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2007年4月30日 (月)

『上州の山河と共に』連載(71)「県民会館の大会成功す』

 やがて、ポスターも出来上がった。ポスターは、濃い青色を背景にして、私の顔写真を大きく中央に据え、その上下には、横に、それぞれ〝二十一世紀をあなたと共に〟〝講師、元東大総長、林健太郎〟という大きな文字、さらに左側の隅には、タテに新旧交替という文字がいずれも赤い色で書かれた、賑やかなものであった。

 イベントの一ケ月前になって、このポスターを街頭に貼り出すことになった。この少し前から、ポスターを塀や戸に貼らせてくれる家を探し出す懸命な努力をしていたが、それは思うようにはかどらず、ここでも、無名の新人の無力を感じさせられたのだった。

 ある日、元気の良い若者達が、こんなことでは、せっかくのポスターが使えないと、市内の電柱に貼り出した。これは、幹部からは、しないようにと指示されていた事であったが、若者達はもう我慢できずそれを無視して実行した。

 ある夜、彼らが電柱によじ上り、懸命にポスターを貼っているところを、パトロール中のお巡りさんに見つかり、交番に連行され、ひどく叱られるという一幕もあった。

 あわただしく準備を進めるうちにも、一日一日は矢のように過ぎて、いよいよ明日がイベントの日ということになった。

 事務所に集まった若い人達は、皆、緊張した顔付きで、最後の打合せに真剣であった。駐車係、会場整理、来賓の接待等、役割の分担を決めて、これで手落ちはない筈と思っても、またしばらくすると、いろいろな問題点が出てくる。みなの顔に疲労の色が濃く出て、もうこれで打ち切ろう、あとは、運を天に任せて頑張るしかないということになって事務所の戸を閉める時は、既に、深夜十二時を過ぎていた。

県民会館の大会成功す

 私は、床についても、なかなか寝つけない。この運動を始めて以来、いろいろな出来事に会い、実に様々な人に会ってきた。その一つ一つが浮かんでは消えてゆく。あの町内で会った老人、突然訪ねて行った私にお茶を入れてくれ、温かく励ましてくれたあの主婦、街角で出会って握手したあの若者、これらの人は、この大会に参加してくれるだろうか。思えば、短いようで長い道程であった。この間、多くの人を運動に巻き込み、多くの人に良い政治家になる、良い県政を実現すると約束してきた。その責任を果たせるかどうかは重大なことであるが、その成否を左右する大会、そして、これまでの運動の成果を示す大会が、刻々と近づいている。ああ、もし、この大会が空席が目立つようなもので、盛り上がらなかったならどうしよう。眠れぬ私を包み込み、秋の夜は静かにふけていった。

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2007年4月29日 (日)

『上州の山河と共に』連載(70)「元東大総長・林健太郎先生に決まる」

 私は、林先生に電話でアポイントメントを取って、早速上京した。のるかそるか、当って砕けろ、という気持であった。

 林先生は、会うと開口一番言われた。

「運動は進んでいますか。当選はできそうですか」

「はい、お陰様で、かなり手応えが感じられるようになってきました。しかし、当選できるかどうか全く分かりません。ただ、夢中でやっています」

「初めてのことだから、予想は難しいでしょう。しかし、順調のようで安心しました」

「そこで、実は、今日は、大事なお願いがあって来ました」

 私は、思い切って切り出した。先生は、私の次の言葉を促すように黙って私の顔を見ている。私は、意を決して言った。

「反応が出てきたこの時期をとらえて、後援会の大会を計画しています。この大会は、当落を決める非常に大切な大会です。そこで、この大会を成功させるために、先生に御出席願い、お話をしていただきたいのですが」

 林先生は、日時のこと、会場のことなどを、少し質問した後、

「分かりました。出席します」

 あっさりと、そして、きっぱりと言った。

〝万歳〟私は心の中で叫んだ。同時に、後援会同志の喜ぶ顔が目に浮かんだ。私は、林先生の温かい心に感謝しながら、飛び立つ思いで帰途についた。車窓から見える赤城山も私を温かく迎えているようであった。

 連合後援会の福島会長等幹部、そして、プレハブ小屋で連日のように妙案を捜して苦しんでいた人達は大喜びで、この運動始まって以来のヒットであると湧き立った。

 これで街頭ポスターにも、入場券にも、元東大総長林健太郎と書くことが出来る。世間は注目するに違いない。残された課題は、当日の会場をいかに盛り上げるかということであった。私は、疲れが消えて、身内に勇気がみなぎってくるのを覚えた。そして、林先生の期待に応える為にも、何が何でも当選しなければならないと思った。

 全く組織のない状態、ゼロからスタートした我が陣営が、小ホールとはいえ、県民会館で後援会の大会を開くということは、予想以上に大変なことであった。現在では、三千人規模の大会を開くということもそれ程難しいことではないが、当時は、組織的な動員がほとんど期待できず、一人一人の人に集会への参加を呼びかけてゆかねばならなかった。

 特に、私が訪問した所へは、全て手紙を出し、知人、友人を誘って参加してくれるよう要請した。

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2007年4月28日 (土)

『上州の山河と共に』連載(69)「旗揚げの時」

 いろいろな意見が出された。芸能人やスポーツ選手、評論家などの名前があげられた。芸能人やスポーツ選手については、

「中村のイメージに合わない」

 という意見が大勢を占めたし、著名な評論家などは、金がかかりすぎて呼べないということになった。また、実際に二、三当たってみたが、当選の可能性も分からない新人の為に前橋まで来てくれそうな人は見つからなかった。 

 群馬県内から適当な人を探そうという努力もしたが、選挙がらみのことであり、当選するのかどうか分からない新人ということで、やはり、耳を傾けてくれる人は見つかりそうになかった。

 「元東大総長・林健太郎先生に決まる」

 何回目かの会議が開かれた。クーラーのない事務所では、二台の扇風機が鈍い羽音をたてて回り、企画会議のメンバー達は、この日も、何か妙案はないかと額を集めていた。

 そのとき、誰かが突然大きな声で言った。

「林健太郎さんがいるではないか」

 室内にどよめきが起きた。

「元東大総長だ。こんな田舎に来てくれないだろう」

「いや、頼んでみるべきだ。中村さんの恩師で、パンフレットに写真を載せてくれたのだから、承知してくれるかもしれない」

 事務所の中は、にわかに活気づいてきて、皆の視線は私に集まった。実は、この問題が論議されるようになった時から、私の頭の片隅に林健太郎先生のことが浮かんでいた。

 しかし、現実のこととしてお願いするという意識には至っていなかった。それは、恩師とはいえ、高名な学者であり、東大総長までして、現在もいろいろ重要な公職についておられる先生が、生臭い選挙がらみの集会に来てくれる筈はない。また、そのようなことをお願いするのも失礼なことだ、という考えが意識の底にあったからである。

 しかし、今、問題が行き詰った状態で、共に闘っている支援者の中から改めて言われてみると、私は、心に掛かっていたもやのようなものが、にわかに晴れてゆくように感じられたのであった。

「さっそく、林先生にお願いしてみます」

 私は、立ち上がってきっぱりと言った。

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2007年4月27日 (金)

「久しぶりに赤城南面を歩く」

◇午後5時すぎ、何ヶ月振りかで、赤城の山道を3時間程歩いた。4月の末というのに冷たい風が強い。セーターを着てその上にジヤンパーという冬のいでたちである。風は次第に強くなってごうごうとまわりの木立を揺する。間もなく驚くような光景が現われた。道の一方では、全ての松が切られ、切断された丸太は白いビニールにおおわれている。ビニールの包みは山の斜面を埋めるように広がっていた。それは、死体の山が累累と続くようで無気味である。そして道の他方では立ち枯れた松の群れが幽霊のように強風に身をさらしている。ぎしぎしという音は死体の骨が折れる音かと思われた。

