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2007年12月31日 (月)

「今年最後の日記~波乱の一年を振り返る~」

◇手帳を繰ると今年は選挙の年であったという感を改めて抱く。4月8日が県議選の投票日で、1月からこの日に向けて、手帳にはビッシリと集会の日程が書きこまれている。合併による選挙区の変化、対立候補の乱立、6期目という長い年月の中での後援会の変化等の諸事情によってこの県議選は苦しい戦いであった。飛び回ることは苦痛ではなかった。一番こたえた事は、支援者の対立であった。純粋であるが故に、真剣であるが故に、価値観が違うが故に、そしてボランティアであるが故に、対立し、衝突し、憎しみを生んでしまう。

 民主主義は選挙によって実現する政治制度である。そして、選挙はぼらんティによって支えられるのが理想である。民主主義を生み出す選挙が人々のどろどろした感情の対立や恨みを乗り越えて行われなければならない。これは悲しい現実であり一つの矛盾でもある。私は悩んだ末に原点に立ってゼロからスタートしようと決意した。政治家は、人々の声に耳を傾けこれを尊重しなければならないが、これに迎合したり媚びてはいけないのだ。政治家は孤独に耐える職業である。この事を認識して新しい年に臨もうと思う。

 私を理解して下さる皆様の温かいご声援に心から感謝申し上げる。

◇7月22日は、知事選の投票日で大沢新知事が誕生した。群馬の政治史に残る程の激戦であった。5期を目指した小寺さんが敗れた事は、多くの政治の教材を200万県民に投げかけたと思う。民主主義は一つの理想であって、現実との間には距離があり矛盾を含む。しかし、どろどろとした現実の渦の中から真実の芽が伸びて成長する。大沢県政誕生から芽生える真実は何か。見守りたい。

◇6月議会で、私のマニフェストが実現した。暴力団排除を目指す県条例の改正である。この条例の実現は、都道府県の中で、広島、福岡に次いで3番目であるが、議員発議の形で成立したものは群馬が初めてである。私は全国マニフェスト大賞にノミネートされ、11月9日、六本木ヒルズで受賞した。県議会が役割を果たすために、これからは議員発議の条例が更に求められる。来年もこのことを目指して頑張りたい。

◇11月議員団で中国を視察した。田島県議を顧問とし、私が団長、関根國男県議を幹事長とする総勢8人で大連と北京を見た。大連外国語学院と県立女子大との提携が進みつつあることはこの調査の一つの成果である。又、大連市長の夏徳仁氏と会い、世界のベストセラー「フラット化する世界」を贈られたことも貴重な成果である。中国大陸が日本と同じ平面で巨大なマーケットとしてフラット化しつつある現実に目を開かされ肌で体験したのである。

◇11月、県民マラソンで10キロを完走した。昨年より、約1分縮めて56分台でゴールした。健康、体力、気力は、私の全存在の基礎である。人生はマラソンにたとえられるが、現実のマラソンが私の人生のマラソンを支える。来年は、県民マラソンは勿論であるが、ホノルルマラソンに出ることも考えている。

(元旦は、休日ですが日記を更新します)

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2007年12月30日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(59)第3章 青柳由造さんのシベリア

 ヒットラーのドイツ軍30万人はソ連に攻め込んだものの、1943年(昭和18年)はじめ、スターリングラードの戦いでほとんど全滅する。また、同年9月ムッソリーニのイタリアは連合国に無条件降伏した。そしてこの年、チャーチル、ルーズベルト、スターリンは、早くも戦後処理について会談し、この中でスターリンは、ドイツ降伏の後に日本に対して参戦することを約束したのであった(テヘラン会談)。スターリンの約束は、青柳さんたちを待ち受ける巨大な暗黒の罠を意味した。

 このような内外の状況の中で、青柳由造さんは出征することになったのである。なお、青柳さんは19歳で徴兵検査を受けたが、戦況の深刻化の中で、すでに多くの少年たちが戦争に参加して行った。学徒動員によって中学校以上の学生、生徒が軍需工場に動員されていたし昭和18年からは、学徒出陣により多くの学生が戦場にかり出されていた。昭和20年の新潟は、大変な大雪だった。雪に囲まれた出発の駅には、村人や親戚の人が集まり、日の丸を振って見送った。しかし、万歳を叫ぶ人々の声には、気のせいか活気がなかった。これまでに、のぼり旗が立ち並び、軍歌が流れ、歓呼の声で沸き立つ見送りの光景を見ていた青柳さんの胸に一抹の不安がよぎる。その時、兄千次郎さんは、青柳さんの手をしっかりと握って言った。

「おい、元気でやって来い」

短い言葉から万感の思いが伝わる。生きて帰れとは言えない時節であるが、握った手の温もりを通して肉親の情が痛いほどに伝わる。これが最後の別れかもしれないと思うと目頭が熱くなり握った手を離すのがつらかった。

 昭和20年1月11日、青柳さんは汽車で仙台に着き、そこで歩兵部隊に入れられ、無線通信隊に配属された。そこで、一週間程度、敬礼訓練、整列訓練等を受ける。隊には、全国からいろいろな人が集まっていた。やがて、いく日かして、国外へ行くらしいとの情報が耳に入る。国外とは、一体どこだろう。中国か、南方か、いろいろ想像すると不安になるが、どうすることもできないのだ、兵隊になった以上、天皇陛下の命令に従って、どこにでも行かなければならいし、命も捨てなければならないのだ。そう思うとどうにでもなれ、と開き直った心境になることができた。

 昭和20年の仙台の冬はとても寒かった。越後育ちで寒さには強いはずの青柳さんも辛く感じる寒さであったが、これも軍隊の厳しさの内かと覚悟を決める。しかし、それにしてもこれから先、何が待ち受けているのか気にかかった。

(31日・元旦は祭日ですが日記を更新します。是非ご覧ください。)

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2007年12月29日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(58)第3章 青柳由造さんのシベリア

 青柳さんが新潟を出た昭和15年といえば、日本の社会全体が騒然とした空気に包まれ、行く手には暗雲が垂れこめ、先行き不透明なことに多くの人々は不安を抱いていた。
 特に中国大国では、風雲急を告げる状況が加速していた。
 昭和6年満州事変、昭和7年満州国建国、昭和8年国際連盟脱退と続き、ついに昭和12年、日本は日中戦争に突入する。日本は世界から孤立し、中国大陸では、抜き差しならぬ泥沼に足を踏み入れていたのである。大陸の燃え盛る炎の中に入ってゆく運命が行く手に待ち受けていることを青柳少年は知らなかった。
 昭和16年12月、日本は太平洋戦争に突入。真珠湾攻撃に始まった緒戦は、破竹の勢いで進撃した日本軍も、時とともに不利な状況に追い込まれてゆく。
 青柳由造さんに召集令状が出され、古里の役場から東芝工場に入隊通知書が届けられたのは昭和20年1月のことであった。青柳さんは、前年昭和19年19歳で徴兵検査を受け、乙種合格となっていた。本来、満20歳でこの検査を受けるわけであるが、戦況の悪化と共に繰り上げで検査が行われたのである。
 このころ、一般の国民には、戦争に関する重要なことは知らされなかったが、戦況は深刻の度を増していた。昭和17年6月、ハワイ諸島北西のミッドウェーの海戦における敗北は、太平洋戦争の転機を意味した。この敗北によって日本海軍は太平洋における制空権を実質的に失ったからである。
 そして、昭和18年、ニューギニアの先、ガダルカナルの戦いは太平洋戦争の天王山といわれたが、補給が続かず将兵は、人肉も食うほどの飢えに悩まされ、ガ島は“餓島”と呼ばれたほど悲惨を極めた。この戦いの敗北により、戦局の行先は極めて困難であることが誰の目にも明らかになった。連合艦隊司令長官山本五十六が乗った飛行機がニューギニアのラバウルを飛び立って間もなく、暗号を解読して待ち構えていた米軍機により、ブーゲンビルの上空で撃墜されたのは昭和18年4月のことであった。
 このようにして、太平洋におけるアメリカ軍の攻撃はじわじわと日本本土に近づいていた。そして昭和19年、サイパン島、グアム島がアメリカ軍の手に落ちた。地図で見るとこれらの島から硫黄島が近い。空の要塞とされたB29を主力とした日本本土爆撃は昭和19年秋から本格化し、ついにサイパン島を基地とした東京大空襲が昭和20年3月9日に行われた。
 なお、世界の情勢はというと、このころ日本と同盟関係にあったドイツとイタリアも苦しい立場に追い込まれていた。

(31日と元旦は祭日ですが日記を更新します。)

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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2007年12月28日 (金)

「一年を振り返って。食の安全は焦眉の急」

◇食品衛生は人間の生命、健康に直接関わることだ。不祥事が発覚した企業の役員がそろって頭を下げて謝る場面が続く。その姿はマスコミに対して頭を下げているようで、安っぽい劇をみているようだ。01年(平成13年)狂牛病問題で社会がパニックになった頃、雪印食品、日本食品、日本ハム、全農チキンフーズなどの事件が連日のように報じられた。これらは、輸入牛を国産牛と偽って国に買い取らせたり、牛が駄目で鶏肉の人気が高くなると輸入ものを国産の鶏肉と表示したりした事件である。不祥事がバレた企業は悲惨な事態に陥った。これらの事件は、不正行為は企業の命取りになることを教えた。パニックが去って静かになったと思ったら、また「ミートホープ」、「赤福」など次々と事件が発覚し内部告発の電話は鳴り止まぬ状態だという。

 食の安全を守る問題は、地方の政府が真剣に取り組まねば解決しない。私のまわりのある人が国や県は何のためにあるのかわからないと言ったことがあるが、端的に言えば人々の生命や財産を守るためだ。だから災害・治安・医療・食の安全は政治が第一に責任を果たさねばならない。

 前置きが長くなった。県は食品偽装が相次ぐことに対応して新たな衛生管理の施策を打ち出す。それは、①高度な衛生管理を行う企業の認証制度の導入及び、②食品の適正表示推進事業所の登録数を増加させることである。

①は、ハサップ(HACCP)を実践する企業などを対象、食品生産の各工程を調査し適正な場合に県が認証し公表する。企業の信用力を高め保証することになる。ハサップは宇宙食の安全性確保のために開発された。従来の最終製品の検査ではなく原料の入荷から製造の各工程を科学的に検証するもの。②は既にスタートし、37店舗が登録。その条件は経営者や従業員が、講習会を受講した上で、適正表示の管理体制を自らチェックした診断票を提出する。登録されると「適正と表示の店」というのぼり旗を立てたり売り場にプレートをつけたりしてアピールできる。自己診断は甘いという人がいるが、自ら社会に約束することの意義は大きい。日本は世界の長寿国であるが病院にはガン患者があふれている。食の安全は、そこに結びつく問題である。来年も食の安全を見守りたい。

◇昨日前橋赤十字病院を訪ね同病院の役割や地域医療の在り方について院長と意見を交わした。博愛・奉仕を理念としているが、それは昔、妻がガンで入院し手術を受けたとき身をもって感じた。私が今、経営審議委員として関心をもつことは、同病院の「高度救命救急センター」、及び「基幹災害医療センター」としての役割である。大きな災害に向け、飲料水・食糧は500人3日分・衛生材料は5日分・簡易ベッド100床・毛布250枚の備えがある。大きな災害時に「博愛・奉仕」の理念は市民の命の支えになる。その使命を十分に果たすためには移転を含め病院の地理的環境を考えねばならない。今、その時に来ているのだ。

