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2007年11月30日 (金)

「福岡県の調査の2日目。女子大改革」(29日)

◇県立女子大学の存在は、全国でもそんなに多くはないだろう。群馬県は、県立女子大をもつから、福岡県立女子大学を調査することで、参考にすべきことが得られると期待された。少子化が進む中で、これからは全ての大学が試練の時を迎える。県立女子大学も改革を迫られているのだ。福岡県立女子大学は、その改革の一つとして法人化を行った。

 群馬県立女子大学は法人化していないから、県組織の一部である。法人化(独立行政法人化)を行うと、大学は独自判断で組織編成したり、重点的に資源を投入するなど大学の創意工夫を生かした運営が可能になり、また、権限と責任が明確になり、変化に応じた迅速柔軟な意思決定が可能になるという。私は、大学の運営に関しては、かねてから学問の自由、大学の自治という観点からの問題意識をもっていたので、独自な質問をした。とにかく、この「独立行政法人化」については、いろいろな問題点がある。群馬の県立女子大を法人化するか否かも、大学改革の一環として改めて研究すべきだと考えた。

 この調査には県立女子大の事務局長が同行しており、この人から、大連の大学との連携を進めて欲しいと言われた。10月に、中国を訪問した折、大連外国語学院は、県立女子大と交流したいと意欲を示した。帰国後、私が事情を説明すると県立女子大も賛成し、学長は、県会議員が間に入って是非進めて欲しいと発言した。私は忙しさの余りまだ手をつけないでいたが、福岡の女子大を訪ねて、この問題の重要さに改めて気付いた。それは、大学の法人化も重要な論点だが、まず、大学の実態を、工夫によって活性化させることがより重要であり、国際化の時代の在り方として外国の大学との交流・連携を進めることには大きな意義があると考えるからである。群馬に帰って早速この問題に取り組もうと思う。

調査は、福岡市のごみ焼却施設の余熱を利用した屋内プールの運営などに及んだが、全ての調査が終わって、九州国立博物館を訪ねた。これは、京都、奈良、東京に次ぐ4番目の国立博物館として平成17年に開館したものである。館は、大宰府天満宮横の山の上にあるが、麓から壮大なエスカレーターが動いていてハイテクを駆使していることを感じさせる。

この博物館の主要なテーマは、アジアからの流れと古代の九州である。日本の先端技術を生かした巨大な画面の動画には度胆を抜かれた。阿蘇の大爆発、迫る火砕流の下を走る動物達、獲物に的を絞る縄文人の澄んだまなざしが印象的であった。館の一角に法隆寺の国宝百済観音像が立っていた。レプリカではあるが、私は、その静かな貴品に打たれてしばらく立ち尽くした。像は細い長身で微かな胸のふくらみを優しい線が刻んでいる。切れ長の目から流れる視線と口元にただよう微笑。私は天から降りた美しい女性を想像した。もう一度、時間をかけて見たいと思った博物館である。

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2007年11月29日 (木)

「決算行財政改革特別委で福岡市へ」(28日)

◇福岡県庁で県立病院改革を視察。羽田空港から約2時間弱で福岡空港に着く。福岡市は人口約140万人。福岡市の博多湾は古くから大陸との接点であった。遣唐使がここから出たし、蒙古の襲来を受け、秀吉の朝鮮出兵の拠点となったのも博多である。福岡市は、このような歴史的背景を持つ国際都市で地理的にも釜山やソウルが東京よりも近い。

 第一日目、福岡県議会訪問の目的は、行政改革の一環として行われた県立病院改革の調査である。出発前に私たちが注目した点は、巨額の累積赤字(後に、それは130億円と知る)を抱える県立病院の改革に大ナタをふるい、公設民営化に踏み切ったり、医師会や財団などへの経営移譲を断行した改革の事実である。群馬県も4つの県立病院を有し、約100億円の累積赤字を抱えている。学ぶことがあるに違いないと思ってこの調査を実現した。

 担当者の説明で次のような事実を知った。県立病院改革を進めたが累積赤字の解消は難しく、知事は行政改革審議会に諮問。そこで、「県立病院としての公的役割は希薄化しており、将来的にも特に県立病院でなければならない必然性は認められない」という答申が出され、これに従って県立病院移譲先検討委員会で検討がなされ経営移譲が行われた。その後の状況は、各病院とも年毎に、赤字が大幅に減少している。

 「なぜ、県立病院の時は赤字が累積し移譲後は改善しているのですか」と私は質問した。県立病院の時は働く人々は公務員なので、給与体系が赤字を生む原因だったというのが答えであったが、「親方日の丸的な経営感覚にも問題があったのでは」と、重ねて問うと、「事務長も一定期間でかわる人事行政の下では経営感覚も持てなかった」と担当者は答えた。

 福岡県には医学部を持つ大学が4つもあり、県内の医療を支える状況が非常に恵まれている。だから県立病院をなくしても県民の医療に支障はきたさないということが背景にあるので、群馬県の県立病院を直ちに同じように考えることは出来ない。しかし、100億近い赤字があることを知ったら群馬県民は、県が改革を怠っていると思うに違いない。私も度々追及している問題である。群馬でも県立病院改革検討委員会を立ち上げるべきだと思った。

◇こちら福岡では暴力団の抗争事件が大きな問題となっている。福岡県久留米市でまた二人の暴力団員が殺害されたのだ。暴力団同志の抗争で、半年間で7人が殺され今月だけでも4人が殺された。福岡市では27日暴力追放市民大会が開かれ、「社会秩序を破壊する暴力団は社会の敵。福岡市民は勇気と団結をもって暴力追放に取り組む」との大会宣言を採択、また、市長は、「暴力団追放には、市民、企業、行政、警察のスクラムが重要」と訴えた。群馬でも平成15年三俣町で起きた抗争事件は記憶に新しい。暴力の町にならないため市民と警察のスクラムの重要さを痛感した。

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2007年11月28日 (水)

「総理大臣就任祝賀・政経セミナー」(27日)

◇ぐんまアリーナで約5千人が集まった。中身の半分以上は金子泰造氏を紹介し励ます会であったから対立陣営とすれば気がかりなことであったろう。総理は来られず、かわりに登壇した貴代子夫人は、「この熱気を一番喜ぶのは主人です、持ち帰って伝えます」と挨拶した。谷垣禎一政調会長の講演は時局を簡潔に語っていた。いくつかのポイントを挙げる。①アメリカの政治家にねじれ国会のことを話したら、アメリカでは、つねにねじれている、日本もやっと普通の国になれたと言われた。二大政党になればねじれが普通になるということか。②小泉後の社会はイギリスのサッチャーの後と似ている。サッチャーは大改革によってイギリス病を克服したが、その後の選挙で大敗した。それは、改革のしわ寄せが弱い所に出て、それで労働党に負けたというのだ。小泉さんも改革を断行したが弱い所が改革からとり残された。そこで参院選に惨敗したというのだ。小泉改革によって格差が生じた。それは都市と地方の格差だ。これを是正しなければならないが、国の財政力には限りがあるから、財政が豊かな自治体と貧しい自治体の間を調整することによって貧しい自治体を救うことが必要だ。 ◇尾身、谷津、佐田、中曽根の各国会議員が挨拶したが、それぞれ市長選に触れて金子氏を応援すると誓った。大沢知事も前橋の市長選をよろしくと訴えた。  また大型の画面で福田首相、大沢知事、金子幹事長の対談の様子を十分間映したが金子幹事長は市長選に臨む決意を語り、福田さんも大沢さんも市長選の応援を語っていた。  最後に33人の県会議員が紹介され、金子泰造さんが代表して挨拶した。その中味は、この大会をもって幹事長を辞任する、それは市長選出馬のためだ、死力を尽くして戦い抜くというもの。このような大会の姿を振り返ると、前記の所では半分と言ったが、実はこの大会の8割は、金子さんの市長選に向けたものであったと言っても過言ではない。  これは、群馬の自民党が総理の誕生、大沢知事の実現そして、前橋市長の獲得を一体の戦いと位置づけていることを物語るものである。 ◇ぐんまアリーナから大胡町の改善センターへ。大沢知事の県政報告会である。大胡、宮城、粕川地区の人々が集まった。金子泰造氏を初め前橋出身の県議も参加。私は、自民党前橋支部長として挨拶した。この会場で知事選を戦った感慨にしたった。 ◇この日の最後の大切な仕事は、「理科の面白さを育てる会」である。今回は、健康科学大学(旧医療短大)が会場。初めて、7つの小学校の先生も参加した。群大工学部の生成のノウハウを生かした理科の実験を来年2月にこの大学の講義室で行う。長い道のりを経てここまでこぎつけたのだ。小学校の先生と小学生に参加してもらう。現場の先生の御意見を聞かせて頂いた。約2時間実りある会議が出来た。私は、とにかく、「実験」を実現したいと思った。その中から新たな道が発見されるに違いない。来年の課題である。 ☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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2007年11月27日 (火)

「緊急役員会・ご近所の葬儀」

◇12月の上旬に来年2月の目標に向けて芳賀地区の集会を開く。役員会(26日)はそのためである。市長選に向けて、「クリーン前橋作戦会議」が出来、私が代表になった経緯、そして、大沢知事の実現、福田総理の誕生などを説明し、これらが連動した大きな流れの中にあることを話した。この流れに沿って新しい前橋市長を作ろうではないかという声が上がった。この役員会の人々に、集会の案内約千枚が分けられた。懇親会の中で、ある人から、クリーン前橋とはどういう意味かと聞かれた。「政治は今汚れていると批判を受けています。それが政治不信の第一の原因です。だから信頼される政治を実現するためにクリーンな政治を目指すのです。『クリーン前橋』はクリーンな政治をやって風格のなる県都前橋を実現する旗印です」と説明した。

◇懇親会の最中に携帯の着信音が。出ると、柏倉町のOさんの興奮気味の声である。「でっけえのをとったよ」「何ですか」「イノシシだよ、すげえんだ、131キロもあった」Oさんは、狩猟免許(罠)を切らしてしまい、今年、苦労して再取得したのだ。柏倉町は旧宮城村の北部で、私がこどもの頃住んでいたところである。イノシシに畑を荒されて困っているのだとOさんはこぼしていた。Oさんの話によると、罠にかかったイノシシは荒れ狂ってすさまじいもので危険で近づけない、鉄砲で撃ち殺して肉にしたという。「そのうちみんなで食うべーと思う、ノリちゃんにも連絡するから来てくんな」と言った。私はユーモラスなイノシシの姿を想像して、やっこさんドジッタな、と苦笑した。イノシシの被害は県議会でも大きな問題になっている。

◇隣り組のおじいちゃんが97歳で亡くなった。私の家は組長である。夜、お線香を上げながらおじいちゃんを偲び、通夜と告別式のお手伝いについて話し合った。明治33年3月の生まれで、年が明けて3月になれば満98歳になる。91歳まで車を運転していた。最後の短い期間、施設と病院で過ごしたが認知症にかかっていなかった。このおじいちゃんには選挙でも大変お世話になった。白布を上げると、白い木彫りの仏像のようなお顔が現れた。私は手を合わせながら感謝し、そして人間の死を考えた。誰もが迎えなければならぬ人生の課題である。人にはそれぞれの死がある。静かに受け入れる死もあれば、死の恐怖に押し潰されるような死もある。仕事柄よく葬儀に出る。死を考えることは生を考えることだといつも思う。

