« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月31日 (水)

「朝食会・決算特別委員会」

◇朝6時、約40分走る(30日)。体調は正直に現れる。2、3日前、足が重くて途中で歩いてしまったことがあった。前日の疲れが残っているとか睡眠不足とか、いろいろな要素の総合がその時の体調を決める。マラソン選手に好調不調があるのが分かる気がする。いつもより早い時間に走ったのは朝食会があったからだ。

◇7時半、群馬会館食堂で市議団と前橋、富士見地区の県議とで朝食会が行われた。会議の目的は先日立ち上げた「クリーン前橋作戦会議」に関することである。代表者である私の挨拶に続いて、政治団体として登録がなされたこと、事務所の設置、政策立案等について報告がなされ、そして、議論が行われた。市長選に向けて大きな歯車が動き出した。知事選の時、この食堂で度々朝食をとりながら会議が行われたことが懐かしく思い出された。

◇「群馬県議会訪中団・中国レポート」を書きあげた。私が代表して執筆したが訪中団全員の作品である。近日中に、懇親会を兼ねた帰朝報告を行う予定である。中国における見聞を今後の県政の発展にどのように生かすかが課題である。

◇決算特別委員会のこと。環境森林関係で私はいくつか質問したがその中に松くい虫対策に関することがあった。私は、赤城の南面を歩くとき松くい虫に侵された松の木が無惨な姿をさらしているのを見て気になっていた。正にぞっとするような死の山の光景なのだ。「枯れた松は早く伐採し樹種の転換を図って適切な苗を植えるべきである、そのことが二酸化炭素吸収源としての森林整備のためにも急務ではないか、そして、伐木の使い道はないのか、使い道としてバイオエタノールの原料にはならないのか」私はこのような発言をしたのである。

 当局の説明によると、標高600mから700m位の松は手の打ちようがない、赤城神社に至る松並木の松など守るべき所は重点的に守りその他は樹種の転換を図るという方針である。伐採した松の利用については、合板として、チップとしてまたバイオエタノールの原料として利用することが研究されているらしい。そして、当局は、赤城南面未利用バイオマス利用検討協議委員会が発足しようとしていると発言した。

また、二酸化炭素(CO)吸収源としての森林整備に関し、群馬の森林はどの位の量のCO

を吸収できるのか、京都議定書の実現に関してどの位の量を想定して森林整備を進めるのかと質問し、資料の提出を求めた。

◇弓道連盟の幹部が議会に私を訪ねた。会員の不祥事を説明し詫びるためである。私は群馬県弓道連盟の顧問なのだ。不祥事とは女子高生に弓を指導しながら体に触れたとして新聞に報道された件である。「李下に冠を正さず」で、疑われるようなことはすべきでないと話し合った。

◇県民マラソンのナンバーが来た。30001、10キロの部門の最初の番号である。床について目をつぶるとコースが浮かぶ。イメージトレーニングした。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月30日 (火)

◇健康福祉局関係の決算審査(26日)

 私が質問した事は、癌登録事業、タミフル、食品検査センターなどについてである。国も県も癌対策に取り組んでいるが、効果を上げるためには客観的なデータが必要である。その点で重要なものが、生存年数等に関する記録である。このためのデータを集める事業が癌登録事業である。本県はどのように取り組んでいるのか資料を要求した。タミフルは抗インフルエンザ薬である。過去の例によると新型インフルエンザが発生すると人々には免疫がないので大変なことになる。いつ発生してもおかしくない、危険な時機が近づいているといわれる。どのような危機感を抱いているかと聞いたが答えずらそうであった。食品検査センターの役割は重大である。危険な中国製食品が国のチェックをくぐって出まわってしまう。食品検査センターはそれを発見し県民に知らせる義務を負う。中国産のウナギのかば焼きから発癌性物質を検出して話題になったのはこの食品検査センターである。優れた設備とスタッフをそろえているのだから市場の食品を積極的に検査して、県民にわかりやすく報告するべきだと提案した。

◇芳賀ふれあい文化祭に高木市長が出席した。文化祭の祝辞というより市政のセールスポイントを真剣に説明し、終わると急いで退席していった。前橋市長選が実質的には始まっていることを感じた。

 文化とは、こうだと説明するのは難しい。私は、挨拶の中で次のように述べた。「文化は心の豊かさを支えるものです。そして健全な地域社会を支える基盤です。今、私たちは、教育・福祉・治安・環境と、様々な問題を抱えています。解決のカギは地域の力です。それを生み出すものが地域の文化です」と。

 文化祭の販売コーナーでちいさなツボが売られており、何となく心ひかれ買って持ち帰り黄色い菊をさした。高さ15cm足らずのツボは首の部分が細くくびれその上に、小さな口を開けている。濃い菊の黄色がツボの淡い茶色と溶けあってツボは、私の書斎の白い机の上に置かれた。製作者は分からないが、私をいやしてくれる。

◇結婚披露宴に出る(28日)。新郎のK君は、昔、私の塾に通っていた。当時が思い出されて懐かしい。大学で英米文学を学んで今は建設会社の社長である。新婦は、小学校の先生である。似合いのカップルだ。実はK君の趣味はマラソンで、間もなくやってくる11月3日の県民マラソンで、私と同じ10キロコースに出る。私が57分台で走るところをK君は40分で走る。さすがに若い。私の挨拶のポイントを紹介しよう。英米文学を学んだ建設会社の社長というのは素敵である。企業は社会に貢献するもの。よい家庭が一層の力を与えてくれるに違いない。建設業と教師、違った世界にいることがお互いの助けになるはず。人生はマラソンといわれる。現実のマラソンと人生のマラソン。両方とも完走して欲しい。

◇「理科の面白さを育てる会」に出た(29日)。私は会の代表である。忍耐強く助走期間を続けてきた。容易に諦めないのが私の特色である。それでも、一つのイベントを計画するところまできた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月29日 (月)

「ふるさと塾のこと」(27日)

◇今月のテーマは池田勇人だった。今年は、これ迄に、吉田茂、鳩山一郎、岸信介を取り上げた。皆個性豊かでエピソードも多くそれぞれ歴史的使命を果した総理だった。今回の池田勇人は特に人間的に面白く、その生き様は波乱に富んだものだった。波乱という点では吉田茂たち三人も大変なものだが、池田の場合その挫折振りが、より庶民の共感を呼ぶものであったと思う。私の話もその挫折の部分に時間をさきながら進められた。
 池田政権は岸政権を継いでスタートした。岸政権は、安保改定を強行するために民主主義のルールを無視した。そのために国会を取り囲むデモの高まりは頂点に達し政治不信も極めて深刻となった。池田政権が「寛容と忍耐を」を揚げ「低姿勢」を強調したのは、岸政権がつくりだした混乱を収拾し政治に対する信頼を回復するためであった。しかし、池田の低姿勢は、国民を欺すためのものでなく本物であった。それは、池田が人生で度々挫折を味わいまた地獄を見たことと関係がある。ここまでが私の話の導入部である。
◇若いときの挫折とは、また地獄とは何か。池田は一高受験に二度失敗し東大受験にも失敗し京大に入る。高文に合格し大蔵省に入るが出世コースからは外れていた。そして地方の税務署長の時何十万人に一人という奇病難病に患る。「天疱瘡(てんほうそう)」といって全身に水ぶくれが出来、そこがウミになりかさぶたになる。ミイラのようにぐるぐる包帯をまき、包帯をとりかえるのに4~5時間もかかった。痛さと痒さで七転八倒の苦しみであった。最初の妻は看病の中で死ぬ。池田は俺のために死んだと号泣した。母・うめは神仏にすがって必死であった。闘病5年で奇跡が起こる。助かった池田は自分は全て失ったが強い人間になったと語る。大蔵省の職は失っていたが先輩のはからいで復職が出来た。「禍福はあざなえる縄の如し」というが災いの後には福が来る。出世競争で池田の前を走って要職にあった者はマッカーサーの公職追放でいなくなった。池田は頑張って主税局長になる。やがて、吉田茂によって大蔵大臣に抜てきされた石橋湛山が面白い男池田に目をつける。石橋蔵相は池田を大蔵官僚のトップ、大蔵事務次官に抜てきした。池田はやがて衆議院選に出て当選すると、当選一回で、吉田内閣の大蔵大臣となった。石橋も吉田も官僚らしからぬ野人池田の魅力を愛したのであろう。「貧乏人は麦を食え」、「中小企業の二人や三人は死んでもかまわぬ」などの放言が報じられたが池田の人気は高かった。昭和35年から39年まで4年4ヶ月の池田政権は、所得倍増を掲げて日本の高度成長の基礎をつくった。昭和39年アジアで初めてオリンピックが行われていた。絶頂期の池田に又もや魔の手が忍び寄っていた。末期の喉頭癌であった。オリンピックの閉会式の翌日、池田は辞任を発表し入院した。後継者佐藤栄作とは、その昔、同じ宿舎で一高を受験した以来の縁であった。池田は65歳で世を去った。来月は佐藤栄作を取り上げる。
☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月28日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(38)第2章 塩原眞資さんのシベリア

ところで、暗い抑留生活の象徴であり、すべての抑留者の命を支えた黒パンとはどのような食べものか。外見はチョコレート色で中身は褐色、少し酸っぱい味がする。本来はライ麦で作るものだが、捕虜たちが食べたものは、ライ麦だけでなく、大麦、小麦、とうもろこし、ジャガイモまで入っていた。これらの粉末を水で練ってイースト菌で発酵させて焼く。1キロ、2キロ、3キロ、と大きさは各種あるが、形は長方形の角材のようであった。黒パンは、外側の硬い皮の部分が好まれたという。そこは、ぎっしり詰まっていて、軟らかい部分より得だということである。

実は、食事に関するさらに残酷な事実が待ち受けていた。収容所生活が始まって、何ヶ月が過ぎて、ノルマによる等級食が実施されたのである。

作業ノルマと食事量の関係は収容所によって、また、労働の種類によって異なっていたが、塩原さんの所では、1級は黒パン150グラムとスープは実のない塩味の汁、2級は黒パン250グラムと野菜が少々入ったスープ、3級は黒パン350グラムと粟が入った味のよいスープ、4級は黒パン450グラムにトロリとするほど濃い粟と肉で味付けした上等なスープであった。

塩原さんは、当時の状況を次のように振り返る。

<飢えていた日本人捕虜は4級食欲しさによろけながらも身を削って働いたのです。だが弱い者はいつも1級食がやっとでした。同じ食卓で隣の者は4級で腹をさすり、こちらは1級のからっつゆです。見まいと思ってもつい横目で隣を見てしまう。惨めでした>

飢えた日本人を食べ物で釣って過重な労働をさせることは、ソ連の巧妙な狙いだった。

収容所には、それぞれの人に、それぞれの闘いがあった。それは、持てる知恵と気力と体力の全てをかけた自分との闘いであった。

寒さと飢えで死者が続出し、病人も増える。しかし、収容所側の医療の体制は粗末だった。体の具合が悪いと申し出ても、労働を休むことは容易に認められない。それは、収容所としての作業休止捕虜数の枠があって、それがいっぱいの場合には、新たな作業休止は認めないという、人間よりも労働成果を重視する考えが基本となっていたからである。

それでも時々、ソ連軍医による検診があった。この検診により捕虜は1級から6級までの体位を決められる。1級は昼夜の重労働に耐えられる者、以下段々労働は軽くなって4級は老年、障害、衰弱などで労働を免除され、5級と6級は入院させられる者である。検査の方法はいたって簡単で聴診器などは一切使わず、全裸にして尻の肉をつまんで、肉のつき具合や弾力性を見て、1級、2級と決める。一人に要する時間はほんの2,3秒である。

塩原さんは、ある時、若い美人の軍医の前に全裸で立たされた。恥ずかしいより捕虜の身の情けなさに涙が出る思いだったと振り返る。血気盛りの若い男が、美人の前に立たされて特別の感情が湧かないのか興味のあることである。この点、塩原さんは、飢えと栄養失調のひどい状態では性欲などはまったく湧かなかったと言う。生死がかかった極限の状況では、人間の欲望は生命の維持に直結するものに限られてしまうのであろう。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月27日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(37)第2章 塩原眞資さんのシベリア

四 黒パンを分ける時の凄まじさ

<収容所生活の中で一番幸せなのは、なんと言っても食べ物配分の時でした>

 たとえ川の水のようなスープでも食事の時間が狂おしいほど待ち遠しかったと塩原さんは振り返る。

食べること、そして飢えということは、人間の生命維持の問題に直結するだけに、飢えに耐えることの苦痛は想像を絶するものであろう。

戦争中、南方の激戦地ガダルカナルやニューギニアで飢えと戦った人の様子は飢えに直面する人間の極限の姿であろう。

ニューギニアで戦ったある兵士は次のように証言する。

「本当の飢餓の悲しみに涙した人間が、この地球上にどのくらい存在しているだろうか。自分以外はすべて食べられるものに見えてくる。殺すか殺されるか生死の対決を迫るものが本物の飢餓で、色でいえば真っ黒である」

 シベリアの飢えも酷かった。だからシベリアの収容所はどこでも、食べ物をめぐって絶えずトラブルがあり、また、赤裸々な生存競争があった。

 待ちに待って配られる食事は、黒パンと粟の入ったスープだった。わずかな黒パンを平等に分けることが大変な課題であった。配分される食べ物はまさに命の糧。隣のベッドの男が終わりに近づいた時、その手に握られた黒パンが手のひらから落ちるのを、まわりの者が今か今かと待ち受けるほどの厳しい現実なのである。

 黒パンを切って分ける時は、皆の必死の視線が、黒パンを分ける手に集中する。1ミリでも大きいか小さいかを、人々の目は決して見逃さない。ちょっとでも大きい切れ目は誰のとこへ行くか、それは、妥協を許さない死活問題なのだ。

どの収容所でも悩んだ揚げ句、トラブルの末、それぞれの工夫がなされていた。ある収容所では天秤が作られた。一本の棒の一方の端に石のおもりを下げ、他方の端に皿を下げて、これに切ったパンをのせるのである。これで重さを基準にして公平に切り分けることができた。

また別のある収容所では、切ったパンに番号をつけ、ベッドにも番号をつけ、目隠しをした人がパンを選ぶ仕組みを考えた。例えば、2番のパンを取り上げたら、そのパンは2番のベッドの人のものになる、という具合です。

塩原さんたちはクジで決める方法をとった。班の全員が目を皿のようにして見守る中を選ばれた担当者は慎重に、そしてまるで手術の執刀医が身体の危険な部分にメスを入れるときのような真剣な表情でナイフを動かしてゆく。ちょっとでもナイフの切った先が曲がろうものなら「ダメだ、なおせ」と怒声が飛ぶ。たとえ、1ミリでも小さく切られた方をクジで引き当てる可能性が誰にもあるからだ。

やっとのことで切り終えると、次にそれを受け取る順番をクジで決めるのである。小さく見えるものを引き当てた者は落胆する。また、同じものでも他人の手にあるものはより大きく見えた。

土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月26日 (金)

「決算特別委員会が続く」(25日)

◇平成18年度の歳入決算に関して、総務局関係から始まった当局の説明で、巨額な数字が早口でポンポンと読み上げられる。ページを繰りながら耳から入った項目と数字を目で追うのが忙しい。例えば、県税について、収入済額2310億…不納欠損額6億8436万…、収入未済額52億1538万…という様に。これらの数字の陰に多くの県民の汗と苦労と悩みがある。議会がキチンとチェックするためには、もっと余裕をもって数字の背景にある事実を分析し研究しなければと思ってしまう。

  ここに挙げた数字の中で不納欠損額とは、滞納額のうち滞納処分を停止した額のこと。税について大切なことは公正で公平でなければならないことだ。簡単に滞納処分を免れることがあれば、滞納処分を厳しく受ける人との間、またきちんと税を納める人との間に、不公平を生じる。私は、税の公平性という観点からこの問題と厳しく対応しなければならないとただした。

また、収入未済額が52億円余もあることも税の公平性の点から問題だ。当局は、これでも3億円縮減させたこと、及び5年で17億円縮減させたことを説明していたが、私は、もっと努力と工夫を尽くすべきだと発言した。

この日、問題になったことに県債がある。国債は国民に対する国の借金であり県債は、県民に対する県の借金である。この県債残額がおよそ9600億円になった。県民一人あたり約47万円である。財政の硬直化が進んでいるのである。また、バブル期に1,200億円以上あった貯金が減少し、476億円になった。

◇難しい数字の話をしてきたが、ここで、電話相談の話に触れようと思う。二つある。①県民電話相談24と②消費生活相談である。①は、24時間県民の電話相談に応ずるもので、昼間は専門の相談員が対応するが、夜は係長以上の県職員が2人ずつ交替で対応している。午後5時半から翌朝8時半までである。

決算特別委員会では、超過勤務手当てを出して毎晩対応することの当否も問題とされた。リピーターもかなりあるとか。私の友人の県職員が当番の時も夜11時過ぎると50歳台の家族のない者だがという人が延々1時間以上も話し、日誌を見るとこの人が毎晩のようにかけてきたらしい。昨夜、実情に触れてみようと思い、わたしはこの電話にかけて見た。身分を明かして聞いてみると今晩は私が初めてだという。話し相手になったり、相談の内容によっては他の機関を紹介したりするという。殺伐とした社会で孤独な人が多い時世だから費用がかかってもこのような電話が必要なのだろう。

◇県民センターの役割と位置についてただした。ここは消費生活相談をはじめ県民に細かなサービスをするところで重要な役割を担う。ただ二階なのでその存在に気づかぬ人も多い。一階に目立つ案内の表示をつけるべきだとこれまでも提案してきたが実現できない。この日はこの委員会で改めて主張した。消費生活相談については、先日の日記で触れた「法テラス」との連携を密にすること、及び県民にもっと知らせる工夫をすべきだと発言した。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月25日 (木)

「県民マラソンに備えて走る」(24日)

◇毎朝7時に約40分走る。今年も県民マラソンで10キロコースを走るがその準備である。一昨年は57分27秒、昨年は57分28秒であった。自分なりにベストを尽くした結果が前の年の記録と比べ1秒違いである。タイムというものは自分の体力の限界を正確に表すものだと思う。今年は、間もなくやってくる10月30日で満67歳を迎えるが、今の調子だと57分台で走れそうだ。

 走ることの意味を考える。走ることを可能にする力は体力と気力である。両方重要であるが生きる姿勢に強く関わる要素はむしろ気力である。10キロを走るというと、驚かれることがある。走らない人は、10キロのコースを想像して、それに圧倒され、気持ちの上で負けてしまうのだと思う。私の場合、10キロを完走出来るという自信が、困難なこと面倒なことに立ち向う精神力の源泉になっている。

 もう一つの体力の点については、健康が大前提になる。私は、毎年、11月に10キロを走るのだと言う事を年頭において生活の習慣をつくるように心掛けている。人生の前半は主に動物的要素で生きる事が出来る。しかし、人生の後半は精神的な要素がウェイトを高めるので、加齢に応じて人間はより人間的に生きねばならない。私の場合、生きることが、それを支える精神力を生み出している。

◇全国学力調査の結果が発表された。3万2千校、220万人の児童生徒が参加した。学力の低下が懸念される中で、文科省の狙いは学力の底上げである。小学6年、中学3年の全員が参加。費用は77億円かかった。群馬県の結果は、全国の平均をやや上回る傾向。そして小学校より中学校の方がややよく、関東1都6県の中でトップ。また、群馬県、全国とも、知識の活用が苦手で、知識を問う問題の方が成績がよかった。文科省が公表したのは都道府県別の結果(平均正答率)であるがデータは市町村や各学校にも送られる。それを公表するかどうかは市町村や学校にゆだねられるが県教育委員会は、具体的な正解率などを公表しないよう指導している。過度の競争が起こったり学校を序列化させたりすることを避けるためだ。ただ、全く公表しないというのでは、テストの結果を十分に生かせない。うちの学校は、こういう点はすぐれているが、こういう点には課題があるというように公表すべきである。

 都道府県で学力に格差があることが明らかになった。各教科とも全国で最も低いのが沖縄県である。北海道、大阪、高知も一部教科がかなり低かった。政府は、学力が低かった県などには教員を増やす等の対策をとる。学力テストの結果は宝庫である。それをいかに生かすかが最大の課題だ。各学校とも自分の学校の問題点を改善するための努力を授業で行えば良い結果に結びつくだろう。来年度も全国一律のテストを行うが、第一回の結果がどのように生かされているか見ものだ。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月24日 (水)

「決算特別委員会の審査」(23日)

◇決算とは簡単に言えば収入と支出の計算のこと。そして、決算の審査とは、いくら収入があってそれがどのように支出されたか、及び、その支出は県民の幸せのために適正であったかを審査することである。議会は閉会中であるが決算特別委員会の審査は続く。委員長は関根圀男氏、私を団長とする先日の訪中団の幹事長を務めた人である。

 18年度決算の様子を極く大ざっぱに示す。一般会計の歳入(収入)総額はおよそ7800億円、歳出(支出)はおよそ7700億円。歳入の中で一番ウエイトが高いのは県税で、そのうち法人税が増えた。それは、県内景気が回復したために企業収益が増加したからである。歳出の中で一位をしめるのは人件費でおよそ2350億円にのぼる。

◇この日は、公営企業会計(電気事業、団地造成事業、病院事業等)について質疑が行われた。その一端を紹介する。団地造成については、地価が下がったため予定した価格で工業団地が売れないので造成原価割れが生じていることや造成地の中に、汚染物質で汚染されているところがありその対策をどうするのか等が議論された。また、4つの県立病院事業については、精神医療センターと小児医療センターは、数年続いていた赤字が黒字に転じたが、その他の病院は厳しい経営状況にあり、特に心臓血管センターの赤字が大きいこと、また、ガンセンターでは医師不足のため婦人科がなくなってしまっていつ再会するのかなどが問われた。また、4つの病院の未収金、特に心臓血管センターの未集金が問題とされた。病院管理者が特に説明をしたところによれば、心臓血管センターに於いては、他の医療機関にはあまりない高価な医療機器を購入していることが赤字の一因になっているとのことである。

◇中国の表と裏。「日記」で中国のことを書いたらかなりの反響があった。寄せられた意見の中には、中国の表の一部を見ているだけではないかというものがあった。その通りである。限られた日数なので多くを見ることは物理的に不可能である。しかし、極く一部であっても実態に接する意義はあった。そしてその一部から全体を想像できる機会はいくつもあったのだ。

 大連市から旅順に向う途中、近代的な高層ビルの間に昔ながらの小さな家が並ぶのが見えた。私は、近代的ビルの背後には貧しい人々の世界が広がっているに違いないと思った。また北京では、「四合院」という昔からの集合住宅が一部残っているのが見えた。多くの「四合院」は壊され、人々は郊外の高層アパートに移住させられた。

 豊かな層と貧しい層の格差は数十倍ともいわれる。格差は不平等を意味する。不平等は不平不満を生む。役人の汚職が庶民の不平に拍車をかけている。貧しい人々がきらめく高層ビルを見上げる目が羨望から恨みに変わることを指導者は恐れている。巨大な国家が大きな矛盾を抱えて内部から崩壊するのか、変身してさらに大きく発展するのか見守りたいと思う。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月23日 (火)

「決算特別委員会で県立女子大へ」(22日)

