのか」、「発生した場合に身を守る手段は」等心配する人が多い。これらについて、この「日記」で改めて近く情報提供しようと思う。

◇「歯科医師会、薬剤師会などの新年会が続く」

各医療関係の人がそれぞれの立場で語ることが勉強になる。歯科医師会長は、「80・20運動」の話をした。80歳で自分の歯を20本持つことを目指す運動だ。最近、達成率が高くなり35%を越えたという。医師会長は来年から画期的な重粒子線治療が始まることに触れ、「ガン治療のメッカ前橋を目指す。その名に恥じないような前橋の医療を実現したい」と発言した。また、薬剤師会長は、薬剤師の役割と責任が重くなるとし、その一例として後発薬(ジェネリック)に関する話をした。「政府から後発約を30%まで使うようにと指導されています。後発薬がきかなかったら困る。研修が重要です」と。新薬の開発には数十億という莫大な費用がかかる。特許期間を過ぎて他の会社が同じ薬品を製造する場合、この研究開発費をかけないですむから後発薬品は非常に安価である。医療費の削減と患者負担軽減になる。しかし、後発薬に全て同じききめがあるかというと問題点もあると言われる。

◇公明党の市議に案内され党幹部宅を回った。知事選の時と同様、今回の市長選でも、公明党の支援をうけることとなった。同党の組織がしっかりしていること及び組織の活力維持の為に努力を重ねている事を知り勉強になった。私たちは、組織の活力源を宗教以外のものに求めなければならない。有権者へのサービス合戦は過去のものとなった。民度は高くなっている。選挙もこの点を踏まえねばならない。

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2008年1月14日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(66)第3章 青柳由造さんのシベリア

天皇は、政治に対して自分の意見は言わないのが慣例であった。このような、日本の運命を決定する重大事に関して、天皇が意見を述べ、それによって結論を出すというようなことは、まさに異例中の異例であった。

 天皇は、大要、次のように発言した。

「本土決戦というけれど、その準備は出来ていない。飛行機の増産も思うようにいってはいない。これでどうして戦争に勝つことができるか。忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等を考えると、それらの者は忠誠を尽くした人々なので、実に忍びがたい。しかし、今日は、忍びがたきを忍ばねばならぬ時だと思う。明治天皇の三国干渉の際の御心を偲び奉り、自分は涙をのんで、ポツダム宣言受諾に賛成する」

 また、天皇は次のように発言した。

「自分一身のことや、皇室のことなど心配しなくてもよい」

 天皇のこの発言が終わると、人々の口から「う、うー」と堪えても押さえられない声がもれた。これが第一回の聖断であった。

 鈴木首相は静かに言った。

「会議は終わりました。ただ今の思し召しを拝しまして、会議の結論とします」

 時に、10日、午前2時20分であった。鈴木首相は、さらに官邸に帰り、閣議を開き、ポツダム宣言受諾の案文を決定した。すでに、10日午前4時を過ぎていた。

 受諾文の要旨は、「天皇の国家統治の大権を変更しないということの諒解の下に、日本国政府は宣言を受託す」というもので、無条件の受諾ではなかったのである。

 これに対して8月12日、連合国側の回答があった。

 その要点は、日本が求めた天皇の地位の安泰に関することであった。

 即ち、

    天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官の制限の下に置かれる。

    最終的な日本政府の形は、ポツダム宣言に従い、日本国民が自由に表明する意思によって決定される。

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2008年1月13日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(65)第3章 青柳由造さんのシベリア

昭和20年7月26日、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発せられた。それには、日本がそれ以外の選択をすれば、完全なる壊滅あるのみ、とあった。

 これに対し、政府は、「黙殺」の態度をとることにし、「あくまで、戦争遂行に邁進する」と発表した。連合国は、日本がポツダム宣言を拒否したものとして、日本政府が夢想だにしなかった悪魔のごとき一撃を日本国の頭上に振り下ろしたのである。これが8月6日早朝の広島市に対する原子爆弾の投下であった。

 マイアナ諸島のテニヤン基地を飛び立ったB29エノラゲイ号は、8月6日早朝、日本に侵入し、やがて広島市上空に達した。8時16分、目も眩む一瞬の閃光が走り、数千度の火の玉は爆風とともに広がった。大木も建物もチリのように飛ばされ、鋼鉄は溶かされ、数万の人々が焼き殺された。阿鼻叫喚、信じられぬこの世の地獄が出現したのである。

 米大統領トルーマンは、直ちに次のような声明を出した。

「6日、広島に投下した爆弾は、戦争に革命的変化を与えるもので、これは、原子爆弾である。日本が降伏に応じないかぎり、さらに他の都市にも投下する」

8日朝、天皇は、参内した東郷外相から惨状を聞いた後、次のように告げた。

「このような、新しい兵器が使われるようになったからには、これ以上戦争を続けることは出来ない。有利な条件を得ようとして時期を逃してはならぬ。速やかに戦争を終結するよう努力せよ」