◇フランスの大統領が、中国に「死刑執行の停止に向けた動きを強めて欲しい」と求めたと報じられた。中国の死刑執行は年間7、8千件にのぼるらしい。死刑は究極の刑である。その数はその国の文明の姿を物語る。世界の文明国の大勢は廃止に向かっている。文明国の中でアメリカと日本は存置国である。裁判員制度の実施が近づくなかで死刑が身近かな問題になってきた。

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2007年11月26日 (月)

「今日のふるさと塾は佐藤栄作だった」(25日)

 腹に力が入らなかった。まれにこういう事があるのである。昔学習塾をしているときもこういう経験をしたことがあった。教室の人々は、私の心のうちに気付いたであろうか。

 どんな話をしたか振り返ってみよう。佐藤政権が最も力を入れたことは沖縄返還である。佐藤は総理として沖縄を訪れた初めての人である。その時、彼は沖縄の人々に訴えた。「沖縄の祖国復帰が実現しない限り戦後は終わっていない」と。これは、佐藤の沖縄復帰にかける決意の表明であった。

 最大の課題は、核抜きでの復帰を実現することであった。日本は、憲法9条の下で、非核三原則(核をつくらず・持たず・持ち込ませず)を貫いている。だから核つきで返還を受ければ、日本国内に核をもつことになり、この原則が破られることになる。しかし、中国が核武装を進め、ベトナム戦争が激化する中で沖縄の米軍基地はその役割を果たさねばならないという事情があった。

 交渉の相手はジョンソン大統領、次いでニクソン大統領にかわる。佐藤は、日本国民は核に対しては特別の感情をもっていることと日米の友好関係の重要性を訴え、核抜きの返還要求を貫いた。実兄の岸信介は特使として下交渉に当たった。そして遂に核抜きの沖縄返還は実現した。戦争で失った領土を外交交渉によって取り戻すことは北方領土の例に見る通り極めて難しいことは歴史のしめすところである。

 次に佐藤政権が実現した外交の成果として日韓基本条約の締結を取り上げた。この条約に関しては、南北の分断を固定化するとか、日本を戦争に巻き込むことになるとかの理由で猛烈な反対運動が起き学生運動も全国的に展開された。大極的に見れば、地理的に最も近く、また日本が支配し侵略した国と国交を回復することは当然になすべきことで、日本の平和と安全にも役立つことであった。佐藤政権の時の国内問題として東大紛争にも触れた。これは、私も直接に関わった出来事であっただけに実態と真相を話したかったのである。廃墟のようになった安田講堂を見て佐藤栄作は呆然となったと言われる。林健太郎教授が長時間軟禁されながらも学生の要求を最後まで拒否して有名になった出来事もこの時のことであった。林先生は、その後東大総長となり退官後は参議院議員にもなった。余談になるが、私は林先生のゼミにいた縁で先生は、私の県議選出馬のとき前橋の県民会館に来て応援して下さった。東大紛争が沈静化すると共に日本の学生運動は下火になり、また経済の発展と共に日本の学生は無気力になっていくことも話した。佐藤栄作は高級料亭の宴席で崩れるように倒れ意識を失い死んだ。山田風太郎は、その著「人間臨終図巻」の中で、佐藤栄作の人生は極めて幸運に恵まれたもので、死に伴う恐怖からも免れたと書いている。この「ふるさと塾」に金子泰造さんが顔を出したので紹介した。人々は、生きた政治の資料として受け取ったようだ。

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2007年11月25日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(47)第2章 塩原眞資さんのシベリア

 なぜこのような運動が行われたのか。ソ連は60万人を超える日本人抑留者をシベリア開発のために労働力として使う目的とともに、これらの日本人を共産主義の支持者に変えて日本に帰し日本赤化(共産主義の国にすること)のために使うという目的を持っていた。民主運動は、表向きは、日本人活動家・アクチーヴの自主的な指導の下に行われたが、実際はソ連の強力な指導とバックアップの下で行われたのでる。
 民主運動が異常に発展した理由は、帰国の可否と結びついていたからである。少なくも一般には、そう信じられていたのである。反動とされた者は帰国を遅らされる、あるいは、永久に帰されないかもしれない。人々はそう信じた。民主運動に積極的に参加しないと反動と見られる。民主運動の推進者だと認めてもらって、帰国を早めてもらうためには、行動で示さねばならない。そのためには、隠れている反動分子を密告することが必要だ。多くの抑留者が帰国したい一心で、このように考えたのだ。そこで、心ならずも同胞を売り渡すことや友を裏切るようなことが行われた。そして、壇上に立たされた者に、拳を振り上げ、怒号を浴びせる行為が吊るし上げに参加した全員の熱狂の中で行われたのである。
 ある手記は、次のように書いている。
「吊るし上げがいかにばかばかしいものでも、消極的な態度をとったり、苦笑いしたりすることは危険である。目をつけられて後で問題にされるからだ。皆と同じように気狂いのような顔をして、怒鳴り、絶叫していなければならない。吊るし上げられないためには、吊るし上げの輪の中に進んで入り込まなければならない」
 次は、ある抑留経験者の証言の断片を材料にした私の筆による描写である。

 収容所の広場の一角に仮設の台が設けられ、この上で緊張で引きつった顔のアクチーヴがこれから始まる出来事の舞台設定のために動いている。たった今貼られた横断幕には、「我らの祖国ソ連同盟万歳」と大書されており、その下には、「反動を厳しく追及せよ」とか、「日本帝国主義の手先を糾弾せよ」とか書かれたビラがべたべたと貼られていた。今日は日曜日、合わせてソ連の何かの記念日で、こういう日には、特に盛大に「追及」の集会が行われるのが常であった。一つの建物の角から赤旗を振って労働歌を高唱する一団が現れた。続いて別の方向からも同じような集団が次々に現れる。先頭のリーダーの音頭に合わせて拳を突き上げてシュプレヒコールを上げる一団もあった。
 3月の上旬、厳冬のシベリアの暗い森の向うから朝日が近づいて、揺れ動く赤旗をいっそう赤く染めていた。今や数百人の人々が集っていた。いくつものグループの歌声や叫び声は、競い合うように高まってゆく。これから起こる出来事に対する不安と期待が人々の興奮をかきたてていた。足を合わせて大地を踏み鳴らし躍るように輪を描いて進む一団もある。人々の目は、次第に物につかれたような異様な光をおびていった。

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2007年11月24日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(46)第2章 塩原眞資さんのシベリア

日本新聞は、ハバロフスクで発行され、シベリアの各地の収容所で読まれた。この新聞の編集長は、“シベリアの天皇”として抑留者から恐れられた浅原元基であった。浅原は東大文学部社会学科の出身で、在学中から共産主義の学生運動に熱中していた男である。
 私(著者)が東京大学に在学したころも学生運動が盛んで、リーダーたちは、授業にもあまり出ず、アジ演説と看板書きと宣伝ビラの文章書きに、毎日没頭していた。だから、浅原元基の学生時代の姿が容易に想像できる。このような男が、共産主義思想とは対極にあって矛盾に満ちた軍隊に入れられ、その延長上にある強制収容所でソ連のバックのもと「民主運動」のリーダーの地位を得たのである。恐らく彼は、純粋な信念に従って行動したのかもしれない。しかし、多くの日本人抑留者は、この運動の中で、言葉では現せないほどの精神的苦痛を受けたのである。ちなみに、彼の日本新聞のペンネームは諸戸文夫である。これは、言うまでもなく、ソ連の政治家モロトフを意識したものである。
 この民主運動は、昭和23年ごろからシベリアのすべての収容所で激しくなり、特に昭和24年には狂乱状態にまで高まっていた。その嵐の中心がハバロフスクの収容所であった。
 塩原さんがいた第21分所で激しい民主運動が行われたことは、瀬島龍三の回想録からもうかがわれる。塩原さんが移動命令によって第21分所を出たのは昭和24年12月29日であるが、瀬島龍三がここに入ったのは、およそ4ヶ月後のことである。瀬島龍三は、初めて第21分所を見た時のことを次のように書いている。
「広い敷地の周りに有刺鉄線と板塀が張り巡らされ、塀の4隅にある監視塔にはマンドリン(連発銃)を持った監視兵が立っていた。営内の至るところに日本語の檄文が張られ、プラカードが散乱していた。最近まで日本人がいて激しい民主運動が行われた事実を物語っていた」
 塩原さんは、自分が出た後に元参謀の瀬島龍三が第21分所に入ってきたことはまったく知らなかったと驚きながら、本当に異常な民主運動が毎日朝夕続いたことを次のように語った。
<私が第21分所を出るころは、民主運動はますます高まっていました。他人の過去の経歴や素性をあばいて大衆の前に突き出し自分を売り込む者が多くなったのです。高い壇上に立たされ、大衆から怒号を浴びせられる人の姿を遠まきに見て、私は難しいことは分からないが、正気の沙汰ではないと思いました>
 参謀、憲兵、特務機関、警察など、日本の旧支配層に属した者が「反動分子」として吊るし上げられた。つまり「反動」とは、日本の軍国主義者のことであった。ところが運動が高まるにつれ、資本主義の思想を持つ者、ソ連の体制に反対する者まで広く吊るし上げの対象になった。
 

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2007年11月23日 (金)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(45)第2章 塩原眞資さんのシベリア

  収容所では、死者が出ることは、日常茶飯事で少しも珍しいことではないが、必ず解剖が行われたという。
塩原さんは、私とハバロフスクを訪ねた際、この解剖小屋の跡が分かれば、ぜひ線香をたむけて供養したいと言っていたが、その場所は、遂に分からなかった。
塩原さんの仕事は、建築現場の大工仕事であった。月日が経って、処刑されるかもしれないという恐怖は遠のいたが、懐かしい故郷はますます遠ざかってゆくように感じられた。

