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2007年12月 9日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(51)第2章 塩原眞資さんのシベリア

 民主運動が播いた種は後にいろいろな問題を引き起こすことになるが、この民主運動の総仕上げともいうべき、最も象徴的な出来事が「スターリン大元帥への感謝文署名運動」である。

 私は、塩原さんたちとハバロフスク国立公文書館を訪ねた際、特別の計らいでこの文書のコピーを入手した。その中身は一見して驚くべきものであった。詳細は別項でふれるが、収容所の扱いは至れり尽くせりで夢のようであること、自分たちを目覚めさせてくれたスターリン大元帥に対して感謝の気持ちでいっぱいであること、そして、帰国後は、日本共産党に協力して命をかけて資本主義と闘うことを誓う等々である、

 この文書には六万名を超える日本人が署名した。ここまで卑屈になったかということと、それほどに帰国したかったのかという複雑な感情を抱かざるを得ない。

八 美しいロシア娘に出会う。そしてついにダモイ(帰国)の時が

 昭和24年、塩原眞資さんは、入ソ以来4年目の春を迎えていた。厳しい冬が去って、万物が生命を回復したように野山は緑にあふれ、水は光り、鳥たちはさえずっていた。しかし、収容所の日本人は一段と生気を失っているように見えた。誰の目にも苛立ちと絶望感が表れている。他の地区の多くの日本人が帰国したという話が伝わる中で、ハバロフスクの収容所だけが取り残されているようである。やはり、この収容所は重大な戦犯やそれに準ずる者が集められているので、永久に帰国は許されないのかもしれない。そう思うと人々の不安は、ますます大きくなるのだった。目がくぼみ、骨と皮だけの人々は、心の力も失って、日毎に豊かさを増す春の恵みも、ただ恨めしさと惨めさを募らせる存在に過ぎなかった。あるよく晴れた日、塩原さんは屋外の建設現場にかり出されていた。朝から、手押し車でレンガを運び、重いツルハシを振り上げて打ち下ろす単調な作業が続けられていた。日は高く昇り、強くなった陽光の下で塩原さんは額の汗をぬぐった。少しまえのシベリアの酷寒は嘘のようで、すっかり変貌したシベリアの大地のもう一つの姿が見渡す限り広がっている。

汗は脇の下まで伝わり、塩原さんはシャツを脱いで上半身裸になった。そこには、27歳の日本の若者の姿があった。無残にやせこけたとはいえ、鍛えられたがっしりとした骨格の上に残った肩の筋肉の上に滲んだ汗が光っていた。

 塩原さんは建物の陰で、ポケットから古くなった日本新聞の切れ端を取り出し、その上に、ロシア人からもらったマホルカという煙草の粉をのせて巻き煙草をつくっていると、少し離れた所を一人のロシア娘が歩いている。塩原さんはそれに、ちらっと目をやったが、格別の関心は湧かない。それは彼の視野の中の、一つの家や一本の樹木と同じなのだ。

 その時、おやっと思った。こちらに近づいてくるようだ。距離が縮み、塩原さんの視線は、ほっそりとした美しいロシア娘をはっきりととらえていた。ロシア人には美人が多い。しかし、普段は、そのようなことは塩原さんにとってまったく無縁のことであった。

 絶望の淵に放り込まれ、極度の栄養失調で体の精気も消え失せ、人間の欲望もただ生きることと、帰国することだけになって、今や、それさえも次第に薄れてゆく状態であった。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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