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2007年12月 8日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(50)第2章 塩原眞資さんのシベリア

 特に初年兵は徹底的にしごかれた。このような階級制度に伴う残酷な習慣が、シベリア抑留のはじめ、収容所内に持ち込まれたことが、収容所の生活を一層過酷なものとし、また、民主運動を異常に発展させる一因になったと考えられる。
階級の一番下の者は虐待されるだけでなく厳しい仕事をより多く押し付けられた。初めての冬を越せないで多くの死者が出たが、その中には、このような旧軍隊における最下層に属する人が多かったという。
作曲家の米山正夫は、コムソリスクの収容所に収容されていた人であるが、次のように証言している。
「収容所では、最初のうち、軍隊の厳しい階級制度がありました。その方がソ連も管理しやすかったのでしょう。私は一兵卒ですから、また、こき使われ、ピンタされる毎日でした。私の友人は、栄養失調の上に、上官にこづきまわされ、殴られたあげく、オレはソ連兵にではなく、日本人によって殺された、と絶叫して死んでゆきました」また、ハバロフスクの収容所にいた歌手の三波春夫は、次のように語る。
「将校当番となった私は朝から晩まで将校の下着の洗濯や食事の世話をしていました。将校の中にサルマタまで洗わせる者がいて、日頃から不快に思っていましたが、ついにある時、耐えられず、激しく抗議しました。当時はまだ、旧軍隊の階級章もそのままで、兵隊と将校の間には、軍隊当時そのままの厳しい階級制度が残っていて、上官の命令は絶対でしたから、私と将校の口論は、収容所内の注目の的となりました」このような不合理な階級制度は、当然ながら、民主運動の攻撃の対象とされ、そして部下を虐待した上官は吊るし上げの対象になった。
 民主運動の指導者については、ほとんどの証言者が、助け合うべき同胞でありながらソ連の側に立って日本人収容者を苦しめたと非難する。激しい吊るし上げの対象となった人の恨みや心ならずも攻撃する立場に立った人々の深い心の傷を思えばそれは当然といえる。しかし、若い日本人抑留者の中には、真面目にソ連の思想を信じ、日本の旧体制を批判しようとして民主運動に打ち込んだものも多かった。戦前から天皇制や日本の軍国主義に反対の人は多く存在したわけであるから、抑留者の中にも、そのような人は当然いたであろう。そして、その中からアクチーヴが生まれるのも自然のことといえよう。
例えば、日本新聞編集長の浅原正基のような人物である。このようなインテリ層に属する人たちが抑留者の中には、少なからず存在した。しかし、このような人たちとは別に、収容所の中で目覚めてアクチーヴを目指した者も多かった。
もとより、日本の旧体制は批判されるべき問題点を抱えていたわけであるが、それが惨めな結果に終わった以上、批判が噴出するのは当然といえる。しかし、日本を批判する運動がソ連の権力をバックにして強制収容所の中で展開されたことは、ほとんどの日本人抑留者にとって許しがたいことであったに違いない。民主運動に打ち込めば帰国できると盲信したための集団ヒステリーともいえる狂態がいたる所でくり広げられ、その渦の中で吊るし上げられ、村八分にされた人の苦痛と恨みは想像を絶するものであろう。耐えられずに建築中の建物の四階から「天皇陛下万歳」と叫んで投身自殺をした者もいた。この人の心中には、自分を責めたアクチーヴやそれに迎合した人々に対する抑えがたい復讐の炎が燃えていたに違いない。
☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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