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2007年9月30日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(29)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

 青柳さんは、暗い冬のシベリアの森で伐採の作業に当っていた。初めてのシベリアの冬で命を落としたはずの男たちが働いている。その一人が、お前は祖国へ帰ったのではないのかと言う。青柳さんはその通りだが、君たちのことが心配で再びシベリアに墓参りに来たのだが、ここに迷い込んだ。すぐに帰りたいのだがどうしたらよいか分からない、と答える。昔の抑留者たちは、俺たちは淋しいのだから、帰るなどと言わないで一緒にいてくれ、と言って、青柳さんの腕をつかんで森の奥へ引き入れようとする。青柳さんは、それに、必死で抵抗し、足を踏ん張った。後方で、青柳さん頑張って、と声援を送る声がした。その時、青柳さんは、明るい光の世界にいる自分を感じ我に返った。人々の顔がのぞき込んでいる。

「青柳さんよかったね、意識が戻ったね」

皆がそれぞれに叫んだ。

「日本へ帰れますか」

青柳さんの最初の言葉であった。私は青柳さんの手を握り、大丈夫と頷いてみせた。

青柳さんはインツーリストホテルに戻り、ベッドで休むことになった。青柳さんが順調に回復していることを確かめた後、私たちは、アムールのクルージング、そして、最後のハバロフスク市長訪問などの予定スケジュールをこなした。

7月23日、最後の日であった。青柳さんは元気に歩ける状態になっていた。私たち一行はハバロフスクの空港に向った。空港にはパタポア女史、通訳の仕事を立派に果したドミトリーらが別れを惜しんで見送ってくれた。私たちは、再会を約して機上の人となった。この機には、楠本総領事も退任して帰国するために乗り込んでいた。

機は離陸し、ハバロフスクは、眼下から次第に小さくなり、やがて消えた。

青柳さんは、昔、ナホトカを離れるとき、本当に日本に帰れるか心配しましたが、今回も自分だけ残されはしないか心配でしたと、嬉しそうに語った。数十年の時が経って、あの時のムシロを敷き詰めたすし詰めの帰還船とは異なり、今は、近代的な航空機に乗っての帰還である。青柳さんと塩原さんの二人の老人は、感慨深そうに遠ざかるシベリアの光景をじっと眺めていた。

第2章             塩原眞資さんのシベリア

1 塩原さん、半世紀を振り返ってシベリアを語り始める

拝啓、塩原眞資様、いつもお元気で何よりです。誠に恐縮ですが、近日中にまたシベリアの話を伺うためにお邪魔したいと存じます。取材の目的を理解していただきたくお手紙を差し上げることに致しました。

 これまでに二度ほど、さまざまな体験を話していただきましたが、いずれも衝撃的で、今日の私たちには信じがたいことです。中でも深い感銘を受けたのは、塩原さん、貴方が日本に帰国後、激変した環境の中で耐え難い辛さに直面した時、収容所時代のボロボロになったロシア服を取り出して頬にあて、昔を思い出して耐えたという話です。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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2007年9月29日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(28)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

ややあって、ドクターはバッグを開けて注射器を取り出した。小瓶の液体を注射器にくみ上げると、青柳さんの腕に針を刺した。先ほどとは違った、医師らしい行動に私は幾分安心した。

 ドクターは、何やらドミトリーに話している。ドミトリーが私に説明するところによれば、暑い中の過重な行動で心臓に思い負担がかかったことが原因で、しばらく安静にしていれば回復するという。

 それを聞いて、私はほっとした。ハバロフスクに到着以来、今日は特に暑い。その炎天下で青柳さんは長時間、直射日光に曝されながら一心不乱に経を読んでいた。あれが祟ったのだ。私は、日本人墓地の青柳さんの姿を思い出しながら改めて思った。

 一同は、静かに青柳さんを見つめている。

 しばらくして、青柳さんの顔にいくぶん生気が蘇ってきたように感じられた。ドクターは青柳さんの脈を確かめている。次に心臓にそっと触れた。それから私たちの方を見た。その目が大丈夫ですと語っている。

 ドクターは立ち上がった。入院はしなくてもいい、一日静かにしていれば普通に行動できるようになるとドミトリーに伝え、それから私に近づいて、細長い心電図と診断の結果を記したものらしい一枚の紙片を渡した。

「治療費は、いくら払えばいいの」

私は先ほどから気になっていたことをドミトリーに聞いた。

「無料です。御礼として500ルーブルやってください」

ドミトリーが小声で答えた。私はすぐに言われるままに500ルーブルをドミトリーを通してドクターに渡した。ドクターはにっこり笑って受け取ると助手と共に階下に下りて行った。500ルーブルというと2千円足らずの金である。私は、御礼の仕方が分からず、これでよいのだろうかと思いながらドクターの消えた階段に向って頭を下げていた。

 ロシアの医療制度では、医療費は医療保険によってまかなわれるが、保険料は勤務先の企業や団体が支払い、年金生活者や失業者などの保険料は、国や州などの行政機関が支払う(ただし、事業活動をしている者などは本人が保険料を支払う)。したがって、国民は無料で医療を受けられるのである。この制度の趣旨からして、外国人は別で、有料とされても仕方ないとも考えられるが、青柳さんは無料というありがたい扱いを受けた。ここでも私たちは、ロシア人の温かい心に接した思いであった。

 タチアナさん親子は、一時は、自分の客が大変なことになったと驚愕している様子であったが、事態が好転していることを知って、やっと人のよさそうな元の笑顔に戻っていた。

 青柳さんはうっすらと目を開けた。その顔に小さな生気が蘇っていた。

 青柳さんは、先ほど、ロシア民謡を歌っているうちに身体の力が次第に抜けていくように感じた。意識が薄れてゆくなかで、シベリアの強制抑留の収容所へ向って暗い穴を落ちて行くような恐怖感にとらわれていた。日本へ帰れなくなる、そう思いつつ青柳さんは真っ暗な世界に入り込んでいった。

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2007年9月28日 (金)

「一般質問2日目の攻防」

◇5人が登壇した。トップバッターは公明党の福重隆浩氏。自民は岩井均氏と萩原渉氏、フォーラム群馬は後藤克己氏、そしてスクラムは角倉邦良氏である。三人の新人を簡単に紹介しよう。萩原氏は、草津町出身で、山本龍君が知事選に出た後に出馬した人で企業の経営者である。後藤氏は県職員だった人。角倉氏は、小寺前知事の推薦を得て多野郡から出馬し私たちの同僚議員だった萩原康二さんを破って当選した。小寺さんの刺客という人もいた。この日も、ボクは小寺さんをやったといって大沢知事とちょっとした火花を散らしていた。(後述)

◇福重さんは、少子化対策として県が近く始める「ぐんまちょい得キッズパスポート」事業について質問した。これは、地域、企業、行政が一体となってすべての子育て家庭を応援し子育ての気運を盛り上げようとするもの。ちょいと得なキッズパスポートとは優待カードのことだ。これを中学生以下の子どもがいる家庭及び妊娠中の方、約20万世帯(そこには30万人の子どもが)に配布する。協賛企業を示すステッカーを店頭に掲示して頂く。少子化対策という重要な社会問題に貢献することで企業のイメージはアップするだろう。県は1社でも多くの協賛企業を募集しようとしている。

◇岩井均さんは、「知事も慶応時代ラグビーをやっていたそうですね」と切り出して、全国レベルのスポーツイベントの招致について質問した。スポーツ振興の重要性を訴えて、敷島公園の野球場及び陸上競技場の改修を求めた。

◇萩原さんは、群馬の長期ビジョンと将来の展望について知事にたずねた。山間地域は超高齢化し人口は都市に流れ地域の格差が広がるだろう、その状態で地域は、地方分権を支えることが出来るのかとただし、また、道州制実現に備えて州都を群馬につくる戦略を持つべきだと主張した。これは、前橋市と高崎市の合併論に結びつく議論だなと思って、私は耳を傾けていた。両都市の合併論は以前から主張されているが、道州制を踏まえた広域の都市間競争の視点が登場したのだ。北関東自動車道の完成は、この都市間競争を現実のものとするだろう。

◇角倉議員は、大沢さんが選挙の時に示したマニフェストにかなりこだわった議論をしていた。全てのマニフェストを、どのように実現するのか工程表をみせてくれたという。大沢知事は、マニフェストは全力で実現を図るが税収を確保しながら進めなければならないと答えた。角倉議員の発言に、議場からヤジが飛んだ。久しぶりに議場に緊張感と活気がよみがえったと思った。

◇前知事の時の議場には激しい緊張があって時には異常さも感じられた。あの時と比べ議場の雰囲気は大きく変わった。しかし、別の意味で激しい議論と緊張が求められるというべきだと思う。

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2007年9月27日 (木)

「一般質問の応答」(26日)

◇5人が質問に登壇。自民は金子幹事長一人。野党の顔ぶれは多彩で、フォーラムの黒沢孝行、スクラムの関口茂樹、民主党改革クラブの石川貴夫、爽風の茂木英子の各氏。黒沢さんは四期のベテランだが、あとの三人は一期生で関口さんは前鬼石町長、石川さんは前NHKの記者、そして、茂木英子さんは安中市議会議員を四期目まで務めた人、これら野党の人達は前知事小寺氏を支持した議員である。大沢知事とどのように渡り合うのか興味のあるところであった。

◇選挙の時の公約、マニフェストに質問が集った。マニフェストには選挙に勝つための手段という一面も否定できない。「言うは易く行うは難し」という諺が思い出される。

 マニフェストに関しては、30人学級の推進、ドクターヘリの導入、県内小中高校のすべてに生徒の心のケアを行う新たなシステムの導入、既存の赤字施設の再生、15歳までの医療費の無料化、育児休業制度の推進等々が質問された。これらは、この「日記」でこれから折に触れて説明する考えであるが、ここではそのポイントを取り上げる。

◇「30人学級の推進」については、小学校の低学年と中学1年の学級を充実することを目指す。小学校低学年と中学1年は、環境が大きく変わるためしっかりサポートする必要がある。小学校に入ると集団生活の中で学問の習慣を身につけさせねばならないし、中学1年では、新しい教科も増え、教科毎に違う先生が教える。新しい方向は、これらの学年では、これまで非常勤の先生にサポートさせていたが、これを常勤化させる等の施策を実現することになる。

◇「ドクターヘリ」は、医療を施すヘリコプターだ。ドクターヘリ法が成立した。地域によって医師が偏在し、不足している状態を補完する意味もある。又、時間が勝負という場合は交通渋滞に悩むことなく患者を運ぶことが出来る。新知事は、基本方針を盛り込んだ計画を作り早期に実現する考えだ。