松食い虫の被害はどんどん北上している。地球温暖化の影響と虫が薬に対して強くなっているといった事情があるらしい。赤城の松は間もなく全滅するだろう。松食い虫に侵された森林はできるだけ速く整理して他の木を植えるべきだ。

今、森林整備は地球温暖化対策という新たな視点から非常に重視されている。森林は二酸化炭素・CO2吸収するからだ。松食い虫対策も、CO2対策と連動していることを、山を歩き被害の現場に立って強く感じた。

◇自然界の異変に神経質になっている時、北米各地でミツバチが消えるというニュースを聞いた。突然ミツバチが行方不明になる。これが北米27州に広がっているという。死骸が見つからないのも不思議だ。

原因はいろいろ言われているが真実は分からないらしい。昆虫などは、異変を察知する能力を持つといわれるから、この現象は何かの前兆かという声もある。何億だか知れぬミツバチの群れがどこで生きているのかも気になる。今後のニュースを注目したい。

◇地球温暖化は危機的に進行し止まらない。ここ

 「久しぶりに赤城南面を歩く」に来て、温暖化の主因であるCO2対策の新しい動きが世界的に目立ち始めた。その一つがCO2を出さない石炭火力発電だ。日本、米国、中国、韓国、インドの5ヶ国が共同開発に乗り出す。

石炭を使う発電は、世界の発電量の約4割。石炭を燃やせばCO2が出るが。新しい発電の手法は、このCO2を液化して地中に保存する。経産省の試算では、すべての石炭火力発電所が、この手法を採用すれば世界のCO2排出量は25%減る。地球温暖化防止には、21世紀半ばまでにCO2などの温暖化ガスの排出量を半減しなければならないとされる。

◇次にここで取り上げたいのがバイオエネルギーの動き。今日(27日)から首都圏50ヶ所のガソリンスタンドでバイオガソリンの試験販売が始まる。これはバイオエタノールが混ざったガソリンのこと。サトウキビ、トウモロコシその他の植物を発酵させて作るバイオエタノールを燃料にする動きは世界的に広がっている。植物の体は空中のCO2を吸収して作ったものだから、燃焼した時出すCO2はもともと空中から取り入れたもの。つまり、空中のCO2の総量は増やさない。私は、先の南米視察で、バイオエタノールが広く使われていることを体験した。これを日本でも広げる時が来た。

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2007年4月26日 (木)

「知事選のマニフェスト作り、参院選の励ます会」

◆自分の選挙は終ったが休む暇はない。依然として選挙の流れの中にいる。目前に控えるのは知事選と参院選である。

  知事選のマニフェスト作りに参加。大きな選挙になると世論を動かすために斬新で魅力的なマニフェストが必要だ。多選批判だけでは勝てない。私も、教育政策などについて積極的に発言した。

◆参院選比例区候補の励ます会で上京した。参議院の役割については廃止論も含め議論がある。参院は政治的な駆け引きの場ではなく、大きな視野で国の将来を議論する理性の府であるべきだ。従来、とかくタレントなどをかつぎ出す傾向があった。これは国民を欺き政治不信を作る原因である。このようなことを考えながら候補予定者の真剣な訴えに耳を傾けた。

◆昨日、ペルーのテロ事件のことを書いたら反響があってフジモリとペルー移民のことをもっと知りたいというアプローチがあった。

  南米の移民というとすぐブラジルを思い出すがペルー移民の方が約10年早い。そのきっかけは明治初年の奴隷船マリア・ルス号事件である。

  コロンブスの新大陸発見後、アフリカの黒人を奴隷として大陸に運ぶ奴隷貿易が約400年も続く。明治、日本が開国した頃は、ようやく、この人類最大の過ちが幕を閉じようとしていた。ペルー船マリア・ルス号は、中国人を欺いて奴隷として秘かに運ぶ船であった。船の修理で横浜沖に停泊中、一人の中国人が海に飛び込み助けを求めたことから事件が発覚。明治5年のことである。

  明治政府の政治家は意気盛んで、237人の中国人を解放してしまった。このことでペルーとの間でトラブルとなり国際裁判にまで発展したのである。最後は、ロシア皇帝による仲裁で日本が勝訴した。これは、世界の仲間入りをしようとしていた若い日本が、人権問題で外交上の大ヒットを飛ばした画期的な出来事であった。

  この事件の解決を機に、日本とペルーの間で通商条約が結ばれ、国交が開かれ、やがて、明治33年、佐倉丸で790人の日本人が契約労働者としてペルーに渡ることになった。これが南米最初の移民であるが人々は各地の農場で奴隷のように扱われ酷い目にあった。逃げてリマ市にたどり着いた人々は皿洗いや露天商、そして床屋などをして生計をつなぎ、やがて、多くの日本人は商業で地盤をつくるようになる。

  フジモリの父直一が熊本県からペルーに渡ったのは、第一回移民のおよそ20年後である。直一はやがて故郷から嫁を迎えフジモリの誕生となる。フジモリに流れる血は100%日本人のものだ。フジモリは良く学び大学教授になり大統領になった。その失脚が悔やまれる。マチュピチュの遺跡からはるか下に糸のように見えたウルバンバの流れ、私たちのバスを追って、「サヨーナラー」とさけぶ少年の姿がまぶたに焼き付いている。あの少年の国ペルーはどうなっているか。

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2007年4月25日 (水)

「ペルー占拠事件を今、考える理由」

  今月22日で、ペルーの日本大使館占拠事件から10年になる。これを取り上げねばと思うのは、事件の数ヶ月前に現場を訪ねたということだけではない。それ以上に、民主主義とテロをこの事件によって改めて考える気になったからだ。

  現在、イラクを初め世界中でテロが起きている。日本でも長崎市長の殺害など民主主義を脅かす事件が続発している。世界は進歩しているのか後退しているのか。

  平成9年4月23日の早朝、テレビは、「ペルー・リブレ(ペルーは自由だ)、ペルーはテロを許さない。そのことを世界に示したのだ」と叫ぶフジモリ大統領の姿を映し出していた。

  この事件は、平成8年、ペルーの日本大使公邸で天皇誕生祝賀のパーティーを行なっている最中に起きた。2,000人に及ぶ招待客にテロ集団MRTAが紛れこんでいたのだ。占拠は、以来、世界の目を釘付けにして126日間に及んだ。人質とされた人々の中には24人の日本人もいたのである。

  私たちは、県会議員の海外視察で南米を訊ね、5月3日早朝ペルーのリマに着き、午後日本大使公邸で青木大使と会見した。大使は、フジモリ大統領のことを身を乗り出すようにして次のように熱く語っていたのが今でも記憶に残っている。「フジモリは命がけでテロとインフレを克服しペルーを奇跡的に復興させました。フジモリの支持率は最も貧しい層において一番高いのです」と。

  最も貧しい層とは、先住民族・インディオや白人との混血の人々のことだ。コロンブスによる新大陸発見に続いて侵入したスペイン人によって原住民は虐殺され以来この地では悲劇の歴史が続いた。その中で、白人の支配に抵抗するテロは止むことがなかった。事件を起こしたMRTAは、トオパクアマルの革命運動と呼ばれ、トオパクアマルとは、スペインに亡ぼされた最後のインカの皇帝の名である。

