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2007年10月21日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(36)第2章 塩原眞資さんのシベリア

「日本人、ハラキリ」

 ロシア人は、こう言って、日本人の行動を面白く眺めたという。腹を切るという武士道の姿と、物乞いをする日本人の関係を人々はどのように受け取ったのであろうか。

このような生活の中で塩原さんは、手真似でわずかに通じる感情によって、わずかに食べ物が手に入るのだから、言葉が通じたらどんなに効果的かと思い至った。そこで、あらゆる機会をとらえ、ロシア語を学ぼうとした。その気になればチャンスはあった。ロシア兵の言葉にも注意して耳を傾ける。ロシア語ができる日本人もいて時には教えてもらった。時たま接する町のロシア人の口元にも注意を払う。こうして、塩原さんはロシア語をひとつひとつ覚えていった。言葉が伝わることの効果は驚くほど大きかった。身振りでは伝えられない心を伝えることが出来るのだ。

「私は、とても空腹なのです。どうか、少しでも食べ物を分けてください」

ロシア語で話しかけることで、意味が正しく伝わるということの他に、感情を伝えることができる。ロシア人からみれば、異国の人がロシア語で話すことは驚きでもあった。驚きによって、心の扉が開けられ、その同情心を揺り動かした。人間は、どんな時にも言葉の動物であり、心の動物なのだ。

 ロシア語は食べ物を手に入れる場合だけでなく、いろいろな面で役に立った。ロシア人との間ではさまざまなトラブルが発生し、塩原さんは班長としてロシア人監督との交渉に当ったが、ロシア語は問題解決のための良き手段であった。憎しみも誤解も言葉によってある程度乗り越えることができるのだ。言葉は、追い詰められたギリギリの状況下の人間関係を少しでも改善させることのできる有効な武器であった。

コムソムリスクよりずっと寒いゴーリンという所の収容所にいたある抑留経験者も、ロシア語で生命を助けられた一人である。ここでは、真冬は零下70度まで気温が下がる。この人の証言によれば、零下20度だと体がチクチク痛くなる。30度から40度だと痺れてきて、40度以下だと無感覚になるという。

このような酷寒の中の森林伐採、劣悪な食事、まさに、地獄のような生活を仲間と共に生き抜くことができたのは、ロシア語のお陰だった。とにかく、言葉が通じないことには窮状を訴えることもできないというので、教科書も辞書もない収容所で、必死にロシア語を勉強したという。また、ぎりぎりの状態で入院した時、まわりのベッドの日本人がバタバタ死んでゆく中で、助かったのはロシア語で身体のことを詳しく訴え、一日にコップ3分の2くらいの粥をもらうことが出来たからだとこの人は振り返っている。

塩原さんは飢えに追い詰められ、窮地を抜ける唯一の手段と思って覚えたロシア語が大いに役立ったのであるが、このことは、相手が人間である以上、人種が異なっても心の底には共通なものがあり、その共通なものに訴える最良の手段が言葉であることを教える。

前記の通り、私がニューギニアで取材したとき、飢えに苦しむ日本人の軍人が現地の人と食べ物を得るための交渉をする際、少しでも現地の言葉を解することが交渉を成立させる鍵であったことを聞いた。

このようなことは太平洋戦争において日本人が海外の各地で経験したことであろう。

土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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