« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

2007年7月31日 (火)

「歴史的敗北の全容、ふるさと未来塾」

◇比例区は、上野公成、おみ朝子の両候補が当選できなかった。この二人は、前回に続いての落選であり誠に気の毒だ。

歴史的敗北は、このような形で群馬の自民党を直撃した。安倍首相の悲痛な顔が報じられた。敗因はいろいろあるが、赤城農水相のバンソウコウを張ったみじめな姿が百万票以上の票を減らしたとささやく声も聞かれた。安倍首相の続投が党内で決まったようだが窮地に立たされた首相の人間としての力、そして、政治家としての力が試される。

 今日の日本の社会状況を反映して様々な人物が候補者として登場した選挙だった。HIV訴訟の原告だった川田龍平さんが東京の激戦区で当選を果たした。年金問題も官僚行政のおごりが招いた薬害エイズと根っこは同じと語っている。癌におかされて骨と皮ばかりに見える現職の当選にも驚かされた。同性愛者の地位の向上を訴えた女性は落選したが、これはこのような人達が沢山存在することの現われなのであろうか。元ペルー大統領のフジモリ氏は落選した。担ぎ出した国民新党の動機に問題があったと思う。日本の政治家として活躍出来る可能性は低いのに集票の道具として使ったと見られるからだ。

 丸川珠代氏は選挙権を行使出来ないことが発覚した。アメリカに住んでいた時期があって、帰国後手続きを怠っていたからだ。これまでも、選挙に行かなかったことになる。このような人を特に要請して出馬させた安倍首相の責任が本来なら大きく問われたであろう。どさくさの中で、美人の平あやまりを見て有権者は許す形となった。

◇「ふるさと未来塾」は盛況だった。第4土曜日の28日は、選挙戦の最終日なので、30日(月)の夜に変更したのである。今月は、岸信介をとりあげた。

 この人物について、人々の関心は依然として高い。「棺を覆って事定まる」というが、死後20年評価は高まっていることを感じる。波らん万丈の人生はNHKの大河ドラマのようであるが、エピソードを面白く取り上げながら昭和史の骨の部分を知ることが目的である。

 東大で我妻栄と首席を争った秀才で、卒業後は農商務省に入り満州国の経営に官僚として辣腕をふるう。東条内閣の商工大臣として太平洋戦争の開戦詔書に副署、A級戦犯として巣鴨のプリズンで3年余を過ごす。昭和28年4月に衆議院当選、それから4年足らず後の昭和32年2月には政権を獲得、まるで戦国時代の国盗り物語のようだ。

 岸は巣鴨の獄中で生きて出られたら日本国の発展のために尽くそうと決意する。彼の一貫した信念は日本の真の再建を果たすことだった。そのために不平等な安保条約の改正に執念を燃やす。反対運動の波は国会をかこんだ。この時、岸の自衛隊出動要請に反対を貫いた人が赤城宗徳だった。今二人の孫が時代の大波をかぶっている。「昔は腹のすわったいい政治家がいた」。ふるさと塾が終わった時、こう感想を話す人がいた。政治家の質とレベルはその時の社会を反映している。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月30日 (月)

「自民の歴史的大敗の影響は」

◇外は篠突く雨、比例候補の事務所内は重苦しい雰囲気が支配していた。父親である財務大臣は、テレビの前で腕を組んでじっと画面を見詰めている。比例区の詳しい情報がなかなか入ってこない。しかし、自民党の深刻な様子は痛い程分かる。昨日の街頭演説会の光景を思い出し当選を願った。私は、十を超える演説会場に出たが、どこでもかなり盛り上がっていた。私が演説している間に候補者は、集まった一人一人の人々に握手して回った。泣き声もかすれ、赤い勝負服に悲壮な思いが現れていた。中学生になった二人の息子もお母さんをよろしくと知人に声をかけているという候補者の言葉に涙ぐむ支援者の姿も見られた。

 この候補者の陣営に対して群馬の自民党は冷ややかだった。大沢知事候補の応援に消極的だったことが、必死の自民党の反感をかったのだ。捲土重来を期すこの陣営に余裕はなかったのだがもっとスマートな対応をすべきであったという声もある。

 私は今回の二つの選挙には、初めから腹を決めてかかった。知事選は、大沢氏を勝たせるために断固として全力を尽くした。私の行動と私の事務所の作戦が当選にある程度、貢献したことを疑わない。そして、知事選が終わると、短期間ではあったが女性候補の選対本部長として力を傾注した。本部長として責任を全うすることは出来なかったが、表立ってこの陣営を応援する県議は私一人だったので、責任を感じて頑張った。

 私は、この参院選で、参議院の役割と使命について訴えた。理性の府、政治の安定、議員の資質等の言葉を使った。しかし、次々と伝えられる当選者の顔ぶれを見ると、これで参議員の役割を担えるのだろうかという感じをもった。有権者の中には、政策以外の非本質的なことに感情的に反応した人も多かったと思う。閣僚の度重なる失言、とくに赤城農水相のバンソウコウをはったあわれな姿は、自民党のイメージを著しく下げた。しかし、このような人物を閣僚に任命した安倍首相の責任は重大なのだから、「非本質的なことに感情的に」というのは、実は当らないのだ。謙虚に受け止めねばならない。

 参議院の片山幹事長も落選した。私の友人の福島啓史郎君(現職)もどうやら駄目らしい。ありし日の姿と比べると天国と地獄だ。

◇今日は,夜の「ふるさと塾」で岸信介をとり上げる。昭和の妖怪といわれたこの人物は、孫の惨敗を天国からどのような思いで見たであろうか。岸は、東条内閣の閣僚であった。A級戦犯として三年三ヶ月入獄。衆院選に当選するや数年で政権を獲得した。タカ派のイメージが強かったが、改めて資料を読むとスケールの大きさと高い志に胸を打たれる。エピソードも実に多い。民法の神様と言われた我妻栄氏が「岸君はとにかく秀才だった」と語っている。才能と共に長州の伝統と歴史が育てた憂国の情をもっていた。彼が支えた鳩山一郎は日ソ交渉を成し遂げ多くの抑留者が救われた。窮地に立たされた安倍首相の心には祖父の姿があるに違いない。安倍首相の成長に日本の将来がかかる。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月29日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(9)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

 青柳由造さんは窓外に飛び去る白樺の樹林を感慨深そうに眺めている。抑留者は極限の飢えに迫られて口に入れられるものは、馬糞の中の豆まで見逃さなかったというが、知恵と工夫で新しい食べ物の発見にも必死だった。その一つが白樺の樹液だった。傷をつけて、そこに器をあてがっておくとわずかに半透明の液体が得られた。

「それが本当にうまいんですよ」

青柳さんは、かつて、目を細めて語ったことがあった。

私は、車内を歩いてみた。さまざまな人々がいる。太った中年の女性、ひげをはやした労働者風の男、談笑しているグループ、子どもを抱いてもの思いに沈んだような若い女性など。人々の姿は、ハバロフスク市の華やかな光景とは違って、ロシアの大地に生きる人々の実態を語っているように見える。ときどき視線が合って、<こんにちは、初めまして、私は日本人ですよ>と思いを送ると、にこっと笑顔が返ってくる。ロシア人は人なつっこいと聞いたことがあるが、なるほどと思う。こういう人たちが、日本人を地獄の強制抑留に駆り立てたとは思えない。戦争と政治体制のいかんが人間を狂気に駆り立てるのだ。

 にこにこ、わいわいと楽しそうな少年たちのグループが陣取っている。私は狭いスペースを見つけて、その中に割り込んだ。英語で話しかけると、

「イエス、イエス」とか、

「ウィ、プレイ、テニス」とか返ってくる。

 英語が通じるのだ。彼らはビロビジャンまでテニスの試合に行くのだという。持っていたボールペンやお菓子を差し出すと、皆、キャッ、キャッと言って喜んでいる。子どもの姿は、どこの国も同じである。二十一世紀の日ロの関係は、この世代が担ってゆくことになる。

 やがて、ビロビジャンの駅に着いた。駅前の広場には、ユダヤのシンボルといわれる、燭台の塔が立っている。上部には、左右に三本ずつのロウソクを形どったものがついている。

 なぜ、ユダヤ人の自治州ができたのか。私たちの目的は、かつての抑留者のことを調べることにあるので、このことについては簡単に触れることにする。

 ユダヤ人については帝政ロシアの時代から大きな社会問題であり、ユダヤ人排斥の動きは強かった。革命後のロシアでも、反ユダヤの国民感情は根強かったが、人種の平等を建前とする社会主義政権としては、ユダヤ人を虐待することはできない。さまざまな背景があって、ユダヤ人をシベリアの一画に移住させる計画を立てた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月28日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(8)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

一歩足を踏み入れたプラットホームは殺風景だ。ハバロフスク市内の華やかさとは対照的に地味で荒々しく感じられる。しかし、むしろこの方が、ここが広大で厳しいシベリアの大地の一部であることを感じさせる。また、半世紀前の日本人抑留者を連想させる光景でもある。私は追い立てられる抑留者の姿を想像して、しばし立ち止まっていたが、ロシア語のアナウンスの声で我に返り、ところどころコンクリートの剥げたホームを、前方の列車を目指して進んだ。

その時、ゴーゴーと音を立てて長い貨車が過ぎて行った。あのような貨車に、日本人抑留者は家畜のように押し込められて、シベリアの各地へ送られたのだ。

ある抑留者の手記によれば、一つの貨車に七十二人が入れられた。零下30度のシベリアの真っただ中で、火の気はまったくない。熱源は人間の体温と吐く息だけ。身体をぴったりと寄せ合って、間に冷たい空気を入れないように必死で耐えた。むしろ、すし詰めだから凍死を免れたという。

ベリア鉄道はウラジオストクからモスクワまで、およそ9,440キロメートルという世界最長の鉄道である。これがロシアという途方もない巨体に血液を通わせる動脈なのだ。私は、今それに足をかけようとしている。未知の世界の入り口に立つような緊張感があった。

列車の前に立つとプラットホームが非常に近いと感じられる。大きく足を上げて乗り込むと車内は木製のイスが並んだまことに粗末なものである。後ほどトイレを使ったが、下が見える垂れ流しで、かつての日本の鉄道を思い出させた。

ビロビジャンまでは、予定では2時間くらい。列車は走り出した。両側に白樺の林が続き、その向こうに青い草原が地平線まで広がっている。

先ほどからじっと外の景色を見詰めている塩原さんが言った。

「抑留されて行くときは、牛馬の糞のいっぱいついた汚い貨車でねー、窓などないから外は見えないんですよ。上の方に明かり取りのガラス窓があって、誰かに抱えられて、外を少し見ましたよ。こんなによく景色を見ながらシベリア鉄道に乗っているなんて、本当に夢のようですよ。」

シベリアには、白樺が多いらしい。抑留者の手記には、「死んで白樺の肥やしになる」という言葉がよく出てくるのを思い出す。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月27日 (金)

