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2007年10月31日 (水)

「朝食会・決算特別委員会」

◇朝6時、約40分走る(30日)。体調は正直に現れる。2、3日前、足が重くて途中で歩いてしまったことがあった。前日の疲れが残っているとか睡眠不足とか、いろいろな要素の総合がその時の体調を決める。マラソン選手に好調不調があるのが分かる気がする。いつもより早い時間に走ったのは朝食会があったからだ。

◇7時半、群馬会館食堂で市議団と前橋、富士見地区の県議とで朝食会が行われた。会議の目的は先日立ち上げた「クリーン前橋作戦会議」に関することである。代表者である私の挨拶に続いて、政治団体として登録がなされたこと、事務所の設置、政策立案等について報告がなされ、そして、議論が行われた。市長選に向けて大きな歯車が動き出した。知事選の時、この食堂で度々朝食をとりながら会議が行われたことが懐かしく思い出された。

◇「群馬県議会訪中団・中国レポート」を書きあげた。私が代表して執筆したが訪中団全員の作品である。近日中に、懇親会を兼ねた帰朝報告を行う予定である。中国における見聞を今後の県政の発展にどのように生かすかが課題である。

◇決算特別委員会のこと。環境森林関係で私はいくつか質問したがその中に松くい虫対策に関することがあった。私は、赤城の南面を歩くとき松くい虫に侵された松の木が無惨な姿をさらしているのを見て気になっていた。正にぞっとするような死の山の光景なのだ。「枯れた松は早く伐採し樹種の転換を図って適切な苗を植えるべきである、そのことが二酸化炭素吸収源としての森林整備のためにも急務ではないか、そして、伐木の使い道はないのか、使い道としてバイオエタノールの原料にはならないのか」私はこのような発言をしたのである。

 当局の説明によると、標高600mから700m位の松は手の打ちようがない、赤城神社に至る松並木の松など守るべき所は重点的に守りその他は樹種の転換を図るという方針である。伐採した松の利用については、合板として、チップとしてまたバイオエタノールの原料として利用することが研究されているらしい。そして、当局は、赤城南面未利用バイオマス利用検討協議委員会が発足しようとしていると発言した。

また、二酸化炭素(CO)吸収源としての森林整備に関し、群馬の森林はどの位の量のCO

を吸収できるのか、京都議定書の実現に関してどの位の量を想定して森林整備を進めるのかと質問し、資料の提出を求めた。

◇弓道連盟の幹部が議会に私を訪ねた。会員の不祥事を説明し詫びるためである。私は群馬県弓道連盟の顧問なのだ。不祥事とは女子高生に弓を指導しながら体に触れたとして新聞に報道された件である。「李下に冠を正さず」で、疑われるようなことはすべきでないと話し合った。

◇県民マラソンのナンバーが来た。30001、10キロの部門の最初の番号である。床について目をつぶるとコースが浮かぶ。イメージトレーニングした。

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2007年10月30日 (火)

◇健康福祉局関係の決算審査(26日)

 私が質問した事は、癌登録事業、タミフル、食品検査センターなどについてである。国も県も癌対策に取り組んでいるが、効果を上げるためには客観的なデータが必要である。その点で重要なものが、生存年数等に関する記録である。このためのデータを集める事業が癌登録事業である。本県はどのように取り組んでいるのか資料を要求した。タミフルは抗インフルエンザ薬である。過去の例によると新型インフルエンザが発生すると人々には免疫がないので大変なことになる。いつ発生してもおかしくない、危険な時機が近づいているといわれる。どのような危機感を抱いているかと聞いたが答えずらそうであった。食品検査センターの役割は重大である。危険な中国製食品が国のチェックをくぐって出まわってしまう。食品検査センターはそれを発見し県民に知らせる義務を負う。中国産のウナギのかば焼きから発癌性物質を検出して話題になったのはこの食品検査センターである。優れた設備とスタッフをそろえているのだから市場の食品を積極的に検査して、県民にわかりやすく報告するべきだと提案した。

◇芳賀ふれあい文化祭に高木市長が出席した。文化祭の祝辞というより市政のセールスポイントを真剣に説明し、終わると急いで退席していった。前橋市長選が実質的には始まっていることを感じた。

 文化とは、こうだと説明するのは難しい。私は、挨拶の中で次のように述べた。「文化は心の豊かさを支えるものです。そして健全な地域社会を支える基盤です。今、私たちは、教育・福祉・治安・環境と、様々な問題を抱えています。解決のカギは地域の力です。それを生み出すものが地域の文化です」と。

 文化祭の販売コーナーでちいさなツボが売られており、何となく心ひかれ買って持ち帰り黄色い菊をさした。高さ15cm足らずのツボは首の部分が細くくびれその上に、小さな口を開けている。濃い菊の黄色がツボの淡い茶色と溶けあってツボは、私の書斎の白い机の上に置かれた。製作者は分からないが、私をいやしてくれる。

◇結婚披露宴に出る(28日)。新郎のK君は、昔、私の塾に通っていた。当時が思い出されて懐かしい。大学で英米文学を学んで今は建設会社の社長である。新婦は、小学校の先生である。似合いのカップルだ。実はK君の趣味はマラソンで、間もなくやってくる11月3日の県民マラソンで、私と同じ10キロコースに出る。私が57分台で走るところをK君は40分で走る。さすがに若い。私の挨拶のポイントを紹介しよう。英米文学を学んだ建設会社の社長というのは素敵である。企業は社会に貢献するもの。よい家庭が一層の力を与えてくれるに違いない。建設業と教師、違った世界にいることがお互いの助けになるはず。人生はマラソンといわれる。現実のマラソンと人生のマラソン。両方とも完走して欲しい。

◇「理科の面白さを育てる会」に出た(29日)。私は会の代表である。忍耐強く助走期間を続けてきた。容易に諦めないのが私の特色である。それでも、一つのイベントを計画するところまできた。

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2007年10月29日 (月)

「ふるさと塾のこと」(27日)