7 日本人同士が傷つけあう「民主運動」の嵐

ハバロフスクでは、いわゆる民主運動が盛んだった。これは、塩原さんが触れた
くないという出来事である。シベリア抑留経験者の誰もが、語りたがらないことであるが、この問題を避けたら、シベリア強制抑留の本質に近づくことはできない。ハバロフスク国立公文書館を訪ねた折に入手した「スターリン大元帥へ送る感謝文」を読んで、私はその感を一層強めたのである。
 塩原さんは語る。
<天皇制を口にした者や元警察官だった者などが、毎日大衆にとり巻かれ、高い壇上に立たされ、吊るし上げられ、やじられ、追求されるのです。これに同調しなければ無気力者となじられ、村八分にされ、食事も行動も一緒にできないのです。日本人同士の異国での、醜い闘いには本当に胸が痛みました>
「民主運動」という言葉が使われるが、それは、今日の私たちが一般に理解するものとは違う。共産主義のソ連が日本人抑留者に共産主義の思想を植え付けようとして指導したソ連の立場からの運動であることを断った上で、以下では、この言葉を使うことにする。
 塩原さんの入ソ以来3年あまりが過ぎていた。もっと長い人は多くいた。帰国が遠のくことへの不安と苛立ちが増すのに比例するように民主運動が日々高まってゆく。
<毎日労働歌が歌われ、赤旗が振られます。アクチーヴは壇上で演説をぶち、戦争反対、資本主義撲滅、マルクス・レーニン主義万歳と絶叫するのです。日本人捕虜向けの新聞もつくられ日本のことが載せられました。それには、日本の現状はひどい、今、帰っても地獄に行くようなものだ、今こそ奮起して社会主義の先頭に立って働くべきだ、などと書かれていました>
塩原さんの話にあるアクチーヴとは、民主運動の中心となる活動家のことで、捕虜仲間から選ばれ、ソ連の教育機関で一定の期間、教育された人たちである。新聞とは、民主運動の有力な手段として、抑留者を啓蒙する目的で発行される「日本新聞」のことである。

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2007年11月22日 (木)

「ソウルの出来事」

◇ソウル市内でタクシーを拾う。運転手はかなり高齢のがっしりとした体格の男で、人生の年輪を刻んだ顔は誰かに似ているなと思われた。昔の野球選手の金田や張本の名を出したら、韓国では張本の方が有名ですと言った。そしてこんな会話が交わされた。「日本語が上手ですね」「フフ、少しだけです。日本の国民学校に2年生まで行きました」

「やめたのは日本が敗戦の年ですか」「そうです1945年です」

 終戦の年をしっかりとおぼえているのは、それがこの人の人生にとっても重大な意味を持っているのであろうと想像した。思えば、ポツダム宣言を受諾し、ミズーリー号上で降伏文書にサインしたこの年まで、韓国は日本の一部だったのだ。運転手は、図らずもその歴史の生き証人であった。

 「日本は、韓国に随分迷惑をかけました。日本に対する感情はどうなのでしょう」「はい、悪くはないです。ただ、サッカーでは対抗意識が強いです」運転手の横顔が笑っていた。

 朝鮮半島は大昔から国際的な激しい争いの舞台だった。日本は新羅や高句麗と戦ったし、豊臣秀吉の朝鮮出兵もあった。近代に至って、日清、日露の戦争も朝鮮半島をめぐる日本と中国、ロシアの争いと深くかかわっていた。このようなことに思いをめぐらしているとタクシーは昌徳宮に着いた。

 世界遺産・昌徳宮は、秀吉の朝鮮出兵で焼かれた後に再建されたものである。長い歴史を物語るそのたたずまいは、輝くような近代的ビル群に囲まれて広がっている。私は、一人の女性ガイドの魅力にひかれて2時間余りをあっという間に過ごした。決して美人ではないその人は、細い身体に長い髪をたらし、こけた頬で、唇を突き出すように話す語り口には妙に説得力があった。20~30人の日本人の間から時々笑い声が起きていた。 昌徳宮は、1997年に世界遺産として登録された。国宝の仁政殿、宝物とされる宣政殿、そして、不老門、仁政門、進善門などと由来やエピソードが語られていくが、私が心をひかれたのは、むしろ、広大で起状に富んだ素晴らしい庭園だった。巨木と古木が茂る森は紅葉が盛りであった。踏みしめるモミジの下には昨夜の雪があった。まわりの木々を映す池には夕陽がのびて水面を淡く染め、ほとりに立つ古い建物と共に長い歴史の眠りから醒めて私たちを迎えているようであった。

 ガイドの説明が耳に入る。「昌徳宮が世界遺産として高く評価されたのは、まわりの自然と建物の見事な調和の故でございます」なるほどと思った。

 この日は、北の侵略を示す第3トンネルと昌徳宮を見た。両者を見て感じることは世界遺産も平和でなければ存続できないということである。北朝鮮は地球上に残された唯一の恐怖国家であり、歴史的遺物となりつつある。21日帰国した。

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2007年11月21日 (水)

「韓国ソウルを訪ね、北の脅咸第3トンネルを見る」

◇ソウルの夜は初雪で私たちを迎えた。思いたって2、3人の友人と短期の韓国旅行を実行した。19日の夜ロッテホテルに着く。食事に外に出ると小雨からみぞれになりやがて雪になった。初雪だそうだ。市街のビルは至るところ青いイルミネーションで飾られ、雪の中で幻想的な光景をつくり出していた。

 20日、ホテルの車を借りて非武装地帯に向けて出発。韓国の発展は目覚ましい。来る度に躍進する新しい姿を見る思いがする。南大門が近代的ビル群の中でここは歴史のまちだぞと訴えているようだ。車は漢江の流れに沿って北上する。まぶしい程の陽光が水面に躍る。流れを目でたどると冠雪の山々に至る。道路には雪が残り、側壁にはところどころ車が突き当たった跡が目についた。運転手はピヨンさんという紳士で、韓国の事情について語ってくれた。その中に韓国は大変な学歴社会なので良い大学を目指して小学生の時から皆塾に通うという話があった。教育費に金がかかるので子どもの数は少なく出生率は日本より低いという。彼は、北朝鮮の経済の遅れについても語った。前方の白い山が近づいていた。途中で下車し、パスポートを示してチケットを買い専用のバスに乗る。検問所では機関銃を持った兵士が乗り込んで点検するものものしさである。

 地下トンネルは、北朝鮮が南に侵入するために岩盤をくり貫いてつくったもの。これまで第4まで発見されている。第3トンネルは、1978年に発見された。ソウルまでの距離がわずか52kmの所までのびていた。長さ1635m・幅2m・高さ2mで、これは完全武装した兵士3万人が1時間以内で移動できる規模だという。急角度のトンネルは途中までは観光客に見せるために整備されていた。その先はごつごつの堅い岩面が突き出した水平の穴が続く。黒く光る岩面、地底の空間の重圧感に北朝鮮の狂気がこめられていると感じた。ソウルのまちの輝く光景とこのトンネルの先の人々の実態とのアンバランスは何としたことか。トンネルは時代錯誤と狂った暴政の象徴である。拉致、航空機爆破、麻薬、偽札等何でもありの犯罪国家がアメリカを協議のテーブルにつかせ、あたかも対等な国家と認められたかの感を世界に与えようとしている。アメリカはイラクに足を取られる中で更に大きな誤りを犯そうとしている。トンネルの行き詰まりの壁を前に私はそう思った。

◇都羅山駅を訪ねた。非武装地帯限界線から700m南につくられた国際駅。’00年の南北共同宣言に基づいて地雷が撤去され都羅山駅は新設された。そして、’03年、南北の軍事境界線において鉄道の軌道が連結された。ソウル駅から56km、北朝鮮の開城駅まで17km、平壌駅まで205kmである。「南の終着駅ではなく北へ行く始発駅です」とあった。金大中元大統領とブッシュ大統領が訪れた時の大きな写真と演説台が展示されていた。民族の悲願はいつ実るのか。

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2007年11月20日 (火)

「靖國神社を訪ねて」

P1010030 ◇大型バス2台で後援会の旅行をした折、靖國神社に立ち寄った(18日)。午後4時、深い森の巨木の陰には夕闇が迫りつつあった。門を入ると見上げる位置に大村益次郎(村田蔵六)の銅像が立っている。不適な面魂が夕陽に浮いている。長州出身で近代的軍隊の基礎を作り日本陸軍の父といわれた男だ。長州は幕末の馬関戦争で西洋の近代兵器の威力を痛い程見せつけられた。長州人大村の悲願が伝わってくる。そしてここに大村の像が立つ意味もうなずける。遊就館を約一時間で速や足で見た。私は靖國を見るのは初めてである。A級戦犯の合祀とか戦争の美化とか神社に対する批判はあるが、そこには、極めて密度の高い日本の歴史、とくに近代日本の歴史と悲劇が集められていることは事実である。アジアが欧米の侵略にさらされた中で開国した明治政府が必死で富国強兵に取り組んだ様が陳列物から伝わる。太平洋戦争突入の判断の是非は別にして極限下の国民の苦しみ、命を捨てた若い兵士の姿には胸が熱くなる。人間魚雷「回天」の実物があった。10mもある黒い魚雷の尾部にはスクリューがあり、中心の上部には小さな潜望鏡が立ち、その側に人がやっと入れる程の蓋があった。

ふたの取手に力を入れるとカタカタと鳴って微かに動いた。狭い窒息しそうな空間に閉じ込められた兵士が爆弾と一体となって敵艦めがけて海底を行く姿を想像して胸がつまった。

◇新型インフルエンザの恐怖がせまる。今年の冬は新型インフルエンザ発生の可能性が高いという説がある。私は最近の決算特別委員会で新型インフルエンザについて職員はどの位危機意識を持っているかときいたが、あまり深刻に受け止めていない様だ。それでいて、いつ発生してもおかしくないとも言っているのだから変である。私の周辺には、「宇宙から未知の微生物が侵入して大惨事をひき起こすSF小説のように怖い」と言っている人がいる。正にその通りである。新型インフルエンザウイルスは、突然変異によってこの世に現れる微生物であるから宇宙から侵入する微生物と同様だといえる。新型インフルエンザが人に感染し、人の中で変異して人から人に感染するようになったもの。誰にも免疫がないから大変な被害が発生する。

 かつて、第一次世界大戦の中で発生したスペインかぜがこの新型インフルエンザで、世界で2千万人の死者が出た。そしてこの時、我が国でも39万人の死者が出たのである。一度新型が発生すれば大変な事態になることが分かる。そろそろ危ないといわれる 兆候が報じられている。アメリカでは、鳥インフルエンザのDNAを調べたところかつて流行したスペインかぜのものとよく似ており人口の半分、7千3百万人分のワクチンを備蓄する。また、昨年の冬ヨーロッパ各国で広がった鳥インフルエンザに感染した渡り鳥がシベリアに戻り、これらと接触した野鳥が今年の冬日本へ渡ってくるという。アンテナを高くして備えをしなければならない。

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2007年11月19日 (月)

「松くい虫の威力に驚く」

◇赤城南面を走って景観の変化に驚いた。かつて緑したたる森であったところが見渡すかぎりの空間になって明るい光が降り注いでいる。松くい虫だ。枯れて切り倒された松は、積まれてビニールに包まれている。ビニールの山がいたる所にあって、まるで死体が置かれているように見える。ビニールで密閉するのは、松の中の外に出さないためというが、素人(しろうと)の私には、無益な男力のように思える。県当局は他の苗を植えて樹種の転換を図るといっている。松くい虫が山の環境を一変させつつあるのだ。

 旧宮城村の小学校の同級生Y君が、虫に侵された伐木を燃料として利用したいという。彼は、そのためのかまを既に考案した。目的は飼料をつくるのだという。県の担当課に相談したら、他の業者も燃料にするので入手したいと申し込んでいるという。原油が高騰したことの影響がこんなところにも及んでいることに驚かされる。

