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2007年8月16日 (木)

「戦没者追悼式に出る」(15日)

◇会場は群馬アリーナ。外はうだるような暑さ。式は正午に始まった。国歌、知事の式辞、黙とう、天皇のお言葉と続く。追悼の辞を述べる今年の国会議員代表は、福田康夫氏だった。2・3年前、中曽根元総理が、日本国の現状や役割を格調高く語ったことがあった。元総理の体調はどうなのか。

参加者が次第に少なくなり、式が形通りになった事を感じる。真の追悼式にするために戦争の実態を語り継ぐことに重点を置くなど発想の転換が必要だと思う。

◇玉音放送に見る日本人の心。62年前の皇居の広場には異様な光景が広がっていた。新聞の報道ぶりがそのことを伝えている。8月16日の毎日新聞は皇居に向けてひれ伏す人々の姿を写し、「忠誠足らざるを詫び奉る」と説明文をつけ、同日の朝日新聞も「玉音を拝して感泣嗚咽」、「玉砂利を握りしめつつ宮城を拝し涙」などと表現。これは、新聞も戦争に協力していたことをうかがわせる。そしてこれは、当時の人々の心を正直に表現していると思う。天皇をうらむ声などがおきないことは、天皇が国民から信頼されていたという長い歴史的事実を物語るものだ。

 一方、一般の人々が戦争が終ったことを単純に喜んだことも事実であった。昨日(15日)の朝日新聞の「声」欄には、ある人が出征する日に玉音放送が行われ、それを聞いた人々は、のぼりや日の丸の小旗を庭に捨て、酒盛りを始めた話が紹介されている。

 次は、当時、妙義町に疎開していた人が、放送を聞いた場面を振り返る文である。その人は小学校5年生であった。

「広間には、古びたラジオがポツンと置かれていた。私たち学童は正座してこの後にくるものを待った。寮の先生たちのコワバッタ姿勢から何か重大なことだと子供心で直感した。陛下のお言葉が随分長々と続いたように記憶している。しかし、その言葉の意味を理解することは難しかった。女の先生の目に涙を見たのもその時だった。寮長先生から『戦争が今日終りました』と知らされて初めてラジオの前に集まったわけが分かったし、先生の涙の意味に合点がいった。その瞬間、私の脳裏をよぎったのは、敗戦のくやしさでもなければ、哀しみでもなかった。両親の元に帰れるうれしさであった」(旭丘小学校昭和24年卒業合同クラス会編『えごの花』より。群馬県史7巻所集)

一般の国民は厳しい戦争の中で狂気に支配されていた。天皇の言葉によって狂気から開放されたのだ。そして、戦争の悲惨さと、平和の尊さを、体験を通してかみ締めたのだ。

この体験と実感は、日本民族の貴重な財産である。しかし、この財産が生かされていない。次第に影が薄くなりなくなってしまう危険すら感じられる。終戦の時20歳だった戦争体験者は82歳になり、その時生まれた人は62歳になった。これは、戦争を知る人々が限りなく少なくなっていることを意味する。そこで必要なことは、戦争の実態と悲惨さを子どもたちに正しく教えることだ。近現代史の教育も非常に不十分である。終戦を機にこれらを真剣に考えるべきである。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を掲載しています。

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