  インデイオの子孫、及び白人との混血が人口の90%をしめこれらの人々の生活は貧しく悲惨だった。社会の不満に対してテロが続発し、その事が国の発展を妨げた。人々の心は乱れ、政治の道徳も地におちていた。

  フジモリは移民の2世である。彼は、「モラリサシオン(道徳化)」を掲げて大統領選に出た。アンデスの住民はフジモリの姿に日本の発展を重ね合わせた。武士道への憧れや、亡ぼされたインカへの復讐という思いもあったかも知れない。しかし、何よりも重要なことは、テロでは解決しないことを悟り、フジモリによる民主主義に国の未来を賭けたことである。

  フジモリは大統領に当選し改革を断行した。テロはなくなり、空前のインフレは克服された。それだけに、再び芽を出そうとしたテロを抑えるフジモリの気迫は凄まじかったのである。フジモリがその後失脚したことは残念である。しかし、歴史の歯車は後戻りはしない。イラクのテロや北朝鮮の非道もやがては消える。日本は、民主主義の先進国を目指さねばならない。ペルーの人々も、地球の反対側からそれを期待しているだろう。 日本も、社会のモラリサシオンを改めて実現する時だ。

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2007年4月24日 (火)

「伊香保で国会議員との合同会議」(23日)

  福一の会議の主なテーマは知事選である。国会議員本人の出席は、笹川堯、佐田玄一郎、山本一太の各氏であった。知事選に向けての組織づくりと運動の大まかな方針が話し合われ、当選ラインを40万票として、後援会加入者60万人を集めることも決められた。これだけの組織がフル回転したら必ず当選するに違いないと思った。

  統一地方選で生まれた我が方の大沢候補に有利な事情は、先ず、館林市で安良岡氏、桐生で亀山氏がそれぞれ市長に当選したこと。これまで館林市では中島市長、桐生では大沢市長がそれぞれ小寺知事支持を表明していた。

  選挙で勝敗を左右するものは無数の一般有権者の動きである。有力者や団体の推薦の数によって決まるものではない。肩書きのある有力者や立派な推薦団体がきら星の如く並びながら、これらが一陣の風に飛ばされる木の葉のように蹴散らされて、あっけなく敗れた選挙を、私はこれまで多く見てきた。全ては、これからの大衆の心をつかむ戦略にかかっている。

◆伊香保の会議では、県議団の総会も行われた。ここの議題の一つに弔電の廃止をどうするかがあり、私が求められて説明した。

  実は、先日、前橋勢多郡選挙区で当選した5人の自民党県議が集まって弔電の打電の全面廃止を決めた。これは私が提案したもので虚礼廃止と政治改革を目的としたものである。

  これまで、特別関係のない政治家からの弔電が寄せられることに批判が出ていた。心が現れていない、葬儀の場を政治に利用するという見方をされても仕方がなかったと思う。これまでも、特別のところだけにしようという意見が出ていたが、ズルズルと範囲が広がって競って打つようになった。そこで、例外なく弔電は打たない、打ったらペナルティを課すと私たちは決定した。この決定は同時に、無駄な経費を節約することで政治改革に資することが出来るという考えに基づいていた。

  私が記者会見をして新聞に出たこともあって、県議の弔電廃止は反響を呼んだ。私の知る限り、人々は良いことだと賛成してくれた。このことが、他の県議の耳にも伝わっていたと思われる。そこで伊香保の会議で議題となったわけであるが、賛成意見が次々に出て、全会一致で、弔電廃止が決まったのである。

◆今月22日は、ペルーのリマにおけるゲリラの占拠事件から10年目になる。いくつかの新聞が取り上げていた。実は、この事件は、私にとって忘れ難い出来事とつながっている。革命組織MRTAによる占拠は126日間続いたが、その数ヶ月前に私達県議団はリマを訪ね、占拠された大使公邸で青木大使にも会ったのである。移民の子のフジモリがアンデスの人々に支持されて大統領になった経緯は、ロマンを掻き立てるものであった。期待したフジモリは失脚し私を失望させる結果となったが、南米の移民の歴史の流れは、私たちに力を与えてくれる。明日の「日記」では、この占拠事件とフジモリの事を書きたいと思う。

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2007年4月23日 (月)

「統一選の出来事を振り返って」

◇富士見の村議選では珍しいことが起きた。先日の日記で、事務所らしきものは自宅の座敷だけと書いた笠井進一氏が当選したのだ。出陣式も総決起大会もしなかったが独自の選挙運動の中で政策は真剣に訴えていた。このような当選の仕方が実現したことは、今後の新しい選挙に影響を与えるかも知れない。選挙というと金をかけ、地域ぐるみで大掛かりな祭りのようなことをやるのが通常のパターンになっているが、小さな選挙なら工夫によって金もかけずごく少人数でやれるという見本を示したことになる。富士見村のもう一人の即席の候補者は届かなかった。こちらは本気で挑戦したとは思えない。

◇桐生市長は、県議会で最近まで我々の仲間であった亀山豊文氏が初当選を果たした。敗れた大沢市長も元県議。亀山氏の父親・亀山憲明氏も元県議である。新市長はみどり市との合併を考えているが、みどり市の石原条市長も元県議である。

◇全国で私が注目したのは、長崎市と夕張市である。長崎は、前市長が射殺され、その娘婿が立候補した。この人が独走し当選かという見方もあったが長崎市民は冷静な判断を示した。対立候補が良かったということもある。

 選挙中に候補者が銃殺されるという、正に民主主義への挑戦が行われた後だけに、同情と世襲という民主主義にとって好ましくない要素に大きく動かされなかった長崎市民に敬意を表したい気持ちだ。

 破綻(はたん)した夕張市を再建出来る人を選ぶことが市長選の最大の課題であった。市民はどこの選挙民よりも真剣に考えて一票を投じたに違いない。どの位の投票率であったか調べてみたいと思う。

 財政破綻の理由を市民は何も知らされていなかった。情報公開の重要性を夕張市民は、今さらながら思い知らされたに違いない。これまでの市長が批判されているが、市長に対するチェック機能を果たせなかった市議会の責任も大きい。夕張市の市議会議員の選挙の実態にも興味が湧く。

◇改めて情勢公開の意義について。

夕張市の財政破綻に関しては、民主主義の原点として学ぶべきことがある。情報公開の意義である。情報によって市政を知り、これを批判したり提案したりが可能になる。市民は主権者であるが情報がなければ市政に参加することが出来ない。その意味で、情報は民主主義を支える基盤である。

 多くの自治体に情報公開条例がある。恐らく夕張市にもあることだろう。しかし、それが生かされないのでは、絵にかいた餅である。地方の政治家には、自治体の情報を住民に提供する義務がある。今回の統一地方選を見て、候補者と有権所の凄まじい接触ぶりを感じたが、これが選挙の時だけの姿であっては民主主義の発展はない。有権者に情報を提供する日常の努力によって、真の絆が出来る。このことを今回の選挙の渦中で強く感じた。

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2007年4月22日 (日)