「知事選を振り返って」

◇「県政は何をするところかよく分からない」こういう事が前からよく言われた。「知事選で熱くなって県政が身近かになりました。」これは、私の後援会の人が知事選の興奮の中で私に言った言葉である。両方とも事実であり県政に関する大切な問題を提示している。県民が主権者である。その主権者が県政を分からないというのでは、主権者といっても形だけになってしまう。知事の長期政権が続くと県政に対する県民の関心はますます薄れる。このことも、多選の弊害の一つなのである。前回の知事選の投票率が37%台だったことは、このことを物語る。

 地方分権の時代が進む。真の民主主義、つまり、県民の、県民による、県民のための県政を実現させなければならない。そのためには、多くの県民が県政に関心を持ち、これに参加することが何よりも求められる。今回の知事選で、激しい戦いが行われたことは、多くの県民が県政に強い関心を持つきっかけになったと思う。民主主義発展の一つのきっかけをつくったという点で今回の知事選には大切な意義があった。

 マニフェストが出されて、各候補がいろいろな公約を出したが、県民は、これを忘れずに見守ることが、「きっかけ」を生かす道である。私は、「ブログ」の中で、これからも、各マニフェストを含め、県政の課題を取り上げていくつもりである。

◇参院選、ある総決起大会の光景。知事選でも自民党に対する逆風は相当なものだったに違いない。何とか凌いだ結果があれだったのだ。

参院選における自民党に対する風当たりは、逆風などというつきなみの表現では足らない。嵐であり、暴風である。年金問題やたび重なる閣僚の失言問題などで内閣の支持率はきゅうぞう急落し、参院選に関する各種調査はいずれも自民党が大変厳しい状況にあることを報じている。

厳しさを一番感じているのは候補者本人である。女性候補の頬を伝う涙にはかつてない悲壮感が込められているように見えた。この候補は全国を回って、自民党比例区ですと言うと「関係ねえよ」とか「帰れ」と罵声を浴びたと、いかに危機にあるかを訴えていた。

 夜は、6時からこの陣営の企業後援会の総決起大会があった。私は壇上から次のように挨拶した。

「今、日本は天下大乱の状態であります。このような時、求められることは、改革と同時に社会の安定であります。私たちは、ここで参議院の役割を考えねばなりません。社会に突発的な出来事があって混乱しても、しっかりと国を支え、日本の将来を見据えて理性をもって政策を論ずることが参議院の使命であります。だから、それにふさわしい資質を持った人物を参議院に送りこむことが重要で、これが今回の選挙の目的です」

 だから、この人物を是非と続けたのである。現実には、参議院は衆議院のコピーになっているといわれ、参議院の存在意義が問われている。この選挙を機会に参院の役割について考えたいものだ。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月26日 (木)

「知事選を振り返る。山本票の効果」

◇山本龍君が得た票について。龍君は、19万余の票を得た。よくあれだけの票を取ったという見方がある。よく頑張った。彼の勇気を讃えたい。敗戦を語る彼の表情は爽やかだった。全力を尽くして善戦したという感慨をもったのではないか。昨年の前半に県議会を飛び出して旗揚げしたが、県議会で彼をおす動きはついに起きなかった。それでも、一般県民の間に大きなうねりが起きれば道は開けたかもしれないがそれもなかった。現職の出馬及び自民党が一体となって推す候補者の出現という事態に行く手を阻まれたわけであるが、十分な時間と資金を使って目的を達成出来なかった最大の理由は、知事になるにふさわしいかという彼の資質の問題だと思う。まだ若いのだから修行を積んで再起を図って欲しい。

 このこととは別に、山本龍君の票が小寺票に影響を与え、大沢当選に間接的に貢献したと考えられる点が興味深い。北毛戦線は、小寺氏の勢力が大きいととろである。龍君が第一位の票を得たが、これがなかったなら、小寺票がもっと伸びたに違いない。そしたら、大沢当選は危うかったかも知れない。

◇現職の圧倒的な力を感じた選挙だった。小寺氏が4期16年で培った知名度と実力は凄いと選挙の中でいつも思った。それは、予算と人事権を握った強大な権力を背景にして任期中、常時選挙運動をやっているのと等しいからである。これも多選の弊害の一面なのだ。

 現職の力が一番強く根を張っていたのが前橋市であった。前橋は正に知事の地元、そして天にそびえる庁舎は小寺氏の権力を象徴するものであった。県都前橋が天王山と言われた。しかし、大沢正明の知名度は余りに低い。大きなハンディを克服するために私たちがとった作戦は、多くの集会を計画しそれぞれに最大限の人を集めることだった。

 例えば、出陣式は26ヶ所で行った。各県議は成果を比べられるので必死だった。集会のために役員会を重ねて策を練った。建設会館、マーキュリーホテル、各他の農協や公民館などが利用され、それぞれの集会のために、チラシを配布するローラー作戦が展開された。

そして、最後の大作戦が亀里町の経済連駐車場における総決起大会であった。当初大型バス28台を用意したが利益供与の違反を問われたらたとえ勝っても水の泡になると悩んだ。苦渋の決断を下しバスは断念した。各地で急拠会議が開かれ、乗用車で乗り合わせて参加する細かな計画が練られた。数千人の人が果たして集まるだろうか。祈る思いであった。集まる人に最初の努力をお願いしようということで、黄色い紙が準備された。「群馬の夜明けが来ました。新しいリーダーに松明(たいまつ)を手渡す時です。どうかあと、5人の人に呼びかけて下さい」紙面のこの文は私が作った。大駐車場に私の不安が広がる。間もなくそれを吹き飛ばすように広場は人の海と化した。このように上州の各地が燃えて新知事は誕生した。新知事をつくること自体が目的ではない。それは、素晴らしい群馬のための手段なのだ。このエネルギーを継続させねばならない。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月25日 (水)

「知事選を振り返る。対照的な二人の国会議員」

◇今回の知事選で真剣に動いた国会議員の中で一際目立った人が二人いた。県連会長の笹川堯氏と、元内閣官房長官の福田康夫氏である。この二人の姿は対照的で面白かった。

 笹川さんは、選挙でも百戦練磨で大きな集会では大向こうをうならせる勘と技術を身につけている。今回の選挙のある女性の大会で、「皆さん、こういうことは、ここだけの話ですよ、ほかで言ってはいけませんよ。言うなと言うとぱっと話は伝わるのですが」などとやって大変に受けていた。それに対して福田さんはソフトで静かに語りかける、派手さはないが真実味があって人々の心をとらえる。二人の姿は、剣士にたとえるなら、笹川さんは、見得を切って大刀を大上段に振りかざすタイプ、そして福田さんは、静かに相手を見すえて刀を正眼(せいがん)に構えるタイプを連想させる。いずれにせよ、二人は、その特色を発揮して、この選挙では大いに頑張ってくれた。

◇知事選の結果が県選管から発表された。主な点を挙げると。

イ、有効投票集 853,889票  ロ、無効投票数 9129票  ハ、不受理持帰り等 23票  二、投票率 53.41%  ホ 法定得票数 853,889×1/4=213472  へ、 供託金没収点 853,889×1/1085388(端数切捨て)

 ちなみに定法得票数とは、得票がそこに達しないと順位が当選圏内であっても当選人とはなれない数のことで、有効投票数の4分の1である。選挙民の十分な支持を得ていないとみなされるのである。(ホ)

 供託金の制度は泡沫候補の乱立を防止することを目的とする。これは有効投票数の十分の一である。(へ)。今回の知事選では、清水氏の得票は12523票なので、供託金300万円は没収されることになる。

◇知事の任期は。24日の新聞は、「小寺知事最後の定例会見」を報じると同時に、「大沢新知事の県政の抱負」を伝えた。そこで、ある人が私にたずねた。「今、知事は二人いるのですか」と。これは知事の任期の問題である。小寺知事の任期は、今月27日迄である。だから、選挙で敗れたが、27日迄は小寺さんが知事の職をつとめる。一方、大沢さんの知事の任期は28日からスタートする。「土曜に任期が始まるの」という人がいるが、土曜でも日曜でも何が起こるか分からない。県民の生命財産を守る最高責任者の存在は常に必要なのだ。

◇後藤知事室長が辞意を表明した。思えば、長い間後藤氏に対する風当たりは強かった。小寺知事が、後藤副知事実現にあれほどこだわった理由は何か。副知事を断念した後も、実質的には副知事と同じような職務をさせるために知事室長のポストをつくりこれにつかせた。小寺氏の真意は謎である。後藤氏とは私が議長の時16日間、共に南米訪問をした。能史であることは間違いないが県議会に受け入れられない何かがあった。それは小寺氏と共通するものかも知れない。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月24日 (火)

「知事選を振り返る」

◇昨日、県庁を訪れると、巨大な庁舎はいつものように建っていた。激烈な戦いの末に、難攻不落の城が遂に落ち、城の主がかわったのに、県庁のたたずまいは少しも変わらない。これがデモクラシーの時代の戦いの姿なのだと思った。

 小寺さんが敗戦の挨拶をする姿をテレビで見たがさすがに沈痛な面持(おもも)ちであった。昔から、「敗軍の将兵を語らず」という諺があるが、小寺さんも敗因は語らず、ご迷惑をかけたと手短に話していた。逆の立場だったら大沢さんも大変であったであろうと、戦いの非情さを思った。

◇午後6時、県議団の総会があった。(23日)

当選の夜は会えなかった遠方の議員もいて、固い握手を交わす。勝った地域の県議の中には興奮さめやらぬ表情の者もいた。

 大沢正明氏が姿を現すと大きな拍手がきた。つややかな顔で目は輝いている。不思議なもので、勝てば疲れは吹き飛ぶが負けるとどっと疲れが出るものだ。心のエンジンが爽やかに作動すると体の深いところから新鮮なエネルギーが生み出されるに違いない。人間は、正に精神の動物である。

 この席で、公明党の福重県議が挨拶した。今回の選挙では公明党に大いに助けられた、借りは返さねばならない。私は、こう思いながら耳を傾けた。福重氏の演説は熱がこもり切々と訴えるものがあった。隣の県議が「ずい分熱心ですね」とささやいた。公明党の強さの秘密を見せつけられた思いであった。

◇今回の知事選の基本的な戦略は、大ざっぱにいえば、我が陣営の優勢が予想される東毛で票を稼ぐ、北毛は小寺氏優勢を前提とした上で、最大の努力をする、前橋、高崎の大票田で互角に戦う、というものであった。結果として、大体、このようになった。

 天王山と言われた県都前橋を中心とした地域の攻防は凄かった。推薦団体の数などは、小寺陣営が圧倒的にまさっていた。しかし、私たちは驚かなかった。推薦の網をかぶせても、無数のおじちゃんおばちゃんたちの心まで網でつかむことは出来ないことを、よく知っているからである。結果として、前橋は、約4千票負けたが、大変な善戦であったと思う。

◇議会と知事の良い関係とは。

自民党県議団総会で、「手作りの知事を実現した、議会と知事との温かい良い関係をつくろう」という発言があった。このことに異存はないが、議会は議会としての本来の役割をきちんと果たさねばならない。小寺知事の時代、対立を背景に、慣れあいを排して議会改革が進んだが、信頼関係が欠けているために、県政のために力をあわせることが出来なかった。大沢新知事と議会との間では、信頼関係をベースにして、常に緊張関係を維持し、議会は、真のチェック機能を果たさねばならない。慣れ合いが生れ議会改革が後戻りするようでは、新知事を誕生させた意義が薄れる。これからの最大の課題だ。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月23日 (月)

「歴史的瞬間だ、当選に湧く大沢事務所」

◇長く苦しい戦いだった。負けて、また議会で小寺知事の顔を見るのは嫌だった。選挙中、県議選の時の思いを語る議員がいた。それは、知事派の県議候補を小寺氏が向きになって応援していたことだ。前橋市の県議は苦しい戦いを何とか勝ち抜いたが、刺客に苦杯を呑まされた他地区の自民党県議もいた。

 知事選に私情は、挟みたくないが私の心にも小寺氏に対する複雑な思いがあった。大部分の県議会議員と会話が出来ない状況が生まれていたことは、結果として多選の弊害の一つだと思っていた。

◇全力を尽くして21日を終え、22日の朝を迎えた。中沢県議から電話があった。「厳しい状況なので、出来るだけ多くの人に確認の電話をしましょう」というもの。長年の選挙で、一票の重さを痛い程知っている私たちだ。実は、私の事務所は、朝から娘も参加して、電話作戦を行っていたのである。

◇午後8時過ぎ、大沢事務所に行くと既に多くの人が詰め掛けていた。午後8時半を過ぎるころから、郡部の開票が報じられ始めた。山本龍、小寺弘之が優勢で、大沢は三番手である。地域の事情を反映した票の表れ方であり、予想通りとはいえ、テレビのまわりから重いため息がもれる。その間、小寺陣営、山本陣営の事務所のにぎやかな光景が報じられる。私たちは都市部の開票を手に汗にぎって待った。

やがて「甘楽町が勝った」、「水上が勝った」とどよめきが起きる。そして、駄目だと予想していた沼田市が、途中ながら五分の成績だと報じられると一際大きな拍手が起きた。ほどなく、太田市で大沢氏が大差をつけて一位となり、トータルの票が、小寺氏を抜いて一位になると、「よし!いけるぞ!」という叫びが起き事務所内は興奮のるつぼと化した。高崎市と前橋市は、やや予想に反して小寺氏に優位を許したが、もはや大勢は変わらなかった。

 午後10時半を過ぎて当確が報じられると、「ついにやったぞ!」「大沢知事が誕生だ!」事務所を埋めた人は、肩を抱き合い、手を握り合って喜んだ。報道陣のカメラの砲列が向けられる中、祝勝会が始まる。青年部の音頭でバンザイが呼ばれ、ウーロン茶で乾杯が行なわれた。カガミ開き、ダルマの目入れ、花束贈呈と、壇上で動く人々は体中で喜びを表している。誰もが我を忘れて勝利に酔いながら新知事誕生を祝った。

◇小寺知事は、多選に弊害があるかどうかは有権者が決めることだと言っていたが、ついに有権者の判断が下されたのだ。また、群テレの解説者は「多選」はあまり争点にならなかったと言っていたが、そうではない。「長すぎる」という声は巷にあふれていた。

◇「後藤副知事」へのこだわり、県議の定数削減問題への強引な介入、これらは小寺氏のおごりであったと思う。そして、県職幹部の中には、知事サイドに立って県会議員に対決姿勢を示す者もあった。このような状況が現われたことも多選の弊害であったと思う。戦いは勝ったが私たちは謙虚に議会改革、行政改革を進めていきたいと思う。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月22日 (日)

「戦いは終った、特別に選挙を一言だけ書く」

◇亀里の経済連の広い駐車場には約4千人が集った。違反になることを恐れて、当初予定のバスの利用は断念した。予想以上の人がよく集ったと思う。

 次は、私が壇上から訴えたポイントである。「この選挙は、素晴らしい群馬を子や孫に受け渡すための戦いです。百年に一度か二度の歴史に残る戦いです。皆さん、群馬を変えましょう。群馬を変えるためには新しいリーダーが絶対に必要です」

「そうだー!!」という声と大きな拍手が起きた。福田康夫元官房長官は、挨拶が済むと、これから街頭に出て最後の努力をすると言って、急いで去っていった。午前九時、一票を投じる。歴史を動かす一票になることを念じて。

アムールの水は、黒みがかった茶色に濁っている。遠方に目をやると巨大な流れは黒い生き物のように見える。いくつもの大きな支流を従えて無辺の大地をくねるさまは、正に黒い龍。中国人が、黒龍江と呼ぶのが分かる。私は、身をかがめて、アムールの水を掌にすくってみた。スープのようだ。塩原さんたちが、かつて、わずかなパンとスープでぎりぎりの飢えに耐えていたとき、よく口にしたという言葉を思い出した。

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(7)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

「ああ、今日も、アムールだ」

実のない水だけの、目玉が映るようなスープのことを「アムール」と呼んだのだそうだ。

 明日は、あれを渡ってユダヤ人自治州のビロビジャンへ行く。私は、夕闇の中にしだいに溶け込んでゆく鉄橋を見ながら思った。

三、シベリア鉄道でユダヤ人自治州ビロビジャンへ

7月20日、ドミトリーが先頭に立ち、研修生二コライも加わってハバロフスク駅へ。ニコライは、ハバロフスクの大学で日本語を学ぶ学生である。日本人との接し方を学び、将来、ドミトリーのような通訳になることを目指していた。まだ童顔の若者は、笑うと人なつっこい目が魅力的であった。

 早朝のハバロフスク駅は、いろいろな顔の人々が行き交って、市内とはq違った活気が感じられる。ロシアは多民族国家と言われ、ハバロフスク州約百の民族が住むといわれるが、駅は様々な民族を結ぶ役割も果たしているのであろう。駅前の広場に立つ鋭い顔の逞しい男の像は、ハバロフスクのもの。17世紀半ば、開拓者ハバロフがこの地に足を踏み入れ、そこから町の発展がスタートした。ハバロフスクの名も、ここに由来する。

駅舎正面の見上げる位置に大きな時計がある。この時計は変わっていて、短針が二本ある。私が見ていると、ドミトリーが気付いて言った。

「赤いほうはモスクワの時刻をさします。7時間の差があるのですよ」

こんな時計の針もロシアの大きさを刻々と表している。かつて、ソ連時代、列車の時刻表はモスクワ時計を標準にしていたために、この時計が必要とされたらしい。時計はその名残だという。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月21日 (土)

「いよいよ今日一日だ」

早朝6時半より、前橋青果市場を候補者と回る。私の選挙の時と同様な風景がくり広げられている。候補と小走りに広い場内を動くと私に近づいて握手を求める人も多い。「今度はこの人ですよ。あと一歩です。必ず勝ちますからお願いします。」

 上げ潮ムードがなによりの栄養剤となっているのであろう、我が候補は疲れの色を見せない。ある八百屋の親父さんが言った。「今日一日だ、ぶっ倒れるまで頑張れ。俺たちがついているぞ」と。

 昨日、高崎市では、相手候補と同じ会場でわずかな時間差で決起集会が行われた。「一目瞭然両陣営の結果が分かるから何としても負けるわけにはいかない」と先輩議員が語っていたが、結果は、我が陣営に遥かに多くの人が集まり、会場は新知事誕生を求める熱気であふれた。

 高崎は、前橋と比べ一歩遅れているという見方もあったが、福田元官房長官が全力を傾注していることもあって、大きな流れが出てきた。福田さんは、自分の選挙でもみせたことのない熱の入れ方だと多くの人が言っている。

 昨日のある会合で、私は次のように訴えた。

「戦いについては、地の利、人の和、時の運と言われますが、時の運は間違いなくわが方にあります。長すぎる、多選は良くないと誰もが言っています。強大な権力が長く続くと行政が不公平になります。そして、全県民が力を合わせることが出来なくなるのです。この時の運を生かすものは、人の和です。心を合わせ、最後の力を結集して勝利を獲得しましょう。全国が注目しているこの選挙です。そして、群馬県民の良識が問われる戦いです。」

青果市場から、いったん自宅に戻り、朝食をかっこんで、間もなく、候補者カーに同乗する。その寸暇にこの一文を書いた。土日は、「連載」の予定だが、特別の日なので、原則を変更したのである。「私の今の心境は、人事を尽くして天命を待つである。」そして、天命を信じることができるのである。

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(6)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

ドミトリーの端正な顔には品があって、私を見る目は正直に心のうちを表しているようだ。私は素直に受け取ることにした。ドミトリーの話を聞きながら外を見ると、トヨタやホンダの車がやたらと目につく。そして、クール宅急便とか、何々運輸などという表示をつけ日本で使われていたままの姿で走っている車もある。シベリアで意外な日本に出合った思いで嬉しくなった。車内には、旅の疲れを癒すなごやかな空気が流れていた。街には緑が多い。車道と平行している並木は何だろう。聞いてみるとポプラだそうだ。そうこうするうちに車はインツーリストホテルに着いた。

インツーリストホテルはアムール川の近くに建てられている。私たちは、ロビーで明日からのスケジュールについて打ち合わせをして部屋に入った。部屋に落ち着く間もなく、私はアムール川を見たくなった。実はまだ、シベリアの実感を得ていないのだ。そのためにも、シベリアの大河アムール川をまず見たいと思い、一人で外に出た。

 ホテルの外は緑の木々と、その間に点在する建物で視界は遮られている。私は、アムールの眺望を求めて、直感の命ずるまま、迷わず小高い丘へ通じる坂道を選んで急いだ。坂道は間もなく尽きて丘の上は広場になっており、その一角には、ロシア正教と思われる丸いドームを頂いた美しい金色の教会が建っている。振り返ると、この協会から一望する視野いっぱいに黒い大河が広がっていた。

折りしも雲の上の夕日は、天際を赤く染めてアムール川の中に没し去ろうとしていた。これがアムールの夕日かと私は、しばし呆然として神秘な自然のいとなみに見とれていた。そして、この光景は、かつての日本人抑留者を慰める

と同時に、望郷の念を限りなく募らせたのではないかと思った。

 遥かな遠方に幽かに広がる黒い影は、アムール川の中州か、それとも中国か。豊かな水量をたたえた大河は、静かにのどかに流れている。しかし、冬ともなればアムールの姿は一変し、結氷した川面を伝わる寒気は私たちの想像を超えるものに違いない。氷の上を、ぼろをまといよろよろと倒れそうに歩く抑留者の姿が目に浮かぶようだ。彼方には、次第に濃くなる夕闇の中にシベリア鉄道の長い鉄橋が、一本の黒い線を張ったように見える。私は丘の上からアムールの水面近くまで下りた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月20日 (金)