◇県内調査の目的地は、藤岡中央高校と県立女子大学である。男子校の県立藤岡高校と女子校の県立藤岡女子高校がなくなって、二つの高校が統合した形で新設・県立藤岡中央高校の設立が認可されたのは平成16年10月である。新校舎の竣工式典は今年5月に行われた。40億円かけてつくられた学園は校舎、体育館・グラウンドなど全てが完備しているかの如くであった。

 二つの伝統校が統合されて生まれた新設の普通高校がどのような特色ある高校を目指すのか、私は興味を持った。かつて偏差値で普通高校の受験生を振り分けた時代があった。それは教育の目的からみて間違っているとされ、今日では各校の特色によって生徒が自主的に普通高校を選ぶ時代になった。

 新設校の特色の一つは、文理総合科と数理科学科の2学科を設置していることだ。現在、小中学校で理科離れが深刻である。授業の内容を工夫して理科の面白さを多くの生徒に分からせることができれば、藤岡中央高校の一つの特色が定着するだろうと思った。

◇県立女子大では富岡学長と戸沢教授が待ち受けていた。戸沢さんは、昔、東大の駒場寮で同室だったことがある。富岡学長の説明によると女子大のレベルは最近非常に高くなっている、レベルが高くなると本県出身者が入れないと思われるようだが逆である、それは、レベルが高くなるとわざわざ東京の大学まで行かなくもいいということで優秀な本県出身者が集るからだという。

 私は発言を求めて大連外国語学院と県立女子大との交流の件を説明した。大連外国語学院には3千名を越える学生が日本語を学んでおり、この大学は県立女子大との交流に賛成であること、そして、これは、先日大連の大学を訪ねて話し合ってきたことであり、大連市長も賛成していること等を話した。富岡学長は、大いに賛成であること、県会議員が仲介をしてくれれば有り難いと発言した。私は、どういうことで協力と交流が出来るか検討し、出来ることから一歩一歩進めましょうとしめくくった。

◇昨日、金子泰造県議を市長に当選させるための拡大会議が開かれた。予想以上の多くの人々が集った。県議と市議の合同会議は何回も開かれたが、このような大きな会議は初めてで、実質的な旗揚げといえた。

 私は主催者として登壇し、「前橋の新しいリーダーは、公平で、クリーンで信頼できる人物でなければなりません」と訴えた。重要な議題は、市民に政策を訴える政治団体を結成することであった。団体名は、「クリーン前橋作戦会議」と決まり、推されて私が代表となった。

 私は再び登壇し、新しく出来た団体の代表として挨拶した。「今、政治不信が渦巻いています。政治はクリーンでなければなりません。クリーンなリーダーを実現し、前橋市民の力を決集するにふさわしい名前の団体が出来ました。この会が、この何十倍にも広がることを目指して頑張りたいと思います」と。会場の熱気から十分な手ごたえを感じることが出来た。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月22日 (月)

「中国訪問を振り返って」

◇大連市のことそして市長のこと。大連市は遼東半島の南端にあり、東には黄海、西には渤海が迫る。緯度は新潟県の少し北に位置し、近くには日ロ戦争の激戦地旅順がある。飛行機で約2時間半の距離である。かつて日本が支配した地でその名残りも多い。大連賓館(旧大和ホテル)もその一つだ。日本語を学ぶ若者が多いのも日本との関係が密であることを示す。群馬県はこの点を十分に生かしていない。今回の訪中でこのことを改めて痛感した。市長の夏徳仁氏はこの点を認めて今後群馬との関係を深めたいと語っていた。人口は約650万人。

 大連市長夏徳仁氏は51歳。東北財経大学の学長をつとめた人である。噴水をあげ、北国の春の歌を轟かせて熱烈歓迎してくれたことは先日の日記で書いたが、実は、もう一つ特記すべき歓迎ぶりがあった。それは、私たち8人の県会議員にそれぞれ2冊ずつの書物をプレゼントしたことである。米国人ジャーナリスト、トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」上・下で、世界的べストセラーとなったもの。日本経済新聞社出版の日本語版である。この本のことは聞いていたが手にして読むのは初めてである。私たちの為に用意したと秘書が言っていた。

 上巻を読み進むうちに、夏市長がなぜこの本を私たち日本人にプレゼントしたか分かった。表題のフラットとは平らを意味する。世界が平らになるとは、世界中のビジネス環境が同じ条件になることだ。これまでは欧米や日本など先進国と発展途上国の間には高低の差があったがインターネットの普及や情報通信技術の発達などによって中国やインドなども同じレベルのマーケットに急激に変わりつつある。

 例えば中国についていえば、世界経済に門戸を開き多くの外国企業を受け入れた。中国人は、初め、単純な作業に従事していたがやがて高度な技術もマスターし先進国との差をちぢめつつある。

 この点につき、書物の中で、夏大連市長は日本との関連を次のように語っている。「大連には20万人の学生がいる。多くの学生はコンピューターサイエンスを学ぶことを義務づけられ、また日本語を学んでいる。日本との距離も近く大連は日本のアウトソーシング(外部委託)のうってつけの場所だ。中国人は、初めは日本人に雇われるがやがて自分の会社をつくる」と。私は、大連外国語大学には日本語を学ぶ学生が3,000人以上いることを思い出した。そして、このような大連の可能性を群馬県は生かしていないと思った。

◇私たちの北京訪問は、オリンピックの準備及び共産党大会と重なっていた。オリンピックには世界の人が集まり世界の目が北京に集中する。食の安全の問題について質問すると北京市の幹部は、国の威信をかけて取り組むと決意を語っていた。深刻な環境問題は一部の人が豊かになっている成長第一主義の副産物である。天安門広場には地方から来た多くの貧しい人の姿があった。共産党大会はこれらの課題にこたえようと必死だ。先進国といわれる日本にも中国から学ぶべき点は多いと思う

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月21日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(36)第2章 塩原眞資さんのシベリア

「日本人、ハラキリ」

 ロシア人は、こう言って、日本人の行動を面白く眺めたという。腹を切るという武士道の姿と、物乞いをする日本人の関係を人々はどのように受け取ったのであろうか。

このような生活の中で塩原さんは、手真似でわずかに通じる感情によって、わずかに食べ物が手に入るのだから、言葉が通じたらどんなに効果的かと思い至った。そこで、あらゆる機会をとらえ、ロシア語を学ぼうとした。その気になればチャンスはあった。ロシア兵の言葉にも注意して耳を傾ける。ロシア語ができる日本人もいて時には教えてもらった。時たま接する町のロシア人の口元にも注意を払う。こうして、塩原さんはロシア語をひとつひとつ覚えていった。言葉が伝わることの効果は驚くほど大きかった。身振りでは伝えられない心を伝えることが出来るのだ。

「私は、とても空腹なのです。どうか、少しでも食べ物を分けてください」

ロシア語で話しかけることで、意味が正しく伝わるということの他に、感情を伝えることができる。ロシア人からみれば、異国の人がロシア語で話すことは驚きでもあった。驚きによって、心の扉が開けられ、その同情心を揺り動かした。人間は、どんな時にも言葉の動物であり、心の動物なのだ。

 ロシア語は食べ物を手に入れる場合だけでなく、いろいろな面で役に立った。ロシア人との間ではさまざまなトラブルが発生し、塩原さんは班長としてロシア人監督との交渉に当ったが、ロシア語は問題解決のための良き手段であった。憎しみも誤解も言葉によってある程度乗り越えることができるのだ。言葉は、追い詰められたギリギリの状況下の人間関係を少しでも改善させることのできる有効な武器であった。

コムソムリスクよりずっと寒いゴーリンという所の収容所にいたある抑留経験者も、ロシア語で生命を助けられた一人である。ここでは、真冬は零下70度まで気温が下がる。この人の証言によれば、零下20度だと体がチクチク痛くなる。30度から40度だと痺れてきて、40度以下だと無感覚になるという。

このような酷寒の中の森林伐採、劣悪な食事、まさに、地獄のような生活を仲間と共に生き抜くことができたのは、ロシア語のお陰だった。とにかく、言葉が通じないことには窮状を訴えることもできないというので、教科書も辞書もない収容所で、必死にロシア語を勉強したという。また、ぎりぎりの状態で入院した時、まわりのベッドの日本人がバタバタ死んでゆく中で、助かったのはロシア語で身体のことを詳しく訴え、一日にコップ3分の2くらいの粥をもらうことが出来たからだとこの人は振り返っている。

塩原さんは飢えに追い詰められ、窮地を抜ける唯一の手段と思って覚えたロシア語が大いに役立ったのであるが、このことは、相手が人間である以上、人種が異なっても心の底には共通なものがあり、その共通なものに訴える最良の手段が言葉であることを教える。

前記の通り、私がニューギニアで取材したとき、飢えに苦しむ日本人の軍人が現地の人と食べ物を得るための交渉をする際、少しでも現地の言葉を解することが交渉を成立させる鍵であったことを聞いた。

このようなことは太平洋戦争において日本人が海外の各地で経験したことであろう。

土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月20日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(35)第2章 塩原眞資さんのシベリア

塩原さんは、家族愛に満ちた温かい家庭で育った。シベリア抑留中も前橋市田口町の家庭では、食事のとき、塩原さんが座った席には温かいご飯が盛られ、家族は塩原さんを囲むようにして、無事を祈った。塩原さんは、かつて、どんぶりでご飯を食べていたので、子煩悩な父親は、「眞資、いっペー食べろ」と言って眞資さんの席にはいつも、どんぶりのご飯を置かせたという。

あの懐かしい父母、兄や妹の所へどんなことがあっても帰るのだという強い執念が、極限の状況で生命の火を燃やし続ける力となっていた。どうしても生きるのだという強い意志を持たぬ人は、寒さと飢えに負け、春を待たずに消えていった。そして、このことを聞くにつけ、人間がいかに精神的な存在であるか、心に何を抱くかによって大きく異なるものであるかを知る。

私は、平成13年にパプアニューギニアを訪ねて取材し、『今、みる地獄の戦場』という小冊子を著した。その中で、日本の兵士は、4千メートルを超えるサラワケット山の踏破に挑戦するが、コース上は、まさに死屍累累、おおよそ2,200人の犠牲者が出た。ここでも、生と死を分けるものは、「心」であった。

その場面を、私は次のように表現した。

「兵士は、ただ生きたいという執念で歩いていた。何も考えられない朦朧とした頭の奥に故郷の妻や肉親や山河が浮かぶ。それが生きたいという執念を生み、この執念が考えられない力を身体のどこかから引き出していた。この執念のない者、あるいは、この執念が弱い者は倒れていった。人間は精神の生き物である。精神力が身体の隅々の細胞からわずかなエネルギーを絞り出し、それが極限の命を支えていた。横たわる死体は、俺を乗り越えて生きろ、俺のようになるな、と訴えている。そして、サラワケットの頂上が、頑張れ、もう少しだぞと声援を送っていた」

 戦争中は、多くの激戦地で「サラワケット越え」があったが、戦争終結後になお、「サラワケット」に挑戦しなければならないことがシベリア強制抑留の特色であった。

 寒さ以上に人々を苦しめたものは飢えであった。軍馬を殺して食べたときの飢えが、日常的に塩原さんたちを苦しめた。

〈飢えの前では、人間は動物と同じようになってしまうのです〉

塩原さんはこう言って、当時のひもじさを振り返る。

動物のようになるとは、人間としての理性や自尊心も失ってしまうということである。

収容者たちは、隊列を組まされ、森林の伐採地や土木工事の現場へ歩かされる。行き交うロシアの人々が珍しそうに見ている。空腹の日本人が手真似で物乞いをすると、時には、食べ物を投げてくれる。塩原さんたちは、鳩がまかれたエサに群がるように、投げられた食べ物に争って飛びついた。また、道に何か落ちていると看守の目を盗んで拾ってポケットに入れた。後で取り出すと、黒パンの端、ジャガイモの皮、ニンジンの尻尾などの収穫と共に馬糞、石ころ、土の塊まであった。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月19日 (金)

「天安門広場の活気」(18日)

◇中国最後の朝、ホテルを出て天安門広場に向う。共産党大会の雰囲気を肌で感じとりたいという目的があった。長安街に至る道路は、異常に渋滞していた。党大会のため長安街が大渋滞しているらしい。やっと長安街を横切って、裏道から回り込むようにして天安門広場についた。100万人が集まれるという広場には厳しい寒気が流れていた。既にこの広場を埋めるように、様々な人々の群れが動いている。赤い帽子をかぶった一団が、一列になって人民大会堂の方に動いている。また、いかにも僻地の少数民族かと思われる様子の人々が先に旗を立ててもくもくと天安門に向かっている。天安門の高い壁には、この動きを静かに見守る毛沢東の肖像があった。1949年、この門の上で、毛沢東は、中華人民共和国の建国を宣言した。それは、異民族に支配され、欧米列強の侵略に悩まされてきた中国民衆を解放し民族の独立を勝ち取って自らの国をつくり上げた瞬間であった。若かった毛沢東や周恩来の姿、熱狂する民衆の姿を想像し、私の胸は熱くなった。

 天安門広場には、いつもとは違った光景が見られた。広場の一角には、万里の長城のミニチュアが配置され、また、中央には、天安門に向き合って呼びかけるように数十メートルの長さの大看板がおかれていた。それには、白地に大きな赤い字で、「第十七回全国共産党大会」という文字が書かれている。天安門に向ってこの看板の左の方角に人民大会堂があり、全国から集った共産党代表の会議が開かれている。

 天安門の広場の上には青い空があった。いつもは、大気汚染で青い空は少ないという。環境問題は現在の中国にとって大きな課題なのだ。改めて天安門広場の人々を観察するとほとんどが地方から出てきた貧しい人々に見える。北京市街を埋め尽くすかに見える近代ビルとの対比を考えると、これは中国の社会で格差が深刻であることを物語る事実と思えた。

 入手した資料によれば、胡錦濤総書記は、環境汚染や格差拡大などの弊害を生んだ経済成長至上主義を改めて持続可能な発展を目指すことに全力を尽すと、この大会で強調した。そして、この持続可能な発展を実現するための戦略的思想が「科学的発展観」と「社会の調和」だという。

胡首席は、大会の政治報告の中で、経済成長で払った環境の代償はあまりにも大きかったと指摘し、農村の貧困と社会保障の遅れの深刻とを認め対策の強化を訴えたとされる。

中国は社会主義の国である。社会主義の根本は人々の平等だ。しかし現実は格差がひどくとても平等とはいえない。政治は社会主義で経済は市場主義、これをどのように調和するのか。その方向が中国の特色ある社会主義だというのだ。

共産党大会に各地方から選ばれて参加した人々は2,217人。その中には、16人の現役スポーツ選手がいる。党がオリンピックに意欲を示していることが分かる。中国政府は、オリンピックの成功に向けて国民の心を結集させ国の諸課題を解決する力を生み出そうとしているように見える。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月18日 (木)

「巨大な北京は変わりつつあった」(17日)

◇大連から約一時間で北京空港に立つ。空港から北京市中心に向う途中も既に数年前と異なる変化と活気が感じられた。中心街に入ると建設ラッシュで随所に「奥运」という文字が目につく。运は運の略字で、これはオリンピック運動会の略なのだ。歴史のまち北京が変わろうとしている。その歴史的瞬間に出会っているのだと感じる。林立する新しいビルの谷間にわずかに「四合院」が残っている。

 「四合院」とは、塀で囲まれたなかの共同居住の形態である。長い歴史をもつ北京の人々の生活の場である。隣の家でネギがないといえば、ハイと言って分けてやる、よその子どもも家族のように育て合う、そこには温かい人情と庶民を支えた生活の習慣があった。それが次々に取り壊されて高層のビルに変わりつつある。人々は郊外の高層アパートに移されている。歴史のまちが、ピカピカの近代都市になってしまう。ガイドが言った。「オリンピックが終わると北京は全く新しいまちに生まれ変わります」と。北京は中国の象徴である。北京が変わるということは中国全体が変わりゆくことを意味する。それは中国にとって何を意味するのであろうか。それにしても「オリンピック」の影響は凄まじいものだ。

 紫禁城の北方にオリンピックの建設現場はあった。近づいてその壮大さとあふれるばかりのエネルギーに度肝を抜かれた。巨大な建物がいたる所に生まれ、更に多くが建築中である。その中心に奇怪な怪物のような巨大な物体が姿を現した。人々は「鳥の巣」と呼ぶというが私には鳥篭をかぶせた形に見えた。篭は竹で編むが、その竹に当るものが太い鋼鉄である。篭のてっぺんに蟻のように動く人の影があった。ここ北京オリンピ

ックのメインスタジアムで開会式・閉会式・陸上競技が行われる。収容人数は9万1千人だそうだ。毎日2万人の労働者が建築の工事にたずさわっているといわれる。

 私たちは、果てしなく広がる工事現場を見た。ここに入れるのは特別の許可を得た人たちのみである。あちこちに、北京オリンピックのスローガン「同一个世界同一个梦想」が貼られている。「一つの世界・一つの夢」をいう意味だ。偏狭なナショナリズムがぶつかり合う場ではなく、全世界の人々が真実の姿で触れ合い、心を通わせる場にしなければならないと思った。中国が真の大国になるには、この課題を実現しなければならない。多くの競技場は今年末までに、そしていわゆる「鳥の巣」は来年3月迄に完成させるという。

◇北京市の市議会である。議場をみた。記者席は最後列にわずかに設けられていることと傍聴人席が極端に少ないことが印象的で北京市の民度を物語るとみた。

◇長安街を走る。道幅の広さには、いつも圧倒される。囲りの建物もオリンピックを前によそおいを新たにしているように見える。天安門広場は夕闇の中で夜の姿を現していた。人民大会堂の影がネオンに縁どられて浮き上がっている。第17回全国共産党大会が開かれているのだ。オリンピック後の中国の進む道、広がる格差、深刻な環境問題なども議論されているのだろう。毛沢東の肖像が見える。彼は今日の中国を天国からどう眺めているだろうか。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月17日 (水)

「大連2日目の大きな成果」(16日)

◇経済開発区の視察先はサンヨウ電機の関連会社二社である。日本企業を囲む経済環境等を学んだ。賃金が年々上がっているという。都市従業員平均月給は、日本円で約2万7千円。最低賃金は、9750円である。10年程前、大連の東芝を訪れた時、中学卒業者の平均月給は約5千円と聞いた。中国の変化の大きさを物語る事実である。電力は石炭を燃料として使う火力発電が主であるが、開発区の近くには原子力発電所が出来ているという。石炭を使うことの問題点はCO2の発生である。

◇午後、大連市長の熱い歓迎を受けた。市長の夏徳仁氏は、51歳、かなりの長身である。誠実さと静かな迫力が感じられた。21世紀の日中の関係はますます重要である。力を合わせて両国の友好と発展を実現しようと私が中国語で話すと拍手が起きた。福田事務所から重ねて連絡と打ち合わせがなされていた為、市側の態度は丁寧で、群馬県と大連市との今後の協力関係についても非常に前向きな話ができた。関根訪中団幹事長の尽力のお陰である。

 市長の歓迎ぶりは大仕掛けなものだった。うながされて2階のバルコニーに出ると、眼下に、庁舎前の広大な広場が彼方のビル群まで広がっている。市長はバルコニーの端に進んで備えつけた装置のフタを開け現れた画面を指で押した。すると、遥か前方の旗の下から突如噴水の水が勢いよく立ち昇り、同時に日本の歌、「北国の春」が大音響で始まったのだ。「特別の場合にこれをやります。周りの人々は、これを開いて日本から特別の人が来ていることを知るのです」と。市長は群馬県を訪ねたいといっていた。群馬と大連との交流を深めるよいチャンスだと思う。

◇夜は、プラマホテルで大連市人民代表大会の幹部が歓迎してくれた。議会関係の人たちである。コの字形に配置された席の中央に私と人民代表大会常務委員会副主任干桂栄が座った。干さんは女性である。干さんは、歓迎の挨拶の中で、群馬県は4人の総理大臣を生んだ県ですねと切り出して、日中の関係の重要性、群馬県との交流を進めることの意義などを強調し、私たちに協力出来ることがあったら言って欲しいと、教育・産業・人の交流などの問題について熱心に語った。

 やがて私の番になった。私は次のような話をした。「日本では地方分権といって地方を重視する時代が進んでいます。そして国際化の時代です。私達は、歴史的にも関係の深い大連との交流を深めたいと願っています」と。話の中で、大連外国語学院などに書物を送る事業を進めてきた事にも触れその他具体的な提案もした。

 今後の事を話し合う担当者を決めようということになり中国側は孜福征氏が、日本側は私がそれぞれ引き受ける事になった。金子一郎県議が来年群馬県で開かれる全国緑化フェアへの出席をすすめると孜氏は関係者を是非出席させたいと答えた。

 難しい話から砕けた話題に進む中で、私は、群馬の特色として「カカア天下と空っ風」があるといって群馬のカカアについて説明した。誰かが団長は炊事、洗濯、料理までするといったら、干さんは笑いながら即座に「信じません」と言った。重ねる乾杯の酒がうまかった。大連の夜は群馬との交流の新しい芽を静かに育てているようであった。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月16日 (火)

「中国視察団、大連の一日」(15日)

◇大変密度の高い大連の一日だった。空港から一路旅順へ向う。県会議員は8人。中国での通訳は李という女性である。借りあげた専用のバスの中で、彼女は、日ロ戦争の歴史を話しだした。その詳しさに驚く。空港から旅順まで約50分。途中、水師営という町にかかった。乃木将軍と敵の大将・ステッセルが会見した所である。ステッセルは日本に負けて死刑になるという情報を得た日本政府は、帝政ロシアに働きかけて死刑をやめさせたのだという。真偽の程は分からないがガイドはこのようなことを事細かく話してくれた。聞けば、この李さんは、これから訪れる大連外語学院の卒業生だという。

 一行は旅順の激戦に着き、203高地に登った。これまたガイドの説明によれば、海抜206mあったところを、日本軍の猛攻によって山が3m低くなって203mになったという。

 203高地に立つと旅順港の緑に囲まれた静かな海面がもやの中に広がっていた。その静けさは歴史の歩みをしばし止めて私たちに百年前の出来事を語りかけているようであった。大連の中心街から旅順に移った外国語学院は驚くほどの壮大なスケールであった。陳先生が、引っ越したばかりだと語っていたが、まだ、建設中のところがいたる所にあった。資料室に案内され、団員は、「日中友好中村文庫」の前で写真をとった。学生の学ぶ様子を見、日本の茶室も見学した。

 研修室で、私は、県立女子大など群馬の大学を紹介し、群大で始まる重粒子線による癌治療を説明した。構内をバスで見学しながら陳岩教授は語りかけた。「日本語を学ぶ学生は3千名を越えその数は世界一です。構内に日本の文化を紹介し体験できる一画を作りたいのです。柔道とか、剣道とか、踊りとか、日本の料理とか」と。

 大学の高い建物群の後ろに赤い夕日が落ちる頃私たちは大学を去り大連市に向った。大連のまちは、急速に変わりつつあった。数年前にはなかった高層ビルが林立し、更にビル建設の工事現場がいたる所に見られた。「中国製の食の安全が問題となっています」と隣の陳教授に話しかけると、「日本のマスコミが悪いです、これっぽちの事を大きく書く」と、陳さんは指の先の爪をつまんで答えた。また、環境問題は重大で政府も力を入れ始めたこと、社会が豊かになって学生の学ぶ意欲が落ちてきたことが心配であることなどを語っていた。

 夜、宿舎である大和ホテルの近くにある「川王府」というレストランで私たちは招待を受けた。僚寧師範大学の曲先生や市の要人等も参加し群馬県と交流をすすめる事などに話がはずんだ。いろいろな中国料理が並ぶ。食の安全のことなど忘れて料理を口に運んだ。私の中国語の挨拶は途中で行き詰まり、笑いがおき余興の役割を果たしたようだ。「大和ホテル」は満州国時代の日本が建てたホテルである。まわりには、関東軍や満鉄ゆかりの建物もある。目の前に広がる空間に、60年前の日本人が激しく動く光景を想像した。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月15日 (月)

「中国視察の第1日目」

◇第一報はアザレア号の中で。
 成田空港に午前8時集合を目指して、直行アザレア号は、前橋駅を午前4時にスタート。伊勢崎、藤岡と団員を拾って一路成田へ向う。この文章はアザレア号の中で書いている。
 今日の日程のメインは、大連外国語学院の訪問である。同大学には日本語を学ぶ学生が多い。群馬県の大学との交流を深めて、国際化時代の群馬の教育を発展させる一つの糸口を見つけることも願っている。実は、私には、この大学を訪ねるもう一つの重要な目的がある。それは、「日中友好中村文庫」との再開である。
 私は、平成10年にこの大学を訪ねて講演をした。題は、「近代日本の歩み」で、明治維新からの日本の歩みと今日の日本の状況を話した。講堂を埋めた若者は、私の話に熱心に耳を傾けた。日本語を学ぶ学生たちであるが、私の話を理解してくれるだろうかと不安をもって会場に臨んだが、彼らの表情をみて、私の心配は杞憂でることがすぐに分かったのだ。話が終わると手を挙げて質問する生徒が何人かいたが、皆、立派な日本語で、質問の内容も、私の話をよく理解した上での的を得たものであった。これでは、日本は負けると私は内心思ったものだ。質問に答えながら私の頭をよぎったことは、東大の学生たちが、外国語の講演を聞いた時、このように外国語で質問できるであろうかという思いであった。
 日本の書物を送ることにつながる出来事は、講座の後に生じた。担当教授は、私を図書室に案内して日本の書籍が並ぶ一角を示した。そこに並ぶ日本の書物は、質も量もがっかりさせるものであった。何とか協力させて下さいと約束して帰国した私は、県立図書館や私立図書館の協力を得て、処分対象の本を贈ることにした。
 第一回の送本については、平成10年12月の末、芳賀公民館に中国大使館の教育担当一等書記官、劉金釗氏を招き、2500冊の贈呈式を行った。この時は、中国の税関の手続きなど勝手が分からず苦労したが、とにかく、「日中友好中村文庫」がスタートしたのである。以来、大連外国語学院を中心に、僚寧師範大学や大連大学に日本の書物を送る運動を続けてきた。この間中国へは何回か行っているが、「文庫」の様子は見ていない。今度の再会は、異国に住む自分の子どもに会うような気持ちである。
 今回の訪中は、大連市と北京市である。中国進出の日本企業の状況、環境問題、食の安全、観光問題等につき視察する。観光については、群馬県の温泉や自然を紹介するつもりであるが、特に群馬大学で現在進めている重粒子線による癌治療についても紹介する予定である。中国の経済の躍進は目覚しい。裕福な人は、日本の温泉を楽しみながら重粒子線による癌治療を受けることを希望するのではなかろうか。群馬の果実や野菜が中国のスーパーに並ぶきっかけもつくりたいと思う。
☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「中国視察の第1日目」

◇第一報はアザレア号の中で。
 成田空港に午前8時集合を目指して、直行アザレア号は、前橋駅を午前4時にスタート。伊勢崎、藤岡と団員を拾って一路成田へ向う。この文章はアザレア号の中で書いている。
 今日の日程のメインは、大連外国語学院の訪問である。同大学には日本語を学ぶ学生が多い。群馬県の大学との交流を深めて、国際化時代の群馬の教育を発展させる一つの糸口を見つけることも願っている。実は、私には、この大学を訪ねるもう一つの重要な目的がある。それは、「日中友好中村文庫」との再開である。
 私は、平成10年にこの大学を訪ねて講演をした。題は、「近代日本の歩み」で、明治維新からの日本の歩みと今日の日本の状況を話した。講堂を埋めた若者は、私の話に熱心に耳を傾けた。日本語を学ぶ学生たちであるが、私の話を理解してくれるだろうかと不安をもって会場に臨んだが、彼らの表情をみて、私の心配は杞憂でることがすぐに分かったのだ。話が終わると手を挙げて質問する生徒が何人かいたが、皆、立派な日本語で、質問の内容も、私の話をよく理解した上での的を得たものであった。これでは、日本は負けると私は内心思ったものだ。質問に答えながら私の頭をよぎったことは、東大の学生たちが、外国語の講演を聞いた時、このように外国語で質問できるであろうかという思いであった。
 日本の書物を送ることにつながる出来事は、講座の後に生じた。担当教授は、私を図書室に案内して日本の書籍が並ぶ一角を示した。そこに並ぶ日本の書物は、質も量もがっかりさせるものであった。何とか協力させて下さいと約束して帰国した私は、県立図書館や私立図書館の協力を得て、処分対象の本を贈ることにした。
 第一回の送本については、平成10年12月の末、芳賀公民館に中国大使館の教育担当一等書記官、劉金釗氏を招き、2500冊の贈呈式を行った。この時は、中国の税関の手続きなど勝手が分からず苦労したが、とにかく、「日中友好中村文庫」がスタートしたのである。以来、大連外国語学院を中心に、僚寧師範大学や大連大学に日本の書物を送る運動を続けてきた。この間中国へは何回か行っているが、「文庫」の様子は見ていない。今度の再会は、異国に住む自分の子どもに会うような気持ちである。
 今回の訪中は、大連市と北京市である。中国進出の日本企業の状況、環境問題、食の安全、観光問題等につき視察する。観光については、群馬県の温泉や自然を紹介するつもりであるが、特に群馬大学で現在進めている重粒子線による癌治療についても紹介する予定である。中国の経済の躍進は目覚しい。裕福な人は、日本の温泉を楽しみながら重粒子線による癌治療を受けることを希望するのではなかろうか。群馬の果実や野菜が中国のスーパーに並ぶきっかけもつくりたいと思う。
☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月14日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(34)第2章 塩原眞資さんのシベリア

誰かが磁石を取り出した。薄明かりの中で、じっと針を見詰めている。隣の人がのぞき込む。やがて、周りの人が重なるようにのぞき込み目を凝らして針の動きを追った。針の先が東を向くと、「わっ」と歓声がわき、北へ動くと、「あー」というため息にかわる。やがて、針は北を指し続けるようになった。人々は押し黙り落胆して磁石から離れた。

三 初めての冬、ものすごい寒さ、飢え

 やがて列車は止まった。コムソムリスクと分かる。シベリアの中心都市ハバロフスクから数百キロメートル北方の町で、アムール川の下流に位置していた。塩原さんは、ここの収容所で約二年半、ハバロフスクの収容所へ移されるまでの期間を過ごすことになる。コムソムリスクの収容所に入るとまもなく10月も半ばを過ぎ、シベリアの寒気も本格化してきた。塩原さんは、しばらく満州にいたので大陸の寒さには慣れていたはずであるが、シベリアの寒さは格別だった。塩原さんは、振り返って言う。

<シベリアの最初の冬は、死に物狂いでした>

満州から拉致された日本人、およそ60万人のうち、6万人以上の人が命を落としたが、この6万人の中のほとんどは、最初の冬が越せない人々であった。

11月に入ると、零下30度を越えることも珍しくなかった。寒さと体調不良のためトイレが近い。外まで行くのが間に合わず、もらしてしまう。そのため誰もが股のあたりの布は腐ってひどい臭いを放っていた。塩原さんはひどい下痢になり、上から入れるとすぐに下から出てしまい、体力は極度に低下して腰が立たず、二段ベッドの上の段に自力で上がれなかった。苦し紛れに、木炭を見つけてがりがりとかじった。これが功を奏したのか下痢は間もなくおさまったが、3ヶ月以上も風呂に入らぬ不衛生のため、身体中に発生したシラミに悩まされた。大発生したシラミには、誰もが苦しめられた。

年を越して1月なると、寒さは零下45度にもなり、凍土をなめるように押し寄せる寒気は、すべてを凍らせて生あるものの存在を許さぬごとく激しくなり、毎日、収容所の人々はバタバタと倒れていった。物資が極めて不足している折ということもあって、使えるものは死者のものも利用せねばならない。死体からはすべてが剥ぎ取られ、死体置き場には裸の死体が天井に届くほどに積み上げられていた。

塩原さんは、その時の状況を振り返る。

〈恥ずかしい話ですが、皆、人の目を気にしながらチャンスをうかがっていました。とにかく寒いのです。靴下片方だけでも欲しかったのです〉

同じ条件の下で、生死を分けるものは何であろうか。塩原さんは、どうしても生きて帰るのだという信念が支えだったと言う。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月13日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(34)第2章 塩原眞資さんのシベリア

誰かが磁石を取り出した。薄明かりの中で、じっと針を見詰めている。隣の人がのぞき込む。やがて、周りの人が重なるようにのぞき込み目を凝らして針の動きを追った。針の先が東を向くと、「わっ」と歓声がわき、北へ動くと、「あー」というため息にかわる。やがて、針は北を指し続けるようになった。人々は押し黙り落胆して磁石から離れた。

三 初めての冬、ものすごい寒さ、飢え

 やがて列車は止まった。コムソムリスクと分かる。シベリアの中心都市ハバロフスクから数百キロメートル北方の町で、アムール川の下流に位置していた。塩原さんは、ここの収容所で約二年半、ハバロフスクの収容所に入るとまもなく10月も半ばを過ぎ、シベリアの寒気も本格化してきた。塩原さんは、しばらく満州にいたので大陸の寒さには慣れていたはずであるが、シベリアの寒さは格別だった。塩原さんは、振り返って言う。

<シベリアの最初の冬は、死に物狂いでした>

満州から拉致された日本人、およそ60万人のうち、6万人以上の人が命を落としたが、この6万人の中のほとんどは、最初の冬が越せない人々であった。

11月に入ると、零下30度を越えることも珍しくなかった。寒さと体調不良のためトイレが近い。外まで行くのが間に合わず、もらしてしまう。そのため誰もが股のあたりの布は腐ってひどい臭いを放っていた。塩原さんはひどい下痢になり、上から入れるとすぐに下から出てしまい、体力は極度に低下して腰が立たず、二段ベッドの上の段に自力で上がれなかった。苦し紛れに、木炭を見つけてがりがりとかじった。これが功を奏したのか下痢は間もなくおさまったが、3ヶ月以上も風呂に入らぬ不衛生のため、身体中に発生したシラミに悩まされた。大発生したシラミには、誰もが苦しめられた。

年を越して1月なると、寒さは零下45度にもなり押し寄せる寒気は、凍土をなめるように押し寄せる寒気は、すべてを凍らせて生あるものの存在を許さぬごとく激しくなり、毎日、収容所の人々はバタバタと倒れていった。物資が極めて不足している折ということもあって、使えるものは死者のものも利用せねばならない。死体からはすべてが剥ぎ取られ、死体置き場には裸の死体が天井に届くほどに積み上げられていた。

塩原さんは、その時の状況を振り返る。

〈恥ずかしい話ですが、皆、人の目を気にしながらチャンスをうかがっていました。とにかく寒いのです。靴下片方だけでも欲しかったのです〉

同じ条件の下で、生死を分けるものは何であろうか。塩原さんは、どうしても帰るのだという信念が支えだったと言う。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月12日 (金)

「テルサの法テラスの会議に出る」(11日)

◇昨日の「日記」で法テラスについて書いたらもっと知りたいという反響があった。前橋テルサへ取材に行ったら、ちょうどこの問題に関する協議会があるというので出席した。制度の状況を説明する弁護士達の一人は、昨日の「日記」で書いたN弁護士であった。法テラスとは法律支援制度のこと。説明を聞いてこの制度の意義の大きさを痛感した。

 今日の社会は複雑で生きるのに難しい。くもの巣のように法律が張りめぐらされている。トラブルから脱け出せない人は、くもの巣にとらえられてもがく虫のようだ。このような人を救おうとするのが法律支援制度、つまり法テラスである。

 この日の会議で、主宰者は、法テラスをほとんどの人が知らない、いかに広報活動を展開するかが重要な課題だと訴えていた。入手したポスターには、次の言葉が書かれている。「法テラスは、法的トラブルをかかえた方々に、解決へのきっかけとなる情報(1)やサービス(2)を提供しています。目の前の問題をどこに相談してよいか分からない方、また法的トラブルかどうか分からない方も、まずは法テラスへお気軽にお問い合わせ下さい」

①解決のきっかけとなる情報の提供とは。今の世の中には法的トラブルを解決する窓口や制度は沢山あるが、人々はどこへ行ったらよいか分からない。法テラスは、話を聞いて最適な窓口や法制度を教える。例えば、勝手に離婚届を出されることを心配する人には、「市役所・町村役場には、不受理制度があります、受理しないでくれと申し出ておけばよい」と。もう一つ具体的例を紹介する。私がお世話した老夫婦は滞った家賃を払うために30万円程のお金がどうしても必要だった。そこで法テラス所属のN弁護士に相談したらある制度を紹介された。それは、年金証書を担保にして、年金を受け取る銀行から、非常に低利で借りられる制度である。このアドバイスがなかったら、業者の高い金利の借金をし、大変な苦しみに陥ったかもしれない。「法テラス迷うあなたの道しるべ」という標語を紹介されたが、正にその通りだと思った。

②サービスの提供とは。その例として、法テラスは民事扶助事業を行っている。それは、例えば、裁判を起こしたい、あるいは裁判を起こされたが弁護士を頼むお金がないという場合の立て替え金の制度である。

 具体的に次のように説明されていた。これを利用できる人は、収入が一定額以下のばあいである。単身者は月収が18万2千円以下、二人家族では20万1千円以下の人。これらの条件を満たす人が弁護士を頼む場合の費用や訴状作成の費用を立て替えてもらえるのである。立て替えてもらった金は、原則として毎月1万円(場合によっては5千円)ずつ分割して返す。法テラスは、冷たい競争社会の救いである。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月11日 (木)

「寄せられたコメントへの答え」

◇時々、私のブログに対する真剣なコメントを受け取る。救われる思いを抱く瞬間である。見えない多くの読者の顔が、一瞬光の中に浮き上がるように思えるからだ。今月6日に寄せられた26歳の若者のコメントがそれだ。限られたスペースで意を尽くせないと思うが答えを書く。質問は2つの部分から成る。
①「県民が県政に参加していくことで社会はどのようにかわっていくのですか?またどのようにかわってほしいのですか?」まず「参加」とは広い意味であって県政に関心をもって、私利を離れてそれを行動に現すことだと思う。例えば、教育・福祉・治安・環境などのボランティア活動に参加すると、それが県政とつながっていることから、県政を考える機会となる。そこから、提言したり、批判したりすることが出来るかもしれない。また、選挙の時は、これら日頃の活動や考えを実現するために、考えた一票を投ずることになる。
 このような県民の参加によって、良い政策が生まれ、いきいきとした社会が生まれるだろう。県民の参加によって、県民の、県民による、県民のための県政が行われるようになり、真に豊かな社会に近づくことが出来る。私は、そんな社会が理想だと思う。
②「小学生の万引きに対して警察が防止役を行うのは、県民が県政に参加し主体的に活動するということと合わないのではないですか?」小学生の万引きに対して親や地域社会の人々が積極的に動くことも県民の「参加」であるが、県民の参加だけで目的を達することは出来ない。治安をあずかる警察が重要な役割を果たすべきことは当然である。警察と県民が力を合わせることで小学生の万引き問題も解決に近づけることが出来る。代表民主制の下の県民の「参加」なのだから、「参加」とは、政治や行政(その中に警察も含まれ)に県民が積極的に「協力」することを意味すると私は考える。
◇「法テラス」の利用を身近に見た。「法テラス」とは、司法支援センターのこと。民事事件の弁護士費用の立替などのサービスが受けられる。群馬県では、前橋市のテルサの5Fに事務所がある。
 先日の「日記」で借家からの明渡しを求められ訴えられている老夫婦のことを書いた。私が答弁書を書いたが弁護士に依頼することが必要になった。友人の弁護士は、金を出せない老夫婦のために、この制度を紹介し自ら手続きをしてくれた。弁護士費用を立て替え、後で分割して少しずつ返済するのである。老夫婦は大変喜んでいた。
「法テラス」の制度が出来て1年。この制度は、様々な法的トラブルに悩む人を助けようとするものだ。前橋テルサにこの事務所があって親身になって相談に乗ってくれることを私も知らなかった。多くの人がまだ知らないことだろう。容赦のない競争社会の一角に存在する温かい救いの手である。電話は、050‐3383-5399。必ず050から始める。
☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月10日 (水)

◇「常任役員会・議員総会、そして特別委員会」(9日)

◇「常任役員会・議員総会、そして特別委員会」(9日)

 朝、起き抜けで約5キロ走った。11月3日の県民マラソンで10キロ走る、その準備だ。9時、常任役員会。金子幹事長は、前橋市長選に立候補を決意し、関係者の間で一本化が決定した経緯を話した。その後で議題に入ったが、そのメインは、11月27日、群馬アリーナで総理誕生を祝って政経パーティを開催する件である。規模、パーティ券の額、その他主要なことが話し合われた。

 9時半の県議団総会の内容は、おおむね、常任役員会のものと同じである。重要事項の決定のしかたとして、まず役員会で議論するのだ。いきなり総会にかけると混乱することもあるし、的を絞った議論が出来ないこともあるからだ。役員会の通りに決まった。

◇10時から特別委員会が開かれた。私の所属は決算行財政特別委員会である。病院会計、企業局会計の説明が行われ、その後で行政改革について議論が交わされた。「行政改革とは金のかからない行政をつくることだろう」と身近な人がたずねた。「金の問題は大事だけれど、それだけではないのですよ。同時にサービスも向上しなければなりません。行政改革とは良い行政をつくるための改革ですからね」と私は答えた。

 特別委員会の私の質問は「行政評価」についてである。これは、分かり易く言えば、職員が良い行政を実現するために自ら仕事に点数を付けるものだ。多くの自治体でやっているが問題点も多い。自己評価だから甘くなるのは当然といえる。それにしても担当課長が挙げた数字には驚いた。例えば、その事業が目的達成のために必要かということに関し、「必要不可欠」、「必要度が高い」と評価した事業が全事業の98%だという。職員が自分の仕事に誇りと自信を持つことは素晴らしいことだが、仕事に対する謙虚さということも必要ではないか。私は、評価するについて、客観的な基準が必要ではないかと質問した。

◇中国へ政務調査に行く。中国に対する不信が高まっている。食べ物や生活用品など中国産の製品に対する不信感が中国人、そして、中国という国に対する不信となって燃え盛っているようだ。しかし、これらの事は、中国が激しく変化する一断面に過ぎない。これが中国だと決めつけるのは誤りである。このような時だからこそ、中国の実態に触れてみたいという思いがある。

大連市と北京市を訪ねるが、主要な訪問先として、企業、大学、市役所、オリンピックの建築現場等を予定している。私は、大連の三つの大学に日本の書物を送り続けてきた。大連外国語学院には、「日中友好中村文庫」が出来ており、歓迎してくれるとのこと。この大学は、つい最近、大連の中心近くから郊外の旅順にキャンパスを移した。今月15日は、大連空港から旅順に直行し、日ロ戦争の激戦地203高地を見て、午後3時半に大学に入る。日本語を学ぶ学生は日本をどう見ているのか、興味あることである。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 9日 (火)

「市長選候補擁立の経緯」

◇5日の午後に記者会見で私が説明をしたが、4日朝刊で主な各紙は、金子幹事長で一本化と報じた。少し前に、市議会の同志から、県会議員の間で調整してくれと要請があって、市長選に意欲ある三人の県議が2回に渡って話し合った。私と中沢議長、金子幹事長の三人である。金子一郎、狩野浩志各議員は調整役として立ち会った。第一回の会合(102日)の時、中沢議長については、議長職を途中でやめて出るのはいかがなものかという意見が出た。前例が2つある。萩原前市長、高木現市長が、議長の途中で出馬したのである。これらの時も、議長職を軽視するという批判があった。しかし、中沢氏は、自分の考えを持っているようであった。

 私については、後援会を中心とした支援者の間に、県都前橋を再生するために政治生命を賭けるべしという強い要望があった。身体の具合が悪い妻も自分のために断念しないで欲しいと言ってくれた。金子幹事長は、大沢知事に会って、すべり出したばかりの大沢丸にとって幹事長として自分が必要なら断念するつもりだといって知事の意見を聞いたという。それを踏まえて彼は、強い意欲をのぞかせていた。高木現市長が既に立候補の意志を表明し着々と準備を進めていること、市長選は来年の2月であること、等を考えると、時間的余裕はなかった。そこで、翌日(3日)午後3時、再度合うことになった。それまでに各自考えを固めて話し合おうというもの。結論として、金子幹事長を中心にして知事選を戦って築いた絆を生かすことが勝利につながるとして、金子幹事長に一本化することに決定した。翌日(4日)朝の市議との会合で、この結論を説明し、全員一致の承認を得、5日午後の記者発表となった。

 私が断念した理由の一つに、実は、別の要素があった。市長として前橋市再生のために命をかけることと同様に、県議会にとどまってそこでの本来の仕事に全力を尽くすことも私の使命ではないか、私は自分の心にある二つの選択肢を前に悩んだ。そして、やりかけている県議会の仕事を優先させ前橋市のことは金子幹事長に任せようと決心したのである。

 前橋市の市長選は勝たねばならない。前回の市長選では、萩原前市長は、高木さんの奇襲戦術に負けたといえる。ある人は、桶狭間の急襲だったと言っている。ゴミの収集の無料化や公民館使用料の問題といった目先の利益で市民を動かした。前橋市の将来をどうするといったビジョンを市民に提示した戦いではなかった。21世紀の県都、そして、4人目の総理を出した群馬の県都、それにふさわしい品格のあるまちをつくらねばならない。金子さんには、そのためのグランドデザインを提示して堂々と戦って欲しい。

 今年の7月までは、小寺・高木の密月が続いていた。小寺知事の敗戦でこの関係が崩れたのだ。大沢知事と高木市長の関係を人々は「ねじれ」と呼ぶ。しかし、ねじれをただすというだけでは、戦いの大義名分としては弱い。市民を納得させる大義名分とは、県都前橋の未来を見詰めた、輝く県都を築く設計図である。それを作る作業にとりかかる準備が進められている。熱い戦いは既に始まっている。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 8日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(32)第2章 塩原眞資さんのシベリア

取り残された暗闇の中で、塩原さんは、このときそれまで半信半疑だった敗戦ということを冷厳な事実として受け止めた。同時に体中の力が抜けて、その場にへなへなと座り込んでしまった。

生きて虜囚の辱めを受けるなという日頃の厳しい教えにもかかわらず、塩原さんたち13人は虚脱状態の中で、あっけなく捕虜となった。今まで見たことのない赤い毛、青い目のソ連兵に追い立てられてあちこち歩かされた。信じられない光景がいたるところにあった。町の一角には日本兵のあらゆる武器が山のようにうず高く積まれていた。裸足で髪を振り乱し半狂乱で子どもの名を呼ぶ女性の姿、ソ連兵に抱きすくめられ足をばたばたさせながら連れ去られて行く若い女性の姿など。これが戦いに敗れるということなのかと塩原さんは生唾を呑み目をそらした。悔しくても、どうすることもできないのだ。