◇「15歳までの医療費の無料化」について大沢知事は段階的に実施していくと説明した。これは市町村と連携してやることだが、市町村の負担の増大を考慮しなければならないからだ。知事は次のように語っていた。「今、市町村によってどこまで無料化するかバラバラだ。そこで、住まいを移した場合、今まで無料だったのが有料になったりする。県内一律にそして平等にする必要がある。そうでなければ、子どもを育てるなら群馬と胸を張っていえない」と。ここに現われているように、この無料化の問題は少子化対策の一環なのだ。

◇「育児休業制度」については、茂木英子議員が「県内事業所の育児休業制度の定着状況」について質問したのが注目された。この制度を生かすことは出生率をアップさせるカギと言われている。「ぐんま子育てビジョン2005」では、この制度の定着率を19年度で100%にするという目標を掲げていた。知事は商工団体などに働きかけると決意を述べていた。本気でこれをやれば、群馬の出生率が上がるだろう。

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2007年9月26日 (水)

「福田総理が誕生した瞬間」(25日)

◇総理大臣誕生の歴史的瞬間をテレビで見た。国会で重要な役割を果たした人物として江田五月、河野太郎、笹川尭の各氏の姿があった。私が面白く思ったことは、憲法の定めた通りの現実の国会の動きが見られたことだ。この流れの中の重要なポイントで、この三氏がそれぞれの役割を果たしていた。

 憲法の定めとは、総理大臣の指名に関する六七条二項の次の点である。「①衆議院と参議院で異なった指名の議決をした場合、②両院の協議会を開いても意見が一致しないときは、③衆議院の議決とする」

 ①の点につき、衆議院は福田康夫氏を、参議院は小沢一郎氏を、それぞれ、内閣総理大臣として指名した。②の点については、衆議院、参議院それぞれから10名の協議員が選ばれて、協議したが成案が得られなかった。(成案とは福田にするか小沢にするかを2/3以上で決めること)

 そこで、③の通り、衆議院の議決が国会の議決となるわけであるが、テレビで見ていると手続きは次のように進められた。

 午後5時5分、参議院の本会議が開かれ、両院協議会で成案が得られなかったことが報告されると、江田参院議長は、「衆議院と参議院の両院協議会を開いても意見が一致しないので憲法六七条第二項により衆議院の議決が国会の議決となります」と発言し、本会議は終了した。この間4~5分であった。

 午後5時半、衆院本会議が開かれると、笹川尭氏が登壇し、参院の時と同じように、両院協議会で成案が得られなかったことを報告、そして河野衆院議長は次のように発言した。「報告の通り、両院協議会を開いても一致が得られないので、憲法六七条二項によって本院の議決が国会の議決となりました。よって、国会法によって直ちに奏上することにします」

 かくして、国会は福田康夫氏を第91代の内閣総理大臣に指名した。奏上とは、天皇に申し上げることである。天皇は、国会の指名に基づいて、福田康夫氏を内閣総理大臣に任命するのである。

◇テレビは、福田事務所の様子を報じた。座りきれない程の人々が集り、その表情は喜びで明るく輝いていた。この活気は群馬県民の心を現すものに違いない。

 いろいろな人が福田総理に感想を寄せていた。中曽根元総理は「柔よく剛を制すで小沢一郎の猛攻に対応して欲しい」と語った。又、加藤元幹事長の次の言葉は福田内閣への要望として適切なものと思えた。「地域が取り残されてバラバラになった。これが日本人の心の落ち着きをなくしている。はやく直して欲しい。そのために落ち着いた政治で国民の信頼を取り戻して欲しい」。

 福田さんは、はったりのない、静かで誠実な人だ。総理になった姿には、今まで見せたことのない毅然としたものがうかがえる。背水の陣を敷いた自民党の総力を結集するには適切な人材だと思う。小泉時代と合わせて大きな一本となる重要な役割を果たすのではないか。

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2007年9月25日 (火)

「福田新総裁の誕生まで」

◇ある日、突然福田康夫の名が総裁候補として現れ、あれよあれよという間に、この名は日本中をのみこむように広がった。群馬県の自民党県議は、夢を現実のものとする為に各地に飛んだ。9月23日、総裁選の最後の日、私たち17人は、仙台市に向った。この日は、福田、麻生両候補が全国の主要都市を回って街宣車の上から聴衆に訴えるというイベントの最後の日であった。

 森の都仙台市は予想を超えた暑さだった。11時半ごろ目的地である大通りに着くと既に街宣車が配置され、地元の県会議員が演説しており、周りには驚く程多くの人々が詰めかけていた。私は、自民党の総裁選が国民の高い関心を集めていることを目のあたりにした。両候補のキャラクターの際立った違い、あるいは追い詰められた自民党の最後の努力、これらが人々を引きつけているのだろうと思えた。

 正午に両候補が到着。二人が街宣車の屋根に登る頃大通りの両側は大変な人の波でうめられていた。福田康夫さんは語りかけるように話す。ゼスチャーはほとんどないし、感情を現して叫ぶこともしない。麻生太郎さんの演説は、これと対照的であり、そして、大衆の喝采を受けているのは麻生さんの方であった。私は、麻生さんがかなり票を伸ばすのではないかと思いながら仙台市を後にした。

◇仙台から帰ると、この日は、ふるさと塾の日であった。テーマは「吉田茂」である。私は仙台の出来事を紹介しながら麻生太郎の祖父であるワンマン宰相について語った。そして、吉田茂がマッカーサーと馬が合ったこと、総理大臣の間、吉田が要した莫大な費用は、麻生家が負担したこと、等のエピソードを紹介しながら吉田茂が締結に心血を注いだサンフランシスコ講和条約の意義などを取り上げた。

 サンフランシスコ講和条約の締結は昭和26年のこと。この頃、戦後世界の冷戦状況は深刻化しており、ソ連や中国まで含めた全ての関係国と全面講和を結ぶことは、現実的でない、と吉田は考えたのである。全面講和を主張した当時の東大総長、南原繁のことを曲学阿世の徒(やから)と呼んだ話は有名で、塾では、このことにも触れた。これは真理を曲げて世間におもねる意である。

◇23日午後2時半前、私たちは自民県連の広間に集まった。正面に大きなテレビが設置され、開票を待つ党本部の状況が映されている。福田さんの静かな表情、麻生さんの談笑する姿が見える。やがて投票が始まった。次々に名を呼ばれて投票する国会議員は387人、続いて各県の代表が3人ずつ投票してゆく。投票が終わると、開票が始まった。福田、麻生の票が整理され、束が並べられる。会場の緊張も高まっていた。開票の結果は、福田康夫330票、麻生太郎197票であった。この中に含まれる地方票は、福田が76、麻生65であった。麻生さんは予想以上に善戦した。福田総裁の誕生に県連の会場には万歳の歓声が響いた。群馬県から4人目の総理大臣が誕生することが確実となった。

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2007年9月24日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(27)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

人々は気付いて歌うのを止めた。

「そっと横にさせよう」

 塩原さんが言った。私とドミトリーが抱えてソファーにのせた。青柳さんは幽かに右手を上げて何か訴えようとしている様子であるが、その手も力なく下がってしまった。

「青柳さん、どうしました、しっかりしてください」

私は静かに言った。答えはない。意識がなくなっているように思えた。異国の出来事なので私たちはどう対処してよいか分からない。

この時、ドミトリー青年が冷静に的確に行動を起こした。

「まず、総領事館ですね」

彼はそう言うと、片手でさっとメモ帳を開き、もう片方の手で携帯電話のボタンを押した。私はドミトリーの指先を見詰め、息をのんで応答を待った。

「昼で、だめです」とドミトリーは言った。一秒一秒が長く感じられる。青柳さんがこのまま回復しなかったらどうしよう。私の不安は高まっていく。頑張ってくれ、と私は祈った。ドミトリーだけが頼りであった。彼はいろいろな所へ電話している。ロシア語で話すドミトリーの声も緊張している。

彼は私の方を向いて言った。

「すぐに救急車が来ます」

私はほっとした。十分くらいというが、その間が長く長く感じられた。やがて、三人の太った女性救急隊が姿を現した。彼女たちは、青柳さんの腕をまくり、脈を触診、まぶたを裏返したり、心臓に手を当てたりしはている。ロシアの医療スタッフは、正規の医師と看護婦そして中学卒業後三年間の医療の訓練と教育をうけた補助医から成っている。目の前の女性は看護婦か補助医か。彼女たちは顔を見合わせて何やら囁き合っている。私には、彼女たちがいかにも心もとなく見えた。焦る心を抑えてドミトリーを見た。ドミトリーも同じ気持ちであったらしい。女性と何か話していたが、

再び携帯電話でどこかに連絡している。彼は話の途中で私の方を向いて、青柳さんの年齢、普段の病気について尋ねた。私は、心臓の持病のことを話した。彼は、再び電話の相手と話していたが、間もなく話し終えて、私に言った。

「ドクターが来ます」

地獄に仏とはこのことだと思った。間もなく、恰幅の良いドクターが助手を連れて現われた。助手は重そうな医療用器機らしいものを携えていた。ドクターは、それからラインを伸ばして青柳さんに取り付けている。心電図をとるらしい。