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2007年12月27日 (木)

「現代の地獄・高齢者虐待と児童虐待」

◇政治家として最も辛いことの一つは、支援者から金を貸してくれと頼まれることだ。どうしても断れない場合があり、貸すと返してもらえないばかりかその人との人間関係も壊れてしまう。最近、ある家を訪ね悲惨な状況を目にした。60代の息子が高齢の母親と二人で暮らしている。部屋は汚く生活用品が散乱し異臭が鼻を突いた。襖の陰に母親の寝ている姿があった。息子は昔からの知り合いである。生活をのぞかれた事が恥ずかしい様子で、生きるのが限界だ、母親に辛く当たってしまう、生活に困ると愛情もなくなる、親の世話は負担だと話していた。

 豊かな社会に深刻な陰の部分がある。進む高齢化と格差はそれを生む要素だ。まばゆい程の豊かさが陰の部分を一層深刻にしている。ここに光をあてることが政治の役割だ。人間の平等を掲げる憲法の下で、不平等が広がっていることを感じる。中でも、高齢者の人権は焦眉(しょうび)の急である。

 この事態に対応するために昨年4月高齢者虐待防止法が施行された。被虐待者の保護と救済を目的とする。虐待は、身体的虐待、介護や世話を放棄する形の虐待、怒鳴ったりして心を傷つける心理的虐待、性的虐待、財産を不当に処分してしまうなどの経済的虐待の5つに分類される。

 私は、抑制廃止研究会に関わってきた。そして、介護施設などで、ベッドに縛り付けたりして身体的抑制が行われる現実を多く見てきた。これは施設内の虐待である。私の後援会の支部長が病院内でベッドに両腕を縛られている姿を見て愕然としたことがある。それでも、施設や病院の虐待には、法律や行政の目が届き易いが、家庭内の虐待は外から見えないので深刻だ。高齢者虐待防止法の重点はここに光を当てることにあると思う。民生委員やヘルパーの役割が重大である。06年度の厚労省の調査では、在宅で介護する家族などの虐待が1万2千件を超えた。虐待の種類では身体的な虐待が最も多く、加害者では息子が群を抜いて多い。夫や妻が介護に疲れて配偶者を殺してしまう例も多い。今年も暮れるが正月を迎えるどころではない人々も多いのが現実だろう。

◇児童虐待も深刻な社会の病理の一面を物語る。児童虐待防止法は平成12年11月に施行された。教師や福祉施設職員等の早期発見の努力義務も規定された。子どもを育てられない若い親の話が跡を絶たない。あるお婆さんが「昔は、女は子どもをとったけんど今は男をとる、イヌやネコの方がましだ」と言った言葉が印象的だ。12月県会でも問題になったが、児童相談所は、虐待の増加などで一時保護が飽和状態である。県内の児童相談所に寄せられる相談は04年度は約6千件、05年度は約7千件、06年度は約8千件と増加の一途だ。県は昨年、「児童相談所の在り方検討会」を立ち上げた。高齢者と子どもを守らないと日本はどんどん沈んでいく。

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2007年12月26日 (水)

「妻の頭痛・京都三十三間堂で祈願」

◇先日、23日、尾身代議士が突然我家を訪れて祈祷のお札を妻に手渡した。和江夫人が来られる予定だったので驚いた。封書の表紙にはご祈禱寶牘とある。ごきとうほうとくと読む。寶は宝の旧字で、牘(トク)は札の意である。中から、「頭痛平癒・願主・中村紀雄様奥様」の紙片と共にお札を包んだ紙が現れた。京都・三十三間堂とある。夫人の手紙が添えられていた。それには、2人の孫をつれ久し振りに京都へ家族旅行に行き三十三間堂に参拝し、ご本尊国宝千手観音の姿に感動し思わず涙があふれた、そしてご本尊のそばのお札祈願所で私の願いを祈らせていただいた、一週間の法要をして頂いたお札です、一日もはやいご快復を祈念申し上げます、尾身和江。と書かれていた。

 妻は恐縮し感動していた。千手観音の霊験は、誠に失礼ながら私には分からない。しかし、尾身夫人の真心に妻が心を震わせることが名医のアドバイスより、あらゆる飲み薬よりも効果があるに違いない。

 三十三間堂は平安の末、後白河法皇によって創建された。国宝千手観音は大仏師湛慶82歳の時の作で鎌倉期の仏像彫刻の典型とされる。尾身夫人が「思わず頭を垂れ涙あふれ」感動したように仏師の魂は仏像に生き、時を超えて人々に訴えている。仏像に接した夫人の感動が夫人の頭痛平癒を願う真心と一つになって妻に届いた。妻はそれを謙虚に受け入れて頭痛改善に努力すると思う。桃ノ木川の堤を昨日も歩いていた。その姿が私には千手観音に導かれているように見える。

◇先日、県警の坂部さんから自治体における住宅管理条例改正の動きについて連絡があった。これは、今年6月の県議会で県条例が改正されたことに関連した出来事なので、県条例改正で中心となった私に説明しようとするものである。報告によれば、市では、高崎、太田、館林の各市、町では、板倉、明和、甘楽の各町で条例の改正が行なわれた。そして、近く改正の動きが予定されるのが藤岡市だという。なお、県内38の自治体で公営住宅を持たないところは、富士見・上野・昭和の各村である。これらを除いた35の全ての自治体が県条例にならって改正条例を完成する日も近いと思う。これは暴力団員を排除するための条例であるが、これからは、各自治体の議員が発案して必要な政策条例を作ることが理想である。現在、前橋市では、市長選を目指して県議と市議がマニフェスト作りで協力しているが、これを選挙時に限らずに継続するなら地方の民主主義にとって大きな進歩になるだろう。

◇秋田県の教育力が注目されている。全国学力調査で小学6年の全科目が1位だった。県教委が算数・数学の学力向上推進班をつくり各校の学力を常に把握し、また、昨年からは教育専門監を任命し授業の進め方を助言している。地方の教委が試されている。工夫をこらせば、成果を上げることが可能であることを示す事実である。群馬県教委も頑張らねばならない。

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2007年12月25日 (火)

「今年最後のふるさと塾は田中角栄の天国と地獄(22日)」

◇波乱万丈の生き様を2時間で語るのは難しい。ロッキードの法廷で隠しどりされた角栄の沈んだ姿の映像も使った。長く秘書を務めた早坂茂三がその回想録の中で語っているいくつかの驚くべきエピソードも紹介した。田中角栄はその風貌から浪花節的で泥臭いゴリ押しの政治家と思われがちである。それは庶民的特性として濃厚に彼の中に存在する要素であることは否定できないが、それだけでなく、理論と緻密さと見識に支えられた決断力と行動力が際立った政治家であった。

 15歳で越後から上京して土建業で財をなし、28歳で衆議院に当選、39歳にして岸内閣の郵政大臣となり、池田内閣では弱冠44歳で大蔵大臣となる。大蔵大臣は池田内閣から佐藤内閣にかけて三期つとめ、佐藤内閣では更に幹事長として党をしきり選挙を動かした。早坂秘書は、北は北海道から南は九州まで、100万、300万、500万という札束を選挙資金として運んだことを打ち開けている。彼は人心を掴む天才であったが同時に人がいかに金で動かされるかを知り尽くし、金を文字通り湯水のように使った政治家であった。このことが結局彼の命取りになることに気付かなかったのだろう。54歳で総理大臣となり、日中国交回復をなしとげた。列島改造論は地方の格差是正という点で説得力があったが、狂乱物価の原因をつくった。やがて立花隆の文芸春秋・金脈追求で辞職に追い込まれる。早坂秘書は、血圧、血糖値が異常に上がる状態で体力の限界が辞職の原因だったと語った。そして、ロッキードの衝撃波が襲う。逮捕され四年の実刑判決を受ける。長い法廷闘争の中で脳梗塞に倒れる。失意の中で越後に帰ったとき支援者に温かく迎えられて泣く姿が胸を打つ。75年の生涯であった。塾生の中で、百年後は大河ドラマですねと話す人がいた。

◇私の地元鳥取町で県政報告会をした(23日)。

500枚位の案内を配り参加者は約20名。しかしこの報告会は成功であった。人々は興味を示し真剣に耳を傾けてくれた。私はふるさと塾のような調子で熱を入れて話した。酒や食事のない会合も中身を工夫すればうまくいくことを発見した。「これを第一回にして続けよう」という人がいた。嬉しかった。

◇カトリックのミサに出る(24日)。東南アジア、南米などの外国人も多く参加して国際色豊かであった。神父は語った。主は汝の敵を愛しなさいと言ったが、それは難しいことで今も争いが絶えない、主の言葉の意味をよく考える機会にしましょう、と。子どもたちが劇をやった。旅人マリアの出産が近づいているが泊めてくれる所がない、マリアは馬屋でイエスを産む。それから二千数年が過ぎて世界のカトリックは20億を超える。カトリックの壮大な歴史を振り返れば大きな過ちもあった。宗教は人間の心の奥と結びつく。科学は異常に進化するが、人間の心はどうなのだろうか。現代人の生き方は気薄になっている。その事が現代人の心を深みのないものにしている。来年は、ふるさと塾で宗教上の人物を取り上げたい。例えばイエス、親鸞、新島襄などを。

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2007年12月24日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(56)第2章 塩原眞資さんのシベリア

 間もなく富士山が現れた。思わず、わぁっと声を上げる。山頂に雪をつけて青空にそびえる姿は神々しい。塩原さんの胸に熱いものがこみ上げ涙が流れる。思わず富士に向かって手を合わせていた。去り行く富士を見ながら、塩原さんは、日本は大丈夫だと確信した。 東京駅に着くと出迎えの人でごったがえしている。人波を分けて歩いていると、 「兄ちゃん」 大きな声がして一人の女性が走りよって塩原さんに抱きついた。妹だった。 「よく無事で、会いたかった」 あとは声にならずに泣いている。塩原さんも小さな肩を抱き寄せて泣いた。震えている胸から、頬の温もりから肉親の情が伝わる。塩原さんも声を上げて泣いた。止めどなく流れる熱い涙をこぶしでぬぐっていた。周りには十数人の近親者や友人もいた。次々に握手し抱き合って感涙にむせんでいる。塩原さんは、高崎線に乗り換えて、両親の待つ前橋へ向かった。 第3章 青柳由造さんのシベリア 1 風雲急を告げる中、召集令状届く 前橋市田口町在住の青柳由造さんは、新潟県古志郡で生まれ育った。もう80に手が届く高齢だが元気に車を運転し、かくしゃくとして日常の生活を楽しんでいる。端正な顔に浮かべた穏やかな笑顔や気配りの利いた態度からは、激動の昭和を生き抜いた激しさ、中でも、シベリアで極限の体験をした姿を想像することは難しい。数十年ぶりにシベリアを訪問する話が持ち上がったとき、青柳由造さんは、長いこと守ってきた宝の箱をそっと開くように、シベリアの体験を私に語ってくれた。 青柳由造さんは、姉二人兄二人の5人兄弟姉妹の末子として育った。昭和15年3月、古志郡小学校の高等科を卒業する。その月のある日、越後の片田舎の夜のプラットホームに集団就職で都会に向かう、やや緊張した表情の少年少女たちの一団があった。その中に、小さなトランクと柳行李を重そうに両手に提げた小柄な青柳由造さんの姿があった。成績の良い青柳さんの就職先は東芝の鶴見本社であった。青柳少年は、いまだ見ぬ都会の生活に一抹の不安を抱きながらも、人生の新しい船出に際し男子として、よしやるぞと期するところがあり胸を躍らせていた。時代の風も、国のために働けと日本中の少年の心をあおっていたのである。 ☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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2007年12月23日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(55)第2章 塩原眞資さんのシベリア