「閑野貞一さんの葬儀に軍歌が流れて」

 大きな集会で関野さんがつとめる格調のある多少演劇調の司会ぶりが名物だった。葬儀では、静かに軍歌が流れる中、閑野さんの生涯が語られた。14歳で志願して少年航空兵になる。予科練特攻隊要員として出撃待機中に終戦を迎えた。白髪の同期生が祭壇に進み出た。「貴様と俺とは同期の桜」という文句で弔事が始まった。大空決戦に備え、一機で一艦の撃沈を目指し訓練は熾烈を極めたこと、貴様らは国家悠久の大義のために喜んで死ねと常に教えられたこと、などが弔辞の中で語られた。私は戦争の中にタイプスリップしたような気持ちで聞いていた。

今年も8月が近づく。62年前の今ごろ、戦局は悪化し本土決戦が国中で叫ばれていたが、国の上層部では敗戦は不可避と判断して終戦の方法が模索されて筈である。しかし、終戦の決定にいたるまで、多くの若い命が爆弾と片道のガソリンを積んで南の空に飛び立っていった。若き日の閑野少年も死をかたく覚悟していたに違いない。

軍国時代に戻ったような感を与える葬儀であったが、閑野さんの生涯を振り返る機会となったこの葬儀から戦争の悲惨さと平和の尊さを少しでも学ぶことが閑野さんへのはなむけになると思った。私にとっての身近かなラストサムライ・閑野さん、さようなら。

◇知事選は本当に大詰めだ。毎日、朝に夜に選対の会議をやっている。各地に広がった私の後援会も真剣に動いている。中には、私と行動を共に出来ない支部長もいるが仕方がないことだ。他人の選挙は、客観的に眺められるだけに参考になる。最後まで、ギリギリのスケジュールを立てて頑張ることが勝利に近づくための鉄則である。

 今回の選挙戦の特色は、特に、前橋・富士見地区についてのことであるが、県議選ではライバルであり敵ともなる県会議員が真剣に協力しあっていることだ。お互い、長年激しい選挙をやっているから、いろいろなコマを手の内にもっている。だから、ローラーに何十人を、女性部の集会に何十人を、企業の集会に何十社をそれぞれ出してくれというようなハードな要求をどうにかクリア出来るのだ。その点、前橋のような厳しい選挙を経験していない地域は事情がことなるだろう。

 最後の総力結集の場は、21日の総決起大会である。今、これに向けて工夫をこらしている。眠れない日もあるが群馬の夜明けを信じて頑張るのみ。

◇最後の努力の一つとして企業の協力を求める集会を実施した。案内書を作る余裕もなく、各県議が電話で呼びかけたが予想以上が集まった。とにかく勢いを感じることが救いである。勝敗は最後の努力で決まる。また、勝利と敗北は紙一重である。このような先人の教えが肌で感じられる。人事を尽くして天命を待つのみ。

◇「日記」を書く時間がよくあるねと聞かれる。寸暇をさいてやっているが、継続は力、そして継続は習慣をつくる。書かないと気分が悪いし、どんなに忙しくてもやればやれるものだ。タバコすいが時間をみつけてプカプカやるようなものか。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月19日 (木)

「中国の混乱はただ事でない」

◇私たちから見ると毛沢東の頃の中国が懐かしい。五千年の歴史の流れの中で全体がゆっくりとのどかに動いていた。今、その流れが一変して狂った奔流のように動いている。最近のダンボール入りに肉まんを初めとする食べ物やあきれるような偽物の横行を見ていると13億の人々が金もうけの為に狂い始めた感じがする。かつては自転車の大群がどこでも見られたが今では国中が自動車の洪水と化している。

 政治的には社会主義であるが、経済では自由市場主義が進んでいる。社会主義の第一の目的は貧富の差がない平等の社会の実現である。ところが、経済の自由が認められた結果、自由競争によって貧富の差、つまり不平等がますます広がっている。そして、経済活動の自由は、思想の自由を広めずにはおかない。グローバルな経済活動によって自由主義陣営の人々と蜜接に関わることになるからだ。このような状況で共産党の一党独裁をどこまで貫くことが出来るのか。中国は未経験の新たな変化に今後対応出来るのか。各地で暴動も起きている。

 最近中国政府の動きに注目すべき変化が感じられる。それは、不正な商活動を公表するようになったことだ。世界の信頼を回復するにはこれ以外にないと政府は考えているのであろう。法治主義がすみずみまで行われる国になるのはいつか。巨大なモンスターの動きは、「食」や「環境」についても我が国に直接関わるだけに目が離せない。軍事力だけに目を奪われて中国にかなわないという人がいるが、総合的に見て日本は中国よりはるかに先進国で真の意味で豊かな国である。

その日本がいま危機にある。美しい国日本を実現する力は人間である。参院選では、「年金」が熱狂的に騒がれているが、未来を託す政治家を選ぶ視点として人づくりはより重大ではないか。人づくり、即ち教育に全力を尽くさないと日本は、本当に、中国にも負けてしまう。

◇刈羽原子力発電所の原発施設停止命令が下された。想定以上の地震の力によって施設が損傷する恐れがあるためだ。刈羽の原子力発電所には何度も訪れたことがある。厳重に警備された発電所内の光景、そして多くの見学客を受け入れて丁寧に説明する発電所の姿勢などから、安全面は万全と思われた。

新たな断層が見つかったのであるが地震の威力の凄さを改めて思う。刈羽からは首都圏に大量の電気が送られる。夏は、甲子園もあって電力を多く消費するので、その不足が懸念される。それ以上に日本の原子力政策に悪影響が出ることが痛い。

 ソ連のチェルノブイリの大事故に見られるように原発には危険が伴う。そこで世界では脱原発の大きな流れがある。ドイツや北欧では原発全廃に向かっている。一方、原油高やCO2の問題で原発に頼る動きもある。(原発はCO2を出さない)。昨年金沢地裁は想定を超える地震で事故が起きる可能性を認め運転を差し止める判決を下した。中国は多くの原発を計画しているが、環境を重視しない大国の原発計画は危険である。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月18日 (水)

「中越沖地震から学ぶことは」

◇3年前の「中越地震」の時は、ボランティアの仲間と山越村へ救援物資を持って手伝いに行った。倒れた遮音壁、大きく波打ち深く亀裂の入った車道など、関越道は地震のエネルギーの凄さを物語っていた。車からは、青いテントで屋根を覆った家々が多く見られた。小学校の体育館には避難した多くの住民が身を寄せ合っていた。このような生活はプライバシーもなく、長くなるとさぞ大変だろうと、その時思った。村内を回ると古い家々が倒れたり「危険」という表示が貼られた家がいくつも目についた。今回の中越沖地震でも古い家屋が多く倒れた。下敷きになって亡くなった人の多くは高齢者であった。

 そこで思うことは、中越地震の教訓は生かされているのかということである。古い家は耐震の補強策が施されていないものが多いらしい。

 打つべき手が分かっていても実行されないのは行政の責任である。2年程前、知人の前橋工科大学の教授が前橋市内の一画を挙げて、そこは高齢者が多くしかも木造の古い住宅が密集しているから危険だと指摘したことがある。この教授は前橋にも地震の恐れがあると科学的な根拠を示して説いていた。ほとんどの人は、前橋に大きな地震が起きるとは考えない。私もその一人だ。しかし、反省すべきは、人間の傲慢さである。自然の力の大きさに対して人間の力は微々たるものなのに科学を過信し謙虚さがない。地震に対する対策も自然を恐れることを基本にしてスタートさせるべきだ。

◇昨日、「緊急地震速報」について書いたら多くの反応があった。中学でも習う、地震のときの二つの波、はじめのカタカタとすこしおいてやってくるゆさゆさ、つまり初期微動と主要動、この二つの波の関係を研究して、主要動をいち速く事前に伝える仕組みである。大きな地震に限られるということだが、たとえ10秒でも最大限に生かす可能性がある。今年10月1日から開始されるという。

 この制度について気象庁の担当者と電話で話した。気象庁が一番恐れるのは、この速報によって混乱が生じることだ。人々が集る所に「間もなく来る」と速報が伝わり、損害が発生し訴えられることもあり得る。また、ラジオやテレビが使われるが、例えば車のラジオで「速報」を聞いて急ブレーキをかける人と知らずに走り続ける人がいて交通の混乱も生じるだろう。担当者は、このような例をあげて「緊急地震速報」を利用するに当たっての人々の「心得」が重大なのだと話していた。

 このような「恐れ」にいかに対応すべきかについての「検討会」が今年3月最終報告を出した。それによれば、速報開始前に、この制度について国民の理解を深めることが不可欠でそのモデル実験等の必要を強調している。

 阪神大震災などの惨状を考えるとき、何十秒か前に分かっていたら、多くの命を救うことが可能だろう。正に時は命なのだ。情報を生かす周到な備えが求められる。行政とボランティアの協力体制を作っておくことも必要だろう。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月17日 (火)

「大地震から身を守るために。緊急地震速報」

◇16日午前10時ごろ、選挙事務所にいたら、グラグラと来た。かなり大きなゆれである。瞬間、東京かと思ってテレビを見ると、速報があって、新潟県で震度6強と出た。「また新潟か」「大きいぞ」と声が飛ぶ。刈羽・柏崎西山・長岡小国がいずれも震度6強と表示される。群馬も沼田が4、前橋が3である。大型の台風が上空から猛威をふるった直後に今度は地底から恐怖が見舞った。天と地が人間の世界に怒りをぶつけているようである。それにしても、日本海側に大きな地震が続く。最近能登半島に大きな地震があったばかりだ。東京直下はいつあってもおかしくないといわれている。災害は忘れた頃に来るといわれるが、大地震は必ずくる。日頃からいかに備えをするかが重要である。

 この点で注目すべきことは、「緊急地震速報」だ。これは、今年の10月1日から始まる初めての科学的な地震予知のしくみである。先に到着する初期微動(P波)をとらえ、直ちに次の主要動(S波)までの時間や大きさを計算して知らせる仕組み。数秒から数十秒前に伝えることが可能だという。

 この時間を最大限に利用することで多くの被害をまぬがれることが出来る。日頃からとるべき行動の優先順位を考えておくことが必要だ。予想される東海地震では、東京都心で約47秒前に速報を出せるという。気象庁は06年8月1日から、防災関係機関や工場などに先行的にこの情報の提供を始めた。首都圏で震度4を記録した昨年8月の地震では、都心で2~3秒前、神奈川県西部で10~15秒前に速報が出て的中した。

 主要動(S波)が届くまでの、このわずかな時間を利用して、列車を減速・停止させたり、エレベーターを止めたり、手術中の患者の安全を図ったり、民間でも、大切なものを持ち身支度をしたり、子供や高齢者の安全を図ったりいろいろなことが可能となる。気象庁によると速報が出せるのは、M3.5以上か震度3以上の場合だという。また、人が多く集まるところでは、速報によってパニックを起こすと恐れている。

◇「いくつもの選挙の動きで湧き立つような一日」(14日)

マキュリーホテルの女性の集いは予想以上の盛会だった。笹川堯、福田康夫両代議士に続いて登壇した小渕優子さんは、「8ヶ月、安定期です」といって、大切な命を育てる母の心や政治家として子育て環境をつくることの大切さを訴えた。長身ながらお腹のふくらみが目立つ。敢えて登壇した彼女の姿から新しい知事を誕生させることに寄せる熱意が伝わる。優子さんは、父である元首相に触れて「孫は見たいが孫の父親は見たくないと言っていました」と話すと会場から明るい笑い声がどっと起きた。笹川さんの挨拶の中には、「優子さんの出産の前に何としても新しい知事の出産を」と言う部分があって、会場の女性たちを湧かせていた。

 マーキュリーと一時間ずらせて建設会館の各種団体の大会があった。こちらも入りきれない程の盛会で、マーキュリーから移動した笹川、福田、小渕の各弁士が話した。追う立場の勢いを実感した。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月16日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(5)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

 ロシアの広大な地域に点在する収容所へ、日本人の多くはハバロフスクを通って送られ、帰国する時もここを通ってナホトカに送られた。このことは、ハバロフスクが全長約9,440キロメートル、世界最長のシベリア鉄道の拠点でもあるからだ。ハバロフスク市はハバロフスク州の首府であるが、この州は日本の2倍以上の面積がある。このことからもロシアがいかに広大な国であるかが分かるというものだ。

 気温は、夏と冬で寒暖の差があまりにも激しい。夏の平均は22度というが、時には40度にもなるという。私たちが訪れた時も日本と変わらぬ暑さで35度くらいではなかったか。アムール川には、水着の美女たちが群れていた。冬の気温は、平均で零下22度というが、零下43度という記録があるという。日本人抑留者が苦しんだ酷寒については、零下30度ということがよく出てくる。シベリアも地球温暖化の影響があって、冬の平均気温は昔より上がっているのではなかろうか。

 ロシアは他民族国家といわれるが、このハバロフスク州にも約100の民族が住むという。その中心はロシア人である。

 ロシア人に対して抱く日本人のイメージはよくない。しかし、車中の人となって身近に話すパタポア女史やドミトリーの感じは大変良い。ロシア人に対する私たちの偏見があるとすれば、その点も考えてみたいものだと思う。また、ロシア人の日本人に対する感情はどうなのか。これも、大きな関心事であった。

「日本のこと、日本人のこと、どう思いますか」

 私は、ドミトリーに聞いてみた。すると、ドミトリーは、待っていたかのように、にっこり笑って語りだした。

「素晴らしい国で、とても好きです。シベリアの人たち、特にハバロフスクの市民や、日本海に面したウラジオストクの市民はですね、日本にすごく親しい感じがしてるんですよ。なぜかというとですね、外見ると分かるとおり、ハバロフスクで走っている車の90パーセントは日本の中古車です。質、いいですね。そして、誰に聞いても、オーッ、日本が一番、日本の商品が一番と言いますね。また、日本人ね、すごくマナーもっている。すごく約束守る人で働き者であるということですね。こういうこと、ロシア人の頭に入っていますね。なぜかというとですね、怠け者とか、約束守らない人であれば、日本ですね、こんなにも経済的にも文化的にも発展できないと思うのですよ」

 パタポアさんもうなずいて同意を表している。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月15日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(4)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

  この青年が通訳兼ガイドのロシア人、カムリア・ドミトリーだった。気付くともう一人の大柄な女性がドミトリーの背後から近づき、私に手を差しのべた。彼女は、日本政府から勲五等瑞宝章を受けたロシア人ガリーナ・パタポアさんだった。これからの数日間、この二人には大いに助けられることになる。特に、いまだ知られていない、見捨てられたようなビロビジャンの日本人墓地に案内されたこと、国立文書館でまさかと思っていた「スターリン大元師への感謝文」を入手できたこと、青柳由造さんがロシア民間人の家庭で倒れた時の危機脱出など、この二人には並々ならぬお世話になった。これらについては、後に触れることにする。

二 極東シベリアの拠点ハバロフスク市のこと

 私たちの目的地であり、塩原さんが二年以上も収容されていたハバロフスク市とはどんなところか。私たちは専用の車に移り、宿舎のインツーリストホテルに向った。好青年ドミトリーは、私の質問に答えて、流暢な日本語でハバロフスクのことを教えてくれた。

 ハバロフスク市は現在、人口70万人。極東シベリア最大の都市で、また文化や経済の中心都市でもある。バイカル湖のあたりから流れ出し、日本海の間宮海峡に注ぐ全長4,400キロメートルの大河アムール川に面して立つこの都市は、かつてはシベリア強制抑留の拠点で、多くの強制収容所が存在した。少年の頃、歌手の三波春夫がハバロフスク小唄を歌うのを聞いたことがある。

ハバロフスク ラララ ハバロフスク

ラララ ハバロフスク

故郷は遥かな 雲のかげ

いつの日に妻や子と逢えるやら

男泣きする夢ばかり

その時、良い唄だなあと思った。特に三波春夫が、「故郷は遥かな雲のかげ」の部分を歌うときの表情が印象的であった。その後、この歌が収容所の人々によって作られたことを知った。望郷の思いに駆られた人々が故郷の山河や妻子を思い描きながら盛んに歌ったのだ。三波春夫自身もハバロフスクの収容所で過ごした一人であった。これらのことを知って、改めてこの歌を聞くと、人々の思いが切々と伝わってくる。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月14日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(3)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

  運命のいたずらともいえる推移の中でシベリアの捕虜となり、その結果想像だにしなかった体験をした。自分とははたして何か、自分の人生は何だったのか、これらの答えも、その体験の中に隠されているに違いない。二人の老人は、大陸に残してきた若かりしころの自分に再会するかのような思いで到着をいまかいまかと待っていた。

 私は、シベリア強制抑留について数多くの体験記を読み、人間は、極限の状況で、あそこまで耐えることができるのかと驚かされた。そして、抑留者は、年々、少なくなっているとはいえ、まだ多くの生存者がいることを考えると、人類が長い歴史の中で繰り返してきた、異民族に対する残酷な扱いが、私たちの生きている現代とつながるすぐそこにあったことが不思議に思えるのであった。そして同時に、いくら手記をよんで凄いと思っても、それだけでは本質を理解したことにはならないと思った。

 二十一世紀の現在、私たちは人類の歴史の中で、豊かさとか便利さという点では、一つの頂点に立っている。シベリアの抑留生活は、この頂点から見下ろすと、はるか下の黒い闇の底にある。そこに何があるのか、そこから何を学ぶべきかを、私たちが掴むことは難しい。豊かさに埋没し、今立っているところが薄氷の上にあり、あるいは、今見えているものが蜃気楼かもしれないのに危機意識もなく、惰性に流されているのが、私たちの姿ではないか。私たちの目を覚ます何かがシベリアにあるかもしれない。強制抑留の実態に少しでも近づくことによって、そのことが可能なのではないか。私はこれまで、シベリアへ行くことなど思ってもみなかったことを反省しつつ、何かを求めてシベリアへの旅を決意したのだった。二時間のフライトは、半世紀の時をさかのぼるタイムマシンの旅でもあった。そこで、私たちを待つものは何か。

 思いに耽っているとなにやら機内の放送があったらしく、やがて周りにざわめきが広がり、機は降下を始めたらしい。彼方に白くくねる大きな水面が見える。あれがアムールか、そして眼下に緑の平原が広がる。まだシベリアという実感はない。やがて、ズンと鈍い衝撃音とともに機は大地に着いた。ハバロフスク空港である。

「シベリアですね」

初めて笑顔をつくってこう言いながら私の手を握る塩原老人の手に力がこもっていた。入国手続きを済ませて出てゆくと、

「ナカムラさんですか」

 長身のハンサムな外国人青年が声をかけて近づいてきた。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月13日 (金)

「参院選の火蓋が切られた」(12日)

◇参議院の選挙が告示され、群馬選挙区と比例区の候補者が早朝7時から申込順に総社神社で祈願祭を行い、私は三つの儀式に参加した。総社神社は古い歴史をもつ格式高い神社である。私の県議選も毎回ここで必勝を祈る。社殿には、弓矢を持った武人の像が左右に立つ。戦国の武将もここで必勝を祈願したのかと思った。現代の戦いは負けても首を切られることはないがやはり命がけである。この日もそれぞれの候補者が政治生命を賭けていることが決意表明の中に現れていた。

◇参院選では、年金問題が最大の争点となりそうだ。何千万人という人の年金記録が宙に浮いたり不明になったりしているのだから国民が怒るのは当然である。従って、選挙の争点となるのも、また当然だ。

 しかし、参議院議員の任期は6年である。この間の国政を任せるのだから国の運命がかかわる重大事も争点にするべきである。例えば、憲法問題だ。国民投票法が出来、60年ぶりに憲法改正が本格的に議論されているのだから、有権者は、これを候補者を選ぶ判断材料の一つにすべきであろう。久間前防衛相は原爆投下を「しようがない」と発言して失脚したが、核の問題は、憲法の平和原則に関わることであり、憲法9条と結びつく問題でもある。政見放送を見ていたら核武装の必要性を堂々と論じる候補者がいて驚いた。

◇比例区の候補者の中に、アルベルト・フジモリの名があった。昨日もこの「日記」で書いた元ペルー大統領である。報道によれば、「大統領としての10年の経験を生かしたい」と抱負を語った。ベルーとは国情も違う。また、元大統領は祖国ペルーで罪に問われ隣国チリで軟禁状態におかれている。仮に当選したとして日本の国会議員として活躍できるのであろうか。

◇羊頭狗肉、つまり、羊頭を掲げて狗肉(犬の肉)を売るとは中国のことわざであるが、中国製品のひどさは呆れるばかりだ。表示の偽りや危険なものが食品ばかりでなくあらゆる分野に広がっている感じである。

 信じられない事実が次々と報じられる。段ボールを粉々にしてひき肉と混ぜて肉まんに入れているという。段ボールと肉まんの割合は6対4だ。日本の家族から廃品として回収されていった段ボールが肉まんになって戻ってくるなんてことがあるのか。ウナギのかば焼きからは発がん性物質が検出された。また、土鍋を使っていたら鉛が浮き出てきた。鉛は身体に入ると有毒な物質である。安いからといって安易に手を出すと大変だ。「百円ショップは要注意」と言っている人がいる。貧しい国、中国の12億の人々がにわかに金もうけに狂い出した感じだ。急激な変化に法の規制がついていけない。人々の意識の中にも自由市場主義の道徳が育っていないのだろう。美しい国が隣りの巨大なモンスターから狙われている。国を守ることは私たちの生活を守ることだ。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を掲載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月12日 (木)

「またも選対会議、そして、ポスター貼りの手配」(11日)

◇昨日も、県連で選対会議。公明党の幹部も参加した。初めの頃の会議と違う点は人々の目に輝きと緊張感が見られることだ。皆が、いけるということを肌で感じるようになったのだ。ある人が私に言った。「皆、勝ち馬に乗りたいのです。こっちは駄目だと思っていた人に変化が起きています。これからが勝負ですよ」

 古来、戦いを決めるものは、地の理、人の和、天の時と言われる。多選批判の風が強まっていることは、天の時が我が陣営に味方している証拠だ。これを生かして勝利を引き寄せるものは人の和である。会議を重ね意見を交わす度に心の交流も深まることを感じる。

◇同日選がなくなったことによって生じた一つの事態は、ポスター貼りの作業量が増えたことである。掲示板に貼るポスターは告示日の朝、抽選によって決まる番号の所に貼る。当初の予定は、知事選と参院選(選挙区)は、告示日が同じなので、一度に両方に貼る計画であった。それがずれた為に、参院選のポスターを別の日に貼ることになった。昨日は、その手配で苦労した。両方とも県会議員の組織が受けもったのである。いつもなら建設業界あたりが引き受けたのであるが、今回の選挙をめぐる特殊事情から出来なくなったのである。私たちとすれば苦しい作業であるが、二つの選挙の関係が密になるという利点がある。

◇今回の参院選で日本はもとより世界が関心を示す候補者は、元ペルー大統領のフジモリ氏である。私は、かつて日本移民2世のフジモリ氏が大統領になる過程に強い関心を抱いていた。精神的にも腐敗した国を建て直すために彼は、「モラリサシオン(道徳化)」ということを訴えた。長いことしいたげられてきたアンデスの民は、移民の子であり、サムライの血を引くフジモリに夢を託した。泡沫といわれたフジモリが決選投票で大統領に当選した時は、国中が湧いた。インカの末えいたちは白人の侵略者を初めて、民主主義の力で打ち破ったような感動を抱いたに違いない。

 大統領になったフジモリは、テロとインフレを克服し、国を奇跡的に復興させた。それまで、血で血を洗うテロと絶望的なハイパーインフレが支配していたのだ。私は、平成8年県議団の海外視察でフジモリの国ペルーを訪れた。会見した青木大使はフジモリを高く評価していた。あの日本大使公邸の占拠事件が起きたのは、私たちのペルー訪問から数ヶ月後の事であった。テロを制圧して、「ペルーリブレ(ペルーは自由だ)」と叫ぶ誇らしげな大統領の姿をテレビで見た。

 その後、フジモリが失脚したことは残念である。このフジモリが国民新党から参院選に出るというのだから驚きである。国民新党とフジモリの動機が問題である。亀井静香氏はラストサムライをイメージしているという。しかし、フジモリが日本の国会で現実に活躍出来るのであろうか。それは彼の置かれた立場から難しいのではないか。とすれば、そのような男を立候補させること自体が問われるべきではないか。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月11日 (水)

「福田康夫さんのユーモア」

◇ある地域の選対会議に福田康夫さんが出席した。この人は真面目な人なので選対本部長を引き受けたと言って、真剣な様子である。大きな企業を回りながら、コースに近い選対会議の会場に寄ったのだ。会場となった地域は、昔、合併前は、故福田赳夫さんの地盤だった。支援者が、福田元首相を第一回の選挙から応援したことを懐かしそうに話すと、康夫さんも「親父が大変お世話になりました」と普段あまり見せないような笑顔をつくって身を乗り出すようにして語りかけていた。その中で次のような部分があった。「多選の弊害は明らかですよ。群馬をもっと大きくしましょう。小をかえて大にするのです。お分かりでしょう」会場にどっと笑いが起こった。そのさわやかな熱気の中に新しい群馬をつくるエネルギーが広がっていくのを感じた。

◇地域を回って、ある人と会話をした。「民主主義だから、立候補は自由で誰でも出ることは出来るんだろう。俺だってその気になれば出られますかね」。「そりゃ、出られますよ、ただ供託金が必要ですよ」「そりゃ大変だ。今の知事選では、当選を考えていない人が出ている。何を考えているんだろうね、その供託何とかつう金はあとでけえってくるんですか」。そこで私は、供託金の制度について説明した。立候補は自由だが泡沫候補の乱立を防ぐために供託金の制度があり、得票が、決められた一定額に達しないと没収される。知事選では、供託金は、300万円で、没収ラインは、有効投票の総数の十分の一である。

 昔、何十年か前、国政選挙で、「誇り高き政治屋ヒゴトオル」とラジオで盛んに流す候補者がいた。新聞のかたえくぼだったか小さな欄に載った「ラジオの故障ではありません」という、表現に苦笑した記憶がある。今回の知事選の掲示板の人は、当選は考えていないようだが、300万円をかけて何かを真剣に訴えようとしているようだ。

◇プロレスラー大仁田の出馬辞退について。参議院選のたびに首をかしげるのは、自民党がおかしな候補者をかつぎ出すことだ。プロレスラーでも漫才師でも職業に貴賎はないから、立候補することは自由である。しかし、テレビで名が売れていることを利用して頭かずの参議院議員をつくろうとしているとすれば問題だ。国民を馬鹿にし、政治不信の原因をつくり、自民党の首を自ら締めるようなもの。そして、参院の価値を下げることになる。

 プロレスラー大仁田などは、品性からしても知性からしても国会議員にふさわしいとは思えないという声がある。出馬辞退はよかったと思っていたら週刊誌にいろいろ報じられている。キャバクラ嬢らと乱交パーティーをしたとか、闇カジノを開設しようとしていたとかである。乱交パーティーの真偽は分からないが、「闇カジノ」の方は、訴訟記録を資料にして報じていることから、何かあったのだろう。自民党も悪いが、面白いからといって選ぶ国民にも責任がある。良い資質の人物を選ばねば、参院はますます地盤沈下する。それこそ日本の危機である。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月10日 (火)

「NPO市民立カレッジで講演」(9日)

◇早朝7時半より、県議団の選対会議があった。(9日)。連日のように行われる会議や過重な計画に追われ一日一日が矢のように過ぎる。時には立ち止まって一息入れたい気持ちにもなる。そんな願望を抑えて午前10時少し過ぎから自民党の広報車に乗った。駅前などの要所で、車の上に登って演説した。自民党の青年部長も同伴した。

◇午後2時半からの講演は辛かった。「NPO市民カレッジ」主宰の事業である。毎年講師の一人として受講生たちに話をしている。昨年のうちから予定されていたことであるが、その時は、激しい選挙と重なることは意識しなかった。あっという間に、講演の日が近づいた。日時の変更を申し出たが無理と分かったので、意を決して、短時間で準備して臨んだ。講演することは慣れているが手抜きはしたくなかった。栄養剤のドリンクを一本飲んで演壇に立つとシャキッとした気持ちになった。産業技術専門学校の一室である。

 演題は、「NPOの原点は何か、NPOの役割は何か、そして、NPOは日本の社会を変えたか」。題目としては長いが、これは、同時に話の中味でもある。平成7年の阪神大震災の時、一年間にのべ約140万人のボランティアが救援活動に参加した。この動きはボランティアが新しい時代を支える大きな力になることを予感させた。平成9年にはボランティアの活動を支えることを目的としたNPO法が成立。簡単に法人格を得る道が開かれ、群馬県では現在523のNPO法人が存在する。阪神大震災で見せたボランティアの人々の動きはNPOの一つの原点であった。

 一方、今日の社会は大きく変化した。そして人々のニーズは増大しかつ多様化しているが、企業も行政もこれに十分に応えることが出来ない。供給を待つニーズの海が存在する。このニーズに応えることが出来る第三の柱、つまり企業、行政に次ぐ存在がボランティアでありNPOである。ざっとこんな風に話を進めていった。そして、今日の社会には、知恵と経験を豊富にもって社会に貢献したいと思う人が沢山いる。このような人たちがボランティア・NPOに参加して動けば大きな活力となる。そして団塊の世代のことにも及んだ。県議会では「ダンコン」の世代と発言した議員がいたと話を脱線させたら笑いが起きた。2時間、飽きさせない話が出来たと思う。

◇私の友人の残留孤児と会って話した。中国帰国者協会の人たちは、私にとって大切な存在である。日頃から親しく付き合っているので選挙でも力を貸してもらえる。この協会にかなりの数の残留孤児がいる。私の友人は「一応解決したよ」と語った。彼らに対する国の支援策がまとまったのだ。旧満州で終戦を迎えた時、0歳から12歳の間で親と離れた子供が残留孤児だ。誤った国策の犠牲者ともいえる人たちである。帰国後も日本社会で辛酸をなめた。10年程前彼らがかつて住んだ黒龍江省の奥地を訪ねた。黒い泥の海の中にたたずむ貧しい家々を見て息をのんだ。支援問題の決着は遅すぎる。安倍首相の決断は評価するが、遅れた原因の一つは政府の歴史認識の甘さにあるのではないか。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 9日 (月)

「スケジュールのすごさは自分の選挙のようだ」

◇自分の後援会も全部が大沢候補で動いてくれるわけではない。毎日のスケジュールは、つきつめれば、自分の後援会を少しでも大沢支持につけることを目指すものだ。それにしても人に無償の行動を頼むことは難しい。日頃、培った信頼関係がなければ話にならないが、これを基礎にして、誠意と熱意と謙虚さが求められる。他人の選挙なので痛切にこのことを感じる。選挙運動は基本的にボランティアで成り立っている。多くのボランティアが大軍のように働く様に驚き、そして、感動する。民主主義を支える人々の群れだ。年金、大臣の失脚、消費税等様々な政治の流れと風によって人々の民度は鍛えられて高まっていくことが期待される。これは苦しい戦いの中で私にとっては一服の清涼剤のように感じられることだ。8日の早朝、多くの女性幹部が大沢事務所に集まり、また、のちのち午後には、ローラー部隊が建設会館から前橋中に展開していった。

女性部の幹部の集会では、14日、マーキュリーホテルで行なわれる女性大会の計画が話し合われた。冒頭、私は次のように挨拶した。「明日の群馬のために勝たねばならない戦いです。県都前橋が天王山になります。そして、女性の力がその勝敗を決めることになるでしょう。女性パワーを結集させる素晴らしい大会にしたいと存じます」

檄は女性が音頭をとった。澄んだ女性の声と突き出すそのこぶしが、事務所の中で、はじけるような緊張感を生み出していた。

◇「学力テストの目的は何か」

選挙戦の中で、正面からの教育論はやりずらい。有権者の関心が高いのは、福祉や中小企業や農業などであるからだ。私も最近の教育の動きから目を離していたが、学力テストで東京都のある学校が自校の成績を上げるために、姑息な小細工をしていたことを知って驚かされた。

不正があったとして指摘されている点は、成績をあげるために過去の問題を繰り返し練習させた。その過去問は、過去に試験を受けた多くの生徒の記憶をもとに再現させたものらしい。過去の問題と9割程度同じ問題が出されたという。又、試験中に先生が回ってきて誤った回答には机をたたいて気付かせたりしたとも。不正を指摘された学校は、72校中44位だったのが1位になった。

学力テストの目的は、各学校の学力の実態を知って、その学校の学力向上対策の資料にすることである。学校ぐるみで不正が行われたとしたら、この学力テストの目的を学校自らが否定したことになる。また、学校が生徒に対して、不正をやらせたことは、規模意識を教えるべき学校が八百長を教えているようなものではないか。このようなことがもし全国的に、大なり小なり行われたとしたら、また、教育界を揺るがす大騒ぎになるに違いない。そして、学力テストが不当に競争をあおるとして、批判される一因になるだろう。未履修問題と同様、教育界が教育の本質をとらえていないことの現れである。私たちも他山の石としなければならない。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 8日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(2)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

 塩原さんは言った。

「あの広大な大陸の地平線や悠然と海のように流れるアムール川を自由の身で再び見ることができると思うと、しぼんだ年寄りのこの胸が、なんだか膨らむような気がします」

 また、塩原さんより二歳年下の青柳さんは、心臓に多少心配な点があったが、何としてもシベリア行きを果したいと、毎日、かなりの重量のペットボトルを背負って何キロメートルも歩いて体力の調整に励んでいたという。

多くの仲間が狂おしいほどの望郷の念にかられながらシベリアの凍土に倒れた。二人の老人も死の淵に沈みかけ、故国への生還をあきらめたこともあった。憎しみと怨みの大地だったはずのシベリアへ、今、二人をこのように駆り立てるものは何か、私は不思議に思った。

 ハバロフスクは、新潟空港から約2時間、そろそろシベリアの上空に近づくころである。二人の老人は、シベリアとの再会を目の前にして何を考えているのか。私は、隣の塩原老人の彫像のように強張った横顔を見ながら、シベリアの体験は、この人の人生最大の出来事だったのだと、改めて思った。

ある抑留体験者が、シベリアは人生の大学だったと語っていた。また、壮大な人間の実験場だったと振り返る人もいた。まさにその通りに違いない。しかし、当時は飢えと酷寒と重労働に生身を削がれるような状況で、そのようなことを考えるゆとりはなかったはずだ。長い年月が経ち、自分の人生は何だったのかと振り返るとき、さまざまな人生の出来事を木の葉のように押しのけて目の前に厳然と迫ってくるものが、シベリアの強制抑留なのだ。それは、まさに自分の究極の姿であった。また、自分の生命力の限界点、耐えることの限界点に立たされて苦闘した日々であった。あれから50数年が過ぎ、人生の終点が見えるところまで来て、シベリアの日々を振り返ると、青春の全エネルギーを燃焼させて生きたかつての自分の姿がまぶしくさえ見えるのだ。そう思うと、地獄と思っていた日々が無性に懐かしく思える。森林伐採にかりたてられて歩かされたあの道は、今どうなっているだろう、建設にたずさわったあの建物は、現在まだ使われているだろうか。塩原さん、青柳さんは、一目、シベリアをもう一度見たいという気持ちを募らせるようになった。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 7日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(1)第1章シベリア強制抑留の真実を求めて

一、シベリアの中心都市ハバロフスクへ向けて

 60万人もの日本人が戦争が終った後に、シベリアへ強制連行された。そして、酷寒、飢え、重労働に耐えられず死んだ人は6万人以上に及んだ。人々の願いは「ダモイ」(故郷に帰ること)だった。せめて故郷の山を見てから死にたいと言い続けながら、その悲願もかなわず凍土に埋もれた人も多かった。生還者も現在、多くは八十歳を超える。シベリア強制抑留とは何だったのか、21世紀の現在、改めてそれを考えてみたい。そんな思いで私たちは、ハバロフスクに向うことになった。

 新潟空港の空は重い雲で覆われていた。平成167191530分、ダリアビア航空H8310便は機首を西の空に向けて飛び立った。機は間もなく日本海上空に出た。雲の切れ間から青い海面がチラッと見えてすぐに隠れた。

「日本海です」

 私がささやくと、二人の老人は目を閉じたまま、微かにうなずいたように見えた。二人の瞼の奥には半世紀以上も昔の光景が浮かんでいるに違いない。幾度も死線を越えてやっとナホトカ港にたどり着き、帰還船に乗り込んでも、まだ故国に帰れると信じることが出来なかった。停船を命じられ呼び戻されはしないかという恐怖におののいていたのだ。人々は、実際にそのような例を耳にしていた。港の光景が芥子粒のように小さくなり、やがて視界から消えたとき、やっと、帰国できるのだという実感が胸の中にじわじわと静かに広がってくるのであった。そして、その時、日本海の上にいるということが、信じられないほど嬉しかったという。

 出発を前にしたある日、81歳の塩原眞資(しんすけ)さんは、54年前を振り返ってしみじみと語った。

「ナホトカの港を去る時、私は、大地を蹴りつけて、こんな所に二度と来るものかと心の中で叫び、しがみつくようにして高砂丸に乗り込みましたよ」

 今、眞資さんの隣で黙想しているかのようにじっと動かない青柳由造さんもその点は同じであろう。

 しかし、シベリアへ一緒に行きませんかと私が誘うと、二人は矢も盾もたまらぬ様子で少年のように浮き足立った。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 6日 (金)

「決戦の火蓋は切られた」(5日)

◇熱く厳しい一日だった。朝7時半、本町の八幡宮で必勝祈願。私の場合はいつも総社神社で祈願した。どちらが大きなご利益があるかは分からない。前列には大沢夫妻と並んで、笹川堯県連会長や福田康夫元官房長官も座った。神事が終ると笹川氏が立って、「地をはい泥をすすっても」と決意を述べた。

 神事に参加した人々は移動してマーキュリーホテルに入り、出陣式に臨んだ。いろいろな人が挨拶したが注目されたのは、菅総務大臣と福田康夫さん。総務大臣は、多選がよくないことを歯切れの良い口調で分かり易く話していた。目の前には、人々のうなずく顔があちこちに見えた。

 福田康夫さんは絶叫してアジテートするタイプではない。「私は選対本部長という柄ではないのですが、引き受けたからには一生懸命やります」ときっぱり言っていた。冷静な語り口に静かな迫力が感じられた。ダルマの目入れが済むと私は人ごみを分けて飛び出して、近くの元総社農協に向った。前橋市の26の要所で出陣式を行うが、その第一番目がここJA元総社支所であった。

 農協の西には牛池川が流れ、その岸辺に昔貧しい家があった。私が多感な少年時代を過ごした家だ。その時以来、心でつながる人々がこの日も多く集まってくれた。関谷市議がいつものように汗を流して動いてくれた。公明党の水野県議もマイクを握った。大沢候補は私が演説する間、一人一人の人と握手していた。初日のスタートを飾るに恥ずかしくない盛り上がりであった。

 私の受け持ちである5会場のうち一番心配だったのは地元の芳賀である。農協が小寺支持ということもあって、また、この日は、いろいろ行事もあって、呼びかけに対する反応が悪かった。宮城地区で演説している時も次の「芳賀」が気になっていた。芳賀へ向う途中で電話すると、「大勢集まっています」と言う声。嬉しかった。農協の2Fは座りきれず後ろに立ちが多くでた。大沢候補の演説にも力が入っていた。選挙をやる者の共通の心理である。疲れていても、大勢の支援者が集まってくれるのを見るとたちまち蘇えるのだ。

◇久間防衛相が辞任し、かわりに初の女性防衛大臣が誕生した。小池百合子氏だ。あまり適任というイメージがなかった前防衛相と比べずっと良いのではないか。知人の外国人が、「サムライの上に立つ女の将軍だ」と言った。それも好感をもった言い方なのだ。自衛隊の志気も一新して上がるのではないか。そして、自衛隊に親近感を持つ女性が増えれば、それは今回の選挙に関する明るい材料にもなる。

◇「年金」で追い詰められた政府の反撃の一打。「一年内の名寄せは無理と言われたが、前倒しできることが明らかになった。」首相の発言である。選挙の命運にも関わるので国は総力を挙げて活路を作ったのだ。その懸命な姿勢は国民からある程度評価されるに違いない。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 5日 (木)

「参院選は非常に厳しい」

 本県を拠点として参院選比例区に出馬する人の選対会議に出た(4日)。マイクを握る者は、私を初め皆、危機感を訴えた。自民党に対する逆風がますます強くなっているからだ。年金やらで安倍さんの支持率が大きくダウンしているところへ、追い討ちをかけるように久間防衛大臣の「発言」があった。軽率な舌過である。

 原爆投下とポツダム宣言受諾の関係については、先日の私の「ふるさと塾」でもテーマの一つとして話した。原爆投下がなかったなら本土決戦となり日米双方に大量の死者が出たに違いない。しかし、だからといって、「原爆はしようがなかった」という日本政府首脳の発言が許される筈はない。広島、長崎あわせて20万人以上の人が殺された。女も子供も年寄りも。原爆投下は人類史上最大の残虐な行為であり、人類に対する犯罪である。

  子と母が繋ぐ手の指離れざる二つの死骸水槽より出ず

  大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり

  やうやくに起き上がりみれば燃ゆる人顔の皮ぶら下げし人手の皮ぶら下げし人

 これらは、「昭和万葉集秀歌」の中で歌われているもの。原爆がいかに残虐かをこれ以上雄弁に物語ることは不可能である。この原爆の洗礼を受けて生まれた平和憲法をもつ国の指導者として、政治家は、核を憎み、核の廃絶を世界に訴えなければならない。その政治家が、原爆投下を認めるものと受け取れるような発言をした。しかも、その重大性に気付いていない。この点に久間防衛相が世論から厳しく非難される本質がある。自民党にとっては、単なる逆風どころではない。暴風である。しかし、だからこそ、しっかりした政治家を選ばねばならない。そして、健全な活力ある地方社会を築かねばならない。参院選の選対会議では、私は、「危機であるからこそ、参議院の真の役割を果たすにふさわしい人物を選ばなければなりません」と訴えた。

 知事選がいよいよ始まる。5日の夜が明けていく。早朝7時30分、前橋市内の八幡様で祈願祭、続いて8時30分、マーキュリーホテルで全体の出陣式が行なわれる。22日迄の長い苦しい戦いが始まるのだ。第一日、候補者は終日前橋にあって、26ヶ所の各地の出陣式を回る。スタートは、私が受け持ちであるJA元総社農協、9時20分である。候補者は、10分間とどまって次の会場へ飛ぶ。私が責任をもつ場所は、元総社の他、若宮地区、芳賀地区、宮城地区、大胡地区の計5ヶ所である。

◇昨夜は、前橋地区の県議が集まって、いよいよ始まる決戦に備えて秘策を練った。前橋は、まだまだ劣勢に立たされているとの認識は共通している。しかし、現職を相手に戦うとき、挑戦者はゼロからのスタートなのだから今の劣勢は当然のことだ。実は、魔法のような秘策などある筈がない。考え抜いて、苦しみながらみつけた戦略を勇気と忍耐で貫く以外にない。孫子の兵法も苦しい経験の中から見つけた人間の知恵である。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 4日 (水)