「日本の機器です」

ドミトリーが小声で言った。ドクターは体温と血圧を測り、心臓に手を触れ、機器から出てくるデータを見ていた。

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2007年9月23日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(26)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(26)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて 頭上の太陽は突き刺すような光を容赦なく私たちに浴びせていた。風はそよりともせず、とにかく熱い。私たちは時々動いたりして直射日光を避ける工夫をしていたが、青柳さんは微動だにしない。青柳さんの読経の声はますます高まり、その後ろ姿は80に近い老人のものではなく、岩のように力強く見えた。〈皆さん、どうか安らかにお眠りください。皆さんの死を決して無駄にしないように、私は頑張ります〉 緊張した空気の中で、私は祈っていた。 私たちは日本人墓地からさほど遠くないロシア人の家族を訪ねることになっていた。一行がついたときは12時を少し回っていた。4,5階建てのアパートがいくつか建っているその一つにドミトリーが案内する。今日はエレベーターが動かないというので4階まで歩くことになった。手すりにつかまって階段を登る青柳さんの姿はいく分苦しそうに見えた。やっと4階のロシア人の家庭に着く。パタポアさんの知人であるタチアナさんという50歳くらいの女性がその母親と待っていた。2LDKのこぢんまりとしたたたずまいである。部屋はよく片付けられていて日本の県営住宅を思わせる。私たちは、テーブルについた。私の左右に塩原さんと青柳さんが座り、その向かい側にタチアナさんをはさんでその母親とパタポアさん、そして、これらの人々を横から眺める位置にドミトリーが席をとった。ロシアの一般の家庭の様子を知りたい私たちは、自己紹介しながら会話に入った。タチアナさんの夫は生産工場に勤務、大学生の一人息子がいる。その母のソーニャさんは89歳だという。日本では珍しくないが、ロシアの平均寿命は73歳くらいというから、かなりの高齢である。見たところまだかくしゃくとしている。ご主人はとっくに亡くなったらしい。私が年齢を聞いたとき、老婆は微笑を浮かべながら、長く生き過ぎましたよと言った。日常の生活習慣や最近の社会の変化などを聞いた。私はソ連崩壊後の変化を聞きたかったのだが、ロシアの市民は、政治のことを話すのが嫌いらしい。それでも、ものが自由に言えるようになったが、物価が高くなった、子どもたちは将来の目的が持てなくなって迷っている、国の力が弱くなったせいかロシア全体では犯罪が増えている、また、日本の車が非常に多くなった、日本の車は評判はいいがなかなか手に入らない、などのことを聞くことができた。談笑のうちに時間が過ぎて、時刻は正午をかなり回っていた。メーンディッシュが用意された。キャベツ、パプリカ、キュウリを細かく刻んだサラダ、2種類の黒パン、ハムやサラミソーセージの盛り合わせ、それに水ギョーザなど。テーブルはカラフルな食べ物で華やかであった。食べる前に一同でロシア民謡の「ともしび」を歌った。前の二人のロシア女性はロシア語で歌っている。その時のロシア女性の表情は生き生きとし、見とれていた私は、ロシアに溶け込んでいるような気持ちになっていた。その時のことである。ふと横に目をやると青柳さんの口が動いていない。瞑想にふけっているのかと思ったが、そうではない。顔の血の気が失せている。ただごとではないと思った。 ☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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2007年9月22日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(25)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

 それにしても、この平和慰霊公苑ができたのは、平成7年のことである。半世紀も経ってやっと慰霊碑がつくられたということは、死者の霊を祭ることさえも、国際情勢と日ロの関係に大きく振り回されることを物語る。シベリアの凍土の下で、日本人抑留者の遺骨が砕けて消えてゆくように、多くの日本人の頭からもシベリア抑留の

事実が消えようとしている。21世紀の今、私たちの胸に、この事件を新しく蘇らせることの大切さを、この慰霊碑は訴えている。

8 日本人墓地、そして青柳さん倒れる

 シベリアの旅も順調に進んでいた。7月19日に、ハバロフスクに着いてから4日目に入っていた。7月22日、この日の重要な訪問予定地に日本人墓地があった。楠本総領事が私たちに、日本総領事として、一番重要な仕事は、平和慰霊公苑と日本人墓地をしっかり守ることだと語った、その日本人墓地である。遺族会の人、日本政府の要人は必ず、ここを訪れるという。

 日本人墓地はハバロフスク空港近くの広大な墓地の一角にあった。平和慰霊公苑は郊外の広野にあったが、日本人墓地はハバロフスク市内にあり、一般のロシア人の墓地と隣りあっていた。死後はロシアの市民と近所付き合いをするという意味もあるのか。ただ、日本人墓地は周囲をフェンスで囲まれ、ロシア人墓地とは区別され、花壇にはいろいろな色の花が夏の陽の下で咲き乱れている。まわりの白樺の木立が静かに守っている感じだ。墓の一角では、墓守りのロシア人の老人が腰をかがめて草とりをしていた。

 とにかく、ビロビジャンの林の中の無名の日本人墓地とは格別の違いである。広いシベリアの各地で亡くなった日本人抑留者は6万人を越えるのに、そのほとんどは遺骨の所在すら分からない状態であるから、それらについては当然のことながら墓らしき墓もない。したがって、このハバロフスクの日本人墓地はシベリア全土に眠る日本人の墓としての象徴的な意味があると私は思った。

 私たちは、そういう思いを込めて、日本人抑留者の墓という碑に花を捧げ、線香を立て、手を合わせた。小泉首相も訪れたというこの墓地は静まりかえり、折りしも、真昼の太陽が真上にあってじりじりと私たちを照りつけていた。雑草も花も短いシベリアの夏を精いっぱい生きているようである。

 青柳さんは碑の前に座し、ビロビジャンの時のように経典を読み始めた。よどみない声があたりの日本人の墓の上に流れ、それは隣接するロシア人の墓群の中にも伝わっていくようである。塩原さんは青柳さんの後ろで一心に手を合わせて祈っている。パタポアさん、ドミトリー、草取りの老人も青柳さんを囲むように祈っている。ビロビジャンの墓で、また平和慰霊公苑で、塩原さんは、俺だけ日本に帰って悪かったと声をあげて泣いたが、祖国に帰れなかった友を思う気持ちは、青柳さんも同じである。あの時は、他を顧みる余裕はなかった。自分のことを考えることが精いっぱいであった。数十年の生を得て再びシベリアの地に立ってみると、同胞の無念さが痛いほど分かる。

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2007年9月21日 (金)

「9月議会で注目される議案について。」

◇まず、いくつかの条例案について。

①第百二十号議案は、「群馬県部設置条例」で、理事を廃して部を置くことを定める条例である。知事の直近下位の内部組織として、総務・企画・健康福祉・環境森林・農政・産業経済・県土整備の各部が置かれる。小寺県政の下でこれらは廃止され、理事制となっていたが、部制が復活するのである。11月1日から実施される。グループ制も来年度からなくなるだろう。

②第百二十一号議案は、知事、副知事の退職手当てを支給しないとするもの。小寺前知事の時は、一期5千万円の退職金で、四期で約2億円となる。これは高すぎるのではないかということが、選挙戦の中で議論された。大沢さんは退職金はもらわないと公約していた。それを条例で実現するもの。二人の副知事も歩調をあわせることになる。

③第百三十一号議案は、拡声機による暴騒音の規制に関する条例。(一部を改正するもの)。これは右翼等の街宣行動を取り締まろうとするものだ。新設される主な規制手段は次の点である。

(イ)警察署長は、規制に違反して拡声機による暴騒音を生じさせている者に対して拡声機の使用停止を命ずることが出来る。(これまでは停止命令が出せなかった)。

(ロ)警察官は、一定の場合、暴騒音を発している者にその防止のために必要な措置を採るよう勧告できることになっているが、改正法では、勧告を受けた者が、その場にとどまり、引き続き暴騒音を生じさせている場合、その場所からの移動を命ずることが出来る。

◇第一三二号議案。「群馬ヘリポート」の指定管理者を指定する件。指定管理者として議会に提案されたのは「日本空港コンサルタンツ・大成サービス連合体」である。指定管理者制度とは、公の施設の管理を議会の議決を経て外部に委ねるもの。民間の事業者やNPOに委ねることも出来るようになり、群馬県も県有ゴルフ場など多数の施設の管理を民間に委ねている。行政改革の一環であって、コストの削減とサービスの向上を目的とするものだ。◇報告案件として、訴えの提起について報告書が議会に出された。県営住宅の建物明渡請求事件である。訴えられたのは109件。そのうち40件は和解が成立した。訴えの手段に踏み切る規準はというと、家賃の滞納が10万円以上もしくは6ヶ月以上で、かつ、支払いに誠意が見られない者。その他、不正な手段で入居し明渡しに応じない者である。県は、訴訟に踏みきった百人以上の人々の住所氏名も公表した。このような場合個人情報もオープンにされる。NHKの受信料に見られるように公共料金を軽視する人が多い。税金で成り立ち安い家賃で提供する県営住宅なのだから県当局は毅然として対応しなければならない。10月1日から暴力団員は県住への入居資格が認められなくなる。今後の明渡訴訟の対象者の中には、暴力団員が含まれる事態も予測される。現在、県住には約30人の暴力団員が入居しているらしい。情報の提供等につき警察の協力が不可欠となる。

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2007年9月20日 (木)

「9月議会始まる」(19日)

◇朝7時半、自民党県議の朝食会が群馬会館食堂で行われた。これは開会日の恒例となっている。福田康夫さんの応援のこと、11月に福田総理誕生パーティーを行う件、そして、9月議会の課題などが話し合われた。

◇10時に本会議開始。新任者の紹介では二人の福知事と3人の理事が登壇した。副知事は茂原璋男氏と佐々木淳氏である。茂原氏は、元議会事務局長であり、佐々木氏は総務省から来た人である。次いで知事が提案説明の為に登壇する。そこでは、大沢知事が選挙のときマニフェストで公約したことがいくつか語られた。主な点は、①トップセールスの強化、②少子化対策等の強化、③安全安心の推進である。

①トップセールスとは、知事が先頭に立って群馬を売り出すことである。知事は三つ挙げていた。一つは、本県への一層の企業誘致を促進するため「企業立地セミナー」を都内で開催すること。群馬は災害が少ない、その上、近く北関東自動車道が完成すれば企業の経済活動にとって良い条件が整う。それを知事自ら訴えようというもの。良い企業がやってくれば、雇用が増え、税収も増える。増えた税収は福祉や教育やまちづくりに役立てることが出来る。知事は、そのために北関東自動車道沿線地域の産業振興開発構想を策定する考えである。

 二つ目は、「ぐんま総合情報センター」の設置である。都心で、物産や観光など群馬県の魅力を総合的にアピールしようとするものだ。今は宣伝の時代である。群馬には名山、名泉など観光資源が多いし、これから売り出すべき潜在的な資源は非常に多い。これまで、宣伝が下手で努力と工夫も足らなかった。だから情報センターの試みは良い着想だ。グローバル時代なのだから世界に群馬を売り出すことも考えるべきだ。近く、群馬から第四番目の総理が誕生すれば、群馬をピーアールするための絶好のチャンスとなる。大沢知事は運がいいと言う人がいるが、群馬県民に幸運が訪れようとしていると考えるべきだ。三つ目は、群馬の魅力をインターネットを使って全国に効果的にPRする戦略を目指している。以上がトップセールスの主な点である。

②少子化対策の強化としては、特定不妊治療に対する助成の拡充や、保険所で児童が体調不良となった時の対応策としての安心保育サポート事業、いじめや不登校などの問題で悩む保護者への支援の拡充などを挙げている。

③安全安心の推進としては、ドクターヘリの導入、介護職員の確保対策、犯罪被害者のための相談支援員の設置、前橋高等養護学校伊勢崎分校の設置などを挙げている。

◇午後、来月の中国視察についてプランを検討した。激動する中国の実態をこの目で見ようというのが目的。目的地は大連と北京である。大連では、日本語を学ぶ生徒が非常に多い遼寧師範大学と大連外国語学院も訪ねる。これらの大学へは毎月日本から本を贈っている。北京では、オリンピックの準備状況や食の安全についても調べたいと考えている。