塩原さんたちは、やがて、鉄条網で囲まれた日本軍の馬小屋に閉じ込められた。

拘束されてから毎日、食べ物はごく少量しか与えられない。仮宿舎に入れられてからは何も与えられず、2日、3日と過ぎてゆく。ワラをかじったり、木の皮を食べたり、人々は口へ入れるものを求めて馬小屋の中を這い回っていた。4日目、5日目になると空腹に耐えることが、銃弾の雨にさらされるより怖いことだと思うようになった。この飢えに対する恐怖心こそ、塩原さんたちがこれから先の長い収容所生活で向き合う最大の敵であった。

今、その最初の敵を前にして万策尽きたとき、塩原さんたちの目は一斉に、ある一点に注がれた。そして次にその視線はお互いの顔に移った。その視線は、恐怖と戸惑いを示していた。またある人の目の色は、まさかという強い拒絶を表していた。次の瞬間、人々の目は、またもとの一点に戻った。その視線の先には、うずくまる一頭の軍馬がいた。兵士よりも大切にされ、傷つけることは厳禁とされた軍馬。「取った手綱に血が通う」と軍歌にも歌われた軍馬を食おうとしているのだ。しばし重苦しい沈黙が流れた後、一人が口を開いた。

「やむを得ないだろう」

うなづいて、もう一人の兵士が言った。

「可哀想だが、助けてもらおう」

顔を上げないで肩をふるわせている男も異を唱えなかった。人々は軍馬の前に寄った。一人がひざをついて手を合わせると、他の者もそれに合わせる。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏の声が流れる。異様な雰囲気に驚いた軍馬は上目使いに人々を見た。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 7日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(31)第2章 塩原眞資さんのシベリア

塩原さんは、現在81歳。耳が少し遠くなったが身体はいたって健康である。シベリアから帰国した後は、前橋市の建設会社に勤務し、持ち前の忍耐力と誠実さで事業発展に貢献し、退職後は町の自治会長もつとめ、現在は前橋市田口町で悠々自適の生活を送っている。

<日本は大きく変わりました。あの頃を思うと夢のようです>

 こう言って塩原眞資さんは、遠くを見るような目をして感慨深そうに若き日のシベリアを振り返る。

二 軍馬を殺して食べる

 塩原さんは、「中島飛行機」で働いていたが、昭和19年3月に召集され満州に渡った。関東軍の中で通信の任務についていたが、吉林省延吉で終戦を迎えた(昭和20年8月15日)。

 ソ連が満州に侵攻を開始したのは8月9日であった。8月17日、本部より全日本軍に対して即時戦闘行動停止命令が下されたが、満州方面の戦闘状態がおおむね終わったのは8月20日とされる。

 塩原さんの部隊がソ連軍の突然の侵攻を受けたのは8月17日の夜であった。「ドドーン」、「ゴーゴー」と大地を震わせて戦車の音がせまってきた。

 塩原さんは12人の部下を持つ無線通信所の所長であった。その場所は本部から遠く離れた山の中腹にあった。戦車の轟音は次第に山の麓に迫りつつあった。命よりも大切な物を敵に渡してはならない。塩原さんたちは必死で穴を掘り、通信機材や暗号書を埋めた。

 命がけの作業を終え本隊に辿り着くと、兵舎はすでに空で慌しく走り去る軍用トラックの後ろ姿が闇に消えてゆく。呆然として立ち尽くしていると、無人と思った一角から一台の軍用トラックが走り出してきた。塩原さんの部下が2,3人走り出して、乗せてくれと叫んでトラックの荷台の囲いに飛びついた。トラックには兵士の黒い影がひしめいている。

「だめだ、お前たちを乗せる余裕はない」

血走った目の兵士は哀願する眼下の顔を軍靴で蹴った。もう一人の兵士は、引きずられながらも必死でしがみつく両手を、物でももぎとるように引き剥がした。地面に叩きつけられた兵士を置いてトラックは走り去っていった。

<人間は、ギリギリのところでは自分のことしか考えられないのです>

塩原さんは、当時のことを思い出してしみじみと語った。

 これは、これから始まる、追い詰められた状況における人間模様のほんの一例に過ぎなかった。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 6日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(30)第2章 塩原眞資さんのシベリア

そこで貴方は、次のように語られました。

〈家族の不幸、子どもたちに対する悩み、経済的な苦しさなどに出遭ったとき、これを着てあのシベリアで吹雪に叩かれたことを思えば、これくらいのことが何なんだと自分に言い聞かせました〉

私はこれを聞いて、シベリアの異常な出来事を、身近なものと感じることができました。そして私たちも、あの過酷なシベリア抑留の事実を皆さんと少しでも共有し、そこから大きな勇気をもらうことができるに違いないと思うに至ったのです。

これは大きな発見だと思いました。貴方たち抑留者は生きることが大変難しい極限の世界で自分の生命を必死で守り通したのですね。それに比べ、生きることが非常に容易な豊かな社会で、私たちは何と命を粗末にしていることでしょう。毎年3万人を超える人が自殺しています。また、身勝手な欲望のために簡単に人を殺す犯罪も増加の一途を辿っています。

同じ日本人が今から半世紀ほど前にシベリアの凍土で必死に生きたことを、私たちは、今改めて冷静に見詰めることによって、命の大切さと苦難に立ち向かう勇気を学ぶことができるのだと思います。そして、このように貴方たちの体験を現代に生かすことが、抑留された60万人を超える方々の労苦、そして命を落とされた6万人を超える方々の無念に幾分でもこたえることだと信じます。

シベリア抑留というと、暗いイメージばかりがつきまといますが、そこからこのようなプラスの面を発見することが、21世紀の新しい日ロの関係を築く上でも必要なことだと思います。

塩原さん、貴方は、人間は極限の飢えの前では動物と同じようになってしまう、と言われました。また、帰国したい一心で、日本人同士が密告したり吊るし上げをしたことは誠に恥ずかしいとお話になりました。願わくば、それらもすべてお話いただいて、私は、戦争を知らない人々に、戦争とはどんなに残酷な結果を伴うことかを知らせたいと思います。

「過去にを閉ざす者は、現在に盲目になる」これは、元西ドイツの大統領ヴァイツゼッカーが言った言葉です。私たちは、今こそ過去に目を向けて、そこから現在を直視する勇気を持つことが大切なことだと思います。そのために、貴方の貴重な体験を聞かせてほしいと思うのです。どうか、ご協力のほどお願いします。

以上、取材に関する私の気持ちの一端を申し上げました。

 私のこの手紙に対して数日後、塩原眞資さんから返事がきた。それには、「シベリアを離れるときは、こんなところに二度とくるものかと大地を蹴りつけたい気持ちだったのに、今、そのシベリアが非常に懐かしく思える。私の体験がお役に立つのなら、何でも喜んで話したい」と書かれていた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

そこで貴方は、次のように語られました。

〈家族の不幸、子どもたちに対する悩み、経済的な苦しさなどに出遭ったとき、これを着てあのシベリアで吹雪に叩かれたことを思えば、これくらいのことが何なんだと自分に言い聞かせました〉

私はこれを聞いて、シベリアの異常な出来事を、身近なものと感じることができました。そして私たちも、あの過酷なシベリア抑留の事実を皆さんと少しでも共有し、そこから大きな勇気をもらうことができるに違いないと思うに至ったのです。

これは大きな発見だと思いました。貴方たち抑留者は生きることが大変難しい極限の世界で自分の生命を必死で守り通したのですね。それに比べ、生きることが非常に容易な豊かな社会で、私たちは何と命を粗末にしていることでしょう。毎年3万人を超える人が自殺しています。また、身勝手な欲望のために簡単に人を殺す犯罪も増加の一途を辿っています。

同じ日本人が今から半世紀ほど前にシベリアの凍土で必死に生きたことを、私たちは、今改めて冷静に見詰めることによって、命の大切さと苦難に立ち向かう勇気を学ぶことができるのだと思います。そして、このように貴方たちの体験を現代に生かすことが、抑留された60万人を超える方々の労苦、そして命を落とされた6万人を超える方々の無念に幾分でもこたえることだと信じます。

シベリア抑留というと、暗いイメージばかりがつきまといますが、そこからこのようなプラスの面を発見することが、21世紀の新しい日ロの関係を築く上でも必要なことだと思います。

塩原さん、貴方は、人間は極限の飢えの前では動物と同じようになってしまう、と言われました。また、帰国したい一心で、日本人同士が密告したり吊るし上げをしたことは誠に恥ずかしいとお話になりました。願わくば、それらもすべてお話いただいて、私は、戦争を知らない人々に、戦争とはどんなに残酷な結果を伴うことかを知らせたいと思います。

「過去にを閉ざす者は、現在に盲目になる」これは、元西ドイツの大統領ヴァイツゼッカーが言った言葉です。私たちは、今こそ過去に目を向けて、そこから現在を直視する勇気を持つことが大切なことだと思います。そのために、貴方の貴重な体験を聞かせてほしいと思うのです。どうか、ご協力のほどお願いします。

以上、取材に関する私の気持ちの一端を申し上げました。

 私のこの手紙に対して数日後、塩原眞資さんから返事がきた。それには、「シベリアを離れるときは、こんなところに二度とくるものかと大地を蹴りつけたい気持ちだったのに、今、そのシベリアが非常に懐かしく思える。私の体験がお役に立つのなら、何でも喜んで話したい」と書かれていた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 5日 (金)

「市議との朝食会、警察関係の常任委員会」(4日)

◇朝7時半、市会議員と前橋出身の県議とで朝食会が行われた。知事選を共に闘った同志である。前橋の将来に関わる重大な話し合いがなされた。今日(5日)午後4時、記者会見が行われ、そこで私が説明することになっている。

◇警察関係の常任委員会で、私はトップバッターで次のような質問をした。①小学生の万引きと青少年健全育成条例について、②改正道交法施行に関して、③県と警察との間で交わされた暴力団排除に関する覚書について、④犯罪通報に謝礼を払う制度について、等である。

 ①小学生の万引きをめぐる状況は、崩壊の危機にある日本の社会の一面を象徴するものだ。親に知らせると、「金を払えばいいんだろう」とか、「コミック一冊で親に土下座しろって言うのか」と開き直る場合が多いという。14歳未満は窃盗罪の刑事責任は問われないが、小さい時にこそ、悪いことだということをきちんと教えなければならない。この10月に施行された青少年健全育成条例は、親そして、少年に関わる事業者の義務や責任を定め、違反行為には罰則を伴うものもある。これは、警察、学校、家庭、地域社会が協力して青少年を導かねばならないことを示すものだ。中学生の万引きについても同じように警察と社会が一体となって真剣に受け止めねばならないのではないか。私はこのような観点から質問した。②県警本部長は、飲酒運転撲滅キャンペーンをこの秋展開する、そして、その中でハンドルキーパー運動を重視すると述べた。10月1日から施行の厳しくなった罰則を適用された例はどの位あるかとたずねると、担当官は、飲酒運転などの5件があると答えた。(酒酔い運転は、5年以下の懲役又は100万円以下の罰金となった)市民が厳しく罰せられるのだから警察官が違反行為をすることがあれば、警察の信頼を失墜させるから、モラルの向上につとめるべきだと要請した。③県営住宅から暴力団員を排除する条例に関し県と警察の間に覚書が交わされた。私の質問に対し、担当官は、県、警察、住宅供給公社が連絡協議会をつくって覚え書きの実現のため検討していること、県営住宅の入居者で暴力団員と判明した者は、覚え書きに従って、県に情報を提供したこと、などを答えた。

