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2007年8月 5日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(11)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

狂おしい望郷の念にかられながら凍土に倒れた人たちの墓が、ビロビジャンのどこかにあるはず。ぜひとも、その一つでも捜し出して供養をしたいと思った。

ビロビジャン市では、大きなレストランでユダヤの民族料理を食べた。同じテーブルに二人の日本人男性がおり、主な目的は釣りで、アムールの支流では幻の魚イトウが釣れるのだという。ロシアでは、日本人の旅行客が非常に少ないので、見かけると話したくなる。レストランの別の大きなフロアには少年たちがにぎやかに食事を待っている光景があった。列車であった少年たちもこの中にいるのであろう。

その後、博物館を見学したが、ここで私の注意を引いたものは、日本人抑留者が作ったという黒い大きな家具であった。階段の踊り場に無造作に置かれた人の背丈を越すほどの黒塗りの物入れは、説明を聞かぬうちは周囲の様子に不釣合いに見えた。この家具の扉には、手のこんだ精巧な彫刻が施されており、日本人の器用さを物語るものである。まちの有力者が寄贈したもので、博物館も大切にしているという。

私は、日本人の器用さを示す例を、多くの手記で読んでいた。外科用のハサミが壊れたとき、ロシアの軍医から修理を頼まれた日本人はどのように工夫したのか、完璧に直した。軍医は驚いて、「お前の腕は金の腕だ」といって褒めたという。その他、チェスやマージャンのパイを見事に作ったり、廃物を利用して、一滴の水ももれない金魚鉢をつくったり、収容所の人々の中には、物づくりの名人がたくさんいたらしい。

物づくりを基礎にして戦後の日本の復興と発展を築いた力と共通のものが、収容所の中でも示されていたのだ。ロシア人の驚きは大変なものであったらしい。ハバロフスク市内には、日本人が造った建造物がまだ多く残されているという。私は、ユダヤ博物館の家具を見ながら、早く、それらを見たいと思った。

ビロビジャンからの帰途は、シベリア鉄道ではなく、私たち専用の車が用意され、日本人墓地を訪れることになっていた。パタポア女史やドミトリーが、それを捜し出しておくはずであった。約束の時間にゴルバチョフ元大統領によく似た丸顔で目の大きな運転手が迎えに来ていた。私たちは、この旅行の間、人のよさそうなこの運転手をゴルバチョフと呼んでいた。

私たちを乗せた車は、シベリアの原野を猛スピードで走った。列車から見たのとは違った光景が広がっている。遥かな地平線まで一本の道が続いていた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

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