◇次のような賞状が届けられた。

 賞状

第二回マニフェスト大賞

マニフェスト大賞ノミネート

     群馬県議会 中村紀雄殿

あなたの取り組みは第二回マニフェスト大賞審査委員会において地方議会のベスト・

プラクティスに資する評価を得られました依って茲にその栄誉をたたえ之を賞します

これからも更なる政策提言の向上につながることを期待しております

      平成十九年十一月九日

         マニフェスト大賞審査委員会

              委員長 北川正恭 印

というもの。11月9日、六本木ヒルズで授賞式があった。全国から多くの応募があり、大賞にノミネートされたのは5つであった。当日その中の一つがグランプリに決まった。私のマニフェストはグランプリにはならなかったのである。新聞で報道されたが、はっきりとした書き方がなされなかったためか、「当ったのか外れたのか」ときく人がいた。

この賞状から分かることは、「マニフェスト大賞ノミネート」として受賞したということである。

 なお、経緯をつけ加える。「あなたの取り組み」とは、4月の県議選に際し、私がマニフェストに掲げた暴力団員を県営住宅から排除することを目的とした条例改正のこと。そして、「案文」は私がつくり6月議会に提出し可決され条例改正の公約は実現した。提案は議会のルールに従って、金子泰造、南波和憲、真下誠治の各氏との共同提案とした。

 私が受賞した形となったことが県議会の受賞という意味がある。提案に至る過程で執行部は腰が引けていたし、小寺前知事との対立の構図の中でその態度は冷ややかで非協力的であったと思う。県議会の「決断」が市町村の公営住宅に関する条例に波及しつつある。二元代表制の下で地方議会がその特色と役割を発揮することが求められ全国でその動きが加速している。ヒルズの授賞式でこのことを強く感じた。

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2007年11月18日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(44)第2章 塩原眞資さんのシベリア

   女性の裁判長は、次のように刑を言い渡した。

― 帝国主義日本の大本営参謀として日本の資本主義政策を援助した。よってロシア共和国刑法第58条の4項・資本主義援助罪により重労働25年に処す。

― 入ソして日本帝国主義のための情報収集に当たった。よって、ロシア共和国刑法第58条の6項・情報収集の罪により重労働25年に処す。

合わせて50年の重労働かと思っていると、女性裁判長は

   ― ソ連邦国家の人道的配慮により、結論として重労働25年に処す。

  と宣告した。

 ハバロフスクの各分所には、元参謀職のような重要な職務以外の任務にあったものも、15年とか10年といった刑を受けている者が多数収容されていた。だから、いろいろなところから不気味な情報がもたらされていたのだ。

 平成16年に塩原さんとハバロフスク各収容所跡を回った中で、第45特別収容跡といわれる所があった。そこは、ハバロフスク市の中心近くにあり、車の往来の激しい大通りに面した建物で、現在は病院として使われている。ここには当時、元満州国皇帝の溥儀、その弟溥傑も収容されていたという。

 第21分所に入れられてから、塩原さんは不安で夜もろくろく眠れない日が続いた。

 そんな状態が続いたある日、塩原さんは呼び出され、収容所内の広い空き地の背の高い草に囲まれた小さな掘っ立て小屋に入るよう命令された。目的は知らされていない。小さな戸を開けて一歩踏み込んだとたん、塩原さんは異様な光景を目にして、思わず息をのみ、立ち尽くした。小屋の中央の台の上には胸から下へ切り裂かれた死体、その脇には、ぐにゃぐにゃと盛り上がった内臓の山があった。頭蓋骨は外され頭部の横に置かれている。窓から斜めに差し込む陽光が凄惨な場面を色濃く浮き上がらせていた。光の輪の端には、どす黒い血のりがあり、その中にいくつかの肉片が漂っている。そして、生ぬるい異臭が血や肉を溶かして立ち昇る濃い気体となって狭い空間にゆらゆらと立ち込めているようであった。

 解剖台の側に、一人のソ連の軍医が血で真っ赤に染まった手袋をゆっくりと外していた。軍医は壁のゴム手袋を指し、それで内臓を元の腹に納め、下の土間を掃除するよう、手真似で命令し、小屋から出て行った。

 塩原さんは、意を決して内臓を腹に納め、肉片を拾って、これも腹に押し込んだ。頬がこけ、目がくぼんだ死体の顔の表情は、精も根も尽き果たして逃げ出した魂の抜け殻のようであった。しかし、塩原さんの目には、骨に仮面を被せたような顔、そして切り刻まれた肉片や内臓までが故国に帰りたいと叫んでいるように見えた。そして、日本人捕虜が、死んだ後も、動物の死体のように粗末に扱われることに強い怒りを覚えると同時に、明日は自分がこのようになるかもしれないと考えて愕然とした。

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2007年11月17日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(43)第2章 塩原眞資さんのシベリア

6 ハバロフスクへ移され、帰国遠のく

昭和23年5月、突然収容所からの移動を命じられ列車に乗せられた。着いた所は、シベリアの大都市といわれたハバロフスクの郊外であった。ハバロフスクは、17世紀半ば開拓者ハバロフがこの地に足を踏み入れた時からスタートした。町の名も彼の名に由来する。コムソムリスクと同じように大河アムールに面しているが、コムソリスクよりも数百キロメートル上流に位置する。
ハバロフスクは、シベリア鉄道の要衝であり、また、強制抑留のシンボル的な存在であった。多くの日本人抑留者は、ここを通って各地の収容所へ送られた。塩原さんたちのころは人口30万人くらいであったが、21世紀の今日、70万人を超える大都市となっている。
塩原さんが入れられた所は、日本人捕虜収容所第21分所であった。ここは、ハバロフスク市の南郊にあり、ウラジオストクに通じる通称スターリン街道の近くにあった。
塩原さんが着いたあたりは、都市の中心から離れていたが、コムソリスクのような殺風景ではなく、煉瓦造りの近代的な建物があちこちに見られた。収容所の建物もバラックではなく、ブロックと煉瓦で造られていた。
平成16年7月、塩原さんとこのあたりを訪ねたが、収容所の建物はなく、案内の人は、草が生えた広い空き地の一角を指し、ここに21分所があったと教えた。「スターリン街道」は車が激しく行き来し、話に聞いた50数年前を想像すると、まさに隔世の感があった。塩原さんは収容所の跡地に立って、車の流れを見て呆然としていた。塩原さんの胸には半世紀前、初めてここに立たされた時の絶望感が甦っていた。第21分所が通常の収容所と異なって大変なところだということが、間もなく分かる。ここには、旧日本軍の憲兵、将校、特務機関兵、あるいは元警察官や塩原さんのように暗号書を扱った無線通信所長など、軍の機密に関係した者が集められていた。
嫌な噂や憶測が耳に入る。この収容所に入れられた者は、戦争犯罪人として絞首刑か銃殺か、無期懲役になるというのだ。塩原さんは寝台に座り目を閉じた。「兄さん早く帰って」と言ってきた妹の姿、陰膳を据えて帰りを待つ父母の顔が浮かぶ。懐かしい古里の姿がどんどん遠ざかってゆくように思えた。
ハバロフスクは極東の中心都市であり、政治的にも重要な中枢であったから、政府の重要な機関や裁判所もあった。旧日本軍で重要な職務についていた多くの日本人は、ここの裁判所で形ばかりの裁判を受け、懲役25年、15年、10年、と宣告されていた。
元日本軍参謀の瀬島龍三氏は、重労働25年の刑を科された。この人は、いくつもの分所を転々とさせられ、塩原さんのいた第21分所にもいたことのある人である。その回想録には、刑宣告のときの様子が描かれている。

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2007年11月16日 (金)

「笹川会長も出席して密度の高い一日だった」(15日)

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◇市議団との会議は担当者のうっかりで朝食抜き。市長選に備えたマニフェストがほぼ完成した事も報告された。先日のマニフェスト大賞の授賞式でこんなことが報告された。「意外なことに都会より地方の選挙の方がマニフェストを基準に投票する人が多い」というのだ。また、その会場でNTTデータの社長は「政治は見えづらい」、だからマニフェストによって見えるようにする事が必要だと話した。選挙が変わりつつある。これからは、情実や縁故によって投票する率が次第に少なくなるだろう。それが民主主義の進歩である。市長選もこのことを意識しなければ勝てないと思う。

◇常任役員会と県議団総会が相次いで開かれ、いずれにも笹川県連会長が出席した。主な議題は金子幹事長の辞任の件、アリーナの総理誕生祝賀会の件、及び、その他であった。金子幹事長は「祝賀会」を最後の務めとして辞める。残任期間の4ヶ月は南波総務会長が幹事長代行に着く。

 福田康夫総理大臣就任祝賀会は11月27日(火)午後3時から群馬アリーナで行われる。福田総理は来られないだろう。そのときは貴代子夫人が出席する。また自民党本部政調会長谷垣禎一氏が挨拶する予定だ。パーティ券も予定通りさばけたようだ。

 その他のことで私が発言した。先日、尾身代議士、松沢前県議、金子幹事長、そして私で会合し、自民党のため、市長選のため心を一つにして協力しあうことを合意したことに触れ、この流れの中で、尾身代議士は来年の市長選では金子氏を応援することになったと説明した。

◇8日間にわたった決算・行財政革特別委員会が遂に終わった。この日は最後の日で総括質問であった。自民党の真下副委員長を初めとして、フォーラム群馬、スクラム群馬、民主党改革クラブ、公明党と、8人が質問に立った。

 大沢知事も出席し真剣に答えていた。質問が終わり、採決となり、18年度の決算については全て認定すべきものと議決された。「認定すべき」とは、この委員会の結論に基づいて本会議で認定の決議がなされるからである。知事は最後に立って、この委員会の意見を真摯に受け止めて、効果的で効率的な県政、そして開かれた県政の現実に全庁あげて取り組みたいと発言した。

 議会の役割は、よくチェック機能だといわれる。チェックとは、くいとめるとか阻止することを意味する。つまり、行政の問題点を指摘して改めさせることである。その意では、決算特別委員会の役割は正にチェック機能を果たすことにある。終わって十分に役割を果たせたかという感が残る。しかし、議会の役割はこれだけではない。政策を提言することもその一つで今後はますます重要な役割になるだろう。その重要な手段が条例の制定である。私が関わった、暴力団員を排除するための県営住宅に関する条例の改正は、この点で意義がある。

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2007年11月15日 (木)

「月から見た地球の姿。ある死刑囚の姿。」

Photo ◇月探査機「かぐや」は、「地球の入り」の映像をもたらした。「日の入り」、「月の入り」には親しんできたが、月の地平に沈む「地球の入り」を見られるとは驚きである。暗黒の宇宙を背景に青い地球があざやかに浮いている。改めて、地球が丸いこと、小さな星であることを実感する。「地球はどうして丸いの」「海の水はどうして落ちてしまわないの」。子供たちからこんな質問が飛び出しそうであるが、それがないのが現実ではないか。理科離れが深刻であるが、根底には、感動しない子どもたち、好奇心を持たない子どもたちの無数の姿がある。

 月までは約40万キロメートル、人類が初めて月に到着したのは1969年(昭和44年)のこと、私たちの目はテレビの画面にくぎづけになった。アームストロング船長は言った。「この一歩は小さいが人類にとっては偉大な躍進だ」と。かつて、コロンブスが新大陸を発見し大航海時代が始まったように、今や人類が宇宙に飛び出す時代が始まっている。月探査機「かぐや」の動きもその一環である。学校は子どもたちに宇宙の神秘を教えるべきであると思う。無感動な子どもたちの目を開かせる本物の教材は身近にある。理科離れは教育の無策に原因の一端があるに違いない。

 私たちは、「理科の面白さを育てる会」に取り組んでいる。仲間には群大工学部の教授たちもいる。子どもたちに理科の楽しさ面白さを伝えることを目的としているのだ。忍耐のいる道のりであったが、県民健康科学大学(旧医療短大)を借りて実験をすることを計画するところまで来た。

◇4人を殺し一審で死刑判決を受けた男が自ら控訴を取り下げたため死刑が確定した。犯行時の残虐非道な姿と、自分の命で罪を償うとして死刑を受け入れようとする姿、これが同一の人間であることを理解するのは容易ではない。

 弁護士に当てた手紙には、「あと何年、生きらわれるか不明ですが、死刑が確定することで真の自分を見つめなおす時間が訪れると思っています」、また、わが子について「5歳の誕生日まで同じ空気を吸うことは難しいかも知れません。最後の晩さんのつもりで、好物のコーヒーでも飲んでから逝きたい」等のことが書かれているらしい。その心境を理解することは私には出来ない。

 死刑について法律に次の定めがある。絞首して執行する。執行は法務大臣の命令による。法務大臣は判決確定の日から6ヶ月以内にこの命令をしなければならない。命令があると5日以内に執行する。この命令につき鳩山法相の発言が問題になっている。

 記憶に残るのは大久保清である。昭和48年死刑判決を受け控訴せず、昭和51年執行された。死刑執行の時、読経の後執行命令書を見せられるがまともに眼を走らせる死刑囚はまずいないらしい。また、執行室へ連れて行かれる時腰がぬけて歩けなくなる死刑囚が多いという。死刑制度を深く考える時だ。

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2007年11月14日 (水)

「ある日の六本木ヒルズの出来ごと」

◇2人の事務員とヒルズへ向った。私は始めての訪問なのだ。ホリエモンの事件で連日テレビで報じられた巨大なビルが頭に浮かぶ。日本の資本主義の象徴か、それともやがて消え失せる蜃気楼か、好奇心が先に立つ。地下鉄をおり地上に出ると目の前の空間を塞ぐ巨大な建物があり振り仰ぐと建物の先は天に突き刺さっているように見えた。「お父さんこれが六本木ヒルズよ」娘の小見ゆりが言うと、重田香織さんがにっこり笑ってうなずいた。

 マニフェスト大賞にノミネートされたので授賞式に出て下さいと案内が来ていた。49階の会場はほぼ満員で、多くのマスコミの人々が壇上にカメラの砲列を向けて開会に備えていた。

 来賓の挨拶で心をひかれるものがあった。森ビルの森社長は、地方が個性と役割を生かす時代だ、地方の議員は時代の変化を敏感に取り入れてリーダーシップを発揮すべきでマニフェストはそのために必要だと語った。

 また、NTTデータの山下社長は、生活者の視点が基本であり、そのために「みえるか」が重要なのだと話す。「みえるか」とは「見える化」であり、透明性のことを言っているのであろうか。また、政治は見えづらい、これをみえる化するのがマニフェストだ、ITはそのために役立つ、マニフェストの発展により日本の民主主義が更に発展することを願うと話した。(みえるかについては、こういう用語があるのか私は不明である)

◇ホームページ大賞、グッドアイデア賞、ベスト成果賞などいろいろあって、最後にマニフェスト大賞の発表である。5つがノミネートされていて、その中の一つがグランプリに選ばれる。これに選ばれたのはある地方議会の斬新な取り組みで私は残念ながら選にもれたが北沢正恭氏は講評の中で私のマニフェストにも触れ紙一重だったと評価した。

◇県営住宅から暴力団員を排除する条例は、10月1日に施行され、以来、徐々に効果を上げているようだ。新たに県営住宅に入る者については、暴力団員であることが判明した場合に入居を拒絶することが明確な法的根拠に基づいて可能になったのである。

 条例改正の動きが県内市町村に広がる見通しである。県内には38の自治体(市町村)があり、これらは、富士見村、昭和村、上野村を除いて公営住宅を有している。この公営住宅からも暴力団員を排除することが強く求められている。そのためには、これらの自治体の条例を県条例にならって改正する必要がある。その場合、県条例は、一つの大きな契機となりまた指針となる。県警本部は、各市町村に文書でその取り組みを要請していたが、更に、11月26日、公営住宅を持つ自治体の担当者に集ってもらい、条例の改正に向けての説明会を開く予定である。また、太田市、館林市、玉村町の議会では、この暮から来年にかけて条例の改正が実現することが予想される。安全安心な群馬県に向けて大きな歯車が回りだした。

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2007年11月13日 (火)

「鈴木貫太郎自伝の贈呈を喜ぶ」

◇先日、鈴木貫太郎をもっと知ろうと書いた。桃井小・前中で学び、海軍大将、侍従長、総理大臣を務めた。総理大臣に関しては、昭和天皇から他に人はいないから是非と頼まれて就任し、極めて困難な終戦を成し遂げた。私は前橋市立桃井小の碑文に注目してきた。「正直に腹を立てずにたゆまず励め」。小学生に優しく語りかけるこの言葉から幾多の激戦を生き抜いた軍人の姿を想像することは難しい。私は、この人こそ、現代の社会にも通用する、いや現代に於いて私たちが取り戻さねばならない、真の武士道を生きた人ではないかという思いを抱いてきた。今度、頂いた自伝を読んでその思いを強めたのである。 本は、私が尊敬する同志にして先輩の小野里章一さんが拙宅まで届けて下さった。平成9年出版の第一刷で、小野里さんは第一刷を集めることを重視され、この本も宝物のように大切にされてこられたらしい。 ◇鈴木貫太郎の父は千葉県と群馬県の両方から招かれていたが、群馬県の方が教育が進歩しており評判が高かったので断然子供の教育のためを思い、群馬県庁に奉職するために前橋に転居した。鈴木は小学生時代を次のように振り返る。父が県庁に出勤の際、彼も後ろについて学校へ向う、その時、父は言った。「人間は怒るものではないよ。怒るのは自分の根性がたりないからだ。短期は損気と言うことがある、怒ってすることは成功しない、皆自分の損になるばかりだよ」と。そして、この一言が自分の将来の修養の上でどんなに役に立ったか知れないと語る。他藩からの転校生としてよそ者扱いされ辛い目にもあったが父の戒めを守って忍耐して皆と仲良しになった。後になっても前橋の友たちが一番懐かしくまたよく覚えていると振り返っている。 このような事情を知って改めて桃井小校庭の碑文を読むと鈴木貫太郎の熱い思いが伝わってくる。「正直に腹を立てずにたゆまず励め」。82年の人生を桃井小時代を原点にして生きたのだと思う。小野里さんは、この本を手渡しながら私も今年82歳になると言われた。夕刻にわざわざこの本を持参され熱く語る姿からは若い情熱を感じる。もっともっと頑張って欲しい。 ◇12日、文教警察常任委員会で、機動隊の爆発物やテロ対策の訓練及び警察学校を視察した。ビルとビルの間をロープにすがって渡る様子などを見た。警察学校では生徒たちが厳しい指導に耐えていた。全生徒と食堂で食事を共にした。「姿勢を正して頂きます」と一斉に大きな声をあげて食べ始める様子は頼もしく見えた。 ◇夜、警察本部及び教育委員会幹部と懇親会をした。会費は5千円。県営住宅から暴力団員を排除する条例が話題になった。太田市、伊勢崎市、高崎市でも、同様な市条例をつくる動きがあると聞いた。小寺県政の時は執行部と酒を飲む機会はなかった。とりまきがそうしたのだという声も聞かれた。有意義な一時であった。 ☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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2007年11月12日 (月)

「鳩山邦夫とはどんな人物なの?」

◇「鳩山」というブランドに対するイメージが最近いささか崩れた感がする。それは、法相鳩山邦夫の言動の故である。政治家鳩山と言う言葉に私たちは特殊なイメージを抱く。鳩山家は、近代日本の英才の家系とか日本のケネディ一族とか言われてきた。私の「ふるさと塾」では、今年8月、鳩山一郎を取り上げた。

 鳩山一郎は、吉田茂の次の首相であり、日ソ交渉を妥結させ日ソ国交回復を実現させた人物で鳩山邦夫の祖父である。邦夫の父は一郎の長男・威一郎で外相を務めた。また、邦夫の兄は民主党幹事長の由紀夫である。鳩山家が、英才の家系といわれるのは、曽祖父、つまり鳩山一郎の父親はアメリカの一流大学を首席で卒業、一郎の弟・秀夫(邦夫の叔父)は天才といわれた東大教授、そして、一郎・威一郎・邦夫といずれも東大法学部を首席あるいはトップクラスで卒業しているからである。法相・鳩山邦夫の最近の言動からは、この鳩山の家系にも少し異状が生じているのかと首を傾(かし)げたくなるのだ。

 注目された発言は、死刑の執行に関するものとアルカイダに関するもの。死刑の執行に関することとは、死刑の確定判決を受けた者について死刑を執行するには法務大臣の署名が必要であるが、鳩山はこれを不要にすべきと発言したこと。鳩山法相の考えは、誰が法務大臣かによって死刑が執行されたり執行が先送りされたりするのはおかしいというもの。死刑は国家が人の命を奪うものだ。法律で認められているとはいえ、機械的に扱ってはならない。法相の署名を要することは、国家が悩みながら最後の決断を下すということであり、国家としての人道上の配慮だと思う。鳩山法相の発言は非常に軽率だと私は思う。

 アルカイダに関する発言とは、鳩山氏の友人の友人がアルカイダだというもの。テロの問題に世界中が神経をとがらせてその対策に取り組んでいる矢先である。しかも国会では、最大の課題であるテロ特措法が政局の焦点になっている時なのだ。10月29日の外人特派員協会の後演でバリ島爆弾テロ事件に関して次のように述べたという。「友人の友人がアルカイダである。バリ島の中心部は爆破するから近づかないようにアドバイスを受けた」と。02年10月12日バリ島で起きた爆弾テロでは、繁華街で自動車爆弾が爆発、多くの建物が吹き飛んで炎上し外国人観光客を含めた202人が死亡した。世界有数の観光地で発生したテロは世界に衝撃を与えた。法相としてあきれる程軽率な発言であるし、聞き捨てに出来ない発言だと思う。国民新党亀井静馨氏は、「警察庁は法相から事情聴取をしていないのはおかしい。国家公安委員長は何をやっているのか。放っておくのはふまじめすぎる」と発言した。また、町村官房長官は、「日本の法務大臣がテロリストを知っているという誤った印象を与える発言は遺憾」と注意した。

◇鳩山邦夫は、兄由紀夫らと民主党を結成したが、その後離党し都知事選に出て落選した。その後、東京の選挙区から福岡の選挙区に選挙区をかえたが、それは、母方の祖父でブリヂストンの創業者である石橋正二郎が福岡県久留米市の出身であるという縁による。鳩山兄弟が本物であるかどうかを見守りたい。

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2007年11月11日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(42)第2章 塩原眞資さんのシベリア

   今日もくれゆく異国の丘で、

友よ、つらかろ切なかろ

がまんだ待ってろ、嵐がすぎりゃ

帰る日も来る春も来る

この歌はやがて、シベリア中の収容所で歌われたという。

孤独を救うのに貴重な存在は同郷の人である。コムソムリスクには、いつかの分所があり、時々移動させられる。ある時、塩原さんは上州の生まれ故郷の隣村の人に出会った。上細井村の岡庭武治さんだ。地獄に仏とはこのことで、お互い抱き合って喜び、二人はいつも故郷の家族のこと、食べ物のこと、少年時代の思い出などを語り合っていた。

昭和22年ころになると、帰国を許される者があちこちで出ていた。収容所の中で帰国者が出ることは、帰国だけが唯一の生きがいである人々に、いつかは自分も帰国できるという望みを与えた。しかし同時に、人々は一足先に帰る人に対して限りない羨望を抱き、取り残される淋しさに苦しんだ。

帰国は、突然に言い渡され、急いで身の回りの物を用意して収容所を出ることになっていた。収容所内に与える影響とか他の収容者からその家族へ何かを依頼される等の工作を防ぐ狙いであろう。

昭和22年の夏、塩原さんが作業から帰ってみると寝台の上に一枚の紙片が置いてあった。それには次のようにあった。

「塩原さん、急に帰れることになりました。会えないで行くのが残念です。体をくれぐれも大切に。岡庭」

塩原さんは、紙切れを手に、しばし呆然と立ち尽くしていた。嬉しさと同時に、地の底に引き込まれるような淋しさが胸に湧いた。同郷の友は心の支えだったのだ。また、恐ろしい冬を一人で迎えるのかと思うと身体の力が抜け、絶望感に押し潰されそうになるのであった。塩原さんの胸に、間絶望感の底から一つの不安が頭をもたげていた。

<俺の帰国はずっと遅くなるのではないか。もしかすると、俺はこのままシベリアの凍土に埋められるのではないか>という不安である。それは、満州の関東軍で通信隊の重要な職務についていたことが問題にされないかということである。満州にあって、憲兵、特高、警察官等の職務についたものは、皆、前歴を必死で隠し発覚することを恐れていた。このような者は、反動分子として批判され、帰国が遅らされると信じられていたからである。

このころ、シベリアの収容所全体に、塩原さんの不安をかき立てるような変化が起きていた。それは、いわゆる「民主運動」が昭和23年ごろから次第に激化してきたことである。共産主義の思想を受け入れない者は、祖国に帰すな、反動はやっつけろ、という声がますます高まって、満州時代通信業務の重要な地位にいた塩原さんは、いつ矛先が自分に向けられるかと怯えていたのであった。塩原さんの不安が現実化する時が間もなくやってくる。

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2007年11月10日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(41)第2章 塩原眞資さんのシベリア

妹の細井照枝さんは、兄の生存を知ったときの喜びを次のように振り返る。
<出征以来、消息不明だった兄が、シベリアに抑留され、生きていると知った時、父は神棚に、母は仏壇に灯明を上げ、家族は抱きあって喜び、足が地につかないようでした。私が徹夜で縫った兵隊服を着て出て行った兄の後ろ姿が思い出され、思わず涙がこぼれました>
 生と死の境で生き、しかも、狂おしいほどの望郷の念にかられている人々にとって、家族からの手紙がどんなに嬉しく、また励ましになったかは、私たちの想像をはるかに超えるものであろう。
 ある証言は、40度近い高熱でうなされる重病に陥ったとき、家族の手紙に救われたと述べている。
 この人は、病床で意識が朦朧となり、もう駄目かと諦めかけたとき、小さな手が伸びて、お父さん頑張ってと呼んでいる。その手にすがるようにして、川の向う岸に渡ろうとするのを踏み止って必死に意識を回復したという。
 この人は数日前、諦めていた妻からの手紙を受け取ったのだ。葉書の半分は妻の字で、残りの半分は3人の子どもの字であった。最後の一行は、「オトウサン、ハヤクカエッテネ」と、まだ字が書けない幼児が母に手を添えられて書いたことが分かる書き方であった。
 この人は、熱い涙が止めどなく流れ、むせび声を上げた。危篤の病床にあって、死の淵から引き返す生命力を与えたのは、この小さな手であった。
 日本人は、国民性として孤独に弱い性質を持つといえる。農耕民族として、島国で、同じ言葉を使って、狭い地域で仲良く暮らしてきたのが、戦前のほぼ共通の姿であった。
 このような環境で育った日本人が、異国の果ての、しかも、寒さと飢えと労働に耐えねばならない強制収容所に放り込まれたのだ。その中で、生きるためには徹底した自己主義にならざるを得ない。他人を助ける余裕などないのだから。しかし、それにもかかわらず、孤独を少しでも和らげることが生きる力を生むために必要であり、そのために、心を通わせる工夫がなされた。
 どこの収容所でも、歌がうたわれ、俳句をつくるグループがつくられたりした。
<狂おしいまでの望郷と不安と飢えに、あの頃は歌でもうたわなければ耐えられなかったのです。うたっている時は、過酷な現実を一時、忘れることができたのです>
 こう言って、塩原さんは、当時をしみじみと振り返った。軍歌や古里の歌がよくうたわれた。
 作詞家の増田幸治もシベリアの強制収容所にいたが、
「自分たちの心を奮い立たすには自分たち自身の歌がいい。自分たちの歌をつくろう。帰るまで、歌いながら頑張らねば」
ということで、作られたのが「異国の丘」であった。

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2007年11月 9日 (金)

「話題の男、小沢一郎とその周辺」

◇話題の人、小沢一郎は岩手県出身である。それにしても岩手県は政治家を多く出す。戦前からの総理大臣経験者を上げると、原敬、高橋是清、斉藤実、米内光政、東条英機、鈴木善幸がいる。また、著名な大臣経験者として椎名悦三郎や小沢佐重喜がいる。この小沢佐重喜の長男が小沢一郎である。小沢佐重喜は吉田内閣の運輸相や建設相を歴任。国会の乱闘で鼓膜を破られるなどの多くの武勇伝をもち、岸政権の時の安保特別委員長として抜き打ち強硬採決の立役者であった。小沢一郎が「豪腕」、「壊し屋」などといわれる政治家となった背景にはこのような父親の影響があるのかも知れない。

 小沢一郎は若い頃挫折を味わっている。東大に2年浪人し慶応に入った。また、司法試験にも失敗した。しかし、父の急死により後を継ぐべく衆院選に立候補し27歳で初当選する。この総選挙を幹事長として指揮した男が田中角栄であった。以後、小沢一郎は田中派に属し田中の薫陶を受ける。田中は小沢を息子のように可愛がったといわれる。小沢一郎は党・政治の要職を歴任、海部内閣の時は党幹事長に就任、企業から300億円の選挙資金を集め衆院選に勝利し剛腕と称された。

 その後の小沢一郎の政界での動きには驚くべきものがある。自民党を離党し細川内閣を成立させ細川辞任後は新進党を結成し幹事長に就任。新進党が分裂し解散すると次に自由党を結成し党首に就任した。2003年、自由党は民主党と合併し党名は民主党のままとなった。

 そして小沢は民主党代表選に立ち「生き残るためには民主党のみならず自分自身が変わらざるを得ない」と宣言し大差で菅直人を破り党代表に選出される。自分自身本当に変わったのかが今問われている。

 そして、いよいよ今年の7月29日の参院選を迎える。小沢は明言した。「野党で過半数をとれなかったら民主党代表を辞任し、次期衆院選に立候補せず政界を引退する」と。結果は民主党が大勝し参院で第1党となり野党全体でも過半数を得た。9月12日安倍首相は辞意を表明。9月25日の内閣総理大臣指名選挙で衆院選は福田康夫を、参議院は小沢一郎を指名し、結果として福田康夫が首相となった。

 ねじれ国会の現実である。衆議院は自民党が、そして、参議院は野党がそれぞれ過半数を占める。これでは重要法案が成立しない。当面の課題は新テロ特措法である。このような政治状況の中で大連立構想が浮上し、福田・小沢の会談となり、その結果が伝えられ大騒ぎとなった。一般に公表されるのは一部である。深い背景があるに違いない。奇奇怪怪である、小沢一郎は、連立問題で民主党内の反対を受け党首を辞任すると表明したが、間もなく辞意を撤回した。「何ともみっともない」と評する者もいる。小沢一郎が単なる「豪腕」「壊し屋」なのか、はたまた「日本最後の政治屋」なのか、それとも腹の据わった真の憂国の士なのか見つめていきたいものだ。私たちは熱い歴史が動くその時に立っているのである。

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2007年11月 8日 (木)

「鈴木貫太郎をもっと知ろう」

◇昨日の日記で鈴木貫太郎のことを書いたらもっと知りたいという声があった。前橋の桃井小、及び、前中(前橋高校の前身)で学んだ元総理ということであるが重要なのは日本の運命がかかった最も困難な時、総理として大変な役割を果たしたことである。「日本を救った」と評価する人もいるがうなずける。

 ポツダム宣言を受け入れるか否かをめぐる御前会議ほど切羽詰まったぎりぎりの深刻な感情がぶつかり合い凝縮した会議は後にも先にも存在しないだろう。藤田尚徳の「侍従長の回想」を読むとこのことが伝わってくる。鈴木貫太郎は昭和天皇から聖断を引き出し、このことによって紛糾する軍部政府部内の意見を無条件降伏一本に統一することが出来た。

 昭和16年東条内閣の下で始まった太平洋戦争はやがて行きづまり昭和19年には東条内閣はたおれ小磯内閣となるが戦局はますます悪化し小磯内閣も退陣を余儀なくされ、昭和20年4月鈴木内閣が成立する。鈴木貫太郎77歳の時であった。鈴木は初め就任を固辞したが昭和天皇は「この重大なときにあたって他に人はいない、頼むから曲げて承知してもらいたい」と言ったという。天皇に「頼む」と言われて総理になった人は鈴木のみである。

 昭和20年8月9日の深夜から始まった御前会議は紛糾して結論が出ない。10日午前2時頃、鈴木は言った「誠におそれ多いことでありますが、私が御前に出ておぼしめしを御うかがいし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと存じます」と。天皇はポツダム宣言即時受諾案に賛意を示した。前記の聖断を引き出したとはこのことである。

