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2007年12月30日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(59)第3章 青柳由造さんのシベリア

 ヒットラーのドイツ軍30万人はソ連に攻め込んだものの、1943年(昭和18年)はじめ、スターリングラードの戦いでほとんど全滅する。また、同年9月ムッソリーニのイタリアは連合国に無条件降伏した。そしてこの年、チャーチル、ルーズベルト、スターリンは、早くも戦後処理について会談し、この中でスターリンは、ドイツ降伏の後に日本に対して参戦することを約束したのであった(テヘラン会談)。スターリンの約束は、青柳さんたちを待ち受ける巨大な暗黒の罠を意味した。

 このような内外の状況の中で、青柳由造さんは出征することになったのである。なお、青柳さんは19歳で徴兵検査を受けたが、戦況の深刻化の中で、すでに多くの少年たちが戦争に参加して行った。学徒動員によって中学校以上の学生、生徒が軍需工場に動員されていたし昭和18年からは、学徒出陣により多くの学生が戦場にかり出されていた。昭和20年の新潟は、大変な大雪だった。雪に囲まれた出発の駅には、村人や親戚の人が集まり、日の丸を振って見送った。しかし、万歳を叫ぶ人々の声には、気のせいか活気がなかった。これまでに、のぼり旗が立ち並び、軍歌が流れ、歓呼の声で沸き立つ見送りの光景を見ていた青柳さんの胸に一抹の不安がよぎる。その時、兄千次郎さんは、青柳さんの手をしっかりと握って言った。

「おい、元気でやって来い」

短い言葉から万感の思いが伝わる。生きて帰れとは言えない時節であるが、握った手の温もりを通して肉親の情が痛いほどに伝わる。これが最後の別れかもしれないと思うと目頭が熱くなり握った手を離すのがつらかった。

 昭和20年1月11日、青柳さんは汽車で仙台に着き、そこで歩兵部隊に入れられ、無線通信隊に配属された。そこで、一週間程度、敬礼訓練、整列訓練等を受ける。隊には、全国からいろいろな人が集まっていた。やがて、いく日かして、国外へ行くらしいとの情報が耳に入る。国外とは、一体どこだろう。中国か、南方か、いろいろ想像すると不安になるが、どうすることもできないのだ、兵隊になった以上、天皇陛下の命令に従って、どこにでも行かなければならいし、命も捨てなければならないのだ。そう思うとどうにでもなれ、と開き直った心境になることができた。

 昭和20年の仙台の冬はとても寒かった。越後育ちで寒さには強いはずの青柳さんも辛く感じる寒さであったが、これも軍隊の厳しさの内かと覚悟を決める。しかし、それにしてもこれから先、何が待ち受けているのか気にかかった。

(31日・元旦は祭日ですが日記を更新します。是非ご覧ください。)

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