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2007年8月31日 (金)

「アメリカの橋の崩落と群馬県政」

◇9月県議会は9月19日から始まる。それに備えた自民党の政調会が今月29日に開かれ、各部局の重要な課題についての予算の事前説明が行われた。小寺県政の末期には、執行部(県側)は議会に詳細な予算説明を行わなかった。これでは、議会は予算議決権を適正に行うことが出来ない。

 前知事は、議会との対立が続く中でこのような態度をとった。だから予算が修正されるという議会史上前代未聞のことが起き、対立を激化させ、結果として小寺さんは墓穴を掘ることとなったといわれている。

 県民のための政策を実現するためには金がかかる。予算をつけることは、その金を予定することである。真に県民のために必要なことに金が予定されていると判断すれば、これを認めるし、そうでないと判断すればこれを否決する、これが議会の権能である。

 現在、全国の地方議会の多くが、執行部の出す予算をほとんど認めてしまうことが批判されている。十分に中味を審議しないですいすい認めてしまうのでは議会の存在意義がないと言うのである。大沢知事は、私たちが命がけでつくり出した知事であるが、信頼関係をベースにして、激しい議論を闘わして議会の役割を果たさねばならない。慣れ合いが生まれるようでは、新知事を誕生させた目的に反することになる。

◇この政調会で、道路整備課が橋の検査に4300万円の予算を請求していることが注目された。これは、過日、アメリカで起きた橋崩落に学ぼうとするものである。

 群馬県が管理する橋は2650あるが、そのうち、アメリカで崩落した橋と同一ないしは類似の構造のものが40ある。これを調べるための予算である。加速する車の量、見えない所で進む腐食や金属疲労、そして、ある時、突然橋が落ち多数の車が川にのまれる。これは悪夢である。惨事を未然に防ぐことは、県政の使命である。

 ミネソタ州ミネアポリスの橋崩落のニュースは衝撃的だった。ミシシッピ川にかかる長さ約580mの橋は一日約20万台の車が通行する。確認された死者は13人であった。

 衝撃的なのは映像だけではない。ドライバーは平穏無事に見える道路を走らせていたら突然大地が消えて水の中におとされる。ああいう事が、他の多くの橋でも起きる可能性があることを映像が伝えている点がショックなのだ。

 ミシシッピ―川の橋は40年前に建設された。日本でも50年以上たつ橋は多い。冬柴国交相は日本では起こらないと言っているが本当にそうなのか。県は、県が管理する橋の中の40橋を調査するが、市町村管理の橋はどうするのか。県は市町村に調査を働きかけるべきではないか。

◇小学校の授業時間が増える方向だ。主要教科に当てる時間を約1割増やし、高学年では英語を必修とする。学力の低下が心配され、ゆとり教育の見直しが叫ばれていた。真の学力として目指すべきは「生きる力」である。時間増だけでなく良質の授業を実現することが必要だ。学校が充実すれば、その分塾に通わずに済むから子供の負担増にはならない筈だ。私たちは県の教育力を生かす正念場に立たされている。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

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2007年8月30日 (木)

「安倍内閣は面白い。成行きを見てやろう」

◇昨日、9月議会に備えた自民党の政調会があった。問題の政策は国の政策とつながっている。中央政界の変化は直ちに地方に影響を及ぼす。私たちは、地方の政治を生かすためにも中央の政治を知る必要がある。安倍内閣の動きは、そのための面白い材料を提供している。

 内閣について多くの国民は注目し、支持率もやや上昇した。自民党に対する風当たりは強いが人材は豊かなのだ。追い詰められた首相は起死回生を願って精一杯の人材を見つけたようだ。私は「ふるさと塾」で歴史を話しているが、歴史は人物から入ると理解できる。政治も人物から入るのがよいと思う。

 安倍政権を支える何人かの人物にスポットを当ててみたい。先ず、幹事長の麻生太郎氏。ワンマン宰相と言われた吉田茂の孫である。母は吉田茂の長女で、父麻生太賀吉は吉田茂

の側近ナンバーワンだった。太郎氏は太賀吉の跡を継いで麻生財閥の当主だという。次の首相候補の一人とされる麻生氏の言動に注目したい。

 官房長官の与謝野馨氏については、その姓、与謝野に注目する人が多い筈だ。与謝野鉄幹、晶子夫婦の孫である。一般には、情熱的な恋愛賛歌を作った晶子の方が有名だ。日ロ戦争の頃、「きみ死に給うことなかれ」と歌った晶子の激しい情熱は政治家となった孫にどのように受け継がれているのか興味あるところだ。

 法相の鳩山邦夫氏は、元首相鳩山一郎の孫。安倍首相が岸信介首相の孫であることを考えると、この政権の人々は歴史上有名な人々の孫が多いと感じる。民主党の幹事長、鳩山由紀夫氏は邦夫氏の実兄である。自民党は参院では民主党に逆転されたので民主党とのパイプは貴重である。邦夫氏は兄とじっくり話してみたいと言っている。新法相はテレビで、裁判員制度と死刑について語っていた。裁判員制度は間もなく私たちにとって避けられない大きな問題となる。法相はリベラルな人物と見られるが死刑については執行すべきだという考えを持っている。

厚労相となった舛添要一氏は、学界の人であった。東大法学部を卒業後同学部助手となり、その後パリなどに留学し帰国後東大助教授になった人。平成11年都知事選に出て落選、平成13年の参院選では最多得票(158万票)で当選、その6年後の今年の参院選でも個人得票は47万票で自民党では1位だった。仏、英、独など6ヶ国語に堪能だという。舛添氏は今回の参院選の大敗に関し、首相を厳しく批判し、政治家としての資質に欠けるとかバカにつける薬はないなどと発言した。その人が厚労相になった。一転して全力を尽くすという協力の姿勢を示し、年金問題を命がけでやる、母の介護の経験を生かして福祉に力を入れると決意を語る。どこ迄貫けるか注目したい。

安倍内閣の支持率も上向いてきた。朝日と毎日は33%、読売は44%と調査結果を発表した。歴史的大敗をどのように乗り越えるのか現代史の生の動きを見詰めていきたいと思う。

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2007年8月29日 (水)

「文教警察常任委員会の調査」(28日)

◇午前9時15分に議会バスで出発。視察先は、県立渡良瀬養護学校及び県立総合教育センター。養護学校はみどり市の小高い山々に囲まれた畑の中にあった。そこでは知的障害を持つ児童・生徒と教師たちの真剣な姿を見た。

 このような学校を訪ねると、教育の原点、人間の原点、そして社会の成熟度を見せつけられる気がする。個に応じた教育、また、可能性を見つけ出す教育が最も求められるのが知的障害者の教育である。人間には無限の可能性がある。それを信じて温かく接すれば知的障害者から何かを引き出すことが出来る。それを力強く支える社会こそ人間を尊重する社会であり真の成熟社会である。私の質問に、はっとさせられる絵があると校長は答えたが、隠された可能性は全ての障害者にある。

◇午後は伊勢崎市にある県立総合教育センターを訪ねた。天にそびえる壮大な8階建ての建物に日本の教育、そして、群馬の教育が詰まっている。教育は最も重要で最も困難な課題である。それに向き合って群馬の教育力を向上させなければならない。子ども教育支援センター、いじめ緊急対策室、幼児教育センター、カリキュラムセンターなどが、教育の今日的課題に取り組んでいた。私は小・中学生の理科離れなどもこのセンターの課題に入れるべきだと発言した。

◇世界陸上大会の素晴らしさ。人間の可能性の限界に挑戦したドラマが繰り広げられている。黒い肌、褐色の肌、白い肌が風を切り宙に舞う。百分の一秒に賭けて祈る姿、会心の笑顔、その陰に長く苦しい努力があったことを想像する。

 世界陸上の選手を見ていて思うことは黒い肌の人が非常に多いことだ。彼らの活躍に拍手が送られ、彼らが尊敬される光景は人類の進歩を示すものである。歴史を振り返れば、黒人が奴隷として売られた時代があった。そして、肌の色によって人間の価値が決められ差別された時代が長く続いた。人種による偏見や差別は今日もなくなっていない。世界陸上で見られる姿は人類が目指す理想である。素晴らしい大会が進行する背景にはテロを警戒する大変な努力があるに違いない。来年の北京のことを心配してしまう。テロの現実を見ると人間は進歩していないのではと悲観してしまう。テロを生むものは何か、テロを無くすものは何かを私達は真剣に考えなければならない。

◇今回の組閣を見た人から議員でなくても大臣になれるのかと聞かれた。憲法では過半数の大臣は国会議員から選ばれねばならないとなっている。今回非議員の大臣は増田寛也総務相と大田弘子経済財政担相の二人である。この人を起用したのは地方を重視するためだ。選挙の敗因に格差による地方の披弊があるとされた。地方の活性化がなければ日本が生き生きしない。知事の経験を生かせるか。記者会見では、地域の問題を直視すると語っていた。地域の問題は多い。どう取り組むか見守っていきたい。

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2007年8月28日 (火)

「新しい閣僚の顔ぶれに思う」

◇昨日午後、新大臣が次々に決まった。塩川正十郎氏が「執念の内閣」と評していた。参院選で歴史的大敗を喫した安倍首相は地獄を味わったに違いない。落ち込んだ様子は、私には泣き顔に見えた。首相の母が「祖父は比べ物にならぬ程大変だった」といって励ましたと聞く。安倍首相の母とは首相の祖父・岸信介の長女である。大変だった事とは、安保条約改定時の混乱を指す。

 主な閣僚の記者会見に臨む姿を見て良い人材を登用したと思った。人生経験も政治家としての経験も浅い安倍首相が人事の面でも無理して小泉前首相の手法にならった点に失敗の要因があったと思えてならない。お友達内閣と言われたのはそのためであった。

◇舛添要一氏は厚生労働大臣に就いた。厚労相は今回の選挙の敗因である年金問題を起こした所であり一番難しいポストである。又、舛添氏は安倍首相を痛烈に批判していた。私は、あんなことを言われ首相の腹の中は煮えくり返るようだろうと思っていた。その意味では

舛添氏が厚労相になったことはちょっとしたサプライズである。彼は、最後の一人まで年金の記録をチェックしろと首相から言われた、命がけでやると表明していた。東大法学部の元助教授で、マスコミでチャラチャラしていたが、初めて政治家の覚悟の現われた顔を見せていた。

◇鳩山邦夫の法相就任も新鮮に映った。今月の私のふるさと塾(25日)は鳩山一郎を取り上げたが邦夫氏は一郎の孫である。鳩山邦夫氏は、かつて文部大臣を勤めたが記憶に残るのは、その時偏差値による進路指導の廃止を断行したことである。私も文教治安の委員として同じ事を主張していたのでよく覚えている。

 鳩山新法相は、記者会見で、特に裁判員制度のことを発言していた。制度のスタートが1年半後に迫ったが、国民の間にうまく根づかせるのは大変だと思う。裁判員になるのが恐い不安だという人が多い、国民によく制度を知らせることが重要なので、自分は広報宣伝マンをつとめたい、このように語っていた。

 また、記者に政治資金のことを聞かれて、自分は28歳で初めて選挙に出て以来清潔を旗印にしてきたと答えていた。

◇その他、登壇する大臣は皆、自分の言葉でしっかりと抱負を語っていたのが印象的であった。上川陽子少子化担当相は、子育て環境の点から食育の推進に全力を尽くすと述べた。また、遠藤農水相は、バイオマスが21世紀の重要な産業になること、農業農村の活性化が地方の活性化につながること、そして、自給率の事を聞かれ、40%というのはカロリーベースのことで穀物ベースでは27~28%だ、これからは、どれだけ海外に依存しているかという依存率を問題にすべきこと、などを語っていた。

 安倍首相の顔も久しぶりに晴れた表情だった。追い詰められて誕生した内閣の動きを見守りたいと思う。

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2007年8月27日 (月)

