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2007年4月26日 (木)

「知事選のマニフェスト作り、参院選の励ます会」

◆自分の選挙は終ったが休む暇はない。依然として選挙の流れの中にいる。目前に控えるのは知事選と参院選である。

  知事選のマニフェスト作りに参加。大きな選挙になると世論を動かすために斬新で魅力的なマニフェストが必要だ。多選批判だけでは勝てない。私も、教育政策などについて積極的に発言した。

◆参院選比例区候補の励ます会で上京した。参議院の役割については廃止論も含め議論がある。参院は政治的な駆け引きの場ではなく、大きな視野で国の将来を議論する理性の府であるべきだ。従来、とかくタレントなどをかつぎ出す傾向があった。これは国民を欺き政治不信を作る原因である。このようなことを考えながら候補予定者の真剣な訴えに耳を傾けた。

◆昨日、ペルーのテロ事件のことを書いたら反響があってフジモリとペルー移民のことをもっと知りたいというアプローチがあった。

  南米の移民というとすぐブラジルを思い出すがペルー移民の方が約10年早い。そのきっかけは明治初年の奴隷船マリア・ルス号事件である。

  コロンブスの新大陸発見後、アフリカの黒人を奴隷として大陸に運ぶ奴隷貿易が約400年も続く。明治、日本が開国した頃は、ようやく、この人類最大の過ちが幕を閉じようとしていた。ペルー船マリア・ルス号は、中国人を欺いて奴隷として秘かに運ぶ船であった。船の修理で横浜沖に停泊中、一人の中国人が海に飛び込み助けを求めたことから事件が発覚。明治5年のことである。

  明治政府の政治家は意気盛んで、237人の中国人を解放してしまった。このことでペルーとの間でトラブルとなり国際裁判にまで発展したのである。最後は、ロシア皇帝による仲裁で日本が勝訴した。これは、世界の仲間入りをしようとしていた若い日本が、人権問題で外交上の大ヒットを飛ばした画期的な出来事であった。

  この事件の解決を機に、日本とペルーの間で通商条約が結ばれ、国交が開かれ、やがて、明治33年、佐倉丸で790人の日本人が契約労働者としてペルーに渡ることになった。これが南米最初の移民であるが人々は各地の農場で奴隷のように扱われ酷い目にあった。逃げてリマ市にたどり着いた人々は皿洗いや露天商、そして床屋などをして生計をつなぎ、やがて、多くの日本人は商業で地盤をつくるようになる。

  フジモリの父直一が熊本県からペルーに渡ったのは、第一回移民のおよそ20年後である。直一はやがて故郷から嫁を迎えフジモリの誕生となる。フジモリに流れる血は100%日本人のものだ。フジモリは良く学び大学教授になり大統領になった。その失脚が悔やまれる。マチュピチュの遺跡からはるか下に糸のように見えたウルバンバの流れ、私たちのバスを追って、「サヨーナラー」とさけぶ少年の姿がまぶたに焼き付いている。あの少年の国ペルーはどうなっているか。

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