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2007年10月20日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(35)第2章 塩原眞資さんのシベリア

塩原さんは、家族愛に満ちた温かい家庭で育った。シベリア抑留中も前橋市田口町の家庭では、食事のとき、塩原さんが座った席には温かいご飯が盛られ、家族は塩原さんを囲むようにして、無事を祈った。塩原さんは、かつて、どんぶりでご飯を食べていたので、子煩悩な父親は、「眞資、いっペー食べろ」と言って眞資さんの席にはいつも、どんぶりのご飯を置かせたという。

あの懐かしい父母、兄や妹の所へどんなことがあっても帰るのだという強い執念が、極限の状況で生命の火を燃やし続ける力となっていた。どうしても生きるのだという強い意志を持たぬ人は、寒さと飢えに負け、春を待たずに消えていった。そして、このことを聞くにつけ、人間がいかに精神的な存在であるか、心に何を抱くかによって大きく異なるものであるかを知る。

私は、平成13年にパプアニューギニアを訪ねて取材し、『今、みる地獄の戦場』という小冊子を著した。その中で、日本の兵士は、4千メートルを超えるサラワケット山の踏破に挑戦するが、コース上は、まさに死屍累累、おおよそ2,200人の犠牲者が出た。ここでも、生と死を分けるものは、「心」であった。

その場面を、私は次のように表現した。

「兵士は、ただ生きたいという執念で歩いていた。何も考えられない朦朧とした頭の奥に故郷の妻や肉親や山河が浮かぶ。それが生きたいという執念を生み、この執念が考えられない力を身体のどこかから引き出していた。この執念のない者、あるいは、この執念が弱い者は倒れていった。人間は精神の生き物である。精神力が身体の隅々の細胞からわずかなエネルギーを絞り出し、それが極限の命を支えていた。横たわる死体は、俺を乗り越えて生きろ、俺のようになるな、と訴えている。そして、サラワケットの頂上が、頑張れ、もう少しだぞと声援を送っていた」

 戦争中は、多くの激戦地で「サラワケット越え」があったが、戦争終結後になお、「サラワケット」に挑戦しなければならないことがシベリア強制抑留の特色であった。

 寒さ以上に人々を苦しめたものは飢えであった。軍馬を殺して食べたときの飢えが、日常的に塩原さんたちを苦しめた。

〈飢えの前では、人間は動物と同じようになってしまうのです〉

塩原さんはこう言って、当時のひもじさを振り返る。

動物のようになるとは、人間としての理性や自尊心も失ってしまうということである。

収容者たちは、隊列を組まされ、森林の伐採地や土木工事の現場へ歩かされる。行き交うロシアの人々が珍しそうに見ている。空腹の日本人が手真似で物乞いをすると、時には、食べ物を投げてくれる。塩原さんたちは、鳩がまかれたエサに群がるように、投げられた食べ物に争って飛びついた。また、道に何か落ちていると看守の目を盗んで拾ってポケットに入れた。後で取り出すと、黒パンの端、ジャガイモの皮、ニンジンの尻尾などの収穫と共に馬糞、石ころ、土の塊まであった。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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