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2007年12月29日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(58)第3章 青柳由造さんのシベリア

 青柳さんが新潟を出た昭和15年といえば、日本の社会全体が騒然とした空気に包まれ、行く手には暗雲が垂れこめ、先行き不透明なことに多くの人々は不安を抱いていた。
 特に中国大国では、風雲急を告げる状況が加速していた。
 昭和6年満州事変、昭和7年満州国建国、昭和8年国際連盟脱退と続き、ついに昭和12年、日本は日中戦争に突入する。日本は世界から孤立し、中国大陸では、抜き差しならぬ泥沼に足を踏み入れていたのである。大陸の燃え盛る炎の中に入ってゆく運命が行く手に待ち受けていることを青柳少年は知らなかった。
 昭和16年12月、日本は太平洋戦争に突入。真珠湾攻撃に始まった緒戦は、破竹の勢いで進撃した日本軍も、時とともに不利な状況に追い込まれてゆく。
 青柳由造さんに召集令状が出され、古里の役場から東芝工場に入隊通知書が届けられたのは昭和20年1月のことであった。青柳さんは、前年昭和19年19歳で徴兵検査を受け、乙種合格となっていた。本来、満20歳でこの検査を受けるわけであるが、戦況の悪化と共に繰り上げで検査が行われたのである。
 このころ、一般の国民には、戦争に関する重要なことは知らされなかったが、戦況は深刻の度を増していた。昭和17年6月、ハワイ諸島北西のミッドウェーの海戦における敗北は、太平洋戦争の転機を意味した。この敗北によって日本海軍は太平洋における制空権を実質的に失ったからである。
 そして、昭和18年、ニューギニアの先、ガダルカナルの戦いは太平洋戦争の天王山といわれたが、補給が続かず将兵は、人肉も食うほどの飢えに悩まされ、ガ島は“餓島”と呼ばれたほど悲惨を極めた。この戦いの敗北により、戦局の行先は極めて困難であることが誰の目にも明らかになった。連合艦隊司令長官山本五十六が乗った飛行機がニューギニアのラバウルを飛び立って間もなく、暗号を解読して待ち構えていた米軍機により、ブーゲンビルの上空で撃墜されたのは昭和18年4月のことであった。
 このようにして、太平洋におけるアメリカ軍の攻撃はじわじわと日本本土に近づいていた。そして昭和19年、サイパン島、グアム島がアメリカ軍の手に落ちた。地図で見るとこれらの島から硫黄島が近い。空の要塞とされたB29を主力とした日本本土爆撃は昭和19年秋から本格化し、ついにサイパン島を基地とした東京大空襲が昭和20年3月9日に行われた。
 なお、世界の情勢はというと、このころ日本と同盟関係にあったドイツとイタリアも苦しい立場に追い込まれていた。

(31日と元旦は祭日ですが日記を更新します。)

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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