「ふるさと塾、桃井小、料理作り」

◇26日土曜日のふるさと塾は予定通り鳩山一郎をやった。由起夫・邦夫に至る英才の家系を紹介しながら一郎の波乱の人生を辿った。若き日の一途な恋、政治家になって戦争中は大政翼賛会に抵抗し、戦後は政権を目前にして公職追放となった。やがて追放は解除されるが、今度は、その解除の直前に脳いっ血で倒れる。悲劇の政治家といわれた。それでも、病を克服し総理となり日ソ国交回復をなし遂げる。それは鳩山の執念であったと思う。鳩山が日ソ国交回復によって果そうとしたことは、①世界の平和に日本が貢献する、②国連への加盟、③強制抑留者の帰国であった。

 日本は、サンフランシスコ条約によって独立を果しながら、国連に加盟出来なかった。それはソ連が拒否権を行使するからだ。長い飛行機の旅に耐えられるか多くの人々が心配する中、鳩山一郎は自らモスクワに乗り込み遂に日ソ交渉を妥結させる。そして、日本は国連に加盟し、シベリアの長期抑留者は間もなくすべて帰国した。多くのエピソードと映像を使った私の話を面白いと言ってくれる人がいた。9月のテーマはワンマン宰相吉田茂ときまった。

◇ある町の三世代スポーツ大会が桃井小で行われた。私は次のような挨拶をした。「私はこの近くで生まれました。大変古い伝統のあるこの小学校で行われるスポーツ大会が実りあるものになることをお祈り致します」

 桃井小のあたりは、昔は曲輪町と言った。私は北曲輪町で生まれたのである。桃井小は前橋で最も古い小学校である。ポツダム宣言の受諾につき天皇の聖断を仰ぐなど終戦処理に当った当時の首相鈴木貫太郎がここを卒業した。彼の言葉「正直に腹を立てずにたゆまずはげめ」が校内の碑に刻まれている。スポーツ大会の会場となった体育館に立って私は、このようなことを思い出していた。

◇「おーいお茶今では、そっと入ったよ」。今日の世相を現わしている川柳である。我が家の夫婦関係もこれに似たところがある。頭痛もちの妻をいたわるという気持ちも多少あって、昨日の昼食に全く自己流のおかずを作った。ブタ肉をゴマ油で炒め肉汁と共に椀にとる。次に、ゴーヤと大根の葉を刻んでこれもゴマ油で炒めた。この時赤いたかの爪をちぎって入れた。私は辛いものが好きなのだ。ここで、先に炒めたブタ肉をまぜて弱い火で再び炒めタマゴを割ってまぜ塩味をつけた。妻が美味しいといって喜んだ。久しぶりに見せるすっきりした笑顔である。こんな私の行為が妻の頭痛を改善するのに役立つならこれからもやろうと思った。「おーい飯(めし)、できたぞー」といった感じである。

◇また嫌な事件があった。三人の男がまちの女性を車に連れ込み金をとった上、ハンマーで殴って殺し山中に捨てた。一人が自首して全員が逮捕された。死刑が怖くて自首したという。死刑の是非に関して、死刑の犯罪抑止力が問われる。抑止力に疑問を抱く意見も多い。今回は結果的に抑止に役立たなかったが、死刑を怖れる気持ちが一般に存在することがうかがわれる。死刑を廃止したら凶悪事件がどっと増えるのであろうか。

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2007年8月26日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(17)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

「それを、解決するためには、情報交換を増やすことやシベリア抑留を乗り越えることが重要ではないでしょうか」

「その通りです。情報の交流によって、ロシアは今、ソ連じゃない、ロシアも今、民主主義が育っている、市場経済が進んでいる、ハバロフスクもそれほどひどいところではない、ということを知ってもらうことです。今、コンピューターの時代ですから、これを利用して、日本と極東ロシアの間の情報の交流を頻繁に行い関心を高める。それによって、たくさんの日本人、学生さん、ビジネスマンに、行ってみたいなあーという気を起こさせることが大切です。そういう情報の流れ、人の流れができることによって、ロシアは、日本にとって大事なんだという感じが分かって、より地についた関係が発展していくんじゃないかと思います。

 ロシアには、ここのところ大きな変化があります。今、ロシアでは、石油がどんどん、どんどん出ます。ですからすさまじいお金が、ロシアに流れ込んできます。日本にとっても大きなビジネスチャンスです。政治的にも安定しました。最近、頻繁に日本からビジネスの方が来られます。これは、日本の見る目が変わってきたことだと思います。今後は、これをどんどん進めて、こんなに近いんですから、本当の意味の隣人関係、隣国関係を深めてゆく。そして、このことによって、日本人がロシア人とかロシアに対して持っている古いイメージを変えてゆく。そして新しいイメージをつくってゆく、このことが最も大切ですね。」

 楠本総領事はこれからの日ロについて熱っぽく語った。対談の終わりに、私はシベリア強制抑留のことに触れた。

「今後の新しい日ロの関係を築く上で、シベリア強制抑留の事実は避けて通れません。これをどのように乗り越えるかということが大切だと思います。数えきれないほどの体験記、手記があります。こういうことが事実としてあったのだということを知ることは非常に大切です。そして、地獄のような苦しみを味わった人たち、また、無念の涙をのんで亡くなった方々のことをしっかりと受け止めることが日本人として大切です。

 しかし、あれから半世紀以上がたった21世紀の今日、新しい視点からシベリア強制抑留を考えることも重要だと思います。例えば、当時の時代背景の中に位置づけて、また、その後の大きな変化との関連において、強制抑留の事実をもう一度考えてみることが、21世紀を生きる私たちの責任のような気がします。

 60万人の日本人を抑留して酷いところで労働させたということは紛れもない国際法違反です。そして、いろいろ大変なことがありましたが、それをもう一度、じっくり考えてみることも必要ではないでしょうか。

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2007年8月25日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(16)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

同じロシア人でも、モスクワは違います。モスクワとかヨーロッパロシアの人は、我々はヨーロッパ人だという意識が強いんですね。そして、日本は遥か彼方の国だと思っています。しかし、ここは、日本が身近ですし、日本とは仲良くやっていきたいという感じがすごく強いように思われます。

実際、ここで、去年一年間、日本文化フェスティバルということで、いろんな文化行事をしました。お茶、お花、書道、津軽三味線、琴、尺八、また、こういう伝統文化のほか、新しいジャズとかいろんな行事をしましたが、どれもすべて満員でした。私も出席しましたが、『総領事、ありがとう、ありがとう、日本の皆さんによろしくお伝えください』と、そういう感じでした。こういう点からも対日感情はとてもいいと言えると思います。」

「21世紀の日ロの関係はどうあるべきだと思いますか、そして、大切な課題は何でしょうか」

「ここの極東ロシアについて申し上げますと、皆さんの目は、北東アジア、日本、中国、韓国に向いています。特に日本の優れた技術と資本によって、経済開発をやっていきたいという気持ちがすごく強いんです。日本にとっても極東ロシアは、石油、ガス、石炭をはじめいろいろな資源が豊富です。そして、対日感情がすごくいい。だから、日本との間には、相互依存的というか、お互いにとって利益になる基盤があると思います。その方向で、ロシアと日本の関係を強化してゆくことが、これからの一番大きな課題です。ところが残念なことがありましてね」

 楠本総領事は、またここで言葉を止めて、私の顔を見詰め、そして、塩原、青柳さんの方を見た。

「それは、日本人からみるロシアは、まだ、怖い国なんですね。シベリア抑留のことが、重くかかっているのです。また、経済的に混乱している国とみています。ものすごく否定的な見方をしているのです。 ある調査では、日本人の80%がロシアに対して親しみを感じないとしています。これは大きな現実です。特に若い日本人の間で、ロシアはますます魅力のない国になっています。例えば、大学でロシア語の講座がどんどん閉鎖されているんですね。

 私はハバロフスクのまちを歩いていて、日本人の方にお会いする機会がほとんどありません。日本からわずか2時間で来られるのに、在留邦人は70人ですが、総領事館の人を除くと50人足らずで、留学している学生さんは数人しかおりません。日本人で昨年一年間に外国を訪問した人は1600万人、大連に行った日本人は60万人。それなのに、ハバロフスクには、たった8千人に過ぎません。日本人にとって、ロシアがいかに魅力のない関心のない国かということだと思います」

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2007年8月24日 (金)

「中学生の発言、人を殺したら死刑は当然だ」

◇「ある中学生が人を殺したら当然死刑ですよね」といったら側に居たおとなも「そうだ」と言った。最近は殺人事件が多い。山の中には殺されて捨てられた死体がゴロゴロしているのではと思ってしまう。平和な一家が惨殺された事件などに対しては誰もが怒り、復讐したくなる。中学生がこのように発言するのも無理はない。

 しかし、死刑の問題は人間の歴史と共に根が深く複雑である。裁判員制度のスタートが約2年後に迫った。その時は、私たちは、死刑にすべきか否かと言う問題に向き合う可能性がある。だから死刑についての知識を深めることが必要ではないか。

 23日午前3人の死刑が執行された。死刑は監獄内で絞首して執行する。執行は法務大臣の命令による。この命令は、判決確定の日から原則として6箇月以内にしなければならない。命令があると5日以内に執行される。

 長勢法相が命令した。この法相は、計10人の死刑執行を命令した。最近20人の法相の中で最多である。杉浦前法相はサイン(命令)しなかった。クリスチャンとしての信念があったと聞く。これに対しては、個人の信念で左右されるべきでないという批判がある。

 最近、日本では死刑廃止論は勢いを失っているように見えるが、それは表面のことで実は深く激しい議論がある。かつて、死刑は、残虐な刑罰を禁じている憲法に違反するのではないかと争われたが、最高裁は現在の執行方法は残虐ではなく合憲だとした。

 世界の傾向として死刑廃止国が増えている。現在(06年)97カ国が法律上廃止し、25カ国が事実上廃止している。国連総会も死刑廃止条約を採択している。先進国では、英仏独伊が死刑廃止国で日米は存置国である。

 しかし、日本でも、国会の中に、死刑廃止議員連盟があり、また仮釈放のない終身刑を創設すべきだという議論もある。そして、世界の世論の中で、又、人間の尊厳をうたう憲法の下で死刑の適用を制限しようとしているのが現実である。法律上は一人でも死刑なのに、実際の判決は、二人以上殺し情状酌量の余地がないとき、下される。死刑は極刑といわれ最も重い。次に重い刑が無期懲役であるが、これは10年が過ぎれば仮釈放が認められる。死刑と無期では差がありすぎる。死刑の適用はなるべく避けたいから無期にする。すると10年で社会にでる。死刑にすべきではというような凶悪犯も仮釈放される。そこで仮釈放のない終身刑を創設すべきだという主張があるのである。

 死刑が適用される犯罪も限定されている。内乱罪、外患罪などを別とすれば、殺人、強盗致死、強盗強姦致死などである。先日、中国ではワイロをもらった高官が死刑になったが、日本では考えられないことだ。最近凶悪犯罪が多く厳罰化の傾向があり死刑因が増えている。現在、死刑の判決が確定している死刑因が103人いる。

◇明日(25日午後の時)の「ふるさと塾」は鳩山一郎を取り上げる。戦争中東條に反対し、戦後は公職追放になり、それが解除されたら今度は脳いっ血で倒れた。それでも首相となり不自由な身体でソ連に渡り日ソの国交を回復させた。これで日本は国連に加盟し、長期抑留者は帰国出来た。最近骨太で立派な政治家が出なくなった。講師は私。多数のご参加願いたい。

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2007年8月23日 (木)

「上武国道の陳情に行く」(22日)

◇我が町を上武国道が横切る。町が上下に分断されるのだ。大きな道路が出来ると実に様々な問題が発生する。先ず、宝くじに当ったように喜ぶ人がいる。土地が売れるからだ。上武国道の計画がなかなか進まない時、私は、「はやく進めてくれ、金を使ってから死にたいから」とよく言われたものだ。