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2007年9月19日 (水)

「今日から罰則強化の道交法施行」

◇飲酒運転の罰則が強化されるのに伴い、車の提供者、酒の提供者、同乗者を罰する規定が新設された。そして、この改正道交法は、9月19日から施行される。これらは飲酒運転を助ける行為であり、これまでは幇助罪として罰せられる可能性があったが、飲酒運転を撲滅するためには、これらの幇助行為が重大な犯罪であることを明確化する必要があったのである。

「情けが仇」という諺がある。これは好意や同情からしたことが、かえって相手によくない結果をもたらすという意味であるが、この度の法の定めは、情に動かされて軽率な行為をすると自分の身も滅ぼすことを警告している。

◇以下改正法のポイントを説明する。

①酒酔い運転。従来の3年以下の懲役又は、50万円以下の罰金から、5年以下の懲役又は、100万円以下の罰金になる。

②「車両提供」は、酒気を帯びていて飲酒運転をするおそれのある者に車両を提供した者に対する罰則である。その運転手が「酒酔い運転」をした場合、提供者は5年以下の懲役又は、100万円以下の罰金を、その運転手が「酒気帯び運転」をした場合、提供者は、3年以下の懲役又は30万円以下の罰金を科せられる。②「酒を提供した者」は、その運転手が「酒酔い運転」した場合、3年以下の懲役又は50万円以下の罰金を、その運転手が「酒気帯び運転」をした場合、2年以下の懲役、又は30万円以下の罰金を科せられる。

③「同乗者」について。「酒酔い運転の車」に同乗したものは3年以下の懲役又は、50万円以下の罰金を、「酒気帯び運転の車」に同乗したものは2年以下の懲役又は、30万円以下の罰金を科せられる。

④その他、ひき逃げの罰則、飲酒検知拒否に対する罰則が強化された。は、従来、5年以下の懲役又は、50万円以下の罰金であったが改正法は10年以下の懲役又は、100万円以下の罰金に、は、30万円以下の罰金から3ヶ月の懲役又は、50万円以下の罰金に改められた。

平成18年中の交通事故による死者は6352人であるが政府は平成24年までに交通事故死者数を5000人以下にしようとしている。

 今日から県議会が始まる。群馬県の交通対策については、この会議で問題とされる点を、この日記で取り上げるつもりである。

◇最近の注目すべき犯罪。

①電気を止められた男が近くの家の屋外のコンセントから延長コードで電気を引いて使った。警察は窃盗容疑で男を事情聴取した。窃盗罪は他人の「財物」を窃取する罪なので、電気は「財物」かとかって争われた。現在は、電気は「財物とみなす」と定められている。②集団暴行をまわりで見ていた少年達が「現場助勢罪」に問われようとしている。これは現場で障害の勢いを助けた場合に適用される。最近の少年たちの集団心理には恐ろしいものがある。そういう現象に対する警告になるだろう。③いじめにメールが使われて自殺者が出た。このような事が今後、続く恐れがある。学校は、対策を検討しなければならなくなるだろう。

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2007年9月18日 (火)

「とんでもない事が起こりつつある」

◇市政県政活性化対策懇談会が伊香保・福一で開かれた(16日)。前橋選出の県議、前橋市議、県連会長、同幹事長、大沢知事等が参加。来年2月に迫った前橋市長選で、知事選を共に戦った中から候補者を出そうという事も議題になった。もちろん、にわかに降って湧いたような福田総裁候補の事も大きな話題になった。共通の問題を抱える県会議員と市会議員が酒を酌み交わしながら肝胆相照(かんたんあいてら)して話し合うことは誠に意義深いことだと思った。

◇県議団総会、自民党役員合同会議が相次いで開かれた(17日)。「とんでもないことになりましたね」と、ある元県議が言っていた。主な議題は、①総裁候補として立候補した福田康夫さんを全面的に応援すること、その上で、②本件自民党に与えられる三票は、具体的に誰が投票するか等である。②については、幹事長、女性部長、青年部長が投票行動をすることに決まり、①については、党員の投票にかけることなく、この役員会で福田さんに三票を投ずること、及び、22日仙台市の街頭で、自民党県議有志が福田康夫を頼むと応援演説をすること等がきまった。

 決意表明のため登壇した女性部長、飯塚実枝子さんは、天佑だと言ってテンションの高い挨拶をされた。

◇敬老会の席で、福田か麻生かを党員に投票させて決めた方が良いのではないか、そうするために、総裁選の日程を初め19日としたのを23日にのばしたのではないかと聞かれた。党員を総裁選に参加させることは、党員に自覚を与えることになりまた民主主義の観点からも望ましい。そこで多くの県は全党員の投票によって福田か麻生かをきめようとしている。私たちの理由はこうだ。福岡県・群馬県は、それぞれ候補者を出す県である、このような県は、党員の投票にかけるまでもない、群馬県についていえば、福田さんに異を唱える人は極く少ないだろう、限られた時間の中で、県連は、他県への働きかけなどをしなければならない、そこで、県議団の総会及び、党役員合同会議で決定したという次第である。なお、自民党本部の規則によれば、衆参両院の国会議員387名と都道府県連代表141名によって投票が行われる。141名というのは、各県連一律に3名で、47の都道府県連があるからだ。国会議員の間では福田さんが圧倒的に優勢らしいが、地方では、麻生さんがかなり善戦するのではないかと思う。

◇福田康夫さんが総理大臣になれば、群馬県では4人目の総理である。福田さんは71歳、父親の赳夫さんが総理になったのも71歳だった。親子で総理というのは史上初めてのことだという。ところで、群馬は、全国の都道府県の中で知名度が非常に低いといわれるが、福田総理の実現は、群馬を売り出す絶好のチャンスとなる。大沢知事と福田康夫さんの間には強い絆がある。これを生かしてチャンスを活用しなければならない。目出たいことは重なるものだと言って、飯塚女性部長は小渕優子さんの出産が間近いことも挙げた。生れてくる子は男子だという。大きなおなかを抱えて知事選を頑張ると言っていたことが思い出された。

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2007年9月17日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(24)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

1945年は、昭和20年敗戦の年である。この年の秋から日本兵のシベリア強制抑留が始まった。60万人を超える人々が、ダモイ(帰国)だと欺されながら、家畜のようにシベリア各地に、あるいは、バイカル湖やウラルを越えたヨーロッパロシアにまで拉致されていった。地獄のような状況の中を生き抜いた多くの日本人は、昭和25年春までに帰国するが、理不尽にも戦犯とされた日本人は、その後も長く抑留された。そして、1956年(昭和31年)、鳩山首相による日ソ交渉の妥結によって、ようやく、これらの日本人も祖国帰還を果たすことができたのである。この間に6万人を超える日本人が無念の涙をのんでシベリアの凍土に消えた。この碑文は、このような事実に基づくものである。ちなみに、昭和25年までに帰国した日本人を、一般に短期抑留者というが、青柳さんの帰国は昭和22年末、塩原さんの帰国は、昭和25年の2月であった。 私たちは、建物の中に入り、円形の壁に囲まれて上を見上げた。そこには、私たちを含め赤いレンガの筒をまるごと飲み込むような深く青い空があった。不思議な空間の中で、人々は沈黙し、しばし時は流れた。 やがて、パタポア女史が両手を上に伸ばし、パンパンと手を叩きながら言った。「こうして、頭の上で、手を叩くと霊と通じることができます」私たちは、皆、パンパンとやった。その時、私が見上げる青い空を、魚が泳ぐように白い小さな雲が流れている。抑留者たちは、あのような雲の流れを見るたびに、その先に祖国があることを思い、望郷の念にかられたことであろう。私が思いに耽っていると、突然、むせび泣く声が上がった。塩原さんだった。「日本から来たよー、会いに来たよー、俺は先に帰って、悪かったなー。俺は、もう少しで82歳になるんだ、もう二度と来られないと思うけど、安らかに眠ってくれ。皆、日本に帰りたかったろうなー。日本は、いい国になった。二度と戦争のない国にするから、どうか安心してくれ」 腹の中から絞りだすように塩原さんは叫んでいた。塩原さんの脳裏には、かつて、このハバロフスクで、飢えと寒さに耐えられず、バタバタと倒れていった仲間の姿が甦っているに違いない。 厳粛な気持ちにひたっていると、今度はパタポアさんが口を開いた。「去年の一月、小泉首相がここに来ました。小泉さんは、この慰霊碑の前でコートを脱いで、ひざまずいたのです。まわりに居た多くの人が、それを見てワーッと声を上げました。その気温は、零下35度でした。小泉さんは、花を捧げて、大地に手をついて、5分くらい祈っていました。その姿を見て、ロシアの人も涙を流しました。そして、私たちは、抑留者の問題が日本人にとって、いかに重大かということが分かった気がいたしました」小泉首相は祈りが終わると立ち上がって、パタポアさんに近づき握手したという。 ☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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2007年9月16日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(23)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

なお抑留者が建設に携わったアムールホテルは、ハバロフスク市でつくられた第一番目のホテルだというが、にぎやかなメーンストリートの一角に、小さな規模ながら、他の今日的な派手な建築物の中で、しっかりと存在感を発揮していた。また、コンサートホールは、歌手の三波春夫がその修理に携わっていたといわれるが、アムール川の近くに、今でも、市民が芸術文化活動を繰り広げる場所として現役の姿を保っていた。

七 平和慰霊公苑

この日の重要な調査目的地である平和慰霊公苑は、ハバロフスク市郊外の荒涼とした草原の一角にあった。公苑の近くには、銀色の太いパイプが延々と走っていた。冬季には、これで湯を送り街の暖房に使うのだという説明を聞いて、改めてここが極寒の地シベリアなのだと思った。今は、真夏の陽光の下で、快い風が吹いているが、遮るもののないこのあたりの厳しい冬の光景こそシベリアの本当の姿に違いない。冬の景色を想像しながら私は、昨年の真冬、小泉首相が、この慰霊公苑を訪れたという話を思い出していた。慰霊公苑は、入り口の所に、大きな灰色の御影石が置かれ、それには太い筆字で、「平和慰霊公苑」と刻まれている。この字は瀬島龍三が書いたものだという。そして、この石の一角に、次のような文をのせた黒色の石のプレートがはめ込まれている。

「第二次大戦後ソ連邦において死亡した日本人の英霊を鎮魂し、二度と再び戦争の悲劇を繰り返さないことを誓い、民族、宗教の枠を越え、日本とロシア国の愛と平和の祈りをこめて、この平和慰霊公苑を建設した。

1995年9月12日

日本国 財団法人太平洋戦争戦没者慰霊協会

ロシア連邦 ハバロフスク州ハバロフスク市」

この石碑から真っすぐに石畳が広がり、その奥に赤いレンガ造りのちょっと変わった形の建造物があった。これが、日本人死亡者慰霊碑である。正方形の壇の上に置かれた四角いレンガ造りの建物の内側は円形の壁となっており、その東西南北は、半円形の窓となって外と通じている。その一つから建物の中に入ると、頭上には円形の青い空があり、白い雲が静かに流れていた。

中の窓には、白い金属の板がとめられ、それには次のように書かれている。

「さきの大戦の後、1945年から、1956年までの間に、祖国への帰還を希いながら、この大地で亡くなられた日本人の方々を偲び平和への思いをこめてこの碑 を建設する」

竣工 平成7年7月31日

日本国政府

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2007年9月15日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(22)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

「多くの人が知らないと思います。特に、若い人はほとんど知らないでしょう」

楠本総領事は、この点について多くを語らなかったが、ドミトリーの答えるところが、恐らく真実なのだろうと思った。21世紀が急速に進む中に、20世紀の強制抑留という出来事が遠い彼方に消え去ろうとしているのだ。

日ロの新しい関係がこれから進む中で、何とか、日本人の苦闘の跡が形として残る工夫ができないものかと思う。

私は、第21収容所の跡地に立って、ハバロフスク事件のことを思い浮かべていた。それは、奴隷のように従順で何でも命令されるままになっていると、軽蔑の対象にさえなっていた日本人抑留者が、最後に日本人としての意地を示した出来事であり、また、ソ連の権力に対して命がけで抵抗した事件のことである。最近、ロシアの学者が新しい資料に基づいて、「シベリアのサムライたち」という論文を発表したのは、この事件に関することである。後に項を改めて紹介するつもりである。

第45特別収容所の跡は、現在、にぎやかな大通りに面した、第三診療所と呼ばれる病院に変わっていた。

ここには、元満州国皇帝愛親覚羅溥儀やもと関東軍の高級将校が収容されていた。ここで亡くなった9人の元高級将校は、翌日訪ねる予定の日本人墓地に埋葬されているという。

大通りに面したところに置かれた大きなライオン像は、一帯の建物がつくられた時、その記念にと抑留者の中の優れた彫刻家が制作したという。

二頭のライオン像は、堂々として威厳が感じられる。苦悩と怒りを表してあたりを睥睨(へいげい)するその姿は、現実にはかなわぬ抑留者の思いを表しているのかもしれない。

日本人が建設に携わった多くの建物は、今日、まだしっかりとした姿で残っており、日本人が確かな仕事をしたことを雄弁に物語っているようだ。あるロシア人は、語っていた。

「日本人は、立派な仕事をしたので、窓や床はまだ少しも狂っていない。日本人はすごいですね」

 恨みこそあれ、夢も希望もない境遇で、堅実な仕事をした日本人はさすがであった。日本人抑留者が残した物が、今なお、ハバロフスク市民の間で、建築物として使われ、あるいは芸術作品として評価されているということは、日本人抑留者の意思が、恩讐を越え、時代を超えて、浄化された形で生きていることを意味するのではないか。このことを、21世紀の、発展する日ロの関係の中で生かしてゆくことが私たちの責任であり、抑留者の苦しみにこたえることだと思う。

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2007年9月14日 (金)

「安倍首相辞任の衝撃」

◇辞任のニュースは日本中を席巻(せっけん)する勢いである。先日、国会の売店で「晋ちゃんまんじゅう」を10個買った。箱の漫画にはスーパーマンに扮した安倍首相が国会議事堂の上を飛んでいる姿と、その下を奥さんのスーパーマンが飛び、「晋ちゃん、どんなことがあっても私は味方よ」と叫ぶ姿が描かれている。辞任表明のニュースの後、この晋ちゃんまんじゅうは値が上がり飛ぶように売れているという。

 私の「日記」にも質問や意見が寄せられている。号外も出る衝撃の政治の出来事は、国民が政治の仕組みと民主主義を学ぶまたとない機会だと思う。

 新聞にも一面の大見出しで首相辞任の文字が踊る。しかし、実際はまだ辞任はしていない。だから、ニュースなどは安倍「首相」と言っている。いつまで首相かという質問が寄せられているが、それは次の総理大臣が任命されるまでである。その時、安倍首相に任命された大臣もその職を失うのである。(大臣の過半数は国会議員から選ばれる)

 因(ちな)みに、内閣総理大臣を任命する人は天皇である。憲法では、天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命すると定めている。そして、内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名することになっている。

 ところで、自民党は、23日に自民党総裁を決めようとしている。この日、総裁が決まると、新聞やテレビでは、新しい総理大臣が決まったような騒ぎ方をするだろう。しかし、今書いたように総理大臣を決めるのは国会の議決である。自民党が国会で多数だから、自民党の総裁が国会の中の選挙で多数を得て総理大臣に選ばれるのである。

 ◇「国会がねじれているから、参議員で民主党が反対したらどうなるのですか」という質問があった。最近の例が二つある。1989年(平成元年)、衆院が海部俊樹を指名したのに対し、参院は土井たか子を指名、1998年(平成10年)には衆院が小渕恵三を指名したのに対し参院は菅直人を指名した。いずれの場合も衆院の指名が国会の議決となった。今回も同じような動きが見られる可能性がある。

 これは衆議院の優越性といわれることで、総理大臣は衆議院がつくるといわれるゆえんである。憲法上の定めはこうだ。衆院と参院の意見が食い違った場合、両院協議会を開いて成案を得る方法があるがこれが得られなくも、衆院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日が過ぎると、衆議院の議決が国会の議決となってしまう。今度のねじれ国会で参議院が小沢一郎を指名したとしても、衆議院で指名されたものが総理大臣になることは間違いないのである。

◇昨日一日で、政局の新しい流れが一気に生まれた。福田康夫さんが自民党総裁に選ばれるのが確実の方向だ。普段表情を表さない福田さんの顔に決意がみなぎっていた。知事選に続いて再び上州が熱く燃える。東京の自宅に電話して頑張って下さいと申し上げた。

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2007年9月13日 (木)

「安倍首相、辞任の衝撃」(12日)

 午後自民党控室にいると、テレビを見ていた同僚議員が、安倍さんがやめるようだと驚きの声をあげた。画面の上にテロップが流れたのだ。間もなくニュースで辞任の意志を固めたことが報じられた。テレビは、安倍首相の記者会見の模様を伝えた。自民党控室には数人の議員がいたが皆驚いている。そして、失望の色を隠さない。今まで、私は大変な逆風に耐える首相に強さを感じていたが、辞意を表明する首相の姿は、人生に悩む育ちの良い普通の好青年に見えた。

 安倍首相は、つい先日、国会で所信表明を行った。これは主権者たる国民に対する首相の決意の表明であり約束である。辞任は、それを一方的に反古(ほご)にすることだ。理由があるのなら十分な説明責任を果さねばならないが全く不十分だ。

 最高の権力者は最も孤独な存在である。それでも歴代の総理は個人的な相談相手や参謀がいた筈。安倍首相の場合、今回の決断に際し相談するものはいなかったのか。不思議である。

 与謝野官房長官が安倍首相の健康状態が深刻だったと述べた。私は以前安倍さんが総理になる前、安倍さんと非常に親しかった人から安倍さんの健康問題について話を聞いたことがある。だから健康に問題があったことは事実だと思う。しかし、このことは、今回の辞任の決断について本質的なことではない。総理の重圧に耐えかねて逃げだしてしまったのだと思う。今や非難ごうごう、安倍さんを擁護する声はほとんどない。このような事態になることは予想出来たことだ。こんな生き恥をかく位なら尻をまくって思い切った事をすべきだった。日本には古来、「死中に活を求める」とか、「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と言う諺がある。吉田茂、鳩山一郎、岸信介など、歴史の首相はみな今回の安倍首相以上の難問を抱えながら難局を乗り越えた。まちのおばちゃんが、安倍首相のことを「育ちの良いぼっちゃんだから弱かった」と感想をもらしていた。

◇尻をまくってやる思い切った事とは、例えば、テロ特措法の新法案を衆議院で再議決することだ。衆議院で可決した法案が参議院で否決された場合、衆議院でもう一度可決すれば法律は成立する。普通の場合、出席議員の過半数の賛成で可決となるが、再議決の場合は、出席議員の三分の二以上の賛成がいる。

◇この方法について民主党は反対を表明していたが、これは憲法で定めていることである。首相が政治生命を賭す覚悟で捨て身で国会に臨めば可能であったと思う。国民の多くも支持したに違いない。テロ対策支援の重要さと国会の紛糾の現状を考えると、憲法第59条が定める、衆議院の再議決の制度は、このような場合を予想していると考えることができると思う。やがて生れる新しい内閣もこの方法を使うのではないか。安倍内閣の失墜で地方が影響をうけるのではないかと思われることの一つに教育問題がある。教育再生会議が打ち出してきたことはどうなるのだろうか。

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2007年9月12日 (水)

「後援会のバスツアーは歌謡ショウ」

◇大型バス一台、総勢49人の一行は朝9時にスタートした。12時に築地の魚市場につく。バスガイドがしきりにすすめるので集団で予約した店のスシは期待はずれでおいしくなかった。魚の業者が威勢よく動く市場は既に時間外で静かだったが、私は一人で、市場の中を歩いた。マグロの頭を解体しているおじさんの姿があった。広く薄暗い広場は、巨大な怪物の胃袋の底を感じさせた。

◇3時に国会見学で議事堂に入った。本会議場の傍聴席に座り説明を受ける。議長席のうえに天皇の席があるがまだ座ったことがないという。国会を召集するのは天皇の権限で、開会日には天皇が出席するが、開会式は参議院で行われる慣例なのである。

 10日、臨時国会が召集され、安倍首相は参議院で所信表明演説を行った。その中でテロ対策特別措置法の延長に「職を賭して取り組む」と述べたことで国会は緊迫した状況になっている。私たちが入ったのは衆議院の本会議場である。議長席の隣に総理大臣の席がある。私は緊張した安倍首相の姿を想像した。

 議場に入る前に尾身前財務相がやってきて挨拶した。その中で尾身さんは、インド洋のアメリカ軍の船に油と水を供給することはテロ対策の支援として極めて重要で、これを続けられなくなれば、アメリカとの信頼関係を損ない世界の期待を裏切り世界の平和にとって大きなマイナスだと語った。

◇午後6時ごろNHKに着く。バスの中で食事を済ませスタジオパークを見学した。

NHKの技術には感心するものが多くあった。時代劇を撮影する場面を高いところから眺めた。ちょうど風林火山をとっているところで、誰かがあれが山本勘助だと言う。頭がはげ上がっているのでおやっと思っていると、その人物が足をひきずって歩きだしたので納得した。

ニュースを報道するコーナーで、一通り説明が終わった後で担当の女性が誰かに体験してもらうといい出した。皆に押し出されるようにして私がアナウンサーの席に着かされた。机の上に原稿があり、それが目の前の画面に写っている。正面を向いてそれを読むのだが、ノー原稿で話しているように放映される。なるほどと思った。

リハーサルをしてから始めた。

「おはようございます。ニュースをお伝えします。大気の状態が不安定になっております。関東地方の南部や伊豆諸島では雷を伴った強い雨が降る恐れがあります。以上スタジオQから中村のりおがお伝えしました」というもの。

 間違いなくできたのでドッと拍手が起きた。

◇三千人以上の人が入って8時にコンサートは始まった。「出会いと別れの港歌」と題して「港」をテーマにした歌の特集である。森進一、渥美二郎、鳥羽一郎、大月みやこなど華やかな顔ぶれが歌い、会場は拍手で埋まり人々は酔った。帰路、夜の高速道路は順調に進んだ。時々強い雨が降る。「大気の状態が不安定で」と言った中村アナウンサーの報道は当ったようだ。家に帰ると午前0時を過ぎていた。楽しい一日だった。

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2007年9月11日 (火)

「目まぐるしい一日」(10日)

◇老夫婦に頼まれて裁判所に出す答弁書を書いた。この人達は家屋明渡訴訟の被告である。齢(よわい)80にして長年住み慣れた家を出て行かねばならない事態が迫っている。友人の弁護士を紹介したら、この人が引き受けられず、君が答弁書を書けとすすめられ書くはめになった。私は、何でも屋だとつくづく思う。県職員や教員の試験で相談を受ける事があるが、権力を使って合否を動かすことなど出来ない。このような人に群馬の行政や教育の重要課題などを話してやることもある。

◇朝8時半、地元の県道の問題で、県土木の担当者に来てもらい、PTAや自治会の役員などと共に、問題の箇所を歩いた(9日)。大型トラックが通ると地響きと共にすごい風圧をうける。歩道がないので、狭いところを子どもや老人が通るから非常に危ないのだ。県道をよく調査すると、個人の所有地がじわじわとせり出して県道部分を埋めているところがかなりある。きちんと整理し工夫すれば、狭い歩道は出来るのだ。人命を守るために、予算は十分でなくも知恵を出して出来ることから工夫することが必要だと改めて感じた。

◇「理科の面白さを育てる会」について、教育委員会の課長と話した。この会は、小中学生の理科離れを憂える同志が集って進めているもので、成り行き上、私が代表者になっている。現役の小学校の教員、大学の研究者、退職教師など多彩なメンバーがいる。教育委員会として、どのようなサポートができるかを話し合った。

地域社会には、理科の面白さを提供できる人がいる一方、理科が嫌いなのに理科を教えねばならない教員たちがいる。両者をうまくつないで、子どもたちの為に理科の面白さを育てることが目的だ。何かを生み出さねばならないし、それは可能だと思う。子ども達に理科の面白さを分からせることは彼らに夢を与え科学立国の基礎をつくることに通じる。

◇次回のふるさと塾は、吉田茂なので、ちょっとした時間をみつけて資料を読んでいる。出張の新幹線の中で、麻生和子の「父、吉田茂」を読んだ。娘から見た宰相の実像は面白い。一つのエピソードを紹介しよう。

 吉田茂とマッカーサーはウマが合った。両方とも強い性格だから波長が合わなかったなら父は首相を止めていただろうと和子は書いている。吉田茂は敗戦国の代表であるが、勝者のマッカーサーに卑屈な態度をとらなかった。あるときマッカーサーが吉田に葉巻をすすめたが、その態度が気に入らなかったらしく、「それはマニラ産でしょう。私はハバナのもの意外は吸いません」と言って断った。それが「わーい、ざまあみろ」という位痛快でうれしかったと娘は父を語る。敗戦国の国民の心が分かる気がする。力道山がアメリカ人の大きなレスラーをぶっ倒すのが私たちにとって何ともうれしかったのと共通のものがあるのだろう。

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2007年9月10日 (月)

「母の三回忌は浄土真宗の寺」

◇きょうだいなど親しい親族と亡き母を偲んだ。平成17年県議会議員として南米各国の県人会記念式典に出席し帰国したのは8月31日。その直後、帰国した私を見て安心したのか母の容態は急に悪化し、9月14日この世を去った。89歳であった。本堂に響く読経を聞きながら私は目を閉じて母の面影を追った。

 次の文は、平成17年9月12日(月)の議長日記の部分である。

―母の危ない状態が続いている。医師は「意識のない状態」だと説明していた。ぼろきれのような身体がベッドであえいでいる。昔のいろいろな場面が思い出された。「頑張れ、俺が分かるかい」と耳元で何度か叫んだら、ぜえぜえというノドの奥から「わ・か・る」と微かな声がもれた。混濁の意識の底に生が残っているのだ。そこに働きかけて生きる力を目覚めさせることが重要だと思った。乾いた砂にしみ込んできえようとする最後の一滴の命。この一滴を受け止められるか否かは私の力にかかっているように思えた。医師に昔の音楽を聞かせてよいかと聞いた。許可してくれた。妻は民謡がいいというが、「りんごの歌」もよいのではないか。昭和22年ころ、若かった母がよく口ずさんでいたのを思い出すー

◇朝7時、公園で月1回の草取りが行われた。定着した町の行事、数少ない町民のコミュニケーションの場になっている。草の生命力は強いから一ヶ月で驚く程のびる。以前、誰かが除草剤をまけば簡単だと言った。最近はそのようなことを言う人は全くいない。子どもたちの参加も増えた。町民全体が大切なことを学んだのだ。因みに私は、この草取り事業の役員の代表である。純粋なボランティアで汗を流すのは気持ちがいい。

◇母の法要に集まった一人が、スーパーの買い物では必ず裏を返して産地を見る、そして、中国産は買わないと言った。これは今や世界の常識になっている。食品に限らずあらゆる中国製品に対する不安と不信が広がっている。今、中国で何が起きているのか、オリンピックは大丈夫なのか、中国製品に対する懸念は中国という国に対する懸念となって、それは広がるばかりだ。この謎のモンスターをこの目で確かめようと、来月15日から私が団長となって県会議員が中国を訪問する。目的地は大連と北京である。

◇食品や薬品を監督する立場の中国の高級官僚が死刑になったことについては「日記」で何度か取り上げた。ワイロをもらって多くの偽りの薬を承認し、この薬は多くの犠牲者を生んだ。この高級官僚が処刑直前に書いたという遺書が報道された。「私が殺されることに人民が拍手喝采して喜んでいる。こんなにも恨みを買っていたとは。私は明日旅立つ。私が殺してしまった人たちの魂とどう接したらいいのか。どうか許して欲しい」。巨大国家が崩れ落ちようとしている。この事件はその象徴と思える。

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2007年9月 9日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(21)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

私が、感謝文の説明を受けている間、後ろでドミトリーたちが、カチャカチャと写真に収めていたが、館側は黙認してくれているようであった。作業がかなり進んだところで、ストップがかけられ、お互いにこりと笑顔が交わされた。これがグラスノチ(情報公開)の実態なのだなと思った。かつてのソ連では考えられないことなのであろう。館の中は極めて友好的で、怖いソ連の官憲というイメージはまったくなかった。これらのこともロシアの変化の現われとして紹介しようと思いながら、ハバロフスク国立古文書館を後にした。(スターリン大元帥への感謝文は、頁を改めて紹介する)

六 収容所跡、抑留者がつくった建造物を見る

 7月21日の午後は、パタポア女史、ドミトリーの案内で、ハバロフスク市内の多くの場所を回った。

 主な調査先は、第16収容所本部跡、第21収容所跡、第45特別収容所跡(現診療所)、元共産党大学(現極東公務員アカデミー)、プラチナアリーナ、TV塔下の建物、ジナモ公園の正面、ライオン像、日本人建設の住宅群、平和慰霊公苑、コンサートホール、アムールホテル等々である。

 第16、第21収容所跡地等は草が茂り、建物等はなく、ここに収容所がありました、という説明を受けた。現在は何の変哲もない荒地であるが、かつては、多くの日本人抑留者が、ここから強制労働に追い立てられていったのであろう。零下30度、40度という酷寒の下で、ろくな食べ物もなく、栄養失調でバタバタと倒れた人々のことを想像すると胸が痛む。20世紀の「奴隷」が、半世紀前、ここに現実に存在したのだ。そう思いながら振り返ると塩原さんと青柳さんは、かつての自分たちの姿を思い出しているのか、夏草のあたりをじっとみつめ立ち尽くしていた。

 ハバロフスクの収容所に長くいた塩原さんは、ハバロフスクの収容所から強制労働の現場へ駆り立てられる道中の出来事を、以前次のように語ったことがある。

「珍しそうに私たちを見ている子どもたちがいると、私たちは皆、食べ物を下さい、と手を伸ばすのです。すると、面白がって、鳩に豆をやるように子どもたちは、わずかな食べ物を投げるのです。私たちは、争ってそれを拾いました。まさに、餓鬼ですよ」

食べ物をねだるにも、ロシア語を使うと、効果が大きく違うことに気付き、塩原さんはロシア語を必死で勉強したという。塩原さんの頭には、死線をさまよった時のさまざまな光景が甦っているのであろう。

収容所跡地とされるところの中央には広い道路がつくられ、自動車がしきりに行き交っている。目の前の光景はまさに21世紀の姿なのだ。

「ロシアの人々は、昔の強制抑留のことを知っているのですか」

私は、傍らに立つドミトリーにたずねた。

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2007年9月 8日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(20)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

翌日、ドミトリーが連絡して、首尾よく許可されたことが分かり、コピーを手に入れることができた。

 エフドキーモヴァ館長は、コピーの冊子を差し出しながら言った。

「日本の方にこれを渡すのは初めてですよ」

私は、ワクワクする気持ちを抑えて書類を受け取った。

私は、改めて小冊子を見た。表紙のタイトルは、

ソヴィート諸民族の偉大なる指導者

全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、

スターリン大元帥

  

となっている。

 コピーしたものを細いヒモでとじ、そのヒモの上に証明書が貼られ、その上から丸い公印が押され、さらに、その上にロシア語で署名がなされている。

 また、別に一通の許可証がついていた。それには、次のように記されていた。

古文書(複写)のロシア連邦からの持ち出しに関する許可証

 日本人の中村紀雄氏にハバロフスク地方国立古文書館の文書の複写を交付した。それは、国立古文書館の学術図書館の刊行物から複写したものであり、日本人の捕虜からスターリン大元帥に宛てた感謝の手紙、1949年の日本新聞の1ページから34ページである。

文付理由、原本は、ハバロフスク地方国立古文書館に保管されている。文書は秘密のものではなく、ロシア人や外国人の研究者のために公開されているものである。複写の持ち出しは、ロシアの利益に損害を与えるものではない。

 館長 H・Φ・エフドキーモヴァ 

                            (原本はロシア語)

実は、館長が用意した資料の中にもう一つ興味あるものがあった。それは、「感謝アルバム」と題した、61枚から成る画集である。一枚一枚は、収容所の生活を巧みな筆致で描いたもので、細かな説明文が書き込まれている。画集には、目次がつけられ、「作成理由」と題するものから始まり、最後は「決意表明」で終わる。収容所生活が素晴らしかったことを絵で説明し、スターリン大元帥への感謝とソ同盟に対する忠誠を誓うもので、「感謝文」の絵画版である。

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2007年9月 7日 (金)

「県外視察・台風9号の中尊徳記念館へ」(6日)

◇台風9号が関東を目指している。群馬の地元で被害発生とのニュースがあり、関係する県議は心配そうである。尊徳記念館の研修だけで、切り上げることになった。報徳小学校へ行けなかったことは残念である。

 しかし、小田原市の尊徳記念館ではずしりと胸に響いて得るものがあった。単なる道徳の手本を超えた二宮金次郎の全体像に一歩近づけたことは、私にとって大きな収穫であった。この記念館で私たちは20分位に編集されたアニメを見た。シンプルなストーリーが胸を打つのは、天災、凶作、飢えに苦しむ農民を救うために私利私欲を捨てて打ち込む金次郎の姿がまっすぐに描かれているからだ。金次郎が仕事の合い間を見つけ勉強したことがあのように役に立ったのだとアニメを見る小学生の胸にもストーレートに伝わるに違いない。群馬県の教育にとって大きな示唆を受けるアニメの企画だと思った。

 アニメでは、金次郎が活躍するいくつかの場面が登場する。その一つは、領主に命じられて桜町【さくらまち】村(現在の栃木県内の町村)の立て直しをする事業である。金次郎は荒れた村を再生させるためにあらゆる努力をする。人々の意識をかえて改革することは大変なことであった。金次郎のやり方を理解できない人もあった。いつの時代も人間を動かすことは難しいのだ。壁につき当たり金次郎は、成田の不動尊にこもって、21日間の断食の修行をする。迷いを乗り越えた金次郎を人々は温かく迎えて協力した。そして、死にかけた農村は見事に再生した。

 もう一つは、飢きんを予知して人々を飢えから救ったことである。ある年の夏、いく日も雨が続いた。金次郎は夏の初め、ある農家でナスを食べた。それが秋ナスの味がしたことから異常を察知し育たないイネを抜いて飢きんに強い稗を作らせた。そのために大変な凶作にもかかわらず金次郎が指導した地域はだれも飢えなかった。

 金次郎はもっとひどい凶作が必ずくると考え、雑穀を多く作らせたくわえさせた。やがて天保の飢きんが訪れ全国で多くの餓死者が出たが小田原領内では一人の餓死者もでなかった。アニメの絵の奥にある歴史的事実と人間の営みを想像して私は感動した。子供たちも同様だと思う。館内にある小学生の感想文がそのことを示していた。

◇二宮尊徳の哲学を示すいくつかの言葉を学んだ。「積小為大」。小さな努力を積み重ねていけば大きな効果を得ることが出来る。つまり小さなことをおこたらず積み重ねる努力が必要だという教え。その他、勤労【きんろう】(働くことの大切さと意義)、分度【ぶんど】(収入に応じた生活)、推譲【すいじょう】(分度によって余ったものを世のために譲る)など。記念館には、これらの文字を書いた小学生の書がたくさん壁に貼られていた。道徳ということを高く振りかざすことなく、自然に子どもたちの心に素晴らしい人間像を植えつけることが大切なのだ。郷土を愛する心についても同じだ。金次郎の生きた姿は政治家にとって大きな手本だと思った。小田原駅の外には黒い雲の下に北条早雲の像があった

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2007年9月 6日 (木)

「県外視察・浜松工業高校と静岡県警」(5日)

◇静岡県立浜松工業高校では、日本の企業を支える「物づくり」の真の意味を教えられた思いがする。県内には、ヤマハ、スズキなど有名企業や元気のいい中小企業が多く、この学校はその中にあってよい刺激を受け、また、時代の要請を真に受け止めて教育に取り組んでいるという印象を強く受けた。

 校長の発言は一つ一つが私の胸を打った。日本は良い物を作らねば中国に負ける、物作りを支える人材に必要なものは技術力だけではない、良い企業人として倫理観、マナー、創造力、国際的な対応力等々の総合力が求められる。そういう社会の要請にこたえるために学力、技術力、人間力を身につけさせることを学校の基本方針にしている、というのだ。

 又、校長は、日本の経済を支えるものは、中小企業であり、中小企業を支えるものは専門高校だから専門高校で良い人材を育てねばならないと浜松工業高校の使命感を熱く語った。中小企業を支え、また、将来自ら事業を起こせる創造的な人間を育てるために、特許権、実用新案権、商標権などの知的財産権に関する教育を行っていることも注目された。高校生は特許の仕組みを理解するために、一つのアイデア、例えばカップヌードルが特許権や実用新案権などを獲得する過程を分かり易く説明する小冊子を作っていた。これを作って中学生などに説明するのだという。このような努力が自らの理解を深めるのに有益なのだ。校長は、「将来、高校生社長が出てもよい」と楽しそうに語った。この高校の生徒は、このような夢をもって学んでいることを知った。夢を持って進んで学ぶことは教育の理想の姿である。

◇静岡県庁を訪ね県警の重要な取り組みについて説明を受けた。主な点は次の二つである。①市町村合併に伴う警察の管轄区域変更と警察署の統廃合について。②警察官の再任用制度。これらは群馬県でも喫緊の課題になっているので先進の例として大変参考になるのだ。

①は、合併により生まれた新たな行政区域とそれまでの警察の管轄区域の間に発生したねじれの問題である。このままでは住民の協力を得た警察力を発揮することができないから管轄区域を改めねばならない。この点の静岡県警の努力を見た。時代の変化と共に新しい住宅地域が生まれたり、犯罪発生地区に変化が生じたりするが、それに対応した警察署の在り方を研究しなければならない。一例としてある地域の警察署を他の警察に統合し、それ迄のものは分署として残す工夫をしていた。新たな変化に対応して警察力を有効に発揮するための視点を学ぶことが出来た。

②は、経験を積んだベテランの警察官が定年で退職していくことは警察力にとってマイナスなのでそれを再任用しようとするものである。静岡県警は19年度の再任用数が全国最多で4人であった。そのうち2人を、長年培った技能を後進に伝える「伝承官」に任命した。団塊世代警官の大量退職に伴うこのような対策は群馬県警も進めているが、他県の取り組みを直接聞くことは大いに参考になった。

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2007年9月 5日 (水)

「県外視察・西居院廣中住職の姿」(4日)

◇新幹線を三河安城駅で降りバスで岡崎市の西居院に向う。途中には家康ゆかりの岡崎城があり、ガイドは、近くに松平町があり、そこが松平氏発祥の地だと説明した。小高い山の緑の中にある浄土宗の寺、西居院は意外に小さかった。本堂には、私たちの為にパイプイスが用意されていて廣中住職は本尊を背にして私たちに向き合って座った。

 不登校、非行、いじめなど様々な問題に悩む子どもたちを語る住職の言葉には話す程に熱が入り私は思わず身を乗り出した。

 光る目は遠い過去を懐かしむようで、それは無茶な青春を追っているようであった。私が、失礼ですがと切り出して住職の少年時代のことを聞くと番長でこの町を仕切っていたという。その熱い血は衰えず今はそれを教育問題に生かしているのだった。

 全国から集った子どもたちは寺で生活しながら学校に通う。これ迄に504名を卒業させた。卒業とは寺を出ることで、その時期は廣中住職が判断するのだという。

 子どもとの真剣な取り組みの中で摑んだ教育論は説得力があって胸を打つ。その一つを紹介してみる。廣中氏は、子どもの教育にとって一番大切なものは家庭である、各家庭がその家の法律を作れ、例えば門限は何時、夕食は一緒にとる、家の中で挨拶する、小遣いは毎月何日に渡す等だ。そして、我が家の法律コンテストをやるべきだと語った。良い生活習慣と生きる力の原点は秩序ある家庭だと思った。 

 西居院を出て移動するバスの中で、私は提案した。群馬県でも我が家の法律コンテストをやろうではないか、間もなく始まる9月議会で文教の委員会が提案し県民に呼びかけて一つの運動を起こそう、そして、集会には廣中氏を呼んで公演を聞こう、と。須藤委員長もそれがいいと言って賛成してくれた。

 夕食会は一日を振り返りながら楽しく盛り上がった。前知事との対立を背景にして、これ迄執行部が視察に参加しなかった。やはり、視察の体験を共有することは意義がある。夕食では、皆がこの事を改めて噛み締めていたようだ。我が家の法律づくりについても話題になり、教育委員会も賛成なので手伝いたいと課長が語っていた。

◇夕食会場に向かうためホテルのロビーで夕刊をみて瀬島龍三氏の死を知った。95歳波乱の人生だった。シベリアや強制抑留を描いた私の著「望郷の叫び」の中で瀬島氏のことを取り上げた。ソ連の法廷で懲役20年とかの判決を受けた。長期抑留者が知恵を絞ってサムライとしての意地を示した抵抗運動・ハバロフスク事件では、瀬島氏は陰の参謀として慎重なアドバイスをしていた。東京裁判の証人としてわずかの間帰国し家族と会って再びシベリアに戻った。鳩山一郎がモスクワに乗り込んで日ソ交渉を妥結させたため、長期抑留者全員が帰国できた。瀬島氏の抑留は11年間で終わった。瀬島氏の近くで行動を共にした草津町の永田さんは瀬島氏の死を特別の思いで受け止めておられるだろう。(豊鉄ターミナルホテルで)

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2007年9月 4日 (火)

「市長と朝食会、知事に重点要望」(3日)

