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2007年11月 4日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(39)第2章 塩原眞資さんのシベリア

「ニイサンノブジヲシリ、イエジュウヨロコンデイマス。ショクジノトキハ、ニイサンノセキニイツモゴハンヲナラベマス。コチラハミンナゲンキデス。ニイサン、カラダヲダイジニシテハヤクカエッテ・・・」

 返信用の葉書もカタカナで書くよう指定されていた。それには、米粒のような小さな字でびっしり、家族の状況や兄を思う切々とした気持ちが綴られていた。

 何度も読み返す。涙が頬を伝う。目を閉じると、すぐそこに古里の町や山や川、そして懐かしい家族の姿があった。何千キロメートルという距離が一気に縮まって、シベリアの凍土と故国が結びつくように思えた。そして、熱い感情も人間としての心も失われたと思われた乾いた心の底から新しいエネルギーが湧き出るのを感じた。気付くと、あっちでも、こっちでも歓声が上がっている。

 何ヶ月か前のある日、収容所の人々に、日本へ手紙が出せるという話があった。国際赤十字の努力で捕虜とその家族との間の通信の計画がすすめられていたのだ。規定の用紙が渡されて書き方を指示された。

 多くの抑留者の証言によれば、収容所の酷い状態や不利なことを書けば手紙は届かないということで、皆、自分は元気で何不自由なく暮らしているということを書いた。「平和祈念事業特別基金」が企画したシベリア強制抑留者の証言の中でも、ある抑留経験者は、故国への手紙には、ソ連政府の温かい配慮で、医療も食事も娯楽もすべて整って、日本では信じられないような夢のような生活をしている、と書いたことを語っている。

 人々はとにかく、自分の無事が家族に伝えられ、家族からの返事が得られることを願っていた。

 塩原さんは、日本の肉親に手紙を出せることが信じられないほど嬉しかった。何としても届いて欲しいと思って、自分はシベリアの生活にも慣れて元気で暮らしています、ソ連の人は親切です、お父さん、お母さん、皆さんお元気ですか、お会いできる日を夢見ています、という内容の文を書いた。

 強制抑留所の中で得られる日本についての情報手段といえば、ソ連の共産主義を教えて、日本人を啓蒙することを目的とした「日本新聞」があった。それによれば、日本はアメリカの支配の下でひどい状態で、日本人は奴隷のように働かされているということであった。

 終戦が近づいたころ米軍の空襲によって日本は焼き尽くされたいうことはすでに聞かされていたので、家族がはたして生存しているかも不明なことであった。だから、日本の家族に手紙を出しても返事がくることは信じられないのであった。

 塩原さんは感無量であった。

〈毎日、読んでは毛布の下にしまい、また、そっとだしては読み返しました。毎晩こうして寝るのです。疲れて収容所に帰った時、手紙を読むと力が湧いてきます。どんなに良い薬も、これに優るものはないと思いましたよ〉

 

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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