◇今月のテーマは池田勇人だった。今年は、これ迄に、吉田茂、鳩山一郎、岸信介を取り上げた。皆個性豊かでエピソードも多くそれぞれ歴史的使命を果した総理だった。今回の池田勇人は特に人間的に面白く、その生き様は波乱に富んだものだった。波乱という点では吉田茂たち三人も大変なものだが、池田の場合その挫折振りが、より庶民の共感を呼ぶものであったと思う。私の話もその挫折の部分に時間をさきながら進められた。
 池田政権は岸政権を継いでスタートした。岸政権は、安保改定を強行するために民主主義のルールを無視した。そのために国会を取り囲むデモの高まりは頂点に達し政治不信も極めて深刻となった。池田政権が「寛容と忍耐を」を揚げ「低姿勢」を強調したのは、岸政権がつくりだした混乱を収拾し政治に対する信頼を回復するためであった。しかし、池田の低姿勢は、国民を欺すためのものでなく本物であった。それは、池田が人生で度々挫折を味わいまた地獄を見たことと関係がある。ここまでが私の話の導入部である。
◇若いときの挫折とは、また地獄とは何か。池田は一高受験に二度失敗し東大受験にも失敗し京大に入る。高文に合格し大蔵省に入るが出世コースからは外れていた。そして地方の税務署長の時何十万人に一人という奇病難病に患る。「天疱瘡(てんほうそう)」といって全身に水ぶくれが出来、そこがウミになりかさぶたになる。ミイラのようにぐるぐる包帯をまき、包帯をとりかえるのに4~5時間もかかった。痛さと痒さで七転八倒の苦しみであった。最初の妻は看病の中で死ぬ。池田は俺のために死んだと号泣した。母・うめは神仏にすがって必死であった。闘病5年で奇跡が起こる。助かった池田は自分は全て失ったが強い人間になったと語る。大蔵省の職は失っていたが先輩のはからいで復職が出来た。「禍福はあざなえる縄の如し」というが災いの後には福が来る。出世競争で池田の前を走って要職にあった者はマッカーサーの公職追放でいなくなった。池田は頑張って主税局長になる。やがて、吉田茂によって大蔵大臣に抜てきされた石橋湛山が面白い男池田に目をつける。石橋蔵相は池田を大蔵官僚のトップ、大蔵事務次官に抜てきした。池田はやがて衆議院選に出て当選すると、当選一回で、吉田内閣の大蔵大臣となった。石橋も吉田も官僚らしからぬ野人池田の魅力を愛したのであろう。「貧乏人は麦を食え」、「中小企業の二人や三人は死んでもかまわぬ」などの放言が報じられたが池田の人気は高かった。昭和35年から39年まで4年4ヶ月の池田政権は、所得倍増を掲げて日本の高度成長の基礎をつくった。昭和39年アジアで初めてオリンピックが行われていた。絶頂期の池田に又もや魔の手が忍び寄っていた。末期の喉頭癌であった。オリンピックの閉会式の翌日、池田は辞任を発表し入院した。後継者佐藤栄作とは、その昔、同じ宿舎で一高を受験した以来の縁であった。池田は65歳で世を去った。来月は佐藤栄作を取り上げる。
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2007年10月28日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(38)第2章 塩原眞資さんのシベリア

ところで、暗い抑留生活の象徴であり、すべての抑留者の命を支えた黒パンとはどのような食べものか。外見はチョコレート色で中身は褐色、少し酸っぱい味がする。本来はライ麦で作るものだが、捕虜たちが食べたものは、ライ麦だけでなく、大麦、小麦、とうもろこし、ジャガイモまで入っていた。これらの粉末を水で練ってイースト菌で発酵させて焼く。1キロ、2キロ、3キロ、と大きさは各種あるが、形は長方形の角材のようであった。黒パンは、外側の硬い皮の部分が好まれたという。そこは、ぎっしり詰まっていて、軟らかい部分より得だということである。

実は、食事に関するさらに残酷な事実が待ち受けていた。収容所生活が始まって、何ヶ月が過ぎて、ノルマによる等級食が実施されたのである。

作業ノルマと食事量の関係は収容所によって、また、労働の種類によって異なっていたが、塩原さんの所では、1級は黒パン150グラムとスープは実のない塩味の汁、2級は黒パン250グラムと野菜が少々入ったスープ、3級は黒パン350グラムと粟が入った味のよいスープ、4級は黒パン450グラムにトロリとするほど濃い粟と肉で味付けした上等なスープであった。

塩原さんは、当時の状況を次のように振り返る。

<飢えていた日本人捕虜は4級食欲しさによろけながらも身を削って働いたのです。だが弱い者はいつも1級食がやっとでした。同じ食卓で隣の者は4級で腹をさすり、こちらは1級のからっつゆです。見まいと思ってもつい横目で隣を見てしまう。惨めでした>

飢えた日本人を食べ物で釣って過重な労働をさせることは、ソ連の巧妙な狙いだった。

収容所には、それぞれの人に、それぞれの闘いがあった。それは、持てる知恵と気力と体力の全てをかけた自分との闘いであった。

寒さと飢えで死者が続出し、病人も増える。しかし、収容所側の医療の体制は粗末だった。体の具合が悪いと申し出ても、労働を休むことは容易に認められない。それは、収容所としての作業休止捕虜数の枠があって、それがいっぱいの場合には、新たな作業休止は認めないという、人間よりも労働成果を重視する考えが基本となっていたからである。

それでも時々、ソ連軍医による検診があった。この検診により捕虜は1級から6級までの体位を決められる。1級は昼夜の重労働に耐えられる者、以下段々労働は軽くなって4級は老年、障害、衰弱などで労働を免除され、5級と6級は入院させられる者である。検査の方法はいたって簡単で聴診器などは一切使わず、全裸にして尻の肉をつまんで、肉のつき具合や弾力性を見て、1級、2級と決める。一人に要する時間はほんの2,3秒である。

塩原さんは、ある時、若い美人の軍医の前に全裸で立たされた。恥ずかしいより捕虜の身の情けなさに涙が出る思いだったと振り返る。血気盛りの若い男が、美人の前に立たされて特別の感情が湧かないのか興味のあることである。この点、塩原さんは、飢えと栄養失調のひどい状態では性欲などはまったく湧かなかったと言う。生死がかかった極限の状況では、人間の欲望は生命の維持に直結するものに限られてしまうのであろう。