◇髙木市長と前橋出身の県議の会合は朝7時前橋テルサで行われた。平成20年度の市の重点施策について県に協力を求めるもの。いつもの通り共産党以外の県議が出席した。要望項目の中には、①子ども医療費の無料化についてや②教職員配置の充実についてなどがあった。①は、新知事の公約に合わせて中学卒業までの子どもの医療費を無料化にするので補助を頼むというもの。そして、②は30人学級の実現のための特配教員の配置と教員の長期研修のときの教員の不在を埋めるための県費による補助教員の任用を求めるもの。

 これら市の要望を今月10日知事に届ける際、私たち県議が立ち会うことになっている。これまでは、このような状況で前知事は私たちに対して誠に渋い顔をしていた。今度の知事の雰囲気はどうか。

◇この日、1時から常任役員会が開かれた。これは、9月議会に向けた予算の重点要望を議論するためだ。これを踏まえて2時から、常任役員と知事との会議がもたれた。市の要望は平成20年度の当初予算関係であるが、私たちの要望はこれから始まる9月議会の補正予算関係である。全国都市緑化フェア関連事業、信号機新設、医師不足解消、地球温暖化対策等、いろいろな要望が出された。信号機は一基いくらかと地域の人に聞かれたことがある。この日は20基で8千万円要望した。一基4百万円の計算なのだ。要望事項に関して議員からいくつか発言がなされた後で、大沢知事は組織の改編に触れた。それは、理事制を廃止して部長制に戻すことやグループ制を見直すことである。理事制もグループ制も分かりづらいという批判が多かった。組織はシンプルで県民にとって分かりやすいものがよい。大沢知事は、理事制については、この9月議会に条例を出し、年内に部長制に戻したい、そしてその他の改編は来年4月1日からスタートさせたいと述べた。

 知事と県議との初めての予算折衝である。就任して1カ月少しであるが、私と向き合う顔はすっかり知事の顔であった。明るい笑顔には先頃迄の県議仲間と一堂に会した安心感が現れていると思えた。

◇平成19年版警察白書を読む。本年版の特集は、「暴力団による資金獲得活動との対決」である。暴力団は我が国最大の犯罪組織であるが、活動には資金が要る。この資金獲得の方法が最近は巧妙になっている。それは露骨な暴力を伴うものではなく、外見は合法をよそおって行われる。その例として、暴力団が建設業に関わっている場合が多いという。当初は不動産業、建設業、金融業、飲食業、風俗営業への進出が多かったが、最近は産業廃棄物処理業、人材派遣業、警備業、更には証券取引の分野にまで進出するようになったといわれる。これを放置すれば我が国の経済社会が白蟻に食われるように侵されぐらぐらになってしまう。国民一人一人が暴力団と対決する意識を持つこと、特に行政が毅然とした態度を示すことが重要だ。私たちがつくった暴力団排除の条例は10月1日に施行される。

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2007年9月 3日 (月)

「地域商工会のマス釣り大会に出る」(2日)

◇旧宮城村の清流の里。その名の通り澄んだ水が勢いよくチョロチョロと音をたてて流れる。濃い緑に囲まれて、空気がおいしい。子どもたちがはしゃいでいた。ひんやりと冷しい風が流れ、ここでは夏は去っていた。

 ある業者とこんなことが話題になった。今の若いお巡りさんは子供の接し方を知らない、子供の誉め方が下手だ、ペーバーテストは優れているが人間として成長していない等のことである。この業者は、交番駐在連絡協会のメンバーで、私が文教警察常任委員であることをしっていて現在の警察官について抱く感じを語ったのである。

 私はこの人の話を聞いていて、一瞬、教員のことかと思った。現在、警察官も教員もしばしば不祥事を起こしている。この両者は職業として似ているところがある。ともに高い倫理観を求められる聖職である。それゆえに高いストレスに耐えねばならない。このような難しい職種に入る若者も時代の子である。特別の人間が集るわけではない。だから採用後に研修が要るのだと思う。教員については、先日、視察した教育センターで様々な研修を行う他、希望者は一般社会での職業も体験させる。

 警察官は、もちろん教員と同様に考えることは出来ないが、採用後の何らかの研修が必要ではないかと考える。また、警察官が個人的にかかえる悩みやトラブルについてサポートするシステムも必要なのではないか。

 サラ金の借金を抱えて郵便局に強盗に入った警官の事は記憶に新しいが、今度は好きになった女性に対するストーカー行為が高じて銃で殺す事件が起きた。事前に異常さを知ってこれらを止められなかったのが残念だ。警察は知恵をしぼって効果的な内部的危機管理システムを作るべきと思う。今週は、4日、5日、6日と、警察関係、教育関係の県外視察である。問題意識をもって勉強してきたいと思う。そのポイントは出先からブログで報告するつもりである。

◇警視庁の巡査長は知人の女性を射殺後に自殺したとされる。問題の警察官が死んでしまったので死人に口なしだから、真相は分からない部分があるが、状況証拠によってこの巡査長を犯人と断定した上で議論が行われている。犯人とされる男が警察官という特殊性によるものと思われるが、理論からすれば多少問題があるといえよう。

   

巡査長の退職金はどこへ。

巡査長が真犯人としても、本人が存在しないのだから懲戒免職に出来ない。巡査長は死によって即退職したことになる。そして、同時に退職金請求権が発生し、巡査長には妻子がいないからこの権利は相続によって両親に帰属する。警視庁が退職金の支給は制限できないと言っていたのはこの理屈によるものだ。しかし、これは一般の市民感情には反するもので、多くの批判が寄せられていたという。巡査の両親は受け取りを辞退した。これは権利の放棄だから問題ない。そこで警視庁は退職金を支給しないことにした。被害女性の遺族の損害賠償をどうするかという問題が残る。

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2007年9月 2日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(19)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

女性館長は、古文書館のことを簡単に説明した。

「当館には、70万以上の書類があります。しかし、当館の宝物は、書類ではなく、スタッフです」

 女性館長はそう言って、誇らしげに職員の方を振り返って笑った。

「日本人抑留者の資料は、政府からもらってないのですが、これだけがあります」

 館長は、そう言って、いくつかの資料を私の前に出した。

 私は、一冊の薄い冊子を見て驚いた。その表紙には、太い日本語で、「スターリン大元帥へ送る感謝文」とある。

 館長は、その冊子を取り上げて言った。

「このスターリン宛の手紙は、100冊しか発行していません」

 私は、この文章のことをある文献を読んで知っていた。それには、「日本人としてこれを持ち帰った者は誰もいないので、内容の正確なことは分からない」とされていた。当時、抑留者が帰国を許されたとき、文書や資料の持ち出しは厳禁され、厳しくチェックされた。特に、ナホトカで乗船するときは、厳重な身体検査をうけた。見つかると帰国を取り消されたり、再びシベリア奥地へもどされたりといった大変なことになったという。それでも、戦友の遺言を細かく分けて下着に縫い込んだり、亡くなった友の住所や伝言をメモした紙を糸巻きの芯にしたり、必死の思いで大切な書類を持ち出した手記が残されている。34ページに及ぶこの小冊子は、隠して持ち帰るには大変なものであるし、実は、危険を冒して抑留者が持ち帰る性質のものではない。なぜなら、自分たちを奴隷のように苦しめたスターリンに、考え得る最大限の賛辞と感謝を表明し、ソ同盟への忠誠を誓ったこのような文章を、抑留中に作ったことを、恐らくすべての日本人は恥ずかしいと思ったに違いないからである。

 私は、自分の研究テーマにとって重要なこの書類を、ぜひ持ち帰りたいと思った。そこで、さりげなく聞いてみた。

「これは昔、日本人がロシアの皆さんに大変お世話になったことが書かれている大切な書類です。私はこれからの日ロの友好、発展のために役立てたいのでコピーを頂きたいのですが」

 ドミトリーが丁寧に通訳する。パタポア女史も、そばでお願いしますという素振りを笑顔で示してくれた。

 女性館長は、広報部長のサレーエフさんとちょっと相談している風であったが、にっこりして言った。

「私の独断ではできません。上の方に相談してみます。許可が出たら連絡します」

 ドミトリーとパタポアさんが同時に私を見た。その視線は、よかったね、大丈夫ですよ、と言っているようであった。

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2007年9月 1日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(18)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

 例えば、収容所において、衣料や食料が極端に不足していましたが、それもナチスとの戦いの後で、ロシア全体がすっかり疲幣し、物資が極端に不足していたという事情がありました。また、強制抑留を指令したスターリンが死んで、ソ連の体制が大きく変化をはじめ、遂にソ連が崩壊し、今日、違う方向へ歩み出していることは、大きな観点からみれば、ロシア国民が強制抑留を生んだ体制を反省している証拠と考えることができるかもしれません。

 今回、ハバロフスクに来てみて、ロシアの人々は、みな良い人々だという印象を受けました。もちろん私が会ったのは、ごく一部のロシア人に過ぎませんが、ロシア人の全体像が分かる気がします。

 かつてのソ連ですが、その政治体制は冷厳なものであっても、個々のロシア人は、今と同様、良い人たちであったと思います。日ロの明るい未来を見つめる方向の中で、シベリアの強制抑留を考える必要性というものを、私は今回のハバロフスクの訪問で強く感じております」

楠本総領事は大きく頷いていた。

五 古文書館で「スターリン大元帥への感謝文」を入手

日本総領事館を出て、ハバロフスク国立古文書館を訪ねた。私は、外務省を通して、あらかじめ次のような依頼書を提出しておいた。

最近、アレクセイ・キリチェンコ(ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長)の「シベリアのサムライたち」という論文を読みました。それは、グラスノスチ(情報公開)の中で、知り得た資料に基づいたものです。このように、シベリア抑留の新事実がロシア側から公開されつつあることは大変意義のあることです。ハバロフスクの古文書館で、入手できる新事実があれば是非お願いしたいと存じます。21世紀の日ロの良い関係を築くために使用したいと考えています。

ハバロフスク国立古文書館は、外見は普通のビルの一角という感じであるが、中は警備が厳重で、重要書類を政府が守っているという印象を受ける。館長は、エフドキーモヴァさんという中年の女性であった。女性の広報部長サレーエフさんが同席して迎えてくれた。二人の女性は大変好意的であったが、それは、パタポア女史のお陰であった。女史は、ハバロフスクでは名士であり、特に日本との関係で知られているが、ここでは女性同士ということで、一層、良い雰囲気をつくり出していた。このことが、ここでのよい収穫に結びつくことになったことは否定できない。私は用意したプレゼントを女性館長に渡した。一つは絹製のテーブルセンターで、平安時代の宮廷の貴族の様を鮮やかに刺繍したもの。他は私の著書2冊である。館長はテーブルセンターが気に入ったようであった。

私はここで、私の研究テーマに関する貴重な資料を入手したのである。

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