 このような人は別として、道路のために、一つの町が、今までのように自由に交流できなくなることは健全なまちづくりにとってマイナスになる。また、道路を横切るための交通の危険性や自分の田畑に行きづらくなるといった問題も生じる。

 今日の陳情は、この最後の問題に関するもの。自分の田畑へ行くためのトンネルをつくって欲しいという要望である。私が陳情書をつくり、6名の地権者を同行して高崎河川国道事務所へ行き、人々の生の声を伝える手助けをした。

 道路はよく人体の動脈にたとえられる。広域を眺めれば血流がよくなって産業や文化がより発展することになるが、部分的には長く続いた文化や伝統が踏みにじられることにも成りかねない。とにかく、道路によってまちの姿が変わることは避けられないのだ。

◇帰路、ラジオをつけると、高校野球の決勝戦は8回裏まできて佐賀北の攻撃であった。ただならぬ状況であることは直ちに飛び込んできた潮(うしお)が寄せるような喚声で分かった。エキサイトした解説者の声は画面を見られない人々に現場を必死に伝えようとしているかのようであった。4点リードした広陵のピッチャーに動揺が起きているのか満塁で迎えた打者にフォアボールを許し佐賀北は押し出しの1点を得た。ドラマならここで奇跡が起きる筈である。なお満塁で打者は副島。アナウンサーが言葉にならない絶叫をあげた。何かが起き何かを伝えようとしている。スタンドの喚声は一際高い。満塁ホームランであった。ドラマ以上のドラマが起きたのだ。私はハンドルを握っていることも忘れて現場を頭に描き興奮した。佐賀北は9回の表を守り抜いて優勝を手にした。夜のテレビを見た。故郷のまちは、その時、人通りも絶えて、その瞬間人々は「奇跡です」と叫んでいた。4081校の頂点に普通の県立高校が立った。現代の子どもたちの秘めた可能性が実現したのだ。奇跡をよんだものは彼らの忍耐力でありまた根性である。これ程の教育の場面があるだろうか。熱い甲子園は全国の人々に感動と希望を与えた。

◇甲子園がピークの頃、「電力」は危機にあった。東電は主な企業に節電を求めた。官庁などは、動かすエレベーターを少なくし、冷房も弱くして節電につとめていた。刈羽の原子力発電が動かぬことの影響が出た。現代社会が電力で支えられていることを改めて知らされた。そして、原子力発電がかかえる問題を解決すると共に、電力に関する危機管理と代替エネルギーを開発することの大切さをつきつけた真夏の出来事であった。

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「上武国道の陳情に行く」(22日)

◇我が町を上武国道が横切る。町が上下に分断されるのだ。大きな道路が出来ると実に様々な問題が発生する。先ず、宝くじに当ったように喜ぶ人がいる。土地が売れるからだ。上武国道の計画がなかなか進まない時、私は、「はやく進めてくれ、金を使ってから死にたいから」とよく言われたものだ。

 このような人は別として、道路のために、一つの町が、今までのように自由に交流できなくなることは健全なまちづくりにとってマイナスになる。また、道路を横切るための交通の危険性や自分の田畑に行きづらくなるといった問題も生じる。

 今日の陳情は、この最後の問題に関するもの。自分の田畑へ行くためのトンネルをつくって欲しいという要望である。私が陳情書をつくり、6名の地権者を同行して高崎河川国道事務所へ行き、人々の生の声を伝える手助けをした。

 道路はよく人体の動脈にたとえられる。広域を眺めれば血流がよくなって産業や文化がより発展することになるが、部分的には長く続いた文化や伝統が踏みにじられることにも成りかねない。とにかく、道路によってまちの姿が変わることは避けられないのだ。

◇帰路、ラジオをつけると、高校野球の決勝戦は8回裏まできて佐賀北の攻撃であった。ただならぬ状況であることは直ちに飛び込んできた潮(うしお)が寄せるような喚声で分かった。エキサイトした解説者の声は画面を見られない人々に現場を必死に伝えようとしているかのようであった。4点リードした広陵のピッチャーに動揺が起きているのか満塁で迎えた打者にフォアボールを許し佐賀北は押し出しの1点を得た。ドラマならここで奇跡が起きる筈である。なお満塁で打者は副島。アナウンサーが言葉にならない絶叫をあげた。何かが起き何かを伝えようとしている。スタンドの喚声は一際高い。満塁ホームランであった。ドラマ以上のドラマが起きたのだ。私はハンドルを握っていることも忘れて現場を頭に描き興奮した。佐賀北は9回の表を守り抜いて優勝を手にした。夜のテレビを見た。故郷のまちは、その時、人通りも絶えて、その瞬間人々は「奇跡です」と叫んでいた。4081校の頂点に普通の県立高校が立った。現代の子どもたちの秘めた可能性が実現したのだ。奇跡を呼んだものは彼らの忍耐力でありまた根性である。これ程の教育の場面があるだろうか。熱い甲子園は全国の人々に感動と希望を与えた。

◇甲子園がピークの頃、「電力」は危機にあった。東電は主な企業に節電を求めた。官庁などは、動かすエレベーターを少なくし、冷房も弱くして節電につとめていた。刈羽の原子力発電が動かぬことの影響が出た。現代社会が電力で支えられていることを改めて知らされた。そして、原子力発電がかかえる問題を解決すると共に、代替エネルギーを開発することの大切さをつきつけた真夏の出来事であった。

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2007年8月23日(木)

「上武国道の陳情に行く」(22日)

◇我が町を上武国道が横切る。町が上下に分断されるのだ。大きな道路が出来ると実に様々な問題が発生する。先ず、宝くじに当ったように喜ぶ人がいる。土地が売れるからだ。上武国道の計画がなかなか進まない時、私は、「はやく進めてくれ、金を使ってから死にたいから」とよく言われたものだ。

 このような人は別として、道路のために、一つの町が、今までのように自由に交流できなくなることは健全なまちづくりにとってマイナスになる。また、道路を横切るための交通の危険性や自分の田畑に行きづらくなるといった問題も生じる。

 今日の陳情は、この最後の問題に関するもの。自分の田畑へ行くためのトンネルをつくって欲しいという要望である。私が陳情書をつくり、6名の地権者を同行して高崎河川国道事務所へ行き、人々の生の声を伝える手助けをした。

 道路はよく人体の動脈にたとえられる。広域を眺めれば血流がよくなって産業や文化がより発展することになるが、部分的には長く続いた文化や伝統が踏みにじられることにも成りかねない。とにかく、道路によってまちの姿が変わることは避けられないのだ。

◇帰路、ラジオをつけると、高校野球の決勝戦は8回裏まできて佐賀北の攻撃であった。ただならぬ状況であることは直ちに飛び込んできた潮(うしお)が寄せるような喚声で分かった。エキサイトした解説者の声は画面を見られない人々に現場を必死に伝えようとしているかのようであった。4点リードした広陵のピッチャーに動揺が起きているのか満塁で迎えた打者にフォアボールを許し佐賀北は押し出しの1点を得た。ドラマならここで奇跡が起きる筈である。なお満塁で打者はふくしま副島。アナウンサーが言葉にならない絶叫をあげた。何かが起き何かを伝えようとしている。スタンドの喚声は一際高い。満塁ホームランであった。ドラマ以上のドラマが起きたのだ。私はハンドルを握っていることも忘れて現場を頭に描き興奮した。佐賀北は9回の表を守り抜いて優勝を手にした。夜のテレビを見た。故郷のまちは、その時、人通りも絶えて、その瞬間人々は「奇跡です」と叫んでいた。4081校の頂点に普通の県立高校が立った。現代の子どもたちの秘めた可能性が実現したのだ。奇跡を呼んだものは彼らの忍耐力でありまた根性である。これ程の教育の場面があるだろうか。熱い甲子園は全国の人々に感動と希望を与えた。

◇甲子園がピークの頃、「電力」は危機にあった。東電は主な企業に節電を求めた。官庁などは、動かすエレベーターを少なくし、冷房も弱くして節電につとめていた。刈羽の原子力発電が動かぬことの影響が出た。現代社会が電力で支えられていることを改めて知らされた。そして、原子力発電がかかえる問題を解決すると共に、代替エネルギーを開発することの大切さをつきつけた真夏の出来事であった。

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2007年8月22日 (水)

「巨大モンスター中国の恐怖」

◇最近まで中国は貧しい国だった。それがいきなり経済の仕組みが変わって個人の努力と才覚で金をもうけることが出来るようになった。貧しい人にとって金の魔力は大変なものである。隣の人が豊かになれば黙っていられない。金もうけの競争は激しくなる。現在の中国は「もうかればいい」ということで多くの国民が金もうけに目の色を変えているのが現実だろう。

 この異常な事態をコントロールするのが政治や行政の役割である。そして政治や行政は法律に基づいて行われなければならないが、その法律も新しい事態に対して後手後手で十分に整備されていない。その上、政治や行政もワイロによって動かされると言うのだからもう無茶苦茶ではないか。

 中国製品は今や世界の信用を失った。中国政府も信頼回復に懸命だが13億人を相手に有効は手を打てないでいる。先月、ワイロをもらってニセの薬を許可した前国家食品薬品監督管理局長が北京で処刑された。中国政府は見せしめを考えているのだろう。ワイロ罪で死刑などということは文明国では有り得ない。

 富裕層は金に糸目をつけずに安全な食品を手に入れるという。高価な日本のコシヒカリが上海で売れていることが報じられたがその一例なのだろう。

 私のまわりの人々も食品の表示を見て中国製は買わないと言っている。しかし、産地の表示が義務づけられているのは生鮮食品である。加工食品については表示義務がないので、弁当やレストランの食品は中国産が使われていても分からない。

 消費者は賢くなって中国の毒から身を守らねばならない。レストランの中には、食材の産地を表示するところ、聞けば産地を教えるところなどが徐々に増えているらしい。レストランに対する消費者の関心が高まれば、レストランとしても中国の食材に厳しく向き合うことになり、この点で客のニーズに応えられるところが生き残っていくことになるだろう。

 先日、「日記」で「食育」について書いたら反応があった。私たちは、食の問題について、知識を蓄え、判断する力を養ってよい食の習慣を身につけないと大変なことになる。健康長寿が全ての人の目標であるが、それを支えるものは「食育」だと思う。

◇中国の害は食品や薬だけではない。偽物(にせもの)づくり国家といわれても仕方がない。膨大な研究費を使って開発した日本製の器具の偽物がつくられ広く売られている。質のわるい物が日本製品として売られているのだからたまらない。特許権などの知的財産権が中国では守られていないのだ。知的財産権とは人間の知的創造活動によって創り出された権利である。人間の精神活動を尊重しない国は後れた国である。かつて精神文化の国だった中国はどこへ行ったのか。中国が発展途上国から抜け出すことは、まだまだ先のことといわねばならない。

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2007年8月21日 (火)

「ブラジルの女性と県庁で会う」(20日)

◇平成17年に私は議長としてブラジルの群馬県人会の60周年式典に出席したが、この時、私の友人の宮下(旧姓登丸)元嗣さんたち6人も参加した。この人達は、若い頃、単身ブラジルに渡り活躍していたが病気で急逝した登丸寛さんのいとこで墓参りも兼ねていた。県庁であった女性は寛さんの妻の登丸玲子さんである。文通でお互いの心が高まり面識もない男性のもとへ遥かな海を越えて嫁いだ日本女性に会いたいと思っていた。前橋に来ていることを偶然にも知り昨日の会見となった。玲子さんは女学校を出て勤めをしながら海外に夢を抱く若者のグループにいて、寛さんと文通をする機会をもった。登丸一族は皆人生を真面目に生きている人々である。寛さんの文面は玲子さんの心をとらえ、玲子さんの心は遠い異郷で生きる寛さんの胸を熱く包んだに違いない。