 塩原さんは直感しとっさに甲板に駆け上がった。2月6日の未明、舞鶴港はまだ深い闇に包まれていたが、闇の濃淡の中に島影とおぼしきものがうっすらと感じられる。

 そして、心地よい潮の匂いとひたひたと舷側を打つ波の音は、これまでとは全く異質な世界の息吹と感じられた。塩原さんは、狂おしいほどに憧れた故国日本に抱かれていることを肌で感じつつ、夜の帷が上がるのを息を殺して待った。

 やがて夜は白々と明け、湾内の様子が朝もやの中に浮き上がってきた。竹薮を背にした農家の集落が見える。家の間から、ゆっくりと煙が立ち昇っている。前方の岸には漁船がつながれその上に小さな木造の家並みが続く。鶏の鳴き声が聞こえる。

 「日本だ」

 「ついに日本に帰ったんだ」

 人々は重なるように身を乗り出し目の前の光景をじっと食い入るように見つめている。

 上陸の時がきた。高砂丸から連絡船に移り船は桟橋に接岸する。塩原さんは足を上げて板の上に軍靴を下ろした。何年間も願い続け夢にまで見た一歩だった。遂に生還を果たしたのだ。塩原さんは一歩一歩自分の存在を確かめるように歩いた。桟橋の板には踏まれ続けた無数の傷跡があった。多くの人が生あることを確かめながら万感の思いを込めて踏みしめた跡である。人々は黙々と桟橋を歩いた。塩原さんの胸にシベリアの出来事が蘇る。ダモイ(帰国)を叫びながら凍土に果てた戦友の無念の顔が浮かぶ。

<友よ、いっしょに帰れなくて本当に残念だ。俺だけ帰ったことを許してくれ>

 塩原さんは、北の方角を振り返りながら心の中で叫んだ。

 桟橋を渡り終えるとそこは大地だった。踏みしめる足に確かな土の感触が伝わる。目を上げると前方は緑で覆われた小高い山である。山の向こうはどうなっているのだろうか。塩原さんの心は上州に飛んでいた。

 塩原さんは、はやる心をおさえ、震える手で両親に電報を打った。

「ゲンキ、カエル、ゴタイケンゼン、シンスケ」

 舞鶴港に滞在すること10日。この間、健康診断やさまざまな手続き、検査等を済ませ、2月16日、いよいよ客車に乗って東京に向かう。塩原さんは窓の外をじっと凝視していた。次々に展開される光景は戦後日本の復興の姿を示している。田畑は整然と耕され、工場から上がる煙やそこで働く人々には活気が感じられた。日本人は奴隷にされ、シベリアよりもずっと悲惨な地獄だと教えられてきたこととはまったく違うと思った。

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2007年12月22日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(54)第2章 塩原眞資さんのシベリア

降ろされたところはナホトカであった。故国日本につながる朝の海が、青く、静かに、遠くまで広がっている。塩原さんは懐かしい潮風を両手を天にあげ胸いっぱいに吸い込んだ。母なる海が、長い間ご苦労さんといたわってようであった。折しも水平線に太陽が昇り始めた。あの太陽の下に日本がある。遂に帰国の時がきた。
 帰国船に乗るまでしばらく港の作業をさせられることになった。それは、大きな貨物船に岩塩を積み込む仕事であった。宿舎は、鉄条網もなく見張りのソ連兵の態度も穏やかであった。
 昭和25年2月の初め、遂に帰国の日がきた。港の中央に赤十字のマークをつけた純白の高砂丸が停泊している。日本人の目は船上に翻る日の丸の旗にくぎ付けになった。久しぶりに見る日の丸。この旗の下で命をかけた日々が蘇る。この旗は、今は、命を捨てろではなく、迎えに来たぞと呼びかけている。国家というものがこれほど頼もしく思えたことはなかった。塩原さんは泣いた。夢ではないかと思って大地を踏んだ。今や、目前の船に無事乗船できることを祈った。ソ連の官憲が乗船名簿をもってチェックしている。欺されて満州からシベリアに連行され、以来、幾度となく嘘と策略で翻弄されてきた。また何らかの理由で収容所へ連れ戻されるかもしれない。現にそのような例を耳にしていた。塩原さんは乗船の審査を受ける人々の列の中にあって、死刑の宣告を恐れる被告人のように身を硬くしながら自分の番を待った。一秒一秒が長く感じられた。無事にパスし、タラップに足をかける。甲板までのわずかな距離が長く感じられる。駆け上がりたいと逸る心を抑えてゆっくりと歩く。後ろから、おい待てと声がかかることを恐れながら。遂に船上に立った。白衣に身をつつんだ看護婦が数名整列して待ち受けている。久しぶりに見る日本人女性だった。ああ、これが日本だ。塩原さんは、黒髪と黒い瞳を見ながら心の中で叫んだ。女性たちは深々と頭を下げて、言った。
「長い間、本当にお疲れさまでした」
 忘れもしない、優しい日本の女の声なのだ。長い間の苦しみも一気に忘れ、塩原さんは感極まって泣いた。
 ドラの音が港に響き、船は動き出した。シベリアの丘や山や建物が遠ざかる。あの山の遥かかなたで、まだ収容所で苦しむ人々の姿が浮かぶ。友よ頑張ってくれ、望みを捨てないで、帰れる日まで、と塩原さんは祈った。
 ソ連の風景が芥子粒のように小さくなり、やがて視界から完全に消えた。甲板でじっと見詰めていた人々の間から静かなどよめきが上がった。それは、苦しい抑留生活から真実開放されたことを誰もが実感した瞬間であった。
 船は静かな日本海を滑るように南下している。塩原さんは、収容所の生活を思い出していた。青く光るのどかな海を見ていると、水平線の彼方で繰り広げられた地獄の世界が嘘のように思えた。船はとっぷりと暮れた海を走り続ける。夜は更けていたが、船が刻々と日本に近づいていると思うと胸が高鳴って眠るどころではない。興奮のうちに二晩が過ぎようとしていた。ウトウトしてふと
目を覚ますと船は泊まっていた。

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2007年12月21日 (金)

「死刑停止の国連決議と団藤重光博士の見識」

◇私の専門は西洋史であるが、東大在学中は団藤教授の刑法の講義に出て試験も受けた。また私が生活した向ヶ丘寮は弥生町にあって団藤さんの屋敷は同じ町内なので姿を見かけることもあった。団藤さんの「人格形成責任論」は私の中に定着しているが、あれから長い歳月が過ぎ彼の消息を私は知らなかった。新聞の報道によれば94歳になられ、死刑に関して的確な分析と高い見識を示しておられることに驚いた。団藤さんが紙面に登場するきっかけは国連が死刑執行の停止を求める決議案を採択したことである。死刑制度見直しに向けた日本に対する国際圧力が高まるのは確実だ。先進文明国の中で死刑存置国としてアメリカと日本があげられるが、アメリカも北部の州では廃止しているところが多い。私は団藤さんがアメリカのある州で処刑の部屋を見学した感想を語っていたことを今思い出す。

 団藤さんは、最高裁の法廷あって、傍聴席から「人殺しーっ」という声を投げられ、「こたえました」と語っている。この言葉は、死刑囚に対してではなく死刑を確定させた裁判官に向けられた声であることはいうまでもない。その時、団藤さんは、死刑がそもそもいけないと確信をもつようになったという。

 残酷な犯人に憎しみを抱き殺したいという感情を持つのは当然ではないかという問いに対し、団藤さんは、そうした自然の感情を持つことと、それを国が制度として死刑という形で犯人の生命を奪うのとは全く違うことだと答えた。死刑を廃止した多くの国でも国民は残酷な犯人を殺したいという感情を持つに違いない。国民感情をそのまま法律にするのではなく、国は、それを踏まえつつ正しい方向を目指すべきだということである。又、死刑にかわる刑として仮釈放のない終身刑を創るべきだと持論を述べた。

 更に、団藤さんが、「死刑廃止なくして裁判員制度なし」と明確に発言している点が注目される。一般の国民が選ばれて、死刑の可能性もある重大な刑事事件の裁判に参加する制度があと約1年半以内に始まる。私のまわりの人は多くが選ばれたら嫌だと言っている。死刑廃止論の一つの理由は誤判の恐れであるが市民が参加すれば誤判の確率も高くなるというのだ。国連の死刑執行停止決議、日本の死刑制度、裁判員制度、これらを結びつけて考える意義が大きくなってきた。この時点における団藤さんの発言は世論に影響力を及ぼすだろう。

◇幼稚園協会の幹部を教育長に紹介した(20日)。その時、一人の園長がトイレを使えない幼児の話をした。家でお母さんがお尻を拭いてやるためにママがいないとウンチができないのだという。また、子どもが食べてくれないから野菜を料理できないと話すお母さんのことも話題になった。幼児の生活習慣の重要性を親が自覚してしっかりしつけをしないと自立した子どもは育たない。モンスターペアレントも子どもの育て方が分からない親たちの一部だと思う。

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2007年12月20日 (木)

「宇宙人は存在するか」

◇政府が初めてUFOに関する公式見解を出した。民主党の山根参院議員の質問主意書に対して、「これまでに存在を確認していない」とする答弁書を閣議決定した。また、その中で、「特段の情報収集、外国との情報交換、研究などは行っていない」、「我が国に飛来した場合の対応についても特段の検討を行っていない」ということも明らかにした。

 私は、かつてUFO少年だったことがある。振り返ればそれは、UFOが私の宇宙への夢をかきたてる存在であったことであり、また、宇宙は、子どもたちを引きつけてやまない存在であったことだと思う。学習塾の教壇で脱線して宇宙の話をすると、子どもたちは目を輝かせていたことが懐かしく思い出される。

 UFOは未確認飛行物体のことで地球外の知的生命、いわゆる宇宙人がのっているとされる物体のことだ。日本では、これまで、UFOや宇宙人は際物(きわもの)として扱われてきた。学者や政治家が正面から論じることは恥ずかしいといったムードが支配的であった。県議会でも宇宙人のことを話題にする空気はない。しかし、このような社会の現象は先進文明国日本の反省すべき点ではないか。子どもたちの理科離れが深刻だと言われているが、このことは、一般の大人たちの目が宇宙に向いていないことと無関係ではないと思う。

 外国では国が地球外生命を探ることに真剣に取り組んでいるところが多い。アメリカでは大変な国家予算を組んで地球外の知的生命を探るためのロケットを飛ばしているし、また、知的生命からの電波を受信するための大がかりな計画を進めている。

 ビッグバンで始まった宇宙は今も膨張を続け、その果ては135億光年の彼方であるという。ハップル宇宙望遠鏡は最深部の宇宙の情報を伝えている。限りなく存在する銀河、その中にまた限りなく存在する恒星、その恒星の中には地球に似た惑星を従えたものも無数にある筈だ。最近では地球に似た環境の惑星も次々に発見されている。生命が存在する星も広い宇宙には無数に存在するに違いない。しかし、仮に生命が誕生した惑星があるとしても、人類ように高度に進化した生命が存在するかとなると話が別のようにも思う。ある人は進化の過程は神が導いたと主張するし、又科学者の中には条件が整えば、数十億年の年月の中で地球上と同じような進化は起きるに違いないと論じる。