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2007年10月27日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(37)第2章 塩原眞資さんのシベリア

四 黒パンを分ける時の凄まじさ

<収容所生活の中で一番幸せなのは、なんと言っても食べ物配分の時でした>

 たとえ川の水のようなスープでも食事の時間が狂おしいほど待ち遠しかったと塩原さんは振り返る。

食べること、そして飢えということは、人間の生命維持の問題に直結するだけに、飢えに耐えることの苦痛は想像を絶するものであろう。

戦争中、南方の激戦地ガダルカナルやニューギニアで飢えと戦った人の様子は飢えに直面する人間の極限の姿であろう。

ニューギニアで戦ったある兵士は次のように証言する。

「本当の飢餓の悲しみに涙した人間が、この地球上にどのくらい存在しているだろうか。自分以外はすべて食べられるものに見えてくる。殺すか殺されるか生死の対決を迫るものが本物の飢餓で、色でいえば真っ黒である」

 シベリアの飢えも酷かった。だからシベリアの収容所はどこでも、食べ物をめぐって絶えずトラブルがあり、また、赤裸々な生存競争があった。

 待ちに待って配られる食事は、黒パンと粟の入ったスープだった。わずかな黒パンを平等に分けることが大変な課題であった。配分される食べ物はまさに命の糧。隣のベッドの男が終わりに近づいた時、その手に握られた黒パンが手のひらから落ちるのを、まわりの者が今か今かと待ち受けるほどの厳しい現実なのである。

 黒パンを切って分ける時は、皆の必死の視線が、黒パンを分ける手に集中する。1ミリでも大きいか小さいかを、人々の目は決して見逃さない。ちょっとでも大きい切れ目は誰のとこへ行くか、それは、妥協を許さない死活問題なのだ。

どの収容所でも悩んだ揚げ句、トラブルの末、それぞれの工夫がなされていた。ある収容所では天秤が作られた。一本の棒の一方の端に石のおもりを下げ、他方の端に皿を下げて、これに切ったパンをのせるのである。これで重さを基準にして公平に切り分けることができた。

また別のある収容所では、切ったパンに番号をつけ、ベッドにも番号をつけ、目隠しをした人がパンを選ぶ仕組みを考えた。例えば、2番のパンを取り上げたら、そのパンは2番のベッドの人のものになる、という具合です。

塩原さんたちはクジで決める方法をとった。班の全員が目を皿のようにして見守る中を選ばれた担当者は慎重に、そしてまるで手術の執刀医が身体の危険な部分にメスを入れるときのような真剣な表情でナイフを動かしてゆく。ちょっとでもナイフの切った先が曲がろうものなら「ダメだ、なおせ」と怒声が飛ぶ。たとえ、1ミリでも小さく切られた方をクジで引き当てる可能性が誰にもあるからだ。

やっとのことで切り終えると、次にそれを受け取る順番をクジで決めるのである。小さく見えるものを引き当てた者は落胆する。また、同じものでも他人の手にあるものはより大きく見えた。

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2007年10月26日 (金)

「決算特別委員会が続く」(25日)

◇平成18年度の歳入決算に関して、総務局関係から始まった当局の説明で、巨額な数字が早口でポンポンと読み上げられる。ページを繰りながら耳から入った項目と数字を目で追うのが忙しい。例えば、県税について、収入済額2310億…不納欠損額6億8436万…、収入未済額52億1538万…という様に。これらの数字の陰に多くの県民の汗と苦労と悩みがある。議会がキチンとチェックするためには、もっと余裕をもって数字の背景にある事実を分析し研究しなければと思ってしまう。

  ここに挙げた数字の中で不納欠損額とは、滞納額のうち滞納処分を停止した額のこと。税について大切なことは公正で公平でなければならないことだ。簡単に滞納処分を免れることがあれば、滞納処分を厳しく受ける人との間、またきちんと税を納める人との間に、不公平を生じる。私は、税の公平性という観点からこの問題と厳しく対応しなければならないとただした。

また、収入未済額が52億円余もあることも税の公平性の点から問題だ。当局は、これでも3億円縮減させたこと、及び5年で17億円縮減させたことを説明していたが、私は、もっと努力と工夫を尽くすべきだと発言した。

この日、問題になったことに県債がある。国債は国民に対する国の借金であり県債は、県民に対する県の借金である。この県債残額がおよそ9600億円になった。県民一人あたり約47万円である。財政の硬直化が進んでいるのである。また、バブル期に1,200億円以上あった貯金が減少し、476億円になった。

◇難しい数字の話をしてきたが、ここで、電話相談の話に触れようと思う。二つある。①県民電話相談24と②消費生活相談である。①は、24時間県民の電話相談に応ずるもので、昼間は専門の相談員が対応するが、夜は係長以上の県職員が2人ずつ交替で対応している。午後5時半から翌朝8時半までである。

決算特別委員会では、超過勤務手当てを出して毎晩対応することの当否も問題とされた。リピーターもかなりあるとか。私の友人の県職員が当番の時も夜11時過ぎると50歳台の家族のない者だがという人が延々1時間以上も話し、日誌を見るとこの人が毎晩のようにかけてきたらしい。昨夜、実情に触れてみようと思い、わたしはこの電話にかけて見た。身分を明かして聞いてみると今晩は私が初めてだという。話し相手になったり、相談の内容によっては他の機関を紹介したりするという。殺伐とした社会で孤独な人が多い時世だから費用がかかってもこのような電話が必要なのだろう。

◇県民センターの役割と位置についてただした。ここは消費生活相談をはじめ県民に細かなサービスをするところで重要な役割を担う。ただ二階なのでその存在に気づかぬ人も多い。一階に目立つ案内の表示をつけるべきだとこれまでも提案してきたが実現できない。この日はこの委員会で改めて主張した。消費生活相談については、先日の日記で触れた「法テラス」との連携を密にすること、及び県民にもっと知らせる工夫をすべきだと発言した。

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2007年10月25日 (木)

「県民マラソンに備えて走る」(24日)

◇毎朝7時に約40分走る。今年も県民マラソンで10キロコースを走るがその準備である。一昨年は57分27秒、昨年は57分28秒であった。自分なりにベストを尽くした結果が前の年の記録と比べ1秒違いである。タイムというものは自分の体力の限界を正確に表すものだと思う。今年は、間もなくやってくる10月30日で満67歳を迎えるが、今の調子だと57分台で走れそうだ。

 走ることの意味を考える。走ることを可能にする力は体力と気力である。両方重要であるが生きる姿勢に強く関わる要素はむしろ気力である。10キロを走るというと、驚かれることがある。走らない人は、10キロのコースを想像して、それに圧倒され、気持ちの上で負けてしまうのだと思う。私の場合、10キロを完走出来るという自信が、困難なこと面倒なことに立ち向う精神力の源泉になっている。

 もう一つの体力の点については、健康が大前提になる。私は、毎年、11月に10キロを走るのだと言う事を年頭において生活の習慣をつくるように心掛けている。人生の前半は主に動物的要素で生きる事が出来る。しかし、人生の後半は精神的な要素がウェイトを高めるので、加齢に応じて人間はより人間的に生きねばならない。私の場合、生きることが、それを支える精神力を生み出している。

◇全国学力調査の結果が発表された。3万2千校、220万人の児童生徒が参加した。学力の低下が懸念される中で、文科省の狙いは学力の底上げである。小学6年、中学3年の全員が参加。費用は77億円かかった。群馬県の結果は、全国の平均をやや上回る傾向。そして小学校より中学校の方がややよく、関東1都6県の中でトップ。また、群馬県、全国とも、知識の活用が苦手で、知識を問う問題の方が成績がよかった。文科省が公表したのは都道府県別の結果(平均正答率)であるがデータは市町村や各学校にも送られる。それを公表するかどうかは市町村や学校にゆだねられるが県教育委員会は、具体的な正解率などを公表しないよう指導している。過度の競争が起こったり学校を序列化させたりすることを避けるためだ。ただ、全く公表しないというのでは、テストの結果を十分に生かせない。うちの学校は、こういう点はすぐれているが、こういう点には課題があるというように公表すべきである。

 都道府県で学力に格差があることが明らかになった。各教科とも全国で最も低いのが沖縄県である。北海道、大阪、高知も一部教科がかなり低かった。政府は、学力が低かった県などには教員を増やす等の対策をとる。学力テストの結果は宝庫である。それをいかに生かすかが最大の課題だ。各学校とも自分の学校の問題点を改善するための努力を授業で行えば良い結果に結びつくだろう。来年度も全国一律のテストを行うが、第一回の結果がどのように生かされているか見ものだ。

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2007年10月24日 (水)

「決算特別委員会の審査」(23日)

◇決算とは簡単に言えば収入と支出の計算のこと。そして、決算の審査とは、いくら収入があってそれがどのように支出されたか、及び、その支出は県民の幸せのために適正であったかを審査することである。議会は閉会中であるが決算特別委員会の審査は続く。委員長は関根圀男氏、私を団長とする先日の訪中団の幹事長を務めた人である。

 18年度決算の様子を極く大ざっぱに示す。一般会計の歳入(収入)総額はおよそ7800億円、歳出(支出)はおよそ7700億円。歳入の中で一番ウエイトが高いのは県税で、そのうち法人税が増えた。それは、県内景気が回復したために企業収益が増加したからである。歳出の中で一位をしめるのは人件費でおよそ2350億円にのぼる。

◇この日は、公営企業会計(電気事業、団地造成事業、病院事業等)について質疑が行われた。その一端を紹介する。団地造成については、地価が下がったため予定した価格で工業団地が売れないので造成原価割れが生じていることや造成地の中に、汚染物質で汚染されているところがありその対策をどうするのか等が議論された。また、4つの県立病院事業については、精神医療センターと小児医療センターは、数年続いていた赤字が黒字に転じたが、その他の病院は厳しい経営状況にあり、特に心臓血管センターの赤字が大きいこと、また、ガンセンターでは医師不足のため婦人科がなくなってしまっていつ再会するのかなどが問われた。また、4つの病院の未収金、特に心臓血管センターの未集金が問題とされた。病院管理者が特に説明をしたところによれば、心臓血管センターに於いては、他の医療機関にはあまりない高価な医療機器を購入していることが赤字の一因になっているとのことである。

◇中国の表と裏。「日記」で中国のことを書いたらかなりの反響があった。寄せられた意見の中には、中国の表の一部を見ているだけではないかというものがあった。その通りである。限られた日数なので多くを見ることは物理的に不可能である。しかし、極く一部であっても実態に接する意義はあった。そしてその一部から全体を想像できる機会はいくつもあったのだ。

 大連市から旅順に向う途中、近代的な高層ビルの間に昔ながらの小さな家が並ぶのが見えた。私は、近代的ビルの背後には貧しい人々の世界が広がっているに違いないと思った。また北京では、「四合院」という昔からの集合住宅が一部残っているのが見えた。多くの「四合院」は壊され、人々は郊外の高層アパートに移住させられた。

 豊かな層と貧しい層の格差は数十倍ともいわれる。格差は不平等を意味する。不平等は不平不満を生む。役人の汚職が庶民の不平に拍車をかけている。貧しい人々がきらめく高層ビルを見上げる目が羨望から恨みに変わることを指導者は恐れている。巨大な国家が大きな矛盾を抱えて内部から崩壊するのか、変身してさらに大きく発展するのか見守りたいと思う。

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2007年10月23日 (火)

「決算特別委員会で県立女子大へ」(22日)

◇県内調査の目的地は、藤岡中央高校と県立女子大学である。男子校の県立藤岡高校と女子校の県立藤岡女子高校がなくなって、二つの高校が統合した形で新設・県立藤岡中央高校の設立が認可されたのは平成16年10月である。新校舎の竣工式典は今年5月に行われた。40億円かけてつくられた学園は校舎、体育館・グラウンドなど全てが完備しているかの如くであった。

 二つの伝統校が統合されて生まれた新設の普通高校がどのような特色ある高校を目指すのか、私は興味を持った。かつて偏差値で普通高校の受験生を振り分けた時代があった。それは教育の目的からみて間違っているとされ、今日では各校の特色によって生徒が自主的に普通高校を選ぶ時代になった。

 新設校の特色の一つは、文理総合科と数理科学科の2学科を設置していることだ。現在、小中学校で理科離れが深刻である。授業の内容を工夫して理科の面白さを多くの生徒に分からせることができれば、藤岡中央高校の一つの特色が定着するだろうと思った。

◇県立女子大では富岡学長と戸沢教授が待ち受けていた。戸沢さんは、昔、東大の駒場寮で同室だったことがある。富岡学長の説明によると女子大のレベルは最近非常に高くなっている、レベルが高くなると本県出身者が入れないと思われるようだが逆である、それは、レベルが高くなるとわざわざ東京の大学まで行かなくもいいということで優秀な本県出身者が集るからだという。

 私は発言を求めて大連外国語学院と県立女子大との交流の件を説明した。大連外国語学院には3千名を越える学生が日本語を学んでおり、この大学は県立女子大との交流に賛成であること、そして、これは、先日大連の大学を訪ねて話し合ってきたことであり、大連市長も賛成していること等を話した。富岡学長は、大いに賛成であること、県会議員が仲介をしてくれれば有り難いと発言した。私は、どういうことで協力と交流が出来るか検討し、出来ることから一歩一歩進めましょうとしめくくった。

◇昨日、金子泰造県議を市長に当選させるための拡大会議が開かれた。予想以上の多くの人々が集った。県議と市議の合同会議は何回も開かれたが、このような大きな会議は初めてで、実質的な旗揚げといえた。

 私は主催者として登壇し、「前橋の新しいリーダーは、公平で、クリーンで信頼できる人物でなければなりません」と訴えた。重要な議題は、市民に政策を訴える政治団体を結成することであった。団体名は、「クリーン前橋作戦会議」と決まり、推されて私が代表となった。

 私は再び登壇し、新しく出来た団体の代表として挨拶した。「今、政治不信が渦巻いています。政治はクリーンでなければなりません。クリーンなリーダーを実現し、前橋市民の力を決集するにふさわしい名前の団体が出来ました。この会が、この何十倍にも広がることを目指して頑張りたいと思います」と。会場の熱気から十分な手ごたえを感じることが出来た。

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2007年10月22日 (月)

「中国訪問を振り返って」

◇大連市のことそして市長のこと。大連市は遼東半島の南端にあり、東には黄海、西には渤海が迫る。緯度は新潟県の少し北に位置し、近くには日ロ戦争の激戦地旅順がある。飛行機で約2時間半の距離である。かつて日本が支配した地でその名残りも多い。大連賓館(旧大和ホテル)もその一つだ。日本語を学ぶ若者が多いのも日本との関係が密であることを示す。群馬県はこの点を十分に生かしていない。今回の訪中でこのことを改めて痛感した。市長の夏徳仁氏はこの点を認めて今後群馬との関係を深めたいと語っていた。人口は約650万人。

 大連市長夏徳仁氏は51歳。東北財経大学の学長をつとめた人である。噴水をあげ、北国の春の歌を轟かせて熱烈歓迎してくれたことは先日の日記で書いたが、実は、もう一つ特記すべき歓迎ぶりがあった。それは、私たち8人の県会議員にそれぞれ2冊ずつの書物をプレゼントしたことである。米国人ジャーナリスト、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」上・下で、世界的べストセラーとなったもの。日本経済新聞社出版の日本語版である。この本のことは聞いていたが手にして読むのは初めてである。私たちの為に用意したと秘書が言っていた。

 上巻を読み進むうちに、夏市長がなぜこの本を私たち日本人にプレゼントしたか分かった。表題のフラットとは平らを意味する。世界が平らになるとは、世界中のビジネス環境が同じ条件になることだ。これまでは欧米や日本など先進国と発展途上国の間には高低の差があったがインターネットの普及や情報通信技術の発達などによって中国やインドなども同じレベルのマーケットに急激に変わりつつある。

 例えば中国についていえば、世界経済に門戸を開き多くの外国企業を受け入れた。中国人は、初め、単純な作業に従事していたがやがて高度な技術もマスターし先進国との差をちぢめつつある。

 この点につき、書物の中で、夏大連市長は日本との関連を次のように語っている。「大連には20万人の学生がいる。多くの学生はコンピューターサイエンスを学ぶことを義務づけられ、また日本語を学んでいる。日本との距離も近く大連は日本のアウトソーシング(外部委託)のうってつけの場所だ。中国人は、初めは日本人に雇われるがやがて自分の会社をつくる」と。私は、大連外国語大学には日本語を学ぶ学生が3,000人以上いることを思い出した。そして、このような大連の可能性を群馬県は生かしていないと思った。

◇私たちの北京訪問は、オリンピックの準備及び共産党大会と重なっていた。オリンピックには世界の人が集まり世界の目が北京に集中する。食の安全の問題について質問すると北京市の幹部は、国の威信をかけて取り組むと決意を語っていた。深刻な環境問題は一部の人が豊かになっている成長第一主義の副産物である。天安門広場には地方から来た多くの貧しい人の姿があった。共産党大会はこれらの課題にこたえようと必死だ。先進国といわれる日本にも中国から学ぶべき点は多いと思う

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2007年10月21日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(36)第2章 塩原眞資さんのシベリア

「日本人、ハラキリ」

 ロシア人は、こう言って、日本人の行動を面白く眺めたという。腹を切るという武士道の姿と、物乞いをする日本人の関係を人々はどのように受け取ったのであろうか。

このような生活の中で塩原さんは、手真似でわずかに通じる感情によって、わずかに食べ物が手に入るのだから、言葉が通じたらどんなに効果的かと思い至った。そこで、あらゆる機会をとらえ、ロシア語を学ぼうとした。その気になればチャンスはあった。ロシア兵の言葉にも注意して耳を傾ける。ロシア語ができる日本人もいて時には教えてもらった。時たま接する町のロシア人の口元にも注意を払う。こうして、塩原さんはロシア語をひとつひとつ覚えていった。言葉が伝わることの効果は驚くほど大きかった。身振りでは伝えられない心を伝えることが出来るのだ。

「私は、とても空腹なのです。どうか、少しでも食べ物を分けてください」

ロシア語で話しかけることで、意味が正しく伝わるということの他に、感情を伝えることができる。ロシア人からみれば、異国の人がロシア語で話すことは驚きでもあった。驚きによって、心の扉が開けられ、その同情心を揺り動かした。人間は、どんな時にも言葉の動物であり、心の動物なのだ。

 ロシア語は食べ物を手に入れる場合だけでなく、いろいろな面で役に立った。ロシア人との間ではさまざまなトラブルが発生し、塩原さんは班長としてロシア人監督との交渉に当ったが、ロシア語は問題解決のための良き手段であった。憎しみも誤解も言葉によってある程度乗り越えることができるのだ。言葉は、追い詰められたギリギリの状況下の人間関係を少しでも改善させることのできる有効な武器であった。

コムソムリスクよりずっと寒いゴーリンという所の収容所にいたある抑留経験者も、ロシア語で生命を助けられた一人である。ここでは、真冬は零下70度まで気温が下がる。この人の証言によれば、零下20度だと体がチクチク痛くなる。30度から40度だと痺れてきて、40度以下だと無感覚になるという。

このような酷寒の中の森林伐採、劣悪な食事、まさに、地獄のような生活を仲間と共に生き抜くことができたのは、ロシア語のお陰だった。とにかく、言葉が通じないことには窮状を訴えることもできないというので、教科書も辞書もない収容所で、必死にロシア語を勉強したという。また、ぎりぎりの状態で入院した時、まわりのベッドの日本人がバタバタ死んでゆく中で、助かったのはロシア語で身体のことを詳しく訴え、一日にコップ3分の2くらいの粥をもらうことが出来たからだとこの人は振り返っている。

塩原さんは飢えに追い詰められ、窮地を抜ける唯一の手段と思って覚えたロシア語が大いに役立ったのであるが、このことは、相手が人間である以上、人種が異なっても心の底には共通なものがあり、その共通なものに訴える最良の手段が言葉であることを教える。

前記の通り、私がニューギニアで取材したとき、飢えに苦しむ日本人の軍人が現地の人と食べ物を得るための交渉をする際、少しでも現地の言葉を解することが交渉を成立させる鍵であったことを聞いた。

このようなことは太平洋戦争において日本人が海外の各地で経験したことであろう。

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2007年10月20日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(35)第2章 塩原眞資さんのシベリア

塩原さんは、家族愛に満ちた温かい家庭で育った。シベリア抑留中も前橋市田口町の家庭では、食事のとき、塩原さんが座った席には温かいご飯が盛られ、家族は塩原さんを囲むようにして、無事を祈った。塩原さんは、かつて、どんぶりでご飯を食べていたので、子煩悩な父親は、「眞資、いっペー食べろ」と言って眞資さんの席にはいつも、どんぶりのご飯を置かせたという。

あの懐かしい父母、兄や妹の所へどんなことがあっても帰るのだという強い執念が、極限の状況で生命の火を燃やし続ける力となっていた。どうしても生きるのだという強い意志を持たぬ人は、寒さと飢えに負け、春を待たずに消えていった。そして、このことを聞くにつけ、人間がいかに精神的な存在であるか、心に何を抱くかによって大きく異なるものであるかを知る。

私は、平成13年にパプアニューギニアを訪ねて取材し、『今、みる地獄の戦場』という小冊子を著した。その中で、日本の兵士は、4千メートルを超えるサラワケット山の踏破に挑戦するが、コース上は、まさに死屍累累、おおよそ2,200人の犠牲者が出た。ここでも、生と死を分けるものは、「心」であった。

その場面を、私は次のように表現した。

「兵士は、ただ生きたいという執念で歩いていた。何も考えられない朦朧とした頭の奥に故郷の妻や肉親や山河が浮かぶ。それが生きたいという執念を生み、この執念が考えられない力を身体のどこかから引き出していた。この執念のない者、あるいは、この執念が弱い者は倒れていった。人間は精神の生き物である。精神力が身体の隅々の細胞からわずかなエネルギーを絞り出し、それが極限の命を支えていた。横たわる死体は、俺を乗り越えて生きろ、俺のようになるな、と訴えている。そして、サラワケットの頂上が、頑張れ、もう少しだぞと声援を送っていた」

 戦争中は、多くの激戦地で「サラワケット越え」があったが、戦争終結後になお、「サラワケット」に挑戦しなければならないことがシベリア強制抑留の特色であった。

 寒さ以上に人々を苦しめたものは飢えであった。軍馬を殺して食べたときの飢えが、日常的に塩原さんたちを苦しめた。

〈飢えの前では、人間は動物と同じようになってしまうのです〉

塩原さんはこう言って、当時のひもじさを振り返る。

動物のようになるとは、人間としての理性や自尊心も失ってしまうということである。

収容者たちは、隊列を組まされ、森林の伐採地や土木工事の現場へ歩かされる。行き交うロシアの人々が珍しそうに見ている。空腹の日本人が手真似で物乞いをすると、時には、食べ物を投げてくれる。塩原さんたちは、鳩がまかれたエサに群がるように、投げられた食べ物に争って飛びついた。また、道に何か落ちていると看守の目を盗んで拾ってポケットに入れた。後で取り出すと、黒パンの端、ジャガイモの皮、ニンジンの尻尾などの収穫と共に馬糞、石ころ、土の塊まであった。

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2007年10月19日 (金)

「天安門広場の活気」(18日)

◇中国最後の朝、ホテルを出て天安門広場に向う。共産党大会の雰囲気を肌で感じとりたいという目的があった。長安街に至る道路は、異常に渋滞していた。党大会のため長安街が大渋滞しているらしい。やっと長安街を横切って、裏道から回り込むようにして天安門広場についた。100万人が集まれるという広場には厳しい寒気が流れていた。既にこの広場を埋めるように、様々な人々の群れが動いている。赤い帽子をかぶった一団が、一列になって人民大会堂の方に動いている。また、いかにも僻地の少数民族かと思われる様子の人々が先に旗を立ててもくもくと天安門に向かっている。天安門の高い壁には、この動きを静かに見守る毛沢東の肖像があった。1949年、この門の上で、毛沢東は、中華人民共和国の建国を宣言した。それは、異民族に支配され、欧米列強の侵略に悩まされてきた中国民衆を解放し民族の独立を勝ち取って自らの国をつくり上げた瞬間であった。若かった毛沢東や周恩来の姿、熱狂する民衆の姿を想像し、私の胸は熱くなった。

 天安門広場には、いつもとは違った光景が見られた。広場の一角には、万里の長城のミニチュアが配置され、また、中央には、天安門に向き合って呼びかけるように数十メートルの長さの大看板がおかれていた。それには、白地に大きな赤い字で、「第十七回全国共産党大会」という文字が書かれている。天安門に向ってこの看板の左の方角に人民大会堂があり、全国から集った共産党代表の会議が開かれている。

 天安門の広場の上には青い空があった。いつもは、大気汚染で青い空は少ないという。環境問題は現在の中国にとって大きな課題なのだ。改めて天安門広場の人々を観察するとほとんどが地方から出てきた貧しい人々に見える。北京市街を埋め尽くすかに見える近代ビルとの対比を考えると、これは中国の社会で格差が深刻であることを物語る事実と思えた。

 入手した資料によれば、胡錦濤総書記は、環境汚染や格差拡大などの弊害を生んだ経済成長至上主義を改めて持続可能な発展を目指すことに全力を尽すと、この大会で強調した。そして、この持続可能な発展を実現するための戦略的思想が「科学的発展観」と「社会の調和」だという。

胡首席は、大会の政治報告の中で、経済成長で払った環境の代償はあまりにも大きかったと指摘し、農村の貧困と社会保障の遅れの深刻とを認め対策の強化を訴えたとされる。

中国は社会主義の国である。社会主義の根本は人々の平等だ。しかし現実は格差がひどくとても平等とはいえない。政治は社会主義で経済は市場主義、これをどのように調和するのか。その方向が中国の特色ある社会主義だというのだ。

共産党大会に各地方から選ばれて参加した人々は2,217人。その中には、16人の現役スポーツ選手がいる。党がオリンピックに意欲を示していることが分かる。中国政府は、オリンピックの成功に向けて国民の心を結集させ国の諸課題を解決する力を生み出そうとしているように見える。

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2007年10月18日 (木)

「巨大な北京は変わりつつあった」(17日)

◇大連から約一時間で北京空港に立つ。空港から北京市中心に向う途中も既に数年前と異なる変化と活気が感じられた。中心街に入ると建設ラッシュで随所に「奥运」という文字が目につく。运は運の略字で、これはオリンピック運動会の略なのだ。歴史のまち北京が変わろうとしている。その歴史的瞬間に出会っているのだと感じる。林立する新しいビルの谷間にわずかに「四合院」が残っている。

 「四合院」とは、塀で囲まれたなかの共同居住の形態である。長い歴史をもつ北京の人々の生活の場である。隣の家でネギがないといえば、ハイと言って分けてやる、よその子どもも家族のように育て合う、そこには温かい人情と庶民を支えた生活の習慣があった。それが次々に取り壊されて高層のビルに変わりつつある。人々は郊外の高層アパートに移されている。歴史のまちが、ピカピカの近代都市になってしまう。ガイドが言った。「オリンピックが終わると北京は全く新しいまちに生まれ変わります」と。北京は中国の象徴である。北京が変わるということは中国全体が変わりゆくことを意味する。それは中国にとって何を意味するのであろうか。それにしても「オリンピック」の影響は凄まじいものだ。

 紫禁城の北方にオリンピックの建設現場はあった。近づいてその壮大さとあふれるばかりのエネルギーに度肝を抜かれた。巨大な建物がいたる所に生まれ、更に多くが建築中である。その中心に奇怪な怪物のような巨大な物体が姿を現した。人々は「鳥の巣」と呼ぶというが私には鳥篭をかぶせた形に見えた。篭は竹で編むが、その竹に当るものが太い鋼鉄である。篭のてっぺんに蟻のように動く人の影があった。ここ北京オリンピ

ックのメインスタジアムで開会式・閉会式・陸上競技が行われる。収容人数は9万1千人だそうだ。毎日2万人の労働者が建築の工事にたずさわっているといわれる。

 私たちは、果てしなく広がる工事現場を見た。ここに入れるのは特別の許可を得た人たちのみである。あちこちに、北京オリンピックのスローガン「同一个世界同一个梦想」が貼られている。「一つの世界・一つの夢」をいう意味だ。偏狭なナショナリズムがぶつかり合う場ではなく、全世界の人々が真実の姿で触れ合い、心を通わせる場にしなければならないと思った。中国が真の大国になるには、この課題を実現しなければならない。多くの競技場は今年末までに、そしていわゆる「鳥の巣」は来年3月迄に完成させるという。

◇北京市の市議会である。議場をみた。記者席は最後列にわずかに設けられていることと傍聴人席が極端に少ないことが印象的で北京市の民度を物語るとみた。

◇長安街を走る。道幅の広さには、いつも圧倒される。囲りの建物もオリンピックを前によそおいを新たにしているように見える。天安門広場は夕闇の中で夜の姿を現していた。人民大会堂の影がネオンに縁どられて浮き上がっている。第17回全国共産党大会が開かれているのだ。オリンピック後の中国の進む道、広がる格差、深刻な環境問題なども議論されているのだろう。毛沢東の肖像が見える。彼は今日の中国を天国からどう眺めているだろうか。

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2007年10月17日 (水)

「大連2日目の大きな成果」(16日)

◇経済開発区の視察先はサンヨウ電機の関連会社二社である。日本企業を囲む経済環境等を学んだ。賃金が年々上がっているという。都市従業員平均月給は、日本円で約2万7千円。最低賃金は、9750円である。10年程前、大連の東芝を訪れた時、中学卒業者の平均月給は約5千円と聞いた。中国の変化の大きさを物語る事実である。電力は石炭を燃料として使う火力発電が主であるが、開発区の近くには原子力発電所が出来ているという。石炭を使うことの問題点はCO2の発生である。

◇午後、大連市長の熱い歓迎を受けた。市長の夏徳仁氏は、51歳、かなりの長身である。誠実さと静かな迫力が感じられた。21世紀の日中の関係はますます重要である。力を合わせて両国の友好と発展を実現しようと私が中国語で話すと拍手が起きた。福田事務所から重ねて連絡と打ち合わせがなされていた為、市側の態度は丁寧で、群馬県と大連市との今後の協力関係についても非常に前向きな話ができた。関根訪中団幹事長の尽力のお陰である。

 市長の歓迎ぶりは大仕掛けなものだった。うながされて2階のバルコニーに出ると、眼下に、庁舎前の広大な広場が彼方のビル群まで広がっている。市長はバルコニーの端に進んで備えつけた装置のフタを開け現れた画面を指で押した。すると、遥か前方の旗の下から突如噴水の水が勢いよく立ち昇り、同時に日本の歌、「北国の春」が大音響で始まったのだ。「特別の場合にこれをやります。周りの人々は、これを開いて日本から特別の人が来ていることを知るのです」と。市長は群馬県を訪ねたいといっていた。群馬と大連との交流を深めるよいチャンスだと思う。

◇夜は、プラマホテルで大連市人民代表大会の幹部が歓迎してくれた。議会関係の人たちである。コの字形に配置された席の中央に私と人民代表大会常務委員会副主任干桂栄が座った。干さんは女性である。干さんは、歓迎の挨拶の中で、群馬県は4人の総理大臣を生んだ県ですねと切り出して、日中の関係の重要性、群馬県との交流を進めることの意義などを強調し、私たちに協力出来ることがあったら言って欲しいと、教育・産業・人の交流などの問題について熱心に語った。

 やがて私の番になった。私は次のような話をした。「日本では地方分権といって地方を重視する時代が進んでいます。そして国際化の時代です。私達は、歴史的にも関係の深い大連との交流を深めたいと願っています」と。話の中で、大連外国語学院などに書物を送る事業を進めてきた事にも触れその他具体的な提案もした。

 今後の事を話し合う担当者を決めようということになり中国側は孜福征氏が、日本側は私がそれぞれ引き受ける事になった。金子一郎県議が来年群馬県で開かれる全国緑化フェアへの出席をすすめると孜氏は関係者を是非出席させたいと答えた。

 難しい話から砕けた話題に進む中で、私は、群馬の特色として「カカア天下と空っ風」があるといって群馬のカカアについて説明した。誰かが団長は炊事、洗濯、料理までするといったら、干さんは笑いながら即座に「信じません」と言った。重ねる乾杯の酒がうまかった。大連の夜は群馬との交流の新しい芽を静かに育てているようであった。

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2007年10月16日 (火)

「中国視察団、大連の一日」(15日)

◇大変密度の高い大連の一日だった。空港から一路旅順へ向う。県会議員は8人。中国での通訳は李という女性である。借りあげた専用のバスの中で、彼女は、日ロ戦争の歴史を話しだした。その詳しさに驚く。空港から旅順まで約50分。途中、水師営という町にかかった。乃木将軍と敵の大将・ステッセルが会見した所である。ステッセルは日本に負けて死刑になるという情報を得た日本政府は、帝政ロシアに働きかけて死刑をやめさせたのだという。真偽の程は分からないがガイドはこのようなことを事細かく話してくれた。聞けば、この李さんは、これから訪れる大連外語学院の卒業生だという。

 一行は旅順の激戦に着き、203高地に登った。これまたガイドの説明によれば、海抜206mあったところを、日本軍の猛攻によって山が3m低くなって203mになったという。

 203高地に立つと旅順港の緑に囲まれた静かな海面がもやの中に広がっていた。その静けさは歴史の歩みをしばし止めて私たちに百年前の出来事を語りかけているようであった。大連の中心街から旅順に移った外国語学院は驚くほどの壮大なスケールであった。陳先生が、引っ越したばかりだと語っていたが、まだ、建設中のところがいたる所にあった。資料室に案内され、団員は、「日中友好中村文庫」の前で写真をとった。学生の学ぶ様子を見、日本の茶室も見学した。

 研修室で、私は、県立女子大など群馬の大学を紹介し、群大で始まる重粒子線による癌治療を説明した。構内をバスで見学しながら陳岩教授は語りかけた。「日本語を学ぶ学生は3千名を越えその数は世界一です。構内に日本の文化を紹介し体験できる一画を作りたいのです。柔道とか、剣道とか、踊りとか、日本の料理とか」と。

 大学の高い建物群の後ろに赤い夕日が落ちる頃私たちは大学を去り大連市に向った。大連のまちは、急速に変わりつつあった。数年前にはなかった高層ビルが林立し、更にビル建設の工事現場がいたる所に見られた。「中国製の食の安全が問題となっています」と隣の陳教授に話しかけると、「日本のマスコミが悪いです、これっぽちの事を大きく書く」と、陳さんは指の先の爪をつまんで答えた。また、環境問題は重大で政府も力を入れ始めたこと、社会が豊かになって学生の学ぶ意欲が落ちてきたことが心配であることなどを語っていた。

 夜、宿舎である大和ホテルの近くにある「川王府」というレストランで私たちは招待を受けた。僚寧師範大学の曲先生や市の要人等も参加し群馬県と交流をすすめる事などに話がはずんだ。いろいろな中国料理が並ぶ。食の安全のことなど忘れて料理を口に運んだ。私の中国語の挨拶は途中で行き詰まり、笑いがおき余興の役割を果たしたようだ。「大和ホテル」は満州国時代の日本が建てたホテルである。まわりには、関東軍や満鉄ゆかりの建物もある。目の前に広がる空間に、60年前の日本人が激しく動く光景を想像した。

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2007年10月15日 (月)