『上州の山河と共に』連載(68)「旗揚げの時」

「千人を目標に集めなければならない。組織的な動員が出来ないのだから、これは大変だ」

「しかし、小ホールがいっぱいに出来ないようでは、泡沫候補にさてしまう。どんなことがあっても、いっぱいにしなければならない」

「この陣営で、千人も集められるかなぁ」

心配そうな顔をした水洋会役員の間から、いろいろな発言が飛び交う。

「やることに決まったのだから、やるしかない。どうしたら、人を集められるか、これを考えてゆこうじゃないか」

誰かがこう発言すると、皆、異論なく、そういう方向で力を合わせてゆこうということになった。

水洋会を中心として、毎週、企画会議が開かれた。具体的な準備にとりかかってみると、3ヶ月ちょっとという期間は、非常に短いものである事が分かった。

参加を呼びかけた人を整理し、確保してゆかねばならない。その為には、入場券を作るべきだ。その入場券には、番号を付けて何番から何番までは何々会の誰が責任者ということを決めて、出来るだけ多くの人が分担して責任を分かち合って、人集めを進めてゆこうではないか、といった具合に、一歩一歩具体的に計画が練られていった。

この過程で、水洋会のある幹部が発言した。

「このイベントの目的は、県民会館のホールをいっぱいにすることだけでない。当選には、その十倍も、二十倍もの人が必要なのだ。だから、このイベントを利用して、世間の多くの人に訴えて、中村のことを知ってもらう事が必要なのだ。」

その通りであった。では、その為には何をしたら良いかということになり、結局ポスターを街中に貼るのが良いということになった。

「しかし、中村の顔写真のポスターをただ貼るだけでは、訴える力が弱い。良いキャッチフレーズと、誰か、講師として著名人の名前を出すことが必要だ。」

ということになった。

キャッチフレーズについては、知恵を出し合えば何とか見つかるだろう。しかし、講師として著名人、となるとなかなか難しかった。(28日土曜日に続きます)

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2007年4月21日 (土)

『上州の山河と共に』連載(67)「妻の退職・旗揚げの時」

 そして、妻の退職には、もう一つ重要な意味があった。それは、退職金のことである。私は、もともと資金のない状態で出発し、お金を使わずに当選しようと思っていたから、運動にかけるお金は僅かであったが、それでも、かなりの金がかかる。既に、わずかの貯金も底をつく状態であった。妻は、あと一年余りで恩給が付くというところであったが、背に腹はかえられず、退職して退職金を運動の費用に当てることにしたのである。

 妻は、一中、桂萱中で英語の教師を長く勤めてきたが、その後、恵まれない子供達と接したいという考えから東毛養護学校で病弱児童の教育に当っていた。この長い教職生活に別れを告げ昭和61年8月妻は退職した。妻は良く働いた。昼間の仕事に加え、夜は私と交替で学習塾の指導も分担したので、その負担は、精神的にも肉体的にも相当なものであった。

 辛いとか苦しいとか口には出さないが目の凹んだ妻の横顔を見て、病死した前妻のことが頭をよぎることがあった。そして、<俺は、大変な博打に妻を付き合わせているのだろうか>、こんな思いが湧く。しかし、<そんなことはない。俺達夫婦は、理想の旗を共に掲げ、共に闘いながら、着実に勝利に近づいているのだ。多くの人達も、俺達の旗を信じて集まってくれている。やり抜くしかない>、私はこう思った。

「旗揚げの時」

 昭和61年の盛夏、我が陣営の拠点である芳賀の事務所は、緊迫した雰囲気に包まれていた。

 私は、水洋会初め、幾つかの団体の役員達の前に立って、連合後援会の重要な決定について説明していた。

 これより数日前、この事務所に、連合後援会長の福島貞雄氏を中心とした後援会の幹部が集まり、一つの重要な決定がなされたのである。それは、この年の暮に、いよいよ我が陣営の存在を天下に知らしめる行事をしなければならない。この運動に勢いをつけて、翌年4月の目的を達成する為には、このイベントをどうしても成功に導かねばならない。すべては、このイベントの成否にかかっている。それを10月5日、県民会館小ホールで後援会大会という形で行おう、ということであった。

 これ迄の集会は、多くてもせいぜい30人ちょっとの規模であった。それが、今度は、県民会館でやろうというのである。小ホールとはいえ、座席は650程ある。このホールを、通路を含め立錐の余地がない程にいっぱいにしなければならない、というのが幹部会の方針であった。(明日の日曜日に続きます)

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2007年4月20日 (金)

「長崎市長殺害の波紋」

  統一地方選の最中だけに長崎市長殺害の襲撃が選挙関係者の間に広がっている。中には、防弾チョッキを着用したりボディガードをつけたりする候補者がいると報じられている。一つの事件が同種の事件を誘発することはよくあるから無理はない。

  行政に対する不法な行為で逮捕される者が相次いでいる。私が議長の時も、議場で暴言を吐いたり、議会事務局長や私の所へ押しかける男がいた。また、行政各部や私など政治家に不当に高価な書物を買うよう威圧的に求めるものが跡を絶たない。少し前に同和を名乗る男が、数万円の書物を買ってくれと電話をかけて寄こし、断ると、「同和のことに協力できないのか、覚えておくわ」と捨てせりふを言った。このような言動に恐怖感を覚える人もいるだろう。

  政治家や行政に関わる者に求められることは、これらの不当な行為に対して毅然とした態度で臨むことである。面倒だからと妥協したりすると、結果としてこの種の行為を蔓延させてしまう。今日、これに近い状況にある。

  政治や行政に難癖を付ける者に、暴力団と右翼等がある。今回の長崎市長殺害の容疑者も山口組系の暴力団の組員だった。自治体から金を脅し取ろうとする暴力団が増えている。昨年、全国の自治体から警察へ寄せられた相談件数は2400件だという。実態はもっと大いに違いない。

  暴力団対策法が出来て暴力団に対する規制が強まる中、行政に対する違法すれすれの行為が増えているのではないか。最近の傾向として、行政は市民の批判に弱い。暴力団などはこのような傾向を悪用しているといえる。そして、行政への不当要求と同じように政治家への不当な圧力も増えていることを感じる。

  これらの動きを甘く見てはならない。恐いから、あるいは面倒だからといって、政治や行政が萎縮するなら、正に民主主義の危機である。民主主義という美しい建物が白アリに犯されている状況が進んでいるのだ。県警は、政治家や行政に対する不当な要求行動を、民主主義に対する挑戦という新たな視点でとらえなおす必要がある。

◇日経新聞に火炎瓶を投げた右翼の男が逮捕された。男は、記事に警告を与える目的だったと認めている。記事は、「昭和天皇がA級戦犯の靖国神社への合祀に不快感を感じ参拝を中止した」とする元宮内庁長官のメモの紹介である。

  男は昭和天皇を靖国問題の世論操作に利用するとして新聞社の姿勢を攻撃したものらしい。かつて、朝日新聞の支局を襲って記者を殺した事件(時効成立)も記憶に新しい。

  新聞社に対する攻撃は、正に言論の自由に対する挑戦である。現在の社会を支える最も重要な柱は言論の自由であるからだ。これが失われたら民主主義は崩壊する。政治家や新聞社に対する不当な攻撃が許せない理由はここにある。今回の事件を機に私たちは、言論の自由の意味を改めて考えてみる必要がある。

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2007年4月19日 (木)

「長崎市長が殺されたことの意味」

◇選挙の真っただ中に、しかも、選挙事務所の前で長崎市長が撃たれて殺された。容疑者は暴力団の組員で、動機は市長に対する恨みと伝えられる。仕事からはずされたとか、交通事故の処理への不満とか報じられているが、政治に対する不満に暴力で報いることは、まさに民主主義への挑戦である。

日本は、世界で最も民主的部類に入る憲法を持ち、言論の自由が最大限に保障されている筈の国である。選挙は、この言論の自由が最大限に生かされる場である。そして、選挙は、この言論の自由によって民主主義を実現する場である。長崎市長を殺した銃弾は、日本の社会を支えるこの言論の自由と民主主義に撃ち込まれた凶弾に他ならない。