 政府が宇宙の知的生命について前向きに取り組むという姿勢を示すだけで、全国の少年の瞳は輝くのではなかろうか。教育再生会議は、近くまとめる報告のなかで理科教育の改革を打ち出し、小学校高学年に理科の専門教育を配置すると打ち出した。結構なことであるが子どもたちの宇宙の夢を育てる工夫も考えて欲しい。19日の新聞は、すばる望遠鏡が約110億光年彼方の銀河の形をとられたと報じている。110億光年過去の姿を私たちは見ていることになる。

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2007年12月19日 (水)

「度々取り上げている新型インフルの恐怖」

◇今年の冬は危ないということを私は度々この「日記」で取り上げてきた。県は、対策室を新設しいざという時の行動マニュアル(手引き)づくりを始めた。どこの医療機関にどのような手順で入院するか、病院で収容しきれない場合の対応は等々、想定される事態に対する対策を研究しておかないと大パニックになり被害が拡大する。

過去の例では10年から40年の周期で発生している。前回のソ連かぜから今年は31年になる。これらの中で大きな被害が生じたのは1918年のスペインかぜである。第一次世界大戦の最中という特殊状況も手伝って世界で約4千万人、日本で約39万人が死亡した。今度発生すれば全世界の被害はもっと大規模なものになることが予想される。

 昨年あたりから東南アジアなどで鳥インフルエンザの被害が生じている。感染した鳥の処分や鳥から人への感染がしきりに報じられているが、鳥から人に感染したとしてもそれが「新型」とは限らない。人の体内で突然変異を起こし人から人へ感染するようになったものが「新型」である。初めてこの世に現れた微生物であるから人には免疫がないためにバタバタと倒される。同様に特効薬もない。「新型」の襲来は細菌兵器によるテロと共通する面がある。だから新型インフルエンザ対策は、同時にテロ対策にもなるのである。このような緊急事態に備える対策こそ行政が中心になって実行しなければ出来ない最たるものである。議会は県民の立場に立って行政をチェックする役割を果たさねばならない。また、行政の対応策を県民によく知らせるための広報活動も重要である。

◇暴力団の抗争事件である三俣事件も「日記」で度々取り上げてきた。安全安心なまちづくりのために教訓として生かさねばならない身近な暴力団の事件だからである。平成15年におきたこの殺人事件の実行犯は2人であった。うち一人について前橋地裁で死刑判決が下され現在最高裁で争われている。直接の実行犯ではないが背後で指図した首謀者が先日東京地裁で死刑判決を受けた。もう一人の実行犯の判決が今月17日前橋地裁で下される予定であったが、1月21日に延期された。検察側は死刑を求刑していた。弁護側は被害者の遺族に見舞金を払ったことや一部の遺族との間で民事訴訟における和解が成立したことを挙げて死刑の回避を求めている。刑罰は犯罪行為に対して責任を問うもの。犯罪行為とは平成15年の殺人行為のことであり、その後の見舞金の支払いや和解の事実は行為の責任とは別の事である。しかし、実際には量刑に影響を与える可能性があるのだ。1月21日の判決は死刑を考える良い機会である。注意して見守りたい。

◇県の警察官が酒気帯びで摘発された。年末の交通安全運動の実施中である。法の規制が強化されている折、県民に対し示しがつかないのではないか。公安委員長は全警察官に対して決意を語り志気を高めることを実行すべきだ。深刻な世相の中で公安委員長が名誉職となっているという批判が私のところにも寄せられている。

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2007年12月18日 (火)

「ビラ配り有罪はひとごとでない」

05120809pc080032 ◇朝7時半の会議。この冬一番と思われる寒さ。車のフロントガラスが凍っている。温かさが残る風呂のお湯で一気に溶けるが、直ぐに薄い氷の膜が出来る。吐く息が白い。

昔は普通だったこの時期の寒さが、今では珍しい事になった。ヒマラヤの氷河が溶けるとか、北極海の氷が小さくなっているとかのニュースが連日伝えられる。地球温暖化は絶望的なのかと思ってしまう。懐かしいような寒さである。寒気は立て付けの悪い我が家の中にも入り込んだ。トコはこたつの隅で丸くなっている。秋田県のナナは故郷に帰ったかのように葉の落ちた柿ノ木の下で元気がいい。この寒さは朝の会議にも緊張感を与える要素になっていたようだ。会議は市長選対策である。我が陣営のマイナス要素の一つは、安心感である。知事選を勝利させた大きな組織が支えていると言う事実が、我が陣営に安心感を生じさせ、この同じ事実が相手陣営に不安を与えているとすれば、この違いは我が方にとって大きなマイナス要因となって跳ね返る恐れがあるのだ。私はこのことを念頭に置いて挨拶した。選挙戦では安心感はブレーキとなり恐怖心はばねとなるのである。

◇マンションでビラを配った住職が住居侵入罪に問われ東京高裁で有罪となった。私はこのニュースを聞いて困ったことだと直感した。選挙運動に微妙な影響を与える可能性があるからだ。ビラ配りは最も有効な運動方法の一つなのだ。一審は無罪だった。最高裁でどういう判決が出るか気になるところである。

 住職はマンションの最高階から各戸のドアのポストに共産党のビラを入れた。部外者の立ち入りを禁止する張り紙があった。これを無視して入った行為が住居侵入罪に当たるとされたのである。住職は住民の通報によって逮捕され23日間身柄を拘束された。確かに最近は不審な者がマンションの廊下に入り犯罪を犯すなど住居の平穏を害する出来事が多い。しかし、政治のビラを投げ込む行為について住居侵入罪に問うというのはいかにも形式的な法の適用というべきではないか。私には、逮捕して拘束し有罪判決を下す程の違法性があるとは思えない。自衛隊のイラク派遣反対のビラを防衛庁官舎で配った行為が住居侵入罪に問われた事件もあった。一般市民の常識から離れた判決は、裁判に対する信頼、そして法の権威を傷つけることになるのではないか。

◇冬の夜、一杯やりながら鍋で煮たイノシシの肉をつついた。私は小学校入学前赤城の山奥で開墾生活したが、その近くでとったという大物である。猟師は武勇伝を語り、オスの一物がこんなだったと両手の指で輪を作って見せた。ラッパのような鼻でミミズを吸い込みヘビやモグラを食いながら130キロ以上になるまで何年、生き抜いたのか。その姿を想像するとちょっぴり気の毒な気がするが肉はやわらかく美味かった。オットットをいれながら煮たという。日本酒のことだ。猪公からエネルギーをもらって来年も突進する。

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2007年12月17日 (月)

「行政改革特別委員会の私の発言」(14日)

◇指定管理者制度とは公の施設の管理を民間事業者に委ねることも可能にするもの。その典型例として、県営ゴルフ場の管理者に民間事業者を指定した。私は、制度がスタートして一定期間が経過した今、運用の実態を調べその成果や問題点を検討すべきだと発言した。53の施設について管理者を指定したが、そのうち12の施設は民間の事業者が指定された。この制度の運用の成果として6億円弱の節約が出来たという。私は、管理者の選定に当たり、競争原理を導入すべきこと、もっと民間の事業者を増やすべきことを求めた。県には多くの公の施設がある。中には、時代の変化により県の施設としておく必要がなくなったものもあるだろう。そのようなものは、民間に任せた方が県の負担が少なくなる。当局は、そのようなことも今後検討すると答えていた。

◇前高出身の県職員の懇親会があった(14日)。恒例の行事となっている。前高OBの県幹部が多くなったことを感じる。県議で出席したのは、田島・中村・原・塚越・金子(泰造)・南波の各議員、その他、知事選に出馬した山本龍、4月の県議選で落選した星野寛・中島資浩の各氏も出席した。せっかく集るのだから中身を工夫すべきだと思う。会費を安くして若手の職員も参加しやすくし、楽しく、面白く懇談できるように工夫すれば、前高のエネルギーをもっと生み出せると思った。

◇尾身幸次氏の国政報告会が朝8時からロイヤルチェスターであった(15日)。税制改革の多くの論点を語ったが、その中で私がなるほどと思ったことがある。地方分権ということで税源を地方に移すことが税収の格差を生むというのだ。なぜなら、地方には東京都や名古屋のような豊かな自治体もあるが貧しい自治体も多い。貧しいところは権限を与えられても豊かな企業がないから税を集められない。東京都などは権限を与えられて膨大な税収を得ることが出来る。このような格差は妥当でないから、何でも分権ということで、地方に税の権限を移すのではなく、国税として国が集め、地方交付税として地方の実状に応じて配分すべきだというもの。

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◇今年最後の後援会バスツアー(16日)。師走の忙しい時に参加者がいるかと心配する人もいたが、48人が参加し一部の人は補助席に座った。午前4時過ぎ雨の音に驚き心配したが雨は止んで終日好天に恵まれた。川越市を散策し、柴又帝釈天では寅さん記念館を楽しみ、最後は靖国神社をみた。記録映画を見せるコーナーがあり、ちょっとのつもりで足を入れたら引き込まれて約50分全部見てしまった。現代史の深刻な断面を事実で突きつけられると理屈ぬきで心を開いてしまう。外へ出ると寒空に散り残った銀杏が舞っていた。現実に戻って熱い胸の内をのぞいて見る。特攻少年の純粋な瞳も、国策を誤った政治家の存在も、欧米の傲慢さも皆、事実なのだ。そして、そこから学ぶべきことはあまりに多い。帰りのバスはカラオケで湧いた。異次元の世界に戻った感じであった。

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2007年12月16日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(53)第2章 塩原眞資さんのシベリア

今見た夢を追う中で、父親の姿が現れる。出征の時の古里を離れる場面である。

「眞資、死なずに帰って来いよ」

 人波をかき分けて駆け寄り、小声で哀願するように言った。この上なく子煩悩で、また控えめな父親の精いっぱいの行動であった。命を捨てて戦うことが当然とされる時世である。自分の息子に生きて帰れということは非国民的行為なのだ。あのときは理解できなかった父親の言葉が今は痛いほどよく分かる。まぶたに焼きついたあの父親の顔を思い出すと、塩原さんの頬に熱い涙が伝って流れた。

<早く帰りたい。せめて、海が見える所まででもいいから行きたい>

あきらめかけていた帰国への思いがまた狂おしいほどに沸いてくるのであった。

シベリアの夏は短い。夏が去ると、秋を感じる間もなく秋は冬に変化してゆく。

5度目の冬将軍が近づいていた。この冬を越すことができるだろうか。4度目の冬を越すために身体の力はほとんど使い果たしてしまった。今や、なんとしても日本へ帰るのだという執念がかろうじて塩原さんの命の火を支えていた。

 昭和24年12月29日、突然、塩原さんに移動命令が発せられた。コムソムリスクからハバロフスクへ移動させられた時のように、行き先も目的も一切知らされない。正月を目前にしてどこへ連れて行かれるのか、もっと奥地の厳しい作業現場かもしれない。

不安にかられながら、直ちに身支度をして、数人の仲間と共に車で小さな駅に運ばれて貨車に乗せられた。すでにあたりは夕闇に包まれていた。列車は動き出したが、向かっているのは東か西か、北か南か一向に分からない。貨車の真ん中にストーブが据えられ、石炭が燃えている。人々は、ストーブを囲んであぐらをかいて、じっと押し黙って赤い火を見つめている。

