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2007年4月18日 (水)

「富士見の村議選に見る民主主義の実体」

  富士見村は、今、選挙一色である。村会議員選挙と村長選が17日に告示され同時に進行している。村長選は現職の星野村長に新人福島氏が挑戦する形で一騎打ちだ。もちろん合併を進めるか否かが最大の争点である。村議選の方は、18議席を24人が争う。こちらも合併が主な争点で、合併推進派と合併反対派に色分けされているようだ。

前橋との合併は、実現寸前まで行って駄目になった経緯がある。住民投票では、多数の住民が合併に賛成したが、村議会は多数をもって否決し、星野村長はこれに従った。この動きに対し民主主義とは何かということが問われ、世間も注目してきたのである。

主権者である村民の意志が最も重要であるが、代表民主制がとられ、村会議員、そして、村議会に村政を委ねたのだから、村議会の決定に従わなければならない。これが理屈だが、多くの村民は納得出来なかった。民意に基づいて政治を行なうのが民主主義である以上、村会議は、合併を可とする多数の村民の意志を尊重して議決すべきだった、という意見が当時から多く聞かれたことも当然といえる。

私は、この問題について、次のように考えていた。住民の意思で決定するのなら議会は要らない。ただ、民主主義である以上議会は民意を尊重すべきだ。しかし民意が絶対に正しいとは限らない。議会は、合併の問題点につき議論を尽くし、見識をもって、村の将来を考えて結論をださねばならない。この点につき、議会は役割を果たしたかが問われるげきだということ。

◇合併推進をかかげる福島候補の出陣式では、高木前橋市長が、合併を否決した村政を強く攻撃する長い演説をしたのが注目された。

私は、関係のあるいくつかの村議選の事務所を訪ねた。私の県議選の熱がまだ冷めず、身体には疲れも残る時期であるが、種類の違う他人の選挙を興味深く見た。自宅を選挙事務所とするところもあり、それらは、大きな農家であることが多いが、中に、住宅街の中の普通の住宅の一室を事務所にあてている所があって驚いた。はて、と思いながら玄関をあけるとタスキをかけた候補者がドアを開けて出てきた。2~3人の家族のほかには人影もない。「どういう選挙選を戦うのだろうか、これで当選できれば、理想の新しい選挙だが」と想像をめぐらした。

ある陣営では、集会所で多くの支持者を前に、ハチマキとタスキの候補者が、「私は決して政治家ではありません、皆さんのお使い小僧です」と叫んでいた。地方の時代といわれ、日本の民主主義を支える地方分権が地方の政治家の肩にかかっている。政治家であるが、お使い小僧でもあるという声が聞きたいと思った。

◇富士見村では、今、子どもたちにとって、生きた教材が村中で展開されている。政治の仕組み、民主主義、候補者が環境・福祉・教育等につき何を訴えるか。このまたとないチャンスを教室でしっかりと受け取めるべきではないか。実際は避けているのではなかろうか。

★土・日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

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