 鈴木貫太郎にはエピソードが多い。若い時は海軍で活躍した。私は平成17年8月議長としてアルゼンチンを訪ねた折、日本が日露戦争でアルゼンチンに助けられた話を聞いた。それは最新鋭の軍艦2隻をアルゼンチンが日本に売ってくれたため、それが日本海海戦で活躍し勝利に貢献したということである。この軍艦を発注先のイタリアから日本に運んだ軍人の中に若き日の鈴木貫太郎海軍中佐がいた。当時アルゼンチンはチリとの戦争に備えて強力な軍艦を建造したが紛争が回避されたため日本が譲り受けることが出来た。日進、春日が横須賀に入港したのは日本がロシアに宣戦布告した直後であった。鈴木は82歳まで生きたが、2・26事件では九死に一生を得ている。侍従長として叛乱軍に襲われ胸部頭部に弾丸を打ち込まれた。トドメの一発をうとうとした時、鈴木の妻がトドメは止めて下さいと叫んだため叛乱軍はそのまま去ったという。天が日本のために鈴木の一命を助けたのであろうか。

 鈴木貫太郎は、私心のない誠実な人物だった。それは母校桃井小の碑に刻んだ言葉「正直に腹を立てずにたゆまず励め」に現れている。これは現代の子どもたちに広く語りかけている言葉だ。そして、私の心にも新鮮にひびく。この碑文を桃井小の中だけにとどめておくはもったいないことである。

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2007年11月 7日 (水)

「産業経済部と県土整備部の決算審査」

◇午前9時半に始まった日本美容技術選手権大会の開会式を途中で抜け出して県庁に向う。車を走らせる利根川べりの道路は先日の県民マラソンの舞台である。スッス・ハッハと必死で走った姿が思い出された。少々遅れて203号室に入る。

 決算・行財政改革特別委員会の審査の最終日である。その中の、産業経済部に関する私の主な主張を紹介する。

◇まず、中小企業の物づくりについての発言である。「最近中国を訪ね、すごい勢いで発展する中国経済の実態を見た。日本の技術はすぐに吸い取られ中国のものになってしまう。日本の中小企業が生き残る道は、日本独自の技術、及び新たな高度の技術を発展させることである。群馬の産業政策は、このようなグローバルな視点で取り組まなければならない。県職員は中小企業を訪ねその実態を知ることから始めるべきである。」

 当局は企業訪問を行っていると答えたが、役人の仕事はなまぬるく感じられる。真っ先に訪ねるべきは時代の波に翻弄されて苦しむ零細企業だと思うが、どうも、そういう所へは十分に訪問がなされていないように思えてならない。

◇国際観光について観光課は広州をターゲットにしている。そこで次のような発言をした。

「私は最近大連を訪ねたが、日本と関係が深いことを改めて感じた。距離も近いし、日本語を話す人が非常に多い。私たちの訪中を機に大連の大学と県立女子大との提携も具体的に進み始めた。こういう状況を基に、大連なども国際観光のターゲットにすべきだ」

◇県土整備局関係では、他の委員の質問で県営住宅の家賃滞納額が5億3千万以上、滞納者は1,628名に達すること、この中に暴力団員はいないことなどが明らかにされた。私は暴力団員について次のように発言した。「暴力団員排除の条例が出来、明渡し事由として暴力団員であることが判明した場合というのが加わった。県警と交わした覚書に従って現在5名の暴力団員がいることが明らかにされたと聞く、どのように対応するのか」これに対して担当課長はこの問題については県警、学事法制課、建築住宅課、住宅供給公社等と連絡協議会をつくっており、ここで対応を話し合うと答えた。

◇自民党役員と群銀幹部との意見交換が行われた(6日)。私のテーブルには、頭取、幹事長、議長などが同席。世界経済の動行などを話す中で、楫取素彦や鈴木貫太郎の事も話題になった。「鈴木を入れれば5人の総理が群馬から出たことになる、この人は大きな役割を果たした人だからもっとPRすべきだ」というもの。桃井小を出て前中でも学んだ。桃井小の碑には「正直に腹を立てずにたゆまず励め」という彼の言葉が刻まれている。山田風太郎は、人間臨終図巻の81歳で死んだ人々のなかで取り上げ、78歳で首相となり日本を救った。自ら考えた戒名は「大勇院尽忠日貫居士」でこれほど的確に自分に「評定」を下した戒名は珍しいと語る。私は、金子さんに市長になったらこの人をもっと売り出してくれと頼んだ。

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2007年11月 6日 (火)

「全日本美容技術選手権大会の前夜祭」

◇第35回の大会が群馬県で開かれる。会場は総合スポーツセンター・「ぐんまアリーナ」で6日午前9時30分開会である。その前夜祭が5日、高崎の駅ビル、メトロポリタンで行われた。来賓として前財務相尾身幸次氏も出席。アリーナの大会には全国から数千人が集まる。県内のホテルもかなり潤うのではなかろうか。私は、美容業組合の顧問として大会実現に向けてお手伝いしてきた。

 美容業は、人間の容貌の大切な一部をつくる仕事である。髪型をどのようにするかは一人一人の人間にとって自己表現の重要な手段である。そう考えると、この仕事は技術だけではすまされない重要な職業ではなかろうか。大会が業界の発展に大いに寄与することを願っている。

◇和菓子の老舗(しにせ)・赤福が大変なことになっている。全国の和菓子業者はことの成り行きに重大な関心を寄せているに違いない。私は少年時代和菓子の製造にたずさわっており、現在、前橋菓子組合の顧問をしているので、「赤福」で問題になっていることは他人事ではないのである。それは、伝統の職業が今日的な規制とルールに従わねばならなくなったことの現われでもある。

 話がそれるが、私は手焼きせんべいを焼く技術をもっている。少年の頃、体でおぼえた手さばきのコツは一生離れないものだと思う。今から20年以上も前のことだが、三俣せんべいのおじさんがあるデパートの地下で手焼きせんべいを焼いていた。懐かしさの余り、頼んで焼かせてもらったことがある。左手のおさめ、右手の箸が少年の時のように動き、見ていた人が驚いていた。組合の会合の時、三俣せんべいの社長にこのことを話し、いつかまた前橋祭りなどで実演させて欲しいと話したら笑いながらいつでもどうぞと言っていた。

◇教育と警察関係の決算審査で取り上げられたいくつかの事について。

 教育委員会関係で、私は学力テストの結果の生かし方について次の点につき発言した。今回の全国テストは77億円もかけて実施した。テストの結果は宝の山だから有意義にいかすべきだ。学校の序列化につながるとして出来るだけ公表をしない方針だが、各校の出来不出来の特色などは父母などに知らせなければ授業の改善に生かすことが出来ない。また、群馬は総じて成績は良いというが「活用」の問題は良くない。その中で国語は特に重要なのでテストの結果を国語力向上のために大いに役立てるべきだ、等である。

◇警察本部関係では、安心安全なインターネット社会を建設するために警察は全力を尽くすべきことを発言した。違法な情報があふれ、子ども達に重大な悪影響を与えている。防止策の一つとしてフィルタリングソフトの知識を普及させることが重要だ。これは、有害な性情報などを子どもに見させないためのソフトである。警察はドコモなどの協力を求めて取り組んでいくと答えた。

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2007年11月 5日 (月)

「県民マラソン・10キロを56分で走る」(3日)

◇気温はやや寒いが走る好条件である。前夜は風呂に入りよくねた。朝食はバナナ1本と食パンを2分の1食べる。来賓控室に入ると大沢知事がいて、「10キロ走るのは根性ですね」と笑いながらいった。スタートラインの近くに陣取ってその時を待つ。9時40分いっせいに走り出した。多くの走者が後から後から私を追い越していくが毎年のことだから驚かない。準備して体調を整えた筈だが足が重い。バラ園の裏を回り北上して左折し再び利根川沿いの国体道路に出たがまだ調子が出ない。苦しい行軍になるなと腹を決めて走る。スッス、ハッハ。スッス、ハッハ。気づくと背中が曲がった白髪の老人が後ろから現れ、水をかき分けて泳ぐような格好で追い抜いて行く。その後ろ姿を見ながら頑張らなければと思う。周りの人の激しい息づかいが聞こえる。これだけ多くの人々が共通の目的に向かって一心不乱に全精力を傾けるというのがマラソンの特色だろう。スッス、ハッハ。スッス、ハッハ。時々、呼吸方法を変えてリズムをつかもうとする。ホイホイサッサ、ホイサッサ。大渡橋の下をくぐると県庁が見え、ゆるやかなカーブを曲がるとグリーンドームが目に入る。県庁舎に近づくとなぜかほっとする。自民党県連の手前から県庁構内に入り議会棟と庁舎の間を抜けて正門から大通りに出た。いよいよ折り返しである。ここは水の供給地点でもあった。手を伸ばして紙コップの水を一口飲んでコップを投げる。県庁の裏手に出ると、先ほど私が走った方向へ続々と走者が向かっている。それ程タイムは悪くないかもしれない、そんな思いが頭をよぎる。ホイホイサッサ。ホイホイサッサ。少しペースをあげてグリーンドームの横を必死で北上すると、あと2kmの看板が目に付いた。初めて完走の自信が湧く。そのとき、はっとするような美しいボディラインの若い女性が群集の間をすり抜けるように走っていった。春風のように見えた。泳ぐように走っていた老人はどうしたか。

よし、おれも最後の力を出そう。そう思ったとき、競技場は目前にあった。グラウンドを半周したあたりにゴールはあった。一気に走りこんで、「やったぁ」と叫ぶ。初めて時計を見た。昨年よりもよさそうである。遂に今年も10キロを完走した。達成感をかみしめながら見上げると頭上には吸い込まれるような青い秋の空が広がっていた。

 靴につけたチップが反応し、ゴールと同時に記録が出るようになっている。列に並んで第17回県民マラソンの完走証を受け取った。それには、種目・10km男子、完走記録・56分32秒、種目順位・1308位、と記録されていた。今回の10km男子の参加者は、3002人であった。ちなみに、昨年は57分28秒、その前の年は、57分27秒であった。「完走証」は、老化に挑戦して生きていることの証(あかし)である。

◇この日の午後、私の元総社地区後援会の集いがあった。県議選の祝勝会と県政・市政報告会を兼ねたもので、金子幹事長が来賓として挨拶した。私は県政報告の中で県都前橋の新たな発展について触れた。来年の市長選に向けて、また大きな歯車が動いた。

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2007年11月 4日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(39)第2章 塩原眞資さんのシベリア

「ニイサンノブジヲシリ、イエジュウヨロコンデイマス。ショクジノトキハ、ニイサンノセキニイツモゴハンヲナラベマス。コチラハミンナゲンキデス。ニイサン、カラダヲダイジニシテハヤクカエッテ・・・」