10年程前にも、産廃処分場の建設をめぐるトラブルに関し岐阜県御嵩町の町長が暴漢に襲われ重傷を負う事件があった。

この種の事件は、ことの重大性を国民がしっかりと認識し厳しく糾弾しないとまたいつか同様な事件が起き日本の民主主義そのものが崩れてします。

私は、自由にものが言える社会、特に自由な言論によって政治が築かれる社会の重要性を、この事件を機に国民が良く見詰めるべきだと思う。美しい国日本を実現することが叫ばれているが、美しい国の基盤は、健全な民主主義なのである。このことを子ども達にもしっかりと教えなければならない。

◇テロによって自由にものが言えなくなり、世の中が誤った方向に大きく動いていった過去の歴史的事実を思い出す。昭和5年浜口雄幸首相は東京駅で狙撃された。そして、昭和7年には血盟団事件が起き政界、財界の重要人物が次々に殺される事件が起きた。一人一殺の暗殺組織血盟団の首謀者は利根郡川場村生まれで前中(現前高)で学んだ井上日召であった。

◇言論の自由が押しつぶされる状況の中で、満州国建国(昭和7年)、国際連盟脱退(昭和8年)、日中戦争(昭和12年)と日本は後戻りできない破局へと突き進んで言った。

過去の政治へのテロは、政党政治(民主政治)への絶望感が背景にあったと思う。あの頃と現在は大きく違う。しかし、民主主義への不信が社会に広がるとテロが起きる危険性が高まることは同様である。選挙は民主主義を支える場であると同時にこれを発展させる場でもある。投票率が低いことは民主主義を脅(おびや)かす要素であることを訴えたい。

◇昨日、富士見村で、ある村議選候補者にあった。告示日の前日に出馬を決意し行動を始めたいという。事務所らしきものも準備されていない様子。本人は、まじめな知識人らしいが緊迫感はまったく感じられない。同じ町内の数百メートルの所に別の現職の事務所がある。「もしかして当選できたら面白いですね」と私はつい失礼な発言をしたが候補者は全く意に介さず笑っていた。選挙は手を上げるだけで重要な意味をもつ。近くの候補者は脅威を感じているだろう。出馬したからには、政策を訴えて真剣に戦ってほしいと思った。

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2007年4月18日 (水)

「富士見の村議選に見る民主主義の実体」

  富士見村は、今、選挙一色である。村会議員選挙と村長選が17日に告示され同時に進行している。村長選は現職の星野村長に新人福島氏が挑戦する形で一騎打ちだ。もちろん合併を進めるか否かが最大の争点である。村議選の方は、18議席を24人が争う。こちらも合併が主な争点で、合併推進派と合併反対派に色分けされているようだ。

前橋との合併は、実現寸前まで行って駄目になった経緯がある。住民投票では、多数の住民が合併に賛成したが、村議会は多数をもって否決し、星野村長はこれに従った。この動きに対し民主主義とは何かということが問われ、世間も注目してきたのである。

主権者である村民の意志が最も重要であるが、代表民主制がとられ、村会議員、そして、村議会に村政を委ねたのだから、村議会の決定に従わなければならない。これが理屈だが、多くの村民は納得出来なかった。民意に基づいて政治を行なうのが民主主義である以上、村会議は、合併を可とする多数の村民の意志を尊重して議決すべきだった、という意見が当時から多く聞かれたことも当然といえる。

私は、この問題について、次のように考えていた。住民の意思で決定するのなら議会は要らない。ただ、民主主義である以上議会は民意を尊重すべきだ。しかし民意が絶対に正しいとは限らない。議会は、合併の問題点につき議論を尽くし、見識をもって、村の将来を考えて結論をださねばならない。この点につき、議会は役割を果たしたかが問われるげきだということ。

◇合併推進をかかげる福島候補の出陣式では、高木前橋市長が、合併を否決した村政を強く攻撃する長い演説をしたのが注目された。

私は、関係のあるいくつかの村議選の事務所を訪ねた。私の県議選の熱がまだ冷めず、身体には疲れも残る時期であるが、種類の違う他人の選挙を興味深く見た。自宅を選挙事務所とするところもあり、それらは、大きな農家であることが多いが、中に、住宅街の中の普通の住宅の一室を事務所にあてている所があって驚いた。はて、と思いながら玄関をあけるとタスキをかけた候補者がドアを開けて出てきた。2~3人の家族のほかには人影もない。「どういう選挙選を戦うのだろうか、これで当選できれば、理想の新しい選挙だが」と想像をめぐらした。

ある陣営では、集会所で多くの支持者を前に、ハチマキとタスキの候補者が、「私は決して政治家ではありません、皆さんのお使い小僧です」と叫んでいた。地方の時代といわれ、日本の民主主義を支える地方分権が地方の政治家の肩にかかっている。政治家であるが、お使い小僧でもあるという声が聞きたいと思った。

◇富士見村では、今、子どもたちにとって、生きた教材が村中で展開されている。政治の仕組み、民主主義、候補者が環境・福祉・教育等につき何を訴えるか。このまたとないチャンスを教室でしっかりと受け取めるべきではないか。実際は避けているのではなかろうか。

★土・日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

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2007年4月17日 (火)

「貧しくなったのか日本人の心」

「日本は世界の経済大国となって、物は非常に豊かになりましたが、人の心は、逆に貧しくなったといわれます。このままでは、日本は駄目になってしまいます。」選挙期間中の演説の中で、私は、たびたび、このように訴えた。

 だから、日本人の心を豊かにする事に真剣に取り組まなければならないと主張して教育問題につなげる。このような切り込み方は好意的に受け取られたようだ。

 日本人の心が貧しくなった事を示す事として、「恥じを知れ」とか「恥知らず」という言葉が日常生活であまり使われなくなったことがあげられると思う。名誉を重んずる、恥ずべきことを恥ずかしく思う、これらは、日本人の美徳として日本人の心を支える要素であった。

 私の知る範囲でも金を借りて返さない人が何人もいる。そういう人は貸した人と顔をあわせてもしゃあしゃあと平気でいるというのだから呆れる。更にその周辺には、給食費、公営住宅の家賃、病院の受診料等を払わない人がいる。いわゆるモラルハザード(道徳的崩壊)といわれる社会現象が大きく広がっている。

 このような社会の実態と最近の犯罪現象、とくに詐欺罪の状況は無関係ではない。次々と新たな手口を考え人をだます事をビジネスとする夥(おびただ)しいやからが法治社会の陰の闇で蠢(うごめ)いている。

 とくに振り込め詐欺の動きにこのことを感じる。誰かが思いついたこの詐欺の手口は空前のヒットとなって平成16年頃から全国的に広がった。人間心理の弱点をついたこの犯罪の勢いは何年経っても衰えないのだから呆れてしまう。

 振り込め詐欺とは、オレオレ詐欺、架空請求詐欺、融資補償金詐欺のことである。これらに恐喝が伴う振り込め詐欺というものもある。警察庁は、平成18年6月に100人のグループの振り込め詐欺組織を逮捕した。一つの企業(?)として動いていたと思われる。

 警察白書によれば、平成17年中の振り込め詐欺及び振り込め恐喝の被害総額は約251億5,000万円だという。この年オレオレ詐欺は減少し、融資保証金詐欺が増加した。そして、全体としての被害は減少した。

 群馬の場合は、昨年一年間の振り込め詐欺の被害は5億7,100万円で、前年比20%増、振り込めの三つの手口の中でオレオレが最も多いという。オレオレ詐欺の被害は前年比24%増の約2億7千万だ。

 私の関係者にも危うく騙されそうになった人がいた。高齢者は、受話器から泣き声が聞こえると、思わず、「誰ちゃんかい」と名をいってしまうらしい。名前が分かると、この誰ちゃんに成りすましたストーリーが展開してしまう。受話器の向うでは、何人か役割を持ったスタッフがいて劇場が用意されている。パニックに陥ったお年よりは、知らないうちに一幕の登場人物にさせられてしまう。人が信じられない社会が進んでいく。どこかでくい止めなければならない。

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2007年4月16日 (月)

「土・日は、各地の行事に出る。」

◇議員の日常生活が始まった。昨日はいろいろあったが、秋田犬の品評会は楽しかった。私は秋田犬保存会の顧問である。あきた「けん」と呼ぶ人が多いが正しくはあきた「いぬ」である。前橋のJA本所の構内で行われた。今回は、関東中央総会ということで関東各地から多くの愛犬家が自慢の秋田犬を連れて参加。会場を歩きながら、「いい犬ですね」と声をかけると、いかつい顔の飼い主は、例外なく相好を崩しいかにも嬉しそうである。散歩でナナを誉められた時の私の気持ちと同じなのだろう。

秋田犬は代表的な日本犬で、国の天然記念物となっている。ピンと立った耳、太く巻き上がった尻尾、どれもいいが、特に鼻すじのラインが美しく品がある。おとなしくて、主人に忠義であるが猟犬のDNAを受け継いでいるから本質は荒い気性をもっている。秋田のひと噛みといわれ、油断するとカブッとやられることがある。ちなみに渋谷駅の忠犬ハチ公は秋田犬である。選挙で疲れた心をいやしてくれる秋田犬の面々であった。

◇林健太郎先生のこと。 

送られてくる雑誌を読むことが出来ない日々であったが、久しぶりに文藝春秋を見た。特集号「昭和を彩った100人」である。その中に恩師林健太郎先生が取り上げられていた。

二枚の写真と共に、次のようにある。「東大西洋史学科卒。近代ドイツ史を専攻し、戦争中はマルクス主義の立場からファシズムを批判する。戦後はソ連への疑問などから保守リベラルの立場に移行。東大紛争の最中に文学部長に就任し、学生との170時間余に及ぶ軟禁団交に耐え、要求拒否を貫き世間に感銘を与えた。のち東大学長、参院議員。平成16年没、91歳。」

実は、今回の県議選に関しても、林先生に登場願い応援して頂いたのである。私は、20分程で見られる簡単な映画を作って各地の集会で利用した。その中味は、初当選に至る場面、議長としての南米訪問、議長室のこと等であるが、初当選に至る場面で、林先生の写真を使ったのである。

第一回の県民会館の集会に、林先生は、応援に駆けつけてくれた。「剛毅木訥は仁に近し」という論語の言葉を引用して私を紹介してくれたことが記憶に残る。私のパンフレットにも先生と握手している写真を載せポスターにも元東大総長来たると書いた。

林先生には、その後も長くお世話になった。私の書斎の一画には、国史大辞典15巻や林先生の著書が並ぶ。先生の死後、奥様から頂いたものである。これらの書物を眺め、激戦を振り返りつつ、先生への思いを新たにした。

◇娘のゆりが運転してくれて、毎日20~30軒程お礼の挨拶に回っている。多くの人がそれぞれの立場で真剣に票を集めてくれたことが肌に伝わる。一票の重さと価値を会う人ごとに思う。それを今後の政治活動の基礎にすることが、選挙と民主主義を結びつけることだと思う。

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2007年4月15日 (日)

『上州の山河と共に』連載(66)「地域後援会・妻の退職」

 私の住んでいる所は、芳賀の中心に位置する鳥取町という小さな町である。ここは、地元中の地元ということで、町民の皆さんにことの外お世話になっていた。ここでは松本利之さんが初代の支部長を引き受けて下さった。温厚篤実な立派な方であったが病気の為世を去られたことは残念でならない。その後は、加藤市郎さんが支部長として尽力されているが、この加藤さんの下に鳥取町青年部の皆さんがいた。鈴木安雄さん、佐藤英教さん、大沢照庸さん等を中心とするグループで、皆、元気の良い人達であるが、中でも、鈴木安雄さんは自ら行動隊長と称するだけあって、血気盛んな快男児である。

 鈴木さんの経歴が面白い。彼は中学校を卒業するとすぐに上京し、ある企業に就職して、持前の頑張りと行動力を発揮して、すぐに社長夫婦に認められる存在になった。夜の大学に通いながら仕事の腕を上げ、実績を重ね、やがて独立し、故郷の芳賀で会社を興し、現在多くの社員を擁する会社の社長として頑張っている。口の先から生まれたかのように良く喋り、よく笑い、時にその振る舞いは大胆で傍若無人に見えるが、裸一貫から企業を興し成功するだけあって、繊細な一面を持つと同時に、緻密な計画性を備えた大した男である。ちなみに、社名のアームストロングというのは、かつてアメリカの宇宙船が初めて月に着陸した時のアームストロング船長の名をとったというのであるから、なかなかのアイディアマンでもある。芳賀の人達は、この人のことを通称“アームさん”と呼んでいるが、アームさんは鳥取町の人達と共に、本当に良く頑張ってくれた。

 元総社を中心とした利根西も、今でこそ各町に後援会が出来ているが、当時は、そこまではゆかず、私の元総社中学の同級生を中心として作られた利根西クラブが活動の主体であった。ここでは、同級生の松田博や石井敏美、そして、元中後輩の関谷俊雄さんなどが中心となって動いてくれた。

 関谷俊雄さんは、思慮と行動力に富んだ立派な人物であるが、その後、自らの政治理念を実現する為に、前橋市議選に立候補した。私と同じような草の根運動を展開、見事高得点で当選し、現在、前橋市議として大いに注目されている。

「妻の退職」

 この頃、後援会活動が活発化するにつれて、事務局的な細々とした仕事がにわかに増え、ボランティアの人達に手伝ってもらうだけではどうしても間に合わない状態であった。どうしても専属の事務員が必要で、それは、来春の当選を果たす為には、一刻の猶予も許されないことと思われた。

 そこで、私達夫婦は、かねてから迷っていた事について、とうとう決断を下した。それは、妻の退職という事であった。妻の事務能力と行動力は、それまでも、目立たない所で私を支える重要な戦力であったが、教職についていたのでは、中途半端な力しか発揮出来なかった。決戦の時が日一日と近づくことを思うと、私達夫婦の全ての力を唯一の目的に傾注すべきことは当然のことと思えた。また、多くのボランティアの人達が熱心に働いてくれることを承知しながら、職場に出かけて行くことは、この人達に対して申し訳ないことと思われた。(21日の土曜日に続きます)

★土・日・祝日は以前からのご要望により「」上州の山河と共に』を連載しております。

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2007年4月14日 (土)

『上州の山河と共に』連載(65)「一紀会・地域後援会」

 道上君は、同じ運輸会社に現在も同じペースで勤務している。彼の外見は極めて穏健、ソフトで、内に秘めた精神力や過去の生活歴を他人に微塵も感じさせない偉い男である。

 一紀会が分離独立した後は、水洋会、一紀会、それぞれの特色を発揮しながら、活動し、大いに会を発展させることになった。

「地域後援会」

 運動を始めて一年近くが過ぎようとしていた。さすがに、この頃になると、地域後援会も、ぼちぼちできるようになってきた。

 地域後援会の重点地区は、西片貝町を中心とした桂萱、私の住む芳賀、そして、元総社を中心とした利根西であった。そして、各種後援会を統括する連合後援会の会長には、福島貞雄氏が就任した。この人は、福島浩の実兄で、赤城自動車工業の会長であった。