 かくして玲子さんは結婚を決意して海を渡ることになった。本だけは沢山もって、40日以上かけた船の旅は、ハワイ、ロスを経てパナマ運河を通り大西洋に出てブラジルに向う。サンパウロにはカー二バルの日に着いた。37年前のことである。怒らない優しい御主人を支えてバラ、グラジオラスなど花を栽培した。町に店を持って花で稼いで3人の子どもを大学まで通わせた。二年位日本にいるつもりだったが今は早くブラジルに帰りたいという。日本には近所の付き合いがないがブラジルでは週末には近所が集って飲んで食べて深夜までおしゃべりを楽しむという。玲子さんは37年ぶりの日本が病める社会に変わってしまったことに気付いたのだろう。御主人のことを笑顔で語っていた。お金がなくも楽しかった、御主人は人がよくてお金を貸してと言われれば断れずにすぐ貸す人だった、私は上州のカカァ天下でそんな御主人にブレーキをかけた、と。玲子さんは爽(さわ)やかに半生を語った。人生を賭けて、一人の男性を求めて地の果てに渡ったあの情熱は表に出すことはしないが、時々見せる美しい笑顔の中に私はそれを感じた。私の町出身の旧姓青木佐久子さんとはブラジルでおつき合いをしていること、バイオエタノールが盛んであることなども話題になった。心の広い大きな行き方を教えられた会見であった。

◇中華航空機の機体事故は映画のシーンのようだった。真黒な煙と真赤な炎。脱出用のシューターを滑る人々が見えた。直後の爆発を見ると全員脱出が奇跡のようだ。飛行機事故は恐い。航空機による人身事故発生率は1億人が1km飛行した時に0.05回の率だというが、人的要因による事故は減っていないらしい。様々な国に航空会社があるが、国々によって科学技術の発達の度合、国民性、人命に対する考え方が違う。インドネシア、今回の台湾などは事故が多い。今回と同様の中華航空の事故には、94年名古屋空港の墜落(264人死亡)、98年、台北国際航空で着陸に失敗(203人死亡)、02年、香港行きが海に墜落(225人死亡)などがある。人命をどう考えているのだろう。精密機械も動かすのは人である。

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2007年8月20日 (月)

「知事室に女性たちを案内する、新知事の対応ぶり」(17日)

◇学校栄養士会の女性たちである。子どもたちの食生活は重大な問題なので新知事に会わせて頂けないだろうかという要望があった。知事のスケジュールは過密であるが時間をさいてくれた。11時05分前に自民党控室に集合。2~3人と思っていたら10人程に増えた一団を案内して知事室に向う。知事応接室に陳情団をつれて入るのは何年ぶりか。これ迄は、目に見えないバリアがあった気がする。二ヶ月程前は、この部屋が実質的に選挙に使われているという噂があった。主がかわるとこんなに雰囲気が変わるものか。大沢知事は一人一人の女性を回って名刺を渡した。それは、県会議員が地元の後援者を迎える姿勢と変わらない。新知事の姿勢は、権威と威厳ではなく親しみと信頼である。知事室のムードから、新政権が順調にすべり出したことを感じた。

◇最近の食に関する情報には唖然とさせられるものが多い。中国からの輸入食品から発癌物質や残留農薬が検出されたとか日本国内の食品でもミートホープ社の偽装事件など食の不信を生む事件が後から後から続く。

 食物は私たちの健康と生命に直接に関わることであるから私たちは食に関する知識と食を選択する力を身につけなければならない。この事は、子ども達にとって特に重要である。

 食育基本法が出来、それに基づいて学校における食育推進が実施されている。その中の重要な施策の一つが子どもたちに、食について考え実践する力を身につけさせるための栄養教諭の配置である。

栄養教諭は教壇に立って学校給食を通して食育の指導に当たる。子どもたちに健全な食の習慣を身につけさせるためには不可欠だ。群馬県では本年4月から6名の配置が実現した。私も実現に向けて努力した。学校栄養士会は来年度に向けて更にその配置の拡大を求めている。食育とは、食を通して生きる力を育むことであり学校教育の基礎として今後ますます重要になる。

◇赤城山を歩く(18日)。早朝、3時半に起床。赤城ふれあいの森近くの駐車場に車を止めて、主要地方道前橋赤城線を歩く。息子の周平と友人のN君と私。スタートは午前4時45分。山には霧がまき、霧か雨粒かと思われるものが肌に感じられ蒸し暑い下界から別の世界に来たようだ。山の天気は地形と共に変わる。大きく蛇行したカーブから森に入ると小雨になり過ぎると雨は止む。頂上の牧場まで1時間20分程かかった。牛の群れが草を食べている。一息入れて湖畔を歩き覚満淵のほとりの「風の庵」に7時過ぎに着いた。店の主は知り合いである。こんなに早くと驚いていた。熱いコーヒーがうまい。たぬきうどんをすする。空腹と疲れをいやす最高の御馳走である。店を出て大沼を過ぎるころ激しい雨になった。雨具がわりのジャンバーを着てどしゃ降りの中を牧場の売店に辿り着く。店は開店したところであった。コーヒーを飲みながら、牧場では牛と野生の鹿が共生している話を聞いた。カサを買って下山した。途中で雨は止んだ。甲子園の熱闘を想像しながら俺の足もまだ大丈夫と思った。

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2007年8月19日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(15)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

「シベリア抑留の事実について、ロシアではどのように受け止められているのでしょうか。墓地や平和慰霊公苑に対する理解はどうなっておりますか」

「第二次世界大戦はロシア人にとって大変な戦争でした。私はモスクワで4年くらい生活しましたが、ロシアの皆さま方にとって第二次世界大戦の位置づけはすごいんです。ロシアの皆さんは、第二次大戦と言いません。大祖国戦争といいます。祖国をナチスから解放した。そのために何千万人もの方が亡くなった。本当に大変な戦争であった。そして、ひどい目にあった。この思いは、すべてのロシア人が共有していると思います。ですから、日本の方も戦争でひどい目におあいになった。そういう意味で、平和公苑とか日本人墓地を大事にしなければならない。そういった共感というものがあると思います。」

 ここで楠本総領事は、私の表情をうかがうように言葉を止めた。この時私は、一般のロシア人はシベリア強制抑留について、他人事のような、その程度の認識しかないのだろうかと思いつつ話を聞いていたのである。総領事は、私の胸の中を了解したかのように、また、静かに話し始めた。

「昨年、残念な出来事がありました。平和公苑の碑の一部が壊されたのです。翌日ソゴロフ市長に会って話すと、これは我々の恥です、と言ってすぐに修復しました。しかし、その後しばらくして、また壊されたのです。市長は、2回目もハバロフスク市の恥だと言ってすぐに直しました」

「何か意図的な反日グループがやったのでしょうか」

「単なるいたずらだと思います。あのあたり、夏になると若者がたむろして酒を飲んだりします。そういう連中が、何か別の不満をぶつけたのではないでしょうか」

それにしても、日本人にとって大切な碑が二回も壊されるとは。日本の豊かさ、ソ連の崩壊とロシアの現状、北方領土など、さまざまな問題がある中で、日本に対する不満分子がいてもおかしくないと私は思った。

私は、記念碑が壊されたと聞いて、到着した日、ホテルへ向かう車中でドミトリーが熱っぽく語っていたことを思い出しながら訪ねた。

「ロシアの人々、ハバロフスクの人々の、日本人に対する感情はどうなんですか」

「それはもう、とても良いのです。私は外務省に長くいて、いろいろな所を回りましたが、その中で、ここほど対日感情がいいところはないと思います。ハバロフスクの皆さんにとって、日本は憧れの的です。そして、日本へ行った方は、皆、すごい、素晴らしい国だと言います。ですから、日本総領事として、ここほどやりがいのある勤務地は他にないと喜んでいます。

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2007年8月18日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(14)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

読経が終った時、傍らに立っていた塩原さんは我に返ったように語り出した。

「頑張って海まで行けば日本に帰れると欺されて一生懸命歩かされたんです。貨車に乗せられる時も、ウラジオストク回りで、日本へ帰すと言われました。暗い貨車の中で、磁石の針がどっち向くか皆で、必死に見つめました。針が東を少しでも向くと、ワッと喜んで、北へ向くとやはりシベリアかとため息をついていたんです。

多くの人が20歳くらいで、こんなに遠くに連れてこられて、栄養失調で死んだと思うと、泣かずにはいられませんよ。みじめな姿を見せちゃいけないと必死で我慢しましたが、泣いちゃってすみません。

一度でいいから、故国の山を見て死にてぇなあ、と言って死んでいった戦友の顔が、今、はっきり見えました。こういうことは初めてのことです」

塩原さんは頬を伝う涙をぬぐっていた。

四 楠本総領事、日ロを熱く語る

 7月21日午前中、日本総領事館と国立古文書館を訪問した。日本総領事館はハバロフスク市のにぎやかな一角にあって、近代的な建物の敷地には日の丸が翻り、出入りには厳しいチェック体制が敷かれていた。

 外務省ロシア課を通してこの日の会見は申し込んであったので、総領事側は用意して待ち受けていた。楠本総領事は長身で、穏やかな飾らない人柄に見えた。私たちはすぐにテーブルを囲んで対談に入った。

「総領事のお仕事の中で一番大事なことはどのようなことでしょうか」

私が単刀直入に尋ねると、

「はい、これまでの経験を踏まえてお話したいと思います。日本総領事として一番大事なことは、シベリア抑留ですね。ここには、平和慰霊公苑と日本人墓地という二つの大切な施設がありますが、歴史的な認識をもって、これをしっかり守ってゆくことが一番重要な仕事であると思っています。

平和慰霊公苑は、日本政府と民間団体が一緒につくって、来年で十年になります。昨年は小泉首相も参拝されましたが、シベリア抑留で一番記念史的な施設です。

遺族会の方、日本政府の要人の方は、必ず、平和慰霊公苑と日本人墓地を訪れます。その都度、私もご一緒させて頂きます。また、ハバロフスクには、在留邦人は70人ほどおりますが、毎年、ご一緒に日本人墓地の清掃をいたします」

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2007年8月17日 (金)

「友の葬儀で弔辞を読む」(16日)

F君が癌で亡くなった。前高の夜間部で共に学んだ仲である。今の生涯学習センターの所に校舎があって午後5時45分に授業が始まる。仕事の疲れで居眠りをする者が多かった。学問と仕事の両立を可能にしたものは、ハングリー精神と少年のエネルギーであった。炎暑の中で頑張る甲子園の球児を見て俺にも尽きぬほどエネルギーがあったなぁとあの頃を振り返る。昭和30年代、社会がまだ貧しい時代であった。F君は真面目に努力して卒業した。お互い別々の人生を歩み、長い年月が過ぎた。最近数年間会わなかった。健在と思っていたら、突然、死の知らせだ。65歳の死は余りに早い。通夜では、F君に似た美しいお嬢さんの父を偲ぶ挨拶に胸を打たれた。

私は弔辞の中で次のように述べた。

「君の家族を見て、君が素晴らしい人生を生きたことを知りました。君のお嬢さんは、昨夜の通夜で君のことを、誰よりも優しく、誰よりも家族思いで、誰よりも我慢強い父だった、そういう父を誇りに思うと語っていました。自分の娘にこのように慕われる君は幸せです。私は、君のような友をもったことを誇りに思います」と。

◇午後2時から山を歩いた。国立赤城青年の家から、なだらかな坂道は鍋割の

麓まで続く。この夏一番の暑さだというが、山にはさわやかな風があって暑さは、それほど苦にならない。進むにつれてセミの声が激しくなってくる。樹間を震わせる狂おしいような声は、ひとかたまりになって頭上に落ちてくるようだ。それは、何かを訴えているようでもある。

 心に迷いや悩みがあるとき、一人で山を歩くのは良いことだ。踏み出す足が重い。息が苦しい。広い海を泳いでいるようだ。やがて、セミの声も意識から消えて私は一心に歩いた。立ち止まって汗を拭くと、ここまで歩けたという感慨が胸に湧く。見上げると樹間に青い空があった。そして、私の心にあった黒い影は消えていた。山を歩くことは自然との対話である。自然に対し真剣に向き合えば人間は謙虚になれる。謙虚とは心が自然の一部のようにきれいになることだ。そして、そこに新しい力がじわじわと湧く。心は力を生み出す泉である。そこに汚いものがあるときれいな水が湧かない。昔の人が無心の境地と言ったが、それは、このことなのだなと思った。

 約1時間で鍋割の麓に到着した。心地よい達成感があった。歩くことは人間の原点である。かつて我々の先祖は二足歩行によって猿から分かれて人類としての進化を始めた。21世紀の車社会の中で人間は歩かなくなった。車社会は限界である。この限界は私たちに反省を追っている。山を歩けということだ。人間の心と身体が車で犯されている。山を歩けば心がクリーンになる。山を歩けば健康を取り戻せる。山から受けた恩恵は返さねばならない。それは、山を尊敬し守ることだ。それが地球を守ることになる。40.9度の酷暑は地球の警告である。以上は、自然との対話で感じたことである。

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2007年8月16日 (木)

「戦没者追悼式に出る」(15日)

◇会場は群馬アリーナ。外はうだるような暑さ。式は正午に始まった。国歌、知事の式辞、黙とう、天皇のお言葉と続く。追悼の辞を述べる今年の国会議員代表は、福田康夫氏だった。2・3年前、中曽根元総理が、日本国の現状や役割を格調高く語ったことがあった。元総理の体調はどうなのか。

参加者が次第に少なくなり、式が形通りになった事を感じる。真の追悼式にするために戦争の実態を語り継ぐことに重点を置くなど発想の転換が必要だと思う。

◇玉音放送に見る日本人の心。62年前の皇居の広場には異様な光景が広がっていた。新聞の報道ぶりがそのことを伝えている。8月16日の毎日新聞は皇居に向けてひれ伏す人々の姿を写し、「忠誠足らざるを詫び奉る」と説明文をつけ、同日の朝日新聞も「玉音を拝して感泣嗚咽」、「玉砂利を握りしめつつ宮城を拝し涙」などと表現。これは、新聞も戦争に協力していたことをうかがわせる。そしてこれは、当時の人々の心を正直に表現していると思う。天皇をうらむ声などがおきないことは、天皇が国民から信頼されていたという長い歴史的事実を物語るものだ。

 一方、一般の人々が戦争が終ったことを単純に喜んだことも事実であった。昨日(15日)の朝日新聞の「声」欄には、ある人が出征する日に玉音放送が行われ、それを聞いた人々は、のぼりや日の丸の小旗を庭に捨て、酒盛りを始めた話が紹介されている。

 次は、当時、妙義町に疎開していた人が、放送を聞いた場面を振り返る文である。その人は小学校5年生であった。

「広間には、古びたラジオがポツンと置かれていた。私たち学童は正座してこの後にくるものを待った。寮の先生たちのコワバッタ姿勢から何か重大なことだと子供心で直感した。陛下のお言葉が随分長々と続いたように記憶している。しかし、その言葉の意味を理解することは難しかった。女の先生の目に涙を見たのもその時だった。寮長先生から『戦争が今日終りました』と知らされて初めてラジオの前に集まったわけが分かったし、先生の涙の意味に合点がいった。その瞬間、私の脳裏をよぎったのは、敗戦のくやしさでもなければ、哀しみでもなかった。両親の元に帰れるうれしさであった」(旭丘小学校昭和24年卒業合同クラス会編『えごの花』より。群馬県史7巻所集)

一般の国民は厳しい戦争の中で狂気に支配されていた。天皇の言葉によって狂気から開放されたのだ。そして、戦争の悲惨さと、平和の尊さを、体験を通してかみ締めたのだ。

この体験と実感は、日本民族の貴重な財産である。しかし、この財産が生かされていない。次第に影が薄くなりなくなってしまう危険すら感じられる。終戦の時20歳だった戦争体験者は82歳になり、その時生まれた人は62歳になった。これは、戦争を知る人々が限りなく少なくなっていることを意味する。そこで必要なことは、戦争の実態と悲惨さを子どもたちに正しく教えることだ。近現代史の教育も非常に不十分である。終戦を機にこれらを真剣に考えるべきである。

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2007年8月15日 (水)

「玉音放送がなされるまで」

2007年8月15日(水)

「玉音放送がなされるまで」

◇62年前の8月15日正午、天皇のラジオ放送で太平洋戦争の戦闘は停止された。戦争継続を叫ぶ勢力も強く、混乱なく戦争を止めるためには天皇の声明が必要であった。戦争継続派にとって、天皇の意思が示されれば、万事休すである。そこで、これを阻止するため宮中に押し入って、録音盤を必死に捜す動きもあった。

 無条件降伏を内容とするポツダム宣言が発せられたのは7月26日。政府はこれを「黙殺」したため8月6日に原爆が投下された。続いて、8日にはソ連が満州朝鮮に侵入。9日には、遂に長崎に原爆が投下された。

 鈴木首相はポツダム宣言を受諾するか否かの会議を開く。激論は尽きず結論はでない。そこで、御前会議が開かれた。藤田侍従長の回想には、皇居地下壕の様子が生々しく描かれ、「私たちの緊張と興奮も頂点に達した」とある。

 天皇は言った。「ポツダム宣言受諾に賛成する、自分一身のことや皇室のことなど心配しなくてもよい」と述べた。政府は天皇制の維持を条件にポツダム宣言を受諾すると通告したが、連合国からそれを認めない旨の回答を受け、8月14日、再び御前会議が開かれ、天皇の判断が下された。天皇は言った。「これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国民を救いたい。この際私としてはなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ」

「回想」によれば、陛下の話の途中から出席者の泣き声は高まりやがて号泣となりその声は次室まで聞こえた。

 天皇が国民に呼びかける放送の録音は宮内省の天皇の執務室で行われた。それは、14日夜11時を過ぎていた。天皇はスタンドの前に立って練習したという。戦争遂行を叫ぶ人々は皇居に入り録音盤を必死で捜した。機関銃をガチャガチャさせる音は陛下のところまで聞こえた。陛下は軍装のままで庭に出たり自室に坐られたりして夜を過ごし一睡もしなかったという。

15日は早朝から国民が二重橋前に続々とつめかけた。「放送」があってからは人の波は一段と増し広場は、悲嘆と興奮と虚脱が渦巻いた。冷静である筈の新聞記者が「私は立っていられず、玉砂利に伏して泣いた」と記している。御前会議で、天皇にほとんどすがりつくようにして戦争継続を訴えた阿南陸相は、この広場で腹を切って果てた。集った人は手をついて、自分達の力がたりず申し訳なかったと言って泣いた。

あれから62年が過ぎた。あの戦争という出来事は幻だったのかといいたくなるような今日の変わりようである。二個の原爆の傷あとは今も残っている。まぎれもない現実だったのだ。日本人のすさまじいエネルギーが戦後の復興を実現した。私たちのエネルギーは、これから何を目指すのか、それが今問われている。戦争で死んだ何百万人の人々は、今日の豊かさと新たな混乱を想像も出来なかったであろう。今日の慰霊祭では、改めて歴史の事実を振り返ってみたい。

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2007年8月14日 (火)

「四万温泉で知事選の勝利をかみ締める」(12日)

◇共に戦った仲間が一堂に会した。大沢新知事も浴衣で正面に座し、小渕優子さんは9ヶ月の身重で挨拶した。国会議員の秘書は19人参加したが、この中には、尾身事務所、中曽根事務所の秘書も見られた。知事もまじえて酒を酌み交わしながら話は厳しかった選挙の事に及ぶ。よく勝てたと振り返る人が多かった。30分程遅れて参加した私も大いに飲み、二次会ではカラオケも歌った。「夜の銀狐」や「抱擁」を歌う私を意外な表情で見る人もいた。

◇かつての人生の同志が眠る二つの墓を訪ねた。一つは亀泉の霊園である。同行した娘が手を合わせている。墓の主は成長した娘の姿をどのような思いで見ているか。別れは、小学校5年生であった。お嫁に行く姿が見たかったと漏らした声が思い出された。

近くの墓で、フルートを弾く人がいた。墓石に聞かせるように。美しい音色が墓石をつつみ静かに広がっている。「奥さんに聴かせているんだろうか」娘が振り返って言った。お盆の墓には様々な光景が見られる。

 もう一つの墓は、嶺霊園にあり、かつての親友福島浩君が眠る。50歳の死は早すぎたなぁと私は手を合わせた。かたわらの石には、闘病の中で到達した彼の心境が書かれている。私はひざを折ってそれを読んだ。それには、自分の人生は多くの「お蔭様」で支えられた、人間とは何て素晴らしいのだ、人の善意は無限の力をもっている、お蔭様という日本語は何て素晴らしい言葉だと刻(きざ)まれている。これは死の恐怖を克服した言葉なのか、それとも、素晴らしい人間の生をもっと生きたいという叫びなのか、私には今でも謎である。ただ、「人間はすばらしい」という彼の言葉は、歳を重ねるにつれ深く分かるようになった気がする。彼の遺言は、人間を大切にしろ、と私たちに呼びかけているのかも知れない。

◇甲子園がまぶしい。炎暑の中、今年も球児達のドラマが続いている。鍛えられた心と身体が激突する。一球に泣き一打に狂喜する純真な姿につい引き込まれる。人生で一番高いエネルギーを持ち輝く時だ。今の若者たちにはいろいろな批判があるが正しく導けばこんなに素晴らしくなる。彼らの姿はそのことを物語っている。終戦記念日が近づくが、年輩の人達は自分の青春を振り返って、野球も平和であればこそ、と平和の尊さを感じているだろう。今日は、前商が甲子園に登場する。

◇今月の「ふるさと塾」は「鳩山一郎」なので、回顧録を読んだ。エピソードで人物像を伝えながら時代を語るのが目的である。悲劇を克服する姿が胸を打つ。選挙で勝ち組閣に取りかかるところで追放される。追放中の軽井沢で農業に取り組む姿もいい。追放が解除され、いよいよ政権に手が届く寸前、脳溢血で倒れた。奇跡の回復は、心の問題の解決にあったと振り返る。何事にも感謝の念を持てという教えに出合ったのである。すぐれた頭脳だけでなく困難を乗り越えて哲学を持つことが政治家を作る。私も学ぶべきものが多いと思った。

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2007年8月13日 (月)

「日記の読者から贈られた一遍の詩」

2007年8月13日(月)

◇「日記の読者から贈られた一遍の詩」

先日の「日記」で広島市長の平和宣言に触れた。それを読んだ読者から栗原貞子の詩「ヒロシマというとき」が送られてきた。この読者が少年のころ、先日亡くなった「べ平連」で有名だった小田実から話してもらったものだという。ここで紹介したい。

詩の中に次の部分がある。

「ヒロシマ」といえば「パールハーバー」

「ヒロシマ」といえば「南京大虐殺」

「ヒロシマ」といえば血と炎のこだまが返ってくるのだ。

「ヒロシマ」といえば「ああヒロシマ」とやさしくかえってくるためには捨てた筈の武器を本当に捨てねばならない

「ヒロシマ」といえば「ああヒロシマ」とやさしいこたえがかえってくるためには、

わたしたちはわたしたちの汚れた手をきよめねばならない

 私の読者は、この詩が載る詩集の前書きにある、詩人の次の言葉も紹介する。「ヒロシマ・ナガサキは決して過去の出来事でなく、核時代の行く手に立ちはだかっている未来風景であり、被爆以来絶えることなく続いている傷みであって、核時代が終焉し、核の脅威が完全になくならない限り過去のものにならないことを意味しています。」

◇ヒロシマ・ナガサキは、過去のものでなく、人類の行く手にある風景であり警告だということをしっかり認識しなければならない。戦後62年の節目に、原爆を否定する決意を日本人は共有しなければならないと思う。

戦後の日本では、「原爆反対」を叫ぶのは共産党など左翼勢力であり、政府や自民党は、消極的であった。アメリカは、大切な同盟国であり、日本はアメリカの核によって守られてあるという現実があるからである。しかし、唯一の被爆国であることと、人類の未来を考えるなら、「原爆に反対」、「核廃絶」を大前提にして、アメリカとの同盟を築くべきであり、このことは矛盾しないと思う。政府も建前は、このように動いているが及び腰であるために、国民にその熱意が伝わらないのだ。

◇憲法の問題にも共通のものがある。護憲を叫ぶのは左翼勢力、という構図が続いてきた。現憲法は、アメリカから与えられたという面は否定できないが、与えられたものは、基本的には素晴らしいものであった。改めるべき点はあるにしても、憲法を尊重する姿勢をはっきり示さなければならない。日本の国が乱れたことの大きな原因は、政府と自民党が憲法に消極的であったことにあると思う。

国民の規範意識と道義心が地におちたといわれる。最も基本的な国法を政府が尊重するという熱意がなければ、国民に規範意識や道義心を求めることはできない。それだけでなく、日本国そのものが原則のない国、志のない国になってしまう。世の中の大きな変化に対応できず、自民党は大敗した。そして、この状況で8月15日を迎える。原爆のこと、平和のこと、そして憲法のことをしっかりと考える契機にしたいと思う。

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2007年8月12日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(13)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

 塩原さんと青柳さんは遠く離れた別の収容所にいたが、共通の体験として次のようなことを語ったことがある。

 収容所では、次に誰が死ぬかが分かるという。次は奴だと分かると、周りの人の注意はその人の手元に集まる。息を引き取ると同時に、固く握られていたパンがポトリと落ちる。すると次の瞬間、どこからともなく、サッと手が伸びてパンは消えてなくなるというのだ。

 このようなことは、ナチスの絶滅収容所でもよく見られたという。奇跡的に死の収容所から生還した精神科医ピーター・フランクルが自らの体験を通して収容所における人間を観察した『夜と闇』の中で、彼は次のように語る。

「人間は極限の中では、感情は消滅してしまう。残酷なことにもまったく驚かなくなる。収容所内で、次は誰が死ぬかが分かりそれに目を付けている。一人が死ぬと、仲間がひとりまたひとりとまだ温かい死体にわらわらと近づき、ひとりは昼食の残りの泥だらけのジャガイモをせしめ、もうひとりは、死体の靴をとった、三人目は、死者の上着を剥いだ・・・」

 二人の老人は、草で囲まれた墓石を見て立ち尽くしている。

 夏草の下には、無念の涙をのんだ日本人が眠る。自分たちは幸運にも日本に帰ることができ、21世紀の驚くべき豊かな世界に生き、今、シベリアに来て、かつての同胞とこのような形で再会したのだ。押し込めていた過去の記憶が一気に甦り、固く閉ざしていた心の蓋は開かれた。

 塩原さんは、両手で顔をおおってすすり泣いている。静かな読経の声が流れ出した。青柳さんは用意した経典を取り出し、石碑の前にひざをついて、一心に読んでいた。線香の煙が静かに立ちのぼる。私も手を合わせていた。

「友よ安らかに眠れ」

目の前の柱に書かれた文字が胸に迫る。この柱を立てた人も、万感の思いを込めて、手を合わせたに違いない。パタポア女史、ドミトリー、ニコライ、そしてミスター・ゴルバチョフみな、じっと異様な日本人の営みを見つめている。彼らにも日本人の思いと、ことの重大さが伝わったものと思われる。

あたりは時が止まったように静かで、読経の声だけが響いている。目を閉じると、酷寒の原野で骨と皮だけの日本人抑留者が強制労働に追いたてられる姿が浮かぶ。読経を読む青柳さんの後ろ姿には、先ほどまでの老人にはない鋼(はがね)のような力強さが感じられた。彼は今、数十年前の凍土のシベリアと再会し、命かけでその厳しい現実と対峙(たいじ)しているのであろう。読経の声は、夏草の下に深くしみ込むように続いていた。

 

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2007年8月11日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(12)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

ところどころに一戸建ての建物がいくつかまとまっている集落が点在する。見渡すかぎりの畑や草原が展開する中を小一時間も走ったころ、ミスター・ゴルバチョフは、右手の一角を指して頷いたと見るや、草原の中の小道に車を乗り入れていった。行く手の林の中に、日本人墓地があるらしい。

車一台がやっと通れるほどの狭い道は草でおおわれ、車は数百メートル走って止まった。そこは、ポプラに似た木と白樺が混在し、人の背丈ほどの夏草が茂っている。草を分けながら少し進むと、やや開けたところに石碑があり、その前に同じ高さの二本の角柱が立てられていた。一本はやや古い柱であるが、他の一本は、まだ新しく木肌も変色していない。いずれの柱にも、「友よ安らかに眠れ」と太い墨で書かれている。石碑には、日本人埋葬碑と書かれた金属のプレートが埋められていた。

塩原さんと青柳さんは、呆然と立ち尽くしている様子だ。石碑に人名はない。このあたりに収容所が多くあって多くの日本人が命を落としたのであろう。塩原さんたちは、別の収容所だったが、どこでも酷寒と飢えで死者が続出した。物資が乏しいので、衣類はすべて剥ぎとられ、コチンコチンに凍結した死体は一緒に荷車に積まれて運ばれ穴に入れられたという。誰もが自分が生きることで精いっぱいで他を顧みる心の余裕はなかった。

塩原さんはかつて、ぽつりと語ったことがある。

「人間は飢えると、本当に動物になってしまうんです」

 今、石碑を前にして、この言葉が思い出される。

 五十数年前、ここで何があったのか。極限の状況で生死の境をさ迷うような人々の姿、そして多くのドラマがあったに違いない。木立と草でおおわれたあたりは物音一つない静寂が支配していた。立ち尽くす二人の老人の頭に、今何が蘇っているのか。二人の耳には、地底の悲鳴や呻きが聞こえているのかもしれない。私は目を閉じていた。今、シベリアの大地に立っていることが不思議に思える。出発前に取材したさまざまなことが浮かぶ。ある抑留体験者も、同じように語っていた。

「収容所では、人間はみな、裸になってしまうんです」

 私たち人間は、通常の社会生活の中でさまざまな衣をまとっている。見栄や虚飾、恥を恐れ、外聞を気にする心、自尊心、怨み、ねたみ、ひがみなど。これらは、通常の余裕がある状況でのこと。極限におかれたらこのようなものは吹き飛んで、ただ生命を守ることに全エネルギーを集中させる存在になってしまうということなのであろう。

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2007年8月10日 (金)

「臨時議会・新知事の所信表明」(9日)

◇朝8時半、県議団総会があった。いつもは、7時半に始まるが、この日は、議員野球の早朝練習があるので一時間遅らせたのだ。議題は、副知事二人制に対する対応が中心だった。福知事の候補者の名前がこの日の上毛に出た。議会の幹部よりも先に新聞に出すことは議会軽視と言われかねない。早朝6時半、大沢知事から幹事長に釈明の電話があったという。「抜かれてしまった」とのことだ。

◇午前10時開会。新知事は登壇して所信を述べ、全ての県民が誇りを持てるふるさと群馬を築くために職員の先頭に立って、対話と協調をモットーに全力で県政の舵取りをしてゆくと決意を表明した。つい最近までこちらの席にいた人が知事席にいる大変な変化だなと感慨ひとしお。 

続いて各会派の代表が「副知事二人制」について質問した。この日の知事提案の主な議題は、副知事を二人にするという条例案の審議であった。

議会のルールとして、議案について本会議で質疑をかわし、それを委員会に付託して審議し、そこでの結論を踏まえて、本会議で議決するのである。質疑は、なぜ二人制が必要なのか、前知事のとき二人制に反対したのに今度はなぜ二人制にするのか、という点に集中した。大沢知事は、外に出て県民に接する機会を増やすため、また、群馬を売り出すためのトップセールスを自ら進めるために職務の分担を決めて担当させる二人の副知事が必要であること、前知事の時とは状況が変わって出納長、知事室長がなくなり、理事制も変えること等を挙げて説明した。

本会議を休憩し、総務常任委員会で審議が行われた。そこで要した時間は約30分。本会議が再開され、委員長が登壇する。可決すべきものと全会一致で決定したと報告。これに対して反対討論と賛成討論が行われ、議決となる。反対討論者の早川県議を除いて賛成し、条例は賛成多数で可決された。

◇続いて、二人の知事の承認が議決された。初め、茂原璋男氏、全会一致で承認。この人は、県職OBで県議会事務局長の時も好評であった。私が印象に残ることは、この人のご母堂が亡くなったとき、「大好きな母だった」と語っていたことだ。続いて、総務省出身の佐々木淳氏。こちらは共産党が一人反対したが可決された。

◇この日一日限りの臨時議会が終了すると、二人の副知事、続いて大沢知事が自民党控室に挨拶に現れた。県議たちはかつての同僚を大きな拍手で迎えた。大沢知事も嬉しそう。知事の満面の笑顔を見るのは久し振りのことだ。この笑顔が県民の多くの力を引きつけて結集することになるだろう。大沢丸は一応順調に船出した。議会との関係も新たなスタートである。こちらは常に笑顔で済ますわけにはいかない。信頼関係を基礎にしつつ言うべきことは言って議会の役割をきちんと果たさねばならない。議会改革が逆戻りするようでは、新知事を誕生させた意味がなくなるのだ。

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2007年8月 9日 (木)

「長崎に原爆が落とされた日」

◇初めの目標は小倉市だったが雲に覆われていたので長崎に変更、午前11時2分、原爆は投下された。広島の死者は14万人、長崎は7万5千人であった。広島に最初に落とされたことと被害の大きさから広島が世界的にも注目され、長崎は陰にかくれている感じであるが大変な惨状であった。

 私の「ふるさと塾」でも原爆は度々取り上げてきた。現代の世界を理解する上で不可欠な問題であるからだ。アメリカは強大な武力を持つから傲慢(ごうまん)になりがちだ。自分の正義を押し通そうとする。イスラムの世界がアメリカを「不倶戴天(ふぐたいてん)のかたき」と見る根本はここにある。イラクやイラン、北朝鮮に核を持たせないことに必死なのは分かるがイスラエルには長いこと目をつぶってきた。これも傲慢の現われとも見える。東京裁判では、「人道に対する罪」を持ち出したが、二個の原爆を投下して多くの一般市民を残虐に殺したことこそ人道に対する罪ではないか。

 今月の「ふるさと塾」は鳩山一郎を取り上げる予定である。鳩山一郎が朝日新聞に載せた論文に「原子爆弾の使用は病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪だ」と書いたことがGHQ(総司令部)で大問題となり、これが原因で鳩山は追放になったとも言われる。しかし彼の言っていることは真実なのだ。

6日の広島市長の平和宣言には「閃光、轟音、静寂、阿鼻叫喚(あびきょうかん)。少女の眼は焼かれ顔はただれ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり・・・」とある。チンギスカンがまちを皆殺しにした話は有名だが、ヒロシマとナガサキの残虐さは、その比ではない。現代の世界平和を考える原点にすべきであるが、これ迄私たちは、イデオロギーの対立もあってこの問題を真剣に考えなかった。8月15日を期に改めて反省すべきである。

◇渋川市長等の知事への要望に立ち会う。(8日)

主要地方道高渋線バイパス建設促進、及び国道17号線前渋バイパス建設促進について、木暮渋川市長が中心になって、県議会議長と大沢知事に要望を行った。このような場合、関係する県会議員が同席するのが慣例である。

 木暮渋川市長はやや緊張しているように見えた。渋川市はこの度の知事選で市長が小寺氏を強力に支援したと言われ、12市の中で大沢さんが最も差をつけられた所である。会議は和(なご)やかに進んだ。この部屋で何度も前知事と自治体の長や議長と会見に立ち会った場面を思い出した。前知事は不機嫌を顔に出すことがあった。重苦しい空気の中で会話も途切れ勝ちだったことが思い出される。あれも多選の弊害だったのだと振り返った。「この部屋がこんなに明るいのは今までなかったですね」とある県議が言った。大沢知事はスタートしてまだ間もない。笑顔がなくなったとか恐い顔になったとか言われることのないように初心を貫いて欲しい。

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2007年8月 8日 (水)

「終戦の日が近づく、二つの原爆投下、現代史を見詰めよう」

◇62年前の出来事を見詰める時が来た。8月の6日、広島に、9日、長崎に、人類史上初の原爆が投下された。惨状は想像を超えるもので正に地獄がこの世で実現された。広島に原爆が投下された後、宮中では、日本の運命を決定する会議が開かれていた。ポツダム宣言を無条件で受け入れるか天皇制の継続を条件に受け入れるか、本土決戦を貫くかをめぐって。そして、政府のこの迷いに鉄槌(てっつい)を下すように、長崎への「投下」が行われたのである。

長崎への投下の前日の8日、62年前の今日、ソ連が日ソ中立条約を無視して満州に侵入し、ここでも多くの国民が地獄に引き込まれた。ポ宣言受諾の決断を政府はなし得ず、天皇の「聖断」を仰ぎ遂に宣言を受諾し、14日にこれを連合国に通告、15日、天皇のラジオ放送が行われた。いわゆる玉音放送である。私は、天皇に戦争責任はあると思うが、終戦の決定には天皇が大きな力を発揮されたことは事実である。

 二個の原爆投下、ポツダム宣言の受諾、そして日本国憲法の成立と歴史上最大級の出来事が続いた。これらが結びついた8月15日がまたやってくる。今年の終戦記念日は特別の意味があるのではないか。それは、憲法改正を揚げた自民党政権が参院選で大敗したこと、戦争の体験者の多くは80歳を超えたことなどがあるからである。毎年、セレモニーが行われるが、次代を担う若者には、その意味が伝わっていない。それは、世間が無関心であることと、学校が歴史教育の上できちんと現代史を教えないからだ。教育者に良心があるなら勇気をもって、日本の運命をかえた現代史の重要な出来事を教えるべきである。日本のオリジナルな文化や伝統を尊重し、国を愛する心を育むといっても、人々にこれらを受け止める基礎がないから掛け声が空しく響く。

◇県営住宅から暴力団を排除する条例のその後。

この種の条例を議員が発議して作ったのは群馬県が全国初である。私は発案者として本会議で提案説明し、続いて県土整備常任委員会に出席して質疑に応じた。この間、執行部の対応は冷ややかで非協力的であった。小寺さんと議会の対立を反映して執行部まで我々と対立するのか、これもまた、長期政権の弊害の一つに違いないと思った。

新知事誕生によって執行部の空気も一新したことが感じられる。この条例に関しても同様である。施行期日は今年10月1日であるが、条例が施行されるためには、条例運用のための規定が必要である。担当の課長にたずねたら、施行日に向けて関連部局と協議して準備を進めるとのことであった。

◇7月17日の「日記」で「緊急地震速報」について書いたら反応が広がっている。10月1日から一般に実施されるが工場など一部には既に行われている。中越沖地震に関して50秒前に情報を得た建設現場では巨大なクレーンを安定させることが出来た。パニックになることが最大の課題。画期的な科学の成果を生かすため行政は知恵を絞るべきだ。本県も本格的に取り組むべきだ。

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2007年8月 7日 (火)

「平和宣言と平和への誓い」

◇昨日(6日)朝、広島市長の「平和宣言」と2人の小六の男女生徒の「平和への誓い」を聞いた。これらは格調が高く私の胸を打つものであった。これらと比べて、その直後の安倍首相の挨拶は月並みで心を揺するものはほとんどなかった。私は首相の挨拶に現れているものが日本人一般の原爆に対する受け止め方だと思った。このことは、日本人が原爆投下の悲惨な事実を広島県民と共有していないことを物語る。長崎や沖縄の悲劇についても同様である。戦後62年を経た今、私たちはこのことを反省すべきではなかろうか。

 広島市長の宣言は広い会場に響きテレビの画面を通して私の胸に一語一語が突き刺さるように伝わった。「運命の夏、8時15分。朝なぎを破るB-29の爆音。青空に開く落下傘。そして閃光、轟音、静寂、阿鼻叫喚(あびきょうかん)。落下傘を見た少女たちの眼は焼かれ顔はただれ、助けを求める人々の皮ふは爪から垂れ下がり、髪は天をつき衣服は原形を止めぬほどでした。」このように秋葉市長は被爆の悲惨さを訴える。続けて、世界の核の現状を憂い、ヒロシマは、核廃絶に向けた運動を世界にくり広げていることを説明し、政府の責任を次のように表現した。「唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学びそれを世界に広める責任があります。同時に世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守(じゅんしゅ)し、米国の時代遅れで誤った政策には、はっきりノーと言うべきです」と。被爆者の哲学とは、苦しみや恨みを乗り越えて平和を求める信念のことであろう。会場には外国人の顔も目立った。

◇市長に続いて、二人の小学生は、澄んだ声で代わる代わる「平和への誓い」を読み上げた。「私たちは62年前の8月6日、ヒロシマで起きたことを忘れません」と始め、悲惨な事実を挙げながら、「これが原爆です。これが本当にあったことなのです。しかし、原子爆弾によっても失われなかったものがあります。それは生きる希望です」。「いやなことをされたら相手に仕返しをしたい気持ちは誰にもあります。でも、自分の受けた苦しみや悲しみを他人にまたぶつけても何も生まれません。同じことがいつまでも続くだけです。平和な世界をつくるためには、憎しみや悲しみの連鎖を自分のところで断ち切る強さと優しさが必要です。そして文化や歴史の違いを超えてお互いを認め合い、相手の気持ちや考えを知ることが大切です」と訴えた。これらの一言一言に重要な意味が含まれている。学校は、貴重な教材としてこれらをなぜ生かさないのか。

◇思い出すのは、平成14年の海外調査の折、スペインのバルセロナで「サダコ学園」を訪ねたことである。広島で被爆し最後まで生きようとしてなくなった少女佐々木禎子から校名をとった。私は遠く離れた国でヒロシマを教える平和教育がなされていることに驚き、感銘し、そして日本に於いてろくな平和教育がなされていないことを恥ずかしく思ったのである。

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2007年8月 6日 (月)

「夏祭りのピーク、暑い夏は燃えて」

◇土曜日・日曜日に集中して各町で夏祭りが行われた。土曜日は16ヵ所、日曜日は12ヵ所に顔を出したが、これが体力的にも時間的にもほぼ限界だった。

 今年の夏祭りでは、どこでも選挙のことが話題になっていた。知事選と参院選の直後だから当然なのであろう。私は、それぞれの選挙の渦中にいたので、有権者のいろいろな反応に出会った。

 知事選に関しては、どこでもよかったねといわれた。明らかに私とは反対の立場だった人も新しい変化を受け入れているようだ。前知事が居た町内の祭りでも私は温かく迎えられ感激した。県民は新知事の誕生を認め新しい時代の波の中でそれぞれの動きを始めていることが感じられた。

 新知事誕生を、県民は冷静に受け入れた。まだ、興奮冷めやらぬ状態にいるのは自民党県会議員かも知れない。早く、冷静に戻り謙虚に活動を開始しないと県民から見離なされる。私は夏祭りの中でこう感じた。

 知事選の支援が不十分であるとして尾身、中曽根両氏を次回の選挙で公認推薦しないという県議団総会の決議については、いくつかの夏祭りの会場で批判の声をぶつけられた。党内にも異論があった。新聞に大きく取り上けられるような事態は避けるべきであったと思う。

◇維新の政府は、旧幕府側にあったかつての敵も有能な人材は積極的に用いた。大沢新知事にもこのような大きな度量が求められる。このことは、私たち県会議員についても同様である。

◇旧宮城村の人々に頼まれていた講演を宮城公民館で行った(3日)。題は、「シベリヤ強制抑留の真実」。4月の県議選終了直後に8月になったらと依頼されていたのだ。終戦記念日を間近にしてタイムリーな題だと思う。私は、平成16年に抑留体験者達とシベリヤの抑留地跡を訪ねたが、その時の写真やその後集めた資料を映像にして使った。

夏草の中に立つ墓標には「友よ安らかに眠れ」と書かれている。その前に立つかつての抑留者塩原さんの涙をぬぐう姿に人々は注目した。塩原さんは俺だけ先に帰って悪かったと叫んでいたのだ。原爆が投下され敗戦が決定的になった状況でソ連は不可侵条約を破って満州に攻め込み60万人の日本人を強制連行した。酷寒、飢え、強制労働で6万人以上が死んだ。どの町や村にも関係者がいる。公民館に集まった人々は真剣に耳を傾けてくれた。

◇先日、「日記」で、緊急地震速報のことを書いた。直前に地震が来ることをラジオやテレビで知らせる制度で10月1日からスタートする。しかし一部では実施している所もあり、今回の中越沖地震では、新潟市のある所は「すぐに地震が来ます」という情報が10秒前に伝えられた。あるお母さんは、外で遊ぶ子供を家の中に入れることが出来た。「3秒前でも知る価値があります」とこの人は話していた。各地で地震が頻発している。大地震が近いという不安を感じている。5秒で何が出来るかを考えておくことが重要だ。

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2007年8月 5日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(11)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

狂おしい望郷の念にかられながら凍土に倒れた人たちの墓が、ビロビジャンのどこかにあるはず。ぜひとも、その一つでも捜し出して供養をしたいと思った。

ビロビジャン市では、大きなレストランでユダヤの民族料理を食べた。同じテーブルに二人の日本人男性がおり、主な目的は釣りで、アムールの支流では幻の魚イトウが釣れるのだという。ロシアでは、日本人の旅行客が非常に少ないので、見かけると話したくなる。レストランの別の大きなフロアには少年たちがにぎやかに食事を待っている光景があった。列車であった少年たちもこの中にいるのであろう。

その後、博物館を見学したが、ここで私の注意を引いたものは、日本人抑留者が作ったという黒い大きな家具であった。階段の踊り場に無造作に置かれた人の背丈を越すほどの黒塗りの物入れは、説明を聞かぬうちは周囲の様子に不釣合いに見えた。この家具の扉には、手のこんだ精巧な彫刻が施されており、日本人の器用さを物語るものである。まちの有力者が寄贈したもので、博物館も大切にしているという。

私は、日本人の器用さを示す例を、多くの手記で読んでいた。外科用のハサミが壊れたとき、ロシアの軍医から修理を頼まれた日本人はどのように工夫したのか、完璧に直した。軍医は驚いて、「お前の腕は金の腕だ」といって褒めたという。その他、チェスやマージャンのパイを見事に作ったり、廃物を利用して、一滴の水ももれない金魚鉢をつくったり、収容所の人々の中には、物づくりの名人がたくさんいたらしい。

物づくりを基礎にして戦後の日本の復興と発展を築いた力と共通のものが、収容所の中でも示されていたのだ。ロシア人の驚きは大変なものであったらしい。ハバロフスク市内には、日本人が造った建造物がまだ多く残されているという。私は、ユダヤ博物館の家具を見ながら、早く、それらを見たいと思った。

ビロビジャンからの帰途は、シベリア鉄道ではなく、私たち専用の車が用意され、日本人墓地を訪れることになっていた。パタポア女史やドミトリーが、それを捜し出しておくはずであった。約束の時間にゴルバチョフ元大統領によく似た丸顔で目の大きな運転手が迎えに来ていた。私たちは、この旅行の間、人のよさそうなこの運転手をゴルバチョフと呼んでいた。

私たちを乗せた車は、シベリアの原野を猛スピードで走った。列車から見たのとは違った光景が広がっている。遥かな地平線まで一本の道が続いていた。

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2007年8月 4日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(10)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

世界に対する名目としては、流浪の民に国を与えるということであった。また、日本が満州国をつくるなど日本の力が脅威に感じられる中で、中国国境に近いこの地域にユダヤ人を住まわせて、防波堤にする狙いもあったという。しかし、この計画は成功したとはいえず、ユダヤ人自治州というのは名前だけで、現実にこの地に移り住むユダヤ人は少なかった。当初ユダヤ人入植者を15万人と予定したが実際に入植したのは3万人で、現在は9千人ほど。全体の4.2パーセントに過ぎない。ビロビジャンは、以前は外国人が立ち入りを許されぬ所であった。現在は、観光客が訪れ、日本との関係といえば、新潟県豊栄市と姉妹都市となっている。大きな時代の変化というほかはない。

ちなみに、厚生省の資料によれば、日本の死者は、ハバロフスクの収容所では865人、ビロビジャンは1,400人となっている。

ハバロフスクには、整備された日本人墓地があるが、そこに葬られている人は、ごくわずか、数十名に過ぎない。ソ連抑留者中の6万人を超える人々の大多数の骨は、今でもシベリアの凍土の下にある。その実態の一部に触れたいというのがビロビジャン行きの目的であった。

なお、ビロビジャン州では、クリドゥール町、イズヴェストコワヤ町に強制収容所があったことを教えられた。もちろん、この他にも多くの収容所があったであろう。

 ところで、私たちがシベリア鉄道に乗った目的には、世界最長の鉄道に乗ってシベリアの自然を肌で感じとりたいということもあったが、その重点は、シベリア鉄道が強制収容者と結びついていることを知りたい点にあった。イズヴェストコワヤという地名が出たが、イズヴェスト駅はビロビジャンから二時間くらいの所にあり、ここから一つの支線が出ている。支線を三百数十キロメートル北進すると、その建設に多くの日本人が命を落とした第二シベリア鉄道のチェグドメンという駅に至る。強制抑留の関係では第二シベリア鉄道は、バム鉄道の名で知られる。それは、この鉄道がバイカル湖からアムール川に至ることで、「バ」と「アム」からバム鉄道と呼ばれたのだ。鉄道建設という旧ソ連の重大な国家事業に、日本人抑留者が投入され、沿線予定地には多くの粗末な収容所が建てられ、零下50度という酷寒の中で、食料も十分に与えられず、容赦なく、人々は労働に駆り立てられた。人々はバタバタと倒れ、惨状は言語に絶するものだったという。よく、枕木一本に日本人一人の死者が出たといわれるほどである。

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2007年8月 3日 (金)

中国製食品の恐怖

◇先日の「日記」で、県の研究機関は中国製食品をピックアップして検査すべきだと書いた。実は、このことを既に県は実施していることを知った。県の幹部は、私の話に耳を傾け、これからは、中国産の食品の監視を一層強化したいといった。

 県民の健康を守ることは県行政の第一の責任であることからすれば、食品の安全を監視することは当然であるが、中国産の食品については特別だといいたい。金もうけのためには何でもするというような最近の中国の状況は目に余るものがあり、県民は不安を抱いている。だから県が食品の安全を守るために真剣に取り組んでいることを示すことが、県民に安心を与えるのである。この点からすれば、県当局は、いっそう、真剣に取り組むべきであるし、県民に対して、県の取り組みをもっとPRすべきだろう。

◇私は、「群馬県食品安全検査センター」の役割を紹介したい。このセンターは、私が毎日幾度となく門の前を通過する下沖町の県衛生環境研究所(旧医療短大、現・健康科学大学の北側)の中にある。昨日は責任者の小沢(こざわ)氏から説明を受けた。

 ここでは、安全な食品を食卓に届けるために、生産から加工、流通、消費の各段階における食品の安全性をチェックする。私が言いたいことは、社会状況に従ってチェックの力点のおきどころを考えるべきだということだ。

 これ迄は主に県内に流通する食品の安全性チェックに主眼がおかれたと思うが現在は、食品の流通はグローバル化し、特に中国の製品に県民は恐怖を感じているのだから、小売店からこれをサンプリング(抜き取り)して、検査して欲しい。実施しているとの事であるが、私の「日記」での発言を県民の声と受け取って一層積極的に取り組んでもらえればありがたい。

◇先日、中国産のうなぎのかば焼から発癌性物質が検出されたとの報道は社会に衝撃を与えたが、これは、前橋のスーパーで売られていたものを、食品安全検査センターでチェックしたものである。

 これは、中国産ウナギについて、中国政府や日本国の検査をパスしているから完全だとウナギ輸入組合が発表した直後のことであった。この事実は、国の検査といってもごく一部を対象にするから、安心できないことを物語るものだ。県民の健康を守るためには、地方がしっかりと頑張らねばならない。食品安全のチェック体制の整備では、群馬県は、全国に抜き出ているという。それをいかに生かすかが今後の課題だと思う。

◇昨日、元海軍主計官だった老人から従軍慰安婦の興味ある話を聞いた。彼女たちはP(ピイ)と呼ばれ、一般の兵隊を相手にした女性は朝鮮P、上級の将校用は日本Pだった。「朝鮮P」は故郷に多額の送金をしていたこと、一般の兵士たちにチケットが配られていたことなどリアルな話であった。安倍首相は、彼女たちを集めた時に組織的な強制はなかったと発言して非難をあびた。県議会でも以前同様な発言をした議員がいた。戦争に伴う暗部は軽々しく語る事は出来ない。

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2007年8月 2日 (木)

「中曽根元総理の励まし、農水相の辞任」

◇惨敗の後も安倍首相は嵐の中にいる。中曽根元総理は次のように励ました。「一番大変な時に政治家の本領が発揮される。おじいさんの岸さんはあの大変な安保を突破した。おじいさんが出来たのだからあなたも出来る」と。おそらく岸信介の姿が安倍首相を支える柱の一つになっているに違いない。先日の「ふるさと塾」で岸信介を語った時は触れなかったが、安保条約の国会承認と合わせて米大統領アイゼンハウアーが訪れる事になっていた。先行したハガティー氏がデモ隊に囲まれてヘリコプターで脱出する場面は少年だった私の瞼(まぶた)に焼きついている。岸氏は無念の涙をのんでアイゼンハウアーの招待を断念した。この騒ぎの中で、岸氏が暴漢に刺される場面もあった。あの時と比べれば、小さな春の嵐のような今回の騒ぎだ。しかし、日本の将来がかかっている点は同じである。安倍首相の行動を見守りたい。

◇赤城農水相の辞任。ふるさと塾で話したことだが、あの騒ぎの中、岸氏の自衛隊出動要請を断固として拒絶したのが赤城宗徳だった。現農水相の祖父である。あの時自衛隊がデモの鎮圧に出動していたら今日の自衛隊はなかったと振り返る人は多い。民主主義をかかげる国民に敵対する自衛隊というイメージが定着したに違いないからだ。

 この祖父と比べ赤城農水相の姿はみじめだった。人間は心の持ち方でこんなにも見た目が変わるのかと思った。初めの就任時は、新鮮な知的なイメージがあったが、「バンソウコウ」のあたりからそこらのあんちゃんのように弱々しく自信のない若者に変わってしまった。そして、自民党のイメージまで下げてしまった。いまの時点の辞任は正にあとの祭りである。

◇関越道駒寄IC設置期成同盟会の総会が1日、テルサで行われた。知事代理の祝辞に続いて県会議員を代表して私が挨拶した。このスマートIC設置をめぐっては、推進の立場の県議会とこれに消極的な小寺県政との対立があった。試験期間中も予想以上の利用があってICの効果が期待されたが、小寺執行部は議会に対決するかのような態度を続けた。しかし遂に24時間利用による本格運用が開始された。期成同明会の課題は、大型車両も通行可能にするようにICを改修し同時にアクセス道路を整備するために力を合わせることである。総会ではこれらの要望書を知事と県議会に提出することが決まった。手続きを簡略するためであろうか、要望書は、その場で代理人に手渡すことになった。このことについては、知事に直接渡すべきではないかという声もきかれた。形にとらわれるわけではないが、大沢新知事と高木市長の新しい関係を築く一歩とするためにも、形式を大切にすべきであったと思う。

◇のどがかすれタンが出る。耳鼻咽喉科に行き内視鏡で調べた。癌のことは、杞憂であった。続いて脳神経外科で脳をMRIで診てもらった。こちらは毎年8月に行っている。正常で脳梗塞の兆候はなく外皮と脳の間にすき間もないといわれた。年を重ねると脳が縮み隙間が出来るという。今月の課題は大腸と胃の内視鏡である。健康は全ての基礎であるからおろそかには出来ない。

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2007年8月 1日 (水)

「中越沖地震、原発にかわるものは」

◇中越沖地震は、刈羽の原子力発電所にも大きなダメージを与えた。石油など化石燃料を使う火力発電は二酸化炭素(CO₂)を発生させるから、温暖化対策が真剣に叫ばれる今日限界がある。かわりのクリーンなエネルギーとして、太陽光(ソーラー)、風力、水力、地熱などが考えられているが、コストや発電量などがネックとなっている。

 そこで、CO₂を出さない発電として大きな比重を占めるのが原子力発電である。しかし、これには、別の危険性が問題となる。核分裂によって生じる放射能である。核分裂によって生じる膨大なエネルギーを兵器として使えば原爆となるが、このエネルギーをコントロールして平和的に利用しようとするのが原子力発電である。核分裂による熱で蒸気をつくり、この力で発電機を回すのだ。

 私は、何回も柏崎の刈羽発電所を見学し、放射能がもれないように万全な備えをしていることに感心したものだ。それだけに今回の地震による事故には衝撃を受けた。

 私は、原発の安全性確保は、その国の政治制度と深く関わると思う。日本は人の命など人権の尊重を第一とする国で、それを実現する政治制度として民主主義が発達している。民主主義を支える柱は報道の自由であり、原発でも秘密は許されない。それなのに、原発の事故が起きる。

 ソ連のチェルノブイリの事故は、人権が尊重されない国のずさんな安全管理が主な原因ではないか。とすれば、将来の中国が心配である。多くの「原発」を計画しているからだ。爆発的に経済が発展し、使用する電力はそれに追いつかない。人権の尊重ということでは後進国の中国である。環境問題は国境がないから巨大な隣国の原子力政策は、将来日本に深刻な影響を与えるかも知れない。

◇「食の安全」に取り組み、食育基本法の制定に力を尽くした参議員現職の福島啓史郎君がこの度の参院選で落選した。6年前は、私が群馬の責任者をつとめたが今回は事情が違ったので気にかけていたのである。

 「食の安全」が今、中国から脅かされている。私のまわりの女性の多くは、中国産は買わないといっている。ある女性がたまたま、スーパーでパックになっている牛肉を買ったら中国産だった。心配だから県の研究施設で調べられないかと相談を受けた。研究の施設はあるが、市民の要望に応じるのは難しいとのことだ。しかし、県民の健康を守るために、中国製の食品を県の研究機関がピックアップして特定の成分だけでも調査することは可能ではないか。もうけのためには何でもやるというのが現在の中国なのだから我々は自衛しなければならない。輸入品の検査は一次的には国の責任であるが、検査の対象は極一部である。したがって、地方がこの点でも頑張らねばならない。県の当局は、何らかの対策をとるべきではないか。これは、私の耳に入る県民の声でもある。

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