④匿名の通報を受け付け情報料を出す取り組みが10月1日からスタートした。まだ一般に知られていないこの制度を県警はどのように進めるのか質問した。

「多くのポスターを配布し、チラシもつくって県民に知らせます」と本部長は答えた。ポスターの様子を紹介しよう。女性の顔の横に「目をそらさないで、少しだけ勇気をください」と、そして、下には「事件の解決に役立つ情報をお待ちしています」とあり、フリーコールとして、0120・924・839が書かれている。児童買春や人身売買などの犯罪が対象となる。欧米では民間団体が運営し、多くの犯人の逮捕に結びつけている。日本の制度はこれを参考にしたもの。犯罪捜査も新しい時代を迎えたと感じる。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 4日 (木)

「文教・警察の常任委員会」(3日)

◇各常任委員会が始まった。私の属する委員会は教育委員会関係と警察本部関係である。委員会は、本会議と違って質問通告制ではないので活発な議論が自由に行われる。執行部の出席者は、本会議では極く限られる(教育委員長、教育長、公安委員長、警察本部長)。しかし、別々に開かれる常任委員会(教育関係、警察関係)には、それぞれ数十人が出席する。委員会は、本会議とは別の意味で重要な存在である。

 教育の関係の委員会では要請すれば委員長が出席し質問にも答える。こういう委員会の形が定着してきたことは委員会の進化である。そのためか、委員会の雰囲気がよくなってきたと感じられる。警察関係の委員会では、まだこういう光景が見られない。群馬の治安のために残念なことだ。

◇私は次のような項目について質問した。①通学区が全県一区になった、②全国学力テスト、③消える連絡網、④「教育の日」等だ。①普通高校の通学区が今年度から全県一区になった。今までは、行きたい高校があってもそれが区域外なら選べなかった。高校にはそれぞれ特色があって、生徒は、自分にあった学校で学ぶのが理想である。人気があって生徒が集る高校とそうでないところが出来る。それぞれの高校が競い合って良い学校をつくれば、本物の教育が可能になる。いろいろな課題を乗り越えて進まねばならない。②4月に行われた全国一斉の学力テストの結果が間もなく分かる。学力の低下が心配されているが、実態はどうなのか。テストの結果は授業の良し悪しや学校運営のことまで語っている筈だ。学校の運営がまずければよい成果が得られないからだ。テストの結果を今後どのように生かすかは、教育委員会の使命である。③個人情報を大切にすることが行きすぎて、生徒の連絡網が作れず、困っている学校があるという。子どもが誘拐されるとか、自然災害に巻き込まれるとか、学校と子どもには危険がつきまとう。緊急のとき連絡が出来ないと情報を伝えて適切な対策をとることが出来ない。連絡網は掲載を拒否した人を除いて作ればよい。最近はインターネットの機能を利用して連絡網をつくっている学校があるという。

◇今年の11月1日が「教育の日」となる。実は、「教育の日」が決まる迄の道のりは平坦ではなかった。平成15年2月議会で、私を紹介議員とする請願が趣旨採択されたが、なかなか実現に至らなかった。議会にも賛同者は少なく教育委員会も非協力的であった。機が熟したと解したい。今日、教育の実を上げるには、学校、家庭、地域社会が力を合わせねばならない。とくに、地域には眠っている教育力が無限にあるが、それを目醒めさせねばならない。「教育の日」は、このことを県民に訴える旗印である。毎日が教育の日だと教育長は言っていたが、毎日が教育の日では緊張感が生れないし県民の目を引きつけることが出来ない。折角生れた教育の日を大切に大きく育てる工夫を重ねることが今後の課題である。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 3日 (水)

「暴力団を県営住宅から排除する条例の意義」

◇条例の案文は私が作り、他の議員と共同して提案し、6月議会で成立させた(6月21日に議決、6月28日公布)。施行日は今月1日である。なぜ、3ヶ月余りの期間をおいたかというと施行のために準備することがあったからである。その一つに、警察との間で覚書を結ぶことがあった。とにかく、相手が暴力団なので、警察に協力を求めることが多いのである。この条例については、度々この日記で取り上げてきたが、施行日という重要な節目を迎えたので、改めて、この改正条例の意義と覚書について書くつもりである。

 余談になるが先日、ある葬儀に出たら一見してその筋の者と分かる人が大勢いた。その異様な風体に威圧感を覚えた。そして、このような人が隣人になったら安心した生活は出来ないと思った。実は、暴力団排除の条例を作ろうと決意した動機は、暴力団を隣人にもった場合に想像されるこの恐怖感であった。

 平成15年1月前橋市三俣町で起きた暴力団の抗争事件では3人の民間人が巻き添えになって殺された。また、今年4月には世の中を震撼させた暴力団による2つの事件が起きた。4月19日の長崎市長銃撃事件と4月20日、東京都町田市の都営住宅で起きた暴力団員が銃をもって立てこもった事件である。前橋の県営住宅の住人から恐いという声が寄せられた。そして、これらの事件は、待ったなしという感を私に与えた。

 小寺知事と議会の間の対立を背景にして、執行部の態度は冷やかで非協力的であったが、厳しいプロセスを得て改正条例は成立した。

 執行部が消極的だった理由には、また、暴力団員を特別に差別することが憲法の平等原則との関係で問題を生ずるのではないかと心配した点にあった。私たちがこれを押し切ったことは政治的決断であった。そして、それを支えたものは、県民と常に接して県民の感情を肌で感じる立場にある政治家としての使命感である。

◇警察との覚書に話を進めよう。

主な点は、①県からの照会に対し警察は暴力団員であるか否かを確認して回答する。②警察は、暴力団員が県営住宅を使用していることが判明した時は速やかに県に通知する。③県は情報を適切に管理し他の目的に使用しない。④県が明渡し等の折衝を行う場合に、警察は同行するなど必要な支援を行う、等である。現在、県営住宅には約30人の暴力団員がいる。この現実に県当局はどのように対応するであろうか。

◇10月1日から県青少年健全育成条例が施行された。昭和36年以来の青少年保護育成条例を新しい時代に合わせ全面的に改正した。青少年の健全な育成に関し、県民、事業者等の責任を明らかにする。例えば、酒やタバコを売る時は年令を確認しなければならない。深夜、青少年を連れ出し、同伴してはならない。カラオケの個室などに深夜青少年を立ち入らせてはならない。青少年に入れ墨をさせてはならない。着用済み下着等を買い受けてはならない等。これらの運用を見守りたい。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 2日 (火)

「最後の一般質問、緊張の場面も」

◇自民党の金田克次議員は、登壇し、「公安委員長に聞きたかったが諸般の事情で県警本部長にたずねます」と不思議な発言をしていた。公安委員会は警察の運営を管理する機関で、この機関を代表する者が公安委員長である。つまり治安の最高の責任者である。議会の本会議場に出席しているのは、その責任を果すために他ならないのだから、公安委員長に質問したいのなら、諸般の事情が何であるかは分からないがそれが特別なことでないとすれば、公安委員長に質問すべきであったという声が聞かれた。

県民の生命、自由、財産を守る警察の職務は極めて重要である。従って、その警察を管理運営する公安委員会の職務は更に重要であり、単なる名誉職であっていい筈はない。委員は、その重責を担うにふさわしい人物が知事によって任命されている筈である。

 現在、警察官のモラルが問われている。このような時、公安委員長が県議会で毅然とした態度を示すなら、それは、全ての警察官の志気に良い効果をもたらすと同時に県民の警察に対する信頼感を高めることにもなるだろう。県民は、そういう公安委員を望んでいる。

◇金田さんは、今年9月に施行された改正道交法について質問した。今回の改正は、先日の「日記」でも書いたが、飲酒・酒気帯び運転、検知拒否・ひき逃げ等の罰則強化及び車や酒類の提供、飲酒運転の車に同乗等の罪の新設だ。

 本部長は、これらを取り締まる決意を述べた。また、飲酒運転根絶キャンペーンとハンドルキーパー運動を展開すると発言した。

 「ハンドルキーパー」とは考えたものだ。説明を聞いて面白いと思った。ハンドルキーパー運動とは、仲間といっしょに飲みに行く場合に、飲まない人(これがハンドルキーパー)を決め、この人が仲間を自宅まで送り届ける、こういう事を社会で広めようというもの。

 具体的な運動の一例として、県警は既に「今日のハンドルキーパーさんは?」という黄色いチラシを飲食業の3400店に配布し、協力を呼びかけた。ハンドルキーパーは、「今日は私がハンドルキーパー」と書かれたタグ(札)を胸につける。この人には、酒をすすめないようにする。私もこのタグを数枚入手した。このような運動は既にオランダで行われており、日本はこれにならうもの。罰則の強化だけでなく、このような運動を広げて社会全体が飲酒運転をなくす気運を盛り上げ協力することが必要だと思う。

◇前橋の医師が1日、ひき逃げの疑いで逮捕された。ひき逃げ(救護義務違反)は先月施行された改正道交法の中で罰則が強化された。この医師は、改正法による県内初の逮捕者。改正前は5年以下の懲役又は50万円以下の罰金であったが、改正後は10年以下の懲役又は100万円以下の罰金となった。飲酒で人生を棒に振ることがないようにしなければならない。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

P1010032

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 1日 (月)

「大と小、二つの集い、歳月を振り返る」

◇小さな集いは一紀会という。同志が久しぶりに酒を酌み交わした(29日)。会長は、私の夜間高校の時の同級生、道上君である。高校時代は、昼間は運送会社に勤め夜は学生となった。仕事と学問を両立させて4年間一日も休まなかった。以来、一筋の人生を歩んでいる。私の選挙を最初から支えてくれたが、自ら黒子に徹したいと常に言っているように決して表に出たがらない。私を信じて支えてくれるこういう男を政治家として裏切ってはならない、こういう思いを胸に秘めて私は歩んできた。

 県議選にいきなり出馬したころのことを振り返った。「ど素人だから出来た」と高見沢さんが言った。小さな旋風を起こした出来事は昨日のことのように懐かしく思い出されるが、およそ20年の歳月が流れていた。人生は限られた時間の中のドラマだ。ドラマの結末はどうなるのだと真剣に発言する人もいた。

◇大きな集いは芳賀地区の集会で小坂子町公民館で行われた(30日)。県議選を振り返る集いである。突然二つの葬儀が重なって頭を痛めることになった。二つとも地域にとって重要な人の葬儀なので出席予定者の中に、欠席者が多く出た。

 地域外からの来賓は大沢知事一人であった。前橋の北部で赤城山のすそ野に位置するこんな所まで知事がよく来てくれたと人々は喜んでいた。知事は、知事選で皆さんに大変お世話になったと感謝の言葉を述べ中村さんと力を合わせて群馬県の発展のために尽くしたいと語った。知事は、知事選の直前、私の家のすぐ前の小さな公園に来たことがある。そのときの様子を覚えている人がいて、知事らしい風格が出来てきたねといっていた。社会的立場が人を作るといわれる。その通りであろう。しかし、それ以上に、200万県民のためにしっかり舵取りをしなければという決意が知事の風格を支えているに違いない。

後援会の幹事長は宮内市議である。宮内さんは、経過報告のためにと登壇し、「中村は毎回1番か2番だったが、今度は、小寺知事推薦があっちでもこっちでも出て非常に苦しかったが皆さんのお陰で当選できました」と総括した。私は、貴重な勝利を得たことを感謝し、選挙の結果は、初心にかえれという有権者の戒めと受け止めて頑張りますと挨拶した。

◇10月に入った。残暑がやっと去り、一転肌寒いような気温。6月議会で成立した県営住宅管理条例の一部を改正する条例が、1日から施行される。改正点は暴力団員の排除である。県営住宅には、現在およそ30人の暴力団員がいる。条例制定の意義は、画期的な暴力団対策であることの他に、県会議員発議の条例であることである。議会が本来の役割を果たすためにはこれからも条例を作る必要がある。11月1日は、「教育の日」である。私が関わったが難産だった。生れた子を大切に育てなければならないが、関わった人たちにその決意と情熱があるのだろうか。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »