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2007年5月31日 (木)

「裁判員になるのは嫌だと多くの人はいう」

再来年(平成21年)5月迄に裁判員制度が始まる。くじで選ばれた市民が裁判に参加するのだ。アメリカ映画では、陪審員が「ギルティ(有罪)」とか「ノンギルティ(無罪)」とか発言するシーンがよく見られる。アメリカの陪審制では、陪審員は、裁判官と独立して有罪か無罪かを決るが刑を決めることはしない。

 日本の裁判員制度では、くじで選ばれる6人の裁判員が3人の裁判官と共に重要な刑事裁判において、有罪か無罪かを判断し刑も決める。

裁判員制度の目的は、裁判を国民に分かりやすく身近なものにすることである。これ迄の裁判は、時間がかかり、市民感覚からかけ離れた論理が目立つといわれた。

「法律の知識や裁判について全く知らない素人(しろうと)が裁判に参加するなんて、目的が理解できないし、制度の事が良く分からない」私のまわりには、こう言っている人が多い。そして多くの人がくじで当ることを心配している。そこで、以下主な点を整理してみる。

①法律の知識や裁判の手続きについては、裁判官が丁寧に説明をし、議論をわかりやすく整理しながら全員で十分に話しあって評議を進める。検察官や弁護士もわかりやすい裁判になるよう工夫し努力することになる。このような状況で、裁判員には、健全な常識、公平な態度、社会の一員としての責任感が求められる。だから、私は、この制度が次第に定着すれば国民に身近かなわかりやすいそして信頼される裁判が実現すると思う。 

②これまでの裁判は1年以上かかるものが多かった。これでは裁判員は困る。裁判員制度では数日間の集中審理で終わる裁判を目指す。一日の審理時間も5~6時間程度になる。

③日当等について。裁判員には、日当、交通費、宿泊費も支払われる。

④仕事が忙しいとかの理由では、原則として辞退できない。裁判を支えることは国民の義務であるからだ。しかし、70歳以上の高齢者、重い病気の人などやむを得ない事情がある場合に限って事態は認められる。

うちの事務員が認知症の人はとたずねたが、これなどはやむをえぬ事情に当たるだろう。認知症と認定はされないがそれに近い人などはどうなるだろうか、実際問題になるに違いない。裁判員には守秘義務が課せられる。評議の中で誰がどう発言したとか事件関係者のプライバシーに関する事などである。守秘義務は、いわゆる「お礼参り」から裁判員の安全を守るためにも必要だ。

 裁判員になったことで恨まれたり脅されたりしたら大変だ。そこで裁判員の氏名や住所等は公表されない。テレビや新聞で法廷の顔写真が報道されないように配慮がなされる予定。また、事件に関して、裁判員に何か頼んだり、裁判員やその親族を脅したりした者は厳しく罰せられる。

◇日本はかつて、昭和3年から15年間陪審制が行われた。形を変えて登場した裁判員制度である。成熟社会の国民の質がこの制度を支える。国民は必然的に勉強することになり、そのことによって、社会が更に進歩することになるだろう。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

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2007年5月30日 (水)

「身も凍る少年事件と少年法改正」

 最近、考えさせられる二つの事件があった。一つは進学校の高校生が母親の首を切断した事件、もう一つは、18歳の少女を4人の少年少女が悲惨な暴行を加え挙げ句の果て少女の小指を切断したというリンチ事件である。

 母親の首切断事件は、すぐに10年前の神戸の首切断事件を連想させる。酒鬼薔薇(さかきばら)聖斗と名乗った中学3年生が小学生の首を切って学校の正門前に置いた事件である。この事件は、当時社会を恐怖に陥れた。20043月、21歳となった男性は、医療少年院を仮退院した。少年の心の闇は解明できたのか、矯正教育の効果があがって本当に社会に復帰出来るのか気になるところである。

 母親の首を切断した少年、そして、少女に対してリンチを行った鬼畜のような4人の少年少女がどのように罰せられ、あるいは、少年法上どのように処遇されるのかこれから目を離せない。

◇少年の事件が起きるたびに少年法のあり方が問われてきた。少年たちを、なぜもっと厳しく処罰できないのかと世論は苛立った。世の非行少年は、少年に寛大な制度をいいことに行動をエスカレートさせているのではないかという声も多かった。

◇少年法が改正された。改正案が国会に出された一つのきっかけは03年に起きた長崎幼児殺害事件である。中学1年生の少年は、4歳の幼稚園児をいたずら目的で立体駐車場につれ出し体をハサミで傷つけ突き落として殺した。14歳未満の少年は刑事責任を問えないため家裁は、少年を児童自立支援施設に送致する保護処分の決定をしたのである。

 これまでの少年法では、14歳未満の少年は、児童自立支援施設に入れられるか保護観察処分を受けることになっていた。しかし、14歳未満であっても、凶悪事件では少年院での矯正教育が必要ではという意見が強かった。改正少年法では、家庭裁判所が特に必要と認めた場合、おおむね12歳以上なら少年院に送ることも可能になった。「おおむね」の幅は1年程度だとされる。だから、これからは小学5年生でも少年院に送られる可能性があるのである。

また、14歳未満の少年に対し、警察が調査する権限も条文に明記された。これには、少年の人権が侵されるという批判があった。そこで、殺人など重大事件で拘束されている少年は公費で弁護士をつけられることに制度が拡大された。また、保護観察中の少年が守るべき事項を繰り返し違反するなどした場合には少年院に送る処分も可能になった。

 頻繁に起こる異常な少年事件は、病める社会の反映であるが、事実をきちんと調査して、少年と厳しく向き合うことは必要だ。そのために、警察に強制的な調査権がはっきり認められたことは前進だと思う。

◇様々な刑事事件が続く。この刑事事件の裁判に全くの素人が参加する裁判員制度の開始が近づいてきた。095月までにスタートする。自分が当ったらどうしようと心配する人は多い。各地の裁判所で模擬裁判が行なわれている。前橋地裁でも行なわれ、一般の人が参加できるようだ。裁判員は、人の一生を左右する有罪無罪の判断や刑の決定にもかかわることになる。日頃から、刑事事件について関心を高め、裁判員制度について勉強しておく必要がある。

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2007年5月29日 (火)

「バルチック艦隊に勝利した意味」

◇先日の「日記」で、大沢正明氏が、「バルチック艦隊を破った日」と、演説の中で決意を述べたことを書いた。大沢氏の後援会組織・「輝け38新しい知事をつくる会」がスタートした日なのでこれを日本海軍にたとえ現職知事の艦隊を破るぞという思いを重ねたのであろう。

 東郷平八郎率いる日本艦隊がバルチック艦隊に勝利した日本海海戦は、1905年(明治38年)5月27日のことであり、戦前は、この日が海軍記念日であった。

◇いま、アジアにおける日本の役割ということが言われているが、改めて、日本海海戦に象徴される日ロ戦争を考えてしまう。ヨーロッパの侵略に苦しむアジア諸国の人々にとって日本が強国ロシアを破った衝撃は測り知れないものであった。

 インドの政治家ネルーは、獄中で娘(後のインディラ・ガンジー首相)に書いた「父が子に語る世界歴史」の中で、次のように述べている。「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国々に大きな影響を与えた。私は少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したものだ。たくさんのアジアの少年、少女、そして大人がおなじ感激を経験した。ヨーロッパの一大強国は破れた。だとすれば、アジアはヨーロッパを打ち破ることが出来る筈だと考えた」と。

 しかし翌日の手紙は、その後の日本を次のように激しく非難する。「日本のロシアに対する勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたということにすぎなかった」と。

 日本が真にアジアを解放する役割を貫いたならどんなに素晴らしかったことかと想像する。第二次世界大戦でも、日本は、アジアをヨーロッパ列強から救うことを揚げていた。百年の歴史の中で日本がアジアに与えた不信は、根強いものがあることを知る。それを反省する証が日本国憲法だと思う。今、日本の豊かさと技術でアジアに貢献することが求められている。憲法改正が論じられているが、「平和」と「国際協調」は重要な柱である。

◇国防会議廏衛会に出る。おどろおどろしい名称だが、自衛隊を支え、国防思想を育むことを目的とする経済人の集まりで、わが友、町田錦一郎氏が中心となって長く続けている。多くの正服組も参加し、イラク・サマワの活動の様子も紹介された。

 私は、別の会議に出る時間が迫っているので懇親会の冒頭で次のような挨拶をして飛び出した。

「国際関係が緊張する中で国を守ることの大切さが増しています。自衛隊の役割も大きくなっています。民主憲法の下で自衛隊が真の役割を発揮するためには民間の理解と支持が何よりも必要です。その意味で、この会の役割は大きいと思います」

 旅団長は、集団的自衛権のことも語っていた。今の自衛隊には昔の軍隊のような息苦しさはない。憲法9条との関係で自衛隊を深く考えるときであると思う。

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2007年5月28日 (月)

「遊説車に乗る」(26日)

◇それは、「輝け38・新しい知事を作る会」という政策集団の広報車である。ウグイス嬢も二人乗ってマイクを握る。彼女たちは叫ぶ。「皆さん、新しい知事をつくりましょう」「私達は大沢正明前議長を推薦しています」「大沢正明は、皆さんと共に、明日の素晴らしい群馬をつくります」などと。広報車は、自民党が新しく購入したもの。音響の具合も良く、女性たちの澄んだ声がのどかな新緑の上を遠くまで響いて流れる。飛び出して手を振る人もいるが全体の反応はいまいちだ。私は、4月の県議選に戻ったような複雑な気持ちになった。

 「輝け38」とは何ですかときかれた。38は、群馬県の市町村の数である。70あったのが合併によってこれだけになった。私はウグイスに注文をつけた。「38では分からないから、輝け38の市町村という表現にしたほうがいい」と。そこで、「38の市町村が輝けば群馬はもっとはばたけます」「そのために大沢正明を推薦します」などと訴えてまわった。

◇輝け38・新しい知事を作る会の発会式は盛会だった。(27日)

 集会は、マーキュリーホテルで行われた。38の市町村を代表する人々が集まって、ホテルの大広間はいっぱいだった。国会議員で本人が出席したのは、県連会長の笹川尭氏を初めとして、谷津義男、福田康夫、佐田玄一郎、小渕優子、山本一太の各氏。小渕優子さんが、二人分で頑張りますと話すと、会場が湧いた。長身のお腹がいく分ふっくらとしてきた感じであった。大沢さんは、決意表明の中で、「今日は、日露戦争で東郷平八郎がバルチック艦隊を破った日です」と強調していた。彼は、海上自衛隊の幹部候補生であった。こんな催しが各地で行われる中で、雰囲気が盛り上がっていくと思う。6月2日には群馬建設会館で千人集会が開かれる。

◇再開第1回のふるさと塾は盛況だった。(26日)前橋市の総合福祉会館に60人以上の人が参加した。「憲法の話」という固い話なのによく集まって熱心に聞いてくれたと思う。ポツダム宣言、天皇の聖断を仰ぐ御前会議、玉音放送を聞く国民、マッカーサーと並んで立った天皇、日本国憲法公布の祝賀、焼け跡から立ち上がる人々等、40枚以上の映像を紹介しながら、日本国憲法が、混乱と廃墟の中で希望の光として成立したことを説明。塾生は懐かしい写真や珍しい光景に興味を示していた。

 私は自分の考えもいくつかはっきり述べた。例えば、「マッカーサーに押しつけられたものであっても、日本にとってよい憲法なら良いではないですか。この憲法の本質は、進歩する世界で増々光を放っています」等。

 会場からは9条の改正について歯止めがきかなくなるのではなどいろいろな意見が出た。

 憲法で軍隊を持たない中米のコスタリカの若者が日本を拠点にして憲法9条を世界に広める活動をしていることも話題にした。若者は、「世界平和を願って出来た立派な9条を変えようとするのは愚かなこと」と語っているという。

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2007年5月27日 (日)

『上州の山河と共に』連載(81)「いよいよ決戦」

選挙戦も終盤に近づく頃になると、序盤、中盤と比べ、情勢の変化がはっきりと感じられるようになってきた。選挙カーに対して手を振る人の数が目立って増えてきたし、その人たちの表情も真剣そうに見える。行き交う車からクラクションを鳴らし、あるいは、ライトをチカチカと点滅させてサインを送る人も増えてきた。町の人達のこのような反応は、私達に疲れを忘れさせ、当選に一歩一歩近づいていることを感じさせる。

ウグイス嬢のかすれた声に悲壮感がこめられ、それに刺激されるように、私の声も大きくなる。普段とそれ程変わらぬ筈の町の空気が、私達にはピリピリと緊迫したものに感じられる。当選も夢ではないという思いで、私達は夕闇迫る前橋市内を少しでも多くの町内をと、走り回った。

投票まであと三日という時点で、上毛新聞は、“前・新の三人急迫”という大きな見出しの下で、前橋市区の選挙情勢を分析している。“前”とは、共産党からカムバックを図る中島光一氏と、衆議院選に立候補して落選し、やはり再起を図る菅野義章氏である。そして、“新”とは、私、中村のりおを指していた。

同紙によると、私については、次のように書いてある。

「保守系新人の中村紀雄氏も、全市的に後援会組織を結成、地元芳賀地区から他陣営に激しく攻撃をかけており、“台風の目”的な存在。この為、現職の一人が食われる可能性も出てきた」

我が陣営は、誰もが無我夢中で頑張っていたので、自分達はどの辺を走っているのか、ゴールまでどの位あるのか、初めは全く検討がつかなかった訳であるが、このような新聞の記事は、ゴールが目前にあることを示すものとして、我が陣営の全ての者にとって大きな励ましであった。

投票日まであと二日と迫った日に、総決起大会が開かれた。この大会が、どの位盛り上がるかが、当落を予想する一つのバロメーターとされていたので、このような前橋の最北の地に、多くの支援者が果たして集まってくれるかと、私は心配であった。

その日は、空は晴れて、やや強い赤城颪が選挙事務所を囲むトタン塀をガタガタと鳴らしていた。そして、私は朝から緊張し、“皇国の興廃は、この一戦にあり、天気晴朗なれど波高し”というあの日本海海戦の折の文句を思い浮かべていた。

資材置場を片付けてつくられた広場の一角に大型のトラックが置かれ、その荷台には紅白の幕が張られて大会の舞台が作られた。

午後二時、開会の時が近づくと続々と支援者が集まり、ついに、広場がほぼいっぱいになる程になった。舞台の上からは、はるか彼方の前橋市街の家々が折からの太陽に反射してチカチカと光って見える。あんな所から多くの人が駆けつけてくれたと思うと、万感胸に迫るものがあった。

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2007年5月26日 (土)

『上州の山河と共に』連載(80)「いよいよ決戦」

彼女の胸には、ハガキの宛名書きをしたことや、足に豆を作ってあちこちと歩き回った日々のことが去来しているに違いない。彼女の、このたくまざる振る舞いは、プロの政治家の弁士よりも聴衆を動かす力を持っているように思われた。その証拠には、彼女の前に座っていたおじさんやおばさん達が、目を押さえたり、鼻をすすったりし始めたからである。

 笠原久子さんは、ここで、私の妻のことを持ち出す。中村さんの奥さんのヒサ子さんは、野口英世と同じように、三歳の時、お母さんがちょっと目を離した隙に囲炉裏に落ちて、手に火傷をしてしまった、だから、今でも、毎日、左手は包帯をしている、小さい時からこのようなハンディを乗り越えて勉強もよくやり、明るく、真っ直ぐに生きて来た。中村は心の広い人で、ヒサ子さんの火傷のこともよく理解してやっている、ヒサ子さんは、今、自分の生き方とも通じる新しい理想を見つけたと考えて御主人の選挙を手伝っている、といった具合に、話を進める。

 このような話は、聞く者にとって、難しい政治の理屈よりも面白いのだろう、聴衆の反応もいいので、笠原さんの話にも熱が入る。

 私達夫婦のことを最も良く理解し、それを少しでも良く伝えようとする笠原久子さんの熱弁には、本当に頭が下がる思いであった。しかし、また、私は、この演説を冷や汗を流す思いで身を固くして聞いていた。

 笠原久子さんの弁舌の冴えと効果は、あれから数年の月日が経った今でも、あちこちで語り草になっている。

 一日一日が矢のように過ぎていった。そして、各陣営も日毎に盛り上がりを見せ、選挙戦は過熱してゆくようであった。初めは、いくつもの団体が混沌としていて、力を合わせた有効な作戦が実行出来るのか危ぶまれていた我が陣営であるが、中盤を過ぎる頃から、それぞれの団体がその役割を認識して、秩序立った動きが出来るようになってきた。

 激しい選挙戦の中で、いろいろな噂や情報が私の耳に飛び込む。ある陣営は、一歩抜け出したそうだが、別のある陣営は全く盛り上がっていないという噂、我が陣営の若者が貼ったポスターが、一夜のうちに対立する他陣営によって剥がされた話、あるいは、暗い中でビラ配りの運動をしていたら、怪しげな連中が同じようなことをやっている、また妨害しに来たかと詰め寄ってみたら、同じ陣営の仲間であったなどという話、このようないろいろな話が飛び込む度に、もし当選できなかった時は、この人達に対してどのように責任をとったら良いのかということが頭を掠めるのであった。

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2007年5月25日 (金)

「臨時議会終る」

◇議員総会が終ると本会議が始まる。議員総会の最中は、記者たちは外に出されるが、中にはピタリと入り口のドアに耳を付けて中の話しを聞いている人もいる。そこまでするなと注文はつけられないからルール違反ではないのだ。中の私達も心得たもので、外へ聞こえてまずいことは、マイクなしで話す。先日、総会が終ると間髪を入れず、暴力団除外条例の件で私を取材した記者たちは、外に聞こえたと言っていたが、ドアピタリの人たちに違いない。今日は、幹事長が知事選対策で熱の入った発言をマイクを使ってしていたが、これなどは外に聞こえてもよいことなのだ。

◇本会議では、正副議長と各委員会の委員長・副委員長が決められた。第81代議長は中沢丈一さんである。本会議が昼ごろ終ると、直ちに群馬会館ホールで正副議長の就任祝いが行われた。中沢議長、小寺知事、田島雄一さん、私などが一つのテーブルに着いた。呉越同舟とも思わないが、記者たちは興味ありげにレンズを向けていた。

◇午後1時半、JAで農協の総代会が開かれた。前橋の県会議員は、私、金子泰造、狩野浩志、岩上憲司の各氏が出席し私が代表して挨拶した。JAの建物は、入り口から廊下まで小寺知事のポスターが貼ってある。自民党の県議は敵の陣営に乗り込んだような気分になる。うまい具合に知事選に向けた私たちの決意を話そうと、私は祝辞の順番を待った。

「農は国の大本といわれますが、今、まさにこのことの大切さを痛感します。経済は明るくなってきましたが、真に豊かな社会を築くためには、日本の農業を再生させなければなりません。農は、生命、健康を支えるばかりでなく、地域社会を支え、日本人の文化や心を支える基盤であります。農業の再生には、政治や行政が大切な役割を果たさなければなりません。間もなく知事選がありますが、これは、農業に活路を見い出すための絶好のチャンスだと思います。なぜなら、群馬の農業のための政策を有権者に示し、それを選んでもらうことが、群馬の農業のために力を結集することになるからです。私たちは、必死でその政策をつくりました。それを皆さんに提示し、人心一新、新しいリーダーの下で、群馬の農業に新天地を開くために、私たちは、命がけで頑張る決意であります。この通常総会が、農業再生のための大切な一歩となることをお祈りします」、大要このようなことを、私は気合を入れて一気に話した。

 数多くの団体が小寺推薦を決めている。その理由を聞くと、大概、「予算をつけてもらったから」と答える。小寺さん個人から予算をもらったように錯覚している人が多いことに驚かされる。県民の税金が、県議会で議決承認されて配分されていくことの意味を正しく理解すべきではないか。今回の知事選は県民が民主主義について学ぶ機会であり、県民の良識が問われる場でもある。

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2007年5月24日 (木)

「憲法の問題で意見が寄せられた」

    私の日記を読んだ人がよく意見を寄せてくれる。「日記」が一つのコミュニケーションの広場を作ってくれていると感じられて嬉しい。

 最近、憲法に関する私の日記を読んだ人から、「アメリカに押しつけられた憲法だから改正した方がよい」という考えをどう思うかという意見が寄せられた。憲法改正について、人々の関心が高くなっているということを感じる。私の考えを書く前に最近の世論調査に注目したい。

 ある新聞社の最近の世論調査がある。それによれば、憲法改正が必要だと思う人は58%だが、その理由として、84%の人が「新しい権利や制度をもり込む」を挙げた。また、戦争放棄を定める憲法9条については、変えない方がよいと思う人は49パーセントで、変えた方がよいと思う人は33%であった。

 この世論調査からも、アメリカから押しつけられたから改正すべきという考えは、世論として小さいことがうかがえる。

     私の考えを述べる。日本国憲法が占領下においてアメリカの強い圧力によって作られたことは事実である。いわば、与えられた憲法であった。だから、独立後自主憲法を作ろうという動きが起きたのも自然なことではないかと思う。

    一番重要なことは、たとえ与えられたものであっても、その中味が日本のために良いものかどうかである。日本国憲法は、素晴らしいものである。それは、前文にもある通り「人類普遍の原理」に基いたものだからである。

   憲法制定時は、新憲法が余りに理想的であるため日本人は面喰ったと思う。しかし、制定後60年が経って日本国憲法の理念は現実的な光を放ち世界に誇るべき重みを持つに至ったと思う。だから、アメリカから与えられたものだから変えろという理由は成り立たない。

  ただ、理想の憲法であっても、誕生後60年も経てば、個々の点では、改めたり加えたりする必要が生まれるのは当然である。その中で憲法9条は、最も議論される点だ。世論調査の結果は、日本国憲法が基本的に国民に受け入れられていることを示していると思う。

    暴力団の動きは誠に深刻だ。長崎市長銃撃、町田市の都営住宅に立てこもって警察官を銃撃した事件など、暴力団の銃撃事件が跡を絶たない。群馬県でも三俣町のスナックで暴力団の銃による抗争があり、一般市民もまきこまれて殺された事件がまだ記憶に新しい。

   暴力団は、大量の銃を組織的に調達し管理しており、一人一丁とか一人三丁とか言われている。アメリカの大学で銃による犠牲者が多く出た。これも他人事ではない。日本をアメリカのような銃がはびこる社会にしてはならない。

  暴力団対策法が出来て15年になるが、暴力団の力は衰えていない。美しい群馬を築くためには、私たちが暴力団に毅然として向き合わねばならない。行政はその先頭に立つべきだ。県有公共施設から暴力団を排除することは、そのための大切な一歩である。

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2007年5月23日 (水)

「臨時会議は始まる」

◇午前7時30分より群馬会館食堂で自民党議員団の朝食会が行われた。議題は、知事選対策その他である。かつて、同志会と県政塾が存在していた頃は、議会が始まる日は必ず同志会の朝食会がここで行われた。会を仕切っていた松沢さんの姿もいまはない。納豆をかきまぜながらふと以前の事を懐かしく思い出した。会の雰囲気は知事選に向けて緊張の度を高めているように感じられた。

9時過ぎ議員総会が開かれた。本会議の日程などが説明される。最後に私が発言を求めマイクをにぎった。暴力団を県有施設から排除する条例の準備を進めているので理解と協力を求めるというもの。

 本会議が終った後、新聞社が数社私の所へ取材に来た。暴力のまち広島へ暴力団対策について視察に行ったとき、広島県警があらゆる公約制度から暴力団を排除しようとしている姿を見て私は、感銘をうけた。群馬も条例をつくって暴力団を排除しなければと、その時決意したのである。

 県営住宅だけでなく、県民会館などの県有の公共施設についても考えている。6月議会で実現することは時間的に厳しいという意見もあるが、こういうことは思いきってやらないと、タイミングを逃してしまう。各地で暴力団の事件が起きている。条例を作って、県の施設から暴力団を排除することは、県議会が暴力団と決然として向き合うという姿勢を示すことでもある。

◇「中心になって暴力団排除のために動いて、暴力団におそわれてはこまります」と妻が心配した。私はあまり考えていなかったことなので笑ってうなずいた。それを見て妻も安心したようだ。県議会が政策条例を自ら提案することは、これまでほとんどなかったようだ。これからは、県会議員が勉強して、積極的に条例をつくるべきだ。これは、私がこれまで主張してきた、「県議会が本来の役割を果たす」ことに通ずる。

◇本会議では、正副議長を選任した。議長に選ばれた中沢丈一さんは、私が議長の時の副議長である。今回、36票で当選した。自民が33票なので、3票は、他の会派の票である。私は、79代で、中沢さんは、81代、この中間の80代が知事選に出る大沢正明さんである。

臨時議会初日は多少荒れ模様であった。それは監査委員の選任をめぐり、知事と自民党が対立したからである。自民は、金田克次氏と金子一郎氏を推したが、知事は、金子一郎氏を認めず、フォーラムの塚越紀一氏を提案した。

地方自治法は、知事が議会の同意を得て4人の監査委員を選任すると定める。そして、そのうち2人は議員からとなっている。採決の結果、金田克次氏は全員一致で承認されたが塚越紀一氏は否決された。監査委員の役割は、県政に対するチェック機能を果たすことであり極めて重要である。その席が空席となった。今後の課題である。

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2007年5月22日 (火)

「知事の多選禁止、教育3法等騒がしくなってきた。」

◇首長の多選を法的に制限することは許されるのか、そもそも、なぜこのことが問題になるのか良く分からないという声が聞かれる。これは、知事選の争点の一つとなることで重要なことである。感情論でなく問題の本質を知っておく必要がある。総務省がこの程、「合憲」の見解を示したことから話題になっている。

 地方自治体の首長につき、3選以上を法律で制限することは、憲法違反でないというもの。従来、首長の多選を制限することは憲法に違反するという考えがあった。憲法のどの部分かといえば、憲法14条(法の下の平等)及び、同22条(職業選択の自由)である。

 憲法の目的は人の権利や自由を保障するために権力を制限することだ、だから強大な首長の権限が多選によりますます大きくなるのを制限することは憲法違反ではない、これが、総務省の判断の基礎にある思想である。総務省は、この考えに立って、具体的には、3選以上を法的に制限することは憲法上許されるという見解を打ち出す。ちなみに、アメリカは、大統領は憲法によって2期が限度と定められている。

 総務省のこの見解は、今後、全国の地方自治体に大きな影響を及ぼすだろう。総務省は、これまで、多選「禁止」について否定的見解をとっていたので、いくつかの自治体の条例は、「三期を超えて存在しないように努める」といった「自粛」条例にとどまっていた。このように自粛条例を施行した例は、杉並区、川崎市、中津市に見られる。今後は、多選を制限する声は各地の自治体でますます高くなるだろう。このような流れの中で、小寺知事が5期を目指すことについて、全国の注目があつまり、県内では、特に選挙の過程での注目が激しく議論されることになるに違いない。

◇目が離せない教育3法案成立の動き。3法案とは、①学校教育法改正案 ②教員免許法改正案 ③地方教育行政法改正案である。

 ①の学校教育法改正案では、三つの新しい職を学校に置くことを認める。今までは校長と教頭の他はみな教諭であったが、改正法は、副校長、主幹、指導教諭を置けるとする。役割を分担して学校運営が効率的に行われることを狙う。果たしてうまくいくのか。管理された窮屈な学校にならないか心配だ。②の教員免許法改正案は、教員の免許の更新制を定める。画期的なことだ。一度免許を得たらいつまでも教員でいられるという従来の制度が変わる。夏休みなどの休暇を利用して講習を受けさせる。教員の質の向上確保が狙いだが成果は制度の運用にかかる。見守って育てて生きたい。③は教育委員会の在り方に関わるもの。いじめ、自殺、履修漏れなど、教育界に吹き荒れた深刻な問題に、教育委員会が適切に対応できなかったことから、廃止論まで出て激しく議論された。改正案には、文科省が教育委員会に是正を支持することなどが定められる。教育委員会の独立性が脅かされる恐れがある。それは、地方の教育委員会がいかに力を発揮するかにかかる。形骸化への警鐘である。

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2007年5月21日 (月)

「自動車事故の厳罰化に注意」

◇自動車の運転そのものは、極めて日常的な行為である。だから事故を起こしても過失罪で処罰されてきた。刑法では、業務上過失致死傷罪が適用される(5年以下の懲役)。しかし、無責任な危険運転で命を落とす例は多く、これは、伝統的な過失罪では軽すぎるから、特別に重く処罰すべきだという世論が高まり、危険運転致死傷罪が設けられた(最高刑は懲役20年)

 ところで、この重罪規定は適用に当たり問題が生じていた。それは、この刑を適用するためには、「アルコールにより正常な運転が困難な状況で運転したこと」、あるいは、「赤信号を意図的に無視したこと」を立証する必要があり、それがなかなか難しく、立証出来なければ、従来の過失罪で軽く処罰されることになり、差が大きすぎるという批判が出ていたのである。

 さらに危険運転罪施行以来ひき逃げ事件が増える事態が生じていた。それは、現場で逮捕されれば酔っていたことが分かり危険運転罪となるが、逃げて酔いがさめてから出頭すれば、業務上過失罪とひき逃げ罪となり、こちらの方が軽くなるからである。

◇この不都合を埋めるために新たな刑がつくられることになり17日衆院で法案が可決された。「運転過失致死傷罪」で、最高は7年の懲役が課される。この改正刑法が施行されると、自動車の運転中に過失による事故を起こした場合、業務上過失致致傷罪でなく、この新たな罪に問われることになる。もちろん、危険運転致死傷罪は厳として存在する。

自動車の運転は余りに日常的なので、つい気を緩め大丈夫だろうと小さな違反をしてしまう。そういうことを繰り返しているうちにそれが習慣になると、いつかとんでもない結果を引き起こすことになる。

◇自動車事故を起こして人生を誤ってしまった人が、「ドーンという音が全てだった」と振り返っている記事を読んだことがある。自分でその場に立たされたことを想像するとぞっとする。私たちは、自動車という文明の利器が恐ろしい凶器にもなる危険性を常に有していることを自覚しなければならない。

◇大澤前議長を案内して私の後援会のポイントを回った。本人が行けば、そこに火がつくことを実感する。その炎はまだ小さいが、赤い点が徐々に連なって遂には燎原の火のように広がる予感を多少なりとも抱くことができるこの頃である。それは長年激しい選挙に携ってきた私の感である。

 現職知事の力は、選挙においても圧倒的である。容易なことでは現職に勝てない。それだけに巨大な壁を突き崩すことには大いなるやりがいを感じる。もちろん、そのことが、人心一新、県政刷新につながると信じるからであるが。多くの人がまわりを見ているのが現状だ。群馬の知事選で本当に選挙らしい選挙となるのは、今回がはじめてではないか。私は恐れるものがないので全力を尽くそうと覚悟を固めている。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

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2007年5月20日 (日)

『上州の山河と共に』連載(79)「いよいよ決戦」

 妻が聴衆の前で挨拶する機会は、次第に多くなった。妻は、大勢の前に立つと、直ぐに泣いた。涙を拭う左手の白い包帯と共に、彼女の姿は人々の目に印象的に映るらしい。

激しく突き上げるものを必死で抑えようとするが、抑えつけようとすればする程感情は乱れ高ぶってしまう。

「皆様に、こんなにお世話になって本当に申し訳ありません。中村は、きっと立派な県会議員になって、皆様に御恩返しをします。どうか、主人を当選させてください!」やっとのこと、このような挨拶をすると、大きな拍手が起こり、涙を流している人の顔もあちこちに見られる。

「よし、わかった、きっと当選させるぞ!」

 会場からは、嬉しい声援も飛ぶ。

 このような盛り上がった雰囲気が更に妻を揺さしんぶるらしく、妻は、感激の涙を流している。

私は、こんな妻を心の隅で不憫と思いながらも、それを振り返る余裕もなく、私自身次第に大きくなる渦の中に巻き込まれてゆくのだった。

昼間の作戦に続く夜の課題は、出来るだけ多くの座談会を開き、これを如何に盛り上げ、得票につなげるかということであった。

座談会は、毎晩、六、七ヶ所で行われ、多くの後援会の幹部が手分けしてこれに臨み、立派に弁士を勤めてくれた。そしてその中でも、笠原久子さんの演説は新鮮、かつ、強烈な印象を与えていた。

笠原久子さんは、なかなかの美貌の人である。そして、知性と情熱を持ち前の明るい性格でうまく調和させているような彼女の雰囲気は、接する者に、常に新鮮な印象を与え、また、魅力を感じさせていた。

しかし、行動派の彼女も、大勢の前で選挙の応援演説をするのは初めてのことで、マイクを握った彼女の顔は、緊張と興奮で青ざめていた。「私達庶民の喜びや悲しみが本当に分かる人、それが、中村のりおです。私達と同じような生活の体験を持ち、私達と同じような生活感覚を持つ人でなければ、私達の代表とは言えません。中村のりおこそ、私達の代表として最もふさわしい人です。」

笠原久子さんの澄んだ綺麗な声が、凛として響く。ほぼ満席となっている公民館のホールは、俄に登場した女性弁士の迫力に押されて、水を打ったように静かである。

「中村のりおは、金も、組織も、知名度もありません。皆さんのお役に立ちたい、良い故郷を創りたい、ただ、その一心で、苦しい戦いを続けて来ました」

笠原久子さんは、ここで声をつまらせ、高ぶる感情を必死で押さえようとしている。

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2007年5月19日 (土)

『上州の山河と共に』連載(78)「いよいよ決戦」

 手を振る人がいないような状態がしばらく続くと、行き交う人々は、私の訴えを聞いているのだろうか、それとも、皆、他の候補者を支持しているのだろうか、と不安になる。しかし、しばらく選挙カーを走らせているうちに、私は、これは、人々に訴えを聞いてもらい、支持者となってもらう為の絶好のチャンスが与えられているのだと気付いた。チャンスを生かせるかどうかは、こちらの工夫と努力による。選挙カーを走らせながら、一人一人の人々と出会う時間は、数秒間にも満たない。しかし、この短い時間で、的確なメッセージを送り、印象付けることができれば効果は大きい。私は、選挙カーで訴えることは、私の声を聞く人達一人一人との間で対話を行っているのだと考えるべきだと思った。だから、短い的確な表現で誠意をこめて訴えなければならないと思った。

 手を振らない人、振り向きもしない人、これらの人々の耳にも、私の声は届いている。彼らは、私を支持するかどうかの一つの資料として、それを受け止めているに違いない。私は、このように考えて、後部座席のウグイス嬢とも打ち合わせ、その町、その通りの状況も考えながら、適切な表現を工夫して真剣に訴えていくことにした。

 それにしても、私のような新人にとって前橋市内を隈なく選挙カーで回ることは、重要なことであった。これまで一歩も足を踏み入れたことのない町、あるいは、町名すら知らなかった町がある。このような町の人々に中村のりおの存在を知ってもらい、たとえ何人でも支援者を摑まなければならない。ウグイス嬢も私も、この一声に当落がかかっているとばかりに必死で訴えて回った。

 私が選挙カーに乗っている頃、妻は、選挙事務所で頑張っていた。私のような無名の新人でも、選挙事務所へは、いろいろな人が訪ねてくる。事務所には、少数の後援会幹部が待機しているが、妻としての役割は重要であった。選挙では、候補者の奥さんの態度や感じの良し悪しが得票に大きく影響するということをいつも聞かされていた妻は、かなり緊張して気を使っているふうであった。妻には、私の目から見れば、教員生活を長くしていた為に世情に疎いとか、気が利かないといった点もあったが、それよりも、生来の気さくさとか、今も失わずにもっている純朴さなどがより大切であると思われた。そこで、私は妻に、緊張せず自然に振舞って方が良いと話していたが、本人とすれば、初めて舞台に立たされた人のように大変であったらしい。

 妻は、訪問客へ挨拶が済むと、休む間もなく、後援会長やその他の幹部の案内でいろいろな所へ挨拶やら支援のお願いやらに出かけて行く、まさに、息つく間もない激務の中にあった。それでも、妻は、非常に多くの方が身を粉にして働いてくれるのは誠に申し訳ないことだから、家族が苦労するのは当たり前と、必死に飛び回っていた。

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2007年5月18日 (金)

「未収金、滞納の問題を考える」

 県立病院の治療費、県営住宅の家賃、高校の授業料、学校の給食費、NHKの受信料などを払わない人が増えている。

 公共料金については、自分で優先順位を決め払わないと生活が出来ないものから払う人がいる、また、義務教育だから給食費は払わなくてよい筈だとか、公立病院の治療費はNHKの受信料と同じだからと理由をつけて払わない人がいる。背景には、社会一般のモラルの低下、そして公共に関する意識の低さがあると思う。県議会でいつも問題になるのは、県立病院及び県営住宅の関係である。悪質な未払いが増えていることに、適切な対応をしているのかと、私は度々質問してきた。

 民間の企業と違ってつぶれる心配がないことから当局の姿勢にはどうしても厳しさが不足になり勝ちである。しかし、問題の本質は、税金の使い方を大切にすること、また、県有のものを県民が公平に利用できるようにしなければならないという点にあることを考えると、こちらの方が重要だと考えねばならない。

 県営住宅については、工夫をして成果を上げている。悪質な利用者には、厳しい法的手段をとるようにし名前も公表するなどしている。

 問題は県立病院である。それは、心臓血管センター・がんセンター・精神医療センター・小児医療センターのこと。県病院局は、「未収額が年々雪だるま式に増える」と言ったことがある。平成17年12月末現在の未収金は約8,300万円、心臓血管センターが最も多く全体の約4割を占めた。私は、決算特別委員会で、「4病院でこれだけの未収金があるのは県の怠慢ではないか、未払いの理由を分析して悪質なものには厳しく対応すべきだ」と追求したことがある。

 県立病院の未集金の累積額は本年度中に一億円を超える勢いだ。ここに、時効の問題が新たに出てきた。最高裁の判断が変わり、公立病院の診療に関する債権は5年から3年に短縮されたのである。理由は、地方自治法上の公的債権(5年で時効)ではなく民法上の私的債権だというのである。民法170条は、医師の診療に関する債権は3年間で時効消滅すると定めている。まごまごしていると時効になってしまう未収金が増えることになる。今度の議会では、時効になる金額はどの位あるかが問題になるだろう。

 県は、この状況に対し厳しく対応することになった。悪質なケースには訴訟などの法的措置も辞さないというもの。医は仁と昔から言われてきた。医療を拒むことは出来ないし、診療費の追及も通常の借金の請求のようにはいかない。まず未払いの理由をきちんと調べ分析すべきだ。支払能力がありながら支払わないケースが多い。前橋日赤では、支払意思なしが39%もあった。県立4病院の赤字は約14億円に達することも指摘したい。未収金、赤字の問題は病院の志気と医療の質にも深く関わることである。

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2007年5月17日 (木)

「またまた奇怪な事件・母の頭部切断」

◇17歳の高校生が母の頭部を切断し、バックに詰めて持ち歩いた末に警察に出頭した。伝統ある進学校で成績も良い生徒だという。その後のニュースによれば、母の右腕も切断し、色を塗って植木鉢に挿したとされる。異常という他はない。少年を動かしたものは何か、その心の底に蠢(うごめ)くものは何か。

 すぐに、10年前に起きた神戸市の中学生による首切断事件を思い出したが、今回は、被害者が実の母親であることが驚きを一層大きくさせる。精神に異常をきたしたに違いないが、勉強に打ち込む普通の少年がこのような犯行に及ぶことの背景には社会の暗い病理が広がっているように思えてならない。

◇最近未成年の子どもが親を殺す事件が増えている。かつては、親殺しは尊属殺として特別に重い刑が定められていた。この規定は刑法典から削除されたが、子が親を殺すことについては、背景に倫理の大きな乱れと社会秩序が不気味に崩壊していく危機があることを感じる。見えないところで何かが大きく狂い始めているに違いない。

◇神戸の首切断事件の記事を取り出してみた。平成9年の出来事である。中学の正門に切られた首が置かれ、紙片が添えられていた。それには「愚鈍な警察諸君ボクをとめて見たまえボクは殺しが愉快でたまらない」とあった。

 酒鬼薔薇聖斗の名で新聞社に犯行声明まで送った犯人は、近くの中学3年生だった。この少年は医療少年院に送られていたが、平成16年、21歳で関東医療少年院を仮退院し社会復帰を目指している。

 この事件は犯人が中学生であることと首を切断するという特異性から社会を震撼させた。そして二度と起こらないことと思っていたら、今度の事件が起きた。どう受けためるべきか。社会がおかしくなっており、その中で、人間の心が狂い出していることの現れととらえるべきなのか。

◇県営住宅など県の公共施設から暴力団を排除する条例を作るべきだ。私はかつて広島県の暴力団対策を視察して痛感した。その後、群馬県で暴力団の抗争にからむ殺人事件が起き県民の不安は募っている。そして最近、東京都町田市の都営住宅を住居とする暴力団が、ここにたてこもり発砲事件を起こした。

 群馬県には、県有公共施設につき暴力団の使用を禁止する条例はない。県民に直接接し、その不安を肌で感じる私としては、県民の代表として、議会に提案して、是非条例を作りたいと思う。議員が提案して条例をつくることは、議会改革の一環でもある。先日、私は、党の幹事長と政調会長に話し、議員総会で発言を求め説明した。異論はなかった。

 手法としては、県営住宅を初め多くの県有公共施設につき暴力団に使用させないとする一括の条例をつくる、又、暴力団であることの認定や情報の入手管理等については警察の協力が必要なので、警察と執行部との間で覚書などの形でとりきめを作るなどを考えていかねばならない。

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2007年5月16日 (水)

「列車内の強姦事件・おれなら」

◇JRの列車内の強姦犯人が逮捕された。大勢の乗客が何もしなかったことが私のまわりで話題になった。俺ならどうしたろう、お前なら何をしたか、という議論である。

 窓側に一人で座っていた若い女性に男が近づきわいせつな行為をくり返し、女性はしくしく泣いていた、男は、近くの乗客に何をじろじろ見てるんだと脅し、その後女性をトイレに連れ込んで強姦した、このようなことが報じられている。この事件の後、逮捕される前、この男は、別の2件の強姦事件を起こしていることも。

 事件を目撃して何もしなかった乗客は、どんな心境でいるだろうか。そして、被害者の女性は助けてくれなかったまわりの人々にどんな感情を抱いているだろうか。少なくとも、乗客は、自分の勇気のなさに後味の悪い思いを持ち、女性はこれらの人々を恨んでいるのではないか。

 私たち日本人は変わってしまったのだろうか。この種の出来事は、深刻さの程度は違っても、これ迄も多くあった。自己中心で他人の事には構わないという風潮が社会を覆っている中でおきたことだと思う。

 戦前の社会は、ある意味で他人に関心を持ちすぎる社会であったかも知れない。社会全体を貫く一つの価値観があってそれから外れたものは異端視されるような社会であった。それによって社会の連帯は強く保たれていたが一面窮屈な社会だった。

 戦後、社会は一変した。戦前の価値観を否定した原因の第一は日本国憲法である。ここでは、人間の尊重、つまり一人一人の人間の自由に最大の価値をおく個人主義が中心となった。これ自体は人類の一つの理想であるが、社会公共に対する責任を軽視する風潮が生じた。日本人は公共心がないと言われることも同根であると思う。他人の被害に無関心というのも共通なことではないか。

◇行き過ぎた個人主義を改める事も憲法改正のポイントの一つになっている。例えば、自民党の新憲法案の前文には次の文言が入れられた「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気慨をもって自ら支え守る責務を共有し、自由かつ公正で活力ある社会の発展と国民福祉の充実を図り、教育の振興と文化の創造及び地方自治の発展を重視する」。また、その13条個人の尊重の項には、「公益及び公の秩序に反しない限り」という文言が加えられた。これらは、これから大いに議論されるべき点であるが、個人の尊重、そして、個人の自由も健全な社会が存在することが前提であり、健全な社会を築くためには、社会に対する愛情や責任感が重視されねばならない。

 列車内の犯罪を止めることが出来なかった人々の姿から、私たち日本人の共通の心の問題として私は、現行法憲法の自由と責任を考えた。26日のふるさと未来塾は、「憲法の話」である。そこではこのような問題にも触れて議論したいと思う。

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2007年5月15日 (火)

「役員選考会はスイスイと」(14日)

◇選挙の結果自民党は議席を5つ減らしたがそれでも33ある。全体は50であるから絶対多数をはるかに超える。だから県議会の役員は、自民党の役員選考会で候補が決まれば、本会議の投票で決まることは確実なのだ。これは、中央で自民党総裁に選ばれた者が衆院で首相に間違いなく指名されるのと同様である。

 この日、議長候補に中沢丈一氏が選ばれ、その他の多くのポストも次々に決まり昼食をはさんで一時半ごろまでに全てが片付いてしまった。派閥の対立が激しかった頃を振り返ると隔世の感がある。

◇かつては県会の自民党も福田派中曽根派の対立があり、議長や幹事長のポストをめぐって懸命な駆け引きがあった。私自身、妥協点が見つからないまま夜がふけてゆく経験をしたことがある。派閥のボスは、仲間が待機している所へ時々報告にきて無念そうに涙を流さんばかりの表情を見せることがあった。頑張っていることを分からせるために、こうした演技まで必要なのだなと感心しながら冷ややかに観察していた自分の姿が思い出される。

 ◇選考会はこの日、正確には二種類の役職を選んだ。県連の役員と議会のポストである。後者は先述のように本会議で決定されるから、それに先立つところの候補者の選定である。

 主なものを整理すると、①県連役員は、副会長に田島雄一氏と私・中村紀雄、総務会長・南波和憲、政調会長・真下誠治等である。(会長の笹川堯氏、幹事長の金子泰造氏は既に決まっていた)②議会のポストの候補者は、既述の議長中沢丈一氏の他副議長の五十嵐清隆氏、議会運営委員長の小野里光敏氏、その他各委員会の委員長などである。私は、予算特別委員長になる予定である。

◇ある人が議会に、私を訪ねてきた。長くスポーツに携った人である。風貌、動作、そしてその表情は若さを感じさせる。後で事務をとる人たちに幾つに見えたか聞いたら50歳代と答えた。とても75歳には見えなかった。

 人間は、生きる姿勢や生活習慣により、若さを保つ上で随分と違いが出るものだとは思っていたが、目の前にその歴然とした証拠を突きつけられた思いだった。「工夫と努力によって老いを遅らせることが出来る」というこの人の言葉を私は重く受け止めることが出来た。

◇国民投票法が成立した。憲法改正の手続きを定める法律である。そして、これは、憲法改正の是非を問う国民投票の手続きを定めるものだ。現憲法は1947年、昭和22年に施行された。以来60年、一度も改正されたことがない。これは世界的にも珍しいことだ。それは、改憲が常に、9条を改正して正面から軍隊を認めようとする動きと結びつけて議論されてきたからだ。かつては改正を口にすることもはばかられる雰囲気があった。また、日本国憲法の改正は、世界の憲法の中でも最も難しい部類に入る。国会の発議には、衆参それぞれの院で2/3以上の賛成が必要であり、その上で「国民投票」の過半数の賛成が求められる。今回の法律は、この国民投票の手続きを定めるもの。憲法が私たちの前に改めて提示されたのだ。

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2007年5月14日 (月)

「知事選の事務所開所式」(13日)

◇昨日は忙しい一日だった。早朝630分、町内の人が集まって、公園の草取りをした。小さい子どもたちも参加するようになった。新しく出来た団地のコミュニケーションの場である。井戸端会議のような輪があちこちで出来ていた。今年は、私の家が組長である。新しく出来た団地の新住人のほとんどは若い人達で、とかく、隣りは何をする人ぞとなり勝ちであるが月一度の公園の草取りが交流の場となっている。地域づくりに一役かっている光景である。

◇大沢知事候補予定者の事務所の開所式が行われた。南町の南部大橋の東のたもとである。神事が行なわれ、私が開会の挨拶をし、続いて座長となって役員人事と今後の基本的な活動方針等を審議した。

 出席した国会議員は、中曽根弘文氏と山本一太氏。中曽根氏は、新聞では、大沢陣営の重要ポストに就かないと報じられていたらしい。この日は本人が出席し副選対本部長として全力を尽くすと訴えていた。山本氏は、自身の参院選が間近である。連動させて、相乗効果を発揮させたいと挨拶した。選挙ではおなじみの柳沢本次氏と飯塚実枝子氏の挨拶が注目された。

 私と並んだ中曽根・山本両氏が、「輝け38・新しい知事を作る会」の38とは何ですかと私に尋ねた。私は市町村の数ですと答えた。これは、有権者に訴えるキャッチフレーズでもあるが、一般県民には何のことかピンとこないのではないかと思う。このことは、広報車で実際に訴えて回った県議もこぼしていた。

◇午後140分、予定通りに尾身財務大臣が県連に現れた。自民党の広報ポスターに使う写真をとるためだ。衆院一区に関わる県会議員が大沢氏を中心にして尾身氏と共に三人で、写真をとった。尾身さんは、尾身朝子さんのことで命がけだと語っていた。

◇群馬の知事選は、日本中が注目する戦いになることは間違いない。大沢・小寺の二つの陣営の巨大な歯車と一つの渦がまわり出した。一つの渦とは山本陣営のことだ。

 現職知事の権限の大きさは想像を超えるものがある。国会議員が1020人束になっても及ばない。だから多選の弊がいわれるのだ。小寺陣営は、この権限を選挙のためにフルに使っていると見られている。一方、大沢陣営は、現在自民党「推薦」だが、近く「公認」となって全国一の保守王国群馬が一丸となって戦う構えだ。これで敗れたら保守王国の面目がないという声が聞かれる。無党派と呼ばれる一般県民をいかに動かせるかに全てがかかる。

◇支援者の家で、ある夫婦に会った。妻はフィリピン女性。二人は幸せそうだ。この女性は9人きょうだいで妹が日本人と結婚することを希望している。二階から降りてきたこの家の長男は両ひざをそろえて座り緊張していた。縁はどこにあるか分からない。私は、お手伝いできればと思って同席した。結婚難時代が続く。フィリピンは貧しいカトリックの国。この日のフィリピン女性からは、女性らしい慎ましさを感じた。これからは南の国からの花嫁が増えるかもしれないと思った。

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2007年5月13日 (日)

『上州の山河と共に』連載(77)「いよいよ決戦」

 1987年・昭和6243日、県議選は告示され、決戦の火ぶたが切られた。この日、定数57議席に対し79人が立候補の届け出をした。前橋の選挙区では、定数8のところへ11人が立候補し、予想通りの激戦となった。選挙運動の期間は9日間、12日が投票日とされていた。

 今回の選挙の特色として、自民党は49人を擁立し、前年の衆参同日選圧勝の勢いに乗って県議選勝利を獲ち取ることを目指していたこと、野党はこれに対して、売上税反対のスローガンをかかげて対決姿勢を鮮明にしていたことなどが上げられる。私は無所属から立候補し、〝身近な県政〟〝信頼の県政〟を、木目細かに訴えてゆこうと考えていた。

43日の早朝、私の住む鳥取町の大鳥神社で必勝祈願祭を済ませると、私は、これから9日間必死で戦場を駆け回ることになる選挙カーに乗って、県庁前に向った。

 選挙カーにとりつけられた看板の中村のりおの文字には覆いがかけられている。すでに市役所に出向いている幹部役員によって届出が適正になされた時点で、その覆いは取り除かれ、私は、第一声のマイクを握る手筈となっていた。事は予定通り運び、8時過ぎ、私は、県庁前の大通りで、生まれて初めてタスキをかけ、白い手袋の手にマイクを持って、立候補の第一声を放った。<新人候補の中村のりおである、県政を身近なものにし、信頼の県政を実現して、県民の皆さんと共に素晴らしいふるさと群馬をつくりたい、その為に、この選挙戦を死にもの狂いで戦い抜くつもりだ>と挨拶した。

 朝の通勤時間である。道行く人達は、私に格別の関心を払うふうもなく、それぞれの職場へ急ぐ。立ち止まって耳を傾ける聴衆がなくても、私は、この一声によって、現実に選挙戦に突入したことを実感した。

 各地の後援会はどう動いてくれているか、多くの人達が苦心して練り上げたいろいろな作戦は、計画通り実行されるだろうか、届出と同時に一斉になされた筈の選管指定の掲示板へのポスター貼りは進んでいるだろうか等、様々なことが気になるが、私は、もう、神輿の上の人であった。選挙カーが走り出すと同時に、後部座席のウグイス嬢の声が拡声機から流れ始める。

 選挙カーに対して手を振ってくれる人が目に入ると、本当に嬉しい。手の振り方、その人の表情は、走る車からの瞬時の把え方であるが、それが、心からの支援の現われか、それとも、礼儀的なものか、よく分かる。選挙の掲示板に時々出合うが、自分のポスターが所定の位置に貼られていると、ああ、ボランティアの人達が真剣にやってくれているなと、あの顔、この顔と目に浮かび、大変に勇気づけられる。

 選挙に出る前は、選挙カーで連呼してゆく姿を、何て馬鹿な事をと冷ややかに見ていた私であったが、自分がその立場に立ってみると、いろいろな事に気づく。私は、自分でもマイクを握り、ウグイス嬢と交互に呼びかける。

「中村のりおでございます。県政を身近なものにし、皆様と共に素晴らしい故郷群馬を築きます」「中村のりおでございます。信頼の県政を実現します。県民の為の真の県政を実現する為に立候補しました」「新人候補の中村のりおでございます。皆様と力を合わせ、21世紀の故郷群馬を築きたいと思います」

このような短い言葉を発しながら、選挙カーは走る。

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2007年5月12日 (土)

『上州の山河と共に』連載(76)「決戦の時来る」

八方手を尽くして、次に見つけ出した候補地は、前橋市の建設会社が芳賀に所有する野球のグラウンドであった。ここは、道路から引っ込んだ所で、宣伝効果については期待できそうになかったが、それを問題にしている場合ではなかった。

 ここは、もう長いことグラウンドとして使用していることであるし、周りの町民も時々借りて使っている所だから、問題はないと考えられた。兎に角、選挙ができるということが嬉しかった。

 広いグラウンドの一角には、プレハブ小屋を建築する為に丸太の杭が打ち込まれ、建築資材を運ぶトラックも到着し始め、ことは順調に滑り出したかと思われた。

 私は、グラウンドに立って作業の様子を見ていた。この時である。グラウンドの隣りにある、このグラウンドを所有する企業の事務所から事務員走ってきて、本社から私に電話がかかった旨を告げた。