 返信用の葉書もカタカナで書くよう指定されていた。それには、米粒のような小さな字でびっしり、家族の状況や兄を思う切々とした気持ちが綴られていた。

 何度も読み返す。涙が頬を伝う。目を閉じると、すぐそこに古里の町や山や川、そして懐かしい家族の姿があった。何千キロメートルという距離が一気に縮まって、シベリアの凍土と故国が結びつくように思えた。そして、熱い感情も人間としての心も失われたと思われた乾いた心の底から新しいエネルギーが湧き出るのを感じた。気付くと、あっちでも、こっちでも歓声が上がっている。

 何ヶ月か前のある日、収容所の人々に、日本へ手紙が出せるという話があった。国際赤十字の努力で捕虜とその家族との間の通信の計画がすすめられていたのだ。規定の用紙が渡されて書き方を指示された。

 多くの抑留者の証言によれば、収容所の酷い状態や不利なことを書けば手紙は届かないということで、皆、自分は元気で何不自由なく暮らしているということを書いた。「平和祈念事業特別基金」が企画したシベリア強制抑留者の証言の中でも、ある抑留経験者は、故国への手紙には、ソ連政府の温かい配慮で、医療も食事も娯楽もすべて整って、日本では信じられないような夢のような生活をしている、と書いたことを語っている。

 人々はとにかく、自分の無事が家族に伝えられ、家族からの返事が得られることを願っていた。

 塩原さんは、日本の肉親に手紙を出せることが信じられないほど嬉しかった。何としても届いて欲しいと思って、自分はシベリアの生活にも慣れて元気で暮らしています、ソ連の人は親切です、お父さん、お母さん、皆さんお元気ですか、お会いできる日を夢見ています、という内容の文を書いた。

 強制抑留所の中で得られる日本についての情報手段といえば、ソ連の共産主義を教えて、日本人を啓蒙することを目的とした「日本新聞」があった。それによれば、日本はアメリカの支配の下でひどい状態で、日本人は奴隷のように働かされているということであった。

 終戦が近づいたころ米軍の空襲によって日本は焼き尽くされたいうことはすでに聞かされていたので、家族がはたして生存しているかも不明なことであった。だから、日本の家族に手紙を出しても返事がくることは信じられないのであった。

 塩原さんは感無量であった。

〈毎日、読んでは毛布の下にしまい、また、そっとだしては読み返しました。毎晩こうして寝るのです。疲れて収容所に帰った時、手紙を読むと力が湧いてきます。どんなに良い薬も、これに優るものはないと思いましたよ〉

 

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2007年11月 3日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(39)第2章 塩原眞資さんのシベリア

5 故郷からの手紙にむせび泣く

 塩原さんは、昭和20年の暮にコムソリスクの収容所に入れられ、生死の境を迷うような最初の冬を何とか越した。この冬の間に栄養失調になり、体力とともに気力も衰え、故国に帰れないと諦めかけたことも一度ならずあった。それでも、月日が経つうちに過酷な収容所生活にもある程度慣れてくる。人間はどんな環境にも順応するものである。

 しかし、狂おしいほどの望郷の思いはどうすることもできない。ひもじさと、古里への思いが一つになって、塩原さんたちの話題は、いつも食べ物のこと、父母や兄弟のこと、生まれ育った山河のことだった。人々はこのようなことを毎夜のように夢に見た。

「おっ母さん、あいたかったよう」

「このまんじゅうはうめえ」

あっちこっちで寝言が聞こえる。幸せな夢を見ているのだ。夜のベッドは、強制抑留の三重苦、飢えと寒さと労働から逃れられる最も幸せな場所であった。そして夢に浸ることは、それが客観的には仮想のものであるにしても、本人は全く疑うことなく、一時、その場面に入り込み、そこに現れる事柄に接しているのであって、この上ない幸せを味わうことであった。塩原さんも、古里の夢をよく見た。

 昭和23年1月、塩原さんは入ソから3回目の正月を迎えた。零下35度を下る酷寒の中の森林伐採を終え、ソ連の兵士に監視されて収容所へ帰る道すがら、あちこちに民家の明かりが見える。ときどき、子どもや母親らしい人影が動く。塩原さんは耐えがたい寂しさに思わず、明るい窓から目をそらす。せめて、今晩は夢の中で、父母や兄弟に会いたいと思った。

 収容所に戻り、いつものように、ベッドの片隅から2個の石を取り出した。火をおこす石である。防寒具の内側からむしり取った綿くずを細かくよったヒモに油がしみこませてある。手慣れた手つきで、一方の手に石を持ち、その上に綿ヒモを乗せて親指で押さえ、もう一方の手の石を打ち付ける。火花が散ってヒモからかすかな煙が生まれた。塩原さんは、口をすぼめて、そっと息を吹きかけるとヒモの先がわずかに赤くなった。火の芽の誕生である。すかさず、用意した紙くずを小さな火に近づけて、優しくいたわるように息を送ると紙くずの先に小さな炎が立った。これでランプに点火する。ランプの淡い光があたりを照らす。その時、塩原さんは、ベッドの上の光の輪の端に一枚の紙片を見て、はっとなった。

 咄嗟に手が伸びて、紙片をつかんでいた。紛れもない俘虜郵便葉書である。

「とうとう来た」

 塩原さんは心に叫んで急いで裏を見る。差出人は、懐かしい妹である。塩原さんは立ち尽くして文面を食い入るように見た。

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2007年11月 2日 (金)

「マニフェスト大賞ノミネート決定の通知」

◇私のマニフェストがマニフェスト大賞にノミネートされたとの通知を受けた。全国から、338団体・547件の応募があったといわれる。第2回審査委員会における審査の結果、その中から5件が大賞にノミネートされ、私のマニフェストは、その中の1つということらしい。11月9日、東京都港区の六本木ヒルズ49階で授賞式を行うから出席を願うという通知も来た。私の関係者で出席できるのは3名である。事務員のKさんは出席できるということで大変喜んでいるが、真意は有名な六本木ヒルズへいけるという点にもあるようだ。更に審査委員会事務局から連絡があって、授賞式の後の懇親会に是非参加して欲しいとの事、とにかく、9日は出席してみるつもりだ。

◇ここに至る経緯を説明したい。4月の県議選に備えて私はマニフェストをブログに載せ文書でも発表した。重要な政策はいくつかあったがノミネートされたものは、暴力団員を県営住宅から排除することを目的とした県条例の改正である。当選後、私は、群馬県住宅管理条例の改正案をつくり他の3名の議員との共同提案の形で6月議会に提出した。委員会審査を経た後、本会議の全員の賛成を得て改正条例は成立した。

 実は、マニフェスト大賞に応募する考えはなかったのである。大賞の存在を知らなかった私は、ある時、この賞の事務局から応募の要請を受けて驚いた。群馬県のこの「条例」のことが新聞で報道されたことがきっかけとなっているのかもしれないと思った。この種の県条例の制定は、広島・福岡についで群馬は3番目であるが、議員提案によって成立させたのは群馬が最初であった。

◇マニフェスト大賞は、地方自治体や議会から活動実績を応募し表彰することで地道な活動を積む地方自治体の首長及び議員に名誉を与えさらなる政策提言意欲の向上を計るのが目的。第一回は、全国から136団体、221件の応募を集め、多くのメディアが取り上げ大きな反響を呼んだ。そして、この賞を通じて先進事例が全国に波及するきっかけとなっているという。

◇今回は第2回である。ノミネート作として次のものが報じられた。

○安芸高田市議会の「議会改革特別委員会の設立」○群馬県議会・中村紀雄「県営住宅から暴力団員を排除する議員提案による条例の制定」○葉山町議会の「一貫した子育て支援体制構築、また子育て支援各施設への取り組み」○神奈川県議会・松田良昭「議長マニフェストによる県議会改革。○福井県議会・県民連合「少数会派による政治論理の確立に関する条例の制定」。

◇地方の時代、地方分権の時代が進む。その推進役は地方の議会であり地方の議員である。これらの動きがさらに大きくなるためには、地方の議会や議員が情報の交換など協力しあうことが必要である。マニフェスト大賞のイベントは、そのための有効な手段かも知れない。

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2007年11月 1日 (木)

「後援会の懇親ツアーは命の洗濯に」(10月31日)

◇朝6時にいつものように走り、7時半に健康科学大学の所でバスに乗る。既に宮城大胡地区の人17人が乗っていた。宮城小学校の私の同学年生である。ほぼ月1回のツアーで、今回は小江戸と言われた川越市と柴又の帝釈天の散策、東京の地下農場の見学などであった。大型バスの補助席まで使って49人が乗った。前日の夜は小雨が降っていたが、絶好の日和となった。楽しい旅行の第一の条件は良い天気である。かつてバス13台で皇居へ行き土砂降りの雨に出会ったことが思い出される。

 今回のバスツアーの特色は、昭和22年に宮城小学校に入学した18人が行動を共にしたことだ。同窓会をしながらのツアーに皆の表情は少年少女のように輝いていた。南インターの所で金子幹事長が、来年はよろしくと挨拶した。

 川越では菓子屋横町を歩き喜多院をみた。駄菓子屋が並んでいるだけなのに多くの人がひしめいていることに驚く。名の知れた観光地になるとこんなものかと思った。

 春日局(かすがのつぼね)の名にひかれて喜多院を訪ねた。寛永年間の川越大火で堂宇が消失したとき三代将軍家光は江戸城の建物を移築した。そこで春日局の化粧の間や家光誕生の間があるのだという。また市内には川越城を築いた太田道灌の銅像があった。(太田道灌は江戸城を築いた人。)川越藩は、江戸時代に江戸と最も近い重要な藩として重視され幕府の重臣が配置された。小江戸といわれるような発展もこのような事情に基づくものであったろう。

 柴又では寅さん記念館に入った。ボタンを押すと歴代のマドンナの写真が見られる。シリーズは全部で48作というから日本の美人女優が全員集合といった感じ。ワンパターンの映画がこの数だけ繰り返されたということだ。水戸黄門と同じで、日本人の心に安らぎと安心感を与える作品なのだろう。名場面を数分ずつ見せる装置があり、人々は声をあげて笑っていた。このようなくったくのない明るい笑い声が社会から少なくなっているのは最近の世相を物語る。

◇丸の内のビルの地下の農場を見た。植物は光合成で成長する。光合成の要素は光と水とCOである。光は太陽光でなくもよい。だから大都会の地下深くでも光を工夫すれば農産物をつくることが出来る。赤いトマトが実っていた。そして水田には稲が育っていた。試食した野菜は甘くて美味しかった。

 パソナが始めた。農業が新しい産業として生まれ変わろうとしている今、農業分野で働きたいと願う人の就農をサポートするのが目的だという。オープンした時は小泉さん(当時首相か?)も参加した。案内係は、都会の人たちにもっと農業を身近に感じていただき、新しい農業を知ってもらうための施設です、と話していた。また、目で楽しみ、直接触れて農業の新しい楽しさと可能性を感じてもらいたいとも。農薬はゼロである。これ迄の農業のイメージを一変させる。将来は都会の地下農場がもっと普及するかも。同級生たちも驚いていた。

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