 塩原さんは、ハバロフスクの収容所に入れられた者は処刑されるか一生帰れないと噂されていたことを思い出して、いよいよ、俺もシベリアの白樺の肥になるのかと半ば諦めの気持になっていた。ゴットン、ゴットンと響く車輪の音は底に知れぬ地底に突き進むように聞こえる。

 その音を聞きながら、塩原さんは、疲れでいつしか眠りにおちていた。どれくらい眠ったろうか。ふと目を覚ますと、外はうっすらと白くなり、やがて朝の光が、暗い貨車の一部を照らすほどになった。

 その時、窓辺に立ち上がって外を見ていた男がいきなり狂ったように叫んだ。

「海だ。海が見えるぞ」

 皆、一斉に飛び起きて窓に飛びつくように動いた。

 「ダモイ(帰国)だ」

 「ダモイだ」

 口をそろえたように歓喜の声が上がった。誰もが海を見た途端、帰国と信じ疑わなかった。夢にまで見た海であった。皆、疲れは一気に吹き飛んだように元気になり、目は光を取り戻し輝いている。

 

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2007年12月15日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(52)第2章 塩原眞資さんのシベリア

ロシア娘は数歩のところまで近づいていた。塩原さんは戸惑いと緊張で煙草を巻く手を動かすことも忘れていた。ロシア娘は年の頃は20歳前後か、春の日差しに包まれた姿は、絵から抜け出したように美しく、その微かにほほえんだ表情は、塩原さんの閉ざされた心の奥の暗く凍りついた部分に一筋の光を差し込むようであった。春の光は万物に生命力を与える。緑は萌え、花は美しさを競うように咲く。そして、若い女性も変身したように美しくなる。

春の苑くれないにおう桃の花した照る道に出でたつおとめ

 これは万葉集の大伴家持の歌であるが、このような春の息吹の中に立つ美女が目に浮かぶようだ。
 女性の美しさは、その国の文化の一面を表すもの。目の前の美女は、暗く残酷なロシア社会に隠されていた美しい文化の一端が顔をのぞかせたものか。塩原さんが呆然と立ち尽くしていると、ロシア娘は塩原さんの前で立ち止まり、監視兵を気遣いながら、にっこり笑って小声で言った。
「プローハ?(つらい)」
「カネーシノ(もちろん)」
 塩原さんは電撃に打たれたように答えた。するとロシア娘は、そうっと手を伸ばして、塩原さんの身体を引き寄せて言った。
 「パイジョン、ツダー(そこまであるきましょう)」
 呆気に取られ、何が起きているのか分からぬ塩原さんの肩に手をかけてロシア娘はゆっくりと歩き出した。娘の冷たく柔らかい手の感触は塩原さんの心臓を直接包み込むようで、塩原さんの心臓は早鐘のように激しく打った。およそ20歩くらい歩いて娘は、監視に気づかれないようにと目配せして足速に去って行った。塩原さんは、夢を見ているような気分で遠ざかっていくロシア娘の後ろ姿をじっと見ていた。哀れな日本人に対する同情のあらわれか、それとも単なる気まぐれか、あるいわお茶目な小娘のいたずら心か。いずれにしても不思議な出来事であった。
 この出来事は、萎えてゆく塩原さんの心に電気ショックのような衝撃を与え人間の心を呼び戻す効果があった。
 故国日本も春だ。そう思うと美しい上州の山や川、そこで暮らす懐かしい肉親の顔、花を摘む日本の娘たちの姿が目に浮かぶ。すると、生きるのだ、そして故国に帰るのだという意欲が心の奥底から頭をもたげてくるのを感じるのであった。
 塩原さんはその夜夢を見た。ゆったりと動く白い雲の下に赤城山がそびえ、そのすそ野に屋敷森を背にした我が家が見える。その下を流れる桃の木川で腰の曲がった母親が洗濯をしている。
 「おっ母さん」
声をかけると、母親は顔を上げ、びっくりした顔で洗濯物を放り出して、
「あっ、眞資」
と叫んで走り寄ってくる。そのとき、「ウ、ウー」という唸り声で目を覚ます。隣のベッドの男がうなされている声である。ああ夢かと夢であることがいかにも残念に思えた。毛布をかぶって、今見た夢の光景を何度も再現するのであった。

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2007年12月14日 (金)

「鉄腕アトムがやってくる」

◇バイオリンを弾くロボット、二足歩行で連携して物を運ぶロボットなど、高度なロボットが現れつつある。SFの世界の事かと思われるようなロボットの進化が急速に進んでいる。ある試算では家庭用ロボット販売の市場の規模は10年後には3兆円以上になるという。オフィスでの利用、家事や介護を支援するロボットなどを想定しているが高齢少子化社会の進行と密接に関わることだと思う。

 私の友人が愉快そうに言った。

「家に帰ると美人のロボットが手をついて、あなた、夕食にしますか、お風呂にしますか、それともおやすみになりますか、なんていう時代になるのかね」。私は言った。「いや、ご主人様オムツを変える時間ですよ、かも知れないね」と。

◇ロボットといえば誰もが手塚治虫の鉄腕アトムを思い出すだろう。私も鉄腕アトムと共に育った一人である。雑誌「少年」に鉄腕アトムの連載が始まったのは、昭和27年のことである。アトムを製作した天才科学者天馬博士は群馬の出身ということになっている。感情をもつアトムはお茶の水博士の下で家族を与えられる。お転婆で可愛い妹はウランちゃんだ。100万馬力で何でも動かしマッハの速さで空を飛ぶ。アトムは素直で正しい心を持った少年である。今から50年も昔、私たちはアトムに夢中になった。あの頃、生きているうちにアトムの仲間が実現に近づくとは思わなかった。日本のロボット研究者の多くは「アトムを創りたい」という動機で研究に入ったといわれる。子どもに夢を与えることは不可能を可能にするのだ。

 ホンダが開発したアシモは状況に応じて自分で判断して行動し複数のアシモが作業を分担できる。道を譲ったり自ら充電も可能だ。オフィスなどで接客用に利用するロボットが10年代の早期に実現の見込みという。トヨタも介護など生活をサポートするロボットを10年代の早い時期に実現するために現在約100人の研究者が真剣に取り組んでいる。

 ロボットと人間の関わり蜜がになれば、安全性や悪用ということも問題になる。経済産業省は「幼い子供に対して危害を加えない」といった安全基準を整えようとしている。ロボット倫理憲章には、「ロボットは人間の命令に従順である友人・お手伝い・パートナーとして、人間に危害を与えてはならない」、「ロボット製造者は人間の尊厳性を守るロボットを製造しなければならない」、「ロボット使用者はロボットを人間の友人として尊重すべきで不法改造やロボットの乱用を禁じる」などが定められている。また千葉大学ロボット憲章には、将来、知能ロボットが著しく進化して人類に害をなすことを防ぐため、ロボット研究者の倫理を定め、研究者は平和目的の民生用ロボットに関する教育・研究開発のみを行うと規定する。天馬博士が「ロボットは人間を越えて進化する」といい、また、アトムを自分の目的のために利用しようとしてお茶の水博士と衝突する場面は、今や現実の問題として考えられるようになった。手塚治虫の世界に改めて驚かされる。

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2007年12月13日 (木)

「また死刑判決が下るのだろうか」

◇12日の警察本部関係の委員会で、私は暴力団の抗争事件について質問した。平成15年の三俣事件に関して市民、県民の皆さんが暴力団に恐怖心を抱きまた強い関心を持っているからだ。昨日の「日記」で触れたように、この10日、背後で指示した幹部が死刑判決を受けたが、二人の実行犯のうち一人は既に死刑判決を受け上告中である。もう一人の実行犯の裁判が継続中で、その動向はとたずねたら警察は来週(17日)に判決が下ると答えた。背後の幹部は直接手を下さなかったが実行犯と同じ極刑の判決を受けたのは、共謀共同正犯理論による。これは、共通の目的に向けて共謀して一体となって犯罪を実行した場合は、全員が結果について責任を負うという理論である。あたかも、一つの体の各部が犯罪を実行したと見られるのであって、背後のものも自分が実行したと同視されるのだ。来週判決を言い渡される者は、実行犯の一人であり、この理論からすれば、当日の全体の結果について責任が問われる筈であり、求刑通り死刑の判決が下される可能性がある。見守りたい。

◇また本県に存在する暴力団は61団体で、1320名が把握されている。そのうち、指定暴力団は山口組、住吉会、稲川会、松葉会だ。かつて本県は山口組の空白県となっていたが現在は松葉会に次いで大きな勢力だという。担当官は、「暴力団はガンと同じで早期発見早期治療が大事です」と発言した。

◇自転車の事故が急増している。中、高生のマナー違反が目立つ。道路交通法が適用されることを知らない人も多い。これからの方針として、酒酔い・信号無視・無燈火・二人乗りなどの運転で、警察官の指示に従わないものは交通反則切符を切ると県警は発言した。

◇午後は、教育に関する委員会。若林委員長も出席、厳しい質問にさらされる場面もあった。私は、まず、最近、国際機関・OECDが発表した学力調査で日本の成績が悪かったことを取り上げた。発言の主な中味は、考える力、知識を活用する力、及び学習意欲の低下が判明したが、これは国内の学力テストの結果とも共通している、教育委員会は、この結果を真剣に受け止めねばならない、特に学習意欲を高めるための工夫に取り組むべきだ、というもの。

◇橋瓜副委員長は体罰、万引きなどで問題となった教師に対する対応について質問した。その中で、若林委員長が問題をしっかりと知らされていなかった点につき、教育委員会の形骸化が批判される折それでいいのかと指摘した。

私は万引きをした小学校教師が3ヶ月の停職となった問題で議論が本質からそれていると指摘した。今、小学生の万引きが増え、指摘されると親が開き直るという世相である。学校は何とか児童生徒の規範意識を育てようと必死で、万引きは泥棒だからいけないと教えている。それなのに、泥棒の先生をひそかに停職にしてまた教壇に立たせることで示しが付くのか、この点が議論されていないと迫ったのである。

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2007年12月12日 (水)

「身近に感じる死刑判決」

◇なぜ身近に感じるかといえば、判決が前橋市の殺人事件に関係しているからだ。前橋の三俣町で起きた殺人事件に関して二つ目の死刑判決が出た。私は事件が起きたスナックの前を時々通るがその度に映画のような殺人の光景を想像する。

 それは平成15年1月の深夜であった。指定暴力団稲川会系の元組長がスナックで一般客と飲んでいるところを対立する暴力団の組員2人が襲撃した。このヒットマンは、スナックの前にいた護衛役の暴力団員を射殺し、続いて中にいた一般客3人を射殺した。狙われた元組長は重傷を負ったが助かった。スナックの中は阿鼻叫喚(あびきょうかん)、正に地獄であったに違いない。

 この事件の背景には四ツ木斎場事件があった。斎場において暴力団の抗争事件があり、その報復が三俣事件だと報じられていた。実行犯は組の命令を受けた下っ端に違いないと思った。逮捕された実行犯の一人は死刑判決を受け上告中である。この実行犯は、死刑もあるということを考えなかったのか。どのような報酬を得ても引き合わないことをする人種を私は理解できなかった。同時に、命令を下した背後の人物こそ処罰しなければ正義は実現しないと思った。それにしても暴力団は怖い。一人一丁の銃を持つと言われる時代である。

 前橋市民が受けた衝撃は大きかった。「県議会は暴力団対策を何もしないのか、県営住宅に暴力団が入居したら大変だ」このような市民の声が寄せられ、暴力団員を県営住宅から排除する条例を作らねばという私の決心につながった。

 この事件を背後で動かした人物に東京地裁は10日死刑判決を下した。三俣事件の首謀者として重い責任を認めたのだ。裁判長は、「スナック内の一般客にも被害が及ぶことを認識して指示した。実行犯と同等以上の責任がある。反省の態度は見られず極刑をもって臨むしかない」と指摘した。

◇このようの人種が世の中には多いのが現実だ。そこで、仮りに日本で死刑制度がなくなったら凶悪な殺人事件は歯止めがなくなってもっと増えるのだろうか、それとも変わらないのだろうかと考えてしまう。

 私の書架には、東大の医学部を卒業して東京拘置所に医官として勤務した作家加賀乙彦の「死刑囚の記録」がある。多くの死刑囚が不安に耐えられず拘禁ノイローゼになることが書かれている。その日を迎えたとき、多くの死刑囚は腰が立たないような状態で引かれていくが、中には、少数だが真の宗教を得て旅立つ人もいるという。「とうとう最後の日が明日と告げられました。先生いろいろありがとうございました」と始まる医官宛の最後の手紙には胸がつまる。死刑は残虐な刑罰ではないということになっているが、死刑を迎えるまでの心理は想像を絶するもので、この点を考慮に入れるなら極めて残虐なものだ。

 ある日不意にお迎えが来る。刑の執行の直前に予告が行われるが、それは、前日の朝かその日の朝になされる。死刑の恐怖をもっと知ったほうがよいと思う。

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2007年12月11日 (火)

「議会の一般質問が面白くなった」

◇本会議一般質問の2日目(月)。

 一般質問のやりとりが面白くなったのは、議会改革の手段として、対面式の一問一答方式とテレビの生中継を実現したためである。これらに踏み切ったのは、私が議長の時であるが、あれから2年すっかり定着し、この日も登壇した各議員の熱演ぶりは観客を飽きさせなかった。小寺前知事と議会は対立関係にあったから知事を含めた執行部とのやりとりに緊張感があったのは当然であるが、知事が新しくなってからの新執行部と議会との間に認められる緊張関係こそ、本物であると思う。

◇自民党の須藤議員は、指導力不足教員の実態、県立病院改革などを取り上げ中身のある追及をしていた。指導力不足と認定された小学校教師は平成18年度、3名であった。「小学校教師6800人の中で3人とはどういうことか、実態はもっと多いのではないか、手続きに問題があるのではないか、例えば、校長は、この教師が指導力不足だという明確な根拠を示さなくてはならないがそれは難しいことではないか」と須藤さんは追及した。

 現在、児童・生徒の学力低下が叫ばれている。国際機関の調査によって日本の子どもの学力低下が深刻であることが判明し、文科相が「残念」と発言したことは先日のブログで触れたことである。学力低下が教師の指導力に関わっていることは否定出来ないことだ。しかし、「指導力不足」の教師を厳しくあぶりだすことによって問題は解決しない。この制度は、教師に緊張感を与えるという象徴的意味があると思う。総合的な施策によって良い教師を育てなければならない。この点で注目される最近の動きとして、良い教師を育成することを目指した大学院が各地でスタートする。近日中に、この大学院についてこのブログで取り上げたいと考えている。

 須藤さんは県立病院の改革で、現在の病院を県立病院にしておく必要があるかと病院管理者に迫った。須藤さんは、先日私達が行革特別委で福岡市の病院改革を視察した結果を参考にして発言した。管理者は、「医療の水準を落とすことなく民間で出来るかを検討する必要がある」と答えていた。須藤さんの追求は県立病院の改革のために一定の刺激剤になったと思う。

◇金子浩隆議員は地球温暖化防止条例をつくるべきだと主張した。金子さんは、この条例の先進自治体京都府まで調査にいって来た。地球温暖化がただならぬところに来ていることを感じさせる。「一定規模以上の企業にCO削減義務を」、「群馬らしさをもった条例を」などの発言があり、大沢知事も検討すると約束した。京都府の条例では特定事業者を定め温室効果ガスの排出状況、その削減を図る基本方針などを定めることを義務づけている。ヒマラヤの氷河が溶け、南の国モリジブの大統領は海面上昇による水没の危機を訴える。地球の危機、人類の危機が近づいていることを議会の中で感じた。

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2007年12月10日 (月)

「3人の死刑執行、有害サイトのフィルタリング」

◇尾身後援会の役員会が開かれた(7日・金)。

いつもは12月の土曜日に行う。今年も土曜の予定であったが、代議士がアルゼンチンの女性大統領就任式に出席するために一日くり上げて行われた。私は挨拶の中で言った。「私の考えでは尾身さんの公認問題は心配ないでしょう」と。県連が次の選挙で公認しないと言ったので、後援会の中に多少の動揺があったのだ。

◇金子事務所で朝食会(8日)。私は座長を務めるのが例である。この日は、「病院で検査です」と言って30分で席をたった。私の発言は注目されたらしく、その後、市議から「大丈夫だったですか」と聞かれた。政治家は入院などと言うとすぐ「ガンか?」などと噂される。もち論、私の場合は、健康診断のためである。

◇鳩山法相の下で3人の死刑が執行された。大きなニュースになったのは、従来と異なり死刑囚の名と犯罪事実を公表したためである。3人のうちの1人は74歳であった。法は冷厳である。死刑囚の家族等の事を考えれば公表しない方がよいと言うことになるし、被害者の遺族の気持ちを考慮すれば公表に傾く。日本の世論は8割が死刑制度に賛成というが異常というべきだろう。

 最近は残酷な殺人事件が多い事から厳罰が下される傾向で死刑判決が多い。そのため未執行の死刑囚が増えてその数は104人である。死刑制度の最大の存在意義は犯罪予防にある。多くの国民が死刑の威嚇力を信じているようだ。しかし、私には、日本人が人間の死というものを真剣に考えていないことと関係があるように思える。世界の流れは死刑廃止の方向に向っている。先進国で死刑を残しているのは米国と日本である。死刑は極刑であるが、その下にある無期刑との差が大きすぎる。「無期」は、一定年数で社会に出られるからだ。だからこの間に、終身刑を設けるべきだと言う意見も多い。とにかく、間もなく始まる裁判員制度では、私たち一般人は「死刑」に直接に向き合う可能性があるのだから、死刑の問題を真剣に考えることが求められている。

◇有害サイトの制限の動き。私は警察本部の委員会でいわゆるフィルタリングについて発言したことがある。警察は、ドコモなどの携帯を扱う会社の協力を求めていく考えであると答えた。フィルターとは濾過するという意味だが、問題となっているフィルタリングとは有害な情報にアクセスさせない手段のことである。警察庁が実施した調査によれば、ほとんどの少年が性や暴力に関する情報をコンピューターや携帯から入手できることを知っている。その害が指摘されてきた。総務省は未成年者が携帯などの有害サイトを閲覧できないようにするフィルタリングサービスに原則加入するように携帯電話会社に要請する方針を固めた。このサービスの加入者は、9月末現在210万人で、一年間に3倍以上に増えたが、携帯を使う小中高生の3人に2人は利用していない。私は、今会議で群馬の状況などを取り上げようと思う。

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2007年12月 9日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(51)第2章 塩原眞資さんのシベリア

 民主運動が播いた種は後にいろいろな問題を引き起こすことになるが、この民主運動の総仕上げともいうべき、最も象徴的な出来事が「スターリン大元帥への感謝文署名運動」である。

 私は、塩原さんたちとハバロフスク国立公文書館を訪ねた際、特別の計らいでこの文書のコピーを入手した。その中身は一見して驚くべきものであった。詳細は別項でふれるが、収容所の扱いは至れり尽くせりで夢のようであること、自分たちを目覚めさせてくれたスターリン大元帥に対して感謝の気持ちでいっぱいであること、そして、帰国後は、日本共産党に協力して命をかけて資本主義と闘うことを誓う等々である、

 この文書には六万名を超える日本人が署名した。ここまで卑屈になったかということと、それほどに帰国したかったのかという複雑な感情を抱かざるを得ない。

八 美しいロシア娘に出会う。そしてついにダモイ(帰国)の時が

 昭和24年、塩原眞資さんは、入ソ以来4年目の春を迎えていた。厳しい冬が去って、万物が生命を回復したように野山は緑にあふれ、水は光り、鳥たちはさえずっていた。しかし、収容所の日本人は一段と生気を失っているように見えた。誰の目にも苛立ちと絶望感が表れている。他の地区の多くの日本人が帰国したという話が伝わる中で、ハバロフスクの収容所だけが取り残されているようである。やはり、この収容所は重大な戦犯やそれに準ずる者が集められているので、永久に帰国は許されないのかもしれない。そう思うと人々の不安は、ますます大きくなるのだった。目がくぼみ、骨と皮だけの人々は、心の力も失って、日毎に豊かさを増す春の恵みも、ただ恨めしさと惨めさを募らせる存在に過ぎなかった。あるよく晴れた日、塩原さんは屋外の建設現場にかり出されていた。朝から、手押し車でレンガを運び、重いツルハシを振り上げて打ち下ろす単調な作業が続けられていた。日は高く昇り、強くなった陽光の下で塩原さんは額の汗をぬぐった。少しまえのシベリアの酷寒は嘘のようで、すっかり変貌したシベリアの大地のもう一つの姿が見渡す限り広がっている。

汗は脇の下まで伝わり、塩原さんはシャツを脱いで上半身裸になった。そこには、27歳の日本の若者の姿があった。無残にやせこけたとはいえ、鍛えられたがっしりとした骨格の上に残った肩の筋肉の上に滲んだ汗が光っていた。

 塩原さんは建物の陰で、ポケットから古くなった日本新聞の切れ端を取り出し、その上に、ロシア人からもらったマホルカという煙草の粉をのせて巻き煙草をつくっていると、少し離れた所を一人のロシア娘が歩いている。塩原さんはそれに、ちらっと目をやったが、格別の関心は湧かない。それは彼の視野の中の、一つの家や一本の樹木と同じなのだ。

 その時、おやっと思った。こちらに近づいてくるようだ。距離が縮み、塩原さんの視線は、ほっそりとした美しいロシア娘をはっきりととらえていた。ロシア人には美人が多い。しかし、普段は、そのようなことは塩原さんにとってまったく無縁のことであった。

 絶望の淵に放り込まれ、極度の栄養失調で体の精気も消え失せ、人間の欲望もただ生きることと、帰国することだけになって、今や、それさえも次第に薄れてゆく状態であった。

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2007年12月 8日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(50)第2章 塩原眞資さんのシベリア

 特に初年兵は徹底的にしごかれた。このような階級制度に伴う残酷な習慣が、シベリア抑留のはじめ、収容所内に持ち込まれたことが、収容所の生活を一層過酷なものとし、また、民主運動を異常に発展させる一因になったと考えられる。
階級の一番下の者は虐待されるだけでなく厳しい仕事をより多く押し付けられた。初めての冬を越せないで多くの死者が出たが、その中には、このような旧軍隊における最下層に属する人が多かったという。
作曲家の米山正夫は、コムソリスクの収容所に収容されていた人であるが、次のように証言している。
「収容所では、最初のうち、軍隊の厳しい階級制度がありました。その方がソ連も管理しやすかったのでしょう。私は一兵卒ですから、また、こき使われ、ピンタされる毎日でした。私の友人は、栄養失調の上に、上官にこづきまわされ、殴られたあげく、オレはソ連兵にではなく、日本人によって殺された、と絶叫して死んでゆきました」また、ハバロフスクの収容所にいた歌手の三波春夫は、次のように語る。
「将校当番となった私は朝から晩まで将校の下着の洗濯や食事の世話をしていました。将校の中にサルマタまで洗わせる者がいて、日頃から不快に思っていましたが、ついにある時、耐えられず、激しく抗議しました。当時はまだ、旧軍隊の階級章もそのままで、兵隊と将校の間には、軍隊当時そのままの厳しい階級制度が残っていて、上官の命令は絶対でしたから、私と将校の口論は、収容所内の注目の的となりました」このような不合理な階級制度は、当然ながら、民主運動の攻撃の対象とされ、そして部下を虐待した上官は吊るし上げの対象になった。
 民主運動の指導者については、ほとんどの証言者が、助け合うべき同胞でありながらソ連の側に立って日本人収容者を苦しめたと非難する。激しい吊るし上げの対象となった人の恨みや心ならずも攻撃する立場に立った人々の深い心の傷を思えばそれは当然といえる。しかし、若い日本人抑留者の中には、真面目にソ連の思想を信じ、日本の旧体制を批判しようとして民主運動に打ち込んだものも多かった。戦前から天皇制や日本の軍国主義に反対の人は多く存在したわけであるから、抑留者の中にも、そのような人は当然いたであろう。そして、その中からアクチーヴが生まれるのも自然のことといえよう。
例えば、日本新聞編集長の浅原正基のような人物である。このようなインテリ層に属する人たちが抑留者の中には、少なからず存在した。しかし、このような人たちとは別に、収容所の中で目覚めてアクチーヴを目指した者も多かった。
もとより、日本の旧体制は批判されるべき問題点を抱えていたわけであるが、それが惨めな結果に終わった以上、批判が噴出するのは当然といえる。しかし、日本を批判する運動がソ連の権力をバックにして強制収容所の中で展開されたことは、ほとんどの日本人抑留者にとって許しがたいことであったに違いない。民主運動に打ち込めば帰国できると盲信したための集団ヒステリーともいえる狂態がいたる所でくり広げられ、その渦の中で吊るし上げられ、村八分にされた人の苦痛と恨みは想像を絶するものであろう。耐えられずに建築中の建物の四階から「天皇陛下万歳」と叫んで投身自殺をした者もいた。この人の心中には、自分を責めたアクチーヴやそれに迎合した人々に対する抑えがたい復讐の炎が燃えていたに違いない。
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2007年12月 7日 (金)

「学力低下の危機・日本はこのまま沈むのか」

◇前橋市議団と自民党県議全員が金子事務所に集った。(6日)。笹川県連会長は、風格のある前橋市をつくるために、違反のない堂々とした戦いをやろうと挨拶。私は、クリーン前橋作戦会議の代表として、市民が力を合わせれば前橋を再生できる、市民が力を合わせるためには市政に対する信頼を回復することが必要である、その為の旗印がクリーン前橋だと訴えた。

◇小学生・中学生の学力テストは今年4月に全国一斉に行われ、その結果は10月に発表された。それは、全国総じて、知識を問う問題に比べ知識を活用する問題の方が成績が悪かった。その時、私は思った。学力は生きるための力である、とすれば知識も大切だが、それを活用する力とその意欲こそ一層重要なことではないかと。

 今月4日、OECD(経済協力開発機構)による国際学力調査の結果が発表された。渡海文科相は「率直に残念」と語った。日本の成績は、3回目となる今回まで、続落したのだ。日本の社会状況と教育の現状を見ると、更に落ちていくのではという不安を覚える。この国際機関が実施する学力調査の特色は、15歳(高1)を対象に数学、国語、科学の応用力を問う点にある。今年4月に実施した小中の学力調査が今回の結果を予想したものというべきであろう。

 フィンランドがトップクラスを走っている。韓国も読解力で1位であった。日本は、得意とする数学と理科でトップクラスから転落した。そして、今回初めて実施された科学に関する意識調査では、「科学について学ぶことに興味がある」と答えた日本の生徒は50%で57の国の中で52位、同様に、「理科の勉強は役立つ」と答えた生徒は42%で56位であった。この数字が語る科学への関心や意欲の低さは深刻な問題である。他の数学や国語、更には全ての教科について、関心と意欲の低いことが想像される。

日本では、出来る子と出来ない子の学力の格差広がっているといわれる。この現実を踏まえて個々に応じた授業をしなければならないが、そのためには、教員の数を増やしてその資質の向上を図らねばならない。また、学習の意欲を向上させることは、より本質的に重要なことであり、この事を意識して授業の工夫を図らねばならない。学力の向上のために重要なことは、教育の深刻な現実を地方がしっかりと受け止めて出来ることから真剣にとりくむことである。フィンランドに教師を派遣して授業のやり方を学ばせた自治体もある。私は高校入試の問題を工夫することも非常に重要だと思う。又、4月に実施した全国学力調査の結果は、フルに活用しなければならない。地域社会の教育力を生かすことも重要だ。この点では、「教育の日」が実現したので、県民の教育に関する意識を高める機会とすべきだ。私が関わる「理科の面白さを育てる会」も新たな状況の中で役割を果たしたいと思う。

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2007年12月 6日 (木)

◇「志ある職員のための休業制度の条例」

 大沢知事が初日の提案説明の中で特に触れた条例案である。公務員が自己啓発のために休業することを可能にする条例のことである。大学で学ぶ場合は2年を限度、国際貢献活動への参加は3年を限度に知事が認める。これは、平成19年8月1日に施行された地方自治法に基づく。本県でも導入に必要な事項を条例で定めようとするものだ。

 近年社会の変化と複雑化は驚くばかりであり、その中で公務員の役割も大きくなっている。つまり、公務員は変化に対応して国民に奉仕するための能力が求められている。私は県政の渦中にあって日々生起する課題に向き合いつつ自分の能力のとぼしさを感じ自分を磨かなければと思うことがよくある。県職員も同じであろう。しかし、忙しい毎日の業務に埋没し流されていくのが県職員の通常の姿ではなかろうか。このような時、流れから抜け出して自分を見詰め自分を啓発する機会を持つことは非常に重要である。条例化の目的はこの点にあると私は考える。

 希望者は、期間と内容を明らかにして申請し任命権者の承認をうける。認められた場合報告義務を負い、その間の給与はない。つまり自己負担の自己研修である。この点から、自分の利益を超えて公務に奉仕する職員、そして、近ごろ少なくなったとされる志を持った公務員を育てサポートしたいというこの条例の主旨がうかがえる。

 私たち県議団は今年10月中国を視察したが、今振り返ってこの制度と重ねて考えて見た。それは、意欲と志を持った若い県職が中国の大学に2年間留学したとすれば、彼の能力と資質を高めるだけでなく、多くの人脈をつくり将来の国際交流や国際観光の素地をつくることが出来るに違いないということである。この制度の行方を見守りたい。

◇遺失物法が改正され、10日から施行される。遺失物は公告した後6ヶ月以内に所有者が判明しない時は拾得者が所有権を得る。昭和55年大貫さんという運転手が銀座3丁目の道路脇で風呂敷包みの一億円を拾い警察に届けたが落とし主が現れず、大貫さんのものとなった出来事は記憶に新しい。現代社会は複雑だからいろいろな落し物がある。この一億円は受け取り人がない時は都のものになったはず。群馬県で昨年中県のものになった遺失物は一万一千件を越える。

 改正法は公告期間を原則として3ヶ月に短縮する。警察はパソコンを配置して全ての署、交番、駐在所で情報を共有できるようにし、その情報をホームページに公開し一般家庭で閲覧可能にする。昨年警察が扱った遺失物は約2万6千件だという。高齢社会が進む中で遺失物は今後更に増えるのではないか。また、携帯電話やカードなどは個人情報が入っているので、所有権が移らない。改正法はこのような社会の変化に対応するものだ。(明日は学力の低下を書く予定)

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2007年12月 5日 (水)

「今議会で決まる重要課題(1)」

◇小坂子発電所の建設(一六三号議案)。小坂子(こざかし)町は私の地元芳賀にある。ここに県道渋川大胡線が走る。この道路沿いに水力発電所が出来ると話すと人々は「へぇー、川もねぇのにどうやって」と驚く。水は群馬用水の水を使う。北橘町箱田の浄水場で浄水処理された水は低地の家々に送られるが、その途中の水で発電機を動かし電力を生産する。発電機を回した水は再び流れて家庭に送られる。箱田の浄水場と小坂子町の建設予定地(県央第二水道調整池)との落差は約34m。この落差を利用するのである。年間の供給電力量は一般家庭170軒分。これだけを石油を使って火力で生み出すとしたら石油がドラム缶790本、その時CO排出量は約240トンである。

 現在、地球の温暖化は極めて深刻。だから、COを出さないクリーンエネルギー源として小さな水流の利用は注目すべき存在である。

 小坂子発電所のような企画は、多くの地域で可能だと思う。この発電事業は県企業局の企画であるが、企業局は、今後も利用可能なマイクロ水力を調査するといっている。

◇県営住宅の入居資格の改正。特に優先入居と住宅に困らない者に対する明渡請求。これらのことを条例改正により実現しようとしている。優先入居を認めるのは、障害者、高齢者、母子家庭、父子家庭、DV(ドメスティックバイオレンス)の被害者など。優先の手段として例えば抽選の機会を2倍にするとかを検討するらしい。住宅に困窮しない者とは、県住入居後に住宅を持つに至ったものなどを指す。県住をセカンドハウスとか物置に使っている者が現実にいるが、条例の明渡事由になっていないため明け渡しを求めることが出来なかった。今議会で条例を改正してこの点を明渡事由に加えようとするものである。

◇「ぐんま県民債」を発行する。国が発行するのが国債で地方が発行するのが地方債である。平成14年以来、愛県債という名称の地方債を発行してきた。昨年まで6回計80億円を発行し県立病院の整備に当てた。今回は「ぐんま県民債」と名称を改め20億円発行の予定である。集まった資金は「安全・安心」事業に活用する。具体的には、防災無線整備、重粒子線施設設備に。

 申  込:平成20年1月17日(木)正午から25日(金)。

 発 行 日:平成20年1月30日。

 利 回 り:国債より少しよくする。利払いは年2回。

 購 入 額:1万円から100万円まで。1万円単位。

 償   還:5年後の満期に。

 取扱い窓口:県内の銀行、信用金庫等の本支店。

◇夜3ヶ所の会合があった。忘年会と市政県政報告会を兼ねている。私が挨拶し、続いて金子泰造さんが挨拶した。私は、「今年は選挙イヤーでした。県議選、知事選があり、中央では総裁選があり福田内閣が誕生しました。画竜点晴、竜を描いてひとみを入れる作業が市長選です。力を合わせて県都を再生させましょう」と挨拶した。

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2007年12月 4日 (火)

「12月議会が始まった」(3日)

◇朝7時半、群馬会館食堂で朝食会。議会開会日の恒例である。金子泰造さんが幹事長を辞したので、南波幹事長代行が会議を進めた。オンブズマンと知事との間で政務調査費に関する訴訟が行われていることなども報告された。いつも新聞記者が2、3人外で待ち構えていて取材をするのだがこの日は誰もいなかった。

 9時20分から議運、9時40分から県議団総会、そして10時から本会議といつもの流れであった。日程に入る前に4人の新任者の紹介があった。その中で教育委員会委員長として登壇して挨拶した人は若林泰憲氏である。曹洞宗の僧で、「不易流行」ということわざを紹介して所信を語っていた。不易(永遠に変わらぬもの)と流行(時代に応じて変化するもの)の調和が教育にも求められるという事か。教育委員長が名誉職である時代は去った。「教育」の重責を果たして欲しい。

 新任者の紹介に続いて委員長報告があった。私が所属する決算特別委員会が閉会中審査した決算認定に関するものである。関根委員長の報告に関して反対討論、賛成討論があって採決がなされ、賛成多数で18年度決算は承認された。関根委員長は、10月、中国視察をした仲間である。

 知事は提案説明の中で、先ず、先日パラオ・マリアナ諸島へ慰霊巡拝に行ったことを報告し続いて主な議案について説明した。その中に、職員が大学での研修や国際貢献のため休業できる制度の導入、県営住宅に社会的弱者が優先的に入居できるようにする制度、公安委員の選任の件などがあった。公安委員会委員は、教育委員会委員とことなって、議会の承認事項である。横田英一氏が承認された。県民の生命と安全と財産を守る重要な使命を果たして欲しい。

◇本会議終了後、自民党控室で議案調査が行われた。これも、財政課長が出席して議会初日に行われるのが恒例となっている。いくつかの要点を紹介する。①人事院勧告に基づく職員給与の引き上げ。但し知事、特別職、県会議員は厳しい財政状況から見送ることに。②職員の育児休業に関する改正。()育児短時間勤務や(ロ)任期付き育児短時間勤務職員の任用等の制度をつくる。((ロ)は、(イ)の穴うめのために)。()は、週5日・1日4時間勤務、週3日・1日8時間勤務等。今、少子化対策が急務であるが育児休業をとりやすくすることがカギといわれている。③小坂子発電所の計画。群馬用水から取水し浄水処理した水を使う。一般家庭170件分、石油節約量ドラム缶790本、CO2削減量240t分である。④県営住宅の家賃滞納者に対する訴え等の提起。113人の住所氏名が私たちの手に渡った。対象は10万円以上滞納で誠意がない者、不正手続きで入居し明渡しに応じないものなど。今年10月1日から暴力団員は県住に入居できなくなったから、その入居が判明し明渡しの請求に応じない場合にはこのような措置の対象になるだろう。

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2007年12月 3日 (月)

「中国は真に豊かな国になれるか」

◇日曜日(2日)は、行事がいっぱいで忙しかった。朝9時、小学校の体育館で女性チームのバレーボール大会の開会式があった。赤ちゃんを抱いて参加した女性がいた。他の女性たちが「抱かせて」「私にも」と親子を歓迎している。次は私の挨拶である。「今年はいろいろなことがありました。来年も何が起こるか分かりません。頼りになるのは健康と良い仲間です。少子化の時代です。赤ちゃんを抱いて参加するママさん、それを支える皆さんの姿、素晴らしいと思います」
◇午後一時半より、芳賀地区の「クリーン前橋作戦会議」の発会式があった。何日間か準備にエネルギーを注いだ。役員も決まり、人も集ってくれた。飲食は一切なし。昔は、このようなとき、茶菓が出ておみやげまで付いたのだ。最近の変化を人々は当然の事と受け入れている。民度が上がり民主主義が進歩したというべきか。私の挨拶、金子泰造氏が語る「抱負」に人々は熱心に耳を傾けてくれた。
◇夜、二つの忘年会に出た。ある会で、私の中国レポートを読んだ一人の若者と次のような会話をした。「近い将来日本は中国に追い抜かれるでしょうね」「何を基準に追い抜かれるというの」「お金持ちが増えて日本より豊かになると思います」「本当の豊かさという点で中国はまだまだだと思うよ」私は、本当の豊かさとは、人間を大切にすることが基本でなければならないとして「人権」のことを話した。
 中国は社会主義を基盤とする国である。社会主義とは平等の社会をその理想とし、その目指すところは人間の尊重の筈だ。経済的な格差はやがて縮まるだろう。しかし、思想の自由や表現の自由を厳しく弾圧する国家による人権侵害は、この国にいつまでもつきまとう深刻な問題と思えてしまう。
 国の政策を批判する活動家が逮捕、軟禁、暴行を受ける等の事件が頻繁に報じられている。強制立ち退き事件で住民を弁護し国家転覆扇動罪の判決を受けた弁護士、土地を強制収用された農民を支援し「五輪より人権を」と訴えて逮捕された労働者、強制中絶の被害者を支援し別罪で実刑判決を受けた盲目の活動家などがほんの一部の例として報じられている。
オリンピックは平和の祭典で、肌の色に関係なくスポーツを競う人間の祭典である。人類の歴史は奴隷制度に見られるように人種差別の歴史であった。人種による偏見や差別は21世紀の現在もなくならない。オリンピックでは黒い肌が躍動し感動を呼ぶ。オリンピックを北京に誘致することに強い反対があったのは、人権侵害の国はこのような祭典にふさわしくないからだ。私は、10月天安門広場に立って、1989年の天安門事件を思い出した。民主化を求める20万人ともいわれる学生の中に戦車が突入し多くの犠牲者を出した事件だ。基本的にはあの時の中国が変わっていない。中国は今、真に豊かな国になるために「人権」が問われている。
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2007年12月 2日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(49)第2章 塩原眞資さんのシベリア

「許してください。私が悪かった。心から反省します。これからは、心を入れかえて、マルクス・レーニン主義を勉強し、ソ同盟のためにもっと一生懸命に働きます。どうか許してください」
 生贄にされた子羊のような哀れな男の姿を見て、群集の狂気は一層激しくなった。
「我らが祖国、ソ同盟万歳」
アクチーヴは勝ち誇ったように叫んで拳を天に向って突き上げた。
「オーッ、ソ同盟万歳」
 何百の人々の拳が一斉に突き上げられた。そして、「ああ、インターナショナル、我らがもの」と労働歌が響きわたった。人々は狂気の中に埋没し酔っていた。しかし、多くの人々は、心の片隅に明日は我が身かという不安を抱いていた。

 日本人の狂態は外国人の目には異様に映ったらしい。各地の収容所には日本人以外の者も収容されていた。特にドイツ人は、ナチスのヒットラーの下で、ソ連に侵攻し激しく戦った経緯から多くの者が捕虜となり収容されていたが、彼らドイツ人の間では、日本人が行ったような民主運動は行われなかった。彼らは、日本人の行動を冷やかに、そして批判的に見ていたようだ。そして逆に、日本人の目には、ドイツ人捕虜の姿は立派に見えたという。
 ドイツ人収容者を間近に見たある日本人捕虜は次のように述べている。
「私がシベリアで最も印象深かったのは、ドイツ人捕虜の姿でした。若いソ連兵に対して5、6人のドイツ人がシャベルを土に突き立てて昂然として立っているのです。ソ連兵は銃剣をかざして威嚇し、銃床で殴ったりしていました。ドイツ人は、それに対して、やるならやってみろとばかりに身構えています。そこには捨て身の気迫がみなぎっており、ソ連兵がそれ以上やると大変なことになるという緊迫した様子でした。ソ連兵は、それで手を引いたのです。これはほんの一瞬の出来事ですが、こういう決意が底にある場合、ソ連兵もあまり理不尽なことは要求できないのではと思いました。私は大変なショックを受けたのです。なんでもいいなりで、仲間を売ってまで、ソ連に媚びる日本人捕虜が本当に奴隷のように思えたのです」
 ただひたすら帰国したい、そのためには何でもしなければならない。日本人抑留者の心は痛いほど分かる気がする。しかし、そこには、日本人の文化や国民性の特色があり、また、旧軍隊の影が色濃く残っていたように思われる。
塩原さんは、ドイツ人捕虜のこと、日本人の団結について、次のように語ってくれた。
<労働で外へ出たとき、ドイツ人捕虜の隊列とすれ違うことがありました。彼らは、和気あいあい、堂々として立派に見えました。日本人の場合、軍隊の激しい階級制度の延長戦にあったのか、日本人同士の団結が欠如していました。そのため、どうしても自己主義になり統率に欠けていたようです>
 旧軍隊の階級制度の厳しさ、その中でも特に上官によるしごきは大変なものであった。何かというと殴った。そうすることによって精神を鍛え、強い兵士になれると信じられていた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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2007年12月 1日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(48)第2章 塩原眞資さんのシベリア

零下30度の凍土の上で、そこだけが熱気にあふれ、人々から生み出される狂気の渦が高まっていた。

その時、一人のアクチーヴが壇上に立って何やら叫んだ。広場は急に静かになった。人々の目は壇上のもう一人の人物に釘付けになった。壇の片隅に一人の男が直立不動の姿勢で立っている。怯えた目付きは、これから何が起きるかを的確に予測しているようだ。数百の大衆の視線が頭のてっぺんからつま先に至るまで、突き刺すように注がれている。男は、真っ白になった頭の中で、いつもの吊るし上げの場面を想像していた。そこでは、壇上の被害者を激しく攻撃する側に自分は立っていた。ところが今は、自分がその攻撃される側に立たされている。目の前の人々の顔に目をやると、日頃、親しくしている人が何人もいる。助けてほしいと視線を送るがそれが不可能なことは初めから分かっていた。彼らは視線を逸らしたり、気付かぬふりをしている。昨日まで、自分も大衆の中に立って、壇上の友に、罵声を浴びせ追及の矢を放っていたのである。

アクチーヴは、男を促して中央に立たせ、声高に言った。

「皆さん、本日はこの男を暴いて、我々の中から反動を一掃し、一丸となって、我が祖国ソ連同盟の発展のために全力を尽くしてまいりたいと思います」

アクチーヴの発言が終わらないうちに、場内のあちこちから叫び声が上がった。

「異議なし」

「同感、反動を許すな」

 同時に、大きな拍手が起きた。

「この男は、元満州国の警察官だったのです。そして、日本帝国主義の手先として、罪もない人民を弾圧し、不当な逮捕を繰り返してきました。この男は、人民の敵である。ファシズムである」

「そうだ、民主主義の敵だ」

「帰国を許すな」

 拳を突き出して、人々は必死に叫ぶ。自分こそ、この吊るし上げに積極的に協力していることをアピールするように。

「我々が調査したこの男の罪状のいくつかをここで紹介します」

アクチーヴは、ポケットから取り出した紙片を読み上げ始めた。一つ何々と読み上げるたびに、罵声と怒声が飛び交い会場はどっと沸いた。そして、アクチーヴの弁説は一段と熱を帯びてきた。男は目を閉じ、首を垂れて動かなかった。

アクチーヴの言葉は、追及調に変わった。

「それにもかかわらずだ。この男は、過去の経歴を隠し、民主運動も怠っている。これは、過去を反省していない証拠ではないか。このようなことを、我々は許すことができるのか」

「絶対にできないぞ」

「土下座して反省しろ」

「やっちまえ」

まさに人民裁判であった。壇上の男は耐えられず、膝を追って座り込み、次に手をついて頭を垂れた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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