 私の胸を不吉な予感が走った。

「市の工業課から、選挙事務所に貸すことは目的外使用を禁じる約款に反するといってきています」

 ガーンと一撃をくらった思いで言葉を捜していると、電話の主は続けて言った。

「調べてみたんですが、あと1ヶ月で10年が過ぎるところなんです。申し訳ありませんが、市からそう言われたのでは、お貸しすることが出来ないのです」

 またかと思い、目の前が真暗になる思いであった。誰かが事細かに調べて市に通告しているのかも知れない。それにしても、それをそのまま受け入れて通告してくる市の態度にもすっきりしないものを感じる。またも、大きな壁に突き当たってしまった。天は私を見捨てようとしているのだろうか。私は絶望感に駆られて、しばし抗議する力すら湧いて来ない程であった。

 しかし、いたずらに腹を立て、絶望して足踏みしている時ではない。もはや一刻の猶予も許されなかった。このままの状態が続き、選挙が出来ないのではと、黒い不安が胸をよぎる。

 血眼になって捜しあてた場所は、小坂子町の外れ、畑の中にぽつんと置かれた、ある企業の資材置き場であった。所狭しと置場いっぱいに雑然と入れられている建築資材を片隅に積み上げ、整理して、やっとの思いで選挙事務所用のプレハブの建物を完成させたのは、3月も末のことで、もう告示が間近に迫っていた。

 前橋最北のこのような山里に県議選の拠点を設けるのは前代未聞のことと思われた。目の前に迫って見える赤城山から文字通り直撃するように吹き寄せる赤城颪は、プレハブの屋根をガタガタと鳴らし、中にいる者を心細くさせた。また、夜ともなると、小高い丘に立つ事務所からは、市街地の夜景が一望できるが、それも、私の目には、心細さを募らせるものでしかなかった。

 告示が数日後に迫ったある晩、もう殆んど人気もなくなった事務所の2階から、私は市街地を見下ろしていた。私の心は平静であった。この山小屋が、天が私に与えた条件なのだ。とすれば、あとは、戦い抜き、勝ち抜く他はない。こう思うと、闘士が漲ってくるのが感じられた。よし、これから、あそこへ攻め下るのだ。私は、火の海のように広がる夜の市街を見下ろしながら、拳を固く握りしめていた。

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2007年5月11日 (金)

「赤ちゃんポストで取材を受ける」

◇熊本市の病院で「赤ちゃんポスト」の運用が始まった。このとこに先立って先日、関西の某報道機関の取材を受けた。女性のディレクターとテレビの担当が2人。取材の目的は、群馬にもかつて赤ちゃんポストがあり、それにかかわった県会議員として私を登場させるというもの。

 私は、故角田儀平治さんに頼まれて、佐藤報恩財団、通称かけこみ寺の理事になった。当時の理事長は、「鐘の鳴る丘」の創設者品川博氏だった。品川氏が始めた赤ちゃんポスト・天使の宿が解散し、そこにいた子どもたちを引き継いだのがかけこみ寺であった。私が関わったのは、このかけこみ寺である。

 さまざまな子がいた。真剣に勉強して頑張る模範的な少年もいれば、登校拒否の子や非行に走る子もいた。彼らは口には出さないが皆肉親に対して強い思いを抱いているようであった。

 熱心な人たちが彼らを支えているが、子どもがまっすぐ伸びるためには親の愛情が不可欠である。このことをつくづくと感じた。彼らが寂しさに耐え、見たこともない親を思いながら人生を生きていく姿を想像するとき、簡単に子を捨てる親は許せないと思った。

 赤ちゃんポストを社会的に公認することが無責任な親に口実を与え、育児放棄を助長することになってはならない。熊本市の病院は24時間保温の保育器を設け、産婦人科の看護師、助産師らが24時間で対応するという。あんな良いところに預けたのだからと安易に考える無責任な親の姿を想像してしまう。 今日の社会は、道義なき社会といわれ、実の親が子を虐待したり殺したりする事件が跡を絶たない。赤ちゃんポストの存在意義があるとすれば、子どもの命を救うという一点である。

 しかし、そのあり方が問題である。民間の篤志家がひかえめに行うべきであり、行政がバックアップして完璧な形で実施することには、私は抵抗感を抱かざるを得ない。塩崎官房長官が記者会見で、「病院内の施設とはいえ、保護者が子どもを置き去りにする行為はあってはならない。自らの手で親が育てるのが基本だ」と述べたのは、政府の姿勢として当然だと思う。

◇今年も、既に、異常気象が始まっている。梅雨を通りこして真夏に入ったような暑い日が続く。群馬県でも30度を超す所があった。思い切ってCO2を削減しないと地球は大変なことになると国連の機関が改めて警告している。伝えられる世界のニュースから空恐しさを感じる。

 ベルリンの壁崩壊・ソ連の解体と続く世界の政治状況の変化を受けて、市場経済が津波のように世界中に広がろうとしている。このことは何十億人という途上国の人々が車に乗りエネルギーを消費する時代が広がっていることを意味する。経済の発展と一体となってCO2が地球をおおっているのだ。この流れは止まらないという絶望感を抱いてしまう。

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2007年5月10日 (木)

「ふるさと未来塾再開」

◇昨日の「日記」でも書いたが、長年続けてきたふるさと塾を選挙のためやむを得ず休んでいた。「楽しみにしています」、「早く再開し下さい」このような声が塾生から寄せられていた。次のような案内文を出す。この「日記」の読者にも知らせたいので、案内をここに載せる。

『半年ばかり休んでいたふるさと未来塾を再開します。

今までの塾の歩みを振り返り、そこでの経験を生かしつつ、心機一転、新しい試みにもチャレンジするつもりです。

 今回は、「憲法の話し」です。いかにも難しい題と思われる人もいるでしょうが、誰もが避けられない大切なこと。いろいろなエピソードを交え、「面白く、易しく、深く」を心がけます。

 憲法は、日本の運命を決め、私たちの日常の生活にも深く関わることなのに、よく知らない人が多いのが現状で、感情的に議論されているような一面も見られます。

 日本国憲法は、敗戦を契機に生まれました。そこで、アメリカに押し付けられたものというとらえ方が一方にあります。無条件降伏を受け入れるには、昭和天皇の「聖断」が大きな役割を果たしました。

 この最後の御前会議のこと、及び、最近話題になっている天皇の侍従の日記にも触れます。現憲法の特色の一つは、天皇の地位に現れています。第一回は、このことも話すつもりです。どなたも、お誘い合わせの上、ご出席下さいますようにお願い申し上げます。』

(改めて、日時、場所は、526日(土)、午後7時、日吉町の総合福祉会館、入場無料)

◇憲法が身近になっていることを感じる。かつては、憲法の事に関心を示す人は少なかったが、最近は社会の雰囲気が変わったことを肌で感じる。昨日も地域を回って、ある商店に寄ったらお茶をすすめられ腰を下ろすと、おやじさんの口から憲法のことが飛び出したので驚いた。

「北朝鮮になめられるようではしようがねえ、日本もいざという時にはガツンとやってやる必要がある。そのために憲法を改正した方がいいんじゃないか」こういうことで憲法9条が話題になった。

 9条は「戦争を放棄する」と明記し、そのための陸海空軍の戦力は持たず、国の交戦権は認めないと定める。現在の自衛隊の存在は、この9条の定めと大きくくい違っていることは明らかである。しかし国民の大多数は自衛隊を認めている。それなら憲法を改めろという意見が出るのは当然ともいえる。しかし、現実とのくい違いを承知の上で、9条を改正すべきでないという意見も多いのだ。例えば、「9条を改正するとなると歯止めがきかなくなる」、「戦争をしない国としての証として9条の役割は大きい」などである。このような点も今じっくりと考えなくてはならない。商店の主とこのような話が出来たのは収穫であった。

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2007年5月 9日 (水)

「供託金を受け取る」「ふるさと塾が始まる」

◇法務局で手続きをして60万円の小切手を受けとった。換金は日銀前橋支店である。供託金の話をしたら、選挙に出るのにお金がいるのですかとか、落ちたら返ってこないのとか聞かれた。

 立候補は自由に出来るものであり、憲法で保障された権利である。しかし、いわゆる泡末候補の乱立は防がねばならない。タスキを掛けてみたくて立候補したが、女房も入れなかったという話を聞いたことがある。公営の選挙は金がかかるのだから供託金の制度はやむを得ない。得票数がきめられた線に達しないと没収されるのである。

 供託金の制度は町村議会の議員選挙にはない。その額は選挙の種類によって異なる。衆議院(小選挙区)、参議員(選挙区)、都道府県知事は、みな300万円、都道府県会議員は60万円、市長は100万円である。

 没収ラインは、それぞれ選挙の種類によってことなるが、例えば、間もなく行われる知事選では、有効投票総数の1/10に達しないと、300万円の供託金は没収される。

◇選挙のため休んでいたふるさと塾を再開することにした。毎月第4土曜日(今回は、526日)の午後7時、市の総合福祉会館である。再開に当って、中味を工夫したいと考えている。長いこと歴史を取り上げてきた。その点は、これからも変わらないが、現代社会を考えるという視点を強めたいと思う。

 難しいと思われがちな問題を「易しく面白くそして深く」を目標とすることも、同じである。再開第1回は、日本国憲法だ。今、改正がにわかに議論されているが何が問題なのか、本質なことを知らず感情論が先行しているようにも見える。アメリカから押しつけられたというのは、今でも議論する必要があることなのか第9条を改正することは果たして妥当なのか等多くの問題点がある。

 私のある友人は言った。「現実と憲法に食い違いが出来ている。一致させなければならないのなら、現実の方を憲法に近ずけるべきだ」と。一見唐突なようだが、うーんとうならせるものを含んでいる。いろいろな質問に答えたい。最近、昭和天皇の側近の日記が発表されたりして話題をよんでいるが、天皇の責任とか、その歴史的役割などにも及びたい。

 私のプログにアクセスした若い人がふるさと塾に出たいと言っていた。是非参加して頂きたい。これまでも若い人がチラホラ見られたがもっと多く参加して意見の交流が出来れば理想的である。

 日本国憲法には、人類が長い歴史の過程で多くの犠牲を払い、また試行錯誤の末に到達した普偏的真理が流れている。それは、アメリカの独立革命やフランス革命の中で生まれた真理とつながっていることを私たちは理解しなければならない。そのことを抜きにして改正論がにぎやかであるが、大切な財産を傷つけないようにしなければならない。今回、そこまで話を進められれば幸である。

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2007年5月 8日 (火)

「初登庁、県政懇談会・県議団総会」

10時に登庁し、議事堂1Fのホールで、新しい議員バッジを受ける。控え室の自席に座っていると、新議員が次々と挨拶にやってくる。やや緊張した新人の表情にかつての自分の姿を重ねた。ニューフェイスの中に女性が二人いた。共産党の早川さんに加えて、県議会で、女性議員は3人になった。これは過去最高で、時代の変化を現わすことかと思った。

11時から昭和庁舎で知事主催の県政懇談会が開かれた。主な内容は初顔合わせである。マイクを握って次々に自己紹介が行われた。小寺知事は挨拶の中で、200万県民から選ばれた議員に耳を傾けて県政を行いたいという主趣の発言をしていた。

 県政懇談会は短時間で終わり、自民党の議員総会となった。笹川堯氏、福田康夫氏も出席して挨拶。笹川氏は県連会長として、大沢知事候補を自民党推薦ではなく公認とすべきだと主張した。議員総会の主題も知事選対策であった。自民党が決意を示すためにも公認がよいと思う。

 自民党控室が縮小した感じを受けた。人数が39人から33人に減少したのである。大沢前議長も429日、任期満了で議員の地位を去った。なお落選した議員も429日迄は、議員の地位にあったのである。

◇議員総会の最中に事務員からメモが渡された。福島敬四郎とあり携帯の番号が書かれていた。連絡すると、午後3時から食育を考える集いを新前橋で行うので出席して挨拶してくれないかという。

 彼は、農水省出身の現参院議員である。大学時代のクラブ活動の仲間で長い付き合いになる。もう6年になるのかと思った。参議院選が目前に迫っているのだ。前回、彼の第一回選挙で、私は群馬県の責任者として応援したのである。

 福島君は、「食育基本法」制定の立て役者だった。農水省で長いこと日本の農業の根幹に関わってきた経験がベースになっているのだろう。食育とは、職を通して生きる力を育むことだという考え方を彼から教えられた気がする。

 新前橋のウエルシティでは「食」に関わる職業の人たちが集まっていた。私は彼との関係を説明し、参議院の役割、農業の重要さ、食育の意義などに触れ、「福島君」は参議院議員として時代が必要とする人物だから友人としても推薦すると述べた。

 選挙に臨む彼の視線は6年前と比べ優しくなり、ゆとりが感じられた。水を得た魚という言葉があるが、彼本来の活躍の場を得ているのであろう。

 参議院には、昔、緑風会というのがあった。学者や文化人も多く参加し、人々は参院の使命を重んじて行動していた。それも今は昔で参院は、すっかり変わってしまった。参議院は何のためにあるのかと問われる。衆議院と同じでは無用ではないかともいわれる。駆け引きと政争の場でなく、国の基本的な問題を大局的に考える場であるべきだ。

 政治とは何かを痛切に感じる昨今である。理想と現実の差が余に大きい。現実は大きな壁となってたちはだかる。新人の県議たちの将来を思った。

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2007年5月 7日 (月)

「長い連休が終わった」

◇5日は、伊勢崎の華蔵寺公園の遊園地で、中国帰国者たちの集いがあった。175人が参加。日頃一生懸命働いている人たちの表情に明るいやすらぎが現われていた。挨拶の冒頭で、「タージャ、ツァオシヤンハオ」(皆さん、お早よう)と呼びかけると、どっと歓声が上がる。一言、二言の中国語でも、心のこもった、メッセージとして彼らの心の奥にしみ込むらしい。

 この日、友人の残留孤児と中国の状況について話す機会があった。彼は、経済の発展は凄いが、格差が広がっていること、環境の汚染が進んでいること、そして、長い間の一人っ子政策のつけが現われて超高齢化社会が近づいていることなどを心配していた。中国はアンバランスに発展している。総合的にみればまだまだ発展途上国である。13億の国民が等しく幸せになれる時代は、果たして可能なのか。隣国の動きは、いずれにせよ、私たち日本に大きく影響する。

◇華蔵寺公園からおよそ30分で赤城神社の例大祭にかけつけた。境内では少年剣士たちが打ち合わせる竹刀の音が杉木立の中に響いていた。

 合併によって宮城村は前橋市となり神社のあたりも三夜沢町になった。世の中の変化は激しくその大きな波は、長く続いた自治体まで飲み込んでいく勢いであるが、歴史や伝統の文化を守っていくことが何よりも重要だと思う。

 参道の石碑には、源実朝の歌が刻まれている。

かみつけのせたのあかぎのからやしろ

やまとにいかであとをたれなむ

 金塊集にものっている歌である。勢多の赤城山の唐風の社のことを三代将軍が詠んだのは事実だろうが、ここまで実際に来たのかは、私にはわからない。赤城神社が古い歴史と権威をもつことを示す碑であることは間違いない。

6日、大前田の同級生高井潔君を訪ねた。近づくと一斉に犬が鳴き出した。天気のいい秋田犬の声である。我が家のナナもここからもらわれてきた。

 高井君の家のすぐ近く大前田栄五郎の墓がある。話には聞いていたが初めて訪ねて見た。前橋市史跡と表示があり、墓は静かな林の中に一族のものであろうかいくつかの墓石に囲まれて立っていた。

 戒名は歓広院寿栄翁居士となる。栄五郎の生涯の一端が戒名の文字に現れているように思える。側に立つ説明文には、少年の頃は火の玉小僧といわれ、上州だけでなく広い地域に224ヶ所の縄張りを持つようになり天下の和合人と称され、明治7年に没とある。

 侠客・博徒という文字も見えるが、今日のヤクザとは違う。抑圧された庶民が精一杯格好良く生きた姿かも知れない。

 近くには栄五郎の血をひく田島家があり、この家にも同級生がいる。田島家は名門である。人々は物静かで教養があり人望も高い。火の玉小僧の熱い血は深いところで静かに受け継がれているのかも知れない。ゴールデンウィークが終った。知事選・参院選と現実の世界が待っている。

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2007年5月 6日 (日)

『上州の山河と共に』連載(75)「決戦の時来る」

 これではいけない、と私は思った。仮りにも、私は一軍の将である。私の弱気が外に現われれば、私の為に、私を信じて懸命に動いてくれている人達に大きな悪影響を与える。そんなことでは勝てる筈がない。そこで、私は、細かいことは気にせず、人事を尽くして天命を待つという心境でゆこうと決意した。

 2月に入ってから選挙事務所設営の場所を捜し始めたが、これがなかなか見つからない。選挙事務所としての条件は、まず、多くの人が集まれる広い場所であること、そして、人目に付き易い場所であることである。交通の便が良ければなお好都合であった。

 前橋市内でこのような条件を備えた土地を捜すことは、容易なことではなかった。もっと早くから研究して捜しておけば良かったと悔やまれたがもともとそんな余裕はなかったのだから仕方のないことであった。

 3月になって、やっと、これはと思うところを見つけることができた。それは、芳賀工業団地の一角で、工場建設の予定地とされている所であった。所有者である食品会社の社長は、私の熱心な後援者で、建設着手までは3ヵ月ほどあるから是非使って下さいと言ってくれた。私は、これで、いよいよ戦う拠点が確保できると、大変喜んだ。

 しかし、その喜びも束の間で、前橋市の工業課からの電話で消し飛んでしまった。

それは、工業団地として分譲する際に、10年間は、譲渡の際の目的外のことに使用しないという約款が交わされているが、選挙事務所用地として使用することは、この約款に違反するというものであった。

 私達は、これを聞いて、大変不服であった。何と形式的な解釈であろうか。若手の後援会員の中には、これは、他陣営の謀略だ、といって怒りを顕わにする者もいた。

 約款の趣旨は、その企業の業種や目的を審査して、工業団地進出の便宜を図るのだから、用地の所有権取得後直ぐに他の目的に使用するようでは、工業団地を造成して便宜を図る目的が達せられないことから、所有権取得後も、一定期間他の目的の為の使用はしないという制約を進出企業に課す点にあると思われる。

 従って、極く短期間、プレハブの建物を建てて、選挙事務所として使用することは、この約款の趣旨に違反しないのではないか、と考えられる。

しかし、市当局に抗議して、争っているうちに選挙戦に突入するようなことになれば大変なことになると考えると、私達は、当局の指示に従って、引き下がるより他はなかった。

 我が陣営の落胆ぶりは大きく、告示迄の日が短いことも合って、幹部の間にも動揺の色が濃く感じられる程であった。私は、このような差し迫った状況になって、まだ選挙事務所の用地すら確保できないということが世間に広まった場合のマイナス効果を恐れた。福島浩は、さすがに冷静であった。

「新人が選挙に出る時は、こんなものなのだろう。予想されたハードルと考えて乗り越えなければならない」 彼は、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

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2007年5月 5日 (土)

『上州の山河と共に』連載(74)「決戦の時来る」

私の演説も、初めとしては、概ね、合格点がもらえるような雰囲気の中で終わった。

 そして、大会は、当初予想していた以上の成果を上げて、大成功と思われた。これはひとえに福島連合後援会長以下、多くの後援会の人達が心を一つにして、必死で頑張ってくれたお陰であった。

 我が陣営では、誰もが、翌年4月の目標がはっきりと、そして、一段と近いものになったと受けとめ、その表情は明るかった。

 福島浩は、この時、喜ぶ私の顔を鋭く見つめて言った。

「ここで気を緩めたらだめだ。今までの努力が水の泡になる。ほんの小さなハードルを越えただけなのだから」

 私は、ハッとして頷いた。確かにそうであった。これからが本当の戦いという時に、皆が気持ちを緩めてしまったら、厳しいハードルを乗り越えていくことはできない。我が陣営にとって、今一番大切なことは、油断を戒めることであった。このことは、大会後の反省会で、後援会長から改めて提案され、皆、一層気持を引き締めて頑張ろうということになった。

 大会参加者名簿を基に礼状を出し、また、これを整理し分析して、これはと思う人には、一層の支援者の拡大をお願いするなど、大会の成果を最大限有効に生かす努力を重ねるうちに、早くもこの年は暮れて、年が明けるといよいよ決戦の時を迎えることになる。

決戦の時来る

 昭和62年は慌ただしく明けた。年賀状の整理、年始の挨拶まわり、新年の各種行事への顔出しなどで、1月はあっという間に過ぎた。

 前年の秋頃から他の候補予定者たちの動きも活発になり、それに関する情報もしきりに伝わって来て、我が陣営を刺激していたが、年が明けるとそれらの動きは一段と顕著となった。

 県議選は、群馬県が多くの選挙区に分かれて行われるが、私が属する選挙区は前橋市区で、定数は8である。そして、現職県議の内訳は、社会2、共産1、公明1、そして、自民4であった。

 選挙に関する情勢は、様々な情報が飛び交う中で、1月、2月と進むうちに次第に明確になっていった。それによると、立候補予定者は、現職8人、元県議でカムバックを狙う菅野氏、そして、私であった。

 改めてこれらの人たちをライバルとしてみると、みな強敵で、選挙の経験のない私が、その一角を崩すのは至難の事と思えた。これらの人達に正攻法でぶつかったら、我が陣営はひとたまりもなく敗れるに違いない。頼みは、こつこつと路地を歩いて握手したり言葉を交わしたお年寄り、おじさん、おばさん達である。あの人達は、あれから相当の月日が経って、私のことなど忘れてしまったのではあるまいか。あるいは、他の人から支援を頼まれれば、そちらに簡単に心を動かしてしまうのではあるまいか。弱気になると、きりもなく不安材料が浮かんでくる。

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2007年5月 4日 (金)

『上州の山河と共に』連載(73)「県民会館の大会成功す」

「皆さん、本日は、お忙しいところをこの大会にご出席くださいまして、本当にありがとうございます。私は、このように沢山の方々に、今日ご出席いただけるとは、実は、思っておりませんでした。胸がいっぱいであります。感謝の気持ちでいっぱいであります。本当にありがとうございます」

 言葉を切って頭を下げると、大きな拍手が湧いた。私の胸に熱いものが込み上がる。感情に流されそうになるのを、ぐっと唾を呑んでこらえる。

「これまでに、お集まりの皆さんを初めとして、多くの方々に支えられて運動を続けてまいりました。この運動は、道のない所に新しい道を切り開く為の運動であります。そして、皆さんと共に素晴らしいふるさと、明日の群馬を築く為の運動であります」

 会場が水を打ったように静かになり、緊張が漲る。全ての視線が私に注がれるのを感じて、私の緊張も高まる。

「今、地方の時代と言われて、地方が重視される時代です。地方の住民が心を一つにして力を合わせて、地方のふるさとをつくり、そして、地方住民の幸せを築いてゆく時代です。その為には、地方の政治家が大きな役割を果たさねばなりません。

現実にはどうでしょうか。政治家は、特別な人でなければなれない。普通の常識や感覚を持った普通の市民は政治家になることができないのであります。その結果として、政治も政治家も、国民、県民から離れたところで動いている。これでは、本当に民意を反映した政治はできないのではないでしょうか」

「その通りだ」

会場で誰かの叫ぶ声がして、それにつられるように拍手が起こった。昨夜用意して覚えたはずの原稿の文面は、会場の熱気に煽られて、私の頭の中で千切れて飛び散っている。

 私は記憶に頼ることを止めて、浮かんでくる言葉をつかまえ、それを私が意識する話の方向に必死でつなげて、聴衆に投げかかる。<その通り>という言葉は、私の演説に対する確かな手応えであった。この大会では、全ての参加者が私の話に注目し、又私を試していると思って緊張していたのでこの言葉は嬉しかった。

「私は、組織も地位もない、平凡な市民です。しかし、普通の市民としての喜びや苦しみ、そういうものを噛み締めて、これまで生きてきました。わたしのような平凡な市民が、政治の壇上で頑張ることが、今、一番求められているのではないでしょうか。私は、県政を身近なものとし、県政に対する信頼を回復して、皆さんと共に、明日のふるさとを築きたいと思います。」

 大きな拍手が起こった。 続いて、私は、二十一世紀が間近な今、私達は、教育、福祉、道路、まちづくり、環境問題その他様々な課題を抱えている、これらを皆さんと共に考えてゆく県会議員になりたい、そして、常に、皆さんに接して、皆さんから御意見を聞かせてもらい、そこから学んでゆく政治家を目指してゆくつもりである、だから、是非、私を県政の場で働かせてほしい、・・・・・と話を進めていった。

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2007年5月 3日 (木)

『上州の山河と共に』連載(72)「県民会館の大会成功す」

 105日、とうとう大会の日がやってきた。私の心は、既に落ち着いていた。やるだけのことはやったのだ。なるようになる。あとは運を天に任せるしかない。このような心境であった。

 開会の時刻は午後6時。林先生の送迎は、水曜会の伊藤正美さんと妻の役目であった。5時少し前、伊藤さんと妻は、入念に磨いた伊藤さんの愛車に乗って、林先生を迎える為に高崎駅へ出かけて行った。

 県民会館の中は、いくつものグループが慌しく動いていた。受け付けの為に机を並べる人達、駐車場での車の誘導を打ち合わせる人達、あるいは、壇上に花を置き、来賓や役員の椅子を並べる人達等。

 誰もが、長い間かかわってきた自らの運動の成果がどう表れるか、試験の結果を待つ受験生のように、不安と期待の入り混じった気持ちで動いている。

 私は30分程前から、舞台の裏手にある控室に入っていた。私の人生における初めての経験、その幕開けが刻々と迫る。もう、会場には人が入り始めている筈だ。入り具合はどうだろう。私は、幕の隙間から会場を見たいという衝動に駆られ、また、見るのが恐いとも思う。定刻10分前になった時、福島浩が顔を紅潮させて入って来て、私に近づくと耳元で言った。「もう会場はいっぱいで入れない。ロビーもいっぱいで、まだ、どんどん来ている。受付が混乱しているから、少し開会を遅らせる。小会場は、まずかったな」彼は、ニヤッと笑うと、私の肩を叩いて出て行った。

<やったあ>、私は心の中で叫んだ。その時、「やあ、大変な盛会ですね」こう言って、林先生が控え室に入ってこられた。盛況の知らせと林先生の到着が重なって、私は、心地良い興奮に浸っていた。

 福島浩の司会で、県民会館小ホールの幕が上がった。連合後援会長の福島貞雄氏は、冒頭の挨拶の中で、座席に坐れず通路や後ろに居られる方々、そして、会場に入り切れず外におられる非常に多くの方々に、誠に申し訳ないと謝った。しかし、その声も、軽く弾んでいるように響く。林先生は、約30分程話をして下さった。東大西洋史学科の紹介から始まって、東大紛争にまで及ぶ話の過程で、先生の歴史に関する深い造詣に基づく話が易しい言葉で語られる。

 私の事に及んでは、「剛毅木訥は仁に近し」、という論語の言葉を引用して、中村は真面目で堅実な男である、県民の皆さんの信頼を得て大事な県政を進めていくにふさわしい男である、れからは、こういう男が政治の世界に入っていくことが、民主主義の進展の為にも必要だと、誠に勿体ない表現で紹介し、推薦して下さった。

 先生は、大衆の前で、大声をあげて選挙演説をするようなことは慣れておられない。淡々と大学で講義をするような話し振りは、かえって真実味あるものとして、聴衆の心を打っているように見受けられた。先生の話が終ると、いよいよ私の番であった。満堂溢れる聴衆を前に、高い壇のうえから演説をするのは、もとより生まれて初めてのことである。そして、今日の舞台は、自分が主役であり、そのでき具合が試されていると思うと、どうしても緊張するのだった。

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2007年5月 2日 (水)

「犯人の情報に懸賞金」

◇犯人情報の協力者に公費で報奨金を払う制度がスタートした。社会が大きく変化したことを示す出来事だ。素直には喜べない複雑な気持ちである。懸賞金の有無に関係なく進んで情報を提供して警察に協力することが市民の姿勢としては理想である。私の周辺のある人が次のように言った。「凶悪犯の情報を知らせることは国民の義務ですよ。何でも金の時代を警察も認めてしまったんですね」

 この制度を実現することには、警察内部にも抵抗感があったという。当然であろう。警察は捜査環境の悪化を上げている。犯罪の広域化、手口の巧妙化、外国人犯罪の増加など、犯罪の状況が変化している。また、同時に、犯罪を防ぐために最も重要な要素である地域社会のあり方に大きな変化が起きている。人と人とのつながりが希薄になっているのだ。そして、最も深刻なことは人の心の変化である。自分のことしか考えない人が増えている。いわゆるモラルハザード(道徳の崩壊)といわれる現象が社会全体に広がっている。そして、警察への協力など全く考えない人が増えているのだ。

このような社会状況の中で、警察は窮余の策として、対象の事件を限定した上で制度をスタートさせる。対象事件は、殺人、放火、強姦などの凶悪事件で、都道府県の警察の申請を受けて警察庁が審査委員会にはかって決める。その際遺族の了承が必要で公平性の確保も重視する。遺族によっては懸賞金までかけてとか、世間から注目されるのは嫌だという人もあるだろう、また、逆に自分の関わる事件は懸賞金をかけてもらえず不公平だと考える人もあるだろう。これらの点を考慮するのだ。

 警察庁は千葉、愛知、大阪などで起きた5つの殺人事件に新制度を適用することを決めた。懸賞金は原則300万円で特別の場合には1000万円までの増額が可能。アメリカ映画の「賞金稼ぎ」を思い出すという人がいた。闇の世間で情報をにぎる人が動きそうだが、匿名は駄目というからそううまくはいかないのかも知れない。

◇過日の議員総会で、議員発議で条例をつくることを提案した。私は、県議選の公約で、議会改革を進め議会が本来の役割を果たせるようにすることを主張した。議会改革の一環として議員が中心となって条例を作るべきだと考えるのである。

 私は、二つの条例を提案した。一つは「教育の日」に関すること、もう一つは、暴力団に所属する人に、県営住宅など県の公共施設を使用させないことを目的とするものである。

「教育の日」については、その実現を長い間同志と共に主張してきたが、ようやく見通しがついてきた。その基礎を権威あるものにするためには条例か必要だと思う。又、県民の財産を暴力団に使わせないことは、当然のことで、最近の町田市の事件などで、にわかにクローズアップされているか、本県では六合村にだけ条例が存在する。全国の状況は、次回の「日記」で紹介する予定。

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2007年5月 1日 (火)

「中国帰国者の料理講習会」

 新前橋の福祉会館6Fで行なわれた。各地から応募した人たちに帰国者が水餃子(すいぎょうざ)などの作り方を教える。県の国保援護課が支援して毎年行なわれている催しである。日本の地域社会との交流を進めることが目的で、このことが帰国者の自立を助けることにもなる。孤児たちの表情が生きていた。

 残留孤児を中心とした帰国者の人たちへの地域社会の理解はまだまだ十分とはいえない。そのことを示す事実として最近電話でこんなやりとりがあった。配布された私の県政報告を見た人が、その資料を読んで私が中国残留帰国者協会の顧問をしていることが理解できないというのだ。最近の中国に強い反感をもっているらしく、遂には、私のことを左翼だなと言った。

 隣りの巨大な新興国中国とは摩擦が増えている。とにかく13億の隣人だから、中には悪い人もいて、外国人犯罪としては中国が最も多い。しかし、ほとんどの中国人は真面目でよい人たちである。

 そして残留孤児は、日本人であり、日本の過った国策の犠牲者であることを理解しなければならない。他人の家に土足で踏み込むようなやり方で強引に満州国を作ったことから日中戦争になり遂には太平洋戦争に突き進んだ。何も知らない日本人は、満州を開拓する為に中国に渡ったが、土地は中国人が耕したものを強制的に取り上げるに等しいやり方で手に入れたものだった。ソ連が満州に侵入したとき、日本は、開拓農民を守れず、正にこの世の地獄となり多くの女性や子供が犠牲となった。残留孤児はその混乱の中で肉親から離れ辛酸をなめて育ち故郷に帰った人たちである。

 日中の国交が回復したのは、昭和47年、田中内閣の時である。実に終戦から27年が経っていた。国がすみやかな残留孤児の帰国措置をとらず、また帰国後の支援義務を怠ったとして国を相手に損害賠償を求める集団訴訟が起こされている。裁判所の考えは必ずしも孤児に有利ではない。現在、地裁段階だが孤児たちにとって一勝5敗である。法的には難しいとしても政府は責任を感じて動き出した。

 その支援策の一つとして、残留孤児に年金を満額支給するという政府案が示された。孤児たちが収めることが出来なかった保険料を国が代わって一括追納する。孤児への生活支援は、いかにも遅い。多くの孤児は60代の半ばを過ぎているのだ。

 この支援策は阿部首相の指示によるものだが、また別に、首相の従軍慰安婦に関する発言が問題になっている。60年前の傷あとがまだ続いているのだ。

 孤児たちが大陸で作り方を身につけた水餃子はうまい。ニンニクは入らずゆでて食べる。確かな歯ごたえの中に、彼らの苦労の半生がにじんでいるようだ。5月5日は、伊勢崎の華蔵寺公園で250人程の帰国者がゴールデンウイークの一日を楽しむ予定だ。

★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

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