 そこで、9日朝から、最高戦争指導会議が開かれた。三時間にわたる激論の末、意見はまとまらず、その後、第1回閣議を午後2時半から3時間、さらに、第2回閣議を午後6時半から午後10時まで開いたが、ポツダム宣言を受諾すべきか否か、閣僚たちの意見もまとまらなかった。この間にも、日本の運命を左右する重大事が続いて起きていた。同日午前、長崎に2発目の原爆が投下され、同じくこの日、ソ連が怒涛のように満州に侵攻を開始したのである。

 どうしても意見がまとまらないので、夜11時ごろ、鈴木首相は、天皇に御前会議を願い出た。宮中の地下豪の一室で御前会議が開かれたのは、午後11時50分であった。

 天皇の前で、おもな人々が意見を述べる。

 東郷外相と米内海相はポツダム宣言受諾説を述べ、阿南陸相は宣言受諾に反対して本土決選論を述べた。鈴木首相は、自分の意見は述べず、誠に恐れ多いことであるが聖断を拝して結論としたいと申し出た。

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2008年1月12日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(64)第3章 青柳由造さんのシベリア

 1キロメートルほど離れた小高い丘の中腹に輸送隊のトラックが数台並んでいるのが見えた。その周りで兵士が行動しているが、いかにも尋常でないことが分かる。そのうち、整列したかと思うと「君が代」の合唱が始まり、それが終わると「海ゆかば」が聞こえてきた。 泣いているようなあるいは激高しているような声が、丘の斜面を伝って、聞く者の胸を打つように響いてくる。合唱が終わったと思ったら、一瞬、大音響とともに丘の上は目も眩む紅蓮の火炎に包まれ、その中からワーという絶叫が聞こえた。遠くで見ていて青柳さんたちはただ驚くばかりである。心の芯を失っていた人々も、一瞬、我に返り、大和魂を取り戻したように厳粛な気持ちになったという。 その日の夜、仮宿舎で休んでいると、戸の外で何かドサッと倒れるような音がした。空けてみると、顔面血だらけの兵士が四つん這いでうめいている。自爆を決行し死に切れなかった兵士である。このような兵士が、暗闇から芋虫がはうように続いた。顔の色が変色した者、足が無い者、片手が千切れている者、目が見ない者、まさに、地獄の淵からはい出してきた兵士たちであった。 これは、敗戦という事実が兵士に与えた衝撃の大きさを物語る。このように「神国日本」が敗戦を受け入れることは、一般の兵士にとっても大変なことであった。 三 日本国内の動き、ついに天皇の二度の聖断下る  死を賭けて戦うことで頭の中がいっぱいの数百万の兵士に、終戦を受け入れさせることは容易なことではない。 その終戦を国家として決定するということは日本の歴史上かつてない一大事であった。それに至るまで日本国内では、政府の要人をはじめ戦争指導者たちの戦争終結か続行かをめぐる苦闘が続いていた。日本と手を結んでいたイタリア、ドイツはすでに無条件降伏をしていたから、日本に向けられる連合軍の力はこれから幾倍にも増強されることは明らかであり、日ごとに激化する本土空襲に有効な反撃もできず、客観的には、日本に勝ちめがないことは明らかであった。しかし、多くの指導者はなお、本土決戦を強硬に主張して譲らなかった。 日本民族の運命を左右するこのような待ったなしの状況で天皇の果たした役割は大きかった。ここでは、『侍従長の回想』(藤田尚徳)と木戸日記を参考にしながら、ポツダム宣言受諾に至る経緯を振り返ってみたい。 ☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年1月11日 (金)

「警察署の初点検」(10日)

◇初点検は、年の初めに警察官の規律と志気を高めるために行う恒例の行事である。午前10時に始まるが、少し前に前橋東署に着くと署長室に通された。日頃警察活動に協力する民間人もいて昨年の治安情勢などが話題になった。署長は、管内に大事件がなく幸せだったと話した。県全体の刑法犯、並びに凶悪犯も昨年は大幅に減ったのである。弁護士もいて平成15年に起きた暴力団抗争事件も話題になった。民間人も含め4人が殺された三俣事件である。暴力団二人は、地裁で死刑判決を受け、もう一人が今月間もなく前橋地裁で判決を受ける。この事件につき、検事は死刑を求刑しているが、弁護側は、一部被害者遺族と和解が成立していることを理由として減刑を求めている。確か23日に判決が下される筈である。注目したい。

 点検は外で行われる。ホカロンが渡されたが、今年は温かいので、使う必要がない。整列する警察官の前を署長を先頭にして歩いた。緊張している若い警察官の顔を見て大変な職業だと思った。最近の深刻な治安状況を考えると、腰の拳銃が重々しく見える。抜いて引き金を引く場面が現実に増えている。咄嗟(とっさ)の的確な判断、そして決断と勇気が求められる。「凶悪な犯人に人権はない」と言った人がいたが、それは間違いである。凶悪な容疑者にも人権を認めた上で自己又は市民の生命を守るために銃を抜かねばならない場合があるのだ。警察官の職務は命がけの崇高なものである。警察官が誇りを持って職務を遂行できるためには、県民の温かい支持が必要である。初点検に民間人が参加する目的には、警察官に敬意を表し励ます意味もあると強く感じた。

05120808pc080016 ◇昨日書斎を整理していたら愛犬ナナがもらわれてきた頃の写真が出てきた。縫いぐるみのような可愛い秋田犬の子どもである。秋田犬保存会支部長の高井君からもらったものである。今は、すっかり成犬となり私によく懐いている。このナナが夕方しきりに遠吠えしていた。その夜のこと、高井君が心筋梗塞で急死したとの報を受けて愕然とした。

高井君は、宮城村小学校の同級生で非常に元気のよい男だ。最近会った時はピンピンしていたのである。ナナの異常な吠え方が何だったのか分からない。人生ははかないものだ。そして、人の命は風前のともし火のようなものだと思う。ぽっかりと空いた戻れない底なしの黒い穴に入り込んでいくことなのか。高井君のように死の恐怖を全く感じることなく死の世界に入る死に方を最高に幸せな死に方だと言う人もいる。12日の告別式には奥さんに頼まれて弔辞を読むことになった。奥さんの悲しみは大変なものに違いない。

◇ある業界の新年会に出た。私を応援してくれる団体だが同時に高木市長を支援する団体でもある。高木さんの挨拶は市長選のことに及んだが、その中で、金子陣営のやり方についてかなり感情的になって話していた。知事選の時、小寺さんと同席することがよくあったが、このようなことはなかった。高木さんの性格にもよるであろうが、今回の選挙が並々ならぬ激戦であることを物語る1コマである。

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2008年1月10日 (木)

「初市の祭、八幡様でダルマを焼く」(9日)

080110_09280001_4 ◇ダルマを焼く神事は午前10時半から。気味が悪いほど温かい。前橋の初市は寒いので名高かった。かつて雪が降ったことがあり、その時は露天商が気の毒だった。この温かさも地球温暖化の影響かと思うと好天を素直に喜べない気がする。渡された袢てんを着て積まれたダルマを前にして立つ。私の両隣りには高木市長と金子泰造さん。左右から流れる緊迫感が私を貫いて火花を散らすようだ。神主の宮沢夫婦は、私の妻の一中時代の教え子さんである。古式に従った神事が進む。時代が予想を超えた速さで進む。現代社会には空中を漂う風船のような危うさがあるが、このような古来の習慣は、この現代社会を大地に繋ぎ止める細い糸のように思われる。神主の儀式が終わると名前が呼ばれ、長い棒が渡される。棒の先には石油に浸した布がつけられている。それに火がつけられ、一斉にダルマの山に差し込むと、赤いダルマたちは、たちまち紅蓮の炎に包まれた。気のせいか炎の勢いが弱い。ピリッと張りつめた寒気と対決するような激しい炎が懐かしい。080110_09280002

◇夜、娘と初市を回った。ダルマを買うという目的もあった。ダルマは負かせて買うものと言われる。「お父さん、負かせられるの」と娘。「見ていろ」私は言った。一軒の店に足を止める。私の視線の先に大きめのダルマがある。娘が気付いて値を訪ねると、6千500円だという。「5千円だ、5千円なら買う」私はそう言って歩き出そうとしたら、「いいですよ、持ち帰るよりいい。5千円だ!」と即決で売買は成立した。「お父さんうまいね」娘が笑いながら言った。負かすことによって勝負に勝った気分になるから不思議である。今年は勝負に勝つ年にしなければならない。

 温かい割りには人出が少なかった。一般的に祭り事に関心が薄れている世相の現われか。あるいは中心街に求心力がなくなっているからか。恐らく両方ではなかろうか。中心地の活性化は市長選の大きな争点となるだろう。

◇新年の挨拶で農家を回るとあちこちで原油の高騰に悲鳴を上げている。バラ、トマト、キュウリなどのハウス栽培で重油を使うからだ。バラ栽培ではソーラー発電を検討する農家も出てきた。原油高が農業を直撃している事実を行政は直視して政策を立ててこれに対応しなければならない。県農政は燃料使用量削減を目指して省エネの設備を設ける農家を補助する方針を打ち出している。

 悲鳴を上げているのは農家以外の県民も同じだ。県は社会的弱者救済対策を始めた。高齢者世帯、生活保護世帯などに対する灯油購入費補助制度の創設である。都道府県では4番目。大沢知事の弱者救済対策である。

◇原油高騰は代替エネルギーの取り組みを加速させている。‘05年私はブラジルでバイオエタノールに取り組む空前の光景を見たが、今やそれは、アメリカに広がり、更にアフリカにバイオ大陸を目指す新たな動きが出ている。人類の知恵は地球を救えるかが今問われている。080110_09290001_4

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2008年1月 9日 (水)

「県議会新春交流会に県政の新しい流れ」

◇早朝8時、市長選に向けた幹部の会議(8日)。情勢の分析がなされ、作戦上のいくつかの要点が話し合われた。組織や団体を歯車にたとえるなら、様々な種類の、又大小様々の歯車が存在する。これらがかみ合って調和のとれた動きをすれば凄い力を発揮するが、それは難しいことだ。昨年4月の私の県議選を振り返ると悪夢のようである。今回の場合もまだ歯車はかみ合っていない。

◇県議会の新春交流会は庁舎の32階で行われた(8日)。中沢議長に続いて大沢知事が登壇し、県政の主役は県民である、対話と協調の県政、そして攻めの県政を行う、と挨拶した。それを聞きながら一年前同じ位置に立っていた和服姿の小寺さんを想像した。城取りの合戦によって城の主がかわったことを改めて感じた。元議会長老の松沢さん、柳沢さんの姿は議会の歴史が急速に動いたことを感じさせた。また、人の波を分けて挨拶する髙木市長と金子泰造さんの動きは、このフロアも市長選の熱い戦場であることを物語っていた。私は乾杯を済ませると芳賀へ向った。

◇同じ時間に、芳賀西部金属団地組合の新年会が行われていたのである。この新年会は恒例のものだが、30~40分位で終わる。私が遅れるということで散会後も主な社長たちは待っていてくれた。しばらく座談会のような形で話が出来た。「新知事になって県庁は変わりましたか」「前橋市長はかえた方がいいのですか」このようなことを聞かれた。組合の人達は知事選の時大勢が小寺支持であった。「大沢さんは周りによく耳を傾けます、周りの人も大沢さんに発言する、そんな雰囲気が県庁の大きなムードになっています」私は、このように言って、県政の最近の動きをいくつか説明した。

 市長選については、「大沢知事、福田総理、金子泰造さんは、知事選をともに戦った同志です。この人間的な深い絆(きずな)を金子さんは前橋市発展のために生かせると思います」と説明した。

◇新年の挨拶で訪ねた御恩のある方が肝臓癌と知って驚いた。何とか助けたいと思い直ちに動いた。千葉で重粒子線治療を実施している。私の友人は前立腺癌を患ったが、ここで完治した。調べると、群大病院で重粒子外来をやっている。世界放医研の医師が相談に応じる日は8日の午前だけ。この方には話が通じた。私は、7日、この患者が治療を受けている病院に頼み込み、紹介状を作ってもらい、治療の資料を貸してもらうことにした。現代医学の可能性を生かして一人の命を救うことが出来ればと祈る思いだった。

◇「理科の面白さを育てる会」のイベントが近づいた。会場は県立健康科学大学。2月2日と3日である。8日、県教委、上毛、朝日、読売の各社の「後援」を得た。仲間とチラシを作って、小学校を回らねばならない。

◇夜、芳賀地区自治会役員の新年会にでた。「行政だけではまちづくりはできません。教育、福祉、安全安心のまちづくりは地域を支える皆さんの奉仕の心にかかっています」と挨拶した。

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2008年1月 8日 (火)

「新年会のラッシュ。呉越同舟の場面も」

◇農事組合の新年会で農家のおじさんがシーオーツゥという言葉を使って地球温暖化を心配していた。CO2が地球温暖化の原因であることと事態が深刻であることの認識がここまで広がっていることに驚いた。また、私が挨拶を終わろうとした時、隣にいた人が私のズボンを引いて、小坂子発電所のことを話せという。この人には、先日、この発電所の事を話したら興味深そうに耳を傾けたのであった。私は次のように要点を説明した。「群馬用水から導いた水の落差を利用して発電機を回して電気をつくります。電力量は一般家庭170軒分で、もしこれを石油を燃やして発電するとすれば、ドラム缶790本を要し、排出するCO2は約240tです」と。「へぇー」という声があちこちで聞こえた。

 また、私が酒を注いでまわっていたら、ある人が私を呼び止めて、ソーラー発電のことを話してくれた。この人は国の補助100万円と自己負担600万円で装置を作った。今、全ての電力をこれでまかなっているという。この人は農業以外に小さな事業もやっている。今度見にきてくれといわれた。このような民間の取り組みは、クリーンエネルギー、温暖化防止という点で地域の人たちに大きな啓蒙効果があるに違いないと思った。

 同じように小坂子発電所は生きた教材である。近くには小学校や中学校がある。先生は子どもたちに見学させ興味をもたせるべきだ。理科離れが深刻だといわれるが身近などころで生活に密着した教材は多い。それを活かさないことは努力が足りないといわれても仕方がない。

◇恒例の商工会議所の新年会に出た(7日)。大沢知事、高木市長、中沢県議、商工会議所の幹部など知事選で戦い、今、また市長選で複雑な関係にある人たちである。私のテーブルから面々の顔ぶれを見て呉越同舟だなと思った。日銀支店長、郡銀頭取、午久保サンデン会長等々が次々に登壇する。乾杯までに1時間少々かかった。普通の会合なら、批判が出るところだが、ここでは皆納得しているようだ。それぞれの挨拶が御馳走になっているからだ。しかし、最後に市会議長が乾杯のため登壇し「一言挨拶を」と発言したとき、「もういい」という声が飛んだ。この新年会で一つ気付いたことがあった。市長も知事も県会議長も皆巻き紙の挨拶文を読む人はなく自分の言葉で挨拶していた。事務方が作ったものは、聴衆から離れたところで書くから空回りしていることが多い。今日の挨拶は皆生きていた。

◇乾杯が終わると、即、席を立って私が呼びかけていた次の会合へ向かった。市長選に備えた会である。昨日案内文を配った会である。心配したが予想以上の人が集まっていた。私自身の企画も含め、多くが同時進行で、時にパニックになりそうだ。妻が「泥縄ね」と笑う。2月の市長選に向けてすごい速さで毎日が雪崩を打っている。

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2008年1月 7日 (月)

「市長選のカギとなる尾身氏の新年会」

◇恒例の賀詞交換会は4日グリーンドームで行われた。一つの筋書きがあった。次のようなものだ。「現職市長でありながら高木さんの招待はなく、金子泰造さんに挨拶させる。尾身さんは、ここで、はっきりと金子支持を打ち出す」しかし、これを実行するには、尾身陣営の一部にくすぶる公認問題に関する不満があった。県連は、次の衆院選で尾身を公認推薦しないと決定し、金子泰造さんはその時の幹事長としてこの決定に深く関わっていたのである。この不満を解消させる為に私は次のように挨拶した。「金子泰造さんを含め一区の県議全員の公認推薦の内諾を得ました。これは、一区の県議全員が全力で尾身さんを支援することを意味します」と。笹川県連会長は私の行動を了解してくれたが、これで尾身さんの公認問題が全て決着したわけではない。事態は複雑に動いている。いずれにせよ大きな山は市長選の帰趨である。

◇私は「クリーン前橋作戦会議」から前橋高校卒業生に支援を訴える次のような文章を書いた。

 前橋高校卒業生の皆様へ。新年明けましておめでとうございます。激動の年がスタートしました。難問が山積し日本が崩れていく危機感を抱きます。今、この状況を打開するために求められることは、変化に対応しつつ安定した真に豊かな地方社会を築くことであります。そして、これは、良きリーダーを得て市民が力を合わせる事にかかっております。 

金子泰造さんは、前橋市再生のため、市長選に出馬する不退転の決意を固めました。金子さんが政策の基本に据えることは、前橋市が県都として歩んだ長い歴史の過程で培った文化や伝統の重視です。かくして市民が誇りを持てる風格のある前橋市を築かねばと考えております。今日、物は豊かになったが日本人の心は貧しくなったと言われます。金子さんは、郷土への誇りや文化を重視することによって市民の豊かな心を実現することが、前橋市を躍進させる大きなバネになると信じております。

そこで、前高卒業生の皆様にお訴えします。前橋高校の伝統の力をどうか金子泰造さんにお与え下さい。金子さんの人格と価値観を支える重要な柱は「前高」であると、私は信じます。その背景には「前高」百三十年の歴史と伝統があります。前橋高校の存在が郷土の文化、教育に果した役割には測り知れないものがあります。この意味で前橋高校の伝統は前橋高校の宝であり、同時に郷土の宝であります。この「宝」を前橋市の存亡がかかる今、前橋市再生のために生かして頂くことを、前橋高校卒業生の一人として、私は皆様にお訴えします。

金子さんは、現に、前橋高校の歴史と伝統、そして卒業生の皆様の声援に支えられて懸命に走っております。皆さん、前橋高校の伝統の力で前橋市の新しいリーダーを誕生させて下さい。今、金子泰造さんは非常に厳しい状況にあります。事の成否は皆様の力にかかっています。「前高」の力によって市長を誕生させる事により、私たちの母校の歴史に輝く一頁を加えようではありませんか。

 皆様お一人お一人にとって、又、母校にとって素晴しい年となりますことをお祈り申し上げます。クリーン前橋作戦会議代表 中村 のりお

 近く発送の予定である。

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2008年1月 6日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(63)第3章 青柳由造さんのシベリア

「本日より、我々日本軍は、ソ連軍と交戦することになった。皇国の興廃がかかった最後の戦いとなるだろう。一同、沈着に、そして大和魂を発揮して勇猛に命をかけて戦い抜け」そして各隊は、それぞれ指示に従って各地へ向った。

 戦争に突入すると、いろいろな情報が作戦の成否を分ける。したがって通信隊の任務は極めて重大である。青柳さんは、爆撃機の飛ぶ下で、砲弾の唸る中、必死に各地との通信の仕事に従事していた。

 このころ、通信隊の一人が何気なく内地放送に周波数を合わせると、大変なことが飛び込んできた。日本はアメリカとの戦争を休止したというのだ。信じられないことだ。どうなっているのだろう。分隊長は、このことを耳にして血相を変えて怒った。士気に影響するから不確かなことをもらすことは絶対にならぬというのだ。それにしても、日本国内では、とんでもないことが進行しているという不気味な予感を誰もが抱いた。

 8月15日、天皇の玉音放送が満州の地にも流れた。天皇の声を国民が聞くことなど、まったく思いもよらないことだった。前日から、明日は重大な放送があると言われ、青柳さんたちは何事か、もしかすると、戦争終結に関することかと不安な気持ちでいっぱいだった。天皇の声はよく聞き取れなかったが、雰囲気と途切れ途切れに聞こえる言葉の断片から終戦であることは分かった。人々は百雷に打たれたように、また魂を抜き取られたような虚脱感でなすすべを知らなかった。神州不滅と教えられ、それを信じてきた日本が破れるとは、なぜなのだ。今まで挙国一致、全国民がすべてを捧げて戦ってきたのに、そんなにあっけなく敗れるなどということが、はたしてあり得るのか。戦争の大局を知らない兵士たちは、本当に、何も信じることができなかった。

 8月17日、朝、全軍に即時戦闘行動停止命令が下った。青柳さんたちの部隊にも小隊長より次のような訓示がなされた。

「只今より、戦闘状態を解く。アメリカ、ロシアとの戦争は終わったのだ。残念ながら今後は我が軍はロシア軍の命令によって行動する。上官の命令があるまでは各自勝手な行動は絶対に許さない」

 そしてこの日の午後、ロシア兵に兵器を渡すことになった。後で一個でも兵器が残っていれば銃殺されると伝達された。そこで、銃も通信機も中の部品は外して井戸に捨て、あるいは穴を掘って埋め、外側の本隊だけを集めることにした。

 青柳さんたちは、訳のわからぬうちに、そして頭が混乱しているうちに、ソ連の捕虜となってしまった。多くの兵士がだだっ広い学校の庭のような所に集められたが、三度の食事もほとんどない。トイレもない状態である。集ってくる人々は皆魂が抜けたようにふらふらしていた。その中で一部の人々は目を血走らせ狂気のように興奮して絶叫していた。18日の夕方、衝撃的なことが起こった。その様は、半世紀以上経っても青柳さんの瞼に焼き付いたままである。

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2008年1月 5日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(62)第3章 青柳由造さんのシベリア

日本政府はもとよりソ連このような約束については知る由もなかったが、ソ連の動向については神経をとがらせていた。特に、前年末に、スターリンが日本を侵略国とみなすと演説したこともあり、万一、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に参戦するようなことが起これば大変であると心配していた。しかし、ソ連外相モロトフは、昭和20年4月の段階で佐藤中ソ大使に、ソ連は中立条約を厳守すると約束していた。日本を油断させておく戦略だったに違いない。
 昭和20年5月7日、ついにドイツは無条件降伏をする。ソ連の変化を恐れた日本は、同年5月1日、佐藤大使に日ソ友好強化交渉を開始するよう訓令を出した。しかし、これに対して佐藤大使は、6月6日、日ソ友好強化は絶望的である旨を進言してきたのであった。
 なお、このころ日本の運命を決める重大事がアメリカ国内で進行していた。国中の科学者を動員し、空前の巨費を投じて、原爆製造計画が着々と進められていたのである。そして、ついに昭和20年4月25日、米大統領トルーマンに対し、4ヶ月以内に原子爆弾を完成させるという報告書が提案されたのである。
 一方、ドイツが無条件降伏する前後、ソ連軍兵士を満載したおびただしい列車が、津波が寄せるようにシベリアへ向っていた。ソ連の参戦は刻々と迫っていたのだ。
 しかし、青柳さんのような一般の兵士や満州のソ連国境近くにいた開拓農民など一般民間人の多くはこの事実を知らなかった。
 行軍は続いた。朝鮮半島の羅南から北上し、中国の清津、図門、綏陽とソ連国境に近づいていった。昭和20年7月ごろには、朝鮮の日本軍は留守番兵だけを残し、ほとんどが満州領内へ移動した。
 ソ連国境に近い山の中で、青柳さんたちは横穴を掘らされていた。新たな陣地で、無線隊の作業場を構築するためである。8月に入ると、北から朝鮮へ向って急ぐ人々の姿も目立ち、不気味な緊迫感が流れ始めていた。多くの兵士たちは何かが起こることを肌で感じていた。
実はこのころ、日本では大変なことが起きていた。
  昭和20年8月6日、広島に原爆投下
  昭和20年8月9日、長崎に原爆投下
そして8月9日、ついにソ連軍は、北満、北朝鮮、樺太に侵攻を開始した。ゴーゴーと大地を揺るがすように、戦車の大軍がソ満国境を超えて攻め込んできた。空では、西方から飛来した爆撃機の編隊が轟音を立てて南下していった。
 このころ、青柳さんたちは夜だというのに連隊長の重大な話があると言われた。山地の全部隊が集結したとき、連隊長は壇上に立って、悲壮な表情で叫んだ。
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2008年1月 4日 (金)

「因果な職業だ、三が日は忙しく過ぎた」

◇ドドーン、ドドーン、地元の少坂子(こざかし)神社の花火が上がる。午前0時、杉の木立の暗い参道は参拝者の長い列でうまり前方の光の中で甘酒やお札を配る人の影が動いている。目が慣れると近くの人の顔がどうにか分かる。「先生おめでとうございます」とお参りを済ませた人が私を認めて挨拶をした。気付いて驚いたことは参列者に若い人が多いことだ。不安な時代の新年に当たり若者の意識にも変化が起きているのか。そろりそろりと列は進み私の番が来た。手を合わせて今年の課題を二・三念じた。

 続いて私の町内の大鳥神社に参る。選挙の時はここで祈願祭を行う。町内の人たちが大勢、たき火を囲んでいる。甘酒をすすりながら、「おめでとう」と言葉を交わす。午前一時を過ぎていた。

◇一眠りして、午前8時、鳥羽町東部の新年互礼会に出る。この行事は長年続き恒例となっている。町内の主な人たちが公民館の庭のたき火を囲み挨拶を交わす。毎年必ず出席する議員は関谷市議、金子泰造県議そして私である。昔はアカネさんも出ていた。東に向って朝日を遥拝し、次いで庭の一角に祭られたお宮に手を合わせる。来賓の挨拶の中で、泰造さんは、新しい前橋を創る決意を述べていた。

 続いて鳥羽町西部。ここは国立高専のあるところで私の弟が中村ダンゴ店を開いている。公民館にさっと飛び込み、二分で挨拶を済ませ、元総社の次の会場に駆け込むと既に腰を挙げて帰る人の姿もあった。「大変だね、まだあるんかい」と人々は笑いながら迎えてくれる。「まだあるんですよ」と苦笑する。人々の笑顔は私の有り難いエネルギー源である。

 午前10時、片貝神社の祭典である。東片貝町にある鎮守の森は古来この地域の人々の精神的支えになっている。西片貝、東片貝の自治会を中心とした諸団体の人々が参列し玉ぐしを捧げる。祭事は開け広げた高い床の上で行われるから寒い冬は背中にホカロンを入れても耐えるのが辛かったが、今年は温暖化の影響か大変楽であった。

 このようにして元旦の午前が終わり、この日の午後と二日は、年始回りを行った。後援会の幹部を中心とした日頃関わりの深い人々は多く、短期間ではとても回れない。時代の変化の中で社会的付き合いの簡略化が進んでいるが、守るべき習慣も多いと感じる。

 三日は、自民党の広報車に一日中乗った。これは、例年にない三が日の仕事であった。「クリーン前橋作戦会議」として前橋創造の政策を訴える。現職市長の政策を伝える声も響く。市長選が目前に迫った緊迫感が正月の空気の中を流れていた。昨年は選挙イヤーであったが、熱い闘いは終わりそうにない。前橋市長選の投票日は2月17日である。その先には、衆院の解散・総選挙の大波が予想される。既に、その前兆が顕著になりつつある。自然界も大変、人間の世界も国家大乱で大変な一年になりそうだ。

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2008年1月 3日 (木)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(61)第3章 青柳由造さんのシベリア

広い兵舎に、兵士は少なかった。青柳さんが配属された所も、一つ星の古参兵らしい人たち、それも目が悪いとか足が傷ついているとか、どう見ても戦えそうもない兵士が暗い元気のない表情で衛内を動いていた。間もなく分かったことだが、これらの兵士は青柳さんたちより1~2ヶ月前に入隊した人たちで、一緒にここに入った仲間は、皆、最近南方へ回されていったのだという。自分たちも南方へ行くのか。事態の悪化は予想以上のものらしい。青柳さんの胸に黒い不安の影がまた色濃く広がっていった。

 故郷を出てから2週間が経っていたが、この間洗濯はほとんど出来なかった。肌着やフンドシにモソモソしているものがある。たくさんのシラミだった。風呂場で煮沸してもなかなか死なない、外に出して凍結させても死なないので始末が悪い。青柳さんは、このしぶとい生き物にこの後、拘留生活の中で苦しめられていることになるのだが、早くも対決が始まったのであった。

 青柳さんたちの部屋は、両側に二段の寝台がつくられ、それには、ワラ造りのマットと糠枕、三枚の毛布が置かれていた。初年兵としての厳しい訓練が始まったが、このベッドだけが、心と身体を休めることのできる唯一の憩いの場であった。

 1月より6月中旬まで、戦闘訓練と信号訓練でしぼられる。青柳さんは、必死で頑張って一等兵に昇進し、さらに精勤賞も得た。青柳さんの肩には星が一つ増え二つ星が輝いていた。これは、青柳さんにとって、不安に囲まれた苦しい軍隊生活の中での、浮き立つような喜びであった。

二 行き先は満州国だった

6月になると、訓練が進んだ隊から次々と、満州国へ移動していった。行き先は分かったが、なぜ満州なのか青柳さんたちは、その目的を知らされていなかった。実は、ソ連の動きに備えるための作戦の一環だったのだ。そもそも青柳さんたちが仙台に集められ、下関から朝鮮に運ばれた計画全体が対ソ戦略に基づくものであったと思われる。        

参謀本部は南方を守るために満州の関東軍を大挙移動させていたが、ソ連参戦がいよいよ懸念される事態に対して、何とか手を打とうと苦慮していたのであった。

なお、連合国側の情勢といえば、昭和20年2月、米ソの巨頭はヤルタ会談を開き戦後の対日処理に関する秘密協定を結んだ。そして、スターリンはこの会談で対日参戦を正式に約束したのである。

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2008年1月 2日 (水)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(60)第3章 青柳由造さんのシベリア

1月18日、青柳さんたちは、外が見えない汽車に乗せられ、移動させられた。ずいぶん長くかかったように思われるが、夜、着いた所は下関駅であった。その晩は近くの旅館に泊まり翌朝5時起床、下関港まで歩き、夜が明けないうちに大きな船に乗り込んだ。船が動き出してから一隊は朝鮮に行くことを知らされる。運命の不気味な歯車が大きく回り出したように感じられた。

 真冬の日本海は波が高かった。船内には、何千人いるのであろうか、ぎっしりと詰め込まれ、船全体が絶えず大きく揺れる。すぐ下は底知れぬ黒い不気味な海である。攻撃されたらどうなるのだろう。そのうち、あっちでもこっちでも酷い船酔いが始まった。青柳さんも身体を動かすことができないほどの状態である。この状況は、自分たちの行く手を暗示するように思えて誠に心細く思われた。

 その日の午後5時過ぎ、朝鮮の釜山に入る。すでに太陽は落ちて、港のあちこちに電灯の明かりが見えた。上陸し、公会堂のような広い建物で夕食と歓迎会のような行事を済ませ、一行はその夜のうちに再び汽車に乗り羅南駅を目指した。とうとう朝鮮まで来たと思ったら、目的地はまだ遠くにあるようだ。一体どこまで、そしてどんな作戦につかされるのか、ゴットンゴットンと単調に響く車輪の音と窓外の闇の中におぼろに過ぎる異国の情景が不安をかき立てる。

 汽車は、兵士専用ではなく民間人も乗り合わせていた。車中で「さくら」というタバコが一箱ずつ配られた。日本では、タバコを買うために列をつくって並び、一箱の本数は、5本か10本であったが、「さくら」は20本入りである。タバコは朝鮮でも不足しているらしい。兵士が捨てる吸い残しの短い部分を、朝鮮の老人が争うようにして拾い、うまそうに、大事に吹かしている。汽車の中の人々は、日本の兵士を恐れるような目で見ていた。それを見て青柳さんの心に日本兵士であることを誇りに思う気持ちがちらと動く。窓ガラスに肩の一つ星が光っている。しかし、別の思いがすぐにそれを打ち消してしまった。兵士になったとはいえ、形だけではないか。戦う訓練はほとんど何も受けていないのだ。これで、敵と遭遇したらどう戦ったらよいのか。ゴットンゴットンと、汽車は青柳さんの不安を増幅させるように闇の中へ突き進んでいった。

 やがて羅南駅に着く。外は、20~30センチの雪が積もっていた。朝鮮も今年は大雪なのかと思った。やけに寒い。零下20度くらいになっているのか、他の兵士も寒い寒いと言っている。

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2008年1月 1日 (火)

「新しい年、『日記』の1ページの始まりです」

◇皆さん、明けましておめでとうございます。今年もブログで「日記」を続けます。昨年は、多くの方々が私の「日記」を読んで下さり、中にはご意見を寄せて下さる方もおりました。心から感謝申し上げます。

 新年のスタートに当たり、まず、この「日記」について私の考えを申し上げます。私は地方の一政治家です。一つの理想をもって、約20年前に、恐る恐る政治の世界に足を踏み入れました。「初めは処女の如く、終わりは脱兎の如く」という言葉がありますが、当時の私の姿は「処女の如く」に似ていたかもしれません。長い年月が経ちましたが、「脱兎の如く」の状態には至っていません。それは、私の未熟の故でありますが、初心を忘れまいという自戒の表れでもあります。

 政治の世界に入って戸惑うことが多くありました。虚と実が入り交じった世界のように思ったものです。それは、やがて、民主主義というものの特色を現すものと気付きました。民主主義は一つの理想ですが、現実に近づける努力が必要です。このことを自覚しないで「虚」に慣れ、「実」を求める努力を怠り惰性に流される政治家に対して、世論の厳しい批判が向けられます。新年に当たり、私は、このことを改めて心の奥に据える決意です。

 さて、「日記」が目指すことは、第一に「情報」の提供です。今、県民参加の時代と言われます。これは、地方分権、つまり地方の民主主義を実現するための要であります。そして、県民参加を実現する為に求められることが「情報」です。県会議員として手に入る情報及び、新聞やテレビで報じられる情報を、私の頭のフィルターにかけ、私の筆で再生してブログに載せています。今年も気合を入れて続けます。皆さんに感心を持って頂き、私のブログがコミュニケーションの「広場」の役割を果たせれば幸です。

◇ブログの「日記」から選んだものをプリントアウトして、「県政報告」を作り多くの方にご覧頂いています。これも、情報伝達の手段であり、ブログそのものとは別の役割を果たせるものと期待しております。多分、読者の層が多少違うことが考えられるからです。しかし、ブログの読者の中にも過去のもので「報告」の形で冊子になったものをご希望される方があると思われます。現在、21号まで出来ています。バックナンバーの在庫もあります。ご連絡あればお届けします。地球温暖化、少子化、治安、食の安全、教育、福祉、等々、今年も難問が山積みです。人は皆、幸せを求めながら、惰性と諦めに身を任せてしまいがちです。しかし、少しでも自主的に生きることが幸せに近づくために必要なことだと思います。私のブログと県政報告がそのために少しでもお役に立てばと願っています。皆様にとって実りある年になることを願って新年のご挨拶と致します。今年もどうぞよろしくお願い致します。

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