 福島貞雄氏は、当時、五十歳を少し越えたばかりの働き盛りで、細身で精悍な風貌の中に知性とエネルギーを感じさせる人であった。通常、連合後援会長といえば、かなりの年輩で、黙って全体を眺めているといった感じの人が多い。ところが、我が陣営の福島氏は、自らてきぱきと判断を下し、そして、自ら行動する人で、道なき道を切り開いて進まねばならない我が陣営には誠にふさわしい、そして、頼もしい人物であった。

 そして、連合後援会の中枢にあって、福島氏の良きパートナーとして重要な役割を果たしてくれた人に、小沢利治氏がいた。小沢氏は、その父親が市議会議員を数期勤めた桂萱の名門の出で、地域社会に影響力を持つ人物であった。小沢氏のような地域の重要人物が、私のような、とかく泡沫候補と見られがちな新人に、本気で応援してくれることは稀なことであって、大変ありがたいことであった。

 この当時、桂萱地区で、曲がりなりにも地域後援会が出来たのは、私が長く学習塾をしていた西片貝町だけであった。そして、ここでは、高橋甲子雄(きねお)さんが支部長となり、その下で、砥上三千雄さんを中心とする青年部の人達が活躍してくれることになった。

 この当時、地元芳賀地区においては、連合自治会長の村山栄一氏がいろいろと骨を折って下さったが、後援会の関係では、芳賀地区の後援会である「中村のりおを育てる会」の会長として、六本木近男(ちかお)さんが大変頑張ってくれた。

 近男さんは、五代町で農業を営む、いかにも律義な人で、人の前で演説をしたこともないと言いながら、よく大役を果たしてくれた。

 芳賀地区では、後になって、村山栄一氏、小林清六氏、宮内禎一氏等を柱とする本格的な後援会組織が出来るが、その基礎を作ってくれた六本木近男さんの御苦労に対しては、今でも深く感謝している。(明日の日曜日に続きます)

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2007年4月13日 (金)

「お礼回りで知る選挙の実態」

  お世話になった支援者を訪ねた。ある大きな企業の社長は、今回は、事情があって私の幹部役員を降りた人であるが、選挙戦が押し詰まった段階で、全社員を集めて支援を訴えてくれた。私はその、熱い友情に感激し、氏の政治に寄せる高い志に敬服した。応接室で私を迎えた彼は、激戦を勝ち抜いたことを心から喜んでくれた。貴重な票の重さを感じた。

  利根西のある経営者を訪ねた時である。私と話している社長の携帯が鳴った。その受け答えから私の事だとすぐに分かった。携帯の声は礼状をもらったことに対し、御丁寧にと、また礼を言ってきたのである。この社長は年来の同志であるが、今回は雰囲気がいつもと違うと感じとって、友人知人など八方に手を尽くして呼びかけ、当選が決まると、呼びかけた全てに礼状を出してくれたのである。一票一票の有り難さを感じた。

  また、私の後援会が広がるある町の古い支援者の家では、こんなことも聞かされた。ある候補者の奥さんが主人が危ないから助けて下さいと言って、一軒一軒を必死で回ったというのである。中村さんは大丈夫だからというのでかなりの票が流れたのではとも言われた。選挙は、政策よりも、情によって動かされる部分があることを思い知らされた。

  病床にいた妻は、このようなことを想像してあせり、そのことが一層、頭痛を激しくしたのかもしれない。

◆人の和を生かすことの難しさ。今回の選挙でも、運動員間の人間関係の難しさが悩みであった。選挙に積極的に参加しようとする人は、概して意欲的でありまた個性の強い人が多い。

  意欲的だから自分の考えを主張し積極的に行動する。時に考えが違い協調できないことがあると衝突してしまう。今回もこのような摩擦がずいぶんあった。

  組織を動かす場合の悩みと課題は、このような人々の力を如何に引き出すかである。

  温和な人たちだけでは、困難な状況で道を切り開く力を生み出すことは出来ない。個性と意欲ある人を引きつけて動かすことの重要さは戦国の武将にとっても、今日の企業の経営者にとっても同様のことであろう。

  トヨタの中には「スカンクプロジェクト」と呼ばれるチームがあるという。スカンクのように悪臭を放ち、また強い個性ゆえに人に嫌われる人々である。トヨタは、これらの人が常識にとらわれない発想で新しい企画を進めることを期待しているのだろう。

  しかし、企業だから社長の命令でこのようなことが出来る。選挙で集まる人々は、給料をもらわないボランティアである。命令で動かすことは出来ない。ここに最大の難しさがある。人々を動かすものは、何のために闘うかという大義とそれへの自覚である。選挙は民主主義を支える基盤だ。そしてこの基盤はボランティアによって支えられる。民主主義を発展させることの難しさと面白さの一面がここにあると思う。

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2007年4月12日 (木)

「当選議員の初顔合わせ」(11日)

 県連3Fで行われた初顔合わせは、笹川会長・大沢議長も出席。現職を引退した松沢さん・矢口さんも参加した。6人の新人議員が自己紹介した。また、カムバックした村岡議員も嬉しそうな顔を見せていた。いつも、この会場で同席する4人の顔がなかった。萩原康二、星野寛、木暮繁俊、田所三千男の各氏。惜しくも落選した人々である。それぞれの顔が浮かぶ。親しい人たちであった。その心中を思うと忍びない。

◇選挙戦の一断面。ロイヤルホテルとグリーンドームのことである。4月4日は二つの大きな集いがあった。ロイヤルの女性集会は、約400人が集まった。「女性にもてない私のためにこんなに集まってくれ感激です。後ろ髪を引かれる思いで次の会場に走ります」と言うと、どっと笑いが起きた。なごやかなムードであった。今から思うと、ここにも大丈夫という安心感が支配していたのかもしれない。

 この日、30分ずらして、グリーンドームで各種支援団体の大会が計画されていた。ロイヤルホテルを出て、県庁の裏手にかかると、大変な渋滞であった。花見で敷島公園方面を行き来する車の波であろうか。左右から満開の夜桜が道をおおうように咲いていたが、移動時間5分が過ぎることで、桜を見る余裕はなかった。

 グリーンドームは、地域後援会とは別の、書道、柔道、弓道、菓子組合等、私が顧問等として関わる支援団体の集まりである。サブイベントエリアに下りる階段にさしかかった。一気に駆け降りようとして、私は、一瞬、足を止めた。4年前のことが頭によみがえったのだ。あの時、私は、ここで足を挫き、足を地につけることが出来なくなってしまったのだ。運動会の騎馬戦のように、三人の人にかつがれて、前方演壇まで運ばれた。みじめな私の姿に人々の目が注がれ、頑張れと大きな声がかかった。あのアクシデントは、期せずして会場の人々の心を燃え立たせることになった。

 足下を確かめながら階段を下りると、広い会場には約500人の人々が待ち受けていた。私は、ここにお集まりの方々は、文化、スポーツ、福祉などを支える人々で、私にとって最も大切な支援者である、今、物は豊になったが、人の心は逆に貧しくなっている、皆さんと力を合わせ、真に豊かなふるさと群馬をつくりたい、そのために、どうしても負けられない戦いです、どうか力を貸してください、と訴えた。

 このような総決起大会を11か所で行ったのである。手ごたえはあった。しかし、この手ごたえを確実な票に結びつけるために何かが欠けていたのが今回の選挙であったと思う。

運動員が、どこへ行っても中村は大丈夫だからと言われてしまうとこぼしていた。前回までも、このような中をしのいで来たが、今回のような異常な激戦を勝ち抜くには、もう一つ緊張感をつくり出す工夫が必要であった。新たな戦いの一歩を始めようと思う。 

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2007年4月11日 (水)

「選挙を振り返って。戦いの断面」

◆今回の選挙で私は、得票数を前回と比べて大幅に減らした。その要因の一つは、芳賀に住所を移した民主党のある女性が、地域内の公民館を選挙事務所にして県議選を戦ったことである。芳賀地域は、もともと、旧社会党の強い地盤があったところであり、長く社会党の市議を勤めた人物がいた。この男が、民主党の女性候補を支援する中心になった。

 同一地域に県議選候補が二人立って、地元地元と訴えると、一人区に二人の候補が立って争うことと似た現象が生じてしまう。足元がえぐられるような事態がひそかに進んでいたのだ。フクシと知事推薦を武器にした攻撃によって。

 44日の朝、前橋青果市場で桑原功民主党候補と私が前後して演説をすることになった。桑原氏は、民主党が共倒れになると心配している風であった。結果は彼が心配した通りになって、民主党は県都前橋で議席を0にした。

◆利根西の攻防はすごかった。

 元総社町は、私にとって特に縁が深いところである。小学校6年の時、宮城村から元総社一区、牛池川の辺(ほとり)に移り住んだ。多感な少年時代、ここで赤貧の生活を送ったことが、私の人間形成の一つの原点になっている。元総社時代の同級生、そして、元総社地区の人々との絆(きずな)は強い。

 今回、元総社を中心とする利根川の西部、通称利根西から二人の無所属の有力候補が立った。中島資浩氏と吉川真由美氏である。中島氏は、若さを売り物にし、また、知事の推薦を受け、利根西の代表と称して元総社地域への浸透を精力的に計っていた。一方、吉川氏は、元衆議院議員・熊川次男氏の長女であり、元県議である。二人の必死の動きは、大きな脅威であり、元総社の牙城は危機に直面することになった。

 同級生を中心とした人たちが巻き返しに懸命になった。43日、建設会館で行われた元総社地区の総決起大会は、ハチマキをした人々であふれ、多くの同級生が壇上に立って檄をとばしてくれた。

 遂にやってきた47日、投票日前日である。毎回行う「街角集会」を今回も行うことになった。13ヶ所で綿密な計画に基づいて行われた。例えば、殿小路公民館前、集合時間350分、到着時間4時、スピーチ5分、出発45分という風に。特に元総社本村は多くの熱い支援者が街角に立ってくれた。陣頭に立った関谷市議が、私の手を握り、「元総社は巻き返せた、大丈夫ですよ」と叫んだ。

 利根西の他の二人の候補は善戦したが及ばなかった。中島氏9,859票、吉川氏8,841票であった。私の票が大きく減ったもう一つの要因は、元総社は別にして、安全ムードが支配してしまったことである。「敗軍の将、兵を語らず」というが、私自身について反省すべき点が多くある。私は、自分の心を整理して、心の砦を建て直すことから始めようと思う。

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2007年4月10日 (火)

「当選証書授与式の感慨」

 選挙の余韻と衝撃はまだ身体中に残る。選挙事務所の後片付けに人が集まり、黙々と作業している。プレハブ小屋は、力尽きて虚脱したようにガランと口を開けて並ぶ。「戦いは終ったのだ」私は自分の重い心に言い聞かせた。

◆育英高校の入学式に出た。選挙の翌日の入学式である。もし落選していたら祝辞を述べる気力があったろうか、私は、県民会館の壇上で、会場を埋めた新入生の顔を見ながら思った。睡魔におそわれ、コックリと首を垂れている自分にハッと気付き姿勢を正すが、また同じ事を繰り返してしまう。

◆当選証書授与式に出た。市庁舎11Fの会場には、当選の順位に従って8人が並んだ。前回まで私が座った上位の位置に他の人がいた。私はそこから6番目。当選人が呼ばれ、証書が渡される。目をつぶると、激戦の姿が目に浮かぶ。

 地元の芳賀が割れたことは誤算であった。知事の推薦を受け隣の五代町の公民館を選挙事務所とした女性候補者は髪をふり乱し、フクシ、フクシとさけんでいた。名前を呼ばれ、選挙委員長から証書を渡された。一枚の紙の重さを感じた。

◆夜、久し振りにナナと歩いた。ひと月近く散歩をまっていた秋田犬は、鎖を取り上げる音を聞くと飛び跳ねて身体中で嬉しさを現す。道端に前足を投げ出して草に鼻を突っ込むようにして動かない。春の息吹を楽しんでいるようだ。選挙中は、対立候補の拡声器の音に、ウオォーンと吠えたてていた。やっと戦いが終ったことをナナも体で感じ取っているのだろう。

◆統一地方選の一環である群馬の県議選は、群馬の発展のためにどんな成果をもたらしたのか。渦中にいて感じたことは、票を集めるための成り振りかまわぬ候補者の狂態とそれに呼応する大衆の姿、その外側には、冷めた目で眺める人々の集団、そして多くの無党派層の人々がいた。選挙は民主主義を支える柱であるが、この柱も純粋なものではない。民主主義は理想の政治形態であり、現実との間には距離がある。この距離を少しでも縮めることが、社会の進歩につながる。稀に見る激戦は、この距離を小さくするために多少は役立ったのかも知れない。敗れて退場した5人の候補者の苦悩もその意味で無駄ではなかった。

 敷島公園で花見をしている人々に近づいたら、輪になっていた若い女性が迎え入れてくれた。一人が「政策は何ですか」と聞く。「教育と少子化対策についてこのように考えています」と言って、手短に話したら、「私たちは保母です。当選したら議会を訪ねてもいいですか」と笑顔を向けた。桜の下で有権者と交わした楽しい一時であった。この日記を見て、本当に訪ねてくれるといいなと思う。

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2007年4月 9日 (月)

ご支援・ご声援ありがとうございました

 長い苦しい戦いが終った。私の心境は複雑ですが、ブログを再開できることが一つの喜びである。選挙戦を振り返ると様々なドラマがあった。妻は病床で苦しみながら、わずかな日数人の前に立つことが出来た。長いこと妻に大きな役割を担ってもらった私の選挙である。当選できたことはやはり嬉しいことだ。

 芳賀で、私の隣町・五代に住所を移して事務所を開いた女性候補が8,000票以上取ったことは驚き。利根西は、私が大量の票を頂いてきたところである。有力な二人の候補が出て、追われるわが陣営の巻き返しはすさまじかった。二人の候補は残念な結果となった。

 旧宮城村の人々も頑張ってくれた。四面楚歌の中での戦いであった。多くの支援者が頑張ってくれたおかげで貴重な勝利をつかむことが出来た。一票の価値に差はない、ということが民主主義の大原則であるが、心情的には、私に投じてくれた人々の価値の大きさを考えてしまう。

 戦いは古来、「知の理、人の和、天の時」によって決するというが、中でも、人の和の大きさを痛感した。選挙戦は終った。今日から新たな戦いの始まりである。心を新たにして、新しい課題に取り組むことにしよう。

 簡単には語りつくせないほどのことがあった。このブログの中で少しずつ紹介したいと思う。9日朝、雑然とした選挙事務所の中で、の日記を書く。

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