「現職優勢の知事選の行方、組員の死刑求刑」

◇AM7時半より第一選挙区から第5選挙区迄の全県議の選対会議があった。各区の状況報告がなされ、また、今後の取り組み等が議論された。告示を目前にして全員の表情には緊張感があった。各区にはそれぞれの特色がある。例えば参院選に関係する国会議員がいるとかいないとか、あるいは公明党の県議の有無などの事情だ。それぞれの県議が真剣に取り組んでいることが分かった。各県議が三千軒の家々を訪問することは、山間地域の議員にとっては、大変なことだ。前橋などと違って隣の家にいくのに一山越えねばならぬといった事情もあるらしい。「とにかく会えれば票につながる」との声があった。直接会うことは、選挙の鉄則である。大切な民主主義も人情によって成り立つ部分が大きいのだ。新聞が数字をあげて優劣を分析しているが、これなどはあまり当てにならない。ただ、マスコミが書くことが人々の「人情」の部分に影響を与えることは否定できない。いわゆるアナウンス効果というやつだ。そういう意味でマスコミの責任は大きい。いい加減な報道はして欲しくないものだ。

◇三俣事件の実行犯に又もや死刑求刑

 この6月県議会で私が中心となって、県営住宅から暴力団を排除する条例を成立させたが、私を衝き動かした一つの動機は、平成15年1月25日に三俣町で起きた暴力団の抗争事件、つまり、三俣事件である。スナック前で見張り役をしていた一人の組員とスナックの客である民間人三人が射殺され、襲撃の的である元組長ら二人は重傷を負った事件である。襲撃した犯人は複数いて、そのうちの一人(住吉会系暴力団員・小日向被告)は、すでに、地裁・高裁で死刑判決を受け現在上告中である。

 2日の前橋地裁の公判で、もう一人の実行犯(住吉会系暴力団員・山田被告)に対し検察側は死刑を求刑した。検察は「一般客ら四人の生命を奪った結果は重大で、未来永劫許されない凶悪無比のもの。極刑以外にない」と論告した。極刑とは、死刑のことである。

 弁護側は、民間人三人の殺害は、「山田被告ではなく小日向被告が単独で実行した」と主張した。この点が認められるか否かは死刑の当否にかかわることであるが、検察は、「元組長を殺すためには一般人を殺してもやむを得ないという共謀のもとに行なった」と反論。共謀して一体となって実行した場合は、共謀共同正犯といって、全体の結果につき共謀者は責任を負うのである。だから、仮に三人を射ったのは、小日向被告であったとしても、その結果に対しては山田被告も責任を負うことになる。検察側は、また、山田被告の行為につき「法治国家に露骨に挑戦したもの」と指摘した。日本は世界に誇るべき法治国なのだ。それを暴力団の銃口から守らねばならない。弁護側の最終弁論は10月15日、判決はその後である。これは、第一審のことであるから、通常の流れではこのあと第二審、そして第三審の最高裁まで続く。かつてある県議が「犯罪人には人権はない」と言ったが、罪を犯したとされる人にも人権は当然に認められる。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 3日 (火)

「政治的暴風の中の選挙は読めない」

◇暴風は先ず国会内で起こり風の勢いは日本全国を巻き込んでいる。最大の原因は年金問題である。国民の年金の払い込み金等を管理する社保庁のずさんさは正に言語道断。呆れるばかりだ。コツコツと働いて年金を払い込んだ人々の努りは当然である。

 国民全体を巻き込んだこれだけの大問題、しかも、一人一人の金銭に関わる問題に対して、国民がその怒りを直接行動に訴えないことは不思議だという人がいる。日本が進んだ法治国家であることの証拠であろう。

 国民は暴動に訴える代わりに、その怒りを選挙にぶつけることは必至だ。私が関わる参院選立候補予定者は皆強い危機感を募らせている。ある参院議員は「爆風」と言う表現を使っていた。

 我が自民党にとって今日の状況は危機である。参院選は大敗も予想される。地方選も影響は免れない。知事選の告示が目前に迫った。直接の影響を受ける参院選と同日選でなくなったことはせめてもの救いだと思う。

 5日の告示は、マーキュリーホテルにおける出陣式に続けて、前橋市内26ヶ所で出陣式を行う。そのスタートは、私が責任者をつとめるJA元総社支所で行われる。集まる人々に危機を訴えて戦いの火蓋を切りたい。

◇深夜放送で党首討論を見た。民主党にとって絶好のチャンスと思える割には、小沢一郎のイメージはいま一つ冴えない。むしろ安倍首相は窮地に立たされながら開き直って堂々と渡り合っているように見えた。年金の問題については、「私の内閣でしっかりと全てを解決する」と言い、農業では、小沢代表が、「休耕地を生かせば自給率は100%になる」と主張したのに対して「民主党の食料自給率100%を達成するには今の耕地面積の3.5倍が必要だ。民主党の考えは現実的でない」と切り返していた。安倍首相は、最後に、民主党の政策のあいまいさと無責任ぶりをあげて、「責任政党とは何か、それはできることしか言ってはならないということです」と言っていた。

 この最後の言葉は考えるべき問題点を含む。政治は、国民を欺いてはならない、約束は守り責任をとらねばならないということだ。しかし、一方で、政治家は将来の目標と夢も語らねばならない。大切なことは、この両者を混同してはならないということである。

◇ミートホープの「偽装」の問題が社会に衝撃を与えている。「食の安全」がBSEを中心にしてあれほど騒がれたのに業界の実態は変わっていなかったのか。ミートホープ社のことは氷山の一角という見方もある。何を食わされているかと思うとぞっとする。このような状況を見ると、内部告発の保護は、社会正義を守るために、やはり必要なのだなと思う。公益通報者保護法とその運用については先日の「日記」で書いた。

食の問題は、国内の規制を強くしても解決しない。最近、中国の酷い状況が連日のように伝えられる。利益を求めて競争する社会に急に仲間入りした中国は戸惑っている。そして、孔子の国の国民は徳の心を失っているように見える。

☆土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 2日 (月)

「知事選は秒読み、巨大な壁は崩せるか」

 他人の選挙でこれほど真剣になったのは初めてである。1日、午前7時半より、大沢事務所で選対会議。午前8時半より午後2時半までS市議と元総社地区を回った。私の選挙の時もこのように一軒一軒多くの人が回ってくれたのだということを肌で感じた。地域を歩けば、有権者の考えが伝わってくる。「長すぎる」と多くの人が言う。「副知事の時と同じように意地を張っているのですか」と言う声があった。またある人は言った。「4期以上は法律で禁止しようという動きがある時に5期を目指すのは、自分でなければやれないという使命感がおありなんでしょうけど、それは、裏返せば、他の人を信頼しない、また、他に人材はいないという不遜な態度に映るんですよ」と。この人は、県のOBだという。私の「日記」にもいろいろな反応がある。「日記」を書くにも覚悟がいると思う毎日である。

◇「ウジが足の壊死を治すという記事を読む」

 今年3月私の知人は壊死がもとで若くして死んだ。糖尿病が進み両足を切断し車イスの生活であった。「ウジ」の記事を読み直ぐに彼のことを思った。それにしても、あの死肉を食いあさる忌まわしい生き物にも存在意義があるのかと驚いた。

 壊死とはからだの一部の組織が死ぬことである。その部分をウジが食べることによって組織が回復することは古来経験的に知られていたらしい。戦場で傷にウジがわいた兵士のほうが早く治ることはかなり知られていた事実なのだ。近代医学が進んだ今日、このウジを使った治療法が最後の切り札として注目されているという。

 日本医科大では、足の切断以外に治療法のない21人に、ウジを使った治療を行い18人が、また、岡山大病院では66人のうち約7割がそれぞれ、足の切断をまぬかれたという。ウジが特殊な分泌液を出し腐った組織だけを溶かして吸収するらしい。ウジを包帯で巻いて中にとじこめ壊死部分をきれいに取り除かせ、ウジは2~3日ごとに取りかえ、2週間位で治療は済む。ある患者は、「包帯を取ると、うそのように赤黒い腫れがひき治療中の痛みもなかった」と言っている。

 足の切断を宣言されたとしたら絶望感に耐えられないだろう。その時、ウジによって切断をまぬかれると知ったら、この気持ちの悪い小動物が神の使いのようにありがたく思えるだろう。地上の全ての生き物には、存在の意義があるのだと改めて思った。

 両足を切断して死んだ私の知人がこの治療法を知っていたらと思う。昔の人は、「地獄の沙汰も金しだい」といった。確かに、金の力は大きいが、まず情報だ。「地獄の沙汰も情報しだい」ということを私たちは心に刻むべきだ。私たちは、今、正に洪水のように流れる情報の中で生きている。その中で自分に必要な情報は何か、それをいかにつかむかを絶えず意識する必要がある。

☆「上州の山河と共に」が終わり、土・日・祝日は、「望郷の叫び」を連載します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 1日 (日)

『上州の山河と共に』連載(90)「遂に当選」

 落選の時は、数日間は、時が経つほど悲しみが深まるように感じられたが、当選を果たした喜びは、これとは逆に日毎に高まっていった。各地の後援会や支援団体も、それぞれ会合を開き、勝利の喜びを噛み締めていた。

 このようなムードが落ちついてしばらくした頃、福島浩は体調の変化を訴え始めていた。そして、闘病生活の後、次の選挙を目前にして世を去ったことは前に書いた通りである。

 彼の死後、世の中は、政治、経済をはじめ初めとしてあらゆるものが一層激しく動き、この動きの中で県政の役割も大きくなっている。そして私も大きく期するところがあるが、それにつけても、彼が生きていたらと改めて思うのである。

 福島浩君の死後、私が特にお世話になっている人が、彼の長兄、福島秋次氏である。福島秋次氏は飾気のない誠実な人柄であり、また、人情味豊かな人である。しかし、また同時にクールな判断力、洞察力に勝れ、時には大胆な決断力も示す男性的な人物である。福島浩の兄ということから、昔から親しくし尊敬してきた人物であるが、福島浩亡き後は、私が何かと相談する時、常に温かく接してくれ、適切な助言をしてくれるのである。

 福島秋次氏のように私を温かく支えてくれる多くの方々に対する恩返しは、県議会議員として立派な仕事をすること以外にないのである。私は、このことを常に念頭において、立派な県会議員になるために、今後、精進を続けてゆこうと思うのである。

「上州の山河と共に」は、今回で終了とします。次の連載は、「望郷の叫び」です。終戦直後、旧満州にいた日本人約60万人がソ連へ強制連行されました。酷寒、飢え、強制労働に耐えられず、亡くなった人は6万人を超えます。私の話は、かつてシベリア抑留の体験をした二人の老人と共に、シベリアの収容所跡地を訪ねるところから始まります。ある収容所の跡地には、おい茂る草の中に、「友よ安らかに眠れ」と書かれた墓標が立っていました。同行した老人は、俺だけ先に帰って悪かったと声を上げて泣きました。

 上毛新聞社から出された本著は、ダイジェスト版とともに多くの人に読まれました。シベリア強制抑留とは何だったのか、そこで赤裸々となる日本人の本質は何か、いわゆる「民主運動」とは幻だったのか、等、本体にはダイジェスト版にはない論点が語られています。土・日・祝日の連載となりますが、ブログを通して多くの人に読んでいただきたいと思います。今年も「8月」が近づきますが、終戦記念日の行事を単なるセレモニーにしないためにも、本著を味わって下されば幸いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »