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2007年10月29日 (月)

「ふるさと塾のこと」(27日)

◇今月のテーマは池田勇人だった。今年は、これ迄に、吉田茂、鳩山一郎、岸信介を取り上げた。皆個性豊かでエピソードも多くそれぞれ歴史的使命を果した総理だった。今回の池田勇人は特に人間的に面白く、その生き様は波乱に富んだものだった。波乱という点では吉田茂たち三人も大変なものだが、池田の場合その挫折振りが、より庶民の共感を呼ぶものであったと思う。私の話もその挫折の部分に時間をさきながら進められた。
 池田政権は岸政権を継いでスタートした。岸政権は、安保改定を強行するために民主主義のルールを無視した。そのために国会を取り囲むデモの高まりは頂点に達し政治不信も極めて深刻となった。池田政権が「寛容と忍耐を」を揚げ「低姿勢」を強調したのは、岸政権がつくりだした混乱を収拾し政治に対する信頼を回復するためであった。しかし、池田の低姿勢は、国民を欺すためのものでなく本物であった。それは、池田が人生で度々挫折を味わいまた地獄を見たことと関係がある。ここまでが私の話の導入部である。
◇若いときの挫折とは、また地獄とは何か。池田は一高受験に二度失敗し東大受験にも失敗し京大に入る。高文に合格し大蔵省に入るが出世コースからは外れていた。そして地方の税務署長の時何十万人に一人という奇病難病に患る。「天疱瘡(てんほうそう)」といって全身に水ぶくれが出来、そこがウミになりかさぶたになる。ミイラのようにぐるぐる包帯をまき、包帯をとりかえるのに4~5時間もかかった。痛さと痒さで七転八倒の苦しみであった。最初の妻は看病の中で死ぬ。池田は俺のために死んだと号泣した。母・うめは神仏にすがって必死であった。闘病5年で奇跡が起こる。助かった池田は自分は全て失ったが強い人間になったと語る。大蔵省の職は失っていたが先輩のはからいで復職が出来た。「禍福はあざなえる縄の如し」というが災いの後には福が来る。出世競争で池田の前を走って要職にあった者はマッカーサーの公職追放でいなくなった。池田は頑張って主税局長になる。やがて、吉田茂によって大蔵大臣に抜てきされた石橋湛山が面白い男池田に目をつける。石橋蔵相は池田を大蔵官僚のトップ、大蔵事務次官に抜てきした。池田はやがて衆議院選に出て当選すると、当選一回で、吉田内閣の大蔵大臣となった。石橋も吉田も官僚らしからぬ野人池田の魅力を愛したのであろう。「貧乏人は麦を食え」、「中小企業の二人や三人は死んでもかまわぬ」などの放言が報じられたが池田の人気は高かった。昭和35年から39年まで4年4ヶ月の池田政権は、所得倍増を掲げて日本の高度成長の基礎をつくった。昭和39年アジアで初めてオリンピックが行われていた。絶頂期の池田に又もや魔の手が忍び寄っていた。末期の喉頭癌であった。オリンピックの閉会式の翌日、池田は辞任を発表し入院した。後継者佐藤栄作とは、その昔、同じ宿舎で一高を受験した以来の縁であった。池田は65歳で世を去った。来月は佐藤栄作を取り上げる。
☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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