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2007年11月24日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(46)第2章 塩原眞資さんのシベリア

日本新聞は、ハバロフスクで発行され、シベリアの各地の収容所で読まれた。この新聞の編集長は、“シベリアの天皇”として抑留者から恐れられた浅原元基であった。浅原は東大文学部社会学科の出身で、在学中から共産主義の学生運動に熱中していた男である。
 私(著者)が東京大学に在学したころも学生運動が盛んで、リーダーたちは、授業にもあまり出ず、アジ演説と看板書きと宣伝ビラの文章書きに、毎日没頭していた。だから、浅原元基の学生時代の姿が容易に想像できる。このような男が、共産主義思想とは対極にあって矛盾に満ちた軍隊に入れられ、その延長上にある強制収容所でソ連のバックのもと「民主運動」のリーダーの地位を得たのである。恐らく彼は、純粋な信念に従って行動したのかもしれない。しかし、多くの日本人抑留者は、この運動の中で、言葉では現せないほどの精神的苦痛を受けたのである。ちなみに、彼の日本新聞のペンネームは諸戸文夫である。これは、言うまでもなく、ソ連の政治家モロトフを意識したものである。
 この民主運動は、昭和23年ごろからシベリアのすべての収容所で激しくなり、特に昭和24年には狂乱状態にまで高まっていた。その嵐の中心がハバロフスクの収容所であった。
 塩原さんがいた第21分所で激しい民主運動が行われたことは、瀬島龍三の回想録からもうかがわれる。塩原さんが移動命令によって第21分所を出たのは昭和24年12月29日であるが、瀬島龍三がここに入ったのは、およそ4ヶ月後のことである。瀬島龍三は、初めて第21分所を見た時のことを次のように書いている。
「広い敷地の周りに有刺鉄線と板塀が張り巡らされ、塀の4隅にある監視塔にはマンドリン(連発銃)を持った監視兵が立っていた。営内の至るところに日本語の檄文が張られ、プラカードが散乱していた。最近まで日本人がいて激しい民主運動が行われた事実を物語っていた」
 塩原さんは、自分が出た後に元参謀の瀬島龍三が第21分所に入ってきたことはまったく知らなかったと驚きながら、本当に異常な民主運動が毎日朝夕続いたことを次のように語った。
<私が第21分所を出るころは、民主運動はますます高まっていました。他人の過去の経歴や素性をあばいて大衆の前に突き出し自分を売り込む者が多くなったのです。高い壇上に立たされ、大衆から怒号を浴びせられる人の姿を遠まきに見て、私は難しいことは分からないが、正気の沙汰ではないと思いました>
 参謀、憲兵、特務機関、警察など、日本の旧支配層に属した者が「反動分子」として吊るし上げられた。つまり「反動」とは、日本の軍国主義者のことであった。ところが運動が高まるにつれ、資本主義の思想を持つ者、ソ連の体制に反対する者まで広く吊るし